猫を起こさないように
WaWW-2
WaWW-2

生きながら萌えゲーに葬られ(3)

 タイムカードを押して、向かいから歩いてきた女子社員と微笑して会釈を交わす。この際コンマ数秒の注視によって相手の視線をこちらに向けさせてから微笑することが大切である。
 上田保春は会社の女子社員に人気があった。どういう種類のものであれ、暴力の匂いをさせず、性へのあからさまな衝動を感じさせることのない清潔な男子は、その交流や感心が表面上の段階へ留まるのなら、女子に人気があるものだ。上田保春の暴力――軽く頬を張られた少女が困った顔をするのを見たい――や、性へのあからさまな衝動――初めての愛撫に恥じらう少女を乱暴に押し開きたい――は、すべて萌えゲーが引き受けてくれていたので、会社での彼の行動は女性に好意を抱かれるのに十分な範疇へぴったり収まっていた。
 萌えゲーおたくを続けることで細分化された上田保春の自意識は、彼の中の反社会性に気づいた相手がそのことを意識にのぼせるよりも速く察知して、矢継ぎ早にそれを否定する情報を投げかけるという防衛において発展していったのだが、怪我の功名というべきか意図しない副産物というべきか、女性の感情の機微を繊細な柔らかさで捉えることができた。テレビを見ず新聞を読まない上田保春が深く話せる話題はあの二次元空間のこと以外に無かったので、女性と話をするときの彼の行動は自然、相づちや相手の意見を別の言葉で言い換えての支持、踏み込ませないためにする見せかけの感心の断続的表明に終始した。それはほとんどカウンセラーのやり口に似ており、休憩時間中、上田保春の元へ悩みの相談に訪れる女子社員は、口コミで部署を越え結構な数になっていた。女性には誰かに話をすることで論理的に自分の考えを整理したいだとか、相手の話を注意深く聞くことで相互の理解を深めたいだとか、そういった欲求は極めて薄いというのが上田保春の理解である。表面上の臭みを消すことにさえ注意を怠らなければ、女性との交流の中で萌えゲー愛好を悟られてしまう危険は皆無だった。彼が相談を受けたほとんどすべての女性の欲求は「私だけのために時間を割いてもらう」「私の現在を肯定してもらう」という段階に留まっているのであって、それを理解してさえいれば話を聞くという一点だけでたいていの悩みは雨散霧消し、結果として相手の好意は深まるのだった。萌えゲーには登場人物やシナリオに設定された条件のリストが存在し、各項目をどれだけ満たしたかによって主人公への好悪や話の筋そのものが変化する。一定の変化に至る最後の条件を満たしたことを俗に「flagが立つ」と表現するのだが、その複雑極まるflagの管理に周到な上田保春にとって現実の女性は萌えゲーの少女よりもはるかにエキセントリックとは言えず、彼女たちとの交流に心をすり減らす心配は絶無だった。無論、これを口にしたときに女性が感じるだろう激怒も容易に想像できるので、相談相手を前にした彼が浮かべる微笑はますますその悩ましい陰影を深めていくのだった。
 また上田保春は、同僚との私的交流を極力避けるように努めている。飲み会やコンパなどへの出席は、不自然に思われない回数にとどめた。体育会系の男性社員がアルコールにまかせてする個人の性格的特徴への放言は、ときに驚くほど真実に肉迫してしまうことがあるからだ。そして何より彼はアルコールに強くないため、最初の席取りに失敗して無理やり飲まされてしまうような状況での超自我からの失言を恐れた。なぜなら萌えゲーおたくの持つ深層意識においての自暴自棄は、常にすべてご破算にしたいという願望を爆発させる機会をうかがっているからである。
 ともあれ上田保春は、総じてうまくやっていたのだ。うまくやりすぎるくらいに。しかし、三十代も半ばを迎えようとする彼のモラトリアムは終わろうとしていた。女子社員が給湯室で立ち話をしている内容を偶然に耳にしてしまったことがある。職場にいる年配の独身男性に対する発言だったのだが、それを聞いたとき上田保春は心底から社会のする残酷に慄然としたものだった。その男性社員が未だに独身でいるのは性的に×××だからではないか――×××の部分を具体的に記述するのに、上田保春の自意識は繊細すぎる――、とその女子社員らは発言したのである。本人たちには無邪気な子猫の甘噛み、ぼんやりとした午後にスパイスをきかせる悪意に過ぎなかったのだろうが、上田保春は不意にこみ上げてきた嗚咽をこらえるため必死で口元を押さえなければならなかった。涙ぐんでさえいる自分を自覚したのである。上田保春の微温的な平穏が喉元にせり上がってくる水位のように塗りつぶされ、ついには彼を溺死させてしまう未来が確実な現在の延長線上に見えてしまったからだった。平穏な日常というささやかな夢も希望も、萌えゲーおたくであるという事実だけで無惨に蹂躙され、黒く塗りつぶされていく。しかしそれを塗り返すのは、萌えゲーにより排出された体液の黄ばんだ白でしかない。確実な破滅が眼前に迫っているのに、逃れるすべはどこにも存在しないのだ。それはまるで、意識のあるまま殺人鬼に解体されてゆくような絶望だった。
 「もし江戸時代だったなら、自分は目覚めないままで一生を終えることができたと思う」と、性犯罪で服役する幼児性愛者が語るのをネットサーフィン中、目にしたことがある。上田保春はその発言に同情と共感を禁じ得なかった。自分が同じ立場にあってもおかしくなかったろうということと、対象の違いこそあれ彼がいまいる境遇をこの上も無いほど的確に言い表していたからだ。幼児性愛者と萌えゲーおたくはその性嗜好において極めて似通ったものを持っていると上田保春は思う。つまり、直接的な肉欲を精神的な投影が凌駕してしまう点において共通なのである。江戸時代ならば人々からの非難や制裁は社会からの根本的抹殺というレベルではありえず、現代のように徹底的に人格の根源までを破壊されつくして追いつめられることも無かっただろう。もちろん、犯罪の肯定と受け止められかねないこんな感慨をどこかへ漏らすわけにはいかないから、彼にできるのはただマウスのボタンをいつもより強く圧迫することだけである。
 上田保春の心に澱のように溜まっていく何かは、ますます彼の本質を自閉的なものにしていく。その記事を目にして以来、ときどき萌えゲー愛好に目覚めなかった自分を想像してみることがある。その想像は例外なく、自殺か発狂か独房へとつながった。だとすれば、萌えゲーの実在を全く非難する筋合いはない。むしろ自分は救済さえされているのだ。しかし、その思考が気分を晴れさせることはない。なぜなら目覚める必要の無い人間たちのことを同時に、否応に考えざるを得ないからである。消極的な抑止ではなく、人格の上へ新たな犯罪的性嗜好を追加するくらいのニュアンスしか伴わないのならば、萌えゲーは社会的脅威を増大させる以外の効果を生まないことになる。そこに上田保春の得たような、潜在的犯罪者への負の救済はない。萌えゲーをプレイしない日常を想像するとき、そのモノトーンに自殺を考えないならば、ただちに萌えゲーをやめたほうがいい。もし萌えゲー以外の何かで健康な性的満足を得ることができるのならば、ただちに萌えゲーをやめたほうがいい。自分に機会が与えられるのなら、そうやって彼らに忠告してやりたいのだ。しかし、萌えゲーに耽溺する者たちが集まるワークショップなどありそうにない。ニコチンやアルコールを断つための相互互助の集まりは存在するのに、萌えゲーに対するそれは世間には見られない。萌えゲー愛好者の集まりは、例えば「実践的殺人愛好倶楽部」と同じような意味合いを含んでしまうからだろうと上田保春は推測する。どこにも表明できず誰にも届かない以上、彼の抱く苦悩はどこまでいっても人類の枠の外を旋回しているに過ぎない。上田保春の実感は永遠の村八分、流浪するオランダ人なのである。一昔前ならば最終的な受け皿の無い人間は野垂れ死にをし、社会は自然に脅威を回避していたはずなのだ。しかし、現代においてはインターネットがあまねくすべての人間の受け皿となり、すでに究極の平等を実現してしまっている。お互いに交流することのなかった社会の範疇外の異常と異常を出会わせ、その異常性を増大させる役目を果たしてさえいる。本来ならばすべての埒外で無視のうちに殺されていた自分と自分の同朋たちが、新しい脅威として人々の生活の中へと侵入していっているのだ。上田保春はそこまで考えると、頭の中で猥褻な単語を連呼することで無理に思考を中断した。自殺しないためである。
 所属する部署の机に座って、周囲を見回す。清潔なオフィスの朝だ。職場のデスクトップパソコンの壁紙を萌えゲーの画像に設定し、机上に少女をかたどったプラスチック人形を並べていると公言する知人の大学職員のことを思い出し、上田保春は嫌な気分になった。だいたい、誰もが人に言えないような趣味を一つくらい持っているものだ。目の前に座っているこの一見真面目そうな眼鏡の同僚だって、家では新妻を相手にSM趣味を展開しているかもしれないではないか。だが、職場まで昨夜妻に使っていたピンク色の巨大ディルドーを持ってきて自慢げに見せびらかしたり、デスク上に陳列したり、それを使うとき妻がどんなふうだったのかを延々と説明したりはしない。一方で萌えゲーおたくはときに、社会からの絶え間ない抑圧のせいに違いない、ほとんどそれに類するネジの外れた行動に抑えがきかなくなることがある。開き直りが、理性を凌駕してしまうのだ。上田保春は実のところ、その大学職員に少しの劣等感を抱いていた。趣味嗜好を完遂できる蛮勇をうらやみ、反して己の中途半端な生き様へ自己嫌悪に近いものを抱いていたのだ。しかし、いまこの職場の清浄な空間、抑制された始業前のさざめきに身を寄せて、彼は自分の感覚の方が正しいことを巨大ディルドーの例えから確信することができた。
 そうだ、同僚にピンク色の極太巨大ディルドーを強要できるような職場状況が容認されていること自体がそもそも異常なのだ。そう考えながら、上田保春は巨大ディルドーに口づけしながらこちらへウインクする経理課の田尻仁美を思い浮かべた。彼女はその面相こそ十人並みなのだが、本人が自覚しているかどうか知らない、ひどいアニメ声なので、経理課に電話する機会の多い上田保春のお気に入りとなっていた。上下がぴったりとは合わないよじれた形をした彼女の唇は一種淫猥な雰囲気を作り出しており、萌えゲーのキャラクターを見慣れた上田保春にとって新鮮に映った。唇の形状でキャラクターの容姿を書き分けする萌えゲーが存在しないことは、極めて暗示的だ。萌えゲーにおいて唇はふつう、わずかにグラデーションが加わることもあるが、一本線の長さと湾曲でのみ表現されることがほとんどである。唇に特徴を与えるということは厚みや色合いを与えることであり、それは女性の肉体的・精神的成熟と萌えゲー愛好家を直面させる結果を生んでしまう。唇とは心理学や吸茎の例を持ち出すいとまもあらばこそ、女性器の明確すぎる暗喩だからである。萌えゲーにおける愛玩の対象が二次元の少女であることを考えれば、唇への力点が周到に回避される裏には全く首肯できる道理が存在するのがわかるだろう。途中で話がそれたがつまり、萌えゲー愛好とは巨大ディルドーと同義なのだ。巨大ディルドーを繰り返し使用して婦女子の皆様方には大変申し訳がたたないが、萌えゲー愛好を開示できる場所は巨大ディルドーを取り出すことのできる場所なのだと、上田保春は自分の在り方を肯定するための思考に意気を強める。
 萌えゲーや二次元に対する性愛へ向ける一般人の嫌悪はほとんど自動的なのは、教育的・教養的過程を踏んでいないからだ。つまりそこに至る論理や歴史の一切を前提としないので、彼らを説得したり懐柔したりするのは不可能なのである。上田保春は自身の経験からそれを知っている。高校生のとき、田舎から泊まりに来た祖母が彼の自室にあったアダルトゲームの紙箱――青い着物の袖を噛んで何かに耐える表情の少女がこちらを見て涙を浮かべており、販促用の帯には『今夜も不義密通』と記載されていた――を見たときの表情と、その後の反応を彼は一生涯忘れないだろう。
 当時の祖母は八十五歳、その年齢に至るまで腰も曲がらずかくしゃくとし、毎朝四時に起床しての畑仕事を半世紀以上現役で続けてきた彼女が触れるメディアといえばかろうじて宗教系の新聞くらいのもので、アニメはおろか老大家による新聞四コマ以外の漫画すら見たことのない昔人であった。つまり、現在で言うところの萌えゲー的なものどもに対する教育・教養は一切無かったのだ。その反応は当然、上田保春が体験したものよりもっと中立的でしかるべきだったはずだ。しかし、祖母の反応は全く公平ではなかった。孫にこづかいをやるつもりで入ってきたのだろう、笑顔の皺に顔のパーツをすべて埋没させた祖母はパソコン机の上に置いてあったアダルトゲームのパッケージを目にした途端、たちまち表情を失って皺の底から恐ろしいほど大きく目を見開いた。それはまるでハリウッド製の特殊メイク技術を早回しで逆に見ているような劇的変化だった。祖母は怪鳥のような悲鳴を上げ、大声で上田保春を下の名前で呼ばわった。ベッドに横たわって雑誌を読んでいた彼は驚愕のあまり床へ転がり落ちた。そのあまりの大音声に、台所で炊事をしていた母親が洗剤の泡を手につけたまま飛んできたほどである。母親というものはすべからく息子の性癖を知っているものであるから、無論息子の二次元性愛傾向には気づいていたはずだ。しかし、面と向かって何か具体的なコメントを加えたことは無かった。だから自分の性癖の持つアブノーマルさについて、上田保春は思うよりも油断があった。友人の多くが週間漫画誌のグラビアを自慰の素材に使っているのを横目にしていたのだから、もちろん全く自覚が無かったわけではない。しかし、せいぜいが文化的な差異、肉食と菜食の違いくらいの気軽さで考えていたのだ――祖母に大音声で罵倒される、この瞬間までは。祖母は彼を正座させ、手にした杖でゲームのパッケージを幾度も打擲しながら実に三時間、彼を罵り続けた。昔人の語彙の中には上田保春には意味のわからないものも多くあったが、彼の理解した部分を要約すれば社会的、倫理的、道徳的、果ては神学的――お天道様、という言葉を祖母は繰り返した――におまえのやっていることは下劣極まりない、という内容だった。おまえは鬼の子である、とも言われた。そのあまりの剣幕に取りなそうとしていた母親が泣き出し、つられて意味もわからず小学生の弟が泣き出し、母親と弟を軽い気持ちの二次元性愛で泣かせた情けなさに上田保春自身が泣き出し、祖母は泣くくらいなら最初からするなといった内容を昔人の語彙でおしかぶせ、いったいその大混乱がどうやって収拾したのか思い出せないほど、それはもう大変な有り様だった。萌えゲーへの嫌悪はIt’s automatic、「どうしようもなくそうなってしまう」もので説得や弁明の余地がないと考えるのは、この体験が元になっている。
 百歳を越えて祖母は未だ存命中なのだが、いまやあの頃の硬骨の人から恍惚の人へと変化してしまった。成人してからも会う機会は何度となくあったのだから、あのとき何故あそこまで激烈な反応を見せたのか一度でも聞いてみれば良かったと上田保春は後悔している。子どもの頃に通い馴染んだ商店街が大手資本の巨大スーパーにとって変わられるとき、あの町並みは確かに眼前に存在しているのに、それはもはや自身の脳裏にしか無いのだということを信じられない瞬間がある。祖母の脳細胞は着実に破壊され、萌えゲーおたくと一般人との間にある避けがたい不協和音の実在を上田保春に刷り込んだあの事件の真相も、もはや子どもの目線の高さで聞く商店街のさざめきと同じ手の届かない遠いところにあった。二次元の少女を見たとき、祖母の心の中に沸き上がった感情は、祖母を強くゆさぶった倫理観は、いったいどのようなものだったのだろう。それがわかりさえすれば、自分は世界と和解できるのではないかと思う。しかし、それがわからない以上、齟齬を齟齬のまま生きていく他はない。

生きながら萌えゲーに葬られ(4)

 扉を開いた途端、開栓後に放置しすぎてビネガーと化したワインのような、何かを拭いた後に洗浄されずに醗酵した雑巾の湿気のような、上田保春に括約筋を思わず引き締めさせるあの臭気が鼻腔を刺激した。それはしかし、彼に不快だけをもたらすわけではなかった。上田保春は萌えゲーおたく的ではないふるまいを自身に強いているとは言いながら、その魂の所在は一般人の暮らす住所からははるかに遠い。その臭いを嗅いだ瞬間の彼の感情を表現するとすれば、「暗雲の下、銃弾の雨の中を駆けに駆け、塹壕に転がり落ちたときの安堵」とでもなるだろうか。
 週末の夜、彼は萌えゲーを愛好する仲間たちとマンションの一室で集まりを持つ。上田保春は多い月には十本程度の萌えゲーを購入するのだが、そのくらいの数では実際のところこの流れの速い場所で単純に現状へ追いつき続けることすら難しい。萌えゲーおたくのする創作物への態度をその傾向が無い者たちに説明するのが難しいと感じたなら、「それはまるで増えすぎたイナゴが穀類に群がるあの映像に酷似している」と答えればよろしい。一つの対象を偏執的な執拗さでもって原型を止めぬまでに噛んで噛んで噛み尽くして、その対象が自分たちの重みを支えきれないほど弱ってしまったなら、次の餌場を求めて集団で移動を開始する、あらゆる有機物を殲滅させずにはおかぬ、あのイナゴのやり方そのものである。つまり、この場所の流れを異様に速いものにしているのは彼ら自身の態度に他ならないのだが、そんな説明で恥じ入るほど彼らの抱える餓えは生やさしいものではない。萌えゲーを摂取し続けることができなければもぐらのように、誇張ではなく彼らの精神は死ぬのである。
 萌えゲーはおたく文化の中では傍流的な位置にあるためか、ときにアニメなど他のおたく文化の流行を色濃く反映する傾向がある。つまりパロディやオマージュの様相を呈することが頻繁なので、他の傍流ではない場所からの尽きぬインプットが、真の意味で、あるいはイナゴのように、萌えゲーを楽しむには不可欠であった。また、パロディやオマージュという方法論で形成されたはずの作品のさらにパロディとオマージュから成る商業目的ではない冊子の実在なども考慮に入れると、もはや個人のみで萌えゲーおたくを続けていくことは物理的に不可能であるとさえ言えた。例の大学職員はこの集まりを「受動おたくにならないための勉強会」と称したが、どうにもそれは「挿入しないための童貞堅持会」のように聞こえてしようがない。その集まりの中で上田保春はしばしば、受動おたくの典型例として揶揄された。その最たる理由としていつも指摘を受けるのは、商業目的ではない冊子だけを展示・販売する会合が年に何回か全国局地で開催されるのだが、それらへ参加するために仕事を休む勇気を彼が持たないことだった。大学職員は萌えゲーのために仕事を休むことを一線にしているし、上田保春は萌えゲーのために仕事を休まないことを一線にしているのだから、この話はどこまで突き詰めても平行線をたどるに違いなく、しかし会合から持ち帰られた冊子を彼は切実に必要としているので、この話題を持ち出される際はいつも視線を伏せてもごもごと自己卑下の言葉を繰り返すしかなかった。自分を下げてみせさえすれば、たいていの場は嘲弄ぐらいの恥辱で穏便に収束する。すでに人生の半分以上を二次元性愛に捧げる上田保春が獲得した、いじましい処世術であった。
 「要は、人類が成人しても無毛な、幼形成熟の生物だということを考慮すべきなんだと思います。幼形であればあるほどぼくたちが欲情を感じるのは、何も全く異常なことではなくて、神の本道を外れたことではなくて、生物学的視座から本能の裏打ちを、つまり神のお墨付きをもらっているとも言えるのではないでしょうか。自然の摂理と反した文化行動がその不自然さにも関わらず何かのはずみに定着してしまうことは、民族学からの実例を引くまでもなく明々白々としていて、いま現在あるような幼形を愛することを自身の確かな一部として表明してしまうことへの忌避は、そういった不自然、本来は採択されるべきではなかった文化行動の生きた実例なのではないでしょうか」
 誰かが部屋の中で話をしている。その声音は、未だ他人に届こうとする意志を含んでいたので、萌えゲーおたくがするように自閉的には響いていなかった。上田保春が声の主を確認しようと室内へ歩みを進めると、鯨飲馬食の四字熟語が全く比喩的に響かないほどの勢いで、太った大男がビールを飲み干しているのが目に入った。フローリングの床にはすでに十数本の空き缶が転がっている。
 彼――太田総司はこの3LDKのマンションの住人であり、所有者である。上田保春と同年代のはずなのだが、働いてはいない。親元から月に数十万円の仕送りを得て、それで暮らしている。太田総司の実家は東北地方にある素封家らしいが、ふんだんな仕送りと萌えゲーとコンビニとインターネットのおかげで、このマンションの一室はどうやら彼の両親にとって息子を世間から閉じこめておく呈の良い座敷牢と化しているようであった。太田総司の社会的身分は本人の言を信じるならば大学生とのことだったが、どこの大学であるかや何を専攻しているかの話題になると彼は突然聴覚障害に陥るので、あきらめというよりも優しさからその質問を投げかけるのをいつか止めてしまった。首筋と下腹へ衣服に隠しきれず寄った脂肪の重なりから、彼の容姿は一見まるでアザラシのように見えた。その原因が飲酒と宅配ピザと大量の萌えゲーであることは明らかだった。上田保春は太田総司が酩酊状態以外にあるのを見たことがない。彼を見るとき、何かに気づかないために生きるというのはいったいどれほどの苦しみなのだろうと想像する。それを滑稽だと笑う権利は誰にもあるまい。夜を迎えるために萌えゲーをし、朝を待つために酩酊する。人生とは、すべからくそういうものなのかも知れないのだから。
 どうやら手持ちを飲み尽くしたらしい太田総司は、いま現実に戻ってきたかのようにゆっくりと左右へ首を振り、どんよりとした目で上田保春を見た。そして、コンビニの袋に下げてきたビールを手渡す隙もあればこそ、ほとんど横殴りにひったくって、全く冷えていないのにも頓着せずにごくごくと飲み干し始めた。その有り様は会社帰りでスーツに身を包んでいる上田保春の、萌えゲーおたくへ向けて補正されきっていない感覚から見て全く尋常のようには映らず、何かしら前世の因業という言葉さえ想起させるような、文字通りの醜態であった。太田総司の体表からはとめどなく汗が吹きだしては伝い流れており、彼の座っている床の周辺には誇張表現ではない水たまりが薄く広がっているほどだった。冷蔵庫と床の隙間からゴキブリがかさかさと走って来、その水たまりの岸辺で停止すると触覚を上下に激しく動かした。やがて触覚の先端はうなだれるように水たまりに浸かり、ゴキブリは動かなくなった。太田総司の表皮を流れる汗はわずかに透明ではなく、伝い流れるその速度も粘度を伴っているかのようにじりじりとしており、ウェットティッシュで吊革やドアノブを拭くことを習慣にしている眼鏡の同僚が見たりすれば、即座に悲鳴をあげて玄関から飛び出ていくだろうことは必定だった。それはまるで理科の実験で行う濾過装置の逆転版のようなもので、荒い砂利からきめ細かい砂へのグラデーションが泥水を真水へと濾過する過程を遡行し、きれいな物質が太田総司の体内を経ると全く汚染された何かになって出てきてしまうのだった。上田保春だって汗はかく。排尿も排便もする。射精についてはすでに述べた。それらは人間であることの避けられない崇高な摂理であるとは思うが、この太田総司の場合、すべての行為が肯定不可能なものとして、完膚なきまでに戯画化されてしまうのである。
 このプロセスこそが、萌えゲーおたくの本質なのではないか。誰もが当たり前にする人間的営為の持つ聖性をまるで悪魔が神を穢すためにしてみせる演技の如く、目を背けたいものとして貶めるのである。萌えゲーおたくであることの異様さは何も特殊な行動によるものではないと、太田総司に会う度に上田保春は身の引き締まる思いで自戒する。つまり表層を忠実にトレースするだけでは、全く足りないということだ。一般人がする行動の質を貶めることなく繰り返さなければ、萌えゲーおたく同定を避けることはできないのである。会合の場所として太田総司のマンションを彼が指定するのも、職場からほどよく遠いという理由だけではなく、その自戒を再確認し続けるという目的もある。悟りとは一瞬で別の次元にステージを移すことを意味しない。繰り返さなければそれは当たり前の日常へといとも簡単に変質してしまうことを上田保春と同じ実感で理解しているのは、現代において仏教の高僧くらいであろう。
 そんな物思いを知らぬふうで、部屋の奥から言葉は続いている。それは関心のためか、あるいは自負のためか。
 「しかし、これだけではまだ説明がつきません。だって、ぼくたちが現実の幼形よりも二次元の図画として描かれた幼形の方に、より強く心引かれることの説明がついていません。ですが、人間の心の構造の基を考えれば、即座に首肯できる理由があるのです。人間は本能を失ってしまっているとよく言われますが、本能的な精神の動きは確かにまだ残存しているのです。それは意味を付加するという作業であり、あまりにも積極的、いや、自動的に行われているので、私たち自身さえ気づかないほどなのです。その傾向が鰯の頭を神にする。ぼくが今朝蹴飛ばした猫が夕方ぼくに自転車事故をもたらしたように、客観的・科学的例証に個人の意味づけは常に優先するのです。この話でぼくは何を証明したのでしょう。本来は曲線と直線の集合に過ぎない、意味の無いパーツのつらなりである二次元上の図画の方が、個人の意味づけによって組み立てられているゆえに、科学的にはより強い、疑いようのない実在であるはずの現実の少女よりも、萌えゲーに登場する少女の方がはるかにぼくたちにとって魅力的に映ってしまうということを証明したのです!」
 学校の屋上で煙草を吸ったりする程度で解決できるなら、授業をボイコットし、煙草を吸った方がいい。それはいずれ、社会という名前の大きなテーゼに巻き込まれてゆくことへのアンチとしての示威行為に過ぎず、押し返したとして、押し返されたとして、それらは依然お互いが同じ軸線上にあることを自覚したじゃれあいに過ぎない。萌えゲーおたくである上田保春が学生時代に体験したのは、全く意図せぬジンテーゼの恐怖であった。一度たりともそれを望んだことは無かったというのに、従来の軸線上で押した押さぬの小競り合いを繰り返す人々からは、彼の立ち位置はまるで不可視だったのだ。この発言の主はそれがわかっているのだろうか。あるいは上田保春が感じた意図せぬジンテーゼとは全く別の思想をこの声の主は確立しているのか。
 それにしても――萌えゲーおたくの性向を推理小説のように推理してみせたところで全く意味が無いのになあ。上田保春は自身の繰り言を轟音とともに棚上げして、昏い感慨を抱く。推理小説の犯罪をそのまま現実に移し替えた事件が待てど暮らせど発生しないのは、それが現実を忠実に描くことや人間存在に真摯であることを目的としていないからである。発言の主が自説の中で展開しているような、不注意や不運による事故の原因を四足獣の呪いに求めるような、自然界の中では人間だけのする、自身を納得させる以外の効果は無い意味づけ作業に過ぎない。しかし、わかっていてもやめられないから、人はそれを物語に仮託するのだろうと上田保春は思う。本質的に、即ち科学的には無意味な虚構を量産することが、逆説的に人間の証明になるのである。
 上田保春の信念をゆらがせるほど確信的かつ露悪的な萌えゲーおたく、件の大学職員、有島浩二は、彼が室内に入ってきたことへ気づいているだろうにも関わらず、一瞥すら寄越さずにアニメに登場するロボット群をコマとして戦わせる軍人将棋式テレビゲームに没入し続けていた。もしくは、没入するふりの演技を続けていたのか。上田保春が声をかけるべきかどうか逡巡していると突如、有島浩二は何の予備動作も無しにぐるりと顔だけをこちらへ向けて、表情筋を痙攣させるような素振りを見せる。微笑んでいるつもりなのだ。しかし、薄暗い室内でモニターからの光源に照らされたその表情は、相手の気を安らわせるどころではない、ホラー映画の一場面を視聴する効果をしか生み出さなかった。まだ完全におたくの領域へと感覚を適応させきれていなかったスーツ姿の上田保春は、同朋のするその異様な仕草にほとんど足下を失うような目眩を感じた。
 おたくと呼ばれる人々の多くが予備動作の無い動きをすることや異様な早口だったりすることは、よく一般人の側から指摘を受けるところだが、彼には最近その理由がわかってきたように思う。動作や発話に前駆する空間的・時間的「間」は、相手に配慮する目的でなされているのだ。文化的躊躇とも言うべき、他人の実在を認めるがゆえの意識的空白なのである。一歳前後の赤ん坊には予備動作がほとんど無く、大人は気づかぬうちに眼鏡を奪われたり、頬を張られたりしてしまう。赤ん坊は相手に対する意識も自分に対する意識も未だ確立の途上にあるので、文化的躊躇、他人への配慮の「間」が無いせいで、大人は赤ん坊の行動を受け入れるための情報をあらかじめ与えられない。人の発するものはすべて他者へ届こうとする意志を伴っている。だが、有島浩二にはまるで赤ん坊のようにそれが無い。彼の早口と予備動作を伴わないマリオネットのような動きは、赤ん坊の配慮の無さと同義なのである。
 有島浩二はコントローラーから手を離さないまま部屋の隅に向かって顎をしゃくり、「その鞄の中に入っているから、拾っていくといいよ。犬のようにね」と一般人ならばリスニングの極めて困難だろう早口で言った後、何が可笑しかったのだろう、映画「アマデウス」のモーツァルトの笑いにおたく色を濃く反映したような笑いを短く神経に笑った。上田保春は軽く頭を下げると、手垢でさらになめされてしまったように赤黒い光沢を放つ革鞄から、無地のメディアに直接極太マッキーで萌えゲーのタイトルが書かれたDVDや、彼のよく知っている萌えゲーの少女がその本来のデザイナーではない人物の手によって描かれている冊子を、のろのろと自分の鞄へと移し替え始めた。期待に胸と男性が膨らんでいくのを押さえきれない上田保春が自己嫌悪を越えた背徳的悦楽の微笑を口元に浮かべると同時に、有島浩二が予備動作を伴わない動きで再び彼の方を向き、「そうそう紹介するのを忘れていたが」と異様な早口で告げた。それはあまりに伝達の意思を放棄した早口だったので、「蕭々蒋介石尾張tiger」のように聞こえた。
 有島浩二が顎をしゃくった先には驚いたことに、一人の少年が膝を抱えて座っていたのである。すわ、略取監禁、などという単語が脳裏をよぎるのは萌えゲーおたく的小心の極みである。聞けば少年は十四歳、インターネット上の掲示板で知り合いになったのだという。「なかなか見どころのあるやつなんだ」と有島浩二が異様な早口で言い、それは「中出し水戸黄門R膣難産」のように聞こえ、少年がその言葉にもじもじと身をよじるのを見て、上田保春は高まった気持ちが急速に萎えていくのを押さえることができなかった。インターネットの功罪が叫ばれる中、上田保春に言わせればそれは明々白々としており、たった一つしかない。これまでの人類の歴史の中ではありえなかったような出会いを誘発し、それによって一種異様な人間関係の化学反応が発生してしまうことである。個人が自室に引きこもってできることはたかが知れているが、もし引きこもりの個人が複数集まってしまったりしたら、それが集団自殺のような積極性を持ったとして何の不思議もない。萌えゲーおたくであることを恥じた三十代も半ばを迎えようとしている会社員と、萌えゲーおたくであることを絶望や恐怖ではなく自負として捉えている十四歳の少年。本来なら出会うはずのない二人が出会い、何かお互いにとって有益な結果を期待できるほど、上田保春は人生の生み出す善の効果に希望を失ってしまっている。
 有島浩二がまるで何事も無かったかのようにゲーム画面へと向き直り、太田総司が座ったままの姿勢でうとうとと居眠りを始め、上田保春が何やら昏い目をして黙りこんでしまったのを見て、少年は自責を感じたのか空間を音声で満たせば気まずさを調伏できると信じるように、萌えゲーおたくの萌芽を予感させる痛ましい軽繰的な様子で話を続けた。
 「最近は友だちから薦められてハマってるジャニス・ジョプリンをiPodで聞きながら、萌えゲーをするのが最高に気分いいんです。生きながらブルースに葬られ――ぼくが思うのはジャニスがブルースに選ばれて、そうして選ばれた代償としてブルースを歌っている以外はクスリ漬けの廃人だったみたいにぼくも萌えゲーに選ばれて、萌えゲー葬られているんじゃないかって感じることがあるんです。学校も、両親も、友人も、誰も、萌えゲーほどぼくの命を充実させてくれるものは無いんですから!」
 少年らしい強い思いこみに頬を紅潮させるその様子と、その甘い自負とははるかに遠い現実そのものの感覚だったにはせよ、何とはなしに感じていた違和感を言葉にして提出されてしまったことに上田保春はかすかな感動を覚え――そして、憐れみを禁じ得なかった。このまま聞いてないふりで黙ってさえいれば、少年は再びこの陰鬱な会合を訪れようとは考えないだろう。それがこの場でできる、少年に対する本当の優しさだったはずだ。しかし、フローリングの床に散乱した銘柄の違う無数のビールの空き缶と、薄暗い室内でおたく仲間の肩越しに明滅を繰り返すモニターとが、彼の中にあるsentimentalismを刺激したのかもしれなかった。うたた寝から目を覚ました太田総司が、新たなビールのプルトップを引く音が背後で聞こえた。その濡れた音に促されるように上田保春は、やめておけ、やめておけ、と内側から囁きかける理性の声を聞こえないふりで、少年に対して諭すように話しかけ始めた……

生きながら萌えゲーに葬られ(5)

 「鰯の頭も信心からと先ほど言いましたが、物質に物質以上のものを読みとってする人間の没入こそが、神の始まりなのだとぼくは思うのです。そして、鰯の頭よりも人間の姿を模した偶像の方が感情移入しやすいのは自明のことで、偶像が存在すること自体が個人に対する期待値を大幅に下げ、没入力がより低い状態であっても、格段に神にアクセスしやすくなるわけです。かつてならば、神に没入することのできる層は極めて限られていたと言えましょう。それは教育や教養の多寡という意味合いもあるでしょうし、何より木彫りの仏像に込められた芸術性は、堅苦しい言葉がお好みでないのならば、その理解の要求度は、現在よりもはるかにハードルが高い位置にあったでしょうから。かつての神はずっと高邁で、多くの人間にはアクセスされないことをさえ、その意義の一部としていたと考えることができる。偶像崇拝を禁じる宗教も世界にはありますが、容易に神にアクセスしてしまうことを忌避した結果であるとぼくには思えてならない。それは神を容易な没入の対象へ、あるいは消費の対象へと貶めてしまうことを注意深く避けようとする態度なのです。わかりやすくしましょう。ぼくたちが文字を読む場合を考えてみて下さい。どのように文字を読むのか。文字で表現された事象を脳内に映像化することで、ぼくたちは意味の輪郭を把握することが可能となるし、その映像の細部を具体的な形へと近づけてゆく過程でぼくたちは理解を深化できる。つまり、脳内に神を自作することで初めて、人間は世界を理解することが可能になると言えるのです。だとすれば、偶像を脳外に作成することは、脳内への神の降臨を妨げる効果を発揮してしまうことになる。脳外に神を見れば脳内に神を作成せずとも、世界を理解できますから。ぼくたち萌えゲーおたくは神の外部投影を繰り返すあまり、神をいまや手軽な娯楽にまで引きずり下ろし、さらにその神性を劣化させている真っ最中なのではないでしょうか。いま現在、巷間に氾濫する萌えゲーの群れをご覧なさい。あそこに描かれている少女たちに感情移入するのに、もはやいかなる克己も信仰も必要ありません。脳内の神は、萌えゲーの少女たちが実在することにより死んだのです。彼女たちの存在そのものがブラックホールのように、ぼくたちの魂を具象化された神の重力渦へと吸引する。そして神の娯楽性にぼくたちはなお飽きたらず、凄まじい勢いで次々と神を生産しては消費し続けている。一ヶ月に発売される萌えゲーの総量とその登場人物の数を考えたことがありますか。ここ二十一世紀に至り、過去の先人たちが自身の積み重ねの先に予見した科学万能の時代の見かけを裏切るように、我々はそれとは全く逆のオカルティックな大発見、萌えゲーを作り出したことによって神の鉱脈を掘り当ててしまったのです。最近ぼくを脅えさせるのは、世界の神性にあらかじめ総量が定められているのだとしたら、という空恐ろしい想像です。神を湯水の如く消費することで世界そのものの、人間そのものの価値が貶められていっているのではないか。ぼくたちは萌えゲーをプレイすることで人間の意味を深く傷つけ、この世を神のいない荒野へと変化させていっているのではないか。止まぬ戦争、終わらぬ貧困は、ぼくたちの萌えゲー愛好のせいなのではないか――」
 朝の光が照らす廊下を歩きながらもう何度目だろう、上田保春は牛のように少年の言葉を反芻していた。匂い立つ自負と、たがにはまらぬ論理の飛躍、未熟な思いこみすら好ましく思える。自然、頬に笑みが浮かぶのを押さえることができない。昨晩の上田保春は目眩のするような気持ちで、次から次へと延々尽きぬ少年の告白を聞いたのだった。有島浩二と太田総司は、その奔流のような言葉に気づかぬふりで、ゲームやアルコールや、他人の中にあって自身の深淵だけをのぞき込む作業を繰り返していた。彼らの無関心の後ろで上田保春は若い恋人を持った初老の男性のように、少年の話にひたすら耳を傾けた。少年の言葉はひどくよく理解できた。理解しようとする姿勢に構えるまでもなく、まるで自分がそれを話しているかのように受け止めることができたのである。
 知性に優劣は存在しないのだということを、上田保春は実感する。偏差値で切り分けられていたあの学生時代には、思いつきもしなかったことだ。すべての人間の知性は、並列なのである。そして並列であるから、そのどれもが劣っておらず、間違ってもいない。あの少年と自分の知性は、おそらく質において非常に似通っているのだと思う。有島浩二と太田総司でさえ、同じ萌えゲー愛好を業としているのだから、似た部分を持っているには違いない。しかし、少年のようでは到底ありえなかった。社会の構成員の知性を横にすべて並べて、最も色合いの濃くなっている部分が世間と呼ばれるのだろうと上田保春は感じている。そして、人間の知性が階層ではなく並列である以上、どれだけ先鋭化しても難解な用語で彩ってみせても、多数決に勝利できない萌えゲーおたくたちは常に虐げられる側に回り続けるしかない。上田保春はそこまで考えて、萌えゲー肯定の言辞がその裏に抱えてしまっている虚しさへ天啓に近い説明を得た。自分から何かを発信しようと思う人間は、理解されたいという欲求からそれをするのである。理解されたい欲求とは、理解されなかった原体験によって発生するものであり、一般の人々は自ら発信しようなどと思わないのである。理解されたいという初源の欲求を十全に受け止められた健やかな人たちは、不特定多数に向けて継続的に個人の内面を表現しようなどという欲求は、全く持ち合わせていない。だから、インターネット上で萌えゲーを肯定する言辞を多く目にしたからと言って、それが陰気な市民権運動の前向きな成果、多数決での勝利へ向けた大きな前進であるなどとは、ゆめ思わないほうがいい。上田保春の思考はいよいよ演説めいてくる。発信を自制し続ける上田保春にとって、同類の無邪気な放言は許せないのだ。なるほど、ついに尻尾をつかんだと言わんばかりのそのしたり顔は、新聞やテレビという健全な人々のする発信を指さしてのものだったのか。廊下の窓からのぞいた先に見える歩道の鳩に剣呑な視線を向けながら、彼は架空の群衆をじろりと睨みつけてみせる。心の中にしかいない群衆はたちまち縮み上がって、野次を飛ばすのをやめてしまう。君たちは私が自律的と言ったのを聞いていなかったのか。壁が投げかけられたボールをはじき返すのに壁の主体性を論じる馬鹿者はいない。それは疑いようのない自明だからである。それらのメディアは人間社会そのものに依存しているだけであって、自律的な発信の欲求から主体的に成立しているわけではないことを考えてみたまえ。注意深く見ておればあらゆるメディアは、いつだって世界の破滅は今日から一歩先にあり、解決の方法は常に残されているという態度をとっているのがわかるだろう。彼らが、世界はすでにして破滅しているのだと宣言することは、完全にあり得ないと私には確信できる。なぜなら人間社会の存続と自分たちが同義であることを、すべてのメディア、自律的でない発信源たちは無意識のうちに自覚しているからだ。あの戦争を報道する大手紙の、破滅の一歩手前で足踏みをしているような連日の記事――新聞を読むのをやめたのは、その頃だったかもしれない――を見ただろう。状況は明らかに日々悪化していっているのに、現実に真摯であろうという姿勢からではなく、破滅の一歩手前を書いてしまえば自分自身を殺さないために、あとは永遠に足踏みをしているしかないのだ。人間が一人でも生き残っていることが、何万の死体の前で世界の破滅を否定する材料だと言うのなら、そんな認識こそ呪われてあれ。彼は自身の結論に満足したように、廊下でひとり大きくうなずいた。
 発信する必要性を問いかけられてさえ、きょとんとした顔で小首を傾げたり、気味の悪いものを見た表情で歩み去る人々が世界の大多数を占めている事実を萌えゲーおたくはまず認識するべきなのだ。どれだけ声を張り上げたところでその発言は世間から不可視だし、偶然目を留めてもらったところで発信を必要としない人々には理解できないテーマに満ち満ちている。その意味で自分たちが多数決に勝利することは不可能なのだと上田保春は痛感する。萌えゲーおたくとは現代社会において、思想犯のマイルドな別称なのだ。世界のほとんどの場所を支配する発信を必要としない健全な人々は、ただ自信に満ちて行動する。圧倒的な人海戦術、絶望的な波状攻撃によって萌えゲーおたくは疲弊し、圧殺され、散り散りに逃走する背後を撃ち抜かれ、各個撃破されてゆくのだ。ビールを飲みながら出た腹をさすって人気球団の監督の采配をテレビの前で野次ってみせることと、神と偶像と萌えゲーの間にある関連と暗示に洞察を展開することとは、その価値において全く違いがない。上田保春は悲しんだ。いつものような自虐の快楽を得るための自己憐憫ではなく、未だ知性や言葉の有効性に疑いのない、あの少年が持つ痛ましい無垢のために悲しんだのである。
 少年が気づかなければならないのは、我々の心をふるわせる生き方や物語が我々以外の誰をも感動させることはないという事実なのだ。事実は真実の敵である、とドン・キホーテの如く宣言するというのなら、それを延長した究極の先は白昼に下半身を露出して街中を闊歩する道へとつながってしまっていることを自覚するべきであろう。我々はみな、社会の虜囚であるのだから。軽躁的な萌えゲーおたくたちに反論と理論武装を許すほど杜撰で、いつでもあと一歩のところで社会のくびきから彼らを逃れさせてしまう、あの不可解な生理的嫌悪を基調とした論には言及せずに説明しようではないか。上田保春は心の中にいる少年に向かって語りかけ始めた。物語とは、あるいは人生とは、0から始まって1へと向かう力学、エネルギーそのものを指している。たとえ最終的に1へと届くことがかなわなくとも、彼のエネルギーが1を指向したという事実そのものが、人の心をふるわせるのである。より善良な、より崇高な存在でありたいという希求がこの力学の本質的な正体だが、0であることに拘泥する物語であったとしても、それは0であるまま一生を終える大半の人々の関心と、ときに内省を度外視した同情を買うことができるし、0からマイナス1へと転落する物語であっても、その不幸が0から始まるがゆえに、人々に自分がそうであったとしてもおかしくない可能性に思い至らせ、悲しみを誘うことができる。翻って我々はどうか。我々は、マイナス1から人生と物語を開始するのである。萌えゲーおたくとは、マイナス1から0を、マイナス1そのものを、あるいはさらに以下を指向する人々の名前である。我々が決死の取り組みによって0へと身体を引き上げたところで、それは施設で更正を果たした元犯罪者が、「あんなに犯罪性向に満ちあふれていた私が、いまではもう真人間になりました」と隣人に菓子折を手渡しながら告げるのと同じことで、そのわざわざする宣言は偏見を助長し、警戒心をあおる以外の役目を持ちそうにない。犯罪者になぞらえてほしくないと言うのなら二次元性愛を克服し、現実の女性に興奮できるようになったことをわざわざ誰かに告げようと思うだろうか。また、「弱者を罵倒したり、理由なく殴りつけたり、突発性の激情で刺したりすることでしか世界との関係性を維持できない者の悲哀」という設定に君は感動を覚えるのかもしれないが、SF的展開にでも紛らわしてしまわない限り、それは誰もが目を背けたい明確な異常でしかない。マイナス1がマイナス1であることに拘泥したとして、それは犯罪者が更正しない、犯罪をやめそうにないというだけのことだし、マイナス1からそれ以下への転落を考えたとて、「強盗傷害に致死が加わりました」ぐらいのニュアンスでしか響かないだろう。本来、我々とそうでない人々の物語は客観的に等価値のはずなのだ。移動のエネルギーはどちらも1であるのだから。しかし、マイナスの基点を持って生まれてきたこと――それは他者を容認し、社会を形成できぬほど弱いという意味でもある――、そして多数決に勝利できぬことが萌えゲーおたくを永遠に流浪させる。そうだ、少年はその事実を知らなくてはならない。上田保春は宙空をにらみながら笑みを浮かべる。彼を笑ませるのは、あなたが想像するような教育的観点からする少年への優しさや愛情では無くて、ついに存分に蹂躙することのできる相手を見つけたという小昏い感情である。また男子間肛門性愛に執着を感じるあなたの深読みを裏切って真に申し訳ないが、それは肉体的な接触においてではなかった。知性は互いに近い位置に無い場合、認識を噛みあわせることが難しい。それはまるで違う次元にいる人間同士のように触れあうことが適わず、どれだけ言葉を尽くそうとも、逆に言葉を尽くせば尽くすほど、相互理解から遠ざかるのであった。上田保春と本当の意味で言葉を交えることのできた相手は彼の三十数年の人生を遡って思い起こしても、片手で充分に足りてしまう。言葉を増やせば増やすほど、相手が離れてゆくことを上田保春は知っている。いま彼の中にあるのは二つに欠けた片割れを見つけたという喜びと、四つ相撲に組んだ相手を完膚無きまでに蹂躙できる力を自分が持っていることへの痛いほどの自覚であり、先ほどの笑みはそれゆえであった。少年をずたずたに論破してその心を屈服で満たす妄想に、上田保春はほとんど快感すら覚えた。まだいまならば少年を圧倒的にうち負かすことができる。いつか少年は上田保春がうち負かせないほど巨大に成長するだろう。それは疑いがない。しかし、完全に手に負えなくなるその寸前に、少年を歯牙に捕らえることを彼は夢想する。それはきっと、えもいわれぬ素晴らしい充足感に違いない。そら、抵抗するのを止めてしまえ。君を甘噛みしているこの犬歯の鋭さを、顎の筋肉の強靱さを直視するんだ。さあ、反論するのを止めてしまえ。言葉は常に多数決で決定すると教えたばかりじゃないか。言葉そのものが正しかったり、間違っていたりすることはないということを認めてしまえ。そうすれば、枝葉にあえてこだわった自己擁護の裏返しの反論もついには萎えはてるはずだ。さあ、さっさと白旗をあげて、腹を見せて私に全面降伏するんだ……
 視線を感じて顔を上げると、向かいから歩いてきた経理課の田尻仁美が微笑を浮かべて会釈をするところだった。少年を痛めつけることに夢中だった上田保春は、ほとんどうろたえるような心持ちになって、慌ててそれに会釈を返す。イニシアチブを握り続けることで萌えゲーおたく同定を避け続ける上田保春にとって、ほとんど失態と呼べるできごとであった。もしやいまの瞬間、萌えゲーおたく特有の何かを外部に向けて発散していたのではないか。田尻仁美の微笑の理由は、そこにあるのではないか。彼はほとんど恐慌に陥りそうになる。ご覧になってきた通り、上田保春には一種の夢想癖と演説癖があったが、一般社会の中でそうした妄想に浸りきってしまうほど危険なことはない。萌えゲーおたくの自然体は、普通の人々にとっては不自然の極みである。人間の形を保ち続ける意志を放棄すれば、萌えゲーおたくはたちまち忌むべき肉塊へと堕してしまうのだから。自身の油断に舌打ちをしながら、課のデスクへと向かう。思えば田尻仁美とのできごとは、何かを暗示していたのかもしれない。科学的には迷信のように響いたとして、意味づけで現実を補強し、時に悪意も補強する上田保春にとって、その二つは何か非常に強い関連を持っているように感じられたのだ。はじめデスクの上にそれを見たとき、彼にはそれが何なのかはっきりと認識できなかった。なぜなら、職場とそれが同時に発生する瞬間は、これまでのサラリーマン生活の中で一度も無かったからである。絶望とは一瞬に心を黒く塗りつぶしてしまう性質のものではない。肌の冷たさに気づき、頬を張り、身体をゆさぶって、胸元に耳を当て――そうやって高まってゆくがゆえに、絶望は真に人間の魂にとって致命的になり得るのだ。
 そこにいたのは、萌えゲーの少女だった。全く無縁な場所で突如恍惚の表情以外を知らない萌えゲーの少女を見るときの衝撃は、実際に体験したものでなくてはなかなか理解しにくいだろう。自分の趣味に合致する定期刊行誌を書店で見つけない方がよほど困難な、すべてのニッチという名前の隙間は埋め尽くされたように思われる昨今、やはり萌えゲーを購入する特殊成人層に対する専門誌というものは存在するのだが、上田保春のデスクの上に鎮座していたのはまさにその雑誌だった。購入するゲームを検討するための単なる情報誌だろうと、萌えゲーおたくでない向きは推測するのかもしれないが、ノンノン、そんな生まれたての子鹿のような愛らしさどころでは済まないのである。萌えゲーおたくたちは掲載された新作ゲームの画像を見ながらことさら気むずかしい表情でためすがめすページを繰って、自慰にふけるのである。自慰行為によってどれだけの快楽をそれぞれの新作ゲームが約束してくれるのかを吟味して、そうして購入の是非を亀頭に問うのである。商業を目的に立つ女性へ「まず試させて下さい。支払いの是非はその後で私が判断します」と笑顔で持ちかけるような異常の倫理無視、破格の厚顔無恥が、萌えゲーおたくを一般の人々からますます遠い存在にしていると断言することに、もはやあなたは何の躊躇も感じないはずだ。快楽の絶頂間際にしか見られないような理性を手放す寸前の表情でこちらを見つめてくる少女の非現実さに、上田保春は目眩を通り越してほとんど卒倒しそうになる。最もありうべからざるものが、最もありうべからざる場所に存在しているのだ。萌えゲーを愛好しない向きにもわかりやすく例えるなら、職場や学校の机の上に山盛りの大便が盛られているようなものである。大便よりもはるかに通常ではないという点において、萌えゲーの少女はさらに危険だった。誰もが大便を排泄するが、誰もが萌えゲーを愛好するわけではないからである。不幸中の幸いと言うべきか、上田保春は始業時間よりもだいぶ余裕をもって出勤するたちだったので、未だ周囲に人影は薄かった。すでに誰かが見てしまっている可能性もあったが、いまは眼前にあるこの危険物をどのように穏便に処理するかを考えねばならない。選択肢はいくつかある。一つ、萌えゲーを全く知らないふりをして「あれえ、なんだこれは」などと素頓狂な大声をあげてみせ、周囲にこの雑誌と自分の無関係さを強調する。ぶっちゃけありえない。まず何よりもこのひどい動悸の下で、自然な演技が可能だとは思えない。失敗の許されないミッションに、一か八かの賭を選択することは避けるべきだろう。二つ、雑誌に書類を重ねて自然な動作で鞄にしまい込む。GAME OVER。この場をしのぐには、最もリスクの少なそうな選択肢に見えるが、騙されてはいけない。その雑誌が入った鞄を一日中持ち歩かなければならないのだぞ。ついうっかり営業先で書類と共にテーブルの上へ並べたりしてごらんなさい。君の社会生命は完膚無きまでに、不可逆に抹殺されるだろう。これが自分を陥れようとする誰かの策略だったとしたならば、その誰かはただ鞄の中にある雑誌を何気ない素振りで指摘するだけでよい。爆薬入りの錠剤を呑み込むのと同義だ。しかも、起爆リモコンは相手の手の内にある。三つ、共用のごみ箱へ放り込む。それだ! 少女を身辺から遠ざけてしまえば、すこぶるよろしい。見れば委託の清掃会社従業員が順にごみ箱の中身をさらっているところである。上田保春はひどい動悸の中、常とは意味の違う生唾を飲んで雑誌を取り上げると、コールタールの海を泳ぐような抵抗感で空気中を進み、ついにそれをごみ箱へと落とし込むことに成功した。すさまじい疲労から虚脱状態で背もたれに身を預けると、頭に浮かぶのはいったい誰が自分を陥れようとしてこんな罠をしかけたのかという疑問だった。罠とは限るまい。知っているのだというサインを示したかっただけかもしれないではないか。いや、そんな生やさしいものではない。友好の印でないことだけは断言できる。こっそり肩を叩いて囁くのではなく、こんな致命傷になりかねないような手段を取る相手だ、断言できるに決まっている。これは間違いなく悪意である。しかしいったい誰が、何のために。

生きながら萌えゲーに葬られ(6)

 主体的に世間と関わることによって世間を遠ざけてきた上田保春の苦闘の日々で、防戦に回ってしまうことは起こってはならないはずだった。なぜなら、上田保春の持つ弱点は北欧神話の竜の逆鱗のように、知られてしまうことが即座に死につながるような、文字通り致命的な種類のものだったからだ。上田保春は思いだしている。二次元のキャラクターを愛好することが個性になり得ると心の深いところで全く疑っていなかった、あの時代のことを。あの頃の上田保春の世界は、遊園地の幽霊屋敷に鳴り響くような不安な音階に包まれていた。何によってかはわからない、個人の内面がどんな種類のものであれ犯罪につながらない限り、周囲を取り巻く世界に優先すると信じこまされていた。自分が正常な、あるいは清浄な多数派に属していることを無邪気に疑わなかった。だからこそ不安だったのだと、いまならばわかる。一会社人に成長した彼が抱き続けてきたのは諦観であって、あのような不安ではなかった。しかし、また上田保春の現実をあの不安が取り巻こうとしている。その実感は敵地深く侵入を果たした丸腰のスパイと同じであり、いつ誰が突然に、例えば企画会議の席などで質問の挙手に指名した際に「こいつだ! こいつは俺たちの側の人間じゃない!」と叫ぶのではないかという不安、正体を見破られる恐怖に身を縮めていた。
 廊下の向こうから歩いてくる同僚が浮かべる表情にいつもとは違う何かを読みとったような気がする。その背中が曲がり角の先へ消えていくのを見送った後、上田保春は壁に身体をもたせかけて緊張に高鳴る胸を押さえた。その油断を見透かしたかのように、アニメ系の最新着メロを逐一ダウンロードしているにも関わらず公の場所ではそれを鳴らす機会を持たない上田保春の携帯電話が、胸騒ぎを物理的に表現するが如く彼の胸元をバイブ機能により振動させた。背広の胸ポケットから心臓がハート型に飛び出す幻視に頭を振って、携帯電話を開く。待ち受け画面には柴犬の顔を正面から接写したものが貼り付けられている。実弟の飼っている犬を撮影したものだ。待ち受け画面には心の深い部分にある執着が反映されてしまうというのが、上田保春の持論である。萌えゲー以外の趣味を持たず、自らの趣味を表明することを忌避する彼の待ち受け画面に、柴犬の顔面のアップほど適切なものはあるまい。油断したそぶりで柴犬の顔を眺めている様を女子社員の数名に目撃されれば、それで当面の偽装工作は完成である。あとは同じ犬を違う角度から撮影した写真を何週間かおきに更新し続ければよい。趣味や執着を表明するということは、個人の無防備な部分、弱い部分を相手に委ねるということで、それは形を変えた他者への信頼の一形態である。表明できない種類のものであるからといって、わざとそれを回避したり触れない態度を続けることは、かえってそこにある何かの実在を証明する不自然な空白を作り出すことになってしまう。上田保春はそれをこそ恐れた。一般人の疑惑にダミーを抱かせておく必要があるのだ。それにしても――上田保春は思う。こちらからの一方的な投影を許すものしか愛好できないという意味で、毛の生えた哺乳類を愛好する人々は、萌えゲーおたくとその本質において何ら異なるところが無いように見える。「犬や猫の言うことがわかる」と声高に宣言するときの、上田保春を同族と見間違えた相手が浮かべるわずかに常軌を逸脱した表情は、萌えゲーの少女のことを話すおたく仲間とまるで双生児のように似通った雰囲気を醸成している。自己愛の鏡像への、それと気づかぬままの言及という意味で、彼らは否応無く似てしまうのだろうと推測する。その無意識の類似からも、柴犬を愛好する自分を演出するのは他の、例えばキャンプとか草野球とかを愛好する自分を演出するよりは上田保春にとってはるかに容易なのである。本来の自分に近い形で萌えゲーおたくを隠蔽することができるのだ。これ以上の選択肢が他にあるだろうか。
 上田保春は受信したメールの差出人を確認するが、記憶を検索しても画面に表示されている名前に思い当たるものが無かった。親指でメールを開封すると「先日お会いした中学生です。覚えてらっしゃいますか」と書いてある。「至急・緊急に」上田保春に会いたい旨を、年上の者に対して書き慣れぬ敬語で記述していた。果たしてあの夜の自分は少年にアドレスを教えただろうか。これは有島浩二の仕業に相違あるまい。全く聞いていないふりでその実、上田保春と少年とのやりとりに興味をそそられたのに違いあるまい。もっとも、一瞬たりとも有島浩二がゲーム画面から視線を外すことは無かったのだが! これは彼の仕掛けた罠だろうか。有島浩二の考えることは正直言ってよくわからない。突発的なエキセントリックさでふるまうことを、他人の個性との差異を強調する意味の「キャラ立ち」と表現してはばからない感性の持ち主である彼のことだから、可能性は充分にあると言えた。だが同時に、メールでの少年の様子には作りごとではない切迫感が感じられたことも確かだった。上田保春はしばらく逡巡した後、日時と場所を指定した短いメールを返信した。携帯電話をしまういとまもあらばこそ、彼の内面に起こった惑乱を具現化したようなバイブレーションと共に、「了解しました」とのメールが入った。上田保春は、社外の知人からのメールをメモリーに残さない。中学生とは言え、少年は萌えゲーおたくの立派な予備軍である。思えば電子機器が生んだ最大の功罪は、日常には頻繁なほんの気の迷いや判断の誤りを永続する形としてこの世に顕在化させてしまうことではないか。一般人が自然に行う日常の選択を膨大な脳内シミュレーションから不自然に選択する彼にとって、思考の経路が形に残ってしまうことは自分の異常の痕跡を残してしまうことと同義であり、極力避けたい事態であった。上田保春は少年からのメールを念入りに消去した。
 待ち合わせには、太田総司のマンションから最寄りの駅にある喫茶店を指定した。会社の同僚に目撃される心配が薄いということもあったが、何より少年と自分が共通で知っている場所はここしかなかった。まず少年の側の希望を聞いてもよかったのだが、相手の方がよく知っているテリトリーに引きずり込まれることをこそ、上田保春は恐れた。それは長年の隠れ萌えゲーおたく生活で染みついてしまった、悲しい習性のようなものかも知れなかった。その意味では自宅に呼び出すという選択肢も考えられたのだが、自室に未成年を連れ込む姿を隣人に目撃されたりすることは、この社会状況の中、あってはならなかった。約束時間の三十分前に到着したのだが、少年はすでに店内に到着しており、窓際で外を眺めていた。窓越しに上田保春の姿を確認すると少年はぱっと顔を輝かせ、思わず気後れを感じるほど邪気の無い様子で大きく手を振ってみせた。店員は二人の関係をいぶかんでいるだろうなと思いながらコーヒーを注文すると、彼は差し向かいに腰を下ろす。少年はほとんど顔を赤らめながら、急に呼びつけた非礼を許して欲しいと年上への慣れぬ口調でたどたどしく言葉をついだ。店員どうしがカウンターの向こう側でこちらを見ながら、ひそひそと言葉を交わしているのを上田保春は視界の端に見たように思った。その視線が彼の萌えゲー愛好を見破ったゆえではなく、三十がらみの会社員と制服姿の少年との関係に注がれていることは重々承知だったが、それでもやはり他人の関心が特別なものとなって注がれているのを感じるのはあまり愉快な体験ではなかった。上田保春の人生の中で、他人が彼の中に見出す特別さというのはほぼ例外なくおたく的性向であり、それが好ましい反応に転じたことは一度だって無かった。他人が自分へ向ける関心とは他人が自分を迫害・糾弾する可能性と同義であり、その関連づけの馬鹿馬鹿しさは客観的に理解されていながらも、木の股を見て嘔吐できる現代人の自我、愉快ではない気持ちが沸き上がってきてしまうのはどうにもしようがなかった。他人から関心を持たれないためには、無気力や怠惰や意気消沈では全く不充分であった。積極的に他人の理解へコミットしようとする態度こそが、上田保春の望む無関心を作り出してくれるのである。事実、長い迫害の歴史の中で彼は自分の真情というよりはむしろ、場にふさわしい役割を感知し演じることに長じるようになってきていた。上田保春は軽く目を閉じると、外界からの干渉すべてを内面より閉め出すほんの一瞬の空白の後、教師か保護観察員のように振る舞うことを決める。そうすると、気が楽になった。「それで、君、悩みというのは何なんだい」と背広の上着をやや乱暴に脱ぎながら水を向ける。少年は上田保春の精神に発生した陰鬱な化学反応に気がついた様子もない。何の疑いも含まぬ真摯な瞳を彼へ向けて、言った。
 「実はついさっき、自殺志願者を募集するサイトの掲示板に書き込んできたんです。今週末に決行するグループに割り振られました。もう死ぬんだ、楽になれるんだって思う嬉しさの反面、誰にも、親にさえぼくの本当の姿を知られないまま逝くんだと考えたら、もう孤独に叫びだしたいような気持ちになって……そうしたら、頭に浮かんだのが上田さんでした」
 少年はこみ上げる感情に頬を紅潮させ、潤んだ瞳に燃えるような色を浮かべてこちらを見た。しまった、と上田保春は舌打ちする。どうやら罠に追い込まれて、ハメられてしまったらしい。そもそも、突然にメールを送りつけてくる段階でこの可能性に気がつくべきだったのだ。社内での萌え少女からこちらというもの、ずいぶんと判断の平衡を失っていたものだと、ここに至って彼はようやく気づいた。表情には出さないまま、引き出されてしまった以上は何らかの形でこの場を収束するしかあるまいと、自身の失態に罵倒したいような心持ちで考える。しかし、それにしても奇妙なことだ。萌えゲーを愛好する少年が集団自殺の掲示板に書き込みをするというのは、どこか非常にアンバランスなできごとに思えた。萌えゲーおたくとは、究極的に個別化されている存在である。眼鏡に性的興奮を感じるか、靴下に性的興奮を感じるか、妹に性的興奮を感じるか、神職に性的興奮を感じるか、萌えなどという愛らしい表現で控えめそうに希釈されて発信されるが、その正体はぎらぎらと熱された性への欲望でできている。それぞれの分類の内側は、数百、数千、数万にわたるグラデーションで階層化されており、その傾向を持たない者には精神病棟のうめき声、本当に何を言っているのかわからないことを承知で記述するが、例えば「眼鏡と妹」のように、別の分類との組み合わせも欲望の対象になるのだ。数学的素養の無い上田保春でさえ、その種類の膨大さを考えただけで、目眩に近いものを感じざるを得ない。萌えゲーおたくとは一人として同じ性癖を持つことは許されない、忌避すべき劣情のオンリーワンなのである。もはや人間という括りでの共感や同情という言葉も虚しく響く。そんな題目が通用するのなら、そもそも萌えゲーおたくは社会に受け入れられているはずである。糖蜜でできた萌えゲーという名の海へと水没し、溺死するまで甘い海水を肺腑の深く、底の底まで吸い込んで満たすことが出来ればどんなにいいかと上田保春は思う。上田保春がかつて愛好したアニメ作品のように、肺腑を満たす糖蜜が自分を窒息させるのではなく新たな現実との媒介として、この萎えた心と身体に活力をそそぎ込んでくれればいいと切望する――彼の生きる力を萎えさせる、世間に充満したあの清浄な空気のようでは無く。だが、甘い海水が肺腑の最後の一部を満たすその直前に上田保春は糖蜜の海より急浮上し、全身を波打たせると待ち焦がれていたはずのその幸福を渇いた現実の砂浜にすべて吐き出してしまうのだ。自律的な嘔吐に精通した拒食症の女性のように、上田保春は何度も何度もその幸福の嘔吐を繰り返してきた。なぜ自分がそうするのか、全く解説がつかないでいる。けれどそこに深い意味づけや、哲学的なメッセージを求めることだけは避けなければならぬと上田保春は自戒の意味で考える。この嘔吐は全くの個人的なできごとであり、人類の歴史の連なりから教訓を得ることも与えることもない、自分自身だけが苦しむことのできるパーソナルな携帯性の地獄なのだ。
 萌えゲーおたく同士が好意を抱きあうことなどあり得ない。正常の側から見れば彼らは人生の最初期に歪みを与えられてしまった者たちの総称であり、その歪みは成長すればするほど大きく目立つようになってゆく。上田保春は正直なところ、この少年に好意を寄せている。その言動はまるで過去の自分を見るようであり、少年を救済することで過去の自分をもまた救済できるのではないかというファンタジーを抱いているせいでもある。しかし、いま好意を持っているからといって、萌えゲーおたくである少年が成長するにつれ、その歪みを鼻持ちならないほど大きくさせてゆく過程で、最初に好意を抱いてしまったからこそ深く憎悪するようになってしまうことが無いとは言い切れないではないか。いま少年に自殺を思いとどまらせたとて、後になって引き留めなければよかったと思うことは必ずあるに違いない。萌えゲーおたくとは個性を究極へ押し進めた結果、理解と共感のメーターを振り切ってしまった個体群をひとまとめにして分類するために与えられた、カテゴリエラーを表す名称であり、価値を与えられないという観点から見ればどの個体も同じ様な存在であり、ひとからげに殺されて誰も悲しまない何かである。
 沈黙が降りている。少年は何らかの回答を求めているのに違いなかった。上田保春はどう声をかけるべきか、顎をさすって考える。おそらく少年が取り巻かれていると感じている、こちらからの入力を許さぬ世間とは最大公約数的な場であり、個人がそこへ齟齬を生じるのは何もその個人が特別な繊細さや感受性や才能を持っているからではなくて、ほとんど理の当然、誰もが避けられない必然なのだと言える。しかしいま周囲を見回したとき、その個人的齟齬に焦点を当てた虚構のなんと多く氾濫していることであるか。個人内にある社会集団への当たり前の齟齬なり違和感なりを、恋愛やファンタジーや探偵やSFや伝奇や宗教や、そういった名付けでコーティングして、本来は至極ありふれたものたちに丹念に意味づけをし、本来全く中立的であるはずの情報に、ほとんど重厚な芸術的陰影を与えてしまうのである。もちろん内なる齟齬を否定せよと言っているのではない。内なる齟齬を否定してはいけない。それは同一性・同質性への再帰だけを目的にした平板さと、排除の理論に終始する人生を生みだしてしまうだろう。しかし内なる齟齬を肯定することもまた、周到に避けなければならないのである。齟齬に焦点を当て、それを特別にしようとするならば、究極の押し詰まった延長線上には、現実には虚構の内包するような飛躍による解決法が用意されていない以上、自分が死ぬか他人を殺すか、その二つの袋小路にしか道はつづいていない。世界と内面との葛藤に苦しむ男が実は人類を滅ぼす力をその精神薄弱の世迷い言とともに兼ね備えていたり、世界と内面の葛藤に苦しむ女が実は数名のイケメン天使たちに囲まれる神の子の転生だったり、世界と内面の葛藤に苦しむ女が実は誰からも愛される容姿をしているのだが自身の魅力に気づいていないだけだったり、最後の例えが最も端的に上田保春が言おうとしていることを表しているように思うが、現代的な虚構の大半は被愛妄想と関係妄想を初期動機としてできあがっているという意味から、ジャンル名はすべてハーレクインロマンスとするべきである。それらの物語がいかに人間のバランスを喪失させ、植え付けられた世界認識の歪みがそれらの物語を摂取する者を現実における真の破滅へと導いてゆくかを、誰かが声に出して言わなければならないはずなのだ。しかし人間を人間と証明をする物語を物語るための外的な状況は存在せず、少なくともこの国の内側には存在せず、それゆえ誰もが通常に抱える齟齬や違和感へと物語の題材は自然逢着をし、現在のような荒廃を回避することは不謹慎を承知で言うならば、我々全員を残らず巻き込む巨大な災厄や不幸という新たな状況を迎える以外には、もはや不可能なのではないか。少年が自殺を求めるのも才能や運命というすり替えで、齟齬の特別さを刷り込まれてしまったせいなのかもしれなかった。世界との齟齬程度の凡庸さしか我々を物語へと駆り立てるものがないとは、なんという惨めな醜悪さであることか!
 上田保春の思考はまとまりを見せようとせず、それゆえ少年に何を回答すべきか見つけだすことができず、「萌えゲーおたくはすでに死んでいるのだから、二度死ぬ必要はない」と言った。最後まで面倒を見るつもりの無い以上、少年を自分へ執着させ続けておくことはあまりに無責任であろう。意味の無い発言で失望させることで少年の関心を切り離す算段だったが、この年代の若者にとっては現実に有効であるよりも、抽象度が高ければ高いほど多く重要度を含有してしまうことを、三十も半ばにさしかかろうという上田保春はすっかり忘れてしまっていた。少年は彼の言葉を聞くと、小声でそれを何度か繰り返し、少女のように長い睫毛を伏せると臍を噛んで少し黙った。少年は自分を実際に救済してくれる言葉の中身を求めていたわけではなかった。少年は他ならぬ上田保春が自分に語りかけるという、その事実のみを欲していたのである。やがて顔を上げ、さらに潤んだ瞳と紅潮した頬で見つめ返し、「上田さんがそうおっしゃるなら、今週の集まりには参加しないことにします」と誇らしげに宣言した。上田保春は少年の目を見て、当初の計画が意図とは逆の効果を生みだしてしまったことを痛感し、気持ちが沈んでゆくのを押さえることができなかった。半ば投げやりに考える。だいたい自殺などというものは、黙って一人でやればいいのだ。自殺したところで、自傷したところで、拒食したところで、引きこもったところで、それらはすべて世界の否定、自己の消滅、真の意味での死の様相を客観的に受け入れたがゆえの行動とは遠く、なるほど愛情への渇望からやってくるあなたの哀しみには覚えがあるので理解しよう、それらはすべて誰かとの関係性を求めるための逆接に過ぎないのである。死ぬ人間は黙って死ぬ。もし自分が自殺するのだとしたら――上田保春は夢想する。笑顔で世間とうまくやってみせ、完全に世界と和解した人のようにふるまい、仲間たちと馬鹿騒ぎをし、酔っておどけてみせ、卑猥な冗談に笑い声をあげ、最高に愉快なひとときを過ごし、「また明日」と陽気に別れた後、突然死んでみせるだろう。誰かに同情されたり、理解されたりなどということを想像するだけでぞっとする。理解されたいだけのことに、齟齬や死を用いる人々の群れ。虚構の提供する軽繰と、人生の持つ平板な抑揚との差に苦しみ、現実にハーレクインを求めている。ただのハーレクインを高尚な何かに転化できると思っている。上田保春は、日本橋と秋葉原を爆破したあの吊り広告の犯人のことを唐突に思い出していた。この瞬間に意識の表層へと浮上してくるとは、きっとどこか心の深い部分でひっかかりを覚えていたのに違いない。きっとその人物ならば、自分のこんな気持ちを的確に代弁し得るのではないか。家に帰ったら、あの事件について詳しく調べてみよう――その思いが関係性を希求する人々の感情と全く同じ場所から発していることに、上田保春は気づいていない。
 「本当に、いつかこの孤独と疎外感が消えてなくなる日が来るんでしょうか。ぼくは、一人で死んでゆくのが怖いんです。集団自殺なんて馬鹿なことをと思われたかも知れませんが、共感はうわべだけだっていいんです、ぼくはぼくの側でいっしょに同じ死を死んでくれる人を切実に求めていたんだと思います。自分に正直であればあるほど、友人たちはぼくの元を離れていきます。この世には、誰もぼくを本当の意味で理解できる人間はいないような気がする。この前、ある言語の最後の話し手を取材したドキュメンタリーをテレビで見ました。同胞たちは全員殺されるか死ぬかしてしまっていて、彼の話す言葉を理解できる人はこの世に誰もいないんです。彼は少しなら英語を話すこともできるんですが、それが本当に自分を表現するとは決して考えていないでしょう。彼の内面を表現するのは彼の民族の言葉以外には存在せず、その言葉を理解できる人はもう彼だけしかいない。夜になると、彼の家から歌声が聞こえてくるんです。でも、その歌は彼の民族の言葉で歌われていて、誰も何を歌っているのか知ることができない。テレビから流れるその歌声を聞いていると、全く内容はわからないのにぼくは涙が出た。彼の抱えている孤独は、ぼくの抱えている孤独と同じだと思ったから」
 少年の言葉は、徐々に嗚咽へと変わっていった。なぜこの少年の言葉は無意識の柔らかい部分をひっかくように響くのだろう。感情移入しないように椅子の背もたれに身を預け、上田保春は防衛を露わに腕組みをした。しかし、それも虚しいことを彼自身が知っている。新聞の悩み相談にあるような、典型的な十代半ばの青臭い悩みに何を心動かされることがあるのかとお思いのことかもしれない。繰り返すが、ここで間違えてはいけないのは、上田保春と少年は萌えゲーおたくだということである。これはやがて社会に生産性を加えるための、居場所を約束された若者の持つ予定調和への躊躇ではなく、社会に危機を与える種類の個性を萌えゲーによって押さえ込んだ、誰も彼に居場所を約束できない若者の悲鳴なのだ。上田保春にはそのことがよくわかっていた。そして、少年の言及した最後の話し手が歌う民族の歌の哀切な調子は、すべての知性が底流として共有する人間において他者へと届き得るが、萌えゲーおたくたちの言語はすべて人間への逆接、あるいはときに侮辱においてできあがっているので、少年の投影は実のところ的はずれで、彼の孤独が癒されることがこの先決してないことも上田保春は知っている。少年の感じている孤独は、萌えゲーおたくが自らを受け入れるために経過しなければならない、人間を捨てるステップの第一段階に過ぎないのだ。しかし、レジで聞き耳を立てているのだろう店員たちにはそうは聞こえなかったはずだ。上田保春は店員たちとの間にある長大な距離に、やるせなさを感じた。それは自分の有り様を憐れんだためというよりは、目の前に座る欠けた片割れに対する悲しみを感じたゆえだった。少年はもはや滂沱と流れる涙をぬぐおうとも隠そうともせずに顔を上げたまま小さくしゃくりあげながら、正面から上田保春を見つめている。目の前に泣き濡れる少年を見て、自分の防衛が溶かされ、伝播した嗚咽の痛みが喉に溜まってゆくのを感じた。しかし、少年といっしょに泣いてやることはできなかった。なぜなら、上田保春と少年はそれぞれ別の世代の萌えゲーに葬られてしまっているのだから。世間から十把一絡げに扱われるおたくたちの実体は相互に厳しく断絶し、絶望的に孤絶化している。上田保春は無理やり嗚咽を呑み込んで腕組みを解くと、少年の肩に優しく手を置いてやりたい衝動を押し殺して、教師が生徒を諭すように高圧的に、同情的には響かないよう慎重に意識して言った。
 「泣くんじゃない。泣いたって、しょうがない。君はまず私の世代がどう死ぬのかを見極めるんだ。私の世代は嗜好によって切り分けられる最初の世代だ。文字通り自らの嗜好と心中するしか方法が無いんだ。私の世代から先は、きっとそれぞれが個別の死を死ぬことになる。しかも人類の巨大な連続の中から、誕生日のケーキのように切り分けられて、誰にもその悲しみを理解されない、全く個別の悼まれない死を死ぬしかない。受け入れよう。その覚悟の確認をするために、私たちはいま生きている」
 もちろん、こんなことを言うべきではなかった。それは上田保春が抱えている実感と、限りなく近い位置にある言葉だったから。太田総司にも有島浩二にも言ったことのないその真情を開帳したことは、ほとんど魂の告白であるとさえ言えた。彼は場の雰囲気に呑まれてしまった自身の失態に呆れ返りながらも、どこかで安堵を感じた。それがどんなに虚しい願いに過ぎなくとも、上田保春はずっと、萌えゲーおたくであることからの救いを求めていたのだろう。少年をその救いであると考えるほどには単純でもセンチでも無かったが、彼の心の深い部分にあるその希求が、過去のうつし身のようなこの少年を死から一時的に救いあげたことに安堵を感じさせているのは間違いなかった。上田保春は内面の葛藤を悟れないよう努めてぶっきらぼうに「もう行かねば」と告げる。少年は制服の袖で涙をぬぐうと、決然と立ち上がった。上田保春が二人の支払いを済ませ、店を出る。肩を並べて切符を買い、無言で改札をくぐると、お互いが別のホームへと降りてゆくことがわかった。「また、会えますか」と少年。「会うようになっていれば、会うだろう」と上田保春。はぐらかすため、あるいは判断を保留するためのその発言は、しかし新たな感銘を与えてしまったようだった。少年は熱烈に上田保春の右手を両手で包み込むと、「必ず」と言って、ホームへと降りていった。少年は乗り込んだ電車の窓越しに最後まで手を振っていた。少年を乗せた列車が向かいのホームを離れると、上田保春は孤独を感じた。萌えゲーがありさえすれば、孤独などは何の意味も持たないはずだったのに。上田保春は少年が彼の中にある人間なるもの――あるいはその真似事をゆさぶって、はるか昔に苦しんだ苦しみを再び呼び覚ましたことに、恨みに近い気持ちを禁じ得なかった。しかしその負の感情すらも、上田保春の中に生まれた新しい希望を拭い去ってしまうのに充分ではなかった。人目のある中なので実際にそうしたわけではなかったが、上田保春の内面の盛り上がりは、望みさえすれば即座に涙を流すことができるほど昂まっていたのだった。彼は自分がナルシシスティックな高揚感に酔うにまかせた。そしてこんなふうにさえ考えた。私は次の世代に責任をとる最初の萌えゲーおたくになりたい。思えば高い代償であるが、おたく以外の人間による不断なるおたくの収奪を根絶したいと願う純粋な熱情によって、それは実現可能となるはずだ。上田保春の昂揚はほとんど革命家のそれに近かった。しかし、抽象かつ巨大なものが語られるときには注意が必要である。その語り手は自信が無いか、責任を放棄しているか、現実感を失っているか、いずれかの状態にいるからだ。そんなものに身をまかせているのは、泥船に乗るよりも足場がない。上田保春の足下にひらいていたのは、まさにその陥穽だった。だが、幸いにもと言うべきか不幸にもと言うべきか、彼の昂揚は長く続かなかった。
 その晩、母から電話がかかってきたからである。