猫を起こさないように
エヴァンゲリオン
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ゲーム「原神4章5幕・罪人の円舞曲」感想

 原神4章を最終幕までクリア。言わば、「原爆投下1日前のヒロシマ」を旅人とパイモンがそぞろ歩くシーンでの、モブによる「明日おなじものを食べられないとしても、今日はおなじものを食べる。それが生活ってものでしょ?」というセリフに、またしても号泣させられてしまいました。いつも感心してしまうのは、大所高所から語られるストーリーに対置された、こういった市井の一市民による素朴な感情を細やかに描いている点であり、「今日の食事」という極小の視点から百年を優に越える極大の時間ギミックへとカメラを引き上げる際の落差は、前者の連続で後者が成り立っていることにハッとした気づきを与えてくれます。そして、真の神が人間を愛するようになるまでの数百年を、一介の個人が偽りの神としてウソと演技による「時間かせぎ」をする苦悩は、いかばかりだったでしょう。いつ終わるかさえ知らされていないその苦しみを、異邦人へとすべてうちあけて楽になるチャンスを目の前にしながら、「利己的になってはダメだ、もう少しだけ考えよう……」とすんでのところでふみとどまる場面には、我が身に照らしての嗚咽がほとばしりでました。

 このフリーナというキャラクターのことは、登場した最初の瞬間から「軽薄で底の割れた演技者」として、どこか好きになれない気持ちがありました。「原神にしては、魅力に欠ける造形を持ってきたものだな」などと冷めた視点でずっとながめていたのに、その感覚の正体が同族嫌悪や自己嫌悪と同じ種類のものだったと判明したときの衝撃たるや! 私自身が「身の丈よりも大きなもの」を日々、演じることを強いられており、「すべて投げだして、終わりにしたい」という欲求と毎秒をせめぎあって生きているのですから! メインストーリーが幕を閉じ、彼女の後日譚ーー「僕はもう、二度とだれかを演じるつもりはない」ーーが終わる頃には、フリーナのことを心から愛おしいと思うようになっていました。個人を翻弄する大きな物語の渦中に落としこまれた小さなキャラクターたちが、それでもどうにか生きようとあがく様は、なんと彼らを魅力的に見せることでしょうか。いつの時点からか、キャラクターが物語のサイズを凌駕してしまうようになった本邦のフィクション群の失ってしまったものを、原神はいまだに脈々と受け継いでいるのです。

 どこか洗練されていない部分や、強引な展開、つたない手つきがまったくないとは申しません。けれど、いまを生きるだれかの熱を帯びたドラマツルギーが、すべてを「是」「好」へと変じていくのです。原神4章の最終幕を通じて、中華の若い世代が語る「旧エヴァ劇場版の先の先」を確かに見届けさせてもらった気分になりました。あなたたちは、「旧劇の最終局面で碇シンジが取るべきだった行動」と「新劇による再話で選ばれるべきだった結末」を、このように考えたのですね。先日、地球外少年少女の感想を再掲したところ、監督本人にRTされてビックリしましたが、彼の元へも土地と世代を超えたアンサーが届くことを願っています。いつものごとく、「アカの手先」となってベタ褒めしてしまいましたが、まあ、ロシア相当の組織の構成員たちが急に好意的な様子で描写されはじめたり、不安を感じる部分もなくはないんですよ。

 オマージュをわずかに越えたド直球の引用もチラホラ見えてきて、「第三降臨者」なるワードもすごく旧エヴァっぽいなーと感じます。今回、公子の師匠としてスカークなる人物が登場したのですが、FGOのスカサハと設定や見た目ばかりか声優まで同じ(!)になってて、「ああ、メッチャ好きなんやろうな……」と、思わず生あたたかい視線を送ってしまいました(「呑星の鯨」から剥離した物質のフレイバーテキスト、メッチャ好きです)。ともあれ、原神4章の最終幕を通じて、本邦のフィクションを弱くしているのは、家族を解体する「毒親」や 「親ガチャ」なる概念と、大きな物語を一個のキャラクターに矮小化する「VTuber」なる存在であることを確信いたしました(ぐるぐる目で)。みんな、そんなつまらないマガイモノは窓から投げ捨てて、中華ファンタジーから「物語の王道」を逆輸入していこうぜ!

 最後にぜんぜん話は変わりますけど、遅ればせながら劇光仮面の4巻を読んだんですよ。えー、「本物が現れ」ちゃダメじゃん! そんなのいつも通りじゃん! 本物がいない世界だからこそ、例えば「ゆきゆきて神軍」のような文学性や批評性を帯びていたのに! 本作へ向けていた興味関心の熱が、一気に冷めてしまったことは、残念ながら認めざるをえません。本物がいない日常だからこそ、我々はなんとかしてその虚無をやりすごそうと、もがき苦しむというのに……。

雑文「GENSHIN EVENT and EVANGLION EFFECT(近況報告2023.7.14)」

 原神の夏イベントをクリア。不機嫌な大人たちを苦手とする子どもの心情や、その子どものために大人たちが怒鳴りあいではない、正しいコミュニケーションを取りもどす様子など、我々が日常で忘れがちな、ハッとするような気づきと学びを、原神はいつも与えてくれます。倫理や道徳にも似た「大人として正しいふるまい」への嫌味ではない教化は、文字通り世界中の若者がプレイする作品として、かなり意識的に行われている気がします。ファイナルファンタジー16を通じて、最新のJRPGが奇しくも体現してしまっている本邦の現状を突きつけられ、かなり絶望的な気分になっていたところだったので、この夏イベントは干天の慈雨のように心へしみました。タイムラインに流れてきた「みんなアニメが好きなのではなく、キャラクターが好きなのだ」という指摘を借りてJRPGとの比較をするなら、「みんな良い物語が好きなのではなく、カッコいい台詞が好きなのだ」「みんな双方向の対話が好きなのではなく、一方的な宣言が好きなのだ」とでもなるでしょうか。

 最近、ヤングケアラーなる言葉を頻繁に耳にするようになりましたが、LGBTのときにも感じたことながら、無限段階のグラデーションが存在する場所へ、ガチッと枷をはめて違いを有限化しようとする仕掛けは、いったい「だれが、何の」意図を持って行っているのか、さっぱりわかりません。以前、不仲だった父親にかけられた言葉によって、ある官僚が「ゆとり教育」を猛烈に推進した話をお伝えしましたが、ひとりの家庭の病裡がシステムとして再演されるのを、我々はまた見せられようとしているのでしょうか。この単語によって、「おまえは家族に虐待されていたのだ」と公から宣言され、不必要な「目覚め」を得てしまう個体ーー私は自戒をこめてこれを「エヴァンゲリオン効果」と呼んでいますーーを作りだし、本来的には無用の苦しみと混乱を生じさせる効果の方が大きいような気がしてなりません。

 別の視点から鳥瞰すれば、「西洋文明に対する無批判の追随が、彼我の心性の差異を越えはじめ、きしみをあげている」とも指摘できるでしょう。仏国では、自国に存在しなかった概念を表す外国語に対して、新たに造語を作成せねばならない法律が存在すると聞いたことがありますが、周回遅れながら骨身のレベルでその重要性がわかってきたように思います。近年の洋画(古い表現)につけられる邦題が原題のカタカナ読みばかりになっているーーファントム・メナスとウェイ・オブ・ウォーターが最悪の二巨頭ーーことにも表れているように、我々の文化と心性に許容しやすい「自国語による翻案」がいつのまにか廃れ、西洋由来のドぎつい概念が直に日常へ挿入されるようになってしまったことが、様々な問題を引き起こしているように思うのです。

 きっと陰謀論のようにひびくでしょうが、LGBTに続くヤングケアラーなる単語は、「田舎の次男坊以下によって形成される核家族」ーー詳しくは「七夕の国・友の会」に寄稿した文章を参照のことーーをさらに小さな単位へと細分化して、旧来の家族なる枠組みを解体しようとする試みにも思えてなりません。こんなふうに感じるのも、おそらく原神をプレイしてしまったからで、そこに描かれる家族像や人間像のほうが、ずっと正しくまっとうなもののように映ります。この概念の震源地はテレビであり、かつてすべての情報の中心にあったそれは、いよいよ「貧者のメディア」へとステージを移した感があります。いずこからも独立した最先端のようにふるまうSNSでさえ、遠巻きに「貧者のメディア」から受信した内容を取りあつかっていて、その議論の多くは核家族の構成員やそこから派生した者たちが、「己の生きる百年」の上下を批判しあっているにすぎません。そんな貧しい者たちの目が届く場所においては、けっして言語化されないがゆえに、本当の豊かさーー金銭だけの意味ではないーーは、彼らの人生の埒外で原神的な価値観の下に、粛々と受け継がれていっているのだろうと想像するのです。

 最後に、原神の夏イベントへと話を戻して終わることにしましょう。今回の物語のエンディングで、洞天の主がみずからの住む小さな世界を「ここが私の夢の終着点」と表現するのですが、「大きな夢に耐えるための小さな夢をかなえて、いずれ離れるべき魂のゆりかご」という考え方は、テキストサイト時代に抱いていたインターネットへのイメージと完全に一致しています。あれから長い時間を経たいま、ここは私にとって「夢の終着点」となったのかもしれないーーそう、思いました。

ゲーム「ファイナルファンタジー16(デモ版)」感想

 ファイナルファンタジー16のデモ版をダウンロードし、最後までプレイ。デモ版とは言いながら、冒頭から2時間ほどをたっぷりと遊ばせ、さらにはオマケとして序盤のクライマックス・バトルまで含まれており、近年のJRPGに顕著な「過去タイトルの威光を借りて、初動だけを最大化させて売り逃げ」をねらったのではない、制作サイドの確かな自信がうかがえます。ここからは、本シリーズの全作をプレイしており、2から15ーー14は除く、理由は後述ーーはほぼ発売日のリアルタイムで手に取ってきた人物の感想になります。ファミコン時代の体験から、「ゲームは匿名性をまとうべきで、作り手の名前が悪めだちしてはならない」という持論の持ち主なので、14のプロデューサーでもある本作の制作責任者にはまったく良い印象を抱いていませんでした。なんとなれば、シリーズ中もっとも愛してると言っていい11を、新生とやらに予算をブンどって実質的な更新停止へと追いこんだ人物だからです。なので、このデモ版にしても期待値はゼロ以下の状態から、どうやってクソミソにけなしてやろうかと手ぐすねをひいていたことは、ご理解いただけるでしょう。

 オープニングを終えて、操作の初ッ端からカメラが合わず、左右に少し振っただけで腸が蠕動して偏頭痛の気配を感じる始末で、あやうく評価以前にコントローラーを置きかけましたが、描画を「パフォーマンス重視」に切り替えてカメラ速度を調整し、なんとかプレイを続行できるレベルに落ち着きました。岩山ばかりのロケーションには「まともな背景を作れないからだろうな!」と毒づき、イケメンが脈絡なく落石に潰されるのを指さして爆笑し、イケオジの「まだ任務は終わってないぞ!」の激励には「オイオイ、始まってもいねーよ!」と思わずツッコミます。唐突なブラックアウトから過去編が始まったのには、「古今東西、回想が面白かったためしはねえからな!」とブツクサ文句を言いながらプレイを続けたのですが、次第に受ける印象は変化していきました。かつてのように最先端とまでは言えないものの、ロード・オブ・ザ・リング以降のファンタジー海外ドラマを思わせる中世ヨーロッパの世界がキチンとグラフィックで表現されており、特に屋内の暗さと屋外の明るさの対比にはハッとさせられるものがありました。キャラも13のようなアニメ調ではなく、美形ばかりではありながら、実写に近づける方向でデザインされているのも好印象です。

 最初のクエストであるゴブリン退治を進めているとき、身内に懐かしい感覚が蘇ってくるのを感じました。それは、12ぐらいまでは確かにあった、国民的大作RPGが提供する広大な処女雪に最初の一歩を踏み入れるときの、なんとも言えないワクワク感です。奇矯な造語とハレンチな服装の女主人公でオリジナル作品の悪い見本となった13、数年にわたる紆余曲折の末に経営判断で瓦礫の寄せ集めへ無理矢理ナンバリグした15と比べて、本作ははるかに「ファイナルファンタジーしている」と言えるでしょう(竜騎士の登場シーンなんて、思わず泣き笑いみたいになりました)。もっともその中身は、西洋文明に憧れた東洋人の子どもの考える「大人のファイナルファンタジー」ではあるのですが、「ホストたちがキャデラックを転がしながら、カー・オーディオでスタンド・バイ・ミーを流す」みたいな気のくるった妄想キメラよりは、何百倍もマシなものではあります。

 召喚獣戦の後、旧エヴァの影響を色濃くただよわせるムービーを見ながら不思議な高揚感に包まれ、ただちに”BUY NOW”を押下しました。最近では中華RPGへ湯水の如き賛辞と課金を施しながらも、やはりドラクエとエフエフには「当世で一番」であってほしいという気持ちが、どこかに残っていたのでしょう。デモ版で切り出された部位が、ゲーム全体で最上のものだったという可能性もなくはないですが、いまはかつての少年の日々のように、発売日を指折り数えて待ちたいと思います。

雑文「GENSHINとEVANGELION、そしてKANCOLLE(近況報告2023.4.14)」

 ナヒーダ編の第2章を読んで、大泣きしている。つくづく原神って、「偶然に家庭を持つことができてしまった就職氷河期オタクにとっての水戸黄門」だと思います。「故郷に帰り、家族と再会する。それがいちばん重要なこと」「時間という病は、すべての者を死にいたらしめる」ーー記憶と経験が時間で変化するのを「成長」と定義し、魂の輪廻を認めながらも成長の漂白だとしりぞけ、それぞれが過ごす一度きりの生を大切にせよと、目を合わせて語りかけてくる。そして、記憶と経験が消えてしまったあと、己が名付けをした存在だけが「生きた足跡」として世界に残されるという「当たり前さ」を正面からぶつけられ、シンプルな「ただいま」の一言に涙が伝い落ちるのです。でもね、本邦の初老オタクがこんなふうにヒネクレてしまったのは、何から何までエヴァンゲリオンが悪いんですよ(唐突)!

 毒親に苦しめられるアダルトチルドレンを「なんかカッコいいもの」として思春期の自己定義に組みこませてしまった、じつに罪深い作品だと言えるでしょう。多くの若者たち(当時)は病んでいるフリをするうちに、その偽りの病が人格の一部になってしまったのです。エヴァ新劇も、破の段階までは過去のトラウマを乗り越えて大人になろうとするミサトや、妻の死を乗り越えて息子と和解しようとするゲンドウの姿を真摯に描こうとしていました。シンエヴァ公開の際に「解呪」なる単語がネットに踊りましたが、多くのオタクたちが現実の20年を苦しんできた「家族の問題」を、世界の謎と並走しながらキャラクターの人生として解決してくれれば、おそらく私も「解呪」されただろうにと夢想するのです。ナヒーダのする「恨みを忘れてくれとは言わない。ただ次の世代のため、対話に応じてほしい」という龍への説得を聞きながらそんなことをボンヤリと考え、3人目の彼女のための課金を心に決めました。

 あと、ゆるく厳選した装備とにぶい反射神経で最高難度をクリアできる原神の調整を、本邦の神経症的なゲーム制作者たちには、ぜひ見習ってほしいものですね! ハナからふつうにクリアさせる気のない、艦これのイベント海域とかね! アニメ2期の後半を見ましたけど、相変わらず日常パートの演技の付け方と間の取り方が独特っていうか、意味不明ですね! あのさあ、「彼女は歩行を始めた。まず、利き手側の右足を膝裏部分がほぼ90度になるまで引き上げる。次に、前方の地面へ向けて踵を斜めに振り下ろす」みたいになってんだよ! もしかして演出志望の方にとってだけ、何がダメかを言語化することでよい教材になる可能性はあるかもしれませんけどね! しかしながら、そんなツッコミは些細なものであり、なんと最終話において鬼畜米英が味方になったのには、心底から驚愕させられました! ゆとりーー「え、日本ってアメリカと戦争してたんですか?」ーー世代への痛烈な皮肉でやってるんですよね? いったいぜんたい、我々は何と戦わされてるんですか! チクショウ、残りバケツが50を切りやがった! 艦隊これくしょん、史上最低のゲーム体験や!

映画「グリッドマン・ユニバース」感想

 なんと、グリッドマン・ユニバース見る。いやいや、最初はそんな気まったくなくて、存在すら知らなかったんですよ。それを、カズ・シマモトがシン・仮面ライダーにどんな感想を抱いたのか気になって、彼のツイッター・アカウントへ日参するうち、いわゆる「単純接触効果」で次第に本作への関心が高まってしまったのです。テレビ版のグリッドマンは通して見ていて、極私的に呼称しているところの「エヴァンゲリオン・アンサーズ」のうちの1作品として好印象を持っています。エヴァ旧劇が実写を使って「現実に帰ってお前の人生をやれ」と呼びかけたのに対して、手法こそトレースしながらも「アニメも私の人生と現実の一部だ」と真逆のメッセージを最終話で表明したのは、新鮮な驚きでした。

 この映画版においても、感情を表に出しすぎない現代の若者の軽妙かつドライなコミュニケーションとか、これだけ多くのキャラを出演させながら不自然なやりとりがなくスッキリと流れる脚本とか、だれかの中にある「こうあってほしかったエヴァ」の中身をより洗練された形で見せられた気がしました。テレビ版では最後の最後で「ベッドから起き上がるリアル・新城アカネ」をチラ見せするにとどまったのに対して、本作ではかなりガッツリと実写パートで彼女を写すんですけど、「少し古い世代の男オタクが抱く女オタク像」とでも言いましょうか、「いまどき、こんな陰気な感じでアニメを逃げ場として消費する女子っている?」と疑問を感じるくらいでした。アニメパートのパキッとした明るさに比べると、実写パートの画面は全体的にかなり陰鬱なトーンで、ここだけ庵野秀明が撮影したみたいになっていることも、その印象の一因となっているかもしれません。

 そうそう、みなさんが話題にしているシン・仮面ライダーのドキュメンタリーですが、ご多分に漏れぬ野次馬根性から私も見ました! 感じた中身としては、シンエヴァ・ドキュメンタリーのときにさんざんやったツッコミとほぼ同じなので割愛しますけど、正体不明のこだわりとリソースの蕩尽が1ミリも本編の面白さにつながっていないことは、大問題でしょうね。あのタイプの独裁的なパーソナリティが許容されているのは、本邦における忖度の過剰さを土壌としている気がします。主役の子がずっとプルプルふるえていた理由といいますか、ふるえるに至る感情の源泉の正体はわかりましたので、その点だけは見てよかったです。

 話をグリッドマン・ユニバースへと戻しますと、90分が経過するくらいまではずっと好意的な印象だったのに、30分を残すばかりのところでその肯定的な気分に大きな変化が訪れます。トランスフォーマーみたいなゴツい段ボール・フォルムをしたロボットが、奇抜なアングルーー右奥から左前方に向けて長物がせりだす、半ばネットミームと化したあの構図を代表とするーーで画面いっぱいにみっしりと戦う、俗に言うところの「勇者シリーズ」ってあったじゃないですか。私は昔から、まったくあの「熱血アレ系アニメーション」の観客ではなかったことを改めて思いだしました(テレビ版もこんなでしたっけ?)。ド派手な見かけの戦闘に、大音量で効果音やら主題歌やらが流れて情動をアオッてくるのに、私の心はビックリするほど完全にフラットなままなのです。それに反して、周りの観客は「これを見るためにやってきた!」と座席から身を乗り出さんばかりの熱狂ぶりで、いつまでも終わらない戦闘を前にしてなんだか肩身が狭くなり、その場にいることが申し訳ない気持ちにさせられました。

 図々しくも私の主観をお伝えさせていただければ、「大勢の撮り鉄たちのド真ん中へカメラ無しで放置され、レアな車両が通過するたびにザワめきとシャッター音が響く中、完全に無表情で棒立ちのままのパンピー」とでもなるでしょうか。屋上屋を架すを承知でさらに例えるなら、「青春ラブストーリーと思って見ていたら突然、筋肉質でテカテカのトルコ人が現れて油相撲をオッぱじめ、唖然としているうちにまた何ごともなかったかのように青春ラブストーリーへと戻った」のを見せられている気分です。すいません、エヴァ成分の含有率や現実と虚構の解釈を含めて、「戦闘以外は割とフォー・ミー」だったので、茶化したい気分でこれを書いているのではないことは、ファンのみなさまに重ねてお伝えしておきます。

 それにしても、シン・仮面ライダー公開以降、無言を貫いているカズ・シマモトは本当に大丈夫なんでしょうか? 仮面ライダー50周年記念での公式発表を、ツイッターというツンボ桟敷で聞かされたときのショックの様子と、撮影された作品の結果として異様な仕上がり具合から考えても、現在の彼の精神状態が心配で心配でしょうがありません。

映画「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」感想

 アバター2、見てきた。西洋人の大監督が撮る超大作に、アジア人の短躯広報がビビりまくってつけた副題「ウェイ・オブ・ウォーター」は、ファントム・メナス以来の盛大なる腰の引けっぷりだと言えましょう。そして、赤青メガネをつけた無責任な観客が「やっぱ3Dってゲテモノだよなー」などとヘラヘラ笑ってるのを見て、「映画芸術の新たな地平は、映像に1次元を加えることである」という強い信念に突き動かされて、専用カメラを開発してまで「やらなキャメロン!」と作りあげた前作はまさに映画革命でしたが、残念ながらここ10年余りで市場から3D映画そのものが駆逐されてしまいました。

 前作の熱烈な信者である身としては、何を出されても「アバターもえくぼ」の心境でいようと臨んだのですが、まず率直なところから言いますと「13年もかけて、これ?」という感想でした。なぜか、映画版のファイナルファンタジーを彷彿とさせらましたねー。長すぎる制作期間で技術革新に追い抜かれたせいか、はたまたCPUとグラボのパワーが足りてないせいか、画質はフルハイビジョンと4Kと8Kを頻繁に行き来し、フレームレートは25fpsから120fpsのレンジを何度も上下する始末で、全体としての統一感がまったく取れていません。初代は名実ともにエポックメイキングな作品でしたが、ここ10年のマーベル台頭によって御見物の目が肥えたせいでしょうか、実写で撮影している部分とフルCG部分の見え方に乖離がすさまじく、売りであるはずのそのCGもプレステ4か5のムービーシーンぐらいにしか見えないのです。

 さらに3時間12分もの長尺をとっておきながら、そのうち半分は技術自慢のアトラクションパートで、肝腎のストーリーパートも前作で語り終えた内容の蒸しかえしばかり、「ベトナム戦争」「アパッチ民族浄化」「捕鯨問題」「ガイア理論」をごった煮にしたあげく、世界の現状からどれをもテーマとして焦点化できなくなった結果、大声で「家族の結束」を叫びだすというグダグダさです。また、映画監督としての格は天と地ほども違いますが、その芳醇な才能をアバター世界の構築にのみ費やした十数年が別の作品に注がれたらとどこか惜しむ気持ちは、作家として最も円熟していたはずの十数年をエヴァンゲリオン世界のリブート失敗(大失敗)に空費した某監督の無様さを否応に連想させます。スターウォーズ6の感想でも指摘したことですが、つくづく考えさせられるのは、アメリカが建国の過程で負った原住民虐殺という国家的トラウマは、今日に至るまで子々孫々へいまだに宿業として受け継がれており、彼らは「世界最強の軍事力を有する我々を、インディアンたちが石槍と石弓でうち負かしてくれるという甘美な破滅」をどこかで待ち続けているのかもしれません。

 最後に、念のための注意喚起として付け加えますが、本作を中学生以下のお子さんに見せるのは、危険な気がします。幻想のヰタ・セクスアリスとして、特殊な性癖をふかぶかと植えつけられそうな実在感だけは、全編にわたって横溢しているのですから! しかしながら、「ただの異星人だから」とロリペド方面の、「ただの身長差だから」とショタ方面の需要をただちに満たしてくるのは堂々たる大監督の威風であり、この点にだけは三千円弱をはらっても惜しくないと断言しておきましょう。

アニメ「水星の魔女」感想(13話まで)

プロローグ&1話

 キミらがあんまりウテナウテナ言うから、ガンダム下手のトーシロなのに水星の魔女を見る。確かに機動武闘で少女革命したい感じは伝わってきましたが、主人公がキョドりすぎドモりすぎなせいで尺が足りなくなったのか、後半の決闘シークエンスの流れがかなり唐突で不自然なのは、非常に気になりました。まず、決闘の日時を知らされているはずの主人公が学校のモニターでガンダムの盗難を知るのって、どうすればそんな状況になるんでしょうか。そこから級友にスクーターを借りて、立ち入り禁止のエリアに潜入(どうやって?)して、だだっ広い荒野を横断して、転倒したガンダムによじのぼってコクピットを開けて、どうでもいい痴話喧嘩をオッぱじめる。速い場面転換で瞬間移動みたいにしてごまかしてますけど、これだけの長い時間、桐生冬芽ポジションの敵キャラは何もせず、ボーッと突っ立ってそれを眺めていることになり、脚本のせいか演出のせいか定かではありませんが、ちょっとひどすぎるように思います(識別画像にスクーターを貸した女子の顔が出てくるくだりも、演出意図がわからない)。ヒロインに「守られるだけのお姫様ではない宣言」をさせるためとはいえ、もっと他に上手いやり方があったんじゃないでしょうか。入念に準備した暗殺計画を、息子が決闘に負けたから曖昧にとりやめるのも意味不明で、リアリティラインをどこに置いて視聴すればいいのか、第1話の段階ではサッパリつかめませんでした。

 ただその次に見た、先行して公開されたらしいプロローグはメチャクチャよかった! たぶん世代の近いクリエイターだと思うんですけど、エヴァ旧劇からの影響というかそこへ向けた目くばせを、強く感じました。「Air」の超絶エンタメに魂の深い部分を呪縛され、「まごころを、君に」における中年オヤジの泣き言にモヤモヤしながら、「正しいエヴァの完結とは?」についてずっと考え続けてきた人物なのかもしれません。シンエヴァという還暦オヤジの泣き言を経たいま、ハッキリと言語化できますが、それは「Air」の続きにおいて「第拾九話を超えるシンジと初号機の大立ち回り」と「人類補完計画へのスピリチュアルではない回答」を展開することより他にありません。水星の魔女プロローグには、確かにその萌芽ーーこれを我々の「Air」とし、本作ではその先を描くという意志ーーを感じました。にもかかわらず、第1話にしてすでに脚本と演出が空中分解しかかっているのは気になりますが、今後のストーリーには大いに期待しております。

 あと、エヴァの出撃シークエンスを意識したと思われる場面で、長方形の箱がキメキメのアングルでギュンギュン高速レール移動するのに思わず笑ってしまったんですけど、作画カロリーとかの関係でしょうがないんですかね、これ? エヴァと同じく直立のロボットを移動させるじゃダメだったんでしょうかねえ(リアリティライン?)。

第6話

 水星の魔女、第6話まで見る。いやー、いいですねえ! 人の魂が込められた機体からテレビ版第拾七話を彷彿とさせる終わり方まで、いよいよ予想通り「オレたちが作るポスト・エヴァンゲリオン」の様相を呈してきました。うっとおしいばかりに他者と関わろうする主人公も、「人たらしの碇シンジによる人類補完計画」というイフを思わせて楽しい。エヴァ旧劇の「地球と太陽なしには生きられない生命体から魂のみを抽出して、ロボット方舟に乗せて外宇宙へと送り出す」に対して、過酷な宇宙空間でも人が生きられるようにする義体のプロトタイプがエアリアルなんでしょうねー。そんで、主人公の妹の脳と脊髄がユニットの中枢におさめられてんの。でも、ウテナ感はもうどっかいっちゃったなー。

第12話

 水星の魔女、第12話を見る。タイムラインの沸騰ぶりを横目にしていたため期待値が高まりすぎたせいか、古参のガンダム下手としては、それほどの衝撃を受けることができませんでした。旧エヴァのフォロワーをにおわせつつも、ずっと作品のトーンが定まってこなかったのを百合展開で引き伸ばしていたのが、ようやくプロローグにおいて提示された世界観とチューニングが合ったなーという印象です。少年漫画やジュブナイル作品における御法度であるところの殺人行為へと主人公を踏み切らせた理由が、その場しのぎ的な二期へのクリフハンガーではなく、戦時下の現代社会における重要なテーマとして昇華されることを強く願っています。

 水星の魔女12話の顛末を、あれから脳内で反芻している。古くからの少年漫画読みーーあるいはネット抜きの平和教育に洗脳された一時期を持つ者ーーにとって、人を殺すという行為は「主人公の資格を不可逆に剥奪される刻印」に他なりません。最も人を殺してそうな少年漫画誌の主人公ナンバー1である範馬刃牙でさえ、30年を越える連載期間を経ていながら、いまだに殺人童貞なのですから! 「絶対悪である殺人と、その因果応報」を色濃くまとった作品にブレイキング・バッドベター・コール・ソウルがありますが、あちらの命を奪うことへ幾重にも積まれた葛藤と必罰の陰影レイヤーに比べると、こちらは母子の関係性へのみ因果が収束する非常に明るくあっけらかんとした描き方に見えます。さらに、殺される側を「フルヘルメットで顔を覆った、名前のないテロリスト」として描いているのも、彼の家族の方向へは物語を敷衍しないという宣言であり、今後は「恋人サイドの受容」と「母の呪縛からの脱却」にのみ焦点が当てられるのでしょう。

 ふと思い出しましたけど、ククルス・ドアンの島でもアムロが逃げまどう敵兵をガンダムで踏みつぶしていて、「生身の人間をロボットで殺害すること」が当シリーズに脈々と引き継がれる主人公の条件だとするなら、この件について私の言えることはもう何もありません。ツイッターで見かけた「作画が間に合っていないための総集編」や「最終話における有名アニメーター総力戦」などの様子からうかがえば、ストーリーの結末までをあらかじめ見通した作劇が行われているのか、少し懐疑的になっても仕方のないところでしょう。第1話の感想を読んでもらえばわかりますが、本編の演出とストーリー展開を他作品に比べてなみはずれて秀逸だと感じたことはなく、SNSの盛り上がりも「キャラを好きになった人たちが、作品をさらに称揚したいがための、実態を大きく越えた過剰な深読み」だと感じることがとても多かったです。物語の自走性よりも、この時代に特有の「2期まで視聴者を引っ張るため、ツイッターでバズらせておきたい」という制作側の意図が強く前面に出ている気がして、これまで愛してきたキャラと作品が壊されたように感じている方々の意見は、とてもよく理解できます。

 なんかSNSで作品の身の丈を越えた感想が飛び交う状況って経験したことあるなー、なんだったかなーと考えていたら、タコピーの原罪だった。

第13話

 水星の魔女13話を見る。うーん、この温度感で日常パートを再開するには、12話のラストをギンギンに冷やしすぎましたねー。「当初は2クールまとめて放送するはずだったのに、作画スケジュールが破綻して前後半へ分割となり、本来的に不必要な行き過ぎたクリフハンガーを用意するハメになってしまった」ことが、今回のストーリー展開で明らかとなりました。ジュブナイルにおける殺人の意味については以前にお話ししたとおりで、本作の主人公にその資格を失わないプロットが仮にあるとすれば、「彼女の正体は小型化に成功したガンダム義体で、たとえば脳髄などの魂を宿すと思われる部位が搭乗機体に収められていて、義体側の思考と人格はAIによるエミュレーション」みたいなエヴァ初号機の逆パターンだったら、かろうじてSF作品としての受容はできるかなと感じています。「別の方法があったのかな」ぐらいの反省や「言われなくても」の一言で「人殺し」を許容できるのは、もっと偶発的な事故によるマイルドな描き方だった場合だけでしょう。意図的な殺人に伴う執拗きわまるスプラッタ表現は、提示された新たなストーリーラインからかけ離れた演出になっており、現段階では本作にとって取り返しのつかない瑕疵に見えます。そして、この印象が今後くつがえる気はしません。

カウンセリング「シンエヴァ・ファイナル呪詛」(2021/5/11~2022/8/22)

承前:カルテ「シンエヴァ・リカリング呪詛(2021.3.26~5.8)」

2021年5月11日

 noteで絶賛公開中のFF11雑記「ヴァナ・ディールの癒し」ですが、お気づきのことでしょう、あの名著「ターンエーの癒し」からタイトルをいただいています。適当にしゃべりますけど、エヴァ新劇は監督が新訳Zガンダムを見たことがきっかけでスタートした企画らしいので、もしかするとシンエヴァの展開はターンエーガンダムの影響下にあったんじゃないでしょうか。ハウス名作劇場を思わせるロボット物とは水油の牧歌的な前半と、ガンダムの旧作がまとめて「黒歴史」として語られる後半を思い出して、なんとなくそう感じました。

2021年5月12日

 ごめん、またシンエヴァの話になるけど、NHKの例のドキュメンタリーで気になっている監督の言葉があって、それは屋上でインタビュアーにポツリと漏らした「アニメを作るの苦手なんですよね」というものです。何を聞かれても「言わない」「教えない」人ですけど、それは自分の根本的な薄っぺらさを隠そうとする無意識の動きで、言葉として発されたものには劇中の人物の台詞を含めて、ギョッとするほど素直な加工されていないものが多いと感じています。「アニメを作るのが苦手」というのも、韜晦や照れ隠しではなく、その時点での正直な気分を吐露しているように聞こえました。おそらくシン・ゴジラの制作を通じて、これまでずっと抱えてきた棘のような違和感をはっきりと意識してしまったのでしょう。そして実写に寄せた「手法」だけを追求した結果、シンエヴァの肝心の「中身」がゲロを吐いた床を雑巾で掃除するのをキメキメのアングルで撮影するだけの要介護作品になったことは許せませんが、「アニメが苦手」なことを自覚した雰囲気だけは確実に伝わってきました。監督が現在とりくんでいる題材は「他所様の作品で」「ストーリーが決まっていて」「実写である」ことを考えれば、アニメ制作の何を苦手と言っているかが見えてきます。この中でも特に、実在の人間とモノに向けてカメラを回すことがもたらすワンダー、全く予期していなかった、しかし頭の中にあるものよりベターな素材が上がってくる興奮、過去のどこにもない、確実にオリジナルと呼べるものを進行形で作っている実感は、非常に蠱惑的だったのだろうと想像するのです(でも、シンエヴァのアフレコはほとんど別撮りだったみたいだし、人と人との芝居で生じる化学反応は嫌ってたのかな)。つまり、己の本質を「コピー人間」と自虐する人物の内側に芽生えた「オリジナルへの希求」がシン・ゴジラからシンエヴァ、そしてその後に来る作品たちに底流する見えざるテーマになっているのではないでしょうか。監督は、ハプニングの生じにくい自家撞着の極みであるアニメ制作で、完成品を見てもすべて過去のどの作品が出典なのか自分にはわかってしまうことを「閉塞感」と表現していたのかもしれません。逆に「オタクの王様」はすべての元ネタがわかることへ強い喜びを感じていて、これがクリエイターと批評家を分ける決定的な差なのだろうなと思いました。おそらく監督にとって実写とは「リソースを伴わない無限個(に思える)の試行」を許してくれる遊び場であり、アニメ制作の「つどリソースを消費する有限個の試行」に戻ったとき、ひどい窮屈さを感じたのではないでしょうか。それが第三村を含めた前半部の奇矯な手法を生み出してしまい、基本的に自分のカネ(パチンコ)を使っているのと、ジブリの鈴木翁のようなプロデューサーがいないため、だれも費用対効果を言えないまま、無尽蔵の浪費が放置(9ヶ月かけた制作物を「頑張りが足りない」の一言でご破産にする)された。そして、その試みはカネだけでなく時間をも空費してしまい、「神殺し(イコール実写の手法)がもたらした神様のいないDパート」、すなわち独裁者による制作マネジメントの大失敗を、あの偉大なるエヴァのメタフィクショナルな結論として、永久にフィルムへ熱転写するはめになってしまった。

 また何を勝手な憶測を繰り広げているのかと呆れておられるのでしょうが、大切な人を凄惨なやり方で殺された遺族が、「目には目を」の復讐ではない、法に則った手続きを踏もうとするならば、これは必ず通る被告の心理と動機を理解しようとする許しへのプロセスに他なりません。エヴァを壊された事実は消えませんが、どうにかそれを受け止めることができないか苦闘しているのです。いつまでも終わらない私のシンエヴァへ向けたテキストは、平穏な人生に突如として訪れた極大の不幸への受認へ向けた日々の軌跡なのだととらえ、いま少し暖かい目で見守っていただければ幸いです。

2021年5月13日

 それにしても、シンエヴァの前半もアホみたいな農村で時間を使うくらいなら、これくらい性的な願望充足モノとして、シンジと女性陣の四角関係だか五角関係だかを描くでよかったんじゃないですかね。後半は後半で、月にいる実体の無い神様をカヲル君に受肉(悪魔将軍!)させて、シンジが泣きながら初号機でブッ倒すとかでも、あんなクソミソのラストを見せられるよりは、ぜんぜんマシな気分で帰れたと思います。

 著名な漫画家が「中学生ぶりに『男の戦い』を見たら、記憶よりもすごかった」とツイートしてるのが流れてきてて、おそらくシンエヴァへの失望を遠回しに表明していると思うんですけど、美化されがちな、しかも作り手の記憶よりもすごいって、すごくないですか(貧困なる語彙力)。2度目の完結から25年をふりかえれば、エヴァって「男の戦い」がすべてでしたね。多くのファンが期待していたのは、シンジが初号機で人類を救う「男の戦い」を再び戦うことだったと思います。

質問:違ったら申し訳ないですが、自家撞着を一般的な意味(自己矛盾)とは別の用法で使ってませんか。

回答:フッ、そこに気づくとはさすがアオイね。たしかに、この文章では「自家撞着」を「自家中毒」の意味で使ってるわ。アタシが「王道」って言葉を使うとすぐに「御用だ誤用だ!」とスッとんでくるトッツァンがいるんだけど、それと同じでnWo語というか、栗本薫語なのよ。「自家中毒」より「自家撞着」のほうが言葉として摩耗してないし、何より響きがカッコいいじゃない? だから、「ハプニングの生じにくい」という形容で補助して、文脈でなんとなく「自家中毒」の意味で読ませるという高度なテクを使ったまでのことで、けっして誤用なんかじゃないのよ? なによ、その目は! ほんとなんだから! あら、アナタのサムネイル、どこか見覚えがあるわね? まさか、まえにアタシのことを老害よばわりしたりしてないわよね?

2021年5月15日

 例の声明に「すわ、成就か!」と色めきたつも、海外のドぎつい「ラースと、その彼女」(婉曲表現)たちが副監督のひとりにネチネチからんでいただけで、ガックリする(まあでも、はやめに読んどいたほうがいいよ)。海外のエヴァファンって、本当にキャラの話しかしませんね(Be careful, 
@evansjellylion! They are watching you!)。

 んで、炎上したインタビューに興味が出てきて、アマゾンでサクッと掲載誌を購入しようとしたら、早くも転売価格になってて倍ぐらいの値がついてんの。「ほんと、アマゾンは使いにくくなったなー」なんてひとりごち(笑)ながら、近所の本屋……は軒並み潰れたので、幹線道路沿いの大型書店へと愛車の軽トラを疾駆(sick)させるのであった。そしたらフツーに売ってて、「やはり転売ヤーは滅ぼすべき人類悪」などとひとりごち(笑)ながらレジに持ってこうとすんだけど、その、表紙の絵がすごくアレなんです。ボデーの曲線を際立たせるピッチリスーツを着た3人が、女の子座りでこっち見て微笑んでるっていう、フーゾクの呼びこみみたいなイラストなんです。おまけにレジが女性店員だったものだから、表紙を胸元へ隠すように店内をウロウロしながら、「ここはスポーツ誌と経済誌でサンドイッチして購入するべきか? いやいや、それ、転売価格で買ったほうが安くなるやつですやん!」などと自問自答による逡巡を繰り返すハメになったのです(思春期かよ!)。最後には、「えい!」と叫んでそのフーゾク誌を裏向けにレジへと叩きつけてやりましたが、マスクをしていなければ動揺を隠しきれた自信はありません。「ありがとうございましたー」の声を背に受けながら、マスクの下に上気した頬で、「実店舗での購入にはこのはずかしめがあるの、20年くらい忘れてたなー」と、なつかしくも情けない気持ちになりました。

 さて、長すぎる前置きでしたが、件の炎上インタビューに目を通したところ、アスカとケンスケの関係を老夫婦として演出をつけたという話でしかなく、「ラースと、その彼女」たちは本当にめんどくさいなーと思いました。しかしこれは、いっさいコミュニケーションしようとしない監督の意図を副監督が勝手に想像しただけの話で、海外ファンのひとり相撲と言えましょう。もっと深刻なのは、監督がMIYAMOOの演技につけたぶつかり稽古、ブンダー直下でケンスケにカメラを向けられる場面を「ラブシーン」のように演じてほしいという発言です。はい、言質いただきました、これで監督が例の裏ビデオを見ていたことが確定しました。アスカファン(LAS)のみなさん、安心してください。これは劇中のキャラクター同士に向けた演出意図ではありません。リアリティで別の男に想い人を奪われてしまった古傷に指をつっこむことで、エヌ・ティ・アール的ライブ感をフィルムへ熱転写しようとしたのでしょう。いやー、シンエヴァを私小説にしたことは絶対に許さないけど、己の人生に生じたあらゆる感情を克明にフィルムへと刻みこもうとする執念は、ホントすごいわ。

 他の関係者のインタビューを読んでも、「まぶたの線の位置」を1ミリだか1センチだか修正させたり、それが作品のクオリティを高めるはずだと信じる偏執狂(編集狂?)的な介入の足跡を、そこここに見ることができます。どのインタビュイーも必ず監督のことに言及してて、まさにエンペラーとでも形容しましょうか、現場での影響力の大きさをうかがわせました。エヴァだからできた贅沢な作り方ーー「他の作品だったら10本は作れるデザイン量ですよ」ーーみたいな表現も散見され、「100の制作物を出させてから1だけを採用し、その1に自分のハンコを押す」やり方が徹底的に貫かれていることがわかります。シン・ゴジラの全記録全集で盟友のひとりが「本当にすごいし真似できないとは思うけど、同時にああなったらおしまいだなとも思う」みたいな発言をしていたことを思い出しました。つまり、己の主観による判断が絶対であり、それは裏を返せば、対立する別の主観は間違っているということになります。「両雄ならび立たず」の言葉通り、同じ力量を持ちながら常に意見をねじふせられた結果、だれかとの「友情にヒビが入って」しまったことは、想像に難くありません。

 そして、かつてはシナリオについてもこの手法(他人の100から1を拝借)が取られていたのに、エヴァQ以降ーーまだ3作しかありませんがーーは「自分で100を作って、ぜんぶ使う(書き直しはある)」ようになってしまいました。突然の路線変更から、シナリオをすべてひとりで書かなくてはならなくなった結果、エヴァQが大失敗に終わったことは記憶に新しい(さほど新しくもない)ですが、そのリベンジをシン・ゴジラで果たしてしまったのは、エヴァにとっては大問題でした。この作品が多方面からの激賞を集めてしまったせいで、おじいさんは「ホッとして」しまい、自分に脚本の才能があると勘違いしてしまったのです(うーん、「大きなカブ」は副読本として最適ですね! ゴツゴツしたカブもするする飲みこめちゃう)。「個々人の感情に焦点を当てない、綿密な現実の取材に元づく群像劇」が見事に監督の特性にハマッたことがシン・ゴジラ成功の理由であり、「人間ドラマに興味がなく、素(ス)の語彙選択がおかしい」という欠点は手つかずで放置されました。なので、「依拠する現実が存在せず、各キャラの感情に焦点が必要である」物語をもういちど語らねばならなくなったとき、再び盛大に破綻してしまったのです。つまり、シン・ゴジラの成功が「エヴァQは失敗ではなかった」という依怙地なまでの思い込みを補強したことで、オプションとして存在していたはずのエヴァQ世界の放棄に踏み切ることができないまま、2時間を迷走したあげく、最後に完成だけを目途とした自己模倣へと逃げこんでいくことになるのです。それは「この結末しかない」という強い意志による決定ではなく、時間に追われてどうしようもなくなってEOEを引っ張り出したようにしか見えず、エヴァという稀代のSF作品にとって最悪の選択がなされてしまったと、公開以来ずっと思っています。初回を視聴したときの加工の無い感情は、「もうそれ、20年前にやったじゃん! 同じことやるためにわざわざリブートして、15年近くも時間かけたの!」でしたもの!

 あと、このフーゾク誌にはスタッフだけでなく声優のインタビューも多く収録されているのですが、もっとも話を聞きたいマリ、冬月、ゲンドウ、カヲルの分は掲載されていませんでした。でもなぜかキャラ紹介だけは用意してあって、トビラのしらこい(関西弁で「白々しい」の意)アオリ文もふくめて、「情報統制きいてんなー」という感想を持ちました。

2021年5月16日

 あ、ども。ピンク色のロボットから海岸近くの海に膝を抱えて飛び込んで、浅瀬なのにメッチャ潜行してから浮上して、長髪を獅子舞みたいスローモーションでバッと水切り(足の立つ深さじゃん!)する女の、ビールのCMみたいな光景がトラウマになってるところの、小鳥猊下です。

 シンエヴァ視聴後、私が深く後悔していて、心から謝りたいと思っているのは、テレビ版と旧劇に関わったかつてのスタッフたちに対する自分の態度です。これまで折に触れて、かつてのスタッフたちが「あの設定は私が作った」とか「あの台詞は私が書いた」とか発言してるのを見かけるたび、「ハア? エヴァの骨格を作ったのは監督だろ? 小指の先の肉付けみたいな話で、ブランドの威光にタダ乗りする後出しジャンケンしてんじゃねえよ!」などとモニターの前で、まさに狂信者としか形容できない反応をしていたことを告白します。しかしながら、シンエヴァを経て、「小指の先の肉付け」をしていたのは監督のほうだったことが、痛いほどにわかりました。

 昔、どこだったかは忘れましたけど、監督が「ラブ&ポップ」映画化の許諾をもらいに行ったときの様子を村上龍がインタビューで語っているのを読んだことがあって、「ふつう、作品使用の許可をもらいに来る人は、どれだけ思い入れがあるかを滔々と語るんだけど、そういうのがまったく無かった。ロケはこんなふうに考えていて、ハンディカムを使うので費用はこうでとか、淡々と撮影の話しかしない」みたいな内容だったと記憶しています(このインタビュー、旧劇の直後なので20年くらい前のものだと思うんですけど、どこかに収録されてませんかね?)。当時これを読んで、愚かな私は「すげえ、カッケえ!」などと感動してましたけど、シンエヴァを見終えた現在から振り返れば、この頃から監督の本質は1ミリも変わっていないことがわかります。村上龍はその態度に感心して、できあがった作品を気に入ったようでしたが、興味関心のある「手法」の実現こそが優先されるべき第一で、表現される「中身」は常に二の次なのです。「思い入れは?」「ない!」「伝えたいことは?」「ない!」人が、ひとりで脚本を書いたらアカンのとちゃいますか? なぜ、元ファンの若手スタッフたちや旧エヴァを作った功労者たちに、せめてストーリーだけでも任せなかったのか、それが悔やまれてなりません。

 ともあれ、私が好きだったエヴァンゲリオンは、今回スタッフロールに名前の無い、貴方たちが作り上げたものだったのです。これまでの軽視と非礼に対して、謝罪させていただきます。本当に、申し訳ありませんでした。そして、エヴァという素晴らしいSFを生んでくれたことに、あらためて感謝いたします。

2021年5月23日

 シンエヴァ、例の声明が出てからネットの動向を観察してる。わざと固有名詞を出した強い言葉で罵倒ツイートを連発して中2病的にイキッてみたり、公開時に人物攻撃や批判の記事を書いたきり忘れてたのに言論封殺されていないことを示すために単発のマイナス言及をしたり、ささやかな抵抗を示している方々もいるにはいるようです。けれど大勢は「こら、もうさわらんほうがええな。さわらぬカミにたたりなしや」という感じであり、最初からシンエヴァという作品自体が存在しなかったようにふるまっています(これがもっとも「賢い」やり方でしょう)。そして私はと言えば、当該のツリーに並んだ「信じられない」「ひどいです」「がんばって」「負けないで」「応援してます」等の言葉の群れを半ば呆然と眺めながら、胸中にわきあがるオーウェルのごときディストピア感ーー狂っているのは自分の頭ではないかーーにさいなまれつつ、現在の「清潔なインターネット」において例の声明が殺虫剤か殺鼠剤を噴霧するような劇的効果を発揮したことを、ジワジワと実感させられているところです。好きだった作品のひどい完結編ばかりでなく、意に染まぬ反応をするファンをやっかいなハエかネズミのように追いはらい、「だれも触れない」という意味でのケガレをまとわされた末の実存的消滅を眼前に見せられて、いまや私の心の一部は永久に停止したようになっています。この苦しみはもうだれとも共有されないのだ、いや、初めからこの気持ちはどこにも存在しなかったのだと感じるとき、脳の血流が弱まって視界を暗い闇が覆ったようになります。そして、心も死ぬことがあるのだなと無感動に受け止める自分を、別の自我が離人症のように斜め上から見下ろしているのです。たぶん、客観的に己の状態を分析すれば、「深く傷ついている」と言えるのかもしれません。こんなにもひどい仕打ちが人生に起こることがあるなんて、想像もしていませんでした。

 ……などと、深い孤立感から鬱っぽくなっていたところ、「はてブ!コメント全レス祭り」にはてなの長老みたいな人物から「最高でした!」 と投げ銭されてるのを発見しました。とたん、鬱気は吹きとんでテンションはアゲアゲになり、ジュリアナ東京のお立ち台でタワシを見せながら扇子を振るアーパー女子のマインドセットへと強制的に切り替わりました。オレはアーティファクト「純粋少女」を召喚、攻撃表示でターン終了するゼ! いやー、もう感謝の一言しかありません。フォロワー3ケタのアカウントなんて、公式のサービスからもガン無視ーー悪いなゲイ太、このスペースは600人用なんだーーされてるネット泡沫で、いくらキメキメのツイートを連発してるように見えようとも、座敷牢の壁に向かって正座してブツブツつぶやいている以上の実感なんて得られませんからね! もっと小鳥猊下をフォローして、愛を表明して、課金していいのよ! ウマ娘と違って見返りのある、生きたカネの使い途だからね! もちろん萌え画像の寄贈も、オジサン大歓迎しちゃうナ!

 あと、村長以外にも実名アカウントぽい方から「:呪」に課金があったことにいまさら気づきました(集金まわりのユー・アイがわかりにくいのは、裏の意図を感じさせて最悪ですね)。添付されたメッセージの内容は「初見の時に同じ思いで見てました。ありがとうございます」というもので、気になってその人のアカウントを見に行ったら、「シン・エヴァンゲリオン、良かったよ」みたいなタイトルの短い記事が置いてあって、いろいろ察しました。あと、おキレイな同調圧力に満ちた本邦のインターネットはマジでクソだな、と思いました。

2021年6月6日

 FF11で3アカウント目の星唄を機嫌よく進めていたのに、ツイッターのトレンドに「シンジ」とあり、イヤな気分でクリックする。そしたら案の定、「6月6日は碇シンジの誕生日です。おめでとう!」みたいなツイートが並んでて、ゾッとしました。あのね、監督はキャラの誕生日を考えるのが面倒で、声優の誕生日をそのままアニメ誌に投げただけですよ。それがいつのまにか公式みたいな扱いになってしまったわけで、どのキャラがいつ生まれたかなんて、あのひと興味ないと思いますよ。もっとも、全キャラの命日が3月8日なことだけは公式に確定してしまいましたがね! 命日つながりで話をすると、第三村の墓参りのシーンを見て気づいたんですけど、あれぜんぶ土葬してますね。墓の形状もそうですし、文明の崩壊した世界で「遺体を骨になるまで焼く」なんて余剰に使える燃料はないでしょうから。え、あの世界では死んだらLCLになるんじゃないかって? そのへんの設定は(核心なのに)もうグチャグチャで、監督に聞いても答えは返ってこないと思いますよ。シンエヴァ、自称・現代アートの専門家が京都の千年家の大黒柱にノコギリ入れて外壁にペンキ塗ってベニヤ板で建て増しして、ついには家屋全体を傾けて住めなくしたようなもんですからね。そんなふうに、ドリフのコントで最後に倒壊するセットみたいにすべてのエヴァンゲリオンへさようならしたはずなのに、コラボ商品やキャラグッズ(しかも、破までの設定)の販売だけはますます盛んで、もう嫌悪感しかありません。公式ストアで「貴方にとってシンエヴァを漢字一文字で表すと?」みたいな企画やってますけど、アカウント持ってる人は「呪」って送っといて下さい。1位を取れたら痛快ですね! もっとも、公開後の広報の手口はほとんどノースコリアかビッグブラザーなので、確実に握りつぶされるでしょうけど! あと、ロボット2台と奥さんと昔の想い人が右上から出現するカットばかりの見にくい中盤の戦闘シーンですけど、落下の臨場感をリアルに表現させるために社費で若手スタッフをスカイダイビングへ行かせたそうですよ! Qでは数千万円かけてピアノの内部構造をCG化したり、死に金を使うことにかけては、まったく日本一ですね! 我々ロスジェネのドカチンがツメに火をともして貢いできたカネを、いったいなんだと思ってるんでしょうね! チクショウ、せっかくいい気分でしばらくはエヴァを忘れて過ごせていたのに、チクショウ!

2021年6月8日

 シンエヴァの広報、本当になりふり構わなくなってきましたね。旧劇のときはファンから何を聞かれても「もう終わった作品だから」とそっけなくつっぱねていたのが、今回は嫌がるファンの足下に「行かないで!」とすがりつく感じで、みっともないったらありゃしない。「きれいなジャイアン」なるネットミームがありますが、今回の顛末を例えるなら「きたないエヴァンゲリオン」ですね。たぶん、最後のアニメ作品で興収100億を達成したいという思いがムクムクと頭をもたげてきて、生来のパラノイド気質によりその執着から逃れられなくなってるんでしょう。作品への評価が割れてるものだから、数字で己の決断の正しさ立証しようと躍起になってて、まさに「ブザマね」の一言です。新たな特典の前日譚マンガにしても、本来ならふつうに携わるべきキャラデザの人はノータッチで、この人物との友情が壊れてしまったことを、改めて満天下に知らしめる結果となっています。あと、本編のカットを追加だか変更だかするとか言ってますけど、ミリ単位の画角の修正とかエフェクトの追加ばかりで、何が変わったかは絶対に気づけないでしょう。エヴァQの3.333をわざわざIMAXで見た私が言うんだから、間違いありません。そしてバージョン表記ですけど、「3.01+1.0」でも「3.01+1.01」でもなく「3.0+1.01」なの、きっとだれも理由を説明できないと思いますよ。Qの変節から、確実に存在した最初の定義は壊れてしまっているでしょうから! それにしても、同一の公開期間中なのに新バージョンを堂々と宣言してるけど、明らかに古いのを見た人が不利益を被る変更なわけじゃない? これ、なんか民法とか商取引法とかに抵触しないの? こんなボッタクリ商法が今後もまかり通ると困るから、法律に詳しいフォロワーはキチンと問題提起しといて!

2021年6月13日

 うん? シンエヴァの3.0+1.01は見ましたかって? まあ、その話はまた後日。短く言えば、1,800円で公式の薄い本を買った感じかな。

2021年6月14日

 エヴァQの初回を見た因縁の映画館で、シンエヴァ3.0+1.01を見る。狭いハコへ特典目当ての客がスシ詰めになっており、感染症への配慮は絶無でした。気づいた変更点は、第三村の描写がほんの少し厚くーー静止画の「仕事」追加とアスカの腰のグラインドなどーーなっていたのと、補完計画に入る直前がちょっとだけ丁寧ーートウジ、ケンスケのモノクロ・バストアップ挿入などーーになっていたくらいでしょうか。もっとも、第三村の住人をどうフォローしようが結局は消滅させられるし、補完計画にしても肥溜めに突き落とされるか、つま先から入って肩までつかるかの違いでしかありません。「1,500円相当の同人誌をタダで配ってるから、実質は無料上映」みたいな言い逃れのためについてきた薄い冊子にしても、海外のドぎついキャラ萌え勢(ラースと、その彼女)への目配せだけで、空白の14年間に何があったのかは少しも語られていませんでした。

 あと変更点ではないですが、ゲンドウの「子どもは私への罰だと考えていた」というセリフの直後に、明らかにこれまでとキャラデザの違う、少しふっくらした子どもシンジ(一瞬、だれかわからないくらい)が出てきて、初回の視聴から違和感はあったんですけど、ずっと言語化できずにスルーしていました。今回ふと思いあたってゾッと背筋が寒くなったのは、このふっくらシンジを安野モヨ子が描いている可能性に気づいたからです。だとすれば、「子ども(がいること)は私への罰だと考えていた」というセリフの意味が反転し、監督自身の独白として読み直されてしまいます。意図を告げずに絵だけ描かせたのだとしたら、まさに作品のために私生活のすべてを捧げる悪魔の所業で、奥さんへ向けたこれほど残酷な仕打ちはありません。

 また、「オタクの王様」が「マリ=安野モヨ子」であると指摘したことを、同社の広報が「間違った教科書」なる言葉で否定したと聞きました。すいません、もっとも大きい「風説の流布」の元凶を叩いたつもりでしょうけど、彼の話に関係なく、肯定派・否定派に関わらず、視聴した者の90%以上が独力でそのメッセージを受け取っているんですよ。見当違いもいいところです。あれだけシンエヴァを肯定的に語ってくれている人物を、たったひとつ意に染まぬ解釈があるだけで、自分で言うのでも命じるのでもなく、部下に忖度させて盤外で攻撃する。これこそが、業界内で不可触の「天皇」と化した監督の現在を余すところなく表しています。言うまでもないことですが、「だれかの感じること」に正しいも間違っているもありません。特定の個人にとって「都合の悪い」感情はあるかもしれませんが、それを否定しにかかるのは、全体主義国家の支配側の手口と何ら変わるところはありません。タイムラインに「倍速で映像作品を見る、オタクになりたい若者」みたいな記事が流れてきました。最近の若者たちは教条主義と言いますか、非常に素直に物事を吸収しますので、公式による特定の解釈の否定は、洗脳と同じレベルで危険だと感じます。そして、いまネットに広がっている「シンエヴァにまつわる不自由な言論空間」は、ファンではなく社長の方を見つめた不誠実な広報の結果であり、どこかで正式に糾弾されるべきだと思います。

2021年7月8日

 映画「トゥモロー・ウォー」感想(少しエヴァ呪)

2021年7月27日

 アニメ「トップをねらえ2!」感想(だいぶエヴァ呪)

2021年8月1日

 アニメ「スタートレック:ローワー・デッキ」感想(かなりエヴァ呪)

2021年8月14日

 「31分後にカヲル死亡」「1時間21分後にアスカ補完」みたいな、クソどうでもい小ネタを仕込んできた監督ですが、シンエヴァの上映時間2時間37分が何かと問われれば、「日本のいちばん長い日」のそれと合わせたいだけでした。神経症で強引に表層だけ符号させるの、作品に何の価値も加えてませんからね!

質問:なるほどと思わせてくれる指摘も多々あるのに、結局エヴァにどうなってほしかったのか見えてこなかった。ガンダムになってほしかったの?違うでしょ?エヴァは私小説でいいんだよ
回答:いまさら「はてブ!」への追加コメント。いや、書いてること読めてます? まあ、脳内の結論へと向けて読解する態度から自由な人間なんて、この世にはいないのかもしれません。「人間を嫌いになる」という営為は底無しで、絶対零度の存在しないマイナス温度みたいなものですね。

質問:ガンダムと富野監督好きな立場からすると、あの独特すぎるセリフと観客を置きっ放しで進行するストーリーを富野監督以外の人がおそらく本人以上に本物っぽく創り上げてる事に喝采を送っている、というのもハサウェイの高評価の一因かと思います。原作小説が世に出て四半世紀以上、ガンオタの脳内にしかなかった物を納得のいく形で補完、補強するなんて!某作品と対照的なのか、それとも似ているのかはよく分かりませんがヒロインのエロさがガンダム史上最高なので100点です。
回答:なるほど、よくわかりました。禿頭の御大って言葉は辛辣ながら、基本的に他者への信頼があると思うんです。自分が生きる百年を越えた先に視点があって、次世代の幸福と人類の未来を、たぶん本気で考えてる。ご指摘の某作品の人物は、もはや己の作家人生をどうクローズするかにしか視点が無い。以前も書きましたが、2人の姿勢の違いが子どもの有る無しにしか帰着しないとすれば、現実に対するフィクションの明確な敗北だと思うのです。それにつけても萌え画像の欲しさよ。

質問:アマプラで劇場以来見たのですけど、「アスカ好きだった」の後マリ出してきて「姫、お達者で」って俗悪すぎやしませんかね?何これキモすぎる
回答:「オマエはシングルマザーとして、オーストラリアで生きてゆけ」という意味なんですかね。部分部分の不快を指摘することは無限にできますけど、「東日本大震災で新劇の前提が曲がった 」ところまで戻らないと根本的に解消されないと思いました。

2021年8月21日

 映画「エイト・デイズ・ア・ウィーク」感想(またもエヴァ呪

2021年9月21日

 雑文「親ガチャ、魂の座」(しつこくエヴァ呪)

2021年11月25日

 ボンヤリとエゴサしていたら、アマゾンのシンエヴァ本レビューに『申し訳ないが小鳥猊下に感想を聞きたくなる「評論」』などと書かれているのを見つけ、のけぞる。あのさあ、そういうのいいから、本アカウントでフォローして、全発言をリツイートしてくれます?

 否定派の勝利条件である「全記録全集の発売阻止」を達成したばかりか、本丸である円盤リリースの遅延にさえ成功しており、これはもう敵方の無条件降伏を引き出したと言えよう。

2021年12月20日

 映画「マトリックス・リザレクションズ」感想

2022年1月18日

 スパイダーマンNWHの感想を読み返してて思ったんですけど、「アナキンを助けるべくオビワンがスターウォーズ1から4をループする話」って、面白くなりそうだから読んでみたいなあ。もしかして私が知らないだけで、海外のファンジンや公式のスピンオフとかですでに存在するんでしょうか。

 シンエヴァでは同じ世界を繰り返していることがゲンドウの独白で示唆されながら、肯定派と否定派のどちらも従来の「ループもの」としてとらえていないのは、「エヴァの搭乗が2周目のシンジ」ではなく、「エヴァの制作が2周目のヒデアキ」になってるからでしょうね。

2022年1月30日

 エヴァ旧劇について、赤い砂浜の話は何度もしてきたように思うが、他にもうひとつ、いつ思い出しても涙がにじむシーンがある。人類補完計画が進行するさなか、「甘き死よ、来れ」のイントロから歌詞へと入る直前、シンジが「ココにいてもいいの?」と問いかけるのに対して、「(無言)」のテロップが表示される展開がそれで、ここには決して逃れえない人なる孤独の本質が、骨と肉から皮膚をはぐようにして凝縮されている。恋人がいようが結婚しようが子どもができようが決して変質しない何か、互いに焦がれた末の心中にしてさえ、別々の死を同時に死ぬだけのことであり、このくだりは我々のだれもが一個の死をひとりで死ぬしかないことに、何度も気づかせてくれる。ヒリヒリするような剥き身の真理へと到達しながら、配偶者ごときでそこへ背を向けたシンエヴァのなまくらな退行を、どこまでも認めることができない。

 またぞろ、エヴァ旧劇のこれをなぜ思い出したかといえば、だれかの能力を自らのそれと錯誤する馴染みの妄想が、再び粉々に砕けたゆえである。この「(無言)」を繰り返しくりかえし忘却し続けることができるという一点の冷厳な事実のみにおいて、小鳥猊下なるは才覚どころではない理由において、未だに生き汚くインターネットから消えずにおられるのだったと、数年ぶりに思い出した。そしてまたすぐに、忘れてしまうのだろう。

2022年2月5日

 アニメ「地球外少年少女」感想

2022年2月17日

 ゲーム「ヘブン・バーンズ・レッド」感想

2022年3月8日

 雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

2022年4月3日

質問:質問というかエヴァ一周忌に寄せた自分語りで恐縮なのですが、公開後すぐに「エヴァ呪」を公開して頂いて本当にありがとうございました。ネット上では旧作からのファンを含めて絶賛がほとんどで、「こいつらはちゃんと旧作見たのか? それともこっちの頭がおかしいのか?」と自問自答する中で偶然にも猊下のnoteに辿り着き、私の力では言語化できずに消化できないでいたあれやこれやが全て指摘されていて、どれほど精神的に助かったか分かりません。今は「呪」を笑いながら読めるほどには回復しました。どうもありがとうございました。
回答:見落としてました。確かに、公開後の一週間くらいは監督の労をねぎらう肯定的な感想ばかりで、作品の内容に触れたものはほとんど無かったように思います。「最終回の雰囲気」に流される程度のファンが多いことへガックリすると同時に、かつては亜インテリや批評家の卵による大卒高偏差値のサロンだったエヴァが、パチンコ参入から大量に発生した中卒低偏差値の遊技場と化していることを実感したのです。新劇が旧劇の「知恵の獲得に由来する孤独の発生」からは遠い場所で、ヤンキーどもへ仲間と家族の大切さを説く作品になったのは、もしかすると緻密な市場調査の結果だったのかもしれませんね! もちろん、皮肉で言ってるんですけどね! あと、ベジタリアンであることを理由に監督のストイックさを語る方々がいるようですけど、食生活で人格がはかれるというなら、彼が大酒飲みのアルコール耽溺者であることもちゃんと付け加えてくださいね! 机上に置いてある器へ犬のように顔を近づけて、直に日本酒をすするような品性のね!

2022年8月22日

『あと、「イスカリオテのマリア」なんて最高にアタマの悪い単語を言わされて、これが声優としての最後の仕事になるかもしれないなんて、冬月の役者さん、かわいそう。』

ジブンら、清川親分の大往生にからめてシンエヴァを持ち上げようとすんの、死者に対する冒瀆やで。

質問:恐れながら、今日訃報に接し最初に浮かんだのが猊下のその一文でありました。過去にイスカリオテのマリアとか研究室で呼び合う教授と学生たちの風景を考えるとゾッとしますが、そんなものが結局答えとして残されたわけですから。
回答:いやー、この呼び名はねー、不死のオーバーロードである3人のゴルゴダ星人(ユイ、マリ、冬月)の間で「フッ……君は我々にとって裏切り者だが、人類にとっては救いの聖母というわけだ。彼らの宗教になぞらえて言うなら、さしずめ『イスカリオテのマリア』といったところか。ユイ君のようには不死を捨てず、人間を見守らんとするか」みたいな会話(サブイボ)が交わされてたと思うんですよねー。でも、恥をかきたくない星人であるカントクが、ファッション鬱の習い性で陳腐になりそうな箇所の情報をすべて伏せたせいで、意味不明な残骸だけが残っちゃってるんじゃないかなー。

カルテ「シンエヴァ・リカリング呪詛(2021.3.26~5.8)」

承前:ドキュメント「シンエヴァ・アディショナル呪詛(2021/3/6〜3/24)」

「旧劇なほもて成仏をとぐ、いはんや新劇をや」

2021年3月26日

 エヴァのテレビ本放送、後半戦に入ってからは本当に掛け値なしに人生の中心をそこに置いていたし、ほとんど過集中みたいに呼吸を止めるように見て、CMに入った瞬間、ホーッと息をつくことを思い出す感じだった。いまでもときどき思い出してイラッとするんだけど、緊迫の絶頂でAパートが終わった直後、男性のアナウンサーが「しんせーき、えばーん、げりおーん」みたいなマヌケな発音でタイトルを読み上げるフィギュアだったかプラモだったかのCMが、当時は心の底からゆるせなかったなー。「薄汚い商売人たちには、エヴァのすごさがわからないんだ!」とか、テレビの前でひとり親指の爪を噛みながら、静かに憤ってたなー。それがいまや、公式のコラボがあんな感じだもんなー(ANNA SUIのHPを見ながら)。隔世の感、あるなー。初号機色のやつなんか、店頭でタダでもらっても帰りに駅のゴミ箱につっこむ自信あるなー。エヴァ・ブランド、毀損されちゃったなー。

 ふと、天野大気さんのことを思い出す。あれからもう7年、夏には必ず旧劇を見返すって言ってたけど、いったいどんなふうにシンエヴァを見たのかな。きっと「乳の大きいホニャララ」って台詞には反応して、なんか描いただろうな。

 例のドキュメンタリーを見返してるけど、監督は「周囲に自慢できるトラウマが欲しかった、トラウマの無い人」だって感じがすごい伝わってくるなー。監督の戦争経験者への憧れも、「他の全員を黙らせることのできる逸話」としての魅力を感じているに過ぎないのではないでしょうか。監督は、父親が事故で足を欠損した話を持ちネタとして何度も何度も語りますが、それってわかりやすいがゆえに、だれも同情以外の反応を示すことができない、「思考停止を強要する悲劇」だからだという気がします。戦争経験者の件もそうですけど、真実に悲惨な過去を持つ人物って、あえて自分からそれを語ろうとはしないし、むしろ表向きはそこへ踏み込ませないために極めて社交的で明るいキャラクターを身にまとって、己の悲劇をだれにも明かさず墓まで持っていくようにふるまうと思うんですよね。「事故で足を失った父親」というのは監督にとって言葉は悪いですが、「周囲を恫喝して黙らせるのに有効なフィクション」として機能している気がします。希死念慮だけでなく生育史も含めて、「自分の人生をカッコよく見せる舞台装置」である薄っぺらさを隠そうとする仕草こそが監督の持つ魅力であり、同時に限界でもあるという気持ちが、シンエヴァの視聴を通じて私の感じた「正味」なのかもしれません。

2021年3月27日

 一同、礼ッ! 「アグリカルチャー綾波」の略称であるところの「アグ波」考案者、アズ・ノウン・アズ小鳥猊下であるッ!

 公開から3週間近く経ったみたいやけど、「:呪」の閲覧数は3万2千、スキが350ぐらいで、どうにも伸びなやんどるみたいやな。肌感覚やけど、だいぶ肯定派と中庸派に追い込まれとるようやで。おどれら、これが最後の祭りやねんど! まだまだ盛大に「:呪」を拡散して、イングリモングリやったらんかい! 大人アスカの破れたラテックス・スーツの隙間から手ェ突っ込んで、24年間のび放題のワキ毛ジャリジャリいわしたろかい、ワレェ!

  シンエヴァ、例のドキュメンタリーを通じて、秘密の仕事部屋に引きこもって、監督がひとりで最後まで脚本を書き上げてから、現場にどういう絵と演出にするかを丸投げしてることがわかったけど、無駄かつ無意味に制作が難航したことの最大の原因はこれですね。ぶっちゃけ、監督って人間に興味が無い上に日本語がヘタクソなので、脚本を書く人物としてはまったく不適だと思うわけです。監督の苦手分野をぜんぶひとりでやって、監督の得意分野についてはぜんぶ丸投げするって、自分とスタジオの強みをすべて消しにかかっているとしか思えません。シナリオは外注するか破のような合議制にして、監督が「ここの台詞とト書き、どんな映像を想定してるの?」と聞いて、ライターが「アイ・ハブ・ノー・アイデア。それを考えるのがアナタの仕事でしょ?」と冷たく突きはなす現場だったら、はるかに短い制作期間と高いクオリティで完成したと思いますよ。こないだも少し書きましたけど、監督は自分を周囲にどう見せたいかの戦略については常に意識的なのに、中身に関しては徹頭徹尾、他人の過去の事象からの借り物なわけです。その軽薄さが同時に魅力でもあるわけですが、黒澤明の「天気待ち」じゃないですけど、周囲の反応を見てるっていうか、狂気の監督としての自分を演出することが、意識のどこかにあるような気がします。今回、外部の撮影クルーを入れたのも、いよいよ還暦を迎えて、過去の映画監督が持つような破天荒の逸話を自分に紐づけたい気分が勝っただけではないでしょうか。 

2021年3月28日

 夜、寝床について、家族からも社会からも離れたひとつの個にもどるとき、消えたと思っていた呪いが枕元に立って、私を見下ろしているのに気づく。いまでこそ旧劇の信奉者である私だが、第26話「まごころを、君に」を受容するのに、どれだけの時間とエネルギーを要したことか。ふりかえれば、それは次のような段階を踏んでいる。

⒈ 戦わなかったシンジが許せない。
 なぜ、助けられるアスカを見殺しにしたのか。何のための翼持つ初号機だったのか。許せない。

⒉ 実写パートが入るのが許せない。
 なぜストーリーの本筋と関係の無い実写が入るのか。通勤のシーンに物語として何の必然性があるのか。許せない。

⒊ 実写パートの固有名詞が許せない。
 なぜサイエンス・フィクションなのに作中で文具店や監督の名前を出す必要があるのか。許せない。

⒋ 実写パートの親指男が許せない。
 なぜエヴァへの敬意を致命的に欠いたこの男が、作品へ永久に刻まれるのか。編集で消して欲しい。許せない。

⒌ シンジの得た悟りの内容が許せない。
 あれだけの超越体験を経たシンジが、最終局面に至って「これからも考え続ける」「当たり前のことに何度も気づくだけなんだ」みたいなクソ薄っぺらい話しかしない。許せない。

 でもね、彼岸の赤い砂浜で横にいるアスカを見たときのシンジの表情と、両の親指を血管に食いこませ、本気で殺そうとしているのがわかる首絞めに、最後はぜんぶ感情を持っていかれてしまう。私にとって物語の本質とはディスコミュニケーションであり、もっとも近しい人々にさえ、私の本当のところは決して伝わるまいという諦念が、いつまでもどこかにある。その冷たい場所へ、旧劇のラストシーンはずっと静かに寄り添ってくれていたのだ。シンエヴァはその静謐にズカズカと土足で踏み込んできて、すべて台無しにしてしまった。代わりに渡された紙片に書かれていたのは、すでに試した有効ではない処方箋。いちど語られた虚構は、それを受け取った人のものだと思う。生みの親にだって、だれかの心の中にある物語をまで壊す権利があるものか。私はただ、私の大事な場所を、そっとしておいて欲しかった。

2021年3月31日

 サイバーパンク2077、新しいパッチが来たのでプレイを再開。やっぱり、成熟した世界への処し方を求めるのなら、海外SF作品に当たるのが間違いありませんね。シン・ゴジラのときは、「この作品は本邦特有のもので、西洋の輩にはわかるまい!」と意気軒昂でしたが、シン・エヴァときたら「この作品は本邦特有のもので、西洋の輩にはわかるまい……」と意気消沈ですからね。あかん、またムカついてきた。前半のパートを奇矯な実写の手法でモッチャラクッチャラやって時間を空費して、後半のパートは「ここからは間に合わないので、普通に絵コンテを切ってやります」ってシャチョーそれ、どんなマネジメントですのん。そして出来上がった後半部分では、旧劇の自己模倣と昭和特撮の他者模倣がエンディングまでビッシリと敷き詰められ、エヴァンゲリオンの革新性をすべて覆い隠していくのです。監督、自分の作品を模倣することは、オマージュって言わないみたいですよ! 9年もあったらケトゥ族は映画シリーズのトリロジーとなんならシークエルまで完結させ、ゲームのAAAタイトルだったら世界を丸々2個ぐらいは創造してしまいますよ! 「血を流して作る」は御大から頂戴したカッコイイ座右の銘なのかもしれませんが、シン・エヴァでは血を流すことが自己目的化してたんじゃないですか! 寿命が200年くらいある想定で創作活動するの、ちょっとサイエンス・フィクション過ぎて、逆に面白い(否定しない漫才師のツッコミで)。

2021年4月1日

 ドキュンサーガの単行本を買う。あらためて紙面で読み直すと、いくつかのコマにハンターハンターからの影響を感じられ、作者は富樫先生のフォロワーに違いないと思う。それはすなわち、「虚構のキャラといえど一個の人格であり、それを作者が改変することは基本的にできない」という強い信念による作劇が為されているということである。すべての登場キャラクターに対して作り手の敬意を感じられることが、素直に嬉しい。シンエヴァとは比較にならぬ作品強度を持っており、シン肯定派こそドキュンサーガを読み、己の軽薄さについて恥じ入るべきではないでしょうか(宣伝)。私が同作で最も感情移入するのは、メンザだ。「神がどうとか頭をよぎること自体が致命的な低脳化の証明だ……!!」の台詞に前駆する嘔吐こそがサルトルのそれであり、東日本大震災に影響を受けたエヴァQに起因する、監督の個人的な自傷に過ぎないDSSチョーカーへの反射としての嘔吐とは決定的に質を違えた、人類普遍の苦しみである。「貴方は科学技術の進歩により、永久に生きられるようになりました。価格は100円です。どうしますか?」という不死をコモディティ化(笑)するSF的深淵をはらんだ問いへの回答を、シンエヴァとその監督ははたして持っているのでしょうか。ドキュンサーガは持っていますよ。

 シンエヴァのメッセージって考えるほどにヤバくて、ひいき目に言っても社会に対するバリアーに過ぎないものを、強いウェポンだと思ってふりまわしてる感じだよなー。ここ、突きつめていくとどんどんヤバくなっていくような気がするなー。

「なに、いつも孤独で満たされない気がする? それはもう結婚しかないな!」
「なに、結婚したのにまだ孤独で満たされない気がする? それはもう子育てしかないな!」
「なに、子育てが終わったのにまだ孤独で満たされない気がする? それはもうペットでも飼うしかないな!」
「なに、もうすでにペットは飼っているのにまだ孤独で満たされない気がする? それは選ぶ配偶者を間違えたせいだな!」
「なに、選ぶ配偶者は間違えていないと思うのにまだ孤独で満たされない気がする? それは子どもの育て方を間違えたせいだな!」
「なに、子どもは自分に似ず良い人間に育ったと思うのにまだ孤独で満たされない気がする? それは感謝が足りないせいだな!」
「なに、自分のような無能のロスジェネが生きていけることに日々感謝しかないのにまだ孤独で満たされない気がする? それは感謝を捧げるための具体的な対象が無いせいだな!」
「さあ、この不思議なツボに水を満たして、毎朝きれいな言葉だけをかけ続けるんだ!」
「(目を伏せて)お値段の下限は100万円からで、救われたいお気持ちをそこへ上乗せしていただければ。ただ、お聞きしたところ、相当に深い業をお持ちのようで、前世からの影響も疑ってみるべきではないかと。その場合、下限は500万円スタートになります」

 ……てな具合にどんどん退行していって、最後にはスピリチュアルな物品を売りつけられるんだろうなー。まえに「エヴァは原始宗教」って指摘したけど、まさか新興宗教だったとはなー、こんな教義には、1円たりとも支払いたくないなー。

2021年4月2日

 婉曲的に表現するところの「邦画キチガイ」、単行本も持ってて前から好きなんですけど、エヴァQ回を経た最新のシンエヴァ回にはビックリしました。作者はエヴァにあまり思い入れが無く、ただ今回の登場人物にフォーカスして、ネームを面白くしようとしただけだと信じたいです。しかし、もし旧エヴァからのファンでありながらシンエヴァを大傑作と評したのだとしたら、これまで数々の邦画へ向けられてきた愛に満ちたブラックなディスりが、すべて信頼のおけない眼差しで行われていたのではないかと疑わざるをえません。以前、エヴァ芸人の走りみたいなテキストで小銭を稼いでいた人物が、公開当日に絶賛を表明するという冗談みたいな話を紹介しました。過去に遡行してすべての著作の評価が反転するという意味で、シンエヴァはクリエイターを名乗る者たちにとって、作品そのものの持つなまくらさとは真逆の、じつに鋭利なモノサシとして機能していると言えるでしょう。

 僕の優雅な憂悶におし入って来たこの呪詛がそれからどこへ成仏したかというとーー実はまだインターネットにいるのです。

2021年4月3日

 「シンエヴァを見てから、”beautiful world”がゲンドウのことを歌っているようにしか聞こえない!」という悲鳴みたいな書き込みを見てドキッとして、あわててヘッドホンをつけて同曲を聞いてみたら、あれだけ正しいシンジのキャラソンだったのに、もうゲンドウのテーマにしか聞こえなくなっていた。これにはもうアッタマきてヘッドホンを床に叩きつけて、「すげーわ、シンエヴァ、旧劇ばかりでなく、新劇で新たに好きになったものまで、ぜんぶ、ぜえんぶブチ壊していくわ!」と夜中に絶叫せざるを得ませんでした(部屋に駆け込んでくる家人)。あのさあ監督、序の所信表明で自分が宣言したこと、覚えてます? 「中高生」の「ファン」に向けた「エンターテイメント映像」を「サービス」するって言ってましたよねえ! すいません、少しだけ、ほんの少しだけ想像してみてほしいんですけど、貴方がウルトラマンに向ける深い敬意と同じように、エヴァンゲリオンに深い敬意を捧げてきたファンがたくさんいるんですよ。再撮影による延期が取りざたされているシン・ウルトラマンに、スーツアクターが怪獣の着ぐるみの上半身だけを脱いで、煙草を吸いながら他の役者と世間話をしているシーンを入れますか。入れないでしょう。その「入れない」判断をするとき、貴方の心に生じた感情と同じものを、ファンたちもエヴァンゲリオンに向けていたんですよ。まったく、貴方のエヴァファンへの仕打ちは、まるで愛人にカネをせびるジゴロみたいですね。いつ帰ってきてもいいように、温かい風呂と食事を用意して待っているのに、カネが必要なときだけ戻ってきたと思ったら、感謝の言葉もあらばこそ、カネの入った封筒だけを奪い取って、寛一お宮ばりの蹴手繰りをかまして出ていってしまう。オメコのひとつ(勝利のメイク・ラブだ!)ぐらいあっても、バチは当たらないんじゃないですか! 旧劇のときは、私たちファンとの関係には、例えば哭きの竜とヤクザの元愛人みたいな、ヒリヒリするような緊張感がありました。でも、シンエヴァときたら、はるか昔の唯一のヒット曲を勝手に編曲したあげくーーしかも、作詞家と作曲家の意向を無視して!ーー調子っぱずれにがなる腹の出たドサ回りの演歌歌手みたいで、私たちファンとの間にはもう惰性の関係しか残っていません。ある批評家が視聴中に「他のだれが何と言おうと、絶対に俺はこれを擁護すると決めた」なんて思考を許されてしまうぐらい弛緩して弱りきった、観客を殺すどころか皮ひとつ傷つけられない貴方の姿なんて、見たくはなかった。何度でも言いますけど、エヴァQの路線変更で貴方の元を離れた人たちのところへ直接に出向いて、平に頭を下げてスタジオに戻ってもらって、エヴァ破の続きをプロダクトして作ることが、本当の「落とし前」だったんですよ。シンエヴァは「過ちを認めること」と「頭を下げること」をどうしてもしたくないあまり、心の深い部分にあったかもしれない後悔まで己を洗脳するように塗り潰した上で、「特撮が大好きな自分」と「結婚して変化した自分」を語るだけの、新興宗教のしょうもない自費出版にエヴァを「堕とした」んですよ。アタシ、貴方のこと、もう待てない!(ちゃぶ台に湯気のたつ味噌汁を残したまま、エプロン姿の裸足で四畳半から外へ駆け出していく)

 そっかー、シン・仮面ライダーかー。エヴァなんていうファンがめんどくさい自社IPを維持するより、他社IPに乗っかって、正常位で一回ファックしては去っていく方が監督も気が楽だもんねー。シン・ナウシカ、シン・ヤマトときて、禿頭の御大が旅立たれるのを待ってからシン・ガンダムを作って、宣言どおり70歳で引退したら、昭和オタクの人生としては文字通り完璧なアガリだなー。エヴァ、本当に心の底からいらなくなったから、適当に終わらせられちゃったんだなー。悲しいなー。

2021年4月4日

 フォッ、フォッ、フォッ、はぁ(ため息)。ひと晩たっても、まだ悲しい。親に捨てられただけでなく、世界から存在を消されたあの少年のことばかり考えてる。決めた、もうグレンラガンの螺巌篇がシン・エヴァンゲリオンだったことにしよう。

2021年4月9日

 海外から「:呪」に感想が来たところの(関係代名詞)グローバル猊下であるッ! しかもエゲツないレイ派からだ! いよいよnWoも初バズと炎上を経て、海外展開をも視野に入れねばならぬようだな! よし、真希波マリばりの流暢な英語(アスカのドイツ語よりはマシの意)で、ケトゥ族からのご質問にお答えしようではないか!

Question: Hi, I read your blog with great interest. Specifically, I agree that Shin Eva is an overtly self-indulgent work. But isn’t one important thing left out? Of course, Shin Eva is a failure as a Science Fiction work. It has no realism, so what drives the “story” forward? I would like you to consider what changed from 1995 TV and 1997 End of Evangelion. Also that Tsurumaki Kazuya, and Hideaki Anno, are Asuka fans. Big Asuka fans!  They also don’t like Rei. So Asuka gets a more powerful body, and Rei gets a weaker one. Doesn’t this adequately explain the drive behind the movie?

Answer: Thank you for reading such a long article. Did you see Shin-Eva in the theater? I am basically not interested in the question of “who is the true heroine of Evangelion?”. In Japan, the terms “LAS” and “LRS” have long been used to refer to the Asuka faction and the Rei faction respectively, but in my opinion, this is not the essential issue of Evangelion. If Anno and Tsurumaki seem to be favoring Asuka, it is because she is an “easy-to-make-act” character for the directors. Rei, who has no emotions, loses her meaning as a character when she acquires emotions, and there is nothing more to say about her. Even in Shin-Eva, the moment she acquired emotions was when she had to leave the story. Asuka’s underlying character is Nadia, from “Nadia, The Secret of Blue Water” in 1990.(The battle in Paris at the beginning of the movie and the relationship between Asuka and Kensuke, which seems so sudden, is also a rehash of Nadia. The final battle of the Nautilus took place over Paris, and Nadia married Jean, who has a similar face to Kensuke.) And EOE shows that the director’s love affair for Asuka’s voice actor deepened(berserk!) when he reprised a character that was familiar to him. You asked about the difference between the TV version and EOE, but to be more precise, it is the difference between the TV version up to episode 19 and the TV version after episode 20. Up until episode 19, it was a radical science fiction work, but after episode 20, it gradually turned into Anno’s personal novel. The structure of EOE was divided into the first half as a science fiction and the second half as a personal novel. I had expected that Shin-Eva would replace that order. In other words, in the first half of the film, Anno will finish his personal novel, and in the second half, the young talents of Xapa will vividly revive the Eva that died in Q as a radical science fiction work again. It’s quite a shame that if this had been done, it would have impressed the audience with the generational change and at the same time increased the value of Anno’s company. In the end, it became clear that Xapa was the empty palace just for a dictator and his cronies who were scared of his moods, and not the “Mount Liang” of the animation studios like Gainax. If I were an investor, I wouldn’t want to buy Xapa’s stock after watching Shin-Eva. It’s clear that they have absolutely no future!

 別言語で呪いを外して考えたらわかったけど、シンエヴァってまんまナディアでしたね。ケンスケはジャンだし、「アスカはアスカだよ」は「ナディアはナディアだよ」をそのまま引き写しただけ。まあ、それに気づいたところで、シンエヴァが自己模倣のカタマリであることの再確認にしかなりませんけど。

 あと、「初めてのルーブルは、なんてことはなかったわ」ってあれ、ゲンドウの台詞ですね。人類の至宝たちを前にこの感想だから、平気で何億人も殺して文明を崩壊させることができたんですよ。サイファイ史上もっともチープな人類を滅ぼす理由と、「小人閑居して不善(massacre)を為す」の典型例にめまいがします。この貧困なる精神の土壌となった京都大学は、ただちに廃校にすべきでは?(山岡士郎が「悪い官僚ばかり輩出するから東京大学を潰すべき」と主張するときの顔で)

 え、ゲド戦記やってんの? あれはシンエヴァを擁護したくなるレベルの粗大ゴミで、「世襲のクリエイター」というアタオカ命題を全世界へ向けて提起してしまった、政府レベルでの対応が求められる本邦最大の恥さらし。よく生きてられるなあと、その図太さには感心しきり。

2021年4月11日

 最近はみなさん、冬月について語るのがホットみたいなので、乗っかっておきますね。Q以降の新劇における冬月ですけど、ゲンドウの計画へ加担する動機がまったく存在せず、意味不明のキャラになってしまいました。旧劇ではユイの胸元をチラ見するようなカットがあって、補完時の描写でもユイが迎えに来ており、教え子への横恋慕とゲンドウへの申し訳なさーーたぶん、結婚後に1回寝てるーーが動機と考えられますが、Q以降はゲンドウについていく理由がどこをひっくりかえしても、本当に何ひとつ見当たりません。勝手に行間を読んでホモセクシャルな関係を見出す剛(腐)の者もいるようですが、作品内に描写が無いので妄想の範囲にとどまる話でしょう。まあ、最大限に好意的に譲歩すれば、監督の頭の中では冬月、ユイ、マリはゴルゴダ・オブジェクトからやって来た第一始祖民族(吉田寮に潜伏してたのかも。やっぱり、京都大学は廃校にすべきでは?)で、2001年宇宙の旅でいうところの「月のモノリス」とか、スタートレックでいうところの「史上初のワープ航法」とか、人類のブレイクスルーを見守る不死のオーバーロードとして描きたかったんでしょう。もっとも、第三村パートに時間を取られすぎてまったく描けてないんですが、「イスカリオテの~」とか「人類の科学技術はここまで~」とかにそのむなしい試みの残骸を見ることができます。以前、テレビ放映のときにも指摘しましたけど、破の段階では明らかに冬月をゲンドウの上位者として描こうとしていて、Qが次回予告の通りに展開していたのなら、シンジの目の前で冬月がゲンドウを射殺するなどし、それが物語を新たな局面へと駆動する要素になっていったことでしょう。旧劇は普遍的な孤独の話だったのに、シンエヴァは個人的な失敗の話に過ぎず、このクラクラするような落差、物語のスケールダウンでもっとも割を食ったキャラクターが、冬月コウゾウという男なのです(和傘の裏から糸目で振り返りながら)。

 いつまで終わったものの話をしてんだって感じですが、「暴走」の概念が陳腐化したのも新劇のダメなところだと思うんです。エヴァの中に取り込まれた「母なるもの」の制御できない獣性がテレビシリーズのそれで、実戦においては初号機だけが持つスペシャルであり、初号機が他のエヴァとは違うことを強烈に裏書きしていました。そして旧劇場版での「暴走」は、母親と和解して電源を失った弐号機において、本来は起こるはずのない事象であり、高いプライドの持ち主が悲惨な凌辱を受けたことによる負の感情の発露、いわば人の「呪い」によって顕現したそれは、観客を圧倒する強いドラマツルギーを生み出していました。それが新劇ではパイロットの意志でスイッチを入れることができ、機体のリミッターを外すだけの「機能」へと矮小化されてしまいました。まあ、「暴走」については破の段階から扱いに疑問を感じていましたので、予告通りにQ以降が作られていたとしても、文句を言っていたかもしれません。

 あと数理系のバリキャリと思われる女性が、商学部の学生をおもしろおかしくからかったり、「文学部シン・エヴァンゲリオン学科」とかツイートしてるのを見て、ド文系の自分は大学から離れて久しいのに、ひどく肩身の狭い、つらい気持ちになりました。じっさい文学部での学びと成果なんて、シンエヴァ語りと似たようなもんですからね(暴言)!

 そうか、ここから来たのか……

 個人的な印象ですけど、海外のエヴァファンってキャラ萌えかアート的な関心ばっかで、SF作品として享受してる層ってほとんどいないように思います。文芸批評や大学教授の語りの対象になったりとかは、間違ってもありえない感じ。

2021年4月13日

 新劇の新しい設定として、使徒を倒したことを「沈黙」ではなく「形象崩壊」と言い換えたことと、「虹」が挙げられます。前者は「目標は完全に沈黙」が他作品でも使われまくって陳腐化してるのを感じて、新たに摩耗していないカッコいい表現(流行らなかった)をでっちあげただけでしょうけど、後者はとても重要な設定でした。にもかかわらず、Q以降は意味づけを放棄されたビジュアルのみになってしまいました。「虹」は旧約聖書において神との契約が果たされたことを示すもので、序破の段階では使徒を倒したときとか、シンジが綾波のおっぱいを揉んだときとか、初号機がアスカを噛み潰したときとか、人類補完計画の条件がクリアされるたびに「虹」が現れていました。いまとなっては虚しい妄言ですが、テレビ版と旧劇を新約聖書(ひとりの救世主の話)に見立て、新劇は旧約聖書(神にまつわる群像劇)として描くことで、よりプリミティブな神への接近をしていくのだろうと考えていました。まあ、結果は「神イコール監督」だったわけで、ノアの方舟っぽい設定も出てきてましたけど、神学どころか監督のツーケのナーア(失礼)で新も旧もごちゃまぜになって、もはや「くそみそテクニック」って感じです。

 ATフィールドの扱いが変わったのも新劇の特徴で、破の後半において旧エヴァでは平面の表現に過ぎなかったそれを立体的にしたり伸び縮みさせたり、別の描写へと変えてきました。ATがAbsolute Terrorの略だとわかったときの興奮や、第弐話で初号機がATフィールドを破るときの効果音には、「強姦を想起させるため、絹を裂く音を当てている」といった演出の意図を聞いたときの感動をいまでも思い出します。少し話がそれましたが、新劇での変化を決定的にしたのは、Qの冒頭で「アンチATフィールド」なる呼称の、バリアとしてのフィールドを突破する機械の登場です。それは、旧劇で冬月が口にした人類補完計画の根幹である単語がエヴァもどきの名詞に堕とされ、ATフィールドが神秘性を失って、伸縮自在・質量可変の攻守に使用可能なエネルギー兵器と化した瞬間でした。そして、このQの路線を堅守するのかと思いきや、シンエヴァでは補完時のゲンドウに旧作と同じATフィールドの使わせ方(心の壁)をしていて、もうブレブレの大迷走としか感じられないわけです。Q の路線変更のまま新劇というくくりの中でチープで陳腐なメロドラマとして終わらせておけばまだよかったものを、Q の尻ぬぐいのためだけにテレビ版と旧劇を持ち出してきたのは最悪の判断で、もはやキチガイ沙汰としか思えません。永井豪がデビルマンを何度も何度も再話するようなオリジナルへの執着と言いましょうか、「偶然に自分を依り代として超越的な何かに語らされた傑作」への敬意が、まったく感じられませんもの!

 シンエヴァの語り口って、カウンセラーのそれではなく、新興宗教の勧誘の手口と同じなんですよ。これまでの人生(序破)を丁寧に話させて、生き辛さ(Q)を取り除いて、再び同じ人生のレール(急)を自分で走れるよう手助けするのではなく、これまでの人生のできごと(序破)を教団の教義(Q)に合うような解釈(シン)で聞かせ、充分に愚かな者たちを入信(宇部新川)させる手口そのものです。なので肯定派との対話は、新興宗教の教義に深く洗脳された者への説得と同じ性質を持ちます。否定派を自認するおのおのがた、辛抱強く粘り強くまいりましょう。

 あと、あんまり指摘されてるのを見たことないけど、斜めに降っていく巨大エレベーターとか、内側から肉が膨満して破裂する描写とか、エヴァって「AKIRA」からのビジュアル的影響が大きいですよね。

Question: There are of course, many such interviews which confirm the same, but this tweet from Khara Animator:
https://twitter.com/HideMatsubara/status/1381478454785318921

Also proves the Asuka favoritism in Shin Eva.

Answer: I don’t care which creator likes which character, but the problem is that the love for a certain character makes it impossible to kill it or distorts the whole story for it to be alive. In “Demon Slayer (a.k.a. Kimetsu no Yaiba),” which has been a huge hit in Japan, the characters that needed to be killed were killed exactly when they needed to be killed, regardless of whether they were the author’s favorites or popular among the fans. This is worthy of praise.

Question: I think this is just as true for Japan, especially with the new generation of Eva fans.
If you look at the last 20 years of Eva, characters, couplings and art is the only thing left.

Answer: As you say, the actual situation for the average fans in Japan is probably not much different from the West. However, you won’t find any researchers writing papers on Evangelion seriously, any intellectuals taking up as the subject in literary criticism, or any celebrities giving their thoughts on Evangelion on TV shows in the West. Evangelion is not only accepted by geeks, but by society as a whole in Japan.

2021年4月15日

Question: EVA is accessible to all of Japan.
But only otaku will make the effort to find anime. Even if it recently became available on Netflix, it’s still a niche.
Western Eva fans = Japanese Otaku fans. That’s why Asuka and Kaworu is preferred overseasm but Rei is #1 in Japan.

Answer: I’m not sure if I have read your comments correctly, but living in Japan, Evangelion appears quite naturally in our daily life, such as in convenience stores, bookstores, posters in trains, etc. You don’t even have to look for it. I understand that this is a feeling you can get only if you live in Japan. Also, Evangelion’s entry into the Pachinko(kind of slot machine) market has played a big role in expanding the generations of Eva fans. However, I can’t really catch your logic behind “Rei is No.1.” in Japan.

Qestion: Authors are entitled to favorites, but some times it goes to far.
Demon Slayer deserves praise for avoiding bias. However, Shin Eva does not.
Characters die, live or change simply because Tsurumaki or Anno has personal investment.
What do you think? I think it’s the #1 problem.

Answer: I completely agree with your opinion. In Shin-Eva, they did “exit” characters from the story, but they didn’t “kill” any of them. This definitely takes the tension out of the whole movie and is the biggest difference from EOE, where they killed off all the characters except Shinji and Asuka.

質問:呪詛とても共感持てます。いいぞもっとやっていこう。よろしくお願いします。

回答:いやいや、応援はありがたいねんけど呪詛な、閲覧数34,000のスキ377で止まってもうとるがな。シンエヴァの興収やないけど、大失速ゆうやつや。おクチだけやのうて、もっとこう、ビロッとひろげてもらわんとこまんねん。ランス10で、よごれたタマシイを輪廻にもどして、ちょっとずつ創造主を弱らせる、みたいなキャラがおんねんけど、この呪いも同じことやで。おどれら、もっとワアワアやったらんかい! 大人アスカの破れたラテックス・スーツの隙間から手ェ突っ込んで、おへそナデナデしたろかい、ワレェ!

2021年4月16日

 「絶望のリセットより希望のコンティニュー」ってそれ、シンエヴァはファンにとって「絶望のコンティニュー」だったわけですが……小鳥猊下であるッ!

Q: Now that Khara’s EVA has embraced the “loop” setting, all deaths are meaningless, and the story is reduced to character pandering. Loops are a lack of creativity.
About EoE though, everyone can come back. Even Rei is still alive, in her new form. 
Alive as in, “not gone”.

A: Please read my article again carefully. As you said, the loop setting was introduced to Eva, but it means that the worlds of the new films up to Shin-Eva had been a loop. In the ending of Shin-Eva, the director’s birthplace was shot in aerial live-action, and all the characters were absorbed into the ego of Hideaki Anno and disappeared into this reality we live in. After Shin-Eva, there is complete nothingness in Tokyo-III and Village-III, and fans of Rei, fans of Asuka, and fans of the Eva world have all been eternally isolated to this reality, and no one can return to Evangelion(including EOE) anymore..

Q: In the 90’s, 2000’s and so on, Rei ranked #1 on all the popularity polls. With Rebuild being anti-Rei, that changed, and now Kaworu/Asuka is on top.

However, this is too a question of demographics. If you ask the newer otaku generation (2chan, 5ch), they will not pick Rei.

A: I guess you are a little too attached to each character, especially Rei. The reason I’m sharing this open letter with my followers is that I want you to become an ambassador to spread my curse abroad. This is not a counseling session with the person who deeply loves Rei. However, I am glad that I was able to verbalize what is too obvious for Japanese Eva fans to need to talk about.

 この海外オタク、しつこいな! すべての話題をレイにねじまげていくのも怖い。エヴァのキャラ萌えについては正直よくわからんから、だれか代わりに相手したげて。お願い。

2021年4月18日

 以前、「シンエヴァに碇シンジは一秒も登場していない」という指摘を紹介しましたが、いま思えば地続きに思えるテレビ版と旧劇でさえ、ずっと演じてきた声優自身が「映画版はシンジのキャラがまったく違う。悩みの内容が思春期の少年のものではなくなってしまった」と漏らすぐらいの違いがありました。まあ、ご存知のように監督がキャラに憑依して、映画冒頭で堂々と、シンジの一人称を変えてまで「エヴァはオレのオナニー」宣言をしたせいなんですけどね! いろいろシンエヴァの感想を読んでて、いちばん笑ったのは「第三村での全裸アスカから浜辺でのピチピチプラグスーツのアスカまで、あらゆるオナニーチャンスを与えられながら、シンジは一度もアスカでオナニーしなかった。えらいぞ、シンジ君、大人になったな」というものでした。それで気づいたんですけど、序破とQシン(救心みたいだな)の違いは「男と女への拘泥」だと指摘しましたが、Qシンと旧劇の違いは「性的メタファーの有無」だと言えるでしょうね。生命の樹に変化した初号機をペニスに見立て、巨大アヤナミの額に出現したヴァギナ(クリトリスまで描いてある)へ突き立てた後、膣内で回遊する精子を思わせる綾波の群れが出現するとか、補完の過程が性を想起させる場面まみれなのに、シンは旧劇を模倣しながら不思議なほどその要素が抜け落ちている。もっと言えば、シンエヴァの補完計画は全体的に性欲が無いというか、インポテンツっぽい感じが漂っています。あ、別に実在の人物と紐づけてしゃべってませんよ。そんな感じがするという極めて個人的な印象を述べているだけです。やっぱり、見るべき第一はスクリーンにあると思うので……(上目遣い)。加齢で性交できなくなってから、互いに背中の肌を手でさすりあう中国の老夫婦の話を思い出しましたけど、一般論として還暦を越えると健康とEDの問題は直結するのかなー、一般論として。旧劇での量産機の自殺を模倣した「すべてのエヴァを終わらせる」槍ブッ刺しも、甲高い効果音も相まって妙にペカペカと薄ら明るい感じーー「え、Qのおまえ、エヴァだったの?」と笑わせる演出が冴えてるーーで、あれだけ旧劇であからさまだった「ハリカタを使った女性の自慰(絶頂イコール死)」を連想させる淫靡さは微塵もありません。あと、槍ブッ刺しのときに全裸の妻の左脇へヒョッコリ顔をのぞかせる気まずげなーーそりゃ、「親戚の集まりが苦手」ぐらいの理由で人類を滅ぼそうとしたんだから、気まずいに決まってるーーゲンドウの表情を見て、これどこかで見たことあるなー、どこだったかなーと考えてたら、ビデオフォーマット版の第弐拾弐話で加持さんの後ろからヒョッコリ姿を現して、アスカに「なんでアンタがそこにいるのよ!」と絶叫されるシンジだった。オタクって強い自己愛(自分のこと、可愛いと思ってるでしょ?)の裏返しから、現実におけるヘイトは決して時間では揮発しない事実に鈍感で、何をやっても心から謝ったら許してもらえると小学生みたく無邪気に思ってるフシがありますよね。シンエヴァのゲンドウって、その極北にいる気がします。いやだなあ、深読みはやめてくださいよ。ゲンドウの話ですよ、もちろん。

2021年4月22日

 公開からはや一ヶ月半、臥薪嘗胆の思いを新たにするため、さんざん悩んで購入したシンエヴァのサントラを流しながら、愛車の軽トラで奈良の峠を攻める。劇中の順で曲が流れるたび、愛するSF作品が生きながら眼前に解体されてゆく惨劇の地獄絵図がまざまざと再生され、あいまいに薄れかけていた憎悪と呪いを新鮮なものへと上書きしていく。やがてCDも2枚目に入り、ゲンドウが己の精神史を独白する場面で流れていた曲へと差しかかった。ふと、カーオーディオのディスプレイに目をやると、そこへ表示されていた曲名は「born evil」。思わず強めにアクセルを踏み込んでしまい、あやうく崖下へコースアウトして死ぬところだった(シンエヴァなんかに殺されてたまるもんですか)。長めの英語や仏語や音楽用語の曲名は作曲家がつけてると思うけど、「born evil」、この曲名には監督の自意識から漂うドブの臭いがプンプンするぜえ! 「生まれながらのワル」ってアンタねえ、親戚の集まりが苦手な陰キャが、理系の女子率が極端に低い大学へ入学し、オタサーの姫にコロッとひっかかった(オレはオレのことが好きな女子が好き)だけのことじゃないですか! 発達に特殊性があることを言ってるならそれは悪ではなく性質だし、人類をウッカリ半壊させたことを言っているならそれは悪ではなく心神喪失の疑いがない責任能力を有した大人による自覚的な犯罪行為に過ぎませんよ! どうしてそこまで自己陶酔的に自分を見れるのかなあ! 自分のこと、可愛いと思ってんでしょ! でもね、どこかの芸人みたいに「オレって、イービルだろぉ?」とポージングする監督を生温かい笑顔で「ハイハイ」とあしらいながら、不倫漫画の原稿に向きあっている奥さんのことを想像するとき、もはや不穏な空気をしか感じません。ピンチに陥ったウルトラマンが自らマスクを剥ぎ取ると監督の素顔が、カントクマンにゼットンがマスクを剥ぎ取られると奥さんの素顔がそれぞれ現れ、そのまま2人で血みどろの殴りあいと痴話喧嘩を始める次回作「ツソ・ウノレトラマソ」、こらワンチャンあるで! そして改めてここに、監督が他社IPを私小説でブチ壊せたとき初めて、私はシンエヴァのことを認めると宣言しておきます。

 あと、ファンガスとかホノオモユルとか、クリエイター職でありながらシンエヴァへの感想をいっさい述べていない人たちは、全員が内容に納得していない否定派であることも指摘しておきましょう。シン・ゴジラであれだけ行われた応援上映とか、影も形も無いでしょ? 実施したら劇場が血の海になることがみんな薄々わかっているからで、ネットの表面に見えている以上に我々の仲間は多いんですよ。まあ、シンエヴァを初週に見た人の90%は意識の片隅どころか、もはや何を見たかさえ忘れているでしょうがね!

2021年4月25日

 シンエヴァ公開から3日間の、エアストリップ・ワンに迷い込んでしまったかのような感覚を忘れることができない。泣いたの感動したの、肯定的な意見ばかりがネットにあふれかえっていた。これまで恐れてきた通り、ついに自分が正気を失ったのではないかと半ば疑いながら、「アジア最後の人間(The Last Man in Asia)」が残す地下室の手記として「:呪」を書いたことを思い出す。そして今、公開から二ヶ月近くが経過し、いよいよ中庸派とニワカどもがエヴァの存在を忘却して退場(シャッターが閉まるビジュアル)し、肯定派と否定派の一握りだけが事象の地平面へと残された。肯定派が立つのは陽光に照らされた常夏の青い砂浜、否定派が立つのは白夜の闇に覆われた真冬の赤い砂浜。

 オイ、何をフヌケた顔して突っ立っとんねん! こっから善と悪の最終決戦、アルマゲドンが始まるんやぞ! わずかの絶賛派は80億にも届かへん興収とネット世論を塗りつぶせへんかった気まずさで、我がの発言をはよう忘れてくれんかとダンマリを決めこんどる! ヌルい肯定派のダボどもの息の根をキッチリ止めて、ワイら否定派の言葉を永久にインターネットへ刻む最後のチャンスやねんど!

 おどれら、もっとワアワアやったらんかい! 大人アスカの破れたラテックス・スーツの隙間から手ェ突っ込んで、鼠径部さすさすしながら「はてブ」のコメント173件に全レスつけたろかい、ワレェ!

 これまでの全てのカース(Curse)に、ケリを付けます。35.3%
 生きる事は、憎む事と呪う事(Curse)の繰り返し。35.3%
 小鳥猊下の呪詛(Curse)は恩人で、仇なんです!29.4%

 わかりにくいので補足しておくと、上から順に「肯定」「否定」「白紙」です。

 あと、「はてブ」はこれ。

2021年4月27日

 うーん、賛成と反対が同数かー。いま緞帳の裏で全裸なんだけど、舞台に飛び出しにくくなっちゃったなー。(ケンスケの憂い顔で)みんなシンエヴァどころじゃないんだな、もはや。

2021年4月28日・29日

アナザー呪詛「『シンエヴァ:呪』はてブ!コメント全レス祭り」

2021年5月1日

 「はてブ」ユーザーへの呪レス命中確率、シックスナインです! あのさー、キミ、女性声優に「シックスナイン」って言わせたいだけでこのセリフ書いたでしょ? あと、オペレーション画面で「確率」を「確立」って誤字ってんの、どこのユーチューバーなの? 小鳥猊下であるッ!

 20年前、侍魂(not テキストサイト)みたいな物理法則を無視した幕末剣術アクション漫画で有名な先生(PDF)が、エヴァ旧劇の感想に「こんなにもキャラクターに愛がない作品は、私にはとうてい受け入れられない」みたいなコメントを残しているのを見たことがあった。当時、旧劇の熱烈な信者だった私は「なに言ってんだコイツ。不殺って、どれだけひどいケガしても主役級は死なないって意味だろ。自キャラも殺せないフヌケ野郎は、ノースリーブ少女の露になった肩でもナデナデしてろよ」と憤っていましたが、20年が経過した今、彼が正しかったことがわかりました。ここに実作者ゆえの慧眼を認め、平に謝罪させていただきます。本当に、申し訳ございませんでした(露な頭頂部の皮膚とカメラフラッシュ)。あと、ビデオ(PDF)貸してください。

2021年5月6日

 去年のGWは何をやってたのかnote記事をさかのぼってみたら、FF11をライトなりのヘビーさでプレイしていたようです。順に追いかけて(自分が)読みやすいよう、関連記事をリンクでつなげてみました。

 そろそろ呪詛から趣向を変えてFF11の話、聞きたい?
 黄金の鉄の言葉で出来ているノオト 9.1%
 どちらかというと大反対 9.1%
 エヴァだけ考えとったらええんです 81.8%

2021年5月8日

 そっかー、「:呪」で増えたフォロワーが多いから、こういうアンケート結果になっちゃうかー。最近の若い子はブロント語なんて知らないんだろうなー。

 俺は別に旧エヴァへの愛をアッピルなどしてはいない。俺の呪詛を面白いと感じてしまっているやつは本能的に長寿タイプ。

カウンセリング「シンエヴァ・ファイナル呪詛」(2021.5.11~)

シンエヴァ「第三村節考、あるいはケンスケについて」呪詛

承前:ドキュメント「シンエヴァ・アディショナル呪詛(2021/3/6~3/24)」

*記事の後半で、津波の文章が書かれます。

 チョムスキーの生成文法が上梓されたとき、「これで我々は、あと10年は食える」とのたまった言語学の先生の話、しましたっけ? いまの気持ちは、居並ぶ経済学者たちに、「みなさんは、どうしてこの大不況を予想できなかったんですの?」とお訊ねになられたエリザベス女王の逸話を聞いたときと同じものです。え、いったいなんの話をしてるのかって? もちろん、シン・エヴァンゲリオン劇場版の話に決まってるじゃないですか!

 アスカとのカップリングで急にスポットライトが当たったケンスケですけど、2回目の視聴を脳内で反芻しながら確認していくと、シンエヴァでのケンスケの描き方ってすごいサイコパスみ(アタシ、西古パス美! 17歳、女子高生!)あるなー、と思いました。還暦を過ぎた読者のために、もう少し噛みくだいて言えば、生来的に共同体へなじめない人として、気づく者だけが気づくように、ソッと毒を入れて演出をつけてある感じがするのです。この描き方はもしかすると、本作のプロットに対する副監督からのささやかな抵抗なのかなー、とパンフレットを読んでて思いました。つまり、オタクがオタクを卒業できないまま、ある種の反社会的な異常性を抱えたまま、ずっとひとりで生きていくと覚悟を決めていた(アスカと同じ)のに、ひょんなことから社会に居場所を持つことができてしまった。そして、それを喜ぶ気持ちと望まない気持ちが半々ぐらいで拮抗している状態を描いているような気がするんですよねー。「俺たちが持ってんのは、卒業できるような生ぬるい特性じゃねえんだ、結婚して日和ってんじゃねえぞ、コラ!」という副監督の声にできない恨みが、ケンスケに込められているのではないかと推測するのです。

 昭和の大家族、「貧しいながらも楽しい我が家」で居場所のないシンジーーケンスケもなじめないーーを引き取って、自宅までの道すがら、夜の底をふたりそぞろ歩きながら、だれも聞いていないのをいいことに「ニアサーも悪いことばかりじゃない」なんて、ギョッとするようなことーー他の村人が聞いたらどう思うのかーーを言い出す。直前の、トウジと委員長のなれそめを語った延長の台詞のようでいて、実はそうではないとも聞こえる。友人のいないミリオタで、野営ゴッコとひとりサバゲーが好き(テレビ版)で、自分がまっとうではないことに気づいていて、学校という強制力のある集合が消えた先には社会のどこへも所属できず、糸の切れた凧みたいに飛んでいくしかないことが薄々わかっている。そんな漠然とした将来への不安が、突然の大災害によってすべて消滅してしまった。文明の壊滅した世界では、アマチュア・オタクの聞きかじった技術や知識でも人の役に立つことが「できてしまい」、そして何より信じられないことに、かつては遠巻きに見つめるばかりだった学校のアイドルが、はぐれ者どうし引き合うゆえなのか、自分の家へと転がりこんできた。

 おそらくケンスケは、エヴァのコクピットではない場所で「世界がどうなったっていい」といつも願っていたもうひとりの少年で、その妄想の実現により世界を阿鼻叫喚の地獄絵図へと堕とすことを代償として、彼のような人間にとっては平穏な日常がただ続いていくだけの未来よりも、ずっとマシなものーーファイナンスのような「ブルシット・ジョブ」では得られない、共同体と地続きで役に立つ実感を伴い、面と向かって感謝もされる立ち場ーーが結果として「手に入ってしまった」。だからこその、「ニアサーも悪いことばかりじゃない」発言であり、声優の静かな演技とあいまって、世界の壊滅をどこかで喜ぶ魔を心にすまわせる感じがビンビン伝わってきます。シンジに向けられたうっとおしいばかりのトウジの善意を、じつはいちばん疎ましく思っているのがケンスケで、「シンジも早く第三村になじんでくれればいいんやが」という言葉を黙って聞く彼の横顔からは、やはり人外の魔のにおいがかすかにただよってくるのです。

 終盤、「*津波の映像が流れます。」のテロップ予告もないまま、民家の高さを倍するインフィニティ津波が第三村へ迫る中、トウジが「ニアサーを生き延びたワシらの運を信じるだけや」とかすげえテキトーにつけられた台詞を言うかたわらで、ケンスケはファインダー越しにではなく、己の両のまなこで(「少女保護特区」の名シーンを彷彿とさせますね!)結界・イコール・防波堤を乗り越えんばかりの津波を凝視します。残された人々を生かしてきた結界は、その実、旅と放浪を奪われたスナフキン、人間の共同体の中にずっとはいたくないだれかを閉じ込める機能をも同時に果たしてしまった。アスカがシンジに向けて放った「生きたくもなければ、死にたくもない」という言葉、それはもしかすると、いつかケンスケが閨でアスカにつぶやいた言葉だったのかもしれません。目前に迫る破滅を見つめながら、彼の胸中には「この偽りの理想郷・第三村ごと、ボクの偽りの幸福を押し流してくれ!」という、人ではないものの叫びが渦巻いていたに違いないのです。しかし、第三村の描写はその短いシーンを最後にブッツリと途絶え、その断絶は事故で即死となった人間の意識はかくやと思わせる唐突さにまで至り、監督はQを作ってしまったことへの贖罪どころか、再び被災地とその暮らしを踏みつけにしたまま遁走し、私小説「個人的な体験」へと退行していくのです。ケンスケの抱いた昏い願いが成就したのかどうかは、宇部新川のアホみたいな脳天ファイラーの空撮で幕となった劇中では、いっさい触れられることがありません。

 激情のあまり気づいてなかったけど、いろいろシンエヴァの感想を読んでたら、空撮シーンのBGMって「残酷な天使のテーゼ」なんですって。つまりあのエンディングは、テレビ版の第弐拾六話のラストとオーバーラッピング(笑)して読ませるよう仕組まれていたわけで、本当に監督の悪意は底抜けですねえ! それとも生粋の女たらしの、「無邪気で可愛い人」なのかな! シンジ・イコール・監督の幸せな悟りに対して、劇場に座ってる私たち観客へ「おい、『おめでとう』って言えよ。おい、拍手もしろよ」って演出で強要してやがんですよ! ねえ、殴りたおされてから顔を足で踏まれてるのに、なんで君たちヘラヘラ笑ってんの? 悪意ある仕打ちに、みんなもっと真剣に怒っていいと思いますよ! 唐突に津波のシーンを入れたのも、自分のリハビリのために津波を描きたかっただけで、DSSチョーカーを見てシンジがゲロをはかなくなったのと同じような理屈、遠回しな自分語りなんでしょ? もうボクは震災による傷を乗り越えましたって、あの瞬間は鎌倉にいて特撮のビデオでも見てたんだろうし、その傷ってリスカの自傷痕じゃん。

 この映画を褒めている人たちは、ある不幸に対する監督の底抜けの無神経さをどう思ってるんでしょうか。繰り返し放映される津波の空撮(空撮!)をモニター越しに眺めながら、家々が押し流される様に指を折りながらフレーム数を数えて、いま見ているものがどうアニメーションにできるかをまず考えたんでしょ? いや、非難はしてませんよ、その冷徹な観察は超一流のクリエイターにとっての避けられない業(カルマ)でしょうし、「人間であることを捨てた」先にたどりつける創造の極地には、あこがれと畏敬の念すら抱きます。許されないのは、それを優れたSF作品に昇華させるのではなく、自分語りに消費したことなんですよ! おいコラ、観客に「おめでとう」って言わせる前に、まず被災地の方々に「ごめんなさい」だろうがよ! 宮崎翁から発される有形無形の赤い圧力に抗しきれず、みなさんの不幸をエンタメにしてすいませんでしたって、そこから逃げずに(逃げちゃダメだ!)ごまかさずに、取り巻きや批評家や作品に大便(失礼、代弁)させずに、まず自分の口でそれを言えよ!

 すいません、また少し、ほんの少しだけ冷静さを欠いてしまいました。旧エヴァと新エヴァが地続きであることは、ゲンドウの台詞だけで判明(絶対に許さない)してしまいましたが、「終劇」の先でエヴァ世界にとっての現在である第三村とそこに住む人々がどうなったかについては、いろいろと考察(笑)があるようです。おそらく正確なところは、第三村は三人目の綾波をふくめて副監督の担当パートであり、監督は基本的にそこへ興味や関心を持たないばかりか、作品を終わらせるにあたって意識の上にさえ無かったーーだから「空撮エンド」をビッグ・アイデアだと信じることができたーーということでしょう。「見るべき第一はスクリーンの中にある」と仮定した場合、エヴァ世界は新旧ともに監督の自我へと吸収・合併(さすがビジネスマン!)されて完全に消滅したとしか、作中で提示された情報からは読めませんね。丁寧に描写された第三村も、人知れぬケンスケの苦悩(それはキミの妄想)も、チンチンに短い浴衣で「エヴァンゲリ音頭」を踊って村人たちに笑われるネモ船長(それもキミの妄想)もすべて失われ、「終劇」の先は大津波にさらわれたように何も残されていないのです。おや、図らずもシンエヴァという作品が、エヴァ世界にとっての東日本大震災だったという結論になりましたね。2012年にQを見た直後のシンエヴァ予想に、「ゼロが空集合なのは前作との連続性を否定する意味に違いなく、次こそ正統の続編が制作され、オープンエンドのマルチバース的世界観が明らかに」って書いたけど、監督の未来に向かってオープンエンド(笑)のシングルバースで、昔からのファンにとってはデッドエンドって、これどないなっとんねん。エヴァっちゅうあの巨大IPがメタメタに(ダブルミーニング)されてしもて、もうどうにも商売になれへんがな。

 あのね、メタって軽いスパイスとしては有効だけど、メインディッシュにはならないんですよ。でも、時代と接続した一回こっきりのイレギュラーである旧劇の成功で、勘違いしちゃった。シンエヴァの終盤でコックが自信ありげに出してきたのは、黒胡椒がひかれもせず粒のままで敷き詰められたパイ皿みたいなもんで、どうやって食べるんですか、これって感じ。メタの絶妙な使い方で思い出すのは、ランス10に登場する新聞記者のキャラですね。ランスシリーズって、鬼畜王と戦国で極度に肥大化したファンの作品イメージに長く続編を足止めされて、エヴァ新劇を取り巻く状況と似たようなところがあるんだけど、こちらは表現方法を模索するため、ジャンルさえ違えた紆余曲折の果て、30年近く続いたシリーズにも関わらず、フィクションの内側だけですべての世界設定を回収して、二度と語りなおせない永遠の物語としてみごとに終わらせたんですね。エヴァンゲリオンはもう取り返しがつかないけど、「終わらない物語」を現在進行形で語っている定命の人たちは、ぜひランス10に触れて、その手腕を見習って欲しいです。

 話を戻すけど、この新聞記者はランスシリーズの30年来のファンとイコールの存在として造形されていて、発言の端々に作品を外側から俯瞰するメタ的な視点が垣間見えるの。このキャラのイベントを進めていくと、最後の最後で「あなたがこの世界のことを忘れても、わたしはずっとここにいて、この世界の行く末を見守り続けてる」みたいなことを言うのね。どんなに心ふるわせる傑作を体験しても、人生と時間は否応に前へと進んでいって、やがてすべての虚構は現実の背後へ、忘却の彼方へと過ぎ去っていく。いそがしい日々のはざまで、ときどきフッとランスシリーズのことを思いだすとき、このキャラがいまでも私の代わりにあの世界を見守ってくれていると想像すると、本当は何も存在しないはずの場所から暖かで前向きなエネルギーが湧き上がって、生きることを肯定してくれるのです。

 もう言ってもせんのないことですが、私がシン・エヴァンゲリオンに期待していたのは、虚構よりも現実へ多くの時間と感情を割かなければならなくなった大人たちへ向けた、すべてを忘れたあとにさえ人生の一部となって背中を押してくれる、成熟した何かだったのだと思います。あらゆるフィクションにはその力があり、それを信じられないまま、もしかすると一度もそれを感じたことがないまま、つまらぬ生活感情の表出と己の過ちを糊塗することを、虚構の持つ豊潤な可能性へ優越させた情けなさに、ただただ涙がこぼれます。あ、いま気づきましたけど、「糊塗すること」って「槍でやり直す」構文ですね。やー、テキスト書きとして恥ずかしいなー、アハハハー……はぁ。

有志による英語版:The ballad of Village III