猫を起こさないように
イリアス
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映画「オデュッセイア」感想

 同じくマット・デイモンが主演する「火星の人」に、こざかしい映画配給会社の社員が「オデッセイ」なる超訳をすでに当ててしまっていたため、泣く泣くギリシャ語原文から引いた「オデュッセイア」をタイトルとしたことが偶然に功を奏している話題作を、IMAXシアターで見る。東洋のジジババ以外、世界中のだれもが知っている最古の物語ーー若い世代は、FGOからの逆引きでたどりつくと推測ーーを最新の映像技術によって再現しようとする試みは、同時にクリストファー・ノーラン監督のフィルモグラフィーの集大成となっているように思う。それは、彼の美点と欠点がどちらにもマックスで振りきれているという意味でもある。過去と現在、父と息子の視点を縦横に行き来する脚本と構成は、まさに円熟の妙味となっており、3時間の長尺をまったく飽きさせることなく、観客たちを引きこんでいく。もはや偏執狂的なレベルの「CGを可能なかぎり排除して、実物をそのまま撮る」手法は、AI生成動画が跋扈するこの時代においては、信念や反逆の宣言にすらなっていて、ベン・ハーやアラビアのロレンスなど、往年の歴史大河作品を彷彿とさせる重厚さを、銀幕の上へ表現することに成功しているのである。

 個人的な不満点としては、まず映画全編をとおして、とにかくカメラが近いことだ。オデュッセウスを主人公とする叙事詩なのだから、マット・デイモン演ずる彼の表情やたたずまいにフォーカスしたいのはわかるが、「このスペクタクルを、なぜもっと引きの絵で見せてくれないのか」という場面は、かなりの数にのぼった。次に、映画のクライマックスであるはずの、数十人の求婚者を広間に閉じこめての大たちまわりが、アイデアにとぼしく同じ行動のくりかえしーー両手斧を使ったワールウインドが2回はさまったのには、乾いた笑いが出たーーで、むりやり興奮をかきたてて、なんとか没入しようとどれだけ試みても、斧をクロスさせた12の穴を射とおす冒頭のシーンを最高潮に、どんどん気持ちが盛りさがっていったのには、ほとほとまいった。逆説的に、本邦の特撮や時代劇の殺陣がいかにすぐれたものかがわかったし、せめてLOTRのレゴラスばりの近接弓格闘術で無双してほしかったと、ここだけは残念でならない。ストーリーに関して言えば、今回の映像化によって、トロイア戦争を描いたイリアスーーブラピのアキレウス!ーーは、シュリーマンの発掘から古代都市の実在を主張されるほど、リアルな戦争の様相を描いていたのに対して、その後日譚に当たる本作でのオデュッセウスの放浪が、荒唐無稽なファンタジーになっている理由への解像度をムダにあげてしまった。

 すなわち、故郷とは似て非なる肥沃の土地で記憶喪失をよそおい、ドスケベあみあみ上着の愛人との7年にわたる愛欲の果て、部下たちにはあいそをつかして去られてしまうという情けない現実について、いかにおのれの格を下げないかへ腐心しながら、妻と息子と国民を納得させるために、壮大な作話をしている可能性である。帰国後のカッカソーヨーな迂遠の顛末も、アガメムノン王がベッドの上で殺されたことにブルッてしまい、閨(ねや)でペニスを切りとられないよう、妻が不倫に気づいているかどうか、名を伏せたままビクビク確認していると解釈すれば、非常に味わいぶかく感じられてくるのではないだろうか。そして、「旅人はもてなせ、神の化身やもしれぬから」というゼウスの掟は、核兵器の保有とは正反対の、言わば相互”非”破壊保障であり、当時の倫理的・道徳的な基盤であった。トロイアにおけるオデュッセウスの勝利は、その人間の相互信頼を燃やすことで成しえていて、木馬戦術こそ既存の文明を滅ぼす海の民を発生させるきっかけであり、それを旧世界が灰燼と帰す未来の象徴として描くのは、現在進行形の紛争や戦争がいずこから端を発しているかに対する、一種の問いかけのようにもひびくのである。

 あと、本作のラストにおける西海浄土に似た考え方が、偶然の一致なのかどうかわからず、おずおずとチャッピーにたずねたところ、「太陽は西に沈むのだから、それが世界中で冥界の方角になるのは確定的にあきらか、人間はおろか」と回答され、「ほざけ、フィジカルAIふぜいめが! 人間様をなめるなよッ!」とさけびながら、正拳づきでモニターをたたき割ってやりました(知性の敗北)。