猫を起こさないように
お父さん
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ゲーム「プラグマタ」感想

 話題のプラグマタをノーマル難度でクリア。本作は、たとえばステラーブレイドと同じく、幼女アンドロイドに対する印象の好悪がそのまま加点要素として乗ってくるタイプの作品で、生粋のDr. LOLICONならば、「ククク、正解だ……100億点くれてやんぜ」と、ご満悦になるのかもしれません。もちろん、みなさまのご承知おきどおり、小鳥猊下は金髪碧眼の少女をアバターとするテキストサイト管理者であり、心の底からのいつわらざる愛によって、プラグマタをゲームとして客観的に評価する資格を、あらかじめ喪失しているのです(ここからの話を聞くさいの前提にしましょうね)。このディアナというキャラ、まるで宮﨑御大が監修したのかと疑うほど、女児の言動がリアルに作りこまれているーー両腕を伸ばしたままのジャンプ地団駄や、「ねえ、聞いて!」からの「したかった」語尾などーーところへ、突如として瞳が輝くモニターとなってマシン語を話しだしたり、歯でじかにメモリースティックを噛むことでデータを吸いあげたり、愛らしさと異質さとのサイファイ的ギャップが、もうたまりません。特に、うっすら青筋の見える眉間をしかめてする困惑や不機嫌の演技がすばらしく、なぜかかんしゃくをおこすニナ・ケルヴェルーーぜんぶ、フィデルのせいーーの凶悪な面相を思いだしました。エッキス局所では「お父さんシミュレーター」などと称されておりますが、「美しい見た目をしており、性格は素直で頭の回転は速く、なにより父親のことが大好きである」存在を愛せるのは当たりまえの話で、このシミュレーターには100段階あると仮定すれば、レベルは3にも満たないぐらいでしょう。重篤な生得的ディスオーダーをかかえている場合をレベル100として、「見た目がうるわしくなく、性格は素直とは遠く頭の回転はにぶく、なにより父親とそりがあわない」なんて娘はいくらでも転がっており、世間の平均的なお父さんはレベル40ぐらいをシミュレーションどころか、実地でやっていることは知っておくべきでしょう。

 アクション・パートは、サードパーソン・シューターとひと筆書きハッキングを組みあわせたものになっていて、「右手でマル、左手で三角を同時に書く」ような混乱を脳にまねきます。やることの多さに、最初はパニック状態へおちいるのですが、操作に慣れてきて冷静にエネミーを観察できるようになると、動きはスローで攻撃のさいの予備動作も大きいことがわかってきます。完全新規のゲームシステムをどうプレイヤーの体験に落としこむかについて、手さぐりの調整をうかがわせ、数年にわたる発売延期の苦労の一端がしのばれます。ゲームの後半へと進むにつれて、「せまい場所に閉じこめられての多対一」が執拗にくりかえされるようになり、さらにはバリア破壊や浄化などの攻撃を阻害する要素が入ってくるのには、正直なところ、かなりイライラさせられました。そのいらだちとは裏腹に、すべてのボスをほぼ詰まらずにスルッとたおせてしまうので、「もしかすると自分は、ウメ・ハラばりにゲームが上手いのではないか?」と気持ちよくカンちがいさせてくれるのは、老舗ゲームメーカーの面目躍如と言ったところでしょう。これがトレーニングモードになると、とたんに酷薄な黒縁メガネのアメ・ミヤが足ばらいをかけてきて、高くなった鼻ごと泥水に顔面からつっこまされるハメになるわけです。このアクション・ミニゲーム群は、パーフェクトを意味する王冠を取るために、数十回におよぶ試行で行動の手順を詰めていかねばなりません。最悪なことに、主人公の育成に必要な素材が賞品としてまかれており、メインシナリオ部分が10時間ほどしかないため、リソースの使いまわしでプレイタイムを水増ししようとしているような印象をあたえてしまっています。

 ストーリーにふれておくと、先に述べた「お父さんシミュレーター」という呼称が心のスロットにナナメから入った状態でプレイを開始したため、うかうかとそれにのってやるものかと批判的な気分に満ちていたのですが、その防衛規制はエンディング間際になって、もののみごとに瓦解することとなります。デッドフィラメントに侵食されて満身創痍の主人公が、何も知らないディアナの「ヒュー、カーゴを見つけたよ!」という無邪気な報告に「ほんとうか!」と返すときの声の調子が、前日の午前様から疲労と寝不足でフラフラの状態でする家族サービスのさなか、先を走る我が子がなにを見つけたか知っているのに知らないふりをするときの、空元気をふりしぼって幼い存在に心配をかけまいとする、まじりけのない父性からの「ほんとうか!」になっていて、お父さんレベル20の胸は共感と哀切に突かれ、涙腺という名のダムはそこで決壊しました。そのあとも、両腕を水平に広げて「抱きあげられ待ち」をするディアナの、性的プレデターにはけっして向けられることのない、満面の笑みによる信頼を目のあたりにして、独り身の孤児と倉庫に打ち捨てられたアンドロイドは、ついにほんとうの家族になったのだとわかり、画面も見えないほどの号泣をしてしまったほどです。その深い感動の余勢をかって、トゥルーエンドを見ようとクリアデータからプレイを再開したのですが、「全エリアの探索率100%」と「全エリアの強化ボス打倒」を条件にしているのは、昨今のアジア的なユルい調整に慣れている身にとって、あまりにギチギチの”日式ゲーム”すぎ、早々に自力での達成を断念して、動画サイトによる視聴へと切りかえたことをお伝えしておきます(あれくらいの変化に求める対価としては、少々プレイヤーへの負荷が大きすぎませんか?)。ともあれ、欧米の価値基準に照らせば、まったく政治的に正しくないプラグマタ、謎の交響管弦楽団ペドフィルに籍を置かない奏者にも、胸を張ってオススメできるオリジナル作品にしあがっていることを、虚構審美集団エヌ・ダブユ・オーがここに請けあいましょう。

ゲーム「マシンチャイルド」感想

 なんと、マシンチャイルドをダウンロードして5時間ほどプレイ。本作は、すでに衰退したジャンルであるところの、プリンセスメーカーを源流とする育成ゲームであり、8時だョ!全員集合にフィーチャーした(まちがい)卒業〜Graduation〜でアダルトゲームのうぶ湯をつかった身としては、見すごせない作品であったからだ。つまり、都市伝説解体センターを手にとった動機と類似する、ある種の過去への憧憬と言えるかもしれない。科学が誕生する以前、個人の知がその生を超えては悪い効率でしか蓄積しなかった時代において、「現在は過去の劣化したもの」と考えられていたというが、ムダに馬齢をかさねた個人の感覚だけで言えば、まったく正しいように思える。なんとなれば、最近ではファミコンから初代プレステ、あるいはセガサターンぐらいまでのゲーム体験が、心中であやしい魔術的な神秘性をたたえるようになってきたからである。少々それた話をマシンチャイルドにもどせば、本作のイラストを手がけるマス・オーヤリa.k.a.ビッグ・ファック先生ーーエロ漫画家ばかりが集う十数年前のオフ会にて、名前が出たとたんに場の空気がおかしくなった、筒井康隆の作品で言うところのフーマンチューみたいな存在ーーの描く女性の特徴は、比較的プレーンな顔だちに強烈なフェティッシュを感じさせる、氏独自の骨格と肉づきをそなえた身体が接続されているところである。ボディ素体の書き分けは、大きく分けて「十代前半」「十代後半」「二十代前半」の3パターンで、その類型を作品によって出しいれする作家なのだが、マシンチャイルドには3人の娘が登場するにもかかわらず、うち2人は「十代前半」が選ばれている(残る1名はキメラティック・パイオツカーデー娘で、隠しキャラは未見)。すなわち、顔面サイズとほぼ同じ肩幅、ブドウのような胸部と浮いたアバラに、ししゃもを思わせるぽっこり腹部に、たっぷりとした臀部をのせるのに充分な広さを持たせた腰といったぐあいである。

 本作はプリンセスメーカーへのレスペクトを公言しているため、成長段階に応じて先にあげた3パターンを推移させるのかと思えば、育成期間がわずか1年ということもあってか、身長や胸部サイズに変化はいっさい生じない。冒頭にサラリとふれられる「機械の子ども」という設定は、タイトルにまでなっているくせに物語的な意味はなく、「ある日、空から美少女が降ってくる」の変形にすぎないことがわかる。田舎から中世ヨーロッパ風の街へ移動したあとは、季節感にとぼしいボンヤリとした日々を送ることになるのだが、プレイアブルな娘が3人いるにも関わらず、性格もイベントでの応答もまったく同じで、気がつけば全員がほぼ全裸のマイクロビキニで恥じらいなく街を闊歩する始末である。たとえば瑠璃の宝石が「性欲を入口に、長大な時間軸を知覚することで気づく、世界の深奥にいざなう」作品だったのに対して、マシンチャイルドは「性欲を入口に、姉妹や娘を持たない者がいだく、近親相姦への憧れにいざなう」作品になっているのだ。そもそもこのジャンルは、PCのスペックがいまよりはるかに低かった時代に、プリンセスメーカーなら赤井孝美、卒業〜Graduation〜なら竹井正樹といった、当世の有名イラストレーターによるCGを30枚ほど閲覧させるための時間かせぎ的な障壁にすぎず、なんならゲーム部分には、女性のヌードが背景に隠されているブロック崩しぐらいの意味しかなかったのである。なので、もともとの期待値が高かったわけではないのだが、「お父さん」というムダに解像度の高い分野が選択されていたことは、プレイする上でかなりの「ノイズ」になったことをお伝えしておかねばなるまい。

 畢竟、親なんてものは「羽化するまでの止まり木」にすぎず、幼虫にはたっぷりと繁らせた青葉をたらふく食わせ、サナギになるための広くて静かで外敵のいない幹を用意し、あんな細い糸1本では自重を支えきれないのではないかとハラハラさせられ、サナギの内側でかつての愛らしい幼虫が原形を失ってドロドロに溶けてゆくのをかなしく見まもり、サナギが身じろぎもしない静かな夜には本当に生きているのか心配し、ある朝にはサナギの上につかまる別の生き物にハッとさせられて、しわくちゃに濡れたその羽が美しくピンと広がって乾いていくのに息をのみ、それが青空へと羽ばたいたあとは、ただその場に立ちつくしたまま、おのれが枯れはてるまで、それの旅路の無事と幸福を祈ることしかできない、無力な存在なのである。他方で、マシンチャイルドが父性と呼ぶなにかは、幼体から成体までのあいだにある、おのれにとってもっとも好ましい時期に胴体へ防腐剤を打ち、標本箱にピン止めして、無垢なる美の静謐を永遠に観察したいという、すべての男性の胸中にめずらしくないーー「ほう、」ーー欲望そのものである(「性欲を上回る、名状しがたい感情」を経験せずにいられることが、不幸なのか幸福なのか、私には判断できない)。ともあれ、昭和時代には有効だった「少ないリソースを鬼のように周回させることでカサ増しし、最終目標はイベントとエンディングCGのコンプリート」というゲーム性は、令和の御代にあってギョッとするほど古めかしく、「マス・オーヤリの大ファンで、彼の絵を見るためならどんな苦労もいとわない」人物以外には、まったくオススメできない内容となっている。以前、都市伝説解体センターは5,000円以上とるべきと書いたが、ただのCG集にすぎないマシンチャイルドこそ、2,000円以下で売られるべきであろう。