ディアブロ2に深くハマりだすと、映像のながら見が非常な勢いで進捗する。そんなわけで、アマプラでアニメ版の「違国日記」を通して見る。実写版は未見で、全話の視聴が終わるまでにドロップしたハイルーンはSURのみだった(微妙)。ひと昔前の少女漫画ーー吉田秋生の初期作群を想起ーーを彷彿とさせる非常に繊細なストーリーで、まだ何者でもない10代の自分が見たならば、大いに影響を受けて忘れられない作品になった可能性はある。だが、他ならぬおのれの短くはない人生そのものが、作品世界への没入を阻害する要因として働いたことは、認めざるをえない。そもそもの大前提である「交通遺児をフィクションの主人公とする」時点で、個人的な許容のハードルは高くハネあがってしまった(同じく交通遺児を主人公とする「若おかみは小学生!」はスッと受け入れられたので、キャラデザに由来するリアリティの高低が理由かもしれない)。「事実婚の父は我が子に無関心で、母は心の奥底ではわたしを愛していなかったのではないか?」という極大の疑念を皮きりに、プロレス技でたとえるなら、”問いっぱなしジャーマン”とでも言うべき、正しい答えのない個人と社会の話ーー独身女性の性欲問題などーーが、うっすらとだけ「作者の考える正解」をにおわせながら、矢継ぎばやにどんどん投げこまれてくる。たとえば、男女の双方から好感を持たれる魅力的な中年オヤジが、その理由をたずねられたところ、「”通りすがりの女性に口笛を吹く”たぐいの、有害なマスキュリニティを下りたから」みたいな返答をするのだが、そもそもそれに乗ったことのない男性たちの存在が、作者の視界から消えている(ブサメンのチー牛どもは、オスではないと考えているのかもしれない)。
なによりドン引きしたのは、医学部入試の男子優遇に教室で激怒し、学校を休むようになったエキセントリック女子ーーそもそも、現実の高校生はこんな反応をしないーーが、交通遺児の主人公に「人生おわったと思った?」と無神経にも問いかけるシーンで、「医学部入試で女子が冷遇されること」と「交通事故で両親を亡くしたこと」はまったくの非対称であり、絶望的につりあっていないことへの認識が欠落しているのだ。これをつりあっていると考えるのは、他ならぬ作者の自意識で、淡い演出の下から突然、それがドぎつい臭気となってたちのぼる瞬間がなんどかあり、登場人物たちの痛みへ共感したい気持ちはあるのに、つど強制的にキックアウトされてしまう。最後に残った関心として、どのように物語を閉じるのかと思えば、かかえている問題ごと青春の鬱屈や蹉跌を吹きとばすのに、軽音楽部のライブを持ちだしてきたのは、「リンダリンダリンダ」からの借り物としか思えなかった。さらに、エンドロール後に流れる「10年後の2人」にいたっては、読後感を汚す蛇足としか見えないのである。以前にも別作品への感想で述べたと思うが、「20歳を越えた人間なんて、どんな複雑な過去をかかえていようと、もうひとりでやっていくしかない」のだし、高校生の彼女が苦しみや葛藤ごと、永久に消されてしまったような感覚を味わった。
作品タイトルにも表れているように、「交通事故で両親を亡くした少女」や「不定型発達の独身小説家」のような人口の少ない国に住んでいる者にも、大勢の住む国との優劣はなく、”違って”いるだけというメッセージは、ある種の人々に対する無意識の攻撃になりうることは、声を大にして伝えておきたい。この繊細なナイーヴさは、ときに「五体満足で、異性を愛し、妻子/夫子を持ち、定職があり、車と持ち家があり、健康上の問題はない」ような外殻を持つ人物を、大上段から打擲する無敵の殴り棒として機能し、「おまえの苦しみは、私たちよりもはるかに劣っていて、いっさいケアなんて必要ない! いや、そもそもおまえは苦しくなんかないのだ!」と耳元で叫ばれながら、馬乗りになぐられている気分にさせられる。純然たる事実として、わたしは半世紀ちかくずっと苦しいし、だれにも届かないテキストを書きつづけることをやめられないのも、ずっとその苦しさが消えないからだ。またぞろ議論のかまびすしい”就職氷河期世代”なんてラベリングはまっぴらごめんだし、なにより人の苦しみに種類や貴賤をあたえてほしくはない。なんとなれば、人間はだれもが固有の地獄を生きており、ファンガスの名言になぞらえるならば、「人間はみんな、苦しんでいるんだよ」とでもなるだろう。もちろん、このようなマイナーきわまる感想を引きだした「違国日記」はまったく悪くなく、他ならぬ小鳥猊下の人生そのものが悪いのである。終わる。