猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」感想

 おもにエッキスで話題のプロジェクト・ヘイル・メアリーをIMAXで見る。以下は、原作を2周読み、物語の展開と科学的ギミックの詳細について、ほぼすべておぼえている人物による感想です。小説が記憶喪失の一人称による段階的な情報開示と科学知識への興奮でストーリーを駆動したのに対して、この映画は洋楽の懐メロをふくむ多彩なBGMと宇宙空間の映像美をナラティブに変えて進行していきます。舞台は基本的に宇宙船という単一の密室ですが、原作にはなかった全天型のプロジェクターを導入したり、音波生物の主観カメラをビジュアルで見せたり、一人称の独白による状況説明は地球へのビデオレターのていをとるなど、小説を映画として成立させるためのさまざまな工夫があちこちに見られます(ロッキーが使うドーム型の歩行器って、原作にありましたっけ?)。さらに、ふだんSF映画を見ないような観客のためにBGMは、かなり意図的な「いま何が起きていて、どう感じるべきか?」を誘導する情動のガイドになっていて、すこしうっとおしいなと思う瞬間はありました。しかしながら、小型ロケットで試料を地球へと送りだすさいに、ビートルズの”Two of Us”が流れだしたときにはブワッと涙があふれましたから、単に好みの問題なのかもしれません。

 また、センス・オブ・ワンダーを喚起する科学的ギミックの数々は、短いセリフや映像であっさり処理されていきますので、原作を読んでいないと意味のわからない部分が多くあるのではないかと心配になります。ざっと思いつくだけで、固体のキセノンが通常の地球環境ではありえないとか、宇宙放射線の影響でロッキー側のクルーが全滅したとか、相対性理論を知らないので余分の燃料を積んでいたとか、タウメーバがキセノナイトの分子構造をすりぬけたとか、初見の一般人(ノット・SFマニアの意)に作中の描き方でちゃんと伝わるのかには、はなはだ疑問が残りました。小説ではロッキーにとっての「食事と排泄」が、かなりデリケートな”種の問題”として描写されていたのに、映画では一瞬のギャグシーンとしてサッと流されてしまいますし、超重力惑星であるエリドに地球の宇宙船がどう着陸したか、あるいはしなかったかについても、既存の科学知識に照らして説明できないせいなのか、残念なことにオミットされています(これは小説でも、そう)。その一方で、一人称をつらぬいたがゆえに原作ではえがくことのできなかった”エリドの反対側”の結末をわずかばかりながら見られたのーーキセノナイト製の分身を地球へと帰還させるのには、グッときたーーには、かなり溜飲の下がる感じはありました。小さく重箱のスミをつついておけば、問題が解決したことを「赤背景から黒色の染みが消滅する十数秒」にあずけるのはあっさりしすぎていて、いささか大冒険のカタルシスを減じているようには思います。

 映像化されたプロジェクト・ヘイル・メアリーを見て、あらためて気づいたのは、いちどは70億人の同胞を見すてた者が、たったひとりの異星人のために、おのが生命を投げうつ決断をしたということで、私的な”良い物語”の条件である「始まりと終わりで、主人公がまったく別の場所に立つ」を、本作は物心ともにはたしていると言えるでしょう。こういった深い感慨をいだくのと同時に、昨今の世界情勢をかんがみるにつけ、たとえ地球滅亡の危機にさらされたとして、国家の枠組みを超えた人類の共闘は決して実現しないだろうという諦観もあります。作者のアンディ・ウィアーが続編の執筆を確約したとのことですが、本作のエンディングから時系列を延伸するのではなく、この世紀の名作が語り足りていない部分を「SIDEストラット」によって補完してくれることを望みます。

映画「フォール・ガイ」感想

 生粋の顔フェチである小生は、プロジェクト・ヘイル・メアリーを見てからというもの、ライアン・ゴスリングのご尊フェイスがまぶたの裏にチラついてしょうがないので、衝動的にネトフリでフォール・ガイを再生してしまった。マトリックスで幕を上げたVFX全盛時代が長く続いたあと、AIによる動画生成が急激に台頭してきている現在、生身によるスタントはまさに旧石器時代のシロモノで、この映画のように「スタントマンを主役にしたスタント映画」ぐらい場外のメタにふらないと、だれも劇場に足を運ばないし、そもそも若い世代には絵ヅラがカッたるくて、見ていられないだろうと推察する。「直下の爆発で空中に舞いあげられた車体が、なんども回転しながら地面に激突」したり、「高所での格闘アクションののち、顔面のドアップから地面にむかって小さくなりながら落下」したり、「背後の爆風にあおられて、両手をぐるぐる回しながら観客方向に主人公がジャンプ」したりするのをスローモーションで見ることに興奮するのは、もはや「初体験の相手がアンネ状態だったため、事後から経血に興奮をおぼえるようになった」の文脈における”興奮”と同じ種類の特殊性癖なのである(私がそうだと言っているわけではない)。

 フォール・ガイがどういう映画かと問われれば、海外では検索候補に”burst into laughter”と表示され、国内でのそれは「つまらない」が第一候補になるたぐいの、いわゆる「モンティ・パイソン系」の作品だと答えることができよう。本邦のホニャララ・グランプリ的な漫才とは真逆の位置にある笑いになっており、「執拗な繰り返し」「会話の奇妙な間」「一瞬のアブノーマル」をすべて真顔の演技で行うことが特徴で、「笑いの洋の東西」という観点から思考を深めれば、博論の一本も書けるレベルの文化的な含意をはらんでいるのである。ご存知のとおり、小鳥猊下はサシャ・バロン・コーエンを偏愛し、ディクテーターに爆笑できる逸材であるからして、前半の1時間はキッチリとチューニングをあわせて、この荒唐無稽なコメディを大いに楽しんだのだった。しかしながら、後半は複数のライターによる合議制のシナリオ会議でもはじまったのかと疑うほど、冒頭のフリーフォールにまでさかのぼって生真面目に伏線の回収をはじめだし、スタントそのものを物語の解決へと接続させて、こじんまりと優等生的に終わってしまった。おそらく極少だろう、最後まで優生的なモンティ・パイソンをつらぬいてほしかった人物には大いに不満を残したが、ライアン・ゴスリングの名前につられて劇場に来るていどの客層(オマエが言うな!)には、これで正解なのだろうと思う。

 だが、スタッフロールにあわせて「本編スタントの裏側およびNG集」が流れだしたとたん、プロジェクトA2のエンディングが脳内に併走して再生されはじめ、我が胸と目頭は自然と熱くなったのであった。斜陽産業であるところのスタントマンにあかつきの光をあてるフォール・ガイ、ジャッキー・チェンが建物の屋上から商店のせりだしルーフを突き破って落下するのに興奮をおぼえた異常性癖者の貴様らへ、nWoが自信をもって、ここにオススメするものである!

アニメ「違国日記」感想

 ディアブロ2に深くハマりだすと、映像のながら見が非常な勢いで進捗する。そんなわけで、アマプラでアニメ版の「違国日記」を通して見る。実写版は未見で、全話の視聴が終わるまでにドロップしたハイルーンはSURのみだった(微妙)。ひと昔前の少女漫画ーー吉田秋生の初期作群を想起ーーを彷彿とさせる非常に繊細なストーリーで、まだ何者でもない10代の自分が見たならば、大いに影響を受けて忘れられない作品になった可能性はある。だが、他ならぬおのれの短くはない人生そのものが、作品世界への没入を阻害する要因として働いたことは、認めざるをえない。そもそもの大前提である「交通遺児をフィクションの主人公とする」時点で、個人的な許容のハードルは高くハネあがってしまった(同じく交通遺児を主人公とする「若おかみは小学生!」はスッと受け入れられたので、キャラデザに由来するリアリティの高低が理由かもしれない)。「事実婚の父は我が子に無関心で、母は心の奥底ではわたしを愛していなかったのではないか?」という極大の疑念を皮きりに、プロレス技でたとえるなら、”問いっぱなしジャーマン”とでも言うべき、正しい答えのない個人と社会の話ーー独身女性の性欲問題などーーが、うっすらとだけ「作者の考える正解」をにおわせながら、矢継ぎばやにどんどん投げこまれてくる。たとえば、男女の双方から好感を持たれる魅力的な中年オヤジが、その理由をたずねられたところ、「”通りすがりの女性に口笛を吹く”たぐいの、有害なマスキュリニティを下りたから」みたいな返答をするのだが、そもそもそれに乗ったことのない男性たちの存在が、作者の視界から消えている(ブサメンのチー牛どもは、オスではないと考えているのかもしれない)。

 なによりドン引きしたのは、医学部入試の男子優遇に教室で激怒し、学校を休むようになったエキセントリック女子ーーそもそも、現実の高校生はこんな反応をしないーーが、交通遺児の主人公に「人生おわったと思った?」と無神経にも問いかけるシーンで、「医学部入試で女子が冷遇されること」と「交通事故で両親を亡くしたこと」はまったくの非対称であり、絶望的につりあっていないことへの認識が欠落しているのだ。これをつりあっていると考えるのは、他ならぬ作者の自意識で、淡い演出の下から突然、それがドぎつい臭気となってたちのぼる瞬間がなんどかあり、登場人物たちの痛みへ共感したい気持ちはあるのに、つど強制的にキックアウトされてしまう。最後に残った関心として、どのように物語を閉じるのかと思えば、かかえている問題ごと青春の鬱屈や蹉跌を吹きとばすのに、軽音楽部のライブを持ちだしてきたのは、「リンダリンダリンダ」からの借り物としか思えなかった。さらに、エンドロール後に流れる「10年後の2人」にいたっては、読後感を汚す蛇足としか見えないのである。以前にも別作品への感想で述べたと思うが、「20歳を越えた人間なんて、どんな複雑な過去をかかえていようと、もうひとりでやっていくしかない」のだし、高校生の彼女が苦しみや葛藤ごと、永久に消されてしまったような感覚を味わった。

 作品タイトルにも表れているように、「交通事故で両親を亡くした少女」や「不定型発達の独身小説家」のような人口の少ない国に住んでいる者にも、大勢の住む国との優劣はなく、”違って”いるだけというメッセージは、ある種の人々に対する無意識の攻撃になりうることは、声を大にして伝えておきたい。この繊細なナイーヴさは、ときに「五体満足で、異性を愛し、妻子/夫子を持ち、定職があり、車と持ち家があり、健康上の問題はない」ような外殻を持つ人物を、大上段から打擲する無敵の殴り棒として機能し、「おまえの苦しみは、私たちよりもはるかに劣っていて、いっさいケアなんて必要ない! いや、そもそもおまえは苦しくなんかないのだ!」と耳元で叫ばれながら、馬乗りになぐられている気分にさせられる。純然たる事実として、わたしは半世紀ちかくずっと苦しいし、だれにも届かないテキストを書きつづけることをやめられないのも、ずっとその苦しさが消えないからだ。またぞろ議論のかまびすしい”就職氷河期世代”なんてラベリングはまっぴらごめんだし、なにより人の苦しみに種類や貴賤をあたえてほしくはない。なんとなれば、人間はだれもが固有の地獄を生きており、ファンガスの名言になぞらえるならば、「人間はみんな、苦しんでいるんだよ」とでもなるだろう。もちろん、このようなマイナーきわまる感想を引きだした「違国日記」はまったく悪くなく、他ならぬ小鳥猊下の人生そのものが悪いのである。終わる。

ゲーム「エンドフィールド・春の暁、訪れし時」感想

 エンドフィールド、2度目の大型アップデートであるバージョン1.2をクリア。無自覚系主人公ならぬ無記憶系主人公を、プレイヤー以外はみんな知っている彼/彼女の過去の活躍から無下限(じぢゅちゅ語)に甘やかし、あってしかるべき記憶の回復によるタネあかしがいっこうにない状況にイライラしていたのですが、今回のメインストーリーを通じて、敵の幹部であるアルダシルと管理人ーー呼ばれるたびに「めぞん一刻」が脳裏をよぎる弊害を持つ二人称ーーの関係性は、エヴァ新劇におけるカヲル君とシンジさんのそれになぞらえたものーー片ひざで石像に座る目くばせ演出まで!ーーではないかと気づき、エンドフィールドが「シンに不満を持ち、破からの作りなおし」を志向する作品なのではないかと、大きく期待を高めた次第です。手をかざすだけで石の形をしたエネルギーを放出できる、作中でいっさい説明がない管理人の謎パワーと、スーパーサイヤ人と化したゾアン師による武陵城の防衛戦におけるムービーは、島・半島・大陸から上梓された近年のゲーム群において、”当代一”とでもたたえるべき超絶クオリティに達しております。なにより良かったのは地下の裂け目をめぐる後日譚で、少年兵が子ども時代をとりもどすーーシティハンターの主人公の幼少期を想起ーーロッシのサイドストーリーにも感じたことながら、端正な3Dモデルがかかえる欠点であるところの、人間の役者に比しての「感情表現のとぼしさ」をホヨバとは別のかたちで補おうとしているのです。

 原神スターレイルが過剰なまでのテキスト量や手書き風アニメーションや、俗に言う”漫符”によって感情の演出を行ってきたのに対して、エンドフィールドでは瞳の動きや唇の歪みや会話の間や画面の構図を駆使して、「会話がなされていないときに、人物の気持ちや隠された真意が交錯する」ような演出がつけられている。つまり、3Dモデルの欠点を乗りこえて、人間の役者を使った実写の手法で物語の演出を試みているのです。一例をあげるならば、今回の実質的な主人公であるゾアン師には、左手で耳元の髪をかきあげるクセがあるのですが、一連の事件が解決したあと、右手で髪をかきあげる場面があります。これは、思考するときの視線の向きやスーパーマリオブラザーズのスクロール方向の説明にも使われる「人間にとって左は過去を、右は未来を意味する」を適用していると考えられ、彼女がようやく過去の呪縛から解放されたことを、テキストにたよらず表現しているのです。この手法には、うっかり会話をスキップすると言外の演技までとばされて再視聴できないなど不便はあり、まだまだ試行錯誤の途中だろうとは思いますが、ゾアン・ファンイの過去を語るストーリーを見て、「初恋が来た道」や、このテキストを読む全員が知らないだろうオムニバス・ドラマ「それでも生きる子供たちへ」に収録されていたジョン・ウーの短編を思いだしました。金持ちの子どもと貧乏人の子どもの人生が、人形を通じて一瞬だけ交錯し、母親に娘との心中を思いとどまらせるという内容なのですが、機会があればぜひ見てみてほしいと思います。

 閑話休題。ゾアン師のたどる「期待の新人として社内のプロジェクトチームに招かれ、時が経つにつれてチームの中核となり、気づけば初期メンバーは死去か定年でだれもいなくなり、プロジェクトの意義も会社への忠誠心もゆらぐ中で、いまはいない仲間に向けて『わたしが、必ずやりとげてみせます』と涙の誓いをたてる」という道ゆきは、あまりにも”勤め人の一生”すぎて、アルコールが入っていたこともあって、感情面での強いシンクロが発生してしまい、嗚咽をともなう号泣にいたったほどです。エッキスのみなさんは、あらゆる組織のマネジメント層を攻撃しますけど、彼ら/彼女らはべつにいつ辞めたってかまわないし、そうしたところで、すでに生活には困らないくらいの資産はあるわけですよ。「個人を越えた、外的状況に対する責任」は、たしかに存在していて、それを軽視してツバを吐きかける態度には正直、特大の疑問符をつけざるをえません(そんなにだいじな個人の内面や自由意志って、あるんですか?)。ゾアン師の誇り高い生き方を否定する近年の風潮に異をとなえるべく、大きめの課金で彼女とモチーフ武器を引き、どちらもレベル90にするという抗議活動をひとり電脳空間(古ッ!)にて行なったことを、ここに報告しておきます。あと、あまりにも今回の工業がわからなすぎーーどうひっくりかえしても、電力供給が足りなくなるーーて、休日の3時間を完全に空費して発狂しそうになり、他人の努力の結晶であるところの図面を丸パクりして、今期の目標を達成したことを、ここに懺悔します(正しいマネジメント層の態度)。

雑文「D2:RotW and K.Rider」(近況報告2026.4.30)

 DiabloIIR: RotWに1日1時間を捧げる日々を過ごしている。路上のムシロに出勤する前にメフィストの対岸焼きを数回、ルンペン・ワークからの帰宅後にkey集めと各地のトレハンスポットをぐるり1周するのが、もはや生活の一部となってしまった。それもこれも、新クラスのウォーロックが万能すぎるせいで、「ブリソサは耐久性に欠け、ハマーディンは狭い場所が苦手」みたいな定番ビルドの愛嬌みたいなものが、コイツにはまったく存在しないのである。1ヶ月のプレイで死んだ記憶はわずか2回ーー骨チビの連続爆発とゴーストの収束雷ビームというド定番の死因ーーで、アルコールさえ入れなければハードコアでのレベル99達成もできると確信するほどのブッ壊れぶりなのだった。なぜこんな調整になっているのかと言えば、同名のクラスがDiablo4の次期大型アップデートで導入されるからで、短期集中の文字通り「客寄せパンダ」として、意図的なバランス崩しをやっていると思われる。それを証拠に、先日リリースされた次期ラダーにおけるウォーロックの下方修正リストは、ホヨバの課金アプリで実行されたならば、ネットはファンの暴動で大騒ぎになり、翌日には株価急落のストップ安になるレベルのひどい内容になっている。自分の手元にある「ぼくのかんがえたさいきょうまほうつかい」が1シーズンのみの仇花になるとわかったことで、急速に気持ちは冷めてきており、心の熱が完全に失われないうちに、DiabloIIなる古代の遊戯について、駄テキストを残しておこうと思いたった次第である。

 以前にも述べたように、DiabloIIはラダーリセットですべてがご破算になるまでの、約4ヶ月にわたる市場経済の推移を楽しむゲームであると言えるだろう。アイテムの価値はシーズン開始直後を最高として漸減してゆくのだが、それを順に追いかけるなら、ざっと次のようになる。最初期はトレハン用ユニークとセットがとぶように売れ、次にビルド完成用のユニークとセットが求められるようになる。有用なユニークとセットが市場に飽和ーーRingとAmuletは値崩れしない印象ーーしだすと、付与された可変値が重視されはじめ、Skillerと呼ばれるスキルレベルを上昇させるgrand charmの募集がはじまる。そして、超級ルーンワード用のルーンとソケットアイテムに需要が高まる時期が長く続き、ラダー終盤では超級unique small charmであるAnnihilusと超級unique large charmであるHellfire Torchの良可変値を求めて市場がにぎわい、やがて可変値MAX品にしか価値が無くなる頃に、ラダーは終焉をむかえるのである。ちなみに、このAnnihilusーー”あにひらす”と記述すると、アラ、まるで地方行政のPR誌のような印象にーーは、Stone of Jordan(以下、SOJ)というunique ringをサーバー上で100個ほど売却したあとに出現するDiablo Cloneをたおすと、確定ドロップとなる。SOJのドロップ率は0.0003%程度なので、個人ではぜったいに到達しえない気のくるった仕様になっている。いまでは文脈が消えてしまっているが、無印DiabloIIの時代はSOJがトレード通貨として機能ーーアイテムの種類が少なく、LoD以降よりずっとドロップしやすかったためーーしており、それゆえに大量のdupe(複製)が出まわっていたのである。その違法コピー品を、Blizzard社が市場から一掃するための施作として生まれた仕様なのであり、出現するsuper unique monsterがDiablo “Clone”なのも気がきいている。

 ちなみに、ゲーム中でもっとも出現率の低いアイテムはハイルーンのZODで、0.0000003%ーー宝くじで1等を当てる確率は0.000005%ーーほどとなっており、「20年プレイし続けているが、いちども自力で入手したことはない」のも、当たりまえの世界なのである。DiabloIIでは、パーティの人数が多いほどドロップ率がよくなるーー正確に言うと、落ちるアイテムの数が増えるので、レアの抽選回数が増えるーーため、本質的にラダーは勤め人のサラリーマンが資産形成でたちうちできる場所ではない。1回のラダー開催期間を120日と仮定して、bot入りの8人パーティで1日24時間を稼働し続けるチームと、アルコール入りの1人パーティで1日1時間ほどしかさわれないソロとの差は、単純に各項目をかけ算すれば、一目瞭然であろう(過去、「Hellfire Torchを入手するための3種のkeyは、ラダー全期間を通じてほぼ価値が変動しないから、hell act1の通称”ルーンおばさん”を狩り続けてbotterとトレードするのが、ソロによる資産形成の最高効率」という指摘に、目からウロコが落ちて実行にうつしたところ、工場のベルトコンベアーめいたその単純労働は、小鳥猊下がゲームに求める喜びとはあまりにも遠いものだったので、早々に断念したのを思いだした)。Hellfire Torch入手のために”強化3悪魔”を打倒できるビルドの育成が、ながらくDiabloIIのエンドゲームだったのだが、RotWにおいてはさらなる強敵”Colossal Ancients”が導入された。私のプレイスタイルでは、ギリギリそこに届かないぐらいで今シーズンのラダーは終了しそうであり、ここまで、DiabloIIなる古代の遊戯ついての客観的な認識をつらつらとならべてきて、以後はタイムリミットのないノンラダーで細々と遊ぶのが、正解のような気分になってきた。それだけでも、だれも読まない駄テキストをつづった意味があったというものだろう。

 オマケ的に報告しておくと、今回、非常な勢いで進捗した映像のながら見は「東島丹三郎は仮面ライダーになりたい」だった。ハチワンダイバーの作者による原作で、氏の悪癖ならぬ性癖であるところの「特撮が好き」「巨乳巨女が好き」「鼻血とゲロが好き」だけを極限まで煮つめたような作品になっている。どういった政治力によるものか、2クール24話の枠をいただいているのに、「仮面ライダーのいない社会に、なぜショッカーが存在するのか?」という特大かつ原初の問いからどんどん遠ざかりながら、ガタイのいい女がグーで顔面をなぐったりなぐられたりするのを、延々と見せられ続けるのである。長時間におよぶ無為なトレハンとのSOJ(相乗)効果もあり、物語にはテーマを見いだしたい古い虚構耽溺者にとって、かゆいところをいっこうにかいてくれないイライラは、最高潮へと高まっていったのだった。東映が本作へ全面協力しているようなのは、おそらく組織内の世代交代が進行して創業初期メンバーが消滅したゆえの悲劇的ナンセンスであり、1話と最終話だけを見れば物語の極薄エッセンスを嚥下するのに寸分の過不足もないと、ここに吐きすてておこう。

ゲーム「プラグマタ」感想

 話題のプラグマタをノーマル難度でクリア。本作は、たとえばステラーブレイドと同じく、幼女アンドロイドに対する印象の好悪がそのまま加点要素として乗ってくるタイプの作品で、生粋のDr. LOLICONならば、「ククク、正解だ……100億点くれてやんぜ」と、ご満悦になるのかもしれません。もちろん、みなさまのご承知おきどおり、小鳥猊下は金髪碧眼の少女をアバターとするテキストサイト管理者であり、心の底からのいつわらざる愛によって、プラグマタをゲームとして客観的に評価する資格を、あらかじめ喪失しているのです(ここからの話を聞くさいの前提にしましょうね)。このディアナというキャラ、まるで宮﨑御大が監修したのかと疑うほど、女児の言動がリアルに作りこまれているーー両腕を伸ばしたままのジャンプ地団駄や、「ねえ、聞いて!」からの「したかった」語尾などーーところへ、突如として瞳が輝くモニターとなってマシン語を話しだしたり、歯でじかにメモリースティックを噛むことでデータを吸いあげたり、愛らしさと異質さとのサイファイ的ギャップが、もうたまりません。特に、うっすら青筋の見える眉間をしかめてする困惑や不機嫌の演技がすばらしく、なぜかかんしゃくをおこすニナ・ケルヴェルーーぜんぶ、フィデルのせいーーの凶悪な面相を思いだしました。エッキス局所では「お父さんシミュレーター」などと称されておりますが、「美しい見た目をしており、性格は素直で頭の回転は速く、なにより父親のことが大好きである」存在を愛せるのは当たりまえの話で、このシミュレーターには100段階あると仮定すれば、レベルは3にも満たないぐらいでしょう。重篤な生得的ディスオーダーをかかえている場合をレベル100として、「見た目がうるわしくなく、性格は素直とは遠く頭の回転はにぶく、なにより父親とそりがあわない」なんて娘はいくらでも転がっており、世間の平均的なお父さんはレベル40ぐらいをシミュレーションどころか、実地でやっていることは知っておくべきでしょう。

 アクション・パートは、サードパーソン・シューターとひと筆書きハッキングを組みあわせたものになっていて、「右手でマル、左手で三角を同時に書く」ような混乱を脳にまねきます。やることの多さに、最初はパニック状態へおちいるのですが、操作に慣れてきて冷静にエネミーを観察できるようになると、動きはスローで攻撃のさいの予備動作も大きいことがわかってきます。完全新規のゲームシステムをどうプレイヤーの体験に落としこむかについて、手さぐりの調整をうかがわせ、数年にわたる発売延期の苦労の一端がしのばれます。ゲームの後半へと進むにつれて、「せまい場所に閉じこめられての多対一」が執拗にくりかえされるようになり、さらにはバリア破壊や浄化などの攻撃を阻害する要素が入ってくるのには、正直なところ、かなりイライラさせられました。そのいらだちとは裏腹に、すべてのボスをほぼ詰まらずにスルッとたおせてしまうので、「もしかすると自分は、ウメ・ハラばりにゲームが上手いのではないか?」と気持ちよくカンちがいさせてくれるのは、老舗ゲームメーカーの面目躍如と言ったところでしょう。これがトレーニングモードになると、とたんに酷薄な黒縁メガネのアメ・ミヤが足ばらいをかけてきて、高くなった鼻ごと泥水に顔面からつっこまされるハメになるわけです。このアクション・ミニゲーム群は、パーフェクトを意味する王冠を取るために、数十回におよぶ試行で行動の手順を詰めていかねばなりません。最悪なことに、主人公の育成に必要な素材が賞品としてまかれており、メインシナリオ部分が10時間ほどしかないため、リソースの使いまわしでプレイタイムを水増ししようとしているような印象をあたえてしまっています。

 ストーリーにふれておくと、先に述べた「お父さんシミュレーター」という呼称が心のスロットにナナメから入った状態でプレイを開始したため、うかうかとそれにのってやるものかと批判的な気分に満ちていたのですが、その防衛規制はエンディング間際になって、もののみごとに瓦解することとなります。デッドフィラメントに侵食されて満身創痍の主人公が、何も知らないディアナの「ヒュー、カーゴを見つけたよ!」という無邪気な報告に「ほんとうか!」と返すときの声の調子が、前日の午前様から疲労と寝不足でフラフラの状態でする家族サービスのさなか、先を走る我が子がなにを見つけたか知っているのに知らないふりをするときの、空元気をふりしぼって幼い存在に心配をかけまいとする、まじりけのない父性からの「ほんとうか!」になっていて、お父さんレベル20の胸は共感と哀切に突かれ、涙腺という名のダムはそこで決壊しました。そのあとも、両腕を水平に広げて「抱きあげられ待ち」をするディアナの、性的プレデターにはけっして向けられることのない、満面の笑みによる信頼を目のあたりにして、独り身の孤児と倉庫に打ち捨てられたアンドロイドは、ついにほんとうの家族になったのだとわかり、画面も見えないほどの号泣をしてしまったほどです。その深い感動の余勢をかって、トゥルーエンドを見ようとクリアデータからプレイを再開したのですが、「全エリアの探索率100%」と「全エリアの強化ボス打倒」を条件にしているのは、昨今のアジア的なユルい調整に慣れている身にとって、あまりにギチギチの”日式ゲーム”すぎ、早々に自力での達成を断念して、動画サイトによる視聴へと切りかえたことをお伝えしておきます(あれくらいの変化に求める対価としては、少々プレイヤーへの負荷が大きすぎませんか?)。ともあれ、欧米の価値基準に照らせば、まったく政治的に正しくないプラグマタ、謎の交響管弦楽団ペドフィルに籍を置かない奏者にも、胸を張ってオススメできるオリジナル作品にしあがっていることを、虚構審美集団エヌ・ダブユ・オーがここに請けあいましょう。

漫画「Dr. STONE」感想

 Dr. STONEを電子書籍でイッキ読みする。ここにいたる経緯は、みなさまご明察のとおり、DiabloIIへの耽溺にともなう”ながら見“で同作のアニメ版を流しはじめたところ、「地球人類が滅亡したあと、ひとり地上にとりのこされたら?」というFallout3由来でおなじみの個人的な妄想に対する、別の視点からのアンサーが提示されており、スッと作品世界に引きこまれたからです。声優の演技を聞きながら、リニアーにストーリーを追うのがまだるっこしくなり、物語が完結していることをなんども指さし確認しながら、密林で電書を一括購入しました。ここで、だれも知りたくないDiabloIIの進捗へと脱線しておきますと、平場におけるウォーロックのあまりの強さに、「まあ、いけるやろ(笑)」とナメた態度でウーバー・トリストラムの強化3悪魔へといどんだところ、もののみごとに返り討ちにあい、特大紫ポーションの備蓄と虎の子のレベル90台の経験値を、根こそぎ吐きだす結果となりました。そこで正気にかえり、肩をゴキゴキいわせながら「ひさしぶりにやってみるか、ディアブロ2ってやつをよ」などとひとりごちながら、クソはずれハイルーンであるところのChamを破格のトレードでLoとOhmにかえて、GriefとCall to Armsーー631でしたーーを作り、いまはリベンジのためのスマイター・パラディン育成にはげんでおります。

 話をDr. STONEにもどしますと、本作は科学のすばらしさを啓蒙する正しい少年漫画になっていて、数だけはムダに多い氷河期世代相手の”海賊”商売ではなく、「もしも千空がアホだったら?」のミニコーナーを見てもわかるように、小学校高学年から中学生くらいの読者へ真摯に向きあって作られているのです。「科学とは、人類という種が総体として知恵を継承していく手段であり、個人の死は科学の終焉ではない」という描き方は充分に感動的で、若い世代がこれに共鳴すれば、世界はきっとより良い場所になるだろうと信じさせてくれます。そしてなにより、漫画がバツグンに上手い。週間連載だったとは信じられないほど、アニメ版の出来に不満が生じるほど、絵のクオリティからコマ割りから構図のケレン味にいたるまで、とにかく漫画が上手い。全巻をむさぼるように読み終えて、ひさしぶりに良い虚構体験をしたとの感慨にひたりつつ、本作の想定するターゲット層ではないがゆえの小さな不満点を書き残しておきましょう(また!)。まず、各章の最後における〆のバトルで「事前の準備がことごとく突破され、陥った大ピンチが主人公による関与の外側で解決する」展開が多く、この物語の主役は”科学”であると言いたいのでしょうけれど、わずかにカタルシスを減じているように感じました。また、ストーリーが進んで復活者が増え、科学知識が進展すればするほど、世界の描き方が悪い意味で漫画っぽくなってゆき、「数百人、数千人を遠隔からどう統治するのか?」という問いへの回答が郷土料理であったり、主人公チームの万能さがどんどんウソっぽくなっていくのです。

 さらに、過去なんども指摘していることながら、霊長類最強の高校生も銃器にはかなわない設定なのに、低体重で細腕のモデル体型をした女子がタッパがあって筋肉質の男子と互角になぐりあえるのは、いにしえのウーマンリブが年月を経るうちに、いつしか男性の性癖へとすりかわっており、現実の女性をカンちがいによる不要の危険にさらす可能性さえあると思います。きわめつけは、さんざんに引っぱったラスボスの正体で、「人類には理解できない動機やオーバーテクノロジーは、宇宙の彼方からやってきた機械生命体だったからでした」というのは、ちょっと反則のように感じました。「ここまでを毎週たのしませてくれたんだから、最終回ぐらいつまらなくたっていいじゃないですか」を地で行く展開で、「連載初期の興奮を最高潮として、そこから若干さがった位置で物語が幕を閉じる」のは、120点が100点になっただけなのに、位置エネルギーによる不満を生じさせていて、もったいないなと思います(連載終了後の後日譚である最終巻の冒頭で、科学による積みあげがゼロにもどったとたん、すこし色あせていた面白さがギラギラとよみがえるのは、皮肉な答えあわせになってしまっている気がします)。そして、ロケットの打ち上げを科学技術の極致として描き、石化と治癒の理屈やタイムマシンの詳細な原理をごまかしているところは、当たりまえですが、あくまで人類の有する既存の科学技術の内側でしか作劇できないことを表していて、最近、ピーター・ウォイトの「ストリング理論は科学か」をぽつぽつ読みすすめていることとあいまって、強い閉塞感をおぼえてしまいました。

 本書の内容を要約すると、1970年代を最後に人類の科学による世界理解は歩みを止めており、以後の半世紀にわたってストリングスなる数学的虚妄科学界を政治で支配し続けている事実への告発です。2026年という昭和の人間にとっての超未来において、いまだ時空と重力を統合する理論は完成の気配さえなく、軌道エレベーターも月面基地も恒星間旅行も夢のまた夢、先人たちが営々と築きあげてきた科学知という名の真円の辺縁を、未知の外側へむけてプッシュし続ける姿勢は鳴りをひそめ、いまや人工知能なる非生命体に既知の内側を高速でクロールさせることに、莫大なリソースをつぎこんでいる。月面着陸の虚構を疑う態度を笑えないほど、もはや人類は宇宙という「最後のフロンティア」に無関心で、地球なる楕円の表皮において、おなじみの資源をめぐる既視感に満ちた争いに窮々とする始末。千空たちの冒険をめぐる高揚は、日進月歩に人類の世界理解が更新されていた1970年までの「科学万能の時代」に満ちていた空気に帯電していたのであり、悲しいことに、いまやそれは雲散霧消して影も形もありません。ともあれ、オタク第二世代に特有のシニカルな態度へ終始しながらも、後生おそるべし、若い世代がグローバルなんちゃらみたいな私立ブンケイのキラキラ虚飾学部に進学するのを阻止し、理系分野の本質的な魅力へといざなう格好の啓蒙書として、プロジェクト・ヘイル・メアリーに引き続き、nWoが自信をもって、Dr. STONEを全国津々浦々の少年少女へと強く推薦するものである。

ドラマ「九条の大罪」感想

 家人にすすめられた「九条の大罪」、柳楽くんが出演していると知り、ネトフリで全話まとめて見る。彼のデビュー作であるところの「誰も知らない」を個人的に偏愛しており、少年という未分化でテンポラリーな状態がまとうエロスを存分に堪能したことを思いだします。少年期の柳楽くんが撮影中に声がわりをむかえたことを脚本に落としこんでいたり、成長とともに失われたゆくものが、みごとにカメラへとおさめられている傑作と言えるでしょう(これがのちに、「万引き家族」「怪物」と時空を越えて、是枝作品に”柳楽顔”の少年が抜擢され続けるのを見せつけられ、監督の児ポ方面における審美眼のたしかさに戦慄することになるのですが……)。話を「九条の大罪」にもどしますと、要するに主人公の職業を弁護士にしたウシジマくんなわけですが、「地面師たち」や「サンクチュアリ」とおなじく、海外の巨大資本から潤沢な資金を得たことで、CM協賛企業や芸能事務所へ忖度する必要がなくなり、さらに地上波特有の倫理規定まで外れると、本邦の映像業界はまだまだこれだけの地力を発揮できるのだと、勇気づけられるクオリティにしあがっています。キャスティングのあんばいも絶妙で、柳楽くんの気弱で線の細い感じに対して、壬生くんの俳優をはじめとする反社の面々が、ぜったいに人生でかかわりたくない暴と凶のオーラをビンビンにはなっていて、視聴後はおのれの凡庸な日々と狭い人間関係が相対的に価値をあげたような感覚さえありました(けれど、全身に墨を入れたムロツヨシが真顔ですごんでみせるたびにわろてまうので、ここだけはミスキャストのように思います)。

 この全10話のドラマ版はとんでもないクリフハンガーで幕を閉じるのですが、どれだけ調べてもシーズン2の配信予定どころか、鋭意撮影中との情報さえ出てきません。続きが気になってしょうがないので、原作漫画を電書で一括購入して読破し、ようやくその理由がわかりました。10巻まではドラマ版と同じく怒涛の展開で、底割れのしないキャラクターたちの引き起こす、一見たがいにつながりのない事件が有機的に連動してゆくさまには、良いフィクションを体験するとき特有の、ジェットコースター的な快感がありました。なのに、コロナ禍に影響されたのだろう医療編が脈絡なくはじまると、物語の疾走感へ急にブレーキがかかりはじめるのです。そこからは、ポケモンみたいに上位ヤクザが次々と登場するのに、いっこうにストーリーの本筋と作品テーマが前へと進まなくなり、10巻までの設定をこすりながらゆっくりと旋回するメリーゴーランドみたいな状態におちいってしまいました。おそらく、壬生くんが作者の中で半グレのボスから反骨のスーパーヒーローへと格上げされ、彼の口をかりて都会の自由業にしか有効ではない特殊な人生訓と、レフトウイングド国家観をたれ流すようになるのには、なんだか目をおおいたくなる感じがあります。演出にしても、作者の旅行写真をトレースした背景にムキムキのヤクザの立ち姿か、下くちびるの特徴的な若い女性の顔面アップがくりかえされるようになり、医療編の前後でまったくちがう漫画になったという印象を持ちました。ドラマ版の脚本は、漫画版の後半で登場する設定を前だおしで見せるなど、かなり構成が練られていて、壬生くんと京極および伏見組の因縁がキチンと決着するところまで話が進まないと、シーズン2の作りようがないのです。

 しかしながら、いまの原作の状況を見るにつけ、シーズン1終盤にただよう不穏きわまる気配はきれいサッパリ消滅しているばかりか、いつのまにか「ゆるせない悪徳に対するアレルギーとしてのくしゃみ」という設定も消え、直近の話では柔術の達人ーーこの男、隙がない(ハア?)ーーみたいな設定まで盛り盛りにつっこまれていて、九条先生が苦悩する弱き法の執行者ではなく、作者の考える社会正義を代弁して実行するスーパーマンになり”さがって”きている。ドラマ版がうまくすくいあげた「2つの巨大な暴力機構に呑みこまれそうになりながらも、その狭間において知識と信念だけを武器に危ういバランスをたもちつつ、おのれの信じる道をつらぬく」という主人公としての魅力が、すっかり失われてしまっているのです。もう壬生くんが京極をたおして伏見組を乗っとることはないし、九条先生が検事の兄と対決することはないし、烏丸先生はナアナアで九条法律事務所を離れることはないし、日本一のタコ焼きが小粋な伏線として回収されることもないのに、「焼肉に行って、とことん飲む」ことは作中における最高の贅沢であり続けるでしょう。ともあれ、ドラマ版がこのまま頓挫するのはあまりにもったいないので、シーズン2は完全オリジナル脚本でヤクザと警察、検察と弁護士の対立に、それぞれの家族の葛藤をからめた四つどもえの展開ーー法の正義は執行され、九条先生は弁護士のまま死ぬ(最後の晩餐ないし末期の水は例のタコ焼き)ーーが描かれることを期待しております。