猫を起こさないように
パアマン
パアマン

パアマン(1)

 「でな、こないだの脱線事故ありましたやろ。けが人を近くの河原へピストン輸送しとったんですけどな、そんなかにちょっとこらかなわんなっちゅうブサイクが一人おりましたんや。そやけどそこはそれ、人命救助ですやん。ワイも我慢して座りこんどるのにちかづいて、ほなねえさんいくで言うてうしろから抱きかかえて持ちあげようとしたんですわ。そしたらそのブサイク、わいの手が触れるか触れんかいうところで、きゃあゆうて悲鳴あげてわいに肘鉄くらわしよったんですわ。わいもなんだかんだゆうて正義の味方であるまえにひとりの人間ですやん、カッとなってもうてな、『あほ、何ぬかしてけつかる。思い上がるんやないで。ワイにも好みがあるわ、誰がおまえみたいなずぼずぼまんこに欲情するかい。年中熱うなってだらだら汁たれながしとる淫乱まんこをちょお冷やしてこいや』ゆうてな、穴に人差し指突き刺してもちあげて、淀川に放り捨ててやりましたんや。案の定、突っ込んだ指の横からすきま風がびゅうびゅう吹いとりましたわ! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
 野卑な笑ひ声と共に純白のテエブルクロスへと唾液まみれの食物の欠片が撒き散らされる。唯一の照明で或るそれゞのテエブルに置かれたワイングラスの蝋燭が揺らめく。店の片隅から流れて来るジヤズの生演奏とあゐまつて、店内にはシツクなムウドが醸造されてゐる。パアやんの、何処か尋常の均衡を逸脱した笑ひ声は、店内の雰囲気と完全に不協和音を為してゐた。
 私はげんなりとし、なんとなく食欲を失つてナイフとフォウクをそつと置ゐた。基より此の、鼻をすつぽりと覆つてしまふ逆さ洗面器をつけたまゝでは、殆ど食事を味わふこと等できなかつたのだが。私は組んだ掌に顎を乗せ、同じテエブルに座つてゐる面々を改めて眺めて見た。 対面に座り、ナイフとフォウクを持つた両手を高々と上に挙げたまゝ其れらは一向に使おうとせづ、顔を皿に突つこむやうにして左右に料理の汁気と唾液の混じつたのを激しく撒き散らし乍ら食事をしてゐるのが、パアやんである。丸々と太つた血色の良ゐ顔を緑色の逆さ洗面器の中に無理矢理に押し込み、其の巨躯に付着した大量の肉の余り分をズボンのベルトの両脇へと盛大に垂らしてゐる。養豚場の豚を新聞の風刺漫画風にカリカチユアライズすると正に之のやうになるかも知れぬ。
 「なんや、食べませんのかいな。食べませんのやな」
 私の視線に気がつゐたのか、料理の油と生来の皮膚の脂でべとゞになつた顔を上げて、未だ口の中に在る咀嚼途中の食べ物を口の両端から盛大に零し乍ら、パアやんは云つた。私は其の醜態を眼球が捉えぬやう其れとなく焦点を外しつゝ彼の顔に視線を遣り、うなづひた。
 「食い物は粗末にするなゆうのがわいの家の代々の家訓ですねん。ほな、遠慮のういただきまっさ」
 パアやんは長ゐテエブルの上に身を乗り出すと、トゞの匍匐前進のやうに這いよつて来、私の食べさしの皿を横抱きに奪つてゐつた。パアやんは自分の口腔に容量以上の物を纏めて押し込み、口を開ゐたまゝくちゃゝと咀嚼を開始する。
 私は其れ以上見てゐられなくなつて、テエブルの左へと視線を移した。其処には果たして蜜柑色の逆さ洗面器を装着した巨大なエイプがゐた。皿の上の肉の塊を手掴みに取り上げてかぶりつひてゐたエイプだが、私の視線に気が付くと黄色ゐ乱杭歯を剥き出しにしてキイゝと金切り声を上げ、激しく威嚇して来た。私は軽ゐ眩暈を感じつゝも、両手を挙げてエイプに敵意の無ゐ事を示し、更にテエブルの真ん中に置かれてゐる装飾用の果物篭を指差した。エイプは忽ち其れに興味を抱き、肉の塊を後方へと放り投げると、テエブルへ昇つて果物篭からバナゝを取り上げた。
 「ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ。チンポみたいでんな。ほら、そのバナナですわ、リーダーはん。チンポみたいやと思いまへんか」
 私は其れ以上見てゐられなくなつて、テエブルの右へと視線を移した。其処には。嗚呼、パア子よ。赤色の逆さ洗面器を装着した、華奢な少女が其処には居た。
 私はパアやんとエイプに気取られぬやうにパア子の方へと手を伸ばし、そつと其の白魚のやうな小指に小指で触れた。パア子はびくりと身体を震はせると、私の目を瞬間、まつすぐに見た。だが直ぐに、逆さ洗面器の黄色ゐ隈どりから突き出した憂ひに曇る長ゐ睫毛を、そつと伏せてしまふ。嗚呼、パア子よ。君は昨日我々の間に訪れてしまつたインテメエトなムウドを怖れるやうに、酷くよそゝしく振る舞ふのだな。私のする執拗なパアタッチにみるゝ薔薇色に染まつてゐつた其のきめ細かな純白の肌。
 私は態とナイフを床に落とすと、拾ゐに来るウエイタアを手で制してテエブルの下へと潜り込んだ。ナイフを拾う動作と共に、タキシイドの胸元から取り出した紙片をパア子のほつそりとした両脚の上へ置く。其処には私の、些か青臭くはあるが、今の彼女への情熱の凡てを込めたポエムがしたゝめられてゐる。私が再び席に腰を下ろすのと、パア子が紙片に気づくのは殆ど同時だつた。
 「あ。このエテ公め、何してけつかる! それはわいのソーセージや、かえさんかいな!」
 パアやんは大声を上げると、ガラスの水差しを持ち上げ、エイプの逆さ洗面器に覆われた脳頂へとしたゝかに打ち付けた。エイプは堪らずソオセエジを放り投げると店の反対側へと待避し、幾度も飛び跳ねてはキイゝと抗議の鳴き声を発する。
 「まったく油断も隙もあったもんやないで。あ、パア子はん、わかってる思いますけど、いま”わいのソーセージ”ゆうたのは、わいの自前のソーセージがこれと同じくらいの大きさやゆう意味では決しておまへんで! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
 パア子は其れに小さく「えゝ」とだけ答へると、紙片を握りしめた掌を開かぬまゝトイレへと席を立つた。私は其の後ろ姿を凝と見つめる。嗚呼、パア子よ、私の愛しひ白百合よ。
 其の時、私の彼女を見送る視線に特別な物が含まれてしまつたのか、何かを察したパアやんが此方へと大きく身を乗り出して来た。
 「あかん、あかん。あんさんには痛い目におうて欲しくないから老婆心で忠告するんやけど、あの女はやめといたほうがええで」
 私はパアやんの云ふ内容を掴みかねて、思はず彼を見返した。
 「わかりまへんか。あんさんはどっかうぶなところがあるよってに。どうか、怒らんと聞いてや。あの女、な、……やというもっぱらの噂やで。わかりますかいな。だれとでも寝るんやそうや」
 私の中で一瞬言語が崩壊し、其の意味を理解するのに数秒を要した。パアやんは女性に対する最大級の蔑称を口にしたのだつた。彼に其処だけ声を潜めるやうな、ゐさゝかの常識が備はつてゐたのは、僥倖で或ると云はねばならなゐだらう。
 私は胸元からナプキンを引き抜くと、怒りを隠そうとせづに勢ゐ良く立ち上がつた。
 「あ、怒りましたんかいな。怒りましたんやな。けど、ええ、わいは本当のことをゆうたんですからな。確かに忠告しましたからな!」
 私はもう其の言葉を聞ゐてゐなかつた。クロオクに預けた空中浮揚外套をウエイタアより受け取ると、私は出口の扉へ手を掛けた。
 「カバ夫とも、あのエテ公ともすでに寝たいう噂やで! 獣姦やがな! こらもう獣姦ですわ! まぁ、あの女が……ならわいはさしずめイージーライダーちゅうとこやけどね! どの女の腰にも簡単にまたがるんや! ゆうておくけどな、リーダー、今のは”いい自慰”とかかっとるんでっせ! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
 店の外に出て見上げると、星はネオンに掻き消され、月は厚ゐ雲の向かうに隠れてゐた。嗚呼、パア子、私の白百合よ。
 突如、胸の目玉バツジが高らかに緊急の音を発した。私は其れを敢へて無視して手早くマナアモオオドに切り替へてしまふと、外套を羽織り空へと浮揚する。無性に月が見たくなつたからだ。

パアマン(2)

 「わかってまんのかいな! あんさんひとりの勝手な行動のせいでうちら全員が迷惑するんやで!」
 激昂したパアやんがテエブルを拳で一撃する。私の前に置ゐてあつたグラスが跳ね上がり、重心を失つてくるゝと回転した。
 店内の視線の気配が一斉に此方へと集中する。私はかうゐふとき、本当にどうしてゐゝのかわからなくなつてしまふ。相手の感情の鋭さが私の現実と大きくずれて、重ならなひのだ。パアやんはグラスの氷をぼりゞと噛み砕き乍ら続ける。噛むとゐふ動作で攻撃性を発散してゐるのだらう、と私は自分が全く当事者で無ゐやうに呆と考へた。
 「自覚が無いんやな。リーダーとしての自覚が無いんや。あんさんには昔からそないなところがあったわ。ぜぇんぶ他人事なんや。ええか、わしらがやってるんはアホな女子学生のバイトがやるような誰にでもできる片手間の仕事やおまへんのやで。一人おりません、はいそうですかゆうて別の人間を連れてくるわけにはいきゃしまへんのやで」
 私は右手の親指で左手の親指の爪をきつく押さへた。此の世に代替の利かなひ人間など存在しなゐ。私達とて其の例外では無ゐ。
 「それにな、あんさん忘れとるかもしらんから言うけど、わしらは常に”鳥の男”に見張られとるんやで。力をおのれの利益のために使ったり、仕事で不誠実やったりしたらたちまち畜生に変えられてしまうんやで。”鳥の男”への忠誠心と仕事への使命感をだけ植えつけられた畜生奴隷にや! あんさんが今回やったことは、そのどっちにも当てはまるんや。ワイはな、あんなエテ公みたいになりとうない」
 パアやんが目を向けた先には黄色い逆さ洗面器を被つた恐ろしく巨大なエイプがゐた。何処から取つて来たのかバナゝの房を胸に抱へて、店内をテエブルからテエブルへと跳び回つてゐる。エイプにハンバアグを日の丸の旗ごと踏み潰された子供が、火の点ゐたやうに泣き出した。
 「ワイはあんなエテ公みたいになりとない」
 パアやんが繰り返す。私の隣でずつと黙つて俯ひてゐたパア子が、だつたら止めてしまへばゐゝのに、とひつそりつぶやゐた。
 後れ毛が一筋、パア子の頬に垂れかゝつてゐる。其の疲れ切つた横顔は殆ど老婆のやうに見へた。
 「ええですか、パア子はん。ワイはパアマンであることのうまみをこの十年でいやゆうほど知ってしもたんや。もうパアマンではない普通の生活へはもどらしまへん。パアマンであることは麻薬や。強烈な副作用を持った麻薬や。パアマンでなかったらワイはどこにでもおるただの下品な中年親父にすぎへんのや。パアマンでなかったらいまごろだぁれもワイのことなんか相手にもしてくれへんかったやろうな」
 パアやんは私とパア子から視線を外すと、取り出した煙草に火を点けた。
 「もっとも万一わいがやめたい思たところで、”鳥の男”がやめさせてくれへんやろ。わしらの運命はみぃんな”鳥の男”にかかっとるゆうこっちゃ」
 嗚呼、可哀想なパアやんよ。結局おまへは何も、何一つ知らなひのだ。真実から最も遠ゐ場所で、無邪気に其の力を信奉し、無邪気に苦悩してゐる。
 パア子が私の袖を引ゐた。覗き込んだパア子の瞳が映す強ゐ意志に、私は何も言えなくなつた。パア子よ、おまへの愛と優しさは世界を滅ぼすだらう。
 「よく聞いて、パアやん……”鳥の男”などという人間は存在しないの」
 「ハ、真剣な顔して何を言うのかと思えば、”鳥の男”が存在せえへんやて…? アホな!」
 「”鳥の男”というのはあるプロジェクトの極秘名称。2号もその哀れな犠牲者にすぎないわ」
 パア子は店内を駆け回るエイプをちらと見た。
 「人間の遺伝子を根本から書き換えることで全く別の生物へと置換してしまうことの可能な特殊レトロウィルスが存在するの」
 さう、例へば猿にでも。ゐつの間にかエイプが動きを止め、肩越しに其の不気味な赤をした目で凝と私達の方を見てゐる。
 「正確には人類でない者の手によってこの地球へと密かに持ち込まれたの。地球人類への外宇宙からの侵略、それが”鳥の男”の正体。Biologically Racial Demolition for Mankind 『生体操作による人類種抹殺計画』――略して『BI-R-D-MAN』、鳥の男――パアマンとはみんなが考え、私たちが傲慢にもそう信じてきたような正義の使者ではないの。人類を滅ぼす致命的なウィルスの運び屋に過ぎなかったのよ」
 パア子が悲しみに其の長ゐ睫毛を伏せる。私はもう人目を憚らず、彼女の肩を抱き寄せた。
 「アホか…おまえらいきなり何言うてんねん…そんな絵空事信じろゆうんかいな、そんなアホな…ぎゃっ!」
 震へる手で灰皿を引き寄せやうとしてゐたパアやんが突如悲鳴を上げた。振り返ると店の四方の窓にびつしりと巨大なエイプが張り付いている。店内を見渡せばゐつの間にか全ての客がエイプへと変貌し、其の無機質な光を宿す赤ゐ目を逆さ洗面器の下から此方へと向けてゐた。
 「始まったわ」
 パア子が呟く。私は腋下に厭な汗がじつとりと滲むのを感じた。逆さ洗面器は其の装着者に絶対の力を与へる訳では無く、単純に基礎運動能力を数百倍してくれるだけの代物である。私達と同じ逆さ洗面器を被る、遺伝子操作を施された此のエイプ達の元の力は並の人間に数倍するだらう。
 詰まり、一対一では決して勝てなゐと云ふ事だ。
 「パ、パアタッチや。早う手ぇ貸すんや!」
 事態を悟つたパアやんが私に手を差し伸べる。私は其の手を取ろうとする。だが、一匹のエイプが敏捷に跳び掛かりパアやんを組み伏せるのが先だつた。其の獰猛な爪で無惨にも引き裂かれたパアやんの皮膚からは先づ黄色ゐ脂肪が飛び出し、次にどす黒ゐ血が其処へスポンジのやうに染みてゐつた。パアやんが初めて私に伸ばした手は遂に届かない侭、みるゝエイプの群の中へと埋没してゐつた。私はエイプの体毛を濡らしてゐくパアやんの血を他人事のやうに眺めてゐた。パア子は放心する私の手を掴むと入り口のドアを固めてゐるエイプを撲殺し、外へと飛び出した。
 しかし其処には。嗚呼。
 見渡す限りの建物とゐふ建物、地平とゐふ地平を醜怪なエイプの群が埋めてゐた。もう何処にも逃げ場は無ゐのだ。パア子が私の手を強く握り返して来た。二人で一殺。然し其れで数匹ばかりのエイプを殺したとして、今更一体何の意味が在るとゐふのだらう。
 ギイゝ。
 電線にぶら下がつてゐたエイプの一匹がガラスの表面を引つ掻くやうな厭な声で鳴ゐた。其れを合図に、都会を埋めたエイプ達が一斉に浮揚する。次の瞬間空は一面覆ゐ尽くされ、真昼だとゐふのに周囲は漆黒の闇に包まれた。
 此の世の終わりである。

パアマン(3)

 「ワイは自分のことが好きや。こんな醜く肥え太ったワイが自分のことを好きやなんてナルシストみたいなことゆうて、おかしい思ってますやろ。でもな、ワイはそれでもやっぱり自分のことを愛していると言うわ。なぜって、誰ひとりワイのことを見てくれへんかったからや。アル中のおとんも、宗教にハマって家を出てったおかんも、自分たちのことに精一杯でワイを愛する余裕なんてあらへんかった。だからワイはワイのことをワイ自身で愛してやるしかなかったんや。そんなワイや、パアマンに選ばれたときのうれしさは忘れられへんな。あれは世界が革命した確かな瞬間やった。ハーレクインロマンスのヒロインたちのようにワイは見いだされて、誰からも省みられない醜いアヒルの子やのうて、誰からも愛され求められる輝かしい白鳥に化身することができたんやからな。リーダー、ワイは死んでもパアマンをやめることはしまへんで。それだけは覚えといてや…」
 「みつをさんッ、危ない!」
 パア子の叫び声に私は撥と我に返る。見れば、私の眼前に巨大なエイプが大きくあぎとを開ゐてゐた。其処に覗く不揃ひな歯は殆どの獣達がさうであるやうに、雑菌の固まりなのであらう。遺伝子操作を施された此のエイプ達の事だ、噛まれるだけで致命傷に為りかねなゐ。
 私は粘着く唾液にまみれた其の上顎に手を掛けると、一気に引き裂ゐた。粉々に為つた頭蓋が飛沫を上げて大気中へと拡散する。私は逆さ洗面器のバイザアに付ひた返り血を指で拭ふ。両肩の間に舌と歯の残骸を乗せただけの悪魔的な戯画めゐたエイプの死体が、仲間の数匹を巻き込み乍ら雲間へと消へてゆく。
 私は背中合はせに居るパア子へ肩越しに頷きかけると、更なる上昇を開始した。一体どの位昇つたのだらう。雲は遙か眼下に在り、大気が希薄になつて来たせひか、星々が恐ろしく近くに見へる。問題は逆さ洗面器に装備された非常環境に適応する為の生命維持装置がゐつ迄働ひて呉れるかだ。之が停止すれば私達は忽ちに窒息死してしまふだらう。
 しかし。と私は考へる。其のやうな安楽な死は決して望めなひのではなゐか。何故なら私達の生命反応は逆さ洗面器を通じて全て奴らにモニタアされてゐる筈であり、奴らが私達の生存を知り乍ら私達からたゞちにパアマンの能力を取り上げてしまわなひのは、奴らには私達二人を簡単に殺すつもりは全く無ひとゐふ事を意味してゐる。恐らく此のエイプ達によつてなぶらせるつもりなのだらう。
 私達は追ひすがるエイプ達を殺し乍ら上昇する。四方から同時に襲われてはひとたまりも無ゐ。エイプ達の攻撃の方向を限定する其の苦肉の策が、今私達二人の首をじわゝと絞めつゝある。
 生命維持装置をフル回転させてなお身を切るやうな冷気の中、私は背中にあるパア子の温もりに救ひを感じてゐた。其れはパア子も同じだつたらう。パア子の、私の手を握りしめる力が強くなる。私は更に強く其の手を握り返す。破局はもう間近だ。死の運行は緩慢だが着実であり、生の鮮やかな上昇が持つやうな疲れを知らなゐ。私はそんな言葉を思ひ出してゐた。今の私達の置かれてゐる状況は此の言葉にぴつたりを当てはまる。
 メゝント・モリ。死を思へ。私はずつと、誰もゐなくなつた夕方の砂場で一人遊ぶ子供だつた昔から、ずつと死の事を考へ続けて来た。だが、今私達の眼下に存在する無数の赤い獰猛な対の光は、何と其の甘やかな夢想と異なつてゐる事だらう。私は死を眼下に、生の温もりを背後に、初めて心から生きたひと思つた。
 「きゃああっ」
 突然のパア子の悲鳴がそんな私の物思ひを永遠に切り裂ゐた。音もなく追ゐすがつて来た一匹のエイプの巨大な爪が、パア子の逆さ洗面器を真二ツに叩き割つたのだ。
 逆さ洗面器の下にあつた初めて見る其の素顔は。嗚呼。
 パア子は大きく目を見開くと、小さな音を立てゝ息を吸ゐ込んだ。其の吸気が吐き出される事はついに無かつた。代わりに吹き出した大量の血が、周囲に霧のやうに飛び散つた。
 パア子は自失する私から手をもぎ離すと、浮揚外套を優雅な仕草で肩から外し、宙へと放り投げた。スロオモオシヨンのやうにゆつくりと落下してゆくパア子にエイプの群が殺到する。最後に見えたパア子の青白ゐ手も、ついにはエイプの群の中へと埋没してゐつた。
 何とゐふ、何とゐふ、何と。パア子。パア子。パア子。
 強ゐ衝撃を感じて我に返ると、先程のエイプが私の右肩に深々と爪を突き立てゝゐた。パア子を殺したエイプだ。生暖かな私の血が、私の身体を滴り落ちるのを感じる。
 ギイゝ。エイプが嘲るやうに笑つた気がした。
 私の視界が真つ赤に染まる。瞬間其のエイプが殆ど個体としての原形を留めぬほど激烈に、破裂するやうに四散する。私は手の中にある引きずり出したエイプの茶色ゐ心臓を握り潰した。
 「このざんこくなせかいに / あなたをひとりのこしていくことが / それだけがしんぱい」
 私の良く知つてゐるアイドルの歌がどこか遠くで聞こえたやうな気がした。其れはパア子の歌。
 「あいされたいから / あいするの」
 朧な月明かりの中、黒ゐ帯が羽虫のやうな音を立てゝ上昇して来るのが見えた。
 人間の感情を。人間の尊厳を。人間の瞋恚を。
 奴らに教えて遣る。
 私はエイプ達を傲然と見下ろすと、身を翻し其処へと突入した。
 魂消る咆吼が聞こえた。其れはエイプ達の上げたものなのかも知れなかつたし、或ひは私自身のものなのかも知れなかつた。
 あらゆる方向から無数のエイプが憎悪其のもののやうに私に向けて殺到する。最初の十数匹の集団が、同時に粉々に破裂した。
 一匹でも多く殺して遣る。
 ぴるゝ、ぴるゝ。突如胸のバツジが高らかに、最も間抜けなタイミングを見計らつたやうに、鳴つた。
 「やあ、聞こえるかい、リーダー。『鳥の男』こと、小鳥さんだ。君にまず初めましてを言っておこう。どうだい、圧倒的な力で他人を蹂躙するのは快感だろう? 君がいま戦っている猿どもは君自身が奇しくも看過したような死の象徴であり、私自身のトラウマの象徴であり、またコミュニケートの不可能な残酷な他人の象徴でもあり、こんな大仰な表現がお好みで無いならば満員電車でスポーツ新聞のポルノ記事越しにリポD臭い息を吐きかけてくるオッサンの象徴であるとも言えるだろうよ。いいかい、君はそれらに抗うことなんてできないのさ。君はそれらのすべてを諾々と、屠殺場へと引かれていく子牛のように静かにあきらめて受け入れるしかないんだ。そこにする君のアクションのすべてはもうなんというか、単なる自己満足的なポーズに過ぎない。ただ矮小な君自身をだけ納得させるための無駄なカロリーの消費であって、君を除くすべての場所、すなわち世界には何の痛痒も与えないんだ。現実を打ち破る理想なんてどこにも存在しないのさ。それでも君は」
 私は胸のバツジを握り潰した。
 世界の死の乱舞のなかからも、まわりの雨まじりの夕空を焦がしている陰惨なヒステリックな焔のなかからも、いつか愛が誕生するだろうか?  (トーマス・マン、『魔の山』)

パアマン(?)

 知らず折り曲げた指が地面を掻き、伸びた爪の間に侵入する砂の不快感が、私を覚醒させた。
 私は先づ自分の身体を見下ろし、其れから、周囲へと視線を向ける。
 其処は、莫大な伽藍だつた。否、正確には莫大な伽藍だつた物の廃墟と云ふべきか。
 振り返れど、其処には何も無ゐ。
 見回し、壁も天井も、踏み締める地面を除ひては、此の膨大な空間を限定する物は何も無かつた。
 立ち並ぶエンタシス式の柱が、辛うじて人の存在を許す回廊を、莫大な空間の中に切り取つてゐた。
 「やあ、ようやくこの場所へたどり着いたか。君も存外間抜けだな」
 莫大な空間を響き渡る風のうねりのやうな物が、鼓膜の上へ集約し、意味の有る音像を結ぶ。
 気が付ひて振り仰ぐと、遥か上方から、薄ゐ光が射してゐる。
 天井は、矢張り見えなゐ。
 差し込む微かな光に舞ふ塵埃は、嘗て其処に在つた物共への、栄耀の残滓を思はせた。
 「環境の起伏が人間の中へ価値判断の基準を生じる。起伏とはつまり、完全な平面状態からのいくつかの欠落を意味すのだけれど、ぼくたちが生まれたとき、ぼくたちを取り巻く環境にはその起伏がまったく無くなっていた。つまり、ぼくたちは何の欠落も無い状態で、完全に正しく育てられすぎてしまった。だから、ぼくたちの中には何の価値基準もない。そのかわりに、ぼくたちは他の世代すべての等しく持つ価値の歪みを客観的に察知でき、場合によっては適切な批判を加えることもできる。しかし、その客観性はあまりに客観的すぎるんだ。価値基準が世界と反応して生まれた違和感が個人に発信をさせるが、価値基準を持たないぼくたちには発信することができない。せいぜいがその永劫の客観性の中で、批判の言葉を加えるくらいだ」
 身を起こさうと前傾すると、頭の上に乗つてゐた帽子のやうな物が床に落ちて、渇ひた音を立てた。
 両目の為の覗き穴が刳り抜かれた、丁度青ひ洗面器のやうな其れは、私の感情に細波一つさへ、起こさなかつた。
 私は肩にへばりつく、ぼろゝの外套を剥ぎ取つた。
 何か鋭ひ爪のやうな物で裂かれた跡の在る其の外套は、不自然な程長く宙空に留まつた後、フワリと床へ落ちた。
 「その意味で、ぼくたちはつねに自分たちを例外的な存在としてきた。つまり、世界の埒外にいて、そこから世界を観察し、ときに批判する存在として存在してきた。ぼくたちは、永遠の聖なる傍観者なのだ。現実を、そこに汚れることを誰よりも強い焦燥感で熱望しながら、本当の意味では一生涯、そこにわずかでも触れることはかなわない、さまよう幽霊のような存在がぼくであり、そして君さ。この状況は極めて絶望的だが、絶望は現実に属するものなので、ぼくと君は本当の意味で絶望したことなど一度もない。ぼくも君も、そう、あの人が死んだときだって、実際少しも悲しくなかった。次の朝目が覚めたとき、昨日は確かにあった絶望のポーズのようなものはすべてきれいさっぱり消えていて、いつものような生きていないものの持つ気怠さだけが、唯一最も愛おしいものであるかのように身体の芯にあった。すべての現実に属する感情は、ぼくや君にとって一種の演技であり、ポーズなのさ」
 頭の底に軽ひ頭痛がある。
 声の内容は良く理解出来なかつた。
 だが、声の伝えやうとする気分は、恐らく殆ど完全に理解する事が出来た。
 「だからもう、このへんで終わりにしないか。世界はどこにも確定しないらしい。どれだけ言葉を積み上げても、世界は確定しない」
 突如、映像が脳裏にフラツシユバツクした。
 木漏れ日と、少女と、在り来たりな午後と。
 其の意味する処は解らなかつたが、其れは何故か私に力を与えた。
 私は屈み込むと、洗面器と外套を拾ゐ上げた。
 軽く砂を払ふと、再び其れらを身に纏ふ。
 「どれだけ繰り返したところで、それはきっと同じなんだ。同じ絶望に、何度も繰り返し気がつくだけなんだ」
 焦るやうな早口で、声が告げた。
 絶望は、無い筈では無かつたのか。
 其の裏腹さに、微かな愛おしさを覚えてゐる自分に気が付く。
 私は知らず真直ぐ上へ、微かに光の漏れる遙かな上へ、人差し指を掲げてゐた。
 其れは自分の為と云ふより、寧ろ声の主に感じた愛おしさの為だつた。
 完全な沈黙が降りた。
 確かめるやうに、床から僅かに浮揚する。巻き上がる砂埃が円を描くやうにして、周囲へと散る。
 瞬間、柱の間を吹く風が鳴り、私の鼓膜に声を結んだ。
 最後に聞ひた声は、酷く力無く、そして、酷く優しく響ゐたやうに思えた。
 「君は、本当に強情だな」
 私は、微かな光を目指して、上昇を始めた。
 この物語は私ひとりのものではなく、私ひとりが語るものでもない。しかし物語は一つである、そしてまた事実として語られる事柄が、語り手によって、違った響きをもつときは、貴方がもっとも好ましいと思われる事実を、事実として選べばよい。かといってそのいずれもが虚偽ではない、そしてすべては一つの物語なのだ。

(ル・グィン、『闇の左手』)