猫を起こさないように
世界の果て-3
世界の果て-3

少女保護特区(6)

 当局の提供する簡易宿坊に腰を下ろすと、予は背嚢からラップトップ式のパソコンを取り出す。ビデオカメラと双璧を成す、予の配下において最も重要な子飼いである。予の少女との別離がもたらした衝撃から回復しつつあった予は、たとえ無償の提供を受けたとしても感謝ではなく批評が真っ先に来訪するあの豪胆さが身内に戻りつつあるのを感じていた。起動を待つ間、予はあてがわれた部屋の価値を値踏みするべく視線を走らせる。床には布団というよりはむしろムシロが引かれ、排泄物を垂れ流す穴は板囲いがしてあるだけだ。その質素さに比べて、数本の鉄棒が重力方向へ平行に走る戸口だけは奇妙に装飾的である。鉄棒を通り抜けて、予のノートパソコンから伸びたケーブルが廊下を這っている。ネットワークへ接続できる環境の提供を論理的かつ強力な身振り手振りで主張する予に屈する形で、大便のごとくに巻かれたそれがうやうやしく投げ与えられたのである。その先端はいまや予の希望を適えるべく管理官の舌打ちを乗せて、通路の奥へと消えている。
 ブラウザを立ち上げると、予はブックマークのひとつをクリックする。少年と少女が生気の無い目で視線を宙空へと彷徨わせる足元に「青少年育成特区」と装飾的な字体で記された、例の見慣れたロゴマークが出現する。画面の下部から回転しながら現れ、中央に一定時間静止してから上部へ消えていくのだが、スキップする方法はない。おそらくは、取り出した煙草に火をつけさせるためだろう。官庁がするこの心にくい時間的配慮を、予はひどく気にいっている。肺腑が吸い込んだ煙で満ちると、予の呼吸は何千分の一秒か完全に停止する。全身の血管を毒が駆け巡り、予の自尊心に死という等価の重りを与え、予はほとんど敬虔な気持ちになる。もはやただの物質と化した煙を鼻から勢いよく噴出しながら、画面に焦点を合わせないまま、予はマウスを数センチ滑らせる。エッチ・ロリコン板のバナー上にカーソルが到達するのと、予が人差し指を痙攣させるのは同時だった。そして次の瞬間、予の内側にあった至高の安逸は完全に消滅したのである。
 さて、性的な暗喩が他の暗喩を圧してあまりに素早く脳内へ醸成される諸兄のために、いまの場面を少々補足する必要があると予は考える。予が閲覧しているのは、AvengerLicenseを持つ者たちの動向をランキング形式で記録する官庁の広報用ボードである。正式名称は”The Hardcore Ladder of Liberty for Girls’ Survival Convention”だが、その頭文字を取って俗にH-L-o-Li-Con板、あるいは単にL-o-Li板と呼ばれる。後者の場合、中間の母音を脱落させ、ろりーた、と発音するようだ。暴力という観点から許可証所持者の危険度を客観的に測り、台風や津波等の災害警報のように民間人へ注意を喚起するため設置されたのだが、もはやその本来の理念を念頭にアクセスする者はいない。少女たちの顔写真に出歯亀的関心を持つか、少女同士の対決を対象にした非公式の賭博を行うか、許可証所持者の係累に連なるか、次に殺害する同胞を求めるかが利用目的の大半である。予は無論、このボードを最新の状態に維持するための情報提供者の一人であり、いずれにも該当しないことを付け加えておく。
 次にロリ板の特徴である。基本的にすべての許可証所持者が登録されており、少女同士の接触の際に闘争が生じた場合、その結果は可及的速やかにランキングへ反映されることになっている。上位者が下位者に勝利した場合はSポイントと呼ばれる点数が上位者に加算される。頭文字Sの意味については殺戮とか殺害とか殺傷とか諸説あるが、はっきりとしない。下位者が上位者に勝利した場合はお互いの順位が入れ替わり、死亡者の氏名は暗転表示されてランキングの最下位に回される。もはや半分以上の氏名が灰色に沈んでいるが、その総数は日々増え続けている。命の軽重を視覚化するこのランキングには美人コンテストに向けられるのと同質の感情的な非難が集中する。しかし、予はロリ板を心の底から愛した。望むと望まざるに関わらず、生命の価値に序列は存在する。その真実への社会的検閲を極めて局所的にではあるが無化するこの板は、予にとっての福音である。
 一位から以下二十名は拳闘風に表現するならば上位ランカーとされる。下位者からの挑戦を多く受けるも彼女たちの敗北は稀である。マッチメイカー不在ゆえに上位ランカー同士の闘争がほとんど発生しないため、その構成員はほぼ固定されている。スポーツとは違い、何の名誉も伴わないランキングである。力の拮抗した者同士の闘争には死のリスク以外が存在せず、必然的に争いは回避されるのであろう。だが、自然淘汰が発生しないという意味合いで、上位二十名のランキングは現状を正確に反映できない恐れがある。そこで、より多くの実戦に生き残っている事実を客観的に示す、先ほどのSポイントが登場するのである。加えて、予を嚆矢とする少女観察員が全国に遍在し随時の情報提供を行う。当局はそれらを集約して、諮問機関である少女審議委員会、略して少審へ上位ランカーの正当性について検証を依頼するのである。上位二十名の少女たちは殺傷力、持久力、敏捷性、成長性、処女性から成る五つの観点を五段階で評価される。最後に挙げた項目、処女性が何を評価しているのかについては、ロリ板において長く議論の対象とされてきた。なぜなら法律上、許可証所持者は全員、言及するまでもなく処女のはずだからである。現在では、該当少女の精神や容姿を判定しているのではないかという推測が多数を占める。また、評価システムそのものに対する疑念も多い。少審の五段階評価を仮に二十五点満点へ換算した場合、点数の寡多と順位が連動しないという指摘は、メジャーな議論の一つである。例えばランキング二位の老利政子は順にDCEEAであり、総得点はわずか十二点にしかならない。これは、上位ランカーの中で下から三番目に低い数字である。各項目が異なった係数を与えられているという見方もあるが、未だ大統一理論の完成は遠いようである。
 話を戻そう。予が受けた衝撃は、予の少女の名前を仁科望美、老利政子から始まる上位ランカーの中に発見したことへ由来したのである。実際の闘争を除けば、少審による上位ランカーの格付けは「その必要が生じた際、適宜」という会則に則り行われるが、その頻度は最短で四ヶ月、最長で二年半とまちまちである。格付けと格付けの谷間の期間はシーズンと呼ばれ、現在は特区法制定から十六回の格付けを経て、17thシーズンに該当するはずだった。しかし、今回のアクセスは予に18thシーズンの到来を告げたのである。予の少女の順位は十九位、評価は順にCDBBBである。予はただちに予の少女の敏捷性と処女性を一段階高めることを具申する陳情書をしたためにかかる。あの野良少女が、もしや上位ランカーだったのではないか。予の少女が迎えるだろう終わりのない闘争の日々への不安が、予の心へにわかに積乱雲の如く佇立するのであった。先に述べたように、上位ランカー同士の争いは極めて稀であるが、下位者から受ける挑戦は激増する。過去、二十位入り直後の一週間で名前を暗転表示させた少女がおり、少審への抗議が殺到したこともある。殺戮ではなく審議によるランクインであったからだ。少審の構成員が非公表であることも相まって、ランキングの恣意性については常に批判が耐えない。
 その少女の二の舞となる心配は無いと信じたいが、実際のところ両親の死が予の少女の暴力に何らかの影響を及ぼした可能性を予は否定できない。予の少女に向けられた外部評価の不当な部分をくつがえしておくことは、しかし当面の挑戦者たちを牽制する役には立とう。陳情書を裏付ける情報として、予の少女の闘争をあますところなく記録・編集した動画をアップロードせんと、予は全国の少女観察員たちが共同で管理するサーバーへアクセスする。煙草一本分の時間を経て無事にファイルが転送されたことを確認するため、予の少女の躍動をネット上で眺めるうち、予は奇妙な感情が身内にわきおこるのを感じた。このような陳列がひどい冒涜にあたるのではないかという、理屈に合わぬ思いである。予は予の行う社会正義を信じていたし、手に入れた情報を他者と共有することで生まれる新たな発見や思想を喜んでもいた。予は宗教家ではない。だが、無神論を言うほど人間を超えた何かを信じていないわけではない。デジタルではない部分を持つ神は電子回線を通るときに劣化しないのだろうか。予の側にある神聖さへの畏敬は果たしてこの方法で共有できるのだろうか。突然の内なる問いかけに予はとまどった。予の少女の動画を閲覧することがなぜこのような疑問を生じさせるのか全く分からぬまま、予はアップロードしたファイルを衝動的に削除する。サーバーはすでに自動的なバックアップを行っているはずで、予の少女の動画はそれを撮影したときの予の感情とは切り離されてやはり誰かに届くだろう。だが、予の想いを伴った動画は削除されたのだ。その不合理な安堵感に、予は不快を禁じざるを得ない。電子メールによる陳情書を送信するとき、ファイル名を含むURLを消さなかったのは予の予に対する腹いせである。ノートパソコンの電源を落とした予は、入り口の装飾的な鉄棒に手をかけて前後に強く揺さぶった。耳障りな音が廊下へ響き渡り、やがて眠そうな目を擦りながら管理官が現れる。予が宿坊からの退室を願いでると、午後九時以降の入退室は規則により禁じられている旨を言いかけるが、ケーブルをめぐるやりとりを思い出し論理的かつ確信に満ちた予を論破することが難しいと悟ったのに違いない。予から放たれる無形の圧力に屈する形で、管理官はしぶしぶと鍵束を取り出した。特例なので見つからぬよう裏口から出て欲しいと申し出るのを超然と退け、予は表玄関から外界へと堂々の帰還を果たしたのである。
 予の少女の居場所を割り出す追跡行が異例の短期間で終結をみたことで、二人の間に横たわる強い絆への確信を予は新たにした。予の少女が所持する携帯電話にはGPS機能が備わっており、子飼いのノートパソコンがする獅子奮迅の活躍のおかげで、現在位置を市内のホテルへと特定できたのである。諸兄もご存知のように予の面体はあまりに高貴であり、加えて身にまとうオーラとも呼ぶべき不可視の何かが凡百の人民をして常に過たず、この人であると指ささせる要因となっている。ビデオカメラを筆頭として一筋縄ではいかぬ、歪さこそが才能に直結する歴戦の子飼いたちを統率するのにその、予の持つ生来のカリスマ性は極めて重要な役目を果たしていると言えよう。しかしながら、ホテルのロビーなどを通過しようとするとき、品よく裁縫された制服に野生と暴力を去勢された憐れな兵士である警備員が、志願兵として雇用の可能性を尋ねるために違いない、予を呼び止めようとすることが頻繁にあった。予の手下は精鋭を以てよしとする。直立の威嚇行為に塩を得る彼らは、予の向かう闘争を前にすればすくんで身動きもとれまい。それをわざわざ口頭で伝える無神経さも予の高貴な精神にははばかられたので、ロビーが客室応対の電話を取り上げ、警備員が交代の引き継ぎに詰め所へ戻る一瞬の間隙をぬって、予は全軍に突撃を命じる。予と兵士たちはエスカレーターを二段とばしに駆け上がり、中二階からエレベーターへ滑り込むことに成功した。電光石火の奇襲作戦を成功させ、兵士たちは意気を強める。予の指揮ぶりを褒め称える万呼が頭蓋に鳴り響く。並の将ならば破顔してそれに応えるところだろうが、エスカレーターの中に人がいたこともあって、予はただ鷹揚にうなずくにとどめた。敵陣にあっては天災のごとき大勝利にも気を緩めぬ様子を見て、子飼いの勇将たちは予の大きな器を感じとったようである。兵士たちが予への崇拝を闘魂へと変えて静かに、しかし烈々と燃えたたせるのがわかった。結果、予は最小を用いて最大を得たのである。
 最上階から順に各階をしらみつぶしにする腹づもりであったが、二人の絆のおかげであろう、予の少女が滞在する階は容易に同定できた。空気中へかすかに混じる血の匂いは、少女殺人に立ち会うこと頻繁な予にとって、もはや馴染みと言ってよいものである。匂いに導かれるまま、予は向かいあって立ちならぶ扉の谷を進軍する。この階に降りたった瞬間から、状況を察知した全軍は予の命令に先んじてすでに臨戦態勢にあり、それに応じて行軍は極めて慎重なものとなっていた。じりじりするようなその速度の中、回廊の対称性が持つ無個性の印象は予に終わりのないループを連想させる。五感を刺激する情報の乏しさに時間への意識が麻痺しはじめた頃、斥候の任に当たっていたビデオカメラがそのズーム機能によりわずかに開いた扉を発見し、伝令を寄越してくる。予は前線へと急行する。
 薄闇の濃厚さが訴えかけるような感覚は、実際に少女殺人へ立ち会ったことのある者にしかわかるまい。予は口中で唾が固まっていくのを意識しながら、人が通れるほどまで隙間を押し開く。はたしてそこには、頭頂から縦方向へ二つに開かれた白人男性のさらす人体の不思議が、部屋の奥から漏れる間接照明の光に照らされていた。鮮やかなその断面が、日本刀での斬撃によることは疑いがない。陳情書に記述する格好の材料として、予はズームしたビデオカメラの視界をゆっくりとなめさせる。空間的に不安定なはずの性器までもが測ったように同じ容積の二つになっており、予は様々の意味で縮みあがらざるをえない。白人男性の右手に名刺大の紙片が握られているのに気づいたビデオカメラは、さらに視界を拡大する。最大の望遠を用いてようやく視認できたその紙片にはヘルス・エンジェルと大書きされ、0120で始まる電話番号が記載されていた。白人男性にとって配達されてきた死は、まったくの意想外であったことが推察される。遺体から点々と続く血の跡がバスルームへと消えているのを確認し、予は様々の意味でふくらまざるをえない。しかし、浴槽にはすでに使用された形跡があり、予は様々の意味でしぼまざるをえない。浴槽の底と濡れたバスタオルはわずかに桃色へ染まっている。予はそれらへ口づけたい欲求を、白人男性の遺体を思い浮かべることで防がねばならなかった。バスルームを出ると、周囲に漂っていた濃密な血の匂いがほとんど感じられなくなっているのに気づく。嗅覚が鈍化したのであろう。あとは遺体の方へ視線を向けないようにすれば、この客室は完全に清潔な空間と信じることができる。我が身が痛まない限り、この世で地獄が長続きしないことを予は知っている。
 大きなベッドの中央に、小さなふくらみがあった。そこに予の少女が寝息を立てている。永遠のように思われた別離はその実、わずか数時間のことに過ぎなかった。予は書き物机から椅子を引き寄せ、ベッドの傍らに腰かける。神ならぬ人の身が作り出した殺戮する天使は、小さな頭を枕にうずめ黒髪を放射状に周囲へ投げている。喉まで引き上げられた薄手のキルティングにすっぽりと包まれ、予はそこにあるのが予の少女の生首なのではないかという錯覚を抱く。青く見えるほどに白い肌へわずかに隆起する赤は、ベッドの上にある唯一の色彩的要素であった。やがて、予の少女の呼吸が浅くなる。おそらく、予という闖入者の存在に気がついたのだろう。予の少女が寝具の下に日本刀を隠し持っているのだとすれば、予は完全にその間合いにいる。予の少女は予を傷つけぬという自信は、もはや過去のものになっていた。立ち上がろうと足の筋肉を硬直させた瞬間に、予の少女は予を切り捨てることができる。
 実のところ、この瞬間まで予は予の真意を測りかねていた。予の意識はあまりに深遠であり、時に自分が何を知っているのかを知らぬことさえあった。つまり、予は予の少女に殺されるためにここへ来たのである。いまや予の少女の中で予と両親は渾然と同化していた。予の少女が幼い頃から求め続けた抱擁を、両親と同じく予が拒絶したからである。予が殺されることは、予の少女を解放するだろう。そして、予の少女が解放されることで初めて、予は現世のあらゆる欺瞞を超えてこの狂おしい恋慕を完成させることができる。惜しむらくは、予の少女を抱きしめる瞬間に予の実存が肉体を喪失していることか。予と両親を失った予の少女はその暴力の根拠を揺らがせ、やがて青少年育成特区から発した多くの狩られる存在へと堕ちていくだろう。そこまで考えて、予はこの行動に自棄の感情が含まれていることを否定できなくなる。予は予の少女への恋慕ではなく単に理性でもって、時間差の形で心中を作ろうとしているのやも知れぬ。もはや瞬きすらできず、予は予の少女の端整な横顔へ視線を釘付けにしたまま、ただ呼吸のリズムを合わせるしかない。この、他殺を模した自殺がサクリファイスではない事実を発見したことで、予の明晰な頭脳は極めて稀な、思考停止に近い混乱を生じたのだった。
 両耳の間に心臓を移植したかの如き騒擾を裂いて、予の頭蓋に鈴の音が鳴りひびく。気配の方へ視線を送れば、ベッドの足元には和装の少女が立っている。いつからそこにいたのか、予は予の想念へあまりに深く没入しており、その侵入を気がつけなかった。失態である。直線に切りそろえられた襟元と額の黒髪に、瞳は瘡蓋のような赤茶色をし、蝋で固めたような顔にはおよそ人が持つ感情の一切は認められない。
 ――老利政子である。少女審議委員会から派遣された。
 外見とはそぐわぬ、年ふりた声だった。他人に対する強制力を疑わぬ、予と同じ、命令する側の声である。応じるように寝具が裂け、内側から抜き身が跳ね上がる。だが、その必殺の斬撃に対して和装の少女が行った動作は左足をゆっくりと手前に引くだけであった。ベッドを二つに割った日本刀の威力は、いとも簡単にいなされたのである。羽化した蝶のように、予の少女は斬撃の余勢を駆って回転しながら床へ降り立つ。そして窓を背にすると、鞘へ戻した刀を腰だめに構えた。
 ――老利政子は闘争を求めない。だが、求められた闘争を拒絶するほど愚かではない。
 応じるように予の少女が抜刀し、老利政子がゆっくりと一歩下がる。切っ先は細い首があった空間をむなしく通過した。予期した切断の手ごたえを得られなかったためか、制御を失った刀身は流れて背後の窓ガラスを粉砕する。少女殺人に立ち会うこと頻繁な予の経験則からして、一方がまだ獲物を見せていないにも関わらず、どちらが殺される側にいるのかはもはや明白であった。我が身を守るように日本刀をかざした予の少女の両目は大きく見開かれ、追い詰められた猫科の肉食獣のようである。老利政子が一歩を踏み出す。見えない力に弾かれたように、予の少女は背後の窓から夜空に身を躍らせる。一足飛びに距離を詰め、和装の少女が宙を舞う。
 駆け寄った窓の外には、頭上で日本刀を高速回転させて滑空する予の少女と、居並ぶビルの屋上を人外の跳躍で八艘飛びに追いかける老利政子の姿あった。予はクローゼットから予備のシーツを引きずり出し両手両足の指で四隅を挟むと、むささび飛びに追跡を開始する。だが、超人ではない予の身体はほとんど重力だけの落下と同じ速度で、ホテルへ隣接するビル屋上へと近づいていく。もちろん、この程度の危地は自室での二十年に渡る思索の生活においてすでに想定済みである。冷静にシーツを放棄すると予は、爪先、膝、腰、肩、側頭、頭頂の順に接地および回転し、落下の衝撃をすべて受け流すことに成功する。なぜか右腕が上がらなくなったが、一時的なことだろう。子飼いのビデオカメラは左手で構えれば全く問題がない。階段を駆け下りて街路に立てば、はるか前方のビルへ上空から二つの影がもつれあうように降下してゆくのが見えた。予は大音声で最強行軍を号令する。
 ――少女審議委員会の至上目的は、第二の仁科望美を作らぬことである。本日、新たな上位ランカーとの接見を果たしたが、老利政子は安心をした。
 息を切らせて階段を駆け上がり、屋上へと続く鉄扉に手をかけた予が聞いたのは、命令する権利を疑わない者だけが発することのできるあの強い声であった。こちらに注意を引きつけるため、予はわずかに浮かせた扉を蹴り開ける。けたたましい音に、二人の少女がこちらへ視線を向ける。予の少女は片膝をつき、日本刀に身をもたせてかろうじて上体を維持している。制服のあちこちが裂け、そこから流血も生々しい傷がのぞいている。老利政子は目を細めると、食餌を発見した有鱗目のように予を見る。
 ――もっとも、不確定要素が残されていないわけではない。老利政子はこの芽をあらかじめ摘んでおくこともできる。
 応じるように、もはや力尽きるふうであった予の少女が刀を振り上げて、背中へと切りかかる。老利政子は身じろぎひとつしない。抜き身は誰もいない虚空をないで、斬撃の勢いのまま予の少女は予の足元へと転がりこんでくる。
 ――しかしながら、確実性を欠く予断に基づいた殺戮は、老利政子と仁科望美の区別を難しくする。老利政子は何より矜持のため、この機会を見送ることとする。
 和装の少女はほんの軽い屈伸で、屋上の貯水槽へと移動した。伏したまま肩で荒い息をする予の少女に、もはや立ち上がる力は残されていないようである。満月を背景にした和装の少女は、予が予の少女に捧げていなければ心惑わされたであろう、人外の美を放っていた。わずかに腰を落とした老利政子を中心にして大気が渦を巻き、来たる躍動への予感が辺りを充満する。しかし、予には確認しておくべき事柄があった。無論、予とてわずかの推測を手がかりにした問いかけであり、まさか真実がそのまま得られると考えていたわけではない。
 ――いかにも、老利政子の保護者は老利数寄衛門である。だが、このことは決して他言せぬがよろしかろう。少女審議委員会の構成員には公安警察の出身者も多い。もし約束を守れぬ場合、今後の行動に極めて重篤な制約を受けると理解するがよい。
 つまり、老利政子の率直な返答は、この段階において予と予の少女が少審にとって全く問題ではなかったことの証明である。さらに質問を重ねようと予が口を開いた瞬間、貯水槽から和装の少女が消滅する。視認不可能な速度の跳躍で上空へと自らを射出したのだ。予が抱え起こしたとき、失血によるものかショックによるものか、予の少女はすでに意識を失っていた。予は右腕をかばいながら予の少女を背中にかつぐが、ほとんど子どものように軽い。鞘に収めるべく拾い上げた日本刀は反してひどく重く、優に持ち主の体重以上はあるかと思われた。少女殺人者の持つ特権に潜む業の深さを垣間見るようである。老利政子が去ったにも関わらず、予と予の少女は依然として重大な危機の中にあった。無数に刻まれた傷がどの程度深いのかもわからず、近隣の医療施設へはあまりに長大な主観距離が横たわっている。なぜなら、市内を徘徊する他の少女殺人者たちにとって、重傷を負った上位ランカーは自らのステータスを一息に高めてくれる格好の獲物だからである。
 両親の死から始まった予の少女の長い夜は、未だに終わりを見せようとはしなかった。

少女保護特区(7)

 すべては他人事のように感じられて、映画やテレビの向こうのように感じられて、たまらなくイヤだった。
 頬にかかった熱湯に、思わず悲鳴をあげそうになる。指をすべらせればぬるりとした感触がして、手のひらは真っ赤に染まった。噴出する液体はすぐに勢いを失い、床に広がりながらやがて制靴を浸した。
 駆けつけた警官にパスケースの許可証を見せる。反応は劇的だった。青ざめた顔で一歩下がり、半分ほどの年齢の小娘に最敬礼で応じた。無表情を装ったまま、大きく目を見開いて下からのぞきこむ。何かを問うそぶりで、わずかに歯の間から舌先を押しだすと、たちまち真っ赤になって顔から汗をふいた。その狼狽ぶりを忘れない。
 立ち去る背中へ、血のように粘る好奇と欲情が向けられるのがわかった。後悔と、そしてたぶん悲しみを、すぐに軽蔑で塗りつぶす。
 あの瞬間にこそ、私は誕生したのだ。喜びと祝福に満ちた、しかし望まない生の瞬間のようではなく、確かにこの意志を介在させた、人間世界と人間存在にとってのある災厄として。
 大気に満ちた霧雨が十字架をけぶらせ、遠近感をなくしていた。
 教会の入り口で傘をたたむと、コートの表面は水滴をふきつけたように濡れている。重い扉を引いて一歩ふみいれた途端、オルガンの音が足元からせりあがるような質感を伴って鼓膜を揺らし、平衡感覚にゆらぎを生じさせた。
 館内は完全な祝祭の空間を形成している。内なる高貴な精神性にだけ信仰を捧げるこの身でさえ、眼前の明白な秩序をあえて乱そうとは思わぬ。
 祭壇へと続く通路が、整然とならぶ木製のベンチをふたつに割っており、そこに少女殺人者への断罪の光景が広がっていた。黒いワンピースを身にまとった喪主は、蝟集する親族たちから隔てられて、ひとり座っている。
 可視化された正常と異常の狭間を進み、コートを脱ぎながら喪主の隣へ、人ふたり分を空けて腰かける。性質の良くない興味と侮蔑のいりまじった意識が、物好きな、あるいは邪な下心をもった若い後見人へと注がれるのがわかる。古くから慣れ親しんだその感覚に、もはや何の痛痒も感じない。喪主へと向けられる悪意を少しでも軽減できるのならと、意識して胸をそらした。
 うつむいて膝の両手へと視線を落とす横顔は、漆の光沢を持つ黒髪で御簾のようにさえぎられ、表情をうかがえない。いつのまにかオルガンの演奏は止み、神父か牧師か、初老の男性が聖書を朗読する声が響いている。耶蘇の宗派はさっぱりわからぬ。しかし、喪主にとって唯一だった神を葬送するのに、これ以上ふさわしい儀式はないだろう。
 ――なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
 自我が永遠に存続することを寿ぐくだりは、いつ聞いても恐怖に身震いがするほどだ。生命の最初期に与えられた望まぬ呪いと、呪いゆえの不完全な意識を清算する術は、あらかじめ奪われている。幾度も幾度も檻の内側へと復活し、世界と己の破滅を等価のごとく秤にかけ続ける永遠。
 生々しい幻視に首を振る。教会の内部は、現世的な枠組みを弱める装置として機能するゆえか。だがそれでは、通路の向こうから曖昧な敵意を向ける人々の説明がつかぬ。
 説教を終えた初老の男性にうながされ、喪主が献花へと立ち上がる。半歩下がって続く。隣あって並べられた棺からのぞく顔は、穏やかな表情に復元されていた。あの夜の光景が脳裏へフラッシュバックし、ご尊父とご母堂の表情が一瞬、凄惨なものへと変わる。片方だけとなった眼球が恨むようにこちらを見るのも、頭蓋の内側にのみ投射された映像である。
 強く閉じた瞼を開けば、やはり横たわるのはふたつの穏やかな顔でしかない。表層と深層の間に横たわる、欺瞞に満ちた隔絶の淵。しかしそれは、多くの精神にとって有効である。死者だけが静かに、現世の喧騒を拒絶している。ようやく訪れたこの至上の安楽を、はたして死者は手放したいと考えるだろうか。死んだ人々のよみがえりを言うことが、誰にとって必要なのだろう。
 低く流れる奏楽の下に、小さなさざめきがある。壇上から何度かうながされるが、誰も喪主に続こうとはしない。ある種の憤りにかられ振り返ると、親族たちの座席から小さな男の子が飛び出して、喪主の足元へと駆け寄ってくるのが見えた。母親らしき人物が金切り声をあげて制止するが、彼の瞳には恐れよりも憧憬があふれている。
 ――おねえちゃん、人を殺したことがあるんだって?
 喪主はとまどったように両手を胸元へと引き寄せた。わずかに視線をさまよわせた後、まっすぐと見つめ返す。
 ――ええ。
 ――何人くらい殺したの?
 少年はあくまで無邪気だ。記憶をさぐるように、喪主はかるく目をつむった。
 ――二十八人よ。
 ――へえ、ぼくのクラスより多いんだ。すごいや。
 ――でも、もう数えないわ。
 ――どうして?
 屈託のない問いかけに、全身から汗がふく。無意識のうちに、両手を背中に回す。
 ――数えられないの。
 ――ぼく、百まで数えられるよ!
 喪主の口元へ、かすかに微笑が浮かぶ。棺に納められた百合のように静かなやり取りの裏で、母親の懇願はもはや悲鳴と化した。
 両手を頭のうしろへ組むと、何度も喪主をふりかえりながら席へと戻る。とたん、母親が音を立てて平手を打つ。黒を基調とした少女の美に心を残していた男の子は、たまらずバランスを崩してしまう。椅子の背もたれに強くこめかみをぶつけ、ずるずると床へくずれおちる。失神したのだろう。ぐったりとした身体を抱きあげて、母親が泣きだす。取り巻く周囲の人々は今度こそあからさまに、喪主へと敵意のこもった視線を向ける。
 感情に翻弄され、自ら作り出した劇場で演じる人々こそが、よみがえりである。神になりかわり、祝福を与えよう。お前たちは、永遠を生き続けるがいい。
 立ちつくす喪主の細い肩へ軽く手をのせると、わずかに身を震わせるのがわかった。一瞬の間をおいてこちらを見上げた両目には完全な抑制があり、感じたと思った悲しみの波動はすでに消えていた。いや、悲しみは残っていた。いつのまにか胸の深奥へ伝播した悲しみは、いまや痛みで喉元をしめつけている。この関係をこそ、望んだはずではなかったのか。
 喪主とともに死と不死の境界をたどって、元のように腰をおろす。親族たちはようやくのろのろと立ち上がり、少女殺人者とその後見人とを大きく迂回して棺へ向かう。それはまるで、障害物に最短距離をさまたげられた蟻の行軍を俯瞰するような滑稽さだった。もちろん、笑いはしない。この偏狭な世界観が誰かにとっての蟻の行軍でないと、断言はできないからだ。見上げると、ステンドグラスを透過する輝きが、雨天にも関わらず目を細めなくてはならないほどまぶしい。光には人の感覚を麻痺させる何かの力があるようだ――
 握りしめる柔らかな手のひらから、ぬくもりが失われていくのがわかる。ひとつの公立病院とひとつのクリニックが受け入れを拒絶した。少女殺人者であることが理由だったのかどうかは、わからない。すでにいくつかの影が、予と予の少女を遠巻きに観察している。反撃の恐れが完全にないことを、この上ない慎重さで確認しようとしているのだ。上位ランカー相手の警戒は、臆病のそしりを受けるものではない。だから、次に訪れた私立病院が治療を提供してくれていなかったら予の戸籍は消滅し、予の少女の氏名はランキング上で暗転していたに違いない。
 先の医療機関に比して、驚くような慇懃さと厚遇で迎え入れられ、匿名の入院に個室まで供与される。予はただちに解決すべき重要な案件を抱えていたが、予の少女を預けたままの外出さえ心安らかに行うことができた。しかし、好意が過大である場合の含意は、やはり過大な見返りであることを処世術として予期せねばならない。
 強引に設定した整形外科医との面談で、予の少女の玉肌に傷を残さぬよう予が所持する高解像度写真を例示しながら復帰すべき現状を申し述べているところ、今後の治療計画について院長が相談を求めている旨を、背後から近寄ってきた看護師にそっと耳元へ告げられる。渡りに舟とは、まさにこのことである。眼前の不快な表情をした医師の態度が激変する未来を予言視した予は、知性の程度が互いに遠い場合は特に非生産的な対話をたちまち打ち切った。そうして予から知性の離れた者へもっとも有効に機能する鼻薬を手に入れるべく、揚々と院長室へと向かったのである。
 丁寧な口調で予の味わった艱難をねぎらいながら時代がかった人払いを命じると、院長はごく自然な動作で扉に鍵をかける。予の洞察力はこれから訪れるだろう政治的なかけひきへの即応性を予の内側へ構築した。まずは先制点を獲得したことで、予は意気を強める。それにしても、相当な老齢である。垂れ下がった顔の皺が柔和な微笑みのような印象を作り出しており、声の調子は対する者の警戒を解かせるのに充分なほど穏やかで確信に満ちている。ブラインドが調節され、床が陽に満ちる。予に対面の椅子をすすめながら、院長は窓を背に座った。反射する陽光に目を細めねばならず、その表情は陰となって判別しにくい。いま思えば、意図された舞台装置であったのかも知れぬ。
 ――お連れの方は順調に回復しておられます。あと一週間もすれば寛解するでしょう。医は仁術と申します。しかし退院なさる前に、治療のお代について話を通しておく必要があると考えまして。現世のよしなしごとが心わずらわせるのは、好む好まざるへ関わらず避けられぬものです。
 穏やかに言葉がつむがれると、黒い空洞が見え隠れする。歯茎にのぞく白いものはまばらで、粘膜の色合いは灰色に近い。相手というよりは陽光に幻惑されたせいだろう、治療費に足るだけの持ち合わせのない旨を傲然と告げる予の声はくぐもった。
 ――然り然り。医は仁術と申します。少女殺人者とその随伴へ求める対価は心得ておるつもりです。血刀に刃物傷のお二人が当院をくぐられるのを見ましたとき、野戦病院の昔を思い出して久しぶりに心おどったことは確かですからな!
 院長が両手を広げると、ブラインドから差し込む光線が弦のようにはじかれ、予の視界を明滅させる。黒い穴からは擦れた音が断続的に漏れている。笑っているのやもしれぬ。
 ――医は仁術と申します。しかし、ある戦争状態に対して「世界は平和であるべきだ」と批評を行うことに、はたして意味がありましょうか。当事者だけが述べることを許される言葉は多いはずですが、誰もが等価に世界の不幸へ関与できるとお考えの向きも、最近ではかなりおられるようで。心の闇だとか組織の闇だとかそういった名づけは、第三者にとって見えないゆえに暗いというだけのことでしょう。物体の表面へそそぐ光線の有無が、物体そのものの性質を変えることがありましょうや。当院は宿坊や家庭ではございません。まして我々が保護者の代理であろうはずはない。いらだたしいのですよ。
 周縁から円心へ回転するような物言いに相手の意図をはかりかね、生来の剛毅が生む率直さから予は真意をただす。院長のたるんだ目蓋が持ち上がると、両目は老木のうろを思わせる虚無を湛えていた。
 ――院内で、一件の少女殺人が発生することを望んでおります。
 予の心へ空白が生まれる。この申し出は、何ら意想外ではないことに気づいたからだ。青少年育成特区というシステムの中で唯一の不確定は、少女の心である。遠隔的にであれ、それを操作できる目算を持てるならば、すべての殺人は合法となるだろう。だが、病院側が手に入れる利益が事の後に訪れる現世的な大騒ぎを差し引いて、なお正であるとは考えにくい。
 ――確かに、治療費だけでは充分な対価とは申せませんな。ただ生を長らえるだけで、現世のしがらみは身体の奥底へ澱のように沈んで参ります。その身動きのとれなさはわずらわしいものですが、ときに大きな助けともなりえます。いずれの公的機関にせよ、私の一筆や口ぞえは、あなたが少女殺人者の傍らで拒絶し続ける社会的な価値を多く含んでいると言えましょうな。
 返ってきた答えは予の問いかけを正しく理解した内容ではなかったが、院長自身が差し引きを正ととらえていることだけは了解できた。渇いた口腔を唾で湿してから、予は勘違いを指摘する。黒い穴から間歇的に擦過音が漏れる。
 ――さきほど申し上げたではありませんか、野戦病院を思い出して興奮したと! 殺したことのない者は信用できませんからな! 命を奪う者と奪われる者、この当事者の感覚だけが命の真実です。こういう話をできる友人も、年々少なくなりまして。孫などを抱くともういけませんな。あの切り立った崖、世界の最突端から落下の恐れがない場所まで転進してしまうのです。あなたが磐石の何かとして想定し対抗するこの社会は、傷の上に形成された瘡蓋のような、ほんの一時的なものにすぎません。私はあなたのお立場に同情し、共感をさえ覚えているのですよ。私はわずかだけ瘡蓋の端を引き剥がして、予期される出血から傷が癒えていないことを確認したいだけなのです。医は仁術と申します。しかし、少なくとも私の心が痛まぬ命が存在し、この個人的な妄執を満たすのに心が痛まぬほうの命を供物として、かつ当院の実利にも貢献できるというのなら、どこに与えられた好機を看過する選択がありましょうや!
 光が下からやってくるこの空間は、惑星の表皮に進化を続けた結果の現実認識を不安定にさせ、揺さぶる効果があるようだ。平衡感覚はゆらぎ、数日前に行われた予の少女の後見人をめぐるやり取りが脳裏にリフレインする。
 ――親族の方々は、軒並み拒否の姿勢ですね。あのモンスターは、もう二十七人も殺していますから、無理もありませんわ。お話をうかがいましたが、未成年被後見人が貴方を選んだという点が極めて疑わしいですな。最近では“少女殺人者の人権を守る会”なんていうネット発の、本末転倒な団体もありまして。事件が起こるとすぐに、いくつか連絡が来るんですわ。つまり、推薦名簿に候補者はあふれておりまして、両親の遺書もなく、被後見人からの請求も証明できない以上、家裁があなたを優先的に選任する理由はどこにもない。妙な下心を持った連中も多いんでしょうが、少なくとも社会的立場はしっかりしていますしね。まあ、逆に不利なぐらいですよ、あなたは……
 枕を腰に当てて、霧のような雨にけぶる窓の外を見ている。気づいているはずだが、ふりむこうとはしない。長い髪の流れる小さな背中へ、医師とのやりとりや、今日あったことや、とりとめのない日常の気づきを報告する。返事はないが、確かに話を聞いている気配はあった。治療代の話はできなかった。沈黙がおり、それが充分に長くなると退室の合図だ。去り際に、未成年後見人の話をする。受け入れる気がないならこの場で断ってほしいと伝える。黒髪がわずかにゆれたようにみえたが、沈黙がやぶられることはなかった。扉を閉める最後の瞬間まで、隙間からのぞく後ろ姿は窓の外を見ていた。
 廊下で何人かの患者たちとすれちがう。いったんは拒絶したはずのものたちが、再び周囲をとりまき、その包囲を縮めていくのがわかる。山に老婆を遺棄して帰宅すると老婆が笑って出迎えてくれるような、循環する恐怖。階段を下りると、待合いは人でごったがえしていた。なんとなく出かける気をなくして、空いている長椅子へ腰かける。左には赤ん坊の背中をさする母親がおり、右には杖に額を乗せて荒い息の下で祈るような格好の老人がいる。真ん中にいるのは、いったい誰なのだろう。山頂のほこらに老婆をおさめて扉を閉めたときの気持ちを思い出す。重荷がなくなったことが足取りを軽くした帰りの山道での気持ちを思い出す。だが、帰宅して土間から仏壇の老婆を見たときの気持ちは、はたして恐怖だったか。人間世界で最も古い職業は娼婦である。ならば、最も古い虚構は、死者のよみがえりではないのか。
 相部屋のベッドから、天井を見上げる。腸炎で絶食中とのふれこみで、治療を終えるまで間借りできることになっている。カーテンの向こうに人の気配がし、車輪のきしる音は部屋の外へと移動する。足元の非常灯だけが照らす廊下で、点滴を引きながら人影はトイレへと消えた。まちがいない。足早に追いかける。個室へ入ろうとするところを後ろから回した左腕で顎ごと便器へ押さえつけ、喉元にあてた刃物を一気に引く。背後の扉を片足で押さえながら、大便用の水流で物音を消す。持ち上げた片手を便座にかけたのが、示された唯一の抵抗だった。内側からの施錠を確認し、目に見える血をぬぐったトイレットペーパーを流すと、懸垂の要領で個室の外へと出る。洗面台で両手と刃物をすすいで顔を上げると、鏡の人物には血の飛沫がそばかすのように散っている。乱暴に顔を洗う。トイレを出た両足は自然、個室へと向かっていた。細心の注意を払ってわずかに隙間を開くと、身体をすべりこませる。ベッドのふくらみは規則正しく上下しており、それを眺めるうちに両足が震えはじめて、そのまま床へ座り込む。両膝を引き寄せると顔を埋める。小学生のとき以来だった。
 あまりにもあっけない。あまりの脆弱さが、もはやせんのない疑念を生む。いったい、これに値するような罪だったのか。得体の知れない人影が乱舞する。その顔はこれまでに出会った誰のようでもある。全身を伝う汗に目を覚ますと、窓の外は明るくなりはじめている。院内はまだ静寂を保っているようだった。いぶかるのをうながして荷物をまとめ、時間外受付で退院の手続きを済ませると、面会者出入口へと向かう。驚いたことにすでにタクシーが停車しており、院長室へと招きいれた看護師がその脇に控えていた。
 ――これを渡せとおおせつかっております。
 差し出された封筒には、カードと便箋が二枚入っている。金釘文字で、こう書いてあった。
 「おふたりが出立した後に、報道各社へ連絡を行うよう申し伝えてあります。私の感謝を伝えるためにハイヤーをとも考えましたが、素性を思えばやはり目立つやり方を避けるのが賢明でしょう。
 ご首尾、お見事でした。命を奪う者と奪われる者、この当事者の感覚だけが命の真実です。瘡蓋の端が持ち上がるのは、見えましたでしょうか。
 どうぞ良い旅を、ご同類!」
 二度ばかり目を通すと、看護師に便箋を返す。提示された正体の知れない感情を咀嚼できず、受け取るという形を作ることに抵抗があったからだ。少なくとも午後になっての報道を確認するまでは、その真意をはかりかねた。
 ――本日未明、市内の私立病院で、病院長が何者かに喉を切られて死亡しているのが発見されました。入院者リストに少女殺人者の名前があり、警察は関連を調べています。
 斎場で、聖別された水が棺にふりかけられるのを見る。奇妙な眺めだ。耶蘇教の埋葬は、すべて土葬なのだと思っていた。地中に収められる棺に遺族が一握りずつ土をかける場面を思い出したからだが、それらはすべて映画の中の光景ばかりだったと気づく。
 火葬の完了を待つ間、親族のつどう控え室に喪主と後見人の居場所はない。施設の周囲をぐるり歩いても、時間は停止したように動かない。互いに語ることをなくしたふたりが、どちらからともなく見上げる煙突に黒煙はのぼらない。いまや、飾りなのだそうだ。
 炎は制御の下に無煙化され、肉を焼く臭気は周到に除去される。飛散しない自意識、管理された死。聖書の一節が思い浮かぶ。はたしてこれは、それと同じものだろうか。
 ――我はよみがえりなり、命なり。我を信ずる者は死すとも生きん。また、生きて我を信ずる者はとこしえに死なざるべし。
 左手に日本刀をさげ、黒いワンピースに身をつつんだ細い姿態。その表情に差す翳りは超越者の憂悶であったことが、いまならばわかる。
 確かに、二十八人と言った。この少女殺人者は、誰も寄せつけぬほど強くなるだろう。

枯痔馬酷男(2)

 「(蹴りあけられた扉が蝶番ごと吹き飛ぶ)広報部は何やってやがんだァ! (手にした雑誌を床に叩きつける)『銃と軍艦+尻と胸の谷間+小児的誇大妄想+三文芝居=MGS(まったりゴックン!銭湯闖入、の略)』だと……こういうのを事前に検閲するために開発費を削って大枚はたいてんだろが! このレビュアーの代わりに生まれてきたことを後悔させてやるぜ! 担当者ァ、一歩前に出ろ!」
 「(整然と並んだモニターの前で脅えきったスタッフの中から、ベースボールキャップのせむし男が足を引き引き前へ出る)へへ、ゲームの外でも軍隊式ですかい。枯痔馬監督のご威光に照らされちゃ、誰も逆らえやしませんや。ここはひとつ、監督の(強調して)男らしい度量と器の大きさを、スタッフたちに見せてやっちゃあくれませんか」
 「(厳しい表情が小鼻の膨らみからわずかに崩れる)おお、周陽! わが友、わが理解者、そして枯痔馬を継ぐ者! 聞かせてくれ、音曲にも似たおまえのシナリオを! おまえに比べればこの世の言葉はすべてささくれだち、ボクの繊細な心にはあまりにつらすぎる……(しなを作りながら両手で自身を抱きしめる)」
 「(右半分と左半分で奇妙に印象の違う顔の造作を歪めて)監督に乞われて断れる人間は、ここには一人もおりませんや」
 「(哀願の表情で)おお、言わないでくれ! 才能という名前の地獄が形成する王者の孤独を何よりも理解するおまえだというのに、そんな皮肉を言わないでくれ! 周陽、ボクは友としておまえと話をしているのだよ」
 「(曲がった口元が痙攣する)ならば、お聞かせしやしょう! スネエクが彼の運営する銭湯掲示板を十年来荒らし続けたその仇敵と現実に遭遇する場面でございやす」
 「(目を潤ませて)近所の銭湯で会釈だけを交わす常連が、愛好家としての心のつながりを信じていた相手が荒らし本人だったという、あの名場面のことだね」
 「そう、こんな切ねえ場面を仮構できる監督の才気に、拙が打たれたあの場面でごぜえやす」
 「同時に、おまえが文章による虚構力をまざまざとボクに見せつけ、枯痔馬の名を受け継ぐにふさわしいことを証明したあの場面だよ」
 「(ベースボールキャップのつばに手をかける)まったく恐れおおいことでして」
 「(フリルのついた両袖を広げて)周陽、おまえが恐れる必要があるのは、おまえを破滅させるかもしれないその才能だけだよ! さあ、聞かせてくれ。砂漠で水に飢えた人間のように、ボクはおまえのシナリオに飢えているのだから!」
 「では……(咳払いとともにロンパリとなる黒目)“スネエクの眼球には浴槽の外(アウトサイド、のルビ)で腰掛ける中年男が写された。スネエクの内(インサイド、のルビ)では、光と陰で構成された中年男の倒立像が網膜の光受容体を刺激・活性化し、視神経という名付けの電脳回路を通過する。その過程で分解された画素(ピクセル、のルビ)は外側膝状体(ニューロン集団、のルビ)を経由して、脳の後方に位置する一次視覚皮質に転送された。同時に、同じ情報が脳幹の上丘を経由して頭頂葉を中心とする皮質野にも転送されている。一次視覚皮質には網膜の感覚(SENSE、のルビ)と点対応を成す視覚地図が広がっていた。右眼球から転送された画素は左側視覚皮質に、左眼球から転送された画素は右側視覚皮質に紐付けられ、ナノ秒をさらに分解する単位でマッピングされてゆく。その情報は分類の後に編集され、中年男の輪郭という視像を明確に捉えるための縁(エッジ、のルビ)が強調される一方で、背景に広がるペンキ絵や番頭が腰紐に挟んだ扇子(SENSE、のルビ)については曖昧化が行われた。編集を終えた情報は劣化せずに、色彩や奥行きなど視覚風景のさまざまな属性に特化した三十ほどの視覚野へと中継される。眼前の中年男が持つ語義的な属性と情動的な属性の検索(サーチ、のルビ)作業と同じくして、側頭葉の高次領域は対象への意味論を展開する。活性化した視覚野たちはやがて不可解のデカルト的統合を果たし、現実空間の中にひとつの像(ヴィジョン、のルビ)を形成した。スネエクに呪詛の言葉を迸らせたのは、その認識だった。『わあ、あなたがあらしだったなんて、すごいびっくりした。もう、おどかさないでよ』”……(黒目の位置が元に戻る)以上でごぜえやす」
 「(レースのハンカチに顔を埋めて)この現実の手触り感ったら……リアルだよ、たまらなくリアルだ」
 「(ベースボールキャップのつばに手をかける)監督は光で、拙は陰でございやす。光が強ければ強いほど、その陰は濃くなるって寸法で」
 「(小鼻を膨らませて)ふふふ、陰影があるからこそ事象は立体的な奥行きを得るのさ。おまえを得た今、MGS新作の成功は約束されたようなもの。宿敵・ホーリー遊児も何を血迷ったのかG.W(ゲームウォッチの略)の世界へ後退し、もはや物の数ではない。しかし、ひとつだけ大きな不安材料が残されている」
 「枯痔馬監督の有する巨大な才能に不安を抱かせるとは……それはいったい、なんでございやす?」
 「(弱々しい微笑を浮かべて)トリプルミリオンを意識するときに避けて通れない一般大衆の愚劣さが好むもの――つまり恋愛感情だよ。しかも、三次元の女性との色恋沙汰だ。おおッ(しなを作りながら両手で自身を抱きしめる)、なんとおぞましい……!!!」
 「(唇の端を歪める)心配いりやせん。その案件についてはすでにシナリオへ織り込み済み、解決済みでさ」
 「(目を潤ませて)周陽、おまえはなんて頼りになるんだろう! これでボクは銃火器と軍艦の描写にだけ専念できるというもの……ただ、ボクの芸術作品に現実の女の臭いがするというのは耐え難いことだ。おまえを疑うわけじゃないが、その点はちゃんとクリアできているんだろうな」
 「キキキ、ぬかりはございやせん。主人公と恋人は遠距離恋愛中という設定でございやす。パソコンとインターネットを使って愛をはぐくんでおりやす」
 「(目を細めて)ほう、膣が陰茎から遠いというだけですでに好ましいな」
 「互いを隔てるのは距離だけではございやせん。東京とサンパウロ、長大な時差がございやす。朝の出勤前に互いのビデオメールを確認しあうという間柄でして」
 「女に貴重な趣味の時間を占有されないというわけか! ますますいいじゃないか! しかし、同じ地球上にいるには違いない。黄砂よろしく、大気を伝って女の臭気や分子がボクのところへやってくるんじゃないのか。アニメ風情とは格が違うんだ。発売日も迫ってきている。女を宇宙に打ち上げるロケハンを行うほどの予算は残っていないぞ」
 「キキキ、仕上げをごろうじろ。ある日、女は出勤途中に橋の欄干から足をすべらせて死にやす。彼女の両親から受けた知らせに呆然となる主人公は、自室のパソコンにビデオメールが届いているのを確認するのでごぜえやす。震える手でマウスをクリックし、そして泣きやす。すでにこの世にはいない女が二次元で優しく微笑むのを見て、モニターを抱き抱えてオイオイ泣くのでごぜえやす」
 「(うっとりとした表情で)完璧だ……三次元の女へ愛情を向けるのにこれ以上の譲歩は考えられないくらい、完璧な譲歩だ。おまえは本当に揺れる男心の機微をわかっているな。“死んだ処女だけが美しい女”とはよく言ったものだ」
 「含蓄の深い言葉でごぜえやす。いったい、どこの国の大文豪から引用なさったんで」
 「(親指で自身を指しながら、マッチョな表情で)このボクからさ!」
 「道理で。(ベースボールキャップのつばに手をかける)大文豪というくだりだけは、間違っちゃおりませんでしたか」
 「(破裂せんばかりに小鼻を膨らませて)なんて機知に富んだ男だ! おまえの応答には退屈させられるということがない。それに引きかえ……」
 「(大声で叫びながら部屋に駆け込んでくる)てえへんだ、てえへんだ!」
 「(不快げに眉をひそめて)何事だ、賢和。この世界の枯痔馬のセクシータイムを直接わずらわせなければならないほどの重大事だというんだろうな」
 「(両腕を不規則にばたばたと動かしながら)バグでヤンス! ゲームの進行に深刻な影響を及ぼす規模のバグが、同時に三つも出たんでヤンスよ!」
 「(手のひらに拳を打ちつける)クソッ、この時期にか! プログラム陣は全員、生まれてきたことを後悔させてやる! 詳細を報告しろ!」
 「BB(主人公の無賃入浴を阻止するために雇われた四姉妹、ボイン番頭の略。度重なる無賃入浴は、やがて町の銭湯の廃業へとつながってゆく)たちのリーダー、鎌田キリ子の乳揺れが異様でヤンス! まるで重力を無視して、上下左右に揺れまくるでヤンスよ!」
 「(賢和の頬に拳をめりこませる)ボクは断じてインポテンツじゃないッ!」
 「(両手足を大の字に広げて壁に叩きつけられる)ぐはぁッ!」
 「騎乗位の視点から眺めた乳の動きを並列化したコアの演算機能で数値解析し、三次元的にシミュレーションを行ったんだよ! 乳首にモーションキャプチャーのマーカーを貼り付けるなんておぞましいことをボクにさせる気なの! 本物が見たいならソープに行けよ! ボクはボクの頭にある美しい光景だけが見たいんだよ! 汚い現実は見たくないんだよ!」
 「(口の端から血をぬぐいながら)は、早とちりでヤンした。でも、次のは間違いないでヤンス」
 「(ウェットティッシュで執拗に拳をぬぐいながら)言ってみろ」
 「(満面の笑みで)もう死ぬと言って倒れた登場人物が40分以上しゃべり続けていて、一向に死ぬ気配がないでヤンス! しかも似たような話と台詞を繰り返すばかりで、これはプログラムが無限ループに陥ってるに違いないでヤンスよ!」
 「(賢和の頬に肘鉄をめりこませる)この毛唐の手先めがッ!」
 「(両手足を卍状に広げて壁に叩きつけられる)ぐはぁッ!」
 「(繰り出した肘の先端を震わせて)同一モチーフの再登場はテーマを強調するための常套だろうが! そして繰り返しはプレイヤーどもの知性への疑義の提示と同義で、一方的な奴らからの批判に対抗する意図があるんだよ! 何より死の間際の長広舌は日本芸能のおハコだろうが! 欧米に侵された感性でボクのシャシンを判断するんじゃないよ!」
 「(普段は動かない方向に曲がった関節を元へ戻しながら)は、早とちりでヤンした。でも、次のは間違いないでヤンス」
 「(ウェットティッシュで執拗に肘をぬぐいながら)言ってみろ」
 「(得意げに)異様に演技の下手な声優がひとり混じっているのを見つけたでヤンスよ! その拙さに思わずコントローラーから手を離して耳をふさいじまうので、ゲームの進行が不可能でヤンス!」
 「(賢和の頬にハイキックをめりこませる)そりゃ、ボクのことだ!」
 「(両手足をカギ十字状に広げて壁に叩きつけられる)ぐはぁッ!」
 「大好きな輪島崩子(わじまぽんこ)ちゃんが、ボクの童貞告白に『私もはじめてなの』と処女膜の健在を宣言する! そのやりとりを私的利用のためサラウンド録音するという、物語の内的必然性を体現した極めて重要な場面じゃないか!」
 「(通常稼動する範囲を越えて回転した頚椎を元へ戻しながら)これまた監督の深遠すぎる意図を汲みそこねた早とちりというわけでヤンス」
 「(ウェットティッシュで足の甲を執拗にぬぐいながら)おい、賢和。ボクとポン子ちゃんの苗字を声に出して読んでみろ」
 「(脅えた表情で)こ、枯痔馬。わ、輪島。これでいいでヤンスか」
 「(うっとりとした表情で)コジマにワジマ……2文字もいっしょじゃないか。ボクはここに宇宙的な運命を感じるよ。ああ、かわいそうなポン子ちゃん! 神の悪戯がこれほど引かれあうボクとポン子ちゃんの精神的な結合を許さない……あの愛らしい声がこともあろうに女の肉で包まれているなんて、こんな悲劇ってあるものか! だからボクはポン子ちゃんに正しい容れ物を用意してあげるんだ。最新の映像技術を使ってね(手のひらを組み合わせて遠い目をする。が、途端に険しい顔となる)……いつまで見てやがんだ! さっさとデバッグ作業に戻りやがれ!(賢和の尻を蹴りあげる)」
 「(両手の肘から先を力なくぶらつかせながら)し、失礼いたしましたァ!」
 「(遠ざかる茶色に染まった尻を見ながら)周陽、おまえはボクを裏切るなよ」
 「(ベースボールキャップのつばに手をかける)へへ、それは監督の胸先三寸次第で」
 「(唇を噛みながら宙空をにらみつけて)ホーリー遊児め、なぜ今更G.Wなんだ。わざわざボクにハンデをつけようっていうのか。G.Wでこの表現力に適うと、本気で考えているのか」

枯痔馬酷男(3)

 静まり返った深夜の雑居ビルに一室だけ点る灯り。文字の本来が持つ伝達という意図を無視した乱雑さで“シナリオ会議”と極太マッキーで書かれた紙片の掲示される扉の向こうには、複数の男たちが額を寄せ合ってうめいている。上座に位置する男、露出した頭皮へわずかばかり残った下生えを凄まじい勢いでかき回している。
 「(血走った目で)矛盾はねえか、矛盾はねえかァ! MGSの完結編となるこの作品、わずかばかりの不整合や語り残しさえ、二度と語りなおせないという意味で致命的な瑕疵となりうる。広げた風呂敷の裏で実は何も考えていなかったと、(実際にそうすれば見えるかのように宙空をにらんで)奴らに格好の批判の口実を与えるなど、断じてあってはならないのだ。(積まれた原稿用紙へ十センチまで視線を近づけて)矛盾はねえか、矛盾はねえかァ!」
 「(関節を感じさせない動きで両肘から先をぶらぶらさせながら)見つけたでヤンスよ! 廃業した銭湯の湯船で殺されていた豚醜女(ぴっぐ・ぶす、と読む)の死因でヤンス! 入り口にはインサイドとアウトサイドから板が打ちつけられ、あらゆる侵入経路は完全に封鎖されていたにも関わらず、日本刀は被害者の手が届かない背中から胸部へ突き抜けているでヤンス!」
 「(額に浮かんだ無数の血管に両手の爪を突きたてて)ぐぬぅ、ぐぬぬぅ! (突如椅子を蹴たてて立ち上り、両手を前傾姿勢から後ろ向きに伸ばすと、異様な熱をはらんだ目で宙空を凝視する)」
 「で、出た、酔狂のポーズでヤンス! 周陽、よく見ておくでヤンス! あのポーズが出たとき、枯痔馬監督に解決できないシナリオ上の問題点は無くなるんでヤンス!」
 「(額に一滴、汗のしずくが流れ落ちる)噂には聞いていやした……まさか、この目で拝見できるとは……」
 「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 豚醜女を殺害した犯人は入り口をアウトサイドから閉鎖した後、大気散布型のナノマシンを使って死体を遠隔操作し、被害者自身にインサイドから木材を打ちつけさせたのだ!」
 「(スーパーのチラシの裏を見ながら)MGSの年表を眺めていたのでごぜえやすが、THE・醜女(ざ・ぶす、と読む)の懐妊時期とスネエクのED(勃起不全、のルビ)が始まった時期が整合しやせん」
 「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 体内循環型のナノマシンがスネエクの海綿を充填し、一時的にEDの回復を見たのだ!」
 「(両肘から先をぶらぶらさせながら)見つけたでヤンスよ! このムービーで鎌田キリ子の膣口が重力方向ではなく水平方向に開いているでヤンスよ!」
 「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 生体置換型のナノマシンが、鎌田キリ子の遺伝情報を根本から書き換えたのだ!」
 「(両肘から先をぶらぶらさせながら)アッ! この場面、太陽が西から昇っているように見えるでヤンス!」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 大気散布型と生体置換型の混合タイプのナノマシンが、スネエクの大脳辺縁系を侵し、主観カメラに影響を与えたのだ!」
 「(スーパーのチラシの裏を見ながら)MGS年表を眺めていたのでごぜえやすが、二人ばかり年齢が二百歳を越えておりやす」
 「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
 「(両肘から先をぶらぶらさせながら)じゃあ、お湯の上を走っても沈まない妊婦の挿話は」
 「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
 「(スタッフらしい男が入室しながら)すいません、昨晩から腹を下してて、どうも便が水っぽくて」
 「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
 「(スタッフらしい男が退室しながら)監督、レンタルビデオの延滞料とられそうなんで、申し訳ないですが今日はこれで失礼します」
 「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
 「(額に流れる汗のしずくをぬぐいながら)恐ろしいばかりの才気、そしてそれを上回る執念……拙が唯一持ち得ないものは、自分以外の一切を度外視したこの妥協の無さ……」
 「(空々しい拍手とともに)みなさん、夜遅くまでお勤めご苦労様です」
 「(全員が一斉に戸口を見る)誰だッ!」
 「(登頂を経由して大雪山の角度になでつけられた頭髪の隙間から、雪の反射光を思わせる不可思議の輝きを発しながら)誰だとはお言葉ですな。場末の雑居ビルという哀れな舞台装置とこの大人物とのギャップが、それを言わせたのかもしれませんね(戸口の暗がりから電球の傘の下へ歩み出る)」
 「(犬歯を剥き出しにして)ぐぬぅ……ホーリー遊児……ッ! いったい何をしに……!」
 「(かきあげすぎないよう細心の注意を払って大雪山に手櫛を入れながら)陣中見舞い、ですよ。同業者としてね。さて、これは非常につまらないものですが(机の上に、提げてきたポリ袋を投げ出す。重く湿った音が響く)」
 「(癇の強い叫び声で)賢和ッ!」
 「(回転レシーブの要領で顔面から床へ這いつくばり)ハイィッ! 何でございましょうかぁッ!」
 「(顎をしゃくって)早速ホーリー先生のご好意をお確かめしろ」
 「こういう役目が回ってくるという予感がしていたでヤンス……(足の指を使っておそるおそるポリ袋の口を開く)ヒイイィィッ!(尻餅をつき、失禁する。ポリ袋の中からは、頭蓋を丸く切り取られ、脳味噌を露出した馬の生首が転がり出る)」
 「中国では悪い身体の部位を食べることで養生をすると言いますから。(両手を広げて)枯痔馬監督の患部にぴったりの差し入れをと熟考いたした結果でして!」
 「(チック症状が見え隠れし始めるも、つとめて慇懃に)シナリオ仕事で原稿用紙に向かうと、どうも(強調して)目が弱ってきていけません。ホーリー先生のご好意だけはありがたく頂戴するとしましょう」
 「(青ざめて立ち尽くすスタッフを見回すと、含み笑いを拳で押さえながら)『神は笑うことを恐れる観衆を前に演じる喜劇役者だ』とはよく言ったものですな」
 「(ベースボールキャップをとり、胸に当てる)ご高名は拙のような低きにも届いてきておりやす。さすが、ホーリー遊児、含蓄の深え言葉で。いったいどなたからの引用でございやす?」
 「(色つき眼鏡のつるに中指を当てて)ヴォルテールですよ。金言集は実に役立ちます。私は作家ではなく、ただのゲーム製作者なのでね」
 「(顔面の右半分をチックに侵食されながら)周陽ッ! おまえが敬意を示すべき相手は誰だッ!」
 「(悲しそうな顔になり)なんと心の狭い言い様か。だとすれば、枯痔馬酷男が退行してしまったという噂は、やはり本当だったということですか。前回の貴方は、本当にいいところまで来ていたのに! (遠い目をしながら)そう、ブレイクスルーに肉薄さえしていた。(机の上に広げられた原稿用紙やチラシの山を見て)しかし、今の貴方は己の脳髄のみで設定の辻褄を合わせるのに必死だ。熱情と奇跡と世界との融和が奏でる自動律が、作り手の意図を超えたところですべてを整合する」
 「(顔面全体のチックに震える声で)賢和、ホーリー先生はひどく酔っておいでのようだから、丁重に外までお送りしろ」
 「(聞こえないかのように続ける)制約がゲームを作る。46文字の平仮名と19文字の片仮名が無限の世界を作ったあの日を、私は決して忘れない。それとも、貴方は忘れてしまったのですか? 他のメディアを剽窃するのではなく、与えられた媒体に安住するのではなく、自らの治める王国を自らの手で探し出したいという燃える渇望。その熱気に満ちた初源がゲームという新たな地平を生んだのです。技術の限界を知恵で超越するという、世界と人間とのメタファーにも通ずる苦闘がゲームを鍛えたのです。私たちは私たちだけの王国を築き上げた。次世代の旗手として貴方には王国の城壁を堅持して欲しかったのです。私が今になってG.Wに回帰しようとするのも貴方を最右翼とする――認めましょう――次の人々に、流浪の民の上へ響いたThy Kingdom comeの喜びと祝福を再び思い出させたいからなのです。卑近な制約を知恵で超克する、これが日々の営みの本質です。制約の存在しない場所で自己を解放したところで、どれだけ高く跳躍しても雲に手が届くことは決してないのを知るのと同じ絶望をしか生みません。大容量メディアを前にした貴方は、おそらくその絶望に気がついたはずだ」
 「(無言。いつのまにかチックは消えている)」
 「(肩をすくめる)話すつもりのなかったことまで話してしまった。それだけ、私は貴方に思い入れがあったということでしょう。しかし、もう貴方に会いたいと思うこともありますまい。何より、トラ喰え最新作の作業にする没頭が貴方を忘れさせるでしょう(踵をかえすと、たちまちに立ち去る)」
 「(ホーリーがいなくなり、沈黙が降りる。それを破るように、渇いた笑いが周囲へひびく)は・は・は・は……あっさりと認めやがった……この枯痔馬さまが次世代を担う旗手だと、認めやがった」
 「(ベースボールキャップのつばに手をかけて)どうやら、そのようでごぜえやす」
 「(ひどく不安そうな口調で)制約だって? ばかばかしい! 俺は今回、BD(ビッグ・ディルドー、の略)の容量をすべて使い切ったんだぞ……この事実こそが、与えられた制約を乗り越えた客観的な証拠じゃないか! 莫大な物量が質に転換する分水嶺を越えて、そうだ、俺は俺だけの新たな王国を築くことに成功したんだ。そうさ……俺はMGSの最新作でゲームを超えたんだ……(消え入りそうな声で)俺は、ホーリー遊児に勝ったのだ……」
 「(両肘をだらりと垂れ下げて)周陽、ホーリー遊児と話をすると、枯痔馬監督はいつもおかしくなっちまうでヤンス。前回は事務所を解散すると言い出して……また見捨てられないか不安でヤンス」
 「(ベースボールキャップのつばを引いて深くかぶり、独り言のように)ホーリー遊児に敵対し、その存在を頑なに否定しながら、彼の提示した方法論とパラダイムに則って自作を評価している……これは、そろそろ潮時かもしれやせんね」