猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

ゲーム「紅の砂漠」感想

 最近でこそ、DiabloIIR漬けの日々を送っていたものの、UltimaOnlineとかEverQuestとかFF11などに代表される、かつてのMMORPGに向けた郷愁というのは強くあって、都会で定年退職をむかえた男が出里の田舎で農業をはじめるように、いつかそこへ帰りたいという気持ちをいだき続けている。しかしながら、パーティメンバーの募集に1時間、狩り場への移動に1時間、そこからトイレにも立てない3時間におよぶ目まぐるしい連戦を、いまの気力と体力でこなせる自信はなく、少年時代に3メートルの段差をとび降りた直後、そのまま駆けだしたさいに耳元で鳴っていた風の音を思いだすときと同じで、復帰は実現しないものとなかばあきらめていたのです。小鳥猊下がする原神やエンドフィールドへの耽溺は、その代償行為なのではないかとのご指摘は当たっておりますが、更新の最突端までゲームを進めてしまうと、そこはストーリーとマップが時限で開放されるのを待つばかりの、いささか窮屈すぎる場所と化してしまうのは難点でした。世界を探索する行為も、地図が広がっていく順を持つことで、一定の指向性をあたえられてしまい、どこか野放図な自由度を欠いた「制作側の意図に管理された冒険であること」を意識せざるをえない瞬間があります。こういった内容を言語化できずにモヤモヤしていたところ、気になっていた紅の砂漠をなにげなくダウンロードしたら、ゲーム内容が漠然とした不満と不足に対する完全な回答になっていて、ビックリ仰天しました。ホヨバに代表される近年の擬似MMORPGは、課金ガチャと定期的な更新による遊戯要素の時限解放が大前提となっていますが、その比較的あたらしいパラダイムによって、知らぬまにゲームに対する価値観を上書きされていたことを、このたび痛感した次第です。

 開発に数年をかけた、メインストーリーとサブクエストと膨大なマップが最初から完全な形で実装されている、課金要素の無い買い切りゲームを1万円以下で販売するなんて、社長が脅迫症的な信念を持っているか、さもなくば気がくるっているかのいずれかとしか思えません。最初に感じたのは、おそらく3DO REALでプレイしたことのある、いまは名前も思いだせない昔の洋ゲーが持つ独特な手ざわりと同じ、なぜこれがそうなっているのかまったく説明のつかない、圧倒的な異文化でした。第7章まで進めたストーリーは、どこどこまでも脈絡なく意味不明で、「高熱のときに見る悪夢」というのが最も適切な比喩と言えるでしょう。システム面は、オブリビオンからエルデンリングーーウィッチャー3を濃く感じるーーまでのすべての3Dゲームにあった要素を節操なくほうりこんでいて、「カロリー摂取だけを目途とした、調味不在の闇鍋」としか表現できない仕上がりになっています。操作系もすべてのボタンを総動員するのは当たりまえで、さらに長押しと短押しと複数同時押しも駆使せねばならず、「左と右のスティックを同時に押しこんだまま、右だけ回転させる」のを要求されたときはイラだちのあまり、夜中にもかかわらず絶叫しそうになりました(加齢で性格が丸くなりましたね)。また、各地に用意されたノーヒントの謎解きを個人でクリアできる叡智は人類にあたえられていないため、往年のMMORPGよろしくインターネットの集合知をたよる以外の解法は存在しないと割りきる必要があります。そして、拠点拡充や傭兵派遣といったサブ要素ばかりか、肝心かなめのキャラの育成方法にさえ満足な説明がなく、数十時間も漫然とさわるうちに”気づく”しか方法がないのです(30時間を過ぎてから、銀行で投資ができるのを発見したので、まだ気づいていないゲーム内の要素は、おそらく無数にあると思われます)。

 ただ、これら1個1個が致命的に思える欠点をすべて呑みこんで、広大な世界を完全なる自由度で探索できることが、底抜けに楽しい。すでに最新とは言えないグラフィックボードなのに、最高画質で寸分のフレームレート落ちもなく、はるか遠景を見わたしながら、ロードゼロのシームレスで縦横無尽に移動できるのは、もはやオーパーツ的な超テクノロジーと言えるでしょう。「フォンテーヌの次はナタ、ナタの次はナド・クライ」ではなく、あなたは東西南北どこへ向かって足を踏みだしたっていいし、どこまでも延々と好き勝手に歩いていっていい。すなわち、戸籍も住所も持たない真の根無草の自由、世界の枠組みの埒外にいる狂人の自由をぞんぶんに、腹の底から体験することができるのです(仕事終わりにフラッと起動して、ただ野原を歩いているだけなのに、気がつけば日付が変わっていたこともありました)。紅の砂漠、人間関係のギスギスをゲーム内へと持ちこみ、時間を無限にコンシュームするMMORPGに、もどりたいけどもどりたくない層へとドンピシャリにお届けする、マッシブリー・シングルプレイヤー・オフライン・ロールプレイング・ゲームとなっておりますが、げっぷの出るほどあふれかえった、JRPGの設定と用語に強く依存する異世界転生ファンタジー群に食傷しており、この陰鬱なテキストを読み切ってなお、興味と関心が残った方にのみ、オススメです!

映画「罪人たち」感想

 盆休みのヒマにあかせて、ずっと気になっていた罪人たちーー”ざいにん”ではなく、”つみびと”と読むーーをアマプラでレンタル購入して、ほおづえをつきながら見はじめたら、あまりのブッとんだおもしろさに気づけば前傾姿勢となり、全身の毛穴と肛門がカッぴらきました。「黒人ブルース歌手が主人公の、1930年代ミシシッピ州を舞台にしたミュージカル吸血鬼ホラー」というB級感あふれる建てつけからは想像だにできない、南米文学的なリアリズムの横溢した骨太の物語になっております。映画の冒頭において、「これは、一夜の夢である」ことを観客にしめしたあと、ブルースの実力者たちが梁山泊のごとく、各地からひとところへと集結するさまを描く手つきはみごとであり、浜辺の砂や紙のトランプで作る山のように、あらかじめ「破壊するために創造し、破滅をむかえるべく絶頂する」のに必要な過程であることを行間へと忍ばせながら、登場人物たちの来歴とパーソナリティについて、ていねいな積みあげが行われます。また、公民権運動にいたる前夜の人種隔離政策についても、緻密な考証にもとづいた舞台セットが組まれていて、その描写の正確さは学校の教材に使えるぐらいのクオリティになっています(女性の”ボタン”をどうなめるかの指導と実践があるため、じっさいは使えない)。そして、物語の中盤に製材所跡のダンスホールで演奏される、まさに”四ツ辻で悪魔に魂を売りわたした”ギター演奏とブルース歌唱は、言葉にのせた瞬間に雲散霧消してしまう、音楽の持つプリミティブなパワーを、「過去と現在と未来をひとつなぎにしながら、人間の境界を融溶させて個と世界を合一するもの」として、圧巻の映像で力強く朗々とうたいあげるのです。

 すべての障壁が天井の楽曲によって焼け落ちた結果として、吸血鬼の始祖とその眷属たちという”魔”を喚びよせてしまうのですが、彼らがミシシッピ・ブルースではなくアイリッシュ・フォークを愛好しているのは、音楽性にあずけた両者の実存の差違を対照して見せるしかけになっており、吸血鬼サイドの有する「感覚と知識と記憶をたがいに共有する集合体」という特徴は、まさに人類補完計画の実現した姿だと指摘できるでしょう。そこからは、「アメリカ南部における黒人音楽史」といったふうな前半の印象をガラリと変化させ、「招かれないと家に入れない」「心臓に木の杭を刺すと復活できない」「太陽光で焼け死ぬ」などのバンパイアにまつわる古い伝承をたくみにシナリオに落としこんだ、タランティーノ作品を彷彿とさせる人間と吸血鬼たちの血みどろの争いへと突入することとなるのです。さらに、夜の騒動がすべて終わったあとにやってくるクー・クラックス・クランの白人メンバーたちを、黒人の準主人公がスナイパー銃やマシンガンで鏖殺していくのは、無責任な極東アジアの黄色人種にとってさえスッと胸のすく思いがしたのですから、国家を奪われたブラック・ライブズはマーベルのブラックパンサーに深く共鳴したのと同じ痛快さを、腹の底から味わったにちがいありません。最後に、この映画をB級バイオレンスからはるか高い位置へと押しあげているのは、スタッフロール突入から終了のあいだに挿入された主人公のその後を描く一連のシークエンスだと指摘しておきましょう。

 時は移ろい、60年後のシカゴにおいて、円熟の老プレイヤーへと変貌した主人公は、彼のもとに訪れた吸血鬼の生き残りを、知らずファンとして楽屋に”招きいれて”しまいます。そして、死期が近づいていることを吸血鬼の嗅覚で看破されたにも関わらず、永遠の生命をあたえようという申し出を寸毫の迷いもなく、キメツの煉獄さんばりに毅然と拒否する。時空を超えて世界とつながる音楽の源泉が、個という絶望的なまでの孤独と、だれもがひとりで死んでいく事実に根ざすことを彼は悟っており、乞われて弾いたギターの音色に不死の者が思わず見せた優しいまなざしは、ほとんど取りかえせぬ憧景のように映りました。そして、「思いだすたび、半世紀以上の経ったいまでも体が恐怖に麻痺する」ような凄惨きわまるスローターハウスでの一晩を経験してさえ、本物のブルースを奏でる神の器として羽化したその日を「人生最高の一日だった」と誇らしく形容したのには、「表現することを運命づけられた者が、表現することへ無事にたどりつけた僥倖」への深い喜びがにじんでいて、たどりつかなかった者のほおには理由のわからぬ涙が流れるのです。そのやりとりを皮切りとして、走馬灯のように流れる回想シーンは、「みんな死んでしまったが、死ぬまではそれぞれの信念にしたがい、懸命に生きた」ことを痛いほどに伝えており、人生の意味を問うような脆弱さとは、はるかに遠い力強さを照射していました。エンドマークのむこうに置かれた少年の日の主人公によるソロは、本来の意味でのブルーノートになっていて、この物語のテーマを総括する目的で、歴史が黒人の魂にきざんだリズムを、より普遍的な形であらわそうと試みているように感じられました。

ゲーム「原神・神に愛されぬ雪国」感想

 原神のスネージナヤ編、いつものごとく小だしの引きのばしかと思いきや、複数のマップとメインストーリーとサブシナリオとミニゲーム群がドカンとまとめて実装され、エサの皿に大量のフードが追加されつづけるのにおびえて、部屋のすみに直立するマーモットみたいになってる(ネットミームの混線)。なりふりかまわず、エーペックスやエンドフィールドやエルデンリングの要素をそのまんま丸パクリしておきながら、最後の調整が甘いために生ぬるいプレイフィールになっており、本家には遠くおよばないところも、原神らしいと言えば原神らしい。圧巻だったのは今回のメインストーリーで、「吹雪の夜の密室殺人」という古いミステリ類型を用いながら、真犯人である神との対峙という弩級のクライマックスをむかえたと思ったら、息をつくヒマもなくパイモンの誘拐とスネージナヤの軍事中枢へなぐりこみがはじまり、厳冬計画の詳細や女皇の真意、そしてパイモンの正体までもがすべて、なんの誤解もないよう赤裸々に提示され、ホヨバは原神という破格の物語をその人気の絶頂で、キッチリたたむつもりなのだということがビンビンに伝わってきて、予想外の展開に驚愕したのです。特に、「地球人類の科学文明の発展を、介入目的で見守る第三者の存在」というのは個人的に大好きな設定で、古くは幼年期の終わりやスタートレック・ファーストコンタクト、新しくは三体があり、「ファンタジーの見かけをしながら、世界の根幹はSF」であることをひさしぶりに思いだして、これこそ原神の面目躍如だと感じました。そして、滂沱の涙を流してブラヴォの拍手を送りながら、なにより強いのはパトリオティズムに由来する「くやしい」という感情だったのです。

 たとえば、バスタード!やスレイヤーズ!やベルセルクが、作者ひとりの人生をまかなえるぐらいの小金を持った時点で創作の初期動機を失い、それこそ数十年にわたって読み手を失望させつづける「終わらない物語」と化していったのに対して、原神はわずか5年ばかりの道程で、あらゆる設定を回収して積みあげた先に、いよいよ頂上の石であるベンベネトを置きにかかっている。ゲーム分野において、この「続きへの欲目を断ち切り、完膚なきまでに終わらせる」ことを達成できたのは、私の知るかぎりではランス10の他はなく、日本ファルコムの作品群がその悪しき対極に位置しておりますが、もうグチグチとくわしくは語りますまい。ホヨバの持つ凄みとは、おのれを「日本の2次元文化のコピー」であるとどこか自覚している点で、「コピーだからこそ、情熱も時間も金銭も惜しみなく注がなければならないし、なにより受け手であるファンに対して誠実でいなければならない」と強く信じていることが、作品の端々から伝わってくるのです。これは、いまや他を押しのけてオタク第一世代の頭目となったQアンノの「我々の作品は前世代のコピーにすぎないが、そこにおのれの人生を熱転写することで、オリジナルに接近できる」という創作手法と、国境を越えて奇しくも酷似していますが、これをある種の理念として、数千人の社員と共有することで、本邦の虚構作品に多く見られる「才能ある個人の意欲の終わりが、創作の終わり」という現実を克服したのは、中華の心性の根幹をなす「生き汚なさ」と、仙人や真君の概念に代表される「個を延伸した先に存在する超越」を、いまや組織として体現しているとさえ言えるかもしれません。

 最後に、虚構先進国だった場所で人生の大半を過ごした者として、敗北感からくやしまぎれに予言しておきますと、ズバリ、パイモンが原神のラスボスたる天理その人にちがいありません。今回のストーリーの結部で、脈絡なく「対天理武装を見たい」と彼女が言いだした瞬間、これまでのおぼろげな伏線が、はっきりとした輪郭をあたえられように感じました。ランス10において、いつでも世界を破壊できる魔王がかつての想い人との記憶だけをよすがに、寸前でそれを踏みとどまりつづけたように、天理と化したパイモンは、数千年の時間に比べれば、旅人・イコール・プレイヤーとのほんの短い「旅の記憶」を理由に、テイワットの破壊を完遂できなくなってしまうーーそれは、私たち原神ファンがともに過ごしてきた時間までをも称揚する、とても美しい結末のように思えてなりません。終わります。

ゲーム「スーパーリアル麻雀VR」感想

 あのスーパーリアル麻雀が、昭和時代の無法な”脱衣麻雀”の頂点が、令和の御代にまさかの完全復活。動揺のあまり、ヴァーチャル・リアリティのトゥー・アーリー・アダプターなので、初代PSVRしか持ってないのにVR同梱版をなぜか購入して、気がつけば通常モードで全実績を解除してしまっていた。本シリーズは、そのタイトルからの連想を完全にうらぎった、麻雀とは名ばかりの特殊な遊戯になっていて、食いタンだろうが役満だろうが脱ぐのは1枚なことにくわえ、わずか千点持ちスタートのブットビありなため、闘牌スタイルはノーマーク爆牌党ふうに言うなら、「これはもうただの……絵あわせ」へと収束していくのだが、「ほぼ未成年の女子が、恥じらいながら脱ぐ」という一点において、あらゆる年齢層の男子を性欲まっさかりな中高生のサルに変貌させる、暴力的なまでの訴求力を持つ。コンプライアンス「無視」、コンプラ強度「昭和(弱)」でプレイをはじめたところ、CHiKuBiがそのまんま表示されるわ、CHiKuBiをつついたとき専用のセリフがあるわ、親の帰宅などによる原作のすんどめを越えてPaNTiを脱ぎだすわ、「ほんとうに審査とおってるの? コンプラの強いバージョンだけ提出して、steam社をだまくらかしてない?」と心配になるくらい、みごとに最後までスッポンポンになる(あとだしの販売停止を否定できないありさまなので、気になる向きは早めの購入をオススメする)。

 プレイ中の心理状態は、ペーソスあふれる脳内のヤクザ・アバターが、「ドぎつい洋ピンの無修正や、海外サイトの違法動画や、エロいもんはあらかた見てきたけど、こんな本番もない半脱ぎの裸がいちばんエロい」「エロってのは、いったいなんだろうな」「もう、脱がすしかなくなっちゃったよ」などのネットミームもどきを、ガンギまった目でずっとブツブツつぶやきつづけるぐらいのキモさであった。廃れてから30年は経とうかという”脱衣麻雀”というジャンルは、いまよりはるかに性に奔放だった時代において、ソープランドにもストリップシアターにもキャバレークラブにもブルセラショップにも行く勇気のない、学校にも会社にもなじめず、ゲーセンぐらいしか居場所がない弱者男性による、エロゲーと同様のいじましい代償行為であったことは、ある種の歴史証言として残しておかねばなるまい。個人的な話をさせていただければ、なにも知らない少年の思春期を直撃し、魂の精通をむかえさせたP3こそが唯一無二のレジェンドであり、我が心の貞操は芹沢香澄にささげられているといっても過言ではないだろう。そして、2本目の貞操(なんじゃ、そりゃ)はP4の愛菜にささげられている益荒男にとって、本作がP5ベースなのを残念に思いつつも、少女へ向けた純粋な愛情に不寛容なメリケン運用のsteamが販売ベースであるからして、仕方のない判断だったのかもしれぬと、納得できる部分もなくはないのである。開発者インタビューに目をとおすと、まさに「就職氷河期のサバイバーが組織内で実権をにぎり、”最後のお勤め”を逃げきるだけの段階となって、いよいよ好き勝手やりはじめる」を地で行っており、外野の無責任なオタクからは「いいぞ、もっとやれ」と、やんややんやの拍手喝采を送るばかりだ。

 本作に惜しい点があるとすれば、中華のアプリゲーなら1体10万円で40万円はキッチリ課金させるだろう美少女キャラたちに、たったの5千円ぽっちしか支払わせてくれないところであろう。もし、新キャラ追加のためのクラウド・ファンディングが開始されれば、ただちにまとまった入金をする準備はあるので、どうかこのカネあまりの非虚業従事者に、ひさしぶりの中華でも半島でもない純国産・美少女たちへ、もっと援助する(意味深)チャンスをくれまいか。全クリ後にも、まだ熱さめやらず、難易度「スーパーリアル」で4人とも再び全裸にひんむいたあげく、なおメタクエスト3の購入を真剣に考えはじめており、ビデオデッキ戦争より続く「家電の更新をうながすエロ」の偉大さに、昭和のさわやかな気風を心地よく肌で感じる今日この頃なのであった。あと、早坂晶たんの「かーちィ」「とおれーッ!」「キューティクル、きらきらー」はちいかわっぽいし、「負ける準備はできてる?」は大リーガーのヤマモロっぽいなと思った。それと、本作のBGMは場末の酒場で使いまわされた刺身のツマのような、シャバシャバと水っぽくて味のしない、まさに空間を音で埋めるためだけに作られた低品質のジャンクなのだが、耳に入ったとたん、ひもづいた過去の記憶がよみがえり、いまだ何者でもない自分が形のない焦燥感をいだきながら深夜、実家の自室でひとり呆然とテレビの前に座している様子が脳裏にフラッシュバックして、知らず涙ぐんでいた。

映画「ちいかわ・人魚の島の秘密」感想

 ファンでもないのに、ちいかわの映画をイヤイヤ見に行く。なんとなれば、「興収100億は、見ないと非国民レベル」だからであり、国宝のときと同じ動機にうながされた形である。原作のセイレーン編については、そのもりあがりを横目に見てはいたものの、偶然にタイムラインへ上がってきたときに目をとおすくらいで、積極的に追いかけたりはしなかった。さわがれている話の大オチにしたところで、八百比丘尼の逸話を下敷きにした、過去にいくつもの作品でこすられつづけてきた内容であり、「かわいい絵柄にダークなシナリオを当てると、じっさい以上に深みがあるように思える」錯覚を利用した、まどマギのはとこみたいな印象をしか受けない。ただ、劇場の客席に幼児と小学生が多く見られたのは、すれっからしの虚構アディクトや大人女子(笑)だけがちいかわの人気をささえているのではないことを実感できて、とてもよかった。周囲への忖度なしに、おのれの欲望を大声でさけぶモモンガも、未就学の子どもに満点で刺さるキャラになっていると思う。きっと全国各地の保育園や幼稚園では、かつてのクレヨンしんちゃんと同じく、彼?のマネをする園児が大量発生していることだろう。

 この映画がコアなファンと子どもたちにとっての良作であることはまちがいないのだが、ちいかわの造形にとくだんの魅力を感じない人物にとって、原作の1ページ漫画を忠実に、数珠のようにアニメーションへ落としこんでいるのは理解しながら、映画の骨格をなしていないため、多くの時間で非常な退屈を感じたことは書き残しておきたい。視聴後、本作の興収に目をくらまされた”いっちょかみ”どもの、難解かつ衒学的な深読みの激賞をながめていると、本当に彼らと同じものを見たのか不思議になるくらいであった。今回あらためて、ちいかわの世界観について考えてみたが、そこになにひとつオリジナルなものは存在せず、「頭の大きな二頭身」というサンリオ的なデザインにはじまって、「二郎系ラーメン」「能力検定」「今日の日はさようなら」「カツカレー」「貝汁」「煮付け」「セイレーン」「人魚」「単三電池」「さすまた」「ドラクエの剣」など枚挙にいとまがないぐらい、我々の現実をすがすがしいほどダイレクトに、そのまんま引用しているのである。ここで唐突に、大胆な仮説を述べておきたいと思う。

 原作者のナガノ氏は、電通の関与がバレて大炎上した「100日後に死ぬワニ」とは異なり、個人発信でコツコツと毎日を更新することで、いかなる広告代理店もとおさず、身ひとつで莫大な富を生むIPを作りあげた、人もうらやみ我(小鳥猊下)もうらやむ、SNS時代のシンデレラ・ストーリーの体現者であるわけだが、ちいかわはズバリ、彼女が見ている現実そのものなのではないだろうか。今回の映画での「協賛企業なし、製作委員会なし」によって、内容から配給から特典まで、すべてをみずから差配しようとするコントローリングなやり方は、どこかQアンノのそれを彷彿とさせるし、キャラクターを構成する楕円の形状への強いこだわりや、続きものの連作であっても必ず左下に”終”を入れることや、空前の大ヒットで人生をいくどか買えるほどのカネを手に入れたはずなのに、日々の生活をメトロノームのようにいっさい変えない様子など、「小さくてかわいい」見た目の裏にかいま見えるのは、非常に強固でパラノイックな自我の存在なのである。つまり、作品そのものが作者の精神とあまりに強く結びついてしまっており、性的暴行を受けた女性画家の自画像が以前の明るさをうしなって、陰惨なドス黒いものに変貌するように、その正体が何なのかは知らない、ある”強烈な体験”によって世界のネガポジが180°反転したあとの作者の主観的認知が、ちいかわワールドの根幹を成しているのではないかと、無責任に放言しておく。本作のファンでもなんでもないため、他に言うべきことは残っておらず、切断的に終わる。

雑文「MetaQuest3 and SRMVR」(近況報告2026.9.17)

 ついに男性の欲望に敗北し、メタクエスト3購入の暴挙にいたる。PSVRのときの経験から、当初のものめずらしさが消えれば、すぐにホコリをかぶることは目に見えていたので、廉価版のSにとどめたところだけが理性的だった。あまりに市場規模が小さいため、だれもなぞらえないから勝手になぞらえるが、メタクエストとPSVRの関係は、VHSとベータのそれに酷似しているように思う。人類史上、だれも体験したことのないヴァーチャル空間の見え方のクオリティにこだわったところで、だれも体験したことがないのだから、その差なんてだれにもわかりっこないのである。そして、諸君がジリジリと言及を待っているところのスーパーリアル麻雀VRだが、平面のモニターに映しだされる2次元版とはまったくのベツモノであることを、ここに明言しておこう。

 当初、VRバージョンのみを発売しようとしながら、より広範にとどけることのできる通常モードを搭載したのは、男性の欲望に敗北しなかった会長の英断であったことを認めつつも、それは湖面にうつる月の影のようなものにすぎなかったのである。脱衣をゼロ距離でながめることではじめて、「3Dキャラに服を脱がせる」という技術の異常性と超越性が理解できたし、なにより少女たちの実在感が圧倒的に、暴力的なまでにちがう。通常モードを女子の平手うちとするなら、VRモードはマイク・タイソンの左フックと言えるだろう。狂人の世迷言と言わば言え、私はたしかに、存在するはずのない甘い吐息をほおのうぶ毛に感じ、汗のにおいと湿気を鼻腔にかいだのである。その強烈きわまる没入感を、無線によるAirPlayの不安定さになんども中断されて発狂し、いまは有線でPCと接続できる1万円もするコードの購入を真剣に考えているほどなのだ。今回のVR体験を通じて感じたのは、「挿入することはもとより、ねぶることさえかなわない女体を、ただ宝石のように愛でる」ことの、かけがえのない尊さであった。

 おそらく狩猟時代の非定住性からすりこまれたものとして、射精のたびに同一の肉の価値を漸減させる本能が男性にはあり、ポルノ・コンテンツが有限の男性に無限に売れるのも、この古い習性に由来すると分析できる。nWoでは最低の用語として、これを「ファックの一回性」と呼ぶのだが、ファックするほどに失われる魅力をファックしないことで維持するのは、さまざまなファック経験を経てきたからこそわかるファックの意味であり、文字どおり字義どおり一周まわって、ファックなしのおつきあいをとても新鮮に感じているでファック。そしていま、ヴァーチャル・リアリティ体験時に特有の酔いと頭痛と吐き気からグッタリとソファに身をよこたえながら、このテキストを書いているのだが、購入前にスペック表をながめて、「2時間しか充電がもたないなんて、欠陥商品じゃないの?」などと眉をしかめていた過去の自分を、しかってやりたい気持ちでいっぱいである。なんとなれば、2時間ぶッつづけのVRプレイに耐えられる脳を持つ人類はいないし、なんならバッテリーの持ちは30分で充分すぎるし、廉価版にしておいてほんとうによかったです(ガクリと首を落とす)。

映画「オデュッセイア」感想

 同じくマット・デイモンが主演する「火星の人」に、こざかしい映画配給会社の社員が「オデッセイ」なる超訳をすでに当ててしまっていたため、泣く泣くギリシャ語原文から引いた「オデュッセイア」をタイトルとしたことが偶然に功を奏している話題作を、IMAXシアターで見る。東洋のジジババ以外、世界中のだれもが知っている最古の物語ーー若い世代は、FGOからの逆引きでたどりつくと推測ーーを最新の映像技術によって再現しようとする試みは、同時にクリストファー・ノーラン監督のフィルモグラフィーの集大成となっているように思う。それは、彼の美点と欠点がどちらにもマックスで振りきれているという意味でもある。過去と現在、父と息子の視点を縦横に行き来する脚本と構成は、まさに円熟の妙味となっており、3時間の長尺をまったく飽きさせることなく、観客たちを引きこんでいく。もはや偏執狂的なレベルの「CGを可能なかぎり排除して、実物をそのまま撮る」手法は、AI生成動画が跋扈するこの時代においては、信念や反逆の宣言にすらなっていて、ベン・ハーやアラビアのロレンスなど、往年の歴史大河作品を彷彿とさせる重厚さを、銀幕の上へ表現することに成功しているのである。

 個人的な不満点としては、まず映画全編をとおして、とにかくカメラが近いことだ。オデュッセウスを主人公とする叙事詩なのだから、マット・デイモン演ずる彼の表情やたたずまいにフォーカスしたいのはわかるが、「このスペクタクルを、なぜもっと引きの絵で見せてくれないのか」という場面は、かなりの数にのぼった。次に、映画のクライマックスであるはずの、数十人の求婚者を広間に閉じこめての大たちまわりが、アイデアにとぼしく同じ行動のくりかえしーー両手斧を使ったワールウインドが2回はさまったのには、乾いた笑いが出たーーで、むりやり興奮をかきたてて、なんとか没入しようとどれだけ試みても、斧をクロスさせた12の穴を射とおす冒頭のシーンを最高潮に、どんどん気持ちが盛りさがっていったのには、ほとほとまいった。逆説的に、本邦の特撮や時代劇の殺陣がいかにすぐれたものかがわかったし、せめてLOTRのレゴラスばりの近接弓格闘術で無双してほしかったと、ここだけは残念でならない。ストーリーに関して言えば、今回の映像化によって、トロイア戦争を描いたイリアスーーブラピのアキレウス!ーーは、シュリーマンの発掘から古代都市の実在を主張されるほど、リアルな戦争の様相を描いていたのに対して、その後日譚に当たる本作でのオデュッセウスの放浪が、荒唐無稽なファンタジーになっている理由への解像度をムダにあげてしまった。

 すなわち、故郷とは似て非なる肥沃の土地で記憶喪失をよそおい、ドスケベあみあみ上着の愛人との7年にわたる愛欲の果て、部下たちにはあいそをつかして去られてしまうという情けない現実について、いかにおのれの格を下げないかへ腐心しながら、妻と息子と国民を納得させるために、壮大な作話をしている可能性である。帰国後のカッカソーヨーな迂遠の顛末も、アガメムノン王がベッドの上で殺されたことにブルッてしまい、閨(ねや)でペニスを切りとられないよう、妻が不倫に気づいているかどうか、名を伏せたままビクビク確認していると解釈すれば、非常に味わいぶかく感じられてくるのではないだろうか。そして、「旅人はもてなせ、神の化身やもしれぬから」というゼウスの掟は、核兵器の保有とは正反対の、言わば相互”非”破壊保障であり、当時の倫理的・道徳的な基盤であった。トロイアにおけるオデュッセウスの勝利は、その人間の相互信頼を燃やすことで成しえていて、木馬戦術こそ既存の文明を滅ぼす海の民を発生させるきっかけであり、それを旧世界が灰燼と帰す未来の象徴として描くのは、現在進行形の紛争や戦争がいずこから端を発しているかに対する、一種の問いかけのようにもひびくのである。

 あと、本作のラストにおける西海浄土に似た考え方が、偶然の一致なのかどうかわからず、おずおずとチャッピーにたずねたところ、「太陽は西に沈むのだから、それが世界中で冥界の方角になるのは確定的にあきらか、人間はおろか」と回答され、「ほざけ、フィジカルAIふぜいめが! 人間様をなめるなよッ!」とさけびながら、正拳づきでモニターをたたき割ってやりました(知性の敗北)。