猫を起こさないように
是枝裕和
是枝裕和

ドラマ「九条の大罪」感想

 家人にすすめられた「九条の大罪」、柳楽くんが出演していると知り、ネトフリで全話まとめて見る。彼のデビュー作であるところの「誰も知らない」を個人的に偏愛しており、少年という未分化でテンポラリーな状態がまとうエロスを存分に堪能したことを思いだします。少年期の柳楽くんが撮影中に声がわりをむかえたことを脚本に落としこんでいたり、成長とともに失われたゆくものが、みごとにカメラへとおさめられている傑作と言えるでしょう(これがのちに、「万引き家族」「怪物」と時空を越えて、是枝作品に”柳楽顔”の少年が抜擢され続けるのを見せつけられ、監督の児ポ方面における審美眼のたしかさに戦慄することになるのですが……)。話を「九条の大罪」にもどしますと、要するに主人公の職業を弁護士にしたウシジマくんなわけですが、「地面師たち」や「サンクチュアリ」とおなじく、海外の巨大資本から潤沢な資金を得たことで、CM協賛企業や芸能事務所へ忖度する必要がなくなり、さらに地上波特有の倫理規定まで外れると、本邦の映像業界はまだまだこれだけの地力を発揮できるのだと、勇気づけられるクオリティにしあがっています。キャスティングのあんばいも絶妙で、柳楽くんの気弱で線の細い感じに対して、壬生くんの俳優をはじめとする反社の面々が、ぜったいに人生でかかわりたくない暴と凶のオーラをビンビンにはなっていて、視聴後はおのれの凡庸な日々と狭い人間関係が相対的に価値をあげたような感覚さえありました(けれど、全身に墨を入れたムロツヨシが真顔ですごんでみせるたびにわろてまうので、ここだけはミスキャストのように思います)。

 この全10話のドラマ版はとんでもないクリフハンガーで幕を閉じるのですが、どれだけ調べてもシーズン2の配信予定どころか、鋭意撮影中との情報さえ出てきません。続きが気になってしょうがないので、原作漫画を電書で一括購入して読破し、ようやくその理由がわかりました。10巻まではドラマ版と同じく怒涛の展開で、底割れのしないキャラクターたちの引き起こす、一見たがいにつながりのない事件が有機的に連動してゆくさまには、良いフィクションを体験するとき特有の、ジェットコースター的な快感がありました。なのに、コロナ禍に影響されたのだろう医療編が脈絡なくはじまると、物語の疾走感へ急にブレーキがかかりはじめるのです。そこからは、ポケモンみたいに上位ヤクザが次々と登場するのに、いっこうにストーリーの本筋と作品テーマが前へと進まなくなり、10巻までの設定をこすりながらゆっくりと旋回するメリーゴーランドみたいな状態におちいってしまいました。おそらく、壬生くんが作者の中で半グレのボスから反骨のスーパーヒーローへと格上げされ、彼の口をかりて都会の自由業にしか有効ではない特殊な人生訓と、レフトウイングド国家観をたれ流すようになるのには、なんだか目をおおいたくなる感じがあります。演出にしても、作者の旅行写真をトレースした背景にムキムキのヤクザの立ち姿か、下くちびるの特徴的な若い女性の顔面アップがくりかえされるようになり、医療編の前後でまったくちがう漫画になったという印象を持ちました。ドラマ版の脚本は、漫画版の後半で登場する設定を前だおしで見せるなど、かなり構成が練られていて、壬生くんと京極および伏見組の因縁がキチンと決着するところまで話が進まないと、シーズン2の作りようがないのです。

 しかしながら、いまの原作の状況を見るにつけ、シーズン1終盤にただよう不穏きわまる気配はきれいサッパリ消滅しているばかりか、いつのまにか「ゆるせない悪徳に対するアレルギーとしてのくしゃみ」という設定も消え、直近の話では柔術の達人ーーこの男、隙がない(ハア?)ーーみたいな設定まで盛り盛りにつっこまれていて、九条先生が苦悩する弱き法の執行者ではなく、作者の考える社会正義を代弁して実行するスーパーマンになり”さがって”きている。ドラマ版がうまくすくいあげた「2つの巨大な暴力機構に呑みこまれそうになりながらも、その狭間において知識と信念だけを武器に危ういバランスをたもちつつ、おのれの信じる道をつらぬく」という主人公としての魅力が、すっかり失われてしまっているのです。もう壬生くんが京極をたおして伏見組を乗っとることはないし、九条先生が検事の兄と対決することはないし、烏丸先生はナアナアで九条法律事務所を離れることはないし、日本一のタコ焼きが小粋な伏線として回収されることもないのに、「焼肉に行って、とことん飲む」ことは作中における最高の贅沢であり続けるでしょう。ともあれ、ドラマ版がこのまま頓挫するのはあまりにもったいないので、シーズン2は完全オリジナル脚本でヤクザと警察、検察と弁護士の対立に、それぞれの家族の葛藤をからめた四つどもえの展開ーー法の正義は執行され、九条先生は弁護士のまま死ぬ(最後の晩餐ないし末期の水は例のタコ焼き)ーーが描かれることを期待しております。

映画「怪物」感想

 是枝監督の熱心なフォロワーであるため、カンヌ脚本賞の怪物を劇場で見る。事前情報をほぼ入れていない、作り手にとって理想的な観客であり、タイトルに受けた印象から起因するミスリードに、最後までふりまわされまくりました。「いったい、だれが怪物なのか?」という問いかけに始まり、モンスターペアレントの序盤から酒鬼薔薇事件を彷彿とさせる中盤を過ぎ、「じつは怪物は、どこにもいなかった」という終盤へと至って、脚本家の意図どおり巴投げによる完璧な一本負けを綺麗に食らった次第です。しかしながら、「生まれ変わりはない」ことをハラ落ちさせた上で、「行き止まりだと思っていた場所」へ向けて少年たちが歓声をあげながら駆けだすラストシーンはあまりにできすぎていて、どこか虚構然としているようには感じました。この作品の中で明確に作り手から断罪されているのは、「クラスのいじめっ子たち」「ゴシップ誌の記者とカメラマン」「主人公の友人のシングルファーザー」であり、特に父親は「同性愛者の息子を認められない、旧来的な偏見に満ちあふれたマスキュリニティ」として描かれており、「大人たちの言語化されない思惑を先んじて感じとる、現代における『炭鉱のカナリア』としての子どもたちが引き起こした一連の事件は、この社会があらゆる多様性へ真に包摂的であれば、生じなかった悲劇なのです! そう、『怪物』とは私たち一人ひとりが無意識のうちに抱いている偏見と同義の通念であり、狭小な人生観そのものなのです!」という、是枝作品の常である「かそけき演出にこめられた、ドぎつい社会派メッセージ」を受けとらざるを得ませんでした。

 脚本賞の是非については、ジュン・ハマムラの解説にだいぶ混乱させられましたが、主人公の相手が少女であればヰタ・セクスアリスの感傷に過ぎなかっただろう本筋を、そこに少年を配置することで是枝作品の持つ社会批判へと完全に昇華させた点は、じつにみごとな手腕だと言えるでしょう。内容的には、脚本賞というよりむしろ構成賞とでも命名すべきものーー校長先生の最後の台詞とか、ちょっとあざとすぎて、やりすぎだと感じましたーーでしたが、子どもの未来を光の中へと解放しながら終わる結部は、大人たちの真相ーー「校長の事故経緯」「担任教師の顛末」「虐待父の真情」などーーを完全に観客の想像力に預けて物語の収まりから枠外へとブン投げたのには、「脚本賞なのに、そこを拾わんのかい!」といきどおる気持ちにはなりました。あと、主役の男の子の容姿が少年時代の柳楽優弥にクリソツーー表情の作り方まで!ーーで、あらためてペドロリ方面における是枝監督のブレなさを実感させられて、背筋がゾッと薄ら寒くなったのでした。もし、我が子を芸能界デビューさせたいと考える親御さんがいるなら、まずはじめに「誰も知らない」を視聴してください。お子さんの容姿が作中の子どものだれかに似ているとしたら、是枝組のオーディションには極めて高い確率でパスできると思われます。以上、一般人にはまったく必要のない、芸能界チート・テクニックをご紹介しました。

 それと、エンドロールで初めて知りましたけれど、本作の楽曲は坂本龍一が提供していたのですね。個人的には、「体制は常に盤石かつ強靭で、一瞬の無視も悪徳の栄えへつながる」との妄念を強く抱き続けて、若い頃のおイタ(テロ行為)へ真摯に向きあうことをせず正当化の果て思想化し、いくつになっても身勝手な放言ばかりで、ついには社会へ何の責任も果たさず消えていきつつある部族の一員という印象を持っていましたので、是枝作品の放つメッセージーー中身とは言わないーーとの親和性は高かったのかなと思いました。トーン・デフの身なれば、彼の音楽を語る立ち場にはありませんが、「過剰な音の集積」から始まった作曲遍歴が、そのレイトワークにおいて音を削ぎ落としに削ぎ落とした「雨だれ」のようなピアノへと変じていたことに、外野としてある種の感慨は抱きました。この世代の態度へ向けた反発から冷笑系オタクになってしまった我々を、物事への批判を嫌う若い人たちはさぞかし嫌悪していることでしょうが、私がいままさに進行形で感じているように突然ある日、それは無形の圧力ごとウソのように消えてなくなります。だとすれば「怪物」とは、死によって時代とともに変遷する他者の内面のことなのかもしれません……ドヤッ!