猫を起こさないように
少女保護特区(6)
少女保護特区(6)

少女保護特区(6)

 当局の提供する簡易宿坊に腰を下ろすと、予は背嚢からラップトップ式のパソコンを取り出す。ビデオカメラと双璧を成す、予の配下において最も重要な子飼いである。予の少女との別離がもたらした衝撃から回復しつつあった予は、たとえ無償の提供を受けたとしても感謝ではなく批評が真っ先に来訪するあの豪胆さが身内に戻りつつあるのを感じていた。起動を待つ間、予はあてがわれた部屋の価値を値踏みするべく視線を走らせる。床には布団というよりはむしろムシロが引かれ、排泄物を垂れ流す穴は板囲いがしてあるだけだ。その質素さに比べて、数本の鉄棒が重力方向へ平行に走る戸口だけは奇妙に装飾的である。鉄棒を通り抜けて、予のノートパソコンから伸びたケーブルが廊下を這っている。ネットワークへ接続できる環境の提供を論理的かつ強力な身振り手振りで主張する予に屈する形で、大便のごとくに巻かれたそれがうやうやしく投げ与えられたのである。その先端はいまや予の希望を適えるべく管理官の舌打ちを乗せて、通路の奥へと消えている。
 ブラウザを立ち上げると、予はブックマークのひとつをクリックする。少年と少女が生気の無い目で視線を宙空へと彷徨わせる足元に「青少年育成特区」と装飾的な字体で記された、例の見慣れたロゴマークが出現する。画面の下部から回転しながら現れ、中央に一定時間静止してから上部へ消えていくのだが、スキップする方法はない。おそらくは、取り出した煙草に火をつけさせるためだろう。官庁がするこの心にくい時間的配慮を、予はひどく気にいっている。肺腑が吸い込んだ煙で満ちると、予の呼吸は何千分の一秒か完全に停止する。全身の血管を毒が駆け巡り、予の自尊心に死という等価の重りを与え、予はほとんど敬虔な気持ちになる。もはやただの物質と化した煙を鼻から勢いよく噴出しながら、画面に焦点を合わせないまま、予はマウスを数センチ滑らせる。エッチ・ロリコン板のバナー上にカーソルが到達するのと、予が人差し指を痙攣させるのは同時だった。そして次の瞬間、予の内側にあった至高の安逸は完全に消滅したのである。
 さて、性的な暗喩が他の暗喩を圧してあまりに素早く脳内へ醸成される諸兄のために、いまの場面を少々補足する必要があると予は考える。予が閲覧しているのは、AvengerLicenseを持つ者たちの動向をランキング形式で記録する官庁の広報用ボードである。正式名称は”The Hardcore Ladder of Liberty for Girls’ Survival Convention”だが、その頭文字を取って俗にH-L-o-Li-Con板、あるいは単にL-o-Li板と呼ばれる。後者の場合、中間の母音を脱落させ、ろりーた、と発音するようだ。暴力という観点から許可証所持者の危険度を客観的に測り、台風や津波等の災害警報のように民間人へ注意を喚起するため設置されたのだが、もはやその本来の理念を念頭にアクセスする者はいない。少女たちの顔写真に出歯亀的関心を持つか、少女同士の対決を対象にした非公式の賭博を行うか、許可証所持者の係累に連なるか、次に殺害する同胞を求めるかが利用目的の大半である。予は無論、このボードを最新の状態に維持するための情報提供者の一人であり、いずれにも該当しないことを付け加えておく。
 次にロリ板の特徴である。基本的にすべての許可証所持者が登録されており、少女同士の接触の際に闘争が生じた場合、その結果は可及的速やかにランキングへ反映されることになっている。上位者が下位者に勝利した場合はSポイントと呼ばれる点数が上位者に加算される。頭文字Sの意味については殺戮とか殺害とか殺傷とか諸説あるが、はっきりとしない。下位者が上位者に勝利した場合はお互いの順位が入れ替わり、死亡者の氏名は暗転表示されてランキングの最下位に回される。もはや半分以上の氏名が灰色に沈んでいるが、その総数は日々増え続けている。命の軽重を視覚化するこのランキングには美人コンテストに向けられるのと同質の感情的な非難が集中する。しかし、予はロリ板を心の底から愛した。望むと望まざるに関わらず、生命の価値に序列は存在する。その真実への社会的検閲を極めて局所的にではあるが無化するこの板は、予にとっての福音である。
 一位から以下二十名は拳闘風に表現するならば上位ランカーとされる。下位者からの挑戦を多く受けるも彼女たちの敗北は稀である。マッチメイカー不在ゆえに上位ランカー同士の闘争がほとんど発生しないため、その構成員はほぼ固定されている。スポーツとは違い、何の名誉も伴わないランキングである。力の拮抗した者同士の闘争には死のリスク以外が存在せず、必然的に争いは回避されるのであろう。だが、自然淘汰が発生しないという意味合いで、上位二十名のランキングは現状を正確に反映できない恐れがある。そこで、より多くの実戦に生き残っている事実を客観的に示す、先ほどのSポイントが登場するのである。加えて、予を嚆矢とする少女観察員が全国に遍在し随時の情報提供を行う。当局はそれらを集約して、諮問機関である少女審議委員会、略して少審へ上位ランカーの正当性について検証を依頼するのである。上位二十名の少女たちは殺傷力、持久力、敏捷性、成長性、処女性から成る五つの観点を五段階で評価される。最後に挙げた項目、処女性が何を評価しているのかについては、ロリ板において長く議論の対象とされてきた。なぜなら法律上、許可証所持者は全員、言及するまでもなく処女のはずだからである。現在では、該当少女の精神や容姿を判定しているのではないかという推測が多数を占める。また、評価システムそのものに対する疑念も多い。少審の五段階評価を仮に二十五点満点へ換算した場合、点数の寡多と順位が連動しないという指摘は、メジャーな議論の一つである。例えばランキング二位の老利政子は順にDCEEAであり、総得点はわずか十二点にしかならない。これは、上位ランカーの中で下から三番目に低い数字である。各項目が異なった係数を与えられているという見方もあるが、未だ大統一理論の完成は遠いようである。
 話を戻そう。予が受けた衝撃は、予の少女の名前を仁科望美、老利政子から始まる上位ランカーの中に発見したことへ由来したのである。実際の闘争を除けば、少審による上位ランカーの格付けは「その必要が生じた際、適宜」という会則に則り行われるが、その頻度は最短で四ヶ月、最長で二年半とまちまちである。格付けと格付けの谷間の期間はシーズンと呼ばれ、現在は特区法制定から十六回の格付けを経て、17thシーズンに該当するはずだった。しかし、今回のアクセスは予に18thシーズンの到来を告げたのである。予の少女の順位は十九位、評価は順にCDBBBである。予はただちに予の少女の敏捷性と処女性を一段階高めることを具申する陳情書をしたためにかかる。あの野良少女が、もしや上位ランカーだったのではないか。予の少女が迎えるだろう終わりのない闘争の日々への不安が、予の心へにわかに積乱雲の如く佇立するのであった。先に述べたように、上位ランカー同士の争いは極めて稀であるが、下位者から受ける挑戦は激増する。過去、二十位入り直後の一週間で名前を暗転表示させた少女がおり、少審への抗議が殺到したこともある。殺戮ではなく審議によるランクインであったからだ。少審の構成員が非公表であることも相まって、ランキングの恣意性については常に批判が耐えない。
 その少女の二の舞となる心配は無いと信じたいが、実際のところ両親の死が予の少女の暴力に何らかの影響を及ぼした可能性を予は否定できない。予の少女に向けられた外部評価の不当な部分をくつがえしておくことは、しかし当面の挑戦者たちを牽制する役には立とう。陳情書を裏付ける情報として、予の少女の闘争をあますところなく記録・編集した動画をアップロードせんと、予は全国の少女観察員たちが共同で管理するサーバーへアクセスする。煙草一本分の時間を経て無事にファイルが転送されたことを確認するため、予の少女の躍動をネット上で眺めるうち、予は奇妙な感情が身内にわきおこるのを感じた。このような陳列がひどい冒涜にあたるのではないかという、理屈に合わぬ思いである。予は予の行う社会正義を信じていたし、手に入れた情報を他者と共有することで生まれる新たな発見や思想を喜んでもいた。予は宗教家ではない。だが、無神論を言うほど人間を超えた何かを信じていないわけではない。デジタルではない部分を持つ神は電子回線を通るときに劣化しないのだろうか。予の側にある神聖さへの畏敬は果たしてこの方法で共有できるのだろうか。突然の内なる問いかけに予はとまどった。予の少女の動画を閲覧することがなぜこのような疑問を生じさせるのか全く分からぬまま、予はアップロードしたファイルを衝動的に削除する。サーバーはすでに自動的なバックアップを行っているはずで、予の少女の動画はそれを撮影したときの予の感情とは切り離されてやはり誰かに届くだろう。だが、予の想いを伴った動画は削除されたのだ。その不合理な安堵感に、予は不快を禁じざるを得ない。電子メールによる陳情書を送信するとき、ファイル名を含むURLを消さなかったのは予の予に対する腹いせである。ノートパソコンの電源を落とした予は、入り口の装飾的な鉄棒に手をかけて前後に強く揺さぶった。耳障りな音が廊下へ響き渡り、やがて眠そうな目を擦りながら管理官が現れる。予が宿坊からの退室を願いでると、午後九時以降の入退室は規則により禁じられている旨を言いかけるが、ケーブルをめぐるやりとりを思い出し論理的かつ確信に満ちた予を論破することが難しいと悟ったのに違いない。予から放たれる無形の圧力に屈する形で、管理官はしぶしぶと鍵束を取り出した。特例なので見つからぬよう裏口から出て欲しいと申し出るのを超然と退け、予は表玄関から外界へと堂々の帰還を果たしたのである。
 予の少女の居場所を割り出す追跡行が異例の短期間で終結をみたことで、二人の間に横たわる強い絆への確信を予は新たにした。予の少女が所持する携帯電話にはGPS機能が備わっており、子飼いのノートパソコンがする獅子奮迅の活躍のおかげで、現在位置を市内のホテルへと特定できたのである。諸兄もご存知のように予の面体はあまりに高貴であり、加えて身にまとうオーラとも呼ぶべき不可視の何かが凡百の人民をして常に過たず、この人であると指ささせる要因となっている。ビデオカメラを筆頭として一筋縄ではいかぬ、歪さこそが才能に直結する歴戦の子飼いたちを統率するのにその、予の持つ生来のカリスマ性は極めて重要な役目を果たしていると言えよう。しかしながら、ホテルのロビーなどを通過しようとするとき、品よく裁縫された制服に野生と暴力を去勢された憐れな兵士である警備員が、志願兵として雇用の可能性を尋ねるために違いない、予を呼び止めようとすることが頻繁にあった。予の手下は精鋭を以てよしとする。直立の威嚇行為に塩を得る彼らは、予の向かう闘争を前にすればすくんで身動きもとれまい。それをわざわざ口頭で伝える無神経さも予の高貴な精神にははばかられたので、ロビーが客室応対の電話を取り上げ、警備員が交代の引き継ぎに詰め所へ戻る一瞬の間隙をぬって、予は全軍に突撃を命じる。予と兵士たちはエスカレーターを二段とばしに駆け上がり、中二階からエレベーターへ滑り込むことに成功した。電光石火の奇襲作戦を成功させ、兵士たちは意気を強める。予の指揮ぶりを褒め称える万呼が頭蓋に鳴り響く。並の将ならば破顔してそれに応えるところだろうが、エスカレーターの中に人がいたこともあって、予はただ鷹揚にうなずくにとどめた。敵陣にあっては天災のごとき大勝利にも気を緩めぬ様子を見て、子飼いの勇将たちは予の大きな器を感じとったようである。兵士たちが予への崇拝を闘魂へと変えて静かに、しかし烈々と燃えたたせるのがわかった。結果、予は最小を用いて最大を得たのである。
 最上階から順に各階をしらみつぶしにする腹づもりであったが、二人の絆のおかげであろう、予の少女が滞在する階は容易に同定できた。空気中へかすかに混じる血の匂いは、少女殺人に立ち会うこと頻繁な予にとって、もはや馴染みと言ってよいものである。匂いに導かれるまま、予は向かいあって立ちならぶ扉の谷を進軍する。この階に降りたった瞬間から、状況を察知した全軍は予の命令に先んじてすでに臨戦態勢にあり、それに応じて行軍は極めて慎重なものとなっていた。じりじりするようなその速度の中、回廊の対称性が持つ無個性の印象は予に終わりのないループを連想させる。五感を刺激する情報の乏しさに時間への意識が麻痺しはじめた頃、斥候の任に当たっていたビデオカメラがそのズーム機能によりわずかに開いた扉を発見し、伝令を寄越してくる。予は前線へと急行する。
 薄闇の濃厚さが訴えかけるような感覚は、実際に少女殺人へ立ち会ったことのある者にしかわかるまい。予は口中で唾が固まっていくのを意識しながら、人が通れるほどまで隙間を押し開く。はたしてそこには、頭頂から縦方向へ二つに開かれた白人男性のさらす人体の不思議が、部屋の奥から漏れる間接照明の光に照らされていた。鮮やかなその断面が、日本刀での斬撃によることは疑いがない。陳情書に記述する格好の材料として、予はズームしたビデオカメラの視界をゆっくりとなめさせる。空間的に不安定なはずの性器までもが測ったように同じ容積の二つになっており、予は様々の意味で縮みあがらざるをえない。白人男性の右手に名刺大の紙片が握られているのに気づいたビデオカメラは、さらに視界を拡大する。最大の望遠を用いてようやく視認できたその紙片にはヘルス・エンジェルと大書きされ、0120で始まる電話番号が記載されていた。白人男性にとって配達されてきた死は、まったくの意想外であったことが推察される。遺体から点々と続く血の跡がバスルームへと消えているのを確認し、予は様々の意味でふくらまざるをえない。しかし、浴槽にはすでに使用された形跡があり、予は様々の意味でしぼまざるをえない。浴槽の底と濡れたバスタオルはわずかに桃色へ染まっている。予はそれらへ口づけたい欲求を、白人男性の遺体を思い浮かべることで防がねばならなかった。バスルームを出ると、周囲に漂っていた濃密な血の匂いがほとんど感じられなくなっているのに気づく。嗅覚が鈍化したのであろう。あとは遺体の方へ視線を向けないようにすれば、この客室は完全に清潔な空間と信じることができる。我が身が痛まない限り、この世で地獄が長続きしないことを予は知っている。
 大きなベッドの中央に、小さなふくらみがあった。そこに予の少女が寝息を立てている。永遠のように思われた別離はその実、わずか数時間のことに過ぎなかった。予は書き物机から椅子を引き寄せ、ベッドの傍らに腰かける。神ならぬ人の身が作り出した殺戮する天使は、小さな頭を枕にうずめ黒髪を放射状に周囲へ投げている。喉まで引き上げられた薄手のキルティングにすっぽりと包まれ、予はそこにあるのが予の少女の生首なのではないかという錯覚を抱く。青く見えるほどに白い肌へわずかに隆起する赤は、ベッドの上にある唯一の色彩的要素であった。やがて、予の少女の呼吸が浅くなる。おそらく、予という闖入者の存在に気がついたのだろう。予の少女が寝具の下に日本刀を隠し持っているのだとすれば、予は完全にその間合いにいる。予の少女は予を傷つけぬという自信は、もはや過去のものになっていた。立ち上がろうと足の筋肉を硬直させた瞬間に、予の少女は予を切り捨てることができる。
 実のところ、この瞬間まで予は予の真意を測りかねていた。予の意識はあまりに深遠であり、時に自分が何を知っているのかを知らぬことさえあった。つまり、予は予の少女に殺されるためにここへ来たのである。いまや予の少女の中で予と両親は渾然と同化していた。予の少女が幼い頃から求め続けた抱擁を、両親と同じく予が拒絶したからである。予が殺されることは、予の少女を解放するだろう。そして、予の少女が解放されることで初めて、予は現世のあらゆる欺瞞を超えてこの狂おしい恋慕を完成させることができる。惜しむらくは、予の少女を抱きしめる瞬間に予の実存が肉体を喪失していることか。予と両親を失った予の少女はその暴力の根拠を揺らがせ、やがて青少年育成特区から発した多くの狩られる存在へと堕ちていくだろう。そこまで考えて、予はこの行動に自棄の感情が含まれていることを否定できなくなる。予は予の少女への恋慕ではなく単に理性でもって、時間差の形で心中を作ろうとしているのやも知れぬ。もはや瞬きすらできず、予は予の少女の端整な横顔へ視線を釘付けにしたまま、ただ呼吸のリズムを合わせるしかない。この、他殺を模した自殺がサクリファイスではない事実を発見したことで、予の明晰な頭脳は極めて稀な、思考停止に近い混乱を生じたのだった。
 両耳の間に心臓を移植したかの如き騒擾を裂いて、予の頭蓋に鈴の音が鳴りひびく。気配の方へ視線を送れば、ベッドの足元には和装の少女が立っている。いつからそこにいたのか、予は予の想念へあまりに深く没入しており、その侵入を気がつけなかった。失態である。直線に切りそろえられた襟元と額の黒髪に、瞳は瘡蓋のような赤茶色をし、蝋で固めたような顔にはおよそ人が持つ感情の一切は認められない。
 ――老利政子である。少女審議委員会から派遣された。
 外見とはそぐわぬ、年ふりた声だった。他人に対する強制力を疑わぬ、予と同じ、命令する側の声である。応じるように寝具が裂け、内側から抜き身が跳ね上がる。だが、その必殺の斬撃に対して和装の少女が行った動作は左足をゆっくりと手前に引くだけであった。ベッドを二つに割った日本刀の威力は、いとも簡単にいなされたのである。羽化した蝶のように、予の少女は斬撃の余勢を駆って回転しながら床へ降り立つ。そして窓を背にすると、鞘へ戻した刀を腰だめに構えた。
 ――老利政子は闘争を求めない。だが、求められた闘争を拒絶するほど愚かではない。
 応じるように予の少女が抜刀し、老利政子がゆっくりと一歩下がる。切っ先は細い首があった空間をむなしく通過した。予期した切断の手ごたえを得られなかったためか、制御を失った刀身は流れて背後の窓ガラスを粉砕する。少女殺人に立ち会うこと頻繁な予の経験則からして、一方がまだ獲物を見せていないにも関わらず、どちらが殺される側にいるのかはもはや明白であった。我が身を守るように日本刀をかざした予の少女の両目は大きく見開かれ、追い詰められた猫科の肉食獣のようである。老利政子が一歩を踏み出す。見えない力に弾かれたように、予の少女は背後の窓から夜空に身を躍らせる。一足飛びに距離を詰め、和装の少女が宙を舞う。
 駆け寄った窓の外には、頭上で日本刀を高速回転させて滑空する予の少女と、居並ぶビルの屋上を人外の跳躍で八艘飛びに追いかける老利政子の姿あった。予はクローゼットから予備のシーツを引きずり出し両手両足の指で四隅を挟むと、むささび飛びに追跡を開始する。だが、超人ではない予の身体はほとんど重力だけの落下と同じ速度で、ホテルへ隣接するビル屋上へと近づいていく。もちろん、この程度の危地は自室での二十年に渡る思索の生活においてすでに想定済みである。冷静にシーツを放棄すると予は、爪先、膝、腰、肩、側頭、頭頂の順に接地および回転し、落下の衝撃をすべて受け流すことに成功する。なぜか右腕が上がらなくなったが、一時的なことだろう。子飼いのビデオカメラは左手で構えれば全く問題がない。階段を駆け下りて街路に立てば、はるか前方のビルへ上空から二つの影がもつれあうように降下してゆくのが見えた。予は大音声で最強行軍を号令する。
 ――少女審議委員会の至上目的は、第二の仁科望美を作らぬことである。本日、新たな上位ランカーとの接見を果たしたが、老利政子は安心をした。
 息を切らせて階段を駆け上がり、屋上へと続く鉄扉に手をかけた予が聞いたのは、命令する権利を疑わない者だけが発することのできるあの強い声であった。こちらに注意を引きつけるため、予はわずかに浮かせた扉を蹴り開ける。けたたましい音に、二人の少女がこちらへ視線を向ける。予の少女は片膝をつき、日本刀に身をもたせてかろうじて上体を維持している。制服のあちこちが裂け、そこから流血も生々しい傷がのぞいている。老利政子は目を細めると、食餌を発見した有鱗目のように予を見る。
 ――もっとも、不確定要素が残されていないわけではない。老利政子はこの芽をあらかじめ摘んでおくこともできる。
 応じるように、もはや力尽きるふうであった予の少女が刀を振り上げて、背中へと切りかかる。老利政子は身じろぎひとつしない。抜き身は誰もいない虚空をないで、斬撃の勢いのまま予の少女は予の足元へと転がりこんでくる。
 ――しかしながら、確実性を欠く予断に基づいた殺戮は、老利政子と仁科望美の区別を難しくする。老利政子は何より矜持のため、この機会を見送ることとする。
 和装の少女はほんの軽い屈伸で、屋上の貯水槽へと移動した。伏したまま肩で荒い息をする予の少女に、もはや立ち上がる力は残されていないようである。満月を背景にした和装の少女は、予が予の少女に捧げていなければ心惑わされたであろう、人外の美を放っていた。わずかに腰を落とした老利政子を中心にして大気が渦を巻き、来たる躍動への予感が辺りを充満する。しかし、予には確認しておくべき事柄があった。無論、予とてわずかの推測を手がかりにした問いかけであり、まさか真実がそのまま得られると考えていたわけではない。
 ――いかにも、老利政子の保護者は老利数寄衛門である。だが、このことは決して他言せぬがよろしかろう。少女審議委員会の構成員には公安警察の出身者も多い。もし約束を守れぬ場合、今後の行動に極めて重篤な制約を受けると理解するがよい。
 つまり、老利政子の率直な返答は、この段階において予と予の少女が少審にとって全く問題ではなかったことの証明である。さらに質問を重ねようと予が口を開いた瞬間、貯水槽から和装の少女が消滅する。視認不可能な速度の跳躍で上空へと自らを射出したのだ。予が抱え起こしたとき、失血によるものかショックによるものか、予の少女はすでに意識を失っていた。予は右腕をかばいながら予の少女を背中にかつぐが、ほとんど子どものように軽い。鞘に収めるべく拾い上げた日本刀は反してひどく重く、優に持ち主の体重以上はあるかと思われた。少女殺人者の持つ特権に潜む業の深さを垣間見るようである。老利政子が去ったにも関わらず、予と予の少女は依然として重大な危機の中にあった。無数に刻まれた傷がどの程度深いのかもわからず、近隣の医療施設へはあまりに長大な主観距離が横たわっている。なぜなら、市内を徘徊する他の少女殺人者たちにとって、重傷を負った上位ランカーは自らのステータスを一息に高めてくれる格好の獲物だからである。
 両親の死から始まった予の少女の長い夜は、未だに終わりを見せようとはしなかった。