世界はあまりに膨大になりすぎたため、ただの羅針盤にさえ重大な意味がある。

愛のうた


エクソダス

ある虐げられた集団が国家規模の勢力に対抗しようと考えれば、狂信によるテロルを選択するしかない。そして、あらゆる権威が少数のテロルから始まるとするならば、現代世界での騒擾はやがて新たな神話と化すのか。ともあれ、この出エジプト記、神の使徒は幻覚で、マンナは降ってこず、十戒を火文字ではなく手ずから彫刻してみせる。リアリティに寄せることで逆説的に聖書の記述を真実として補強しようとするのは狡猾だな、と思った。
ゴジラ

また、ケトゥ族の別の若いギークにしてやられたなあ。 本邦では若さ以外に取り柄のないゲリチンジェット噴射a.k.a.ションベンジャリタレによって完膚なきまでにファイナルウォーズされてしまったシリーズが、深いレスペクトとともに異国の地で復活する。なぜいまさら死に体ゴジラの新作企画が通ったのか、その理由がわかった。核へのメッセージを孕ませるのにうってつけの本作を、あの事故にも関わらず無視しておきながら、ハリウッド様が巨大資本で宣伝してくれたからそれに乗っからせてもらおうっていう、臭気ただよう厚顔無恥に心の底から寒気がする。しかも事情を知りながら、嬉々として監督を引き受ける者さえいるのだから、やりきれない。外的状況に対するアンテナの低い感度と、昔からのファンというアーパーギャル的脳天フェイラーと、夏休みの宿題みたいな現状から逃げることが動機を構成するほとんどだと断言してもいい。しかも、ハリウッドより低予算だからみたいなエクスキューズを早くも口にしているようだ。我々の体験が新しいゴジラの本質をいかに変えるかを外の人々は読みとりたいと思っているに違いないのに、バジェットの差が生む絵面ばかりを気にしている様子はおたくの所作そのもので、情けなくなってくる。おのれが依拠する土地に刻まれた傷跡に何らの痛痒も感じていないからに違いなく、某エヴァQのあの皮相的な仕上がりも、だとすれば納得できる。あのねキミ、カネカネ言うけどね、破のときインタビューで「皆さんのおかげで生まれて初めて潤沢な資金を得た」とか答えといてからに、結局ピアノのCG作るのにごっついカネつこてましたやん。こんどは巨大トカゲのウンコの形した、純金の延べ棒でもつくるんでっか。とにかく、いまこの国でゴジラを作ることの意味に対する鈍い感性と、たぶん無邪気さにゾッとさせられるばかりだ。だいぶ話がそれたが、エメリッヒじゃないほうの新しいケトゥ族が撮影した神トカゲ、最高です! 日本の文化考証が相変わらずアレなのは、被災した方々の感情を傷つけないためですよね、わかります!
ヤマト2199劇場版

監督はきっと誠実な人物なのだろうな、と思う。ドギツイ権利者たちの妄言を聞き流して我慢強く折衝を重ね、ドギツイ愛好家たちの煮詰まった脳内映像からする罵倒に耐え、ついぞ途中で投げ出すということをしなかった。演出の方法にしても伏線の張り方にしても、どこか観客の知性を信頼している感じがある。ここでこの絵を見せて、この台詞を聞かせれば、こう理解するだろうと計算してあり、観客はどれひとつとして見落とさないはずだと信じている。この意味で、是枝監督と近い方法論で映画を作ってるように見える。だ実写と違って、端正な演出意図を補完する俳優の肉の実在感がないため、盛り上がるべき場面でもひっかかりなくスルスルと流れていってしまう。全体的に淡い風味で、老舗の板前に「親爺、味が薄いよ」と言っても、「そうですか」としか返ってこない感じ。これ対して、観客を心から馬鹿にしているどこぞの監督が作ったものは、濃厚豚骨ラーメンを罵倒されながら屋台ですする感じで、しかもこの親爺、「それくらいじゃ味が足りねえだろう」とか言いながら食べるそばから柄杓でラードをつぎ足してくる。その態度にはムカつくが、ラーメンは舌が痺れるようなうまさだ。もし酔客が一言でも味に文句をつけようものなら、親爺自身がカウンターを飛び越えての場外乱闘になり、そのあと一週間は店を閉めてしまう。閑話休題。ストーリーは新スタートレックの前後編を思わせ、ホテルでの芝居とか、星巡る箱舟のデザインとか、すごくそれっぽい。ただ、スタートレックと決定的に違うのは、女性クルーの扱いであろう。旧作の様々な矛盾に解決をつけていった新ヤマトだが、ボディラインを強調するピッチリスーツにだけは、ついぞ「この方が勃起の傾斜角が鋭かったから」以上の説明をつけなかった。この世界では、モデル体型を維持できなくなった四十路の女性は、全員宇宙葬形式で退艦させられるに違いない。もし続編があるとすれば、無意識の媚びをふりまく未通女ばかりでなく、新スタートレックのガイナンみたいな魅力あるオバハンクルーに登場して欲しい。その些細なできごとは、結果として本邦のアニメの天井を押し上げる役目を担う……かもしれない。
アニー

原作に思い入れがないどころか見たことさえないのに、一般女性の「日々に疲れた時のサプリ(某ネット通販感想より抜粋)」を一般おたくが視聴してしまって、なんかごめんなさい。きっと、一般女性がドギツイ抜きゲーをついうっかりプレイしてしまったら(どんな状況だ!)、こんな気持ちになるんだろうなと反省させられました。なので、内容にはいっさい触れません。私に言えるのは、ジェイミー・フォックスが全体的に手を抜いて流した演技をしているなということと、やっぱりキャメロン・ディアスは卑猥で下品な役柄がピッタリの最高のアバズレ女優だなということです。(しかし、最近のキルスティン・ダンストには油断が生じているのか? だとしたら、キャメロン・ディアスに追い抜かれるのは時間の問題だぞ)
グランド・ブダペスト・ホテル

センスと外殻だけがある、きれいな昆虫のような、メリーゴーラウンドのような作品。誰が言ってたか、「すべての映画はアニメになる」を地で行く、ポスプロまみれの怪作でもある。画面の色合いから構図までのすべてが監督の意図に支配されており、時間軸の違いをアスペクト比で表現したり、映画芸術の枠組みに対してもやりたい放題である。また、凡百の創作ならトラウマ感情のゆらぎがどうしても作品へにじみでてしまうものだ。しかし、この監督はそういう雑味を徹底して自作品から排除していて、それゆえのドライな手触りに憧れる。どんな人物がすごく興味あるけど、絶対に会いたくはない。
西遊

確かに、ロード・オブ・ザ・リングに匹敵するスケールの物語をアジアから探すとしたら、西遊記しかないだろう。相変わらずドラゴンボールやらエヴァンゲリオンやら、日本のおたく文化の精髄を換骨奪胎するのが歯噛みするほど上手く、近作の定番パターンではありながら、凡人が超人へと化身する瞬間の描き方も充分に感動的だ。以前も指摘したけど、おたく文化を一等地低いものと見なし続ける本邦のメインカルチャーとやらからの蔑視のせいで、我々はパシフィック・リムを作られ、ゴジラを作られ、今度は西遊を作られてしまった。同じ内容の繰り返しになるからより詳しく聞きたい向きはカンフーハッスル当たりの評を見返して欲しいが、もうそろそろカネを動かせるという一点だけに頼った根拠の無い優越感は捨てて、君たちは真摯に無から有を作り出す才能へ向き合うべきだと思う。ゼロには何億をかけても、ゼロのままなのだから。
ドライビング・ミス・デイジー

「日の名残り」と同じ系統の、ある人物にフォーカスして時代を追うことで、語りすぎず、淡い社会風刺を匂わせる作品……のはずが、インセスターZことモーガン・フリーマンの胸焼け演技によって爽やかな読後感はぶち壊されている。さすがだぜ!
ゼノブレイドクロス

ブラッドボーンの直後だと、全般的にきつい。グラフィックの細部が粗くて気になるし、昭和のSFみたいな固有名詞のセンスと造形デザインには目眩を感じる。13歳という設定の女性キャラのモデリングがきつい。長年、二次元のみを見続けたおたくが、その精神の歪さを客観視できなくなっている感じがありありと伝わる容姿である。このキャラだけは一般人には絶対に見られたくないし、「おたく=ペドフィリア」の偏見を助長するので誰にも見せたくない。前世紀末のライトノベルを未だに地でいくキャラどうしのかけあいがきつい。視点の置きどころがない、構図のないカメラで撮影されたムービーでそれをやるため、なんというかひどくいたたまれなくなる。「斃す」とか「赦す」とか、常用漢字に親を殺された感もすごいきつい。でも、さすがにゲーム部分は面白いので、無理して我慢して作品世界へ没入しようとする。けれど、頻繁に挿入されるムービーにいちいち現実へと引き戻され、その決意をさんざんに砕かれる。いい年齢をして未だにゲームを止められない自分が恥ずかしくなり、さらにいい年齢をした大人がこれを作っているかと思うと暗澹たる気持ちにさせられる。「社長が訊く」で制作側の素顔をダブルミーニングで知ったゆえか、名状しがたい負の感情がとめどなく噴き上がり、本当に冗談ではなく死にたくなる。ぼくたちおたくは嫌われて当たり前だし、軽蔑されてもしょうがないんですも。なんだこれですも。
ベイマックス

あ、あれっ。貴様らがマジンガーZだのグレンラガンだのに言及して褒めそやすから、すごいワクワクして視聴を開始したのに、なにこのガッカリ感。ちょうど大トロを食いにいったのに、アボカド巻きが出てきたみたい。きれいに伏線を回収するシナリオとか、物語中ただひとり喪失を経験したヒーローが復讐を放棄するメッセージとか、すべてが然るべき場所へとピッタリ収まる気持ち良さは、確かにある。でも、これはアートじゃなくてプロダクトなんだという感じにすごくさせられた。こういうのを見ると、エヴァQの側につきたい自分を発見して複雑な気分になる。エヴァQにベイマックスの工業製品感を与え、ベイマックスにエヴァQの歪みと情念を与えれば、両者ともちょうどいい塩梅になるのになあと思った。ともあれ、これだけ絶賛のみが聞こえてくるというのは、デザインとかアクションだけでフィクションを視聴をできる層が本邦にとくべつ多いのだろうな。たぶん、ロコモーションにいれあげる特定層と同じで、情感の部分が乏しいか欠落しているのかもしれない。
インターステラ―

理論物理学の重鎮を科学考証に迎えた本作の実相は、SFというよりむしろコミュニケーションを主題に据えたファンタジーである。我々の意思疎通は、頼みにならない郵便屋が届ける、番地まで宛名の書かれていない手紙のようなものだ。いつ届くかわからないし、届いても開封されたかどうかわからない。その曖昧さは、親から子へ渡されるときの言葉の性質にもっともよく表れる。差出人はいつか開封されることを願って投函し、手紙が読まれたかどうかは受取人だけが知っている。そしてこの性質はまた、「いまここにいないもの」という意味での死者と対話を可能にしており、テロ後の、震災後の世界における我々のコミュニケーションの本質を喝破しているのだ。とは言いながら、インセプションやダークナイト・ライジングを自信満々で世に送り出してしまうノーラン監督だから、娘萌えが昂じた結果、偶然そういうメッセージ性を孕んでしまった可能性も否定はできない。そのすれ違いがあったとしてさえ、疑いのない傑作である。
ブラッドボーン

実はこの二ヶ月というもの、ひどい気鬱に悩まされていた。サブカル道を歩む者は、三十路でマッチョ願望にとり憑かれ、四十路で抑鬱状態に陥るという。どのくらいひどい状態だったかと言えば、雨戸を閉めて電気を消した部屋で、新作の映画やゲームを傍らに積み上げたまま手も触れず、かろうじて視認できるほど輝度を低減したモニターで延々とディアブロ2をプレイしていたぐらいだ。しかも、音が耳に障るという理由でスピーカーは外してあった。バーバリアン用にグリーフとフォーティテュードを完成させたところで、さすがにこのままキャラ数分のエニグマを作成するのはまずいと感じはじめた。革張りの社長椅子から腰を上げ、長らく2月だったカレンダーを3月にめくると、明日がブラッドボーンの発売日であることに気づいた。よろよろとゲーム専用シアターに向かい、プロジェクターの埃をはらって、アンプに通電する。0時を待ってダウンロードを行い、120インチのスクリーンにタイトル疲労と空腹が再びこの身に意識を取り戻してはじめて、私は自分が血濡れの病み人として別世界を徘徊していたことを知ったのである。が映し出されたとたん、現実が消失した。ファミコンを体験したことに後の人生を大きく規定された私が、成人して以来ずっと求めていたゲームは、正にこれだと思った。極限まで突き詰めた映像と音楽と操作性が織りなすこの没入感を貴様らにわかりやすく説明するなら、決して萎えない理想のペニスが挿入され続けるアヘ顔ダブルピースの24時間であり、美少女にがんばれがんばれと励まされずとも間断ない最高の射精が続く状態である。実はドラクエヒーローズもプレイしたのだが、あれっ、鬱じゃなかったの、ゲーム性はひとまず置くとして、大音量での再生をわずかも想定しない最悪のモノラル的音質に耐えられず、早々にクリアを断念した。よりアッパーな再生環境に耐えるという、プレステ4でリリースすることの意味を制作側が少しも理解しておらず、すぎやま先生とオケの面々に土下座して謝れよ、てめえらはいつまでもジャリ相手の携帯ゲーム作ってろよ、パズドラ死ねよ、と素直に感じることができた。あとシレンジャーなので、家人の携帯ゲーム機を無理やり奪って世界樹の迷宮も嫌々プレイしたが、おまえ、ぜんぜん鬱じゃないじゃん、品薄が高評価を一時的に形成することがあるというネット特有の現象を体験したことだけが収穫だった。引き算が本質のゲーム性に足し算し続けるという、無駄な努力の天然色見本とも言うべき的外れのつまらなさで、これまた早々にクリアを断念した。これら二つのクソゲーを紹介したことで何が言いたいかといえば、ブラッドボーンは映像と音楽とゲーム性の極めて高いレベルでの融合に成功しており、既存の映画ジャンルを超える新たな映像芸術の位置にまでゲームという存在を止揚した、ひとつの到達点であるということだ。とはいえ、100インチ以上のスクリーンと7.1チャンネル以上のサラウンド環境で復元された本作を体験できない者は、この革新が見えないまま、幼年期の始まりに気づかないまま、過去作との愚かな比較を繰り返すばかりだろう。ゲームをチープな暇つぶしへと追いやってしまったのは、我々が街角の売春婦にするようにその対価を値切り続けてきたことが原因だ。パトロンであったはずの我々が安く買わんがために、美女の価値をことさらに世間へ貶め続けてきた。この新たな映像芸術に対して、現在の10倍、いや100倍を支払うことに私は一瞬のためらいもない。さあ、全国津々浦々のファミコン世代よ、クリミナルかセレブリティかの二択世代よ、じつは高学歴の金満家たちよ、いまこそ我々にゲームを取り戻そう。これだけ豊かな体験を人生に与えうるゲームにより高い敬意を、より多くの金を払おうではないか。
セイビング・ミスター・バンクス

「私たちはみんな、子どもの心を持っている」。創作の本質とは、与えられた呪いをいかにして普遍的な何かへと昇華できるかにある。男性向けフィクションにマザコンものが多いのに対して、女性向けフィクションにはファザコンものが少ない理由がわかった。人生の早い段階で父親を亡くし、理想化された父親像を否定する時期を経なかった少女だけが、ファザコンものの語り手となりえるのだ。存命の父親が理想化されたまま成人を迎えるケースもあろうが、そうした人々は創作を行う内的必然性を持たないと思われる。そして雑に言えば、どちらにも当てはまらない女性のうち、母親との関係が良好ではない者たちがボーイズラブに向うのだろう。話がだいぶそれたが、本作ではメアリー・ポピンズが父親との葛藤にのみ依拠した作品であるように語られてしまっているので、いい映画であることに間違いないが、同作品への思い入れが強ければ強いほど反発は大きくなるのではないかと思った。強い思い入れを持たないはずの私だったが、軽い気持ちで視聴を始めたところ突然の重たいボディーブローをくらうこととなった。娘の視点から描かれる夢見がちな一人の社会不適合者の肖像は、アル中の諸君をいたたまれなくさせること、うけあいである。
ジ・アクト・オブ・キリング

千人を手にかけたかつての殺人者を題材とすることが無謀だという声に、私は同意しない。このアメリカ人監督はむしろ、ドキュメンタリーという手法の、そしてアクト、「演じること」の持つ力の魔性を熟知した上で、アンワル・コンゴの精神を意図的に壊しにかかっているからだ。本作を見て思い出した作品が二つある。一つ目は、ドイツ映画の「エス」。我々はだれもが与えられた環境に応じて役割を演じているに過ぎず、個性や自己同一性と呼ばれるものは一種の幻想、揺れる大地の上のかりそめである。ゆえに演じるという行為、「ジ・アクト・オブ・アクティング」を通じて私たちはあらゆる人物になれるし、あらゆる心理を追体験することができる。二つ目は、邦画の「ゆきゆきて神軍」。このドキュメンタリーでカメラを向けられたことが主人公を躁的に狂わせていくのと対照的に、本作ではカメラを向けられた人物が演技を通じて正気を取り戻してしまい、罪悪感ゆえの絶望へと転がり落ちていく。私は、無辜の千人を殺したという事実を前にしてなお、彼に対して最後まで同情する立場を崩すことができなかった。同じ立場に置かれたら、たぶん、私たちのだれもが殺していたと思うからだ。ひとりの老人に殺される側の味わった恐怖と絶望を「主体的に」体験させる手法は、千人を殺すほどに残酷ではないというのだろうか。階段の踊り場に取り残された、かつての殺人に嘔吐するだれか。そして、数多くのANONYMOUSが並ぶ異様なエンドロール。監督が映画を通じて行う残虐は、アンワルの行った残虐に勝るとも劣らない。れこそが、世界にするアメリカの残虐の正体だと思う。知恵の実を食べたものが、知恵の実を食べなかったものに行う、悪魔の残虐である。
楽園追放

フルCGとのふれこみで視聴するも、ファーストインプレッションは劇場版・3Dカスタム少女。サイファイギークであるところの俺様はニヤニヤと小鼻をふくらませながら大いに楽しんだが、正月休みでついウッカリいっしょに見ることとなったそのような素養と耐性の薄い方々は、冒頭からわりとすぐに熟睡していた。「ロリィ」や「そういう趣味」など未成年への劣情を連想させるエロゲー的表現(一般人には異様に響くに違いなく、内心ヒヤッとした)が散見され、18禁版ではねっちりと描かれているのだろう「はじめての肉体」のもたらすはじめての排泄やはじめての性交を省いた全年齢版が、本作なのだと推察される。また、一つひとつの台詞が非常に長い上に堅い方の語彙を常に選択するため、かなり意識して聞かないとすぐに何を言っているのかわからなくなる。家人は寝た。この辺りもアニメというよりはテキスト主体のゲームに向けて書き起こされたようなシナリオで、やはり18禁のエロゲー版が存在するに違いない。そして、女子のパイロットが画面手前に向けて乗り出してくるカットとか、複数のミサイルが意志を持っているみたいに標的を追尾するカットとか、青空にロケットの噴煙が傾ぎながら登っていくカットとか、全体的に映像の既視感が強く、フルCGでなければ表現できない絵作りはまったく見られなかった。もしかすると、既存の表現をより低コストで達成できることを強調するための見本市的なねらいがあるのかもしれない。いずれにせよ、全編を通してギークなら確認するまでもないが、実は普遍性に乏しい前提を視聴の際に強要される感じがあり、家人は寝た。昔はものすごい数の時代劇が放映されていたのに今はテレビの片隅に追いやられてしまった、アニメも現在ものすごい数が放映されているがいずれ時代劇と同じ道をたどるだろう、みたいな記事だかつぶやきだかを以前に見かけたことがあったけれど、その理由を体現するような作品だった。うかつなことを言えば、ため息からものすごい反論が返ってきそうな面倒くさい感じが全編に漂っており、家人は寝た。あと、前情報からフロンティアセッターがガンダムやイデオンみたいな位置づけで活躍すると勝手に思いこんでいたので、ジムとザクが格闘するみたいなクライマックスの戦闘シーンにはガックリした。それと何より許せないのは、生物の進化と惑星の重力に対する科学的な考察が非常に甘いところである。そもそも十六歳はあんなおっぱいしてないし、あんなおっぱいをしてるのにゆれないのはSF考証ができてない証拠だし、ゆれないのにレオタードなんて一般人を遠ざけるデザインでしかないし、こんな3Dカスタム少女みたいなんだから、家人も寝たことだし、もっと激しくゆれればいいのにと思いました。
ドラゴンエイジ:インクイジション

3D全盛の時代に、これよりグラフィックやモーションのいいゲームはいくらでもある。UIも使いづらくダサいし、戦闘の戦略性もそれほど高いとは言えない。しかしながら、本シリーズを他の凡百のRPGと峻別するのは、ストーリーである。その精緻な紡がれ方を見れば、ジャンルはRPGに属しこそすれ、本質を複数分岐のアドベンチャーゲームだと指摘できるほどだ。話は少しそれるが、本邦のRPGにおいては物語を駆動する主体が常に主人公とは別のところにあって、ヒーローのする行為はすべて敵側の決断に対するリアクションに過ぎず、本質的に事件の現場へ「間に合わない」ことで進行していく。そして、その溜まりに溜まったフラストレーションを純然たる暴力として敵にぶつけ、最後の最後で解放のカタルシスを得る。これはつまり、水戸黄門や暴れん坊将軍や忠臣蔵に代表される、日本人の好む昔からの物語類型だ。理不尽へは忍耐を求めるが、相手のふるまいが大きく度を越えていく場合、暴力に訴えても非難されず、むしろ称賛を与えられる閾値がこの社会には確かに存在している。JRPGのストーリーはこういった本邦の気質によく合うし、何よりシナリオライターの力量の問題もあるだろう。悲劇や理不尽を定型的に繰り返すことによる物語の駆動は、白黒つかぬ権謀術策や成熟した者たちの政治劇を興味深く描くより、はるかに簡単だからである。話を戻そう。以前nWoでは、FF12がキリストの復活をモチーフにしたギャルゲーになると的外れの予言をしたことがあった。恐ろしいことにドラゴンエイジ最新作は正にその、私の求めるファイナルファンタジーの正統な後継であり、聖痕を持つ者の復活と遍歴を真正面から四つ相撲に描いているのだ。例えるなら、ローマ帝国健在なりし頃、そしてユダヤ教全盛の時代に、キリストを主人公として展開していくようなストーリーである。己の現し身がビホールド・ザ・マンのその人となり、まさに唯一無二の存在として世界の中心に置かれ、我が一挙手一投足、我が言葉と決断がそのまま歴史を紡いでいくというこの圧倒的な感覚は、JRPGなどでは到底得られぬ次元の快感であり、大人の愉悦と言えよう。だが、台詞をボタン連打でスキップするような遊び方をする層には、ひとつの凡庸な3Dゲームに過ぎないこともまた、事実である。激しく人を選ぶが、選ばれた者には至高のゲーム体験を与えてくれるだろう。本年度のジー・オー・ティー・エヌ(Game of the nWo)、堂々の大賞である。
 

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