猫を起こさないように
WaWW-6
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少女保護特区(1)

    おぼえておいて。一羽の鳥が砂を一粒一粒、大海原を越えて運ぶとするでしょ。
    砂を全部、向こう岸に運び終わったところで、やっと永遠が始まるのよ。
    まあ、それはそれとして、鼻をかんだら。  (カポーティ『冷血』 )
 奈良全体は、四つの部分に分かれていて、その一つには教育特区があり、もう一つには平城特区があり、三つめには、土地の人の言葉でポントチョウとよばれ、行政的にはただ鋳物特区とだけよばれる刀匠の居住地帯がある。京都のそれとは全く関係を持たない。特区内で最も人口の集中する「日本刀町」の名が人口に膾炙してゆくうち、自然と音声面での脱落を生じた結果と思われる。四つめは、青少年育成特区である。しかし、土地の人で公文書上のこの呼び名を使うものは、ほとんどいない。この地域は一般に、少女保護特区の俗称でよばれる。
 この四つの特区はお互いに異なった制度と特例措置をもっている。教育特区は名物無き県の無形品目を有形化するために、平城特区は天災無き県の歴史遺物を人災から保護するために、それぞれ大和川水系ならびに淀川水系とちょうど重なる行政単位の上に成立している。次に鋳物特区について、区全体がポントチョウの名で代替されるほど刃物の生産に傾倒してゆく過程には、少女保護特区へ隣接する地勢が人心へ大きく影響したとの推測が成り立つ。なぜなら特区内で許可証を得た少女は、異性というより同性に対する身の安全から、即座に武器をつかむ必要に迫られるからである。ここ五年に清掃局が公表した統計を参照すれば、許可証の発行から武器の確保までに死傷される少女の数が年を追って増え続けているのがわかるはずである。鋳物特区は新宮川水系、青少年育成特区は紀の川水系に位置する。
 わずかの米粒が、白濁した液体にふつふつと上下する。予が炊事の煙を目で追えば、上空を旋回するヘリの操縦者があわただしく無線機をつかむのが見える。町内に点在するスピーカーからは、サイレンの音が肉食獣のうなりのように低く長くしぼり出される。予は自分自身に出立を指令すると、橋の下の陣営へ輜重を残したまま、ビデオカメラを片手に大和川の浅瀬をかちわたり現場へと急行する。半刻の行軍の先に、身の丈の半分ほどもある鉄門扉を押し開き、まさに路上へ足を踏み出さんとする予の少女と遭遇を果たす。ちょうどビデオカメラの射程内にまで接近すると、何より視線を避けるため、予は自分自身に大地へと身を伏すよう号令を下す。たちまち左上にRECの赤い明滅を伴った視界は低くなる。風雨の状況によっては、予の少女が腰巻きにする布襞の内幕を暴露せん危険な位置である。予の軍団兵はたちまち闘魂たくましく猛りたったが、まだ時は来ておらぬと諫め、闘魂は内側へ燃やしたまま静かに待機するよう伝令をとばす。
 予の少女が大通りへと進発する。鳴り響くサイレンの音階が、一段階高くなる。町内報には決して記載されず、町議会での議題となることもないが、まぎれもない少女警報である。町内に徘徊する少女が一定数を越えたときに発令される。予はここに特区法の機能不全と人間世界の不実とを浮き彫りに見る。近隣の飼犬たちはあからさまな敵意を燃やし吠えたてる。ゴミあさりの猫は毛を逆立てると後も見ずに走り去る。青洟を垂らして街路に立つ少年をその母親が横抱きにして家へと連れ帰る。通勤途中の背広男は大きくひとつ震えると、視線の位置を悟られないようにサングラスをはめ、外套の襟をそばだて、命を運にまかせ南無三と駅へ駆け出す。民家の朝顔は小学生の観察日記を逆回しに見るように、しおしおと蕾へ返る。見慣れた朝の、緊迫した光景である。
 予は両腕で全身を引き上げるようにして、じりじりと這い進む。兜で防護した頭部の隙間から極度の緊張による大汗が頬を滴り、迷彩を溶かしながら大地へと垂れる。少女たちの発する熱気だろう、灼熱化した舗装道路の上へ色彩だけを残して、汗は瞬時に蒸発する。南北へ走る大通りはなだらかな傾斜を描いており、丘の上に作られた住宅街という地勢上、南へ向かうにつれてその勾配はますます深まっていく。油断なくビデオカメラを低く構える予の視界に引かれた地平は、立ち上る熱気にゆらいでいる。やがてそこから茶色い固まりがせり上がって来る。この距離では正体を確かめようもなく、予はただ手をこまねいて待つ以外の戦術を採用できぬ。やがて茶色い固まりは地平線から浮上を開始し、息詰まる数分の後、ついには人の形を成すに至る。見間違いようもない、少女である。安い染髪料に加え、継続的には手入れが施されなかったのだろう頭髪は、茶と赤と黒がまだらに混在しており、だらしなく開いた服の襟元は本来の白とは遠い垢じみた黄に変色している。最大公約数の受け手を想定し控えめに表現したとして、一斗缶を満たした弛めの排泄物を頭から行水したようにしか見えぬ。胸元や腹部から垣間見える肌は、予の軍団兵の闘魂をいつも烈々と燃え立たせる少女本来の質感からは、はるか遠い。たくし上げられた腰巻きの短さは、その布が本来持っていた文化的な定義を失うほど短く、風速というよりは単純に角度のみで陣営の内側に蓄えた具材を予に提供しそうなほどである。
 ひるがえって予の少女を言えば、すべての特性においてただ対極にあると指摘するだけでよい。二人の少女は相手を頓着せず道の端を歩み、まさにすれ違わんとする。予の動悸は爆発的に高まる。なぜなら、少女同士の邂逅がお互いへ無事な結果を残すということは、ありえないからである。顎と左肩で保持された携帯電話へ注がれる大きな音量と小さな語彙の発話が、人気の失せた大通りへ耳障りに響きわたる。その醜態を避けるため予の少女へとビデオカメラを振りむけようとして、予はある決定的な違和感を抱くに至る。先ほども述べたように、相手の腰巻きはその陣営内へ我々を深く誘い込む陽動の如く、しかし全く充分ではない粗雑さで仕上げられているのだが、それに反して上半身を覆う衣類はと言えば、これ手首にまで及び、特に右袖の布地はひどくすり切れている。暗示的にゆるめられたその袖口は、とても防寒の役目を果たしそうにはない。学習用具の不在が平らにしたのだろう革鞄を持つ左手首の袖口は、対照的に強く引き締められている。低い視界からのぞく画面を横切るように、陣風が丸まった紙くずを転がしてゆく。二人の少女の影は、まさに重ならんとする。
 さて、ここで奈良のみならず国土全体を覆う特区制度の根本について、若干の説明を加えておくことは、あながち意味の無いこととも思われないのである。Full Faith and Credit shall be given in each State to the public Acts, Records, and judicial Proceedings of every other State.「各州は、他州の法令、記録および司法上の手続きに対して十分の信頼および信用を与えなくてはならない」。合衆国憲法第四条第一節の引用である。特区制度の根幹は、米国の州制度と極めて近い。すなわち、特区内の法律に照らして下された決定事項の有効性は、当該の特区内に限定されず、他の特区においてさえ留保されるのである。先に述べた鋳物特区の隆盛は、人体を殺傷できる刃物の購入に所持証明を申請する必要がないという点の寄与するところ大であろう。特区設立の当初、たちまちやくざ者や、思春期の世迷い言に目の据わった少年たちが押しかけたが、彼らは依然、殺傷することをまで法を越えて許されてはいない。報道番組に他人事の悲痛を楽しませることはあれ、社会秩序を根本的に擾乱する存在ではありえない。特区制度導入の最黎明期であり、特区法の雛形となった合衆国憲法第四条第一節が、我が人民の持つ固有の性質と混郁した場合の結果を誰も予想しきれなかったとはいえ、青少年育成特区から少女たちへ認められる特権の莫大さは群を抜いている。特区内法の整備は各自治体の首長に預けられる部分が大きく、故に追試を行うものは誰もいなかったのではないかと推測できる。そして後に、我が人民特有の、根拠の希薄な相互信頼が産みだした結果に、誰もが青ざめることになるのである。
 大通りの向こうから、こげ茶色に塗装された大型車がやってくる。公式にはランブラーと呼ばれ、土地の人は陰で霊柩車と呼ぶ。清掃車と消防車を組み合わせたような奇妙なそのフォルムは、実のところ与えられた目的と完全に合致している。逐一破片を取り除くより、大量の水で洗い流してしまう方がはるかに効率的なケースも多いからである。カラーリングの起源については諸説あるが、付着した血液が渇いたときに目立ちにくいという説が最も理に適うところではないか。屋根部分に据えられた手すり付きの足場には、妙齢と称すべきだがそのじつ高齢の女性局員が手ぐすねを引いて待ちかまえる。無数のカーラーが埋まり更にネットで固定された紫の頭髪と、湿布薬の欠片が未だ生々しく残るこめかみは、この召集がいかに緊急のものだったかを予へ語りかける。その視線は老眼に厳しく細められ、まさに歴戦の古強者といった風情である。この仕事は一般に不名誉なものとされるが、その高給のためだろう、少女たちとの邂逅へ想像逞しくする夢見がちな無職青年の志願は後を絶たない。しかし、最初の出動を終えての離職率は9割を越えるとの調査がある。詳しい理由は不明だが、どの地域においてもやがて妙齢で高齢の女性が構成メンバーのほとんどを占めるようになるという。
 予が清掃局の車両に目を奪われた一瞬のうちに、すべては始まり、終わる。相手の少女が平手を打つように右手を跳ね上げる。予の少女が一瞬、上体を沈めるのが見える。何かが陽光を反射させる。腰巻きの布襞が風をはらんで膨らむ。鋭い金属音、潰したゴムホースの先端からするような水音がわずかな間をおいて連続する。両者の身体はいつの間にか入れ替わり、予の少女はすでに血煙の向こうにいる。茶色い頭髪に覆われた左耳の下から水平に血が噴き出している。その勢いで身体をよろめかせ、縁石に足をとられて車道へとまさに転倒せんとするところへ、乗用車が猛然と走りこむ。運転席の男はきつく目をつぶり、ただアクセルを踏み込むばかりで、眼前の障害物に気づかない。少女警報のただ中、車を走らせる必要に迫られた自暴自棄は、あながち首肯できない理由ではない。速度と続く衝撃に千切れた首は、フロントガラスの角度によって真上へと高く跳ね上げられ、主人を失った胴体は布襞をタイヤへと引き込まれながら、人の形を崩壊させる過程で前輪をロックさせる。制動を失った車はたちまち対向車線へと流れ、電柱に激突する。予が目視で確認できたのは以上であり、これより記述することは、予の優秀な子飼いであるビデオカメラに提供させたスロー再生機能で知ったのである。
 予の少女が通学鞄と共に捧げ持つ竹刀袋の先端は、熊の顔をデフォルメしたキルト製カバーで覆われている。相手の少女はすれちがう最後の瞬間に、明確な意図をもって歩幅を広げる。大きな動作で振り戻された右腕から滑るように短刀が出現し、それは鞭のしなりをもって驚異的な速度で跳ね上がる。キルト製の熊が口を開け、咆哮する。一つ目の斬撃が小さな弧を描いて手首を切り飛ばす。一撃目の勢いをそのまま重力方向へ預け、身を沈めながら予の少女が回転する。一瞬、風をはらんで腰巻きの布襞がふくらむ。陣営の内幕を垣間見、烈々と闘魂を燃え立たせた軍団兵は予の身体をわずかに浮上させる。その上昇は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。先ほどより高い位置から画面をのぞき込む予の視界で、鋭い踏み込みからなされた二つ目の斬撃が、最初より大きな弧を描いて相手少女の左耳下部を通過する。キルト製の熊が口を閉じ、鍔鳴りが高く響く。小さな円と大きな円から成る二つの斬撃は、完全に一連の動作として繰り出されている。加えて、予の優秀な子飼いの機能をもってしても刀身を残像にしか確認できないほど速い。
 霊柩車から飛び降りた女性局員へ、予の少女は学生鞄からパスケースを取りだし、許可証を提示する。老眼に目を細めつつ顔写真を確認すると、パスケースを叩きつけるように投げ返す。運転席には恐ろしく似通った容貌をした、しかし別の女性局員が座っており、やくざに無線をつかむと、清掃局独特の符丁で少女殺人発生の旨を短く通達する。女性局員は大股に歩み寄ると、漆喰壁に刺さった手首を短刀ごと引き抜く。続いて泣き別れの胴体を車の下から引きずり出すと、足を掴んで粉砕器へと投げ込む。回転を始めた巨大ブレードはめりめりと音を立てて、迅速な焼却を目的に、すべてを細切れへと分解する。もう一方の女性局員はホースを腋の下へ固定し、大通りへ向けて放水を開始する。舗装道路へ濃く広がった赤い染みは、たちまち希釈されて下水口へと流れてゆく。
 何ひとつ大事は無かったかのように、予の少女は大通りを消失点の彼方へと遠ざかってゆかんとする。予はその最後の後ろ姿を逃すまいと映像の倍率を高めるが、そこへ茶色い頭部が突き刺さった。それはちょうどコロンブスが卵を立てたのと同じ手段で逆さに屹立したため、飛び散る黄身と白身――修辞的には――がひどくレンズを濡らす。その顔面は半月と半月を未就学児が戯れに貼りあわせたようにもはや完全な球から遠く、左右の瞳が向ける視線を延長したとして同じ物体の上には永遠に交わらないであろうと思われる。予の視界はたちまち沈下する。その下降は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。歩み寄ってきた女性局員は見下すような一瞥を予に与えると、突き刺さった頭部を片手でわしづかみにし、ハンドボールの要領で粉砕器へと投げ入れたのである。

少女保護特区(2)

 後の歴史が断じるどのような悪政も、誰かの善意から志向されたことを予は疑わない。かの青少年育成特区でさえ、有効な対策の無い少女への略取行為の抑止となることが、その当初の目的であったのだ。ここに一枚の許可証がある。すでに持ち主は死亡しており、彼女の死は当局によって公的にも追認されているため、もはやそれが与えていた特権は失効している。山中深くで行われた少女殺人に立ち会った際、清掃局の到着前に予が資料として私的に接収したものである。一見して運転免許証と見まがうが、所持者に与えられる権限は全くその外見と乖離している。青少年育成特区のホームページに記載されていた「復讐において生じたあらゆる結果を合法とする」という文言は削除され、現在では閲覧することができない。だがそれは、文言が表現していた実体の消失までを意味しないのである。
 許可証の右肩には、3×4センチの写真が貼付されている。少女の前髪は目許まで垂れ、薄く青白い唇と相まって持ち主の印象を乏しくしている。写真の下には、Avenger Licenceと英文字で朱書きされている。はなはだ正確性に疑問符の付く英語だが、発案者が青春時代に少年漫画を愛好していたのだろうことだけはうかがえる。氏名、誕生日、本籍地、住所、交付年月日の記載が並び、続いて条件等の項目が来る。そこには、「少女である限り有効」と金地に白抜きされている。青少年育成特区はまず女子の保護を優先したのだが、男子へ許可証が発行される機会はついになかった。あの大混乱を経た後、各自治体の首長たちはすでに、例えば痴女に貞操を奪われる際の精神的外傷がいかほど深いかについて議論を尽くす気力を失っていたのである。
 特区の設立からほどなく県下で発見された身元不明の死体が、少女による復讐の結果であることが判明し、県議会は揺れに揺れた。当該特区の首長たちのみに求められていた善処も、少女殺人が県境を越えるに及び、焦点であった許可証の文言を適切に採用したのが誰かは特定されないまま、国会へと舞台は移される。少女の定義を巡って議事堂で繰り広げられた痴態は、年月というよりはその衝撃ゆえに、市民たちの記憶に新しいところだろう。普段は表明が許されず、よって相対化されることも標準化されることもない各人の性癖と異性への偏見をすべての議員が公の最たる場へ生のまま開帳したのだから、無責任に徹することを決めれば、これほど面白い見せ物は無かったはずである。
 ほとんど土俗イニシエーション的とさえ言える答弁を除けば、少女の定義はほぼ二つへと集約された。当人のみによる賛同しか得られなかった少数派の意見だが、その多様さは議会の過半数を占有したほどである。民主主義はビザールを圧殺しえないことの証左として、また当時の空気から遠く離れて読む受け手の理解への一助として、行われた無数の答弁から一つを引用する。「マネキンの頭部を糸鋸で切開し、トマトで煮込んだ獣肉で満たす。その後、切開した頭部を元のように封じる。少しでも汁気が漏れないよう、ビニールテープで成されることが望ましい。その後、マネキンの頭部を粉砕する。漬け物石か庭石が、入手の点では簡便でよいだろう。その際、鶏の羽根を黒く染色したものを外套に張りつけ、鳥に扮装することが望ましい。その後、飛び散った獣肉のうち、地面に落ちたものだけをかき集める。付着した塵埃は洗浄されるべきではない。その後、食した獣肉が排泄されるのを目視できたなら、少女を成熟した社会の構成員として認めるべきである。食餌と排便は、薬品による睡眠や殴打による昏睡など無意識のうちに始められ、意識を取り戻した段階で無理矢理嚥下、排泄せしめられるのが望ましい」。
 先に述べた二大勢力とは、初潮を少女の終わりとする月経派と、処女喪失を少女の終わりとする破瓜派――タカ派のイントネーションで――である。日々の議論のうちに少数派は押しやられ、やがて超党派の両勢力が議事堂を席巻してゆく。世に言う血の七日間の幕開けである。少女の声を持つ年齢詐称の声優がするラジオ電波、いやラジオで電波を延々と答弁に代えた末、係官からの退去を演台を抱きかかえて拒んだり、演台を拳で殴打しながら男女の性差について宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、義務教育年齢の女子が奔放な姿態を露わにする本邦でのみ公開可能な冊子を実物投影機で開帳したり、実物投影機を馬乗りにして全議員へ具材を強要しながら宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、猥褻ゲームのポスターを掲げながら現実に少女はいないと宣言したり、馬乗りに具材を押しつけた腺病質の顔面へ拳がめりこむほど殴打を加えながら宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、国営放送の画面には断続的に、しかし総計すれば一日八時間以上に渡って野山の静止画が映し出された。倫理は小声の謝罪か極小の囲み記事がすべて引き受ければよいとばかり、あらゆる報道は一斉に加熱を極める。すべての良識が自制を失った当時の狂騒ぶりを忍ばせるできごとを紹介したい。理性ではなく感情に訴える、全体主義統制下の政策報道官の如き言辞に得々とするニュースキャスターが、「これだけ国民を騒がせておきながら、直腸性交に関する議論が全く行われないという一種異様な事態があるわけですが、そこのところどうでしょう」と発言する。コメントを求められた、クオリティペーパーを以て任ずる大手新聞社の編集局長は、生放送の最中にもかかわらず完全に絶句した。また、その新聞社と関西圏のみに販売経路を持つ夕刊専門誌の一面が、スーツの下を脱がされて議事堂内を逃げ回る男性議員の写真を同一日に一面で掲載する。フォントの種類や大きさの違いはあれ、どちらも見出しに「お粗末」と書かれた。両紙の持つ品格の違いは、モザイクの濃淡にのみ帰せられたのである。
 破瓜派の優勢は一時ゆるぎないものに思われた。なぜなら当時の与党の国対委員長、老利数寄衛門が強力な破瓜推進派だったからである。しかし、その構図は最終局面を目前に逆転することとなった。運命の夜、老利は料亭を出たところで待ちかまえていた記者団に取り囲まれる。月経か破瓜かと詰め寄る記者たちに対し、道端で手毬遊びをしているおかっぱの少女を指さして、「あのように愛らしさの中にも凛とした清冽さが同居できるのは、両足の間に膜がぴんと張って心棒の役割を果たしているからである。もし膜を喪失してしまえば”しなをつくる”の言葉どおり、身体の中心は張りを失って蛸のようになる。それはそれで別の趣を持つが、あの少女のような清冽な美しさはもはや望めないだろう。世には陰毛論争もあるそうだが、それは論点をはき違えている。生えてしまっては割れ目が見えないではないか。割れ目だけに筋の通らぬ話である」と発言する。軽妙な冗談に爆笑する記者団の傍らで、少女は浮かぬ顔のまま、「どうか許して欲しい。騙すつもりはなかった。私はあなたに言わせれば、少女とは呼べない。なぜなら、この花はすでに望まぬ形で散らされてしまっているからである」と返答する。とたん老利は多くのカメラが取り囲む衆人環視の最中、潮吹きのように両の眼球から涙を噴出させると、少女の足元へ我と我が身を投げ出し、宣言した。「きみは少女である。誰が何と言おうと、この老利がきみを少女にしてみせよう」と。老利数寄衛門が破瓜派から月経派に転じた瞬間である。この映像は不作為の大スクープとなり、政治史上もっとも劇的な思想転向として語り継がれることになった。後の世に言う、老利の変である。
 だが、すでに大勢は破瓜へと傾いている。この大物の転向も趨勢を完全にくつがえすことは適わなかった。依然として発生し続ける少女殺人に決断を促される形で、両勢力は妥協案を採択することとなる。膣内よりの流血を第三者が観測した段階を少女の終わりとするという、玉虫色の折衷案に猛反発が巻き起こった。いわく鉄棒で股間を強打した場合はどうなるのか。いわく一輪車で股間を強打した場合はどうなるのか。いわく挿入式の生理器具が誤動作を起こしたらどうなるのか。しかし時すでに遅く、様々の矛盾を孕みながら少女の定義に関する法案は、野次と怒号の中で可決されたのだった。次いで少女喪失観測者の国家資格が新設され、出血の量に始まってその粘度と間隔に至る細部が文言として整備される。手順の煩雑さもさることながら、青少年を性的略取とその二次被害から守るという特区の理念が優先されたゆえに、少女の終わりは本人からの申し出が無ければ審議の対象とはならなかった。実質上の骨抜きである。ゆえに、少女であることを生きたまま失効した者は、現在に至るまでただ一名を数えるのみである。権利の放棄を手続きする手順とは正反対に、許可証の発行は極めて簡略化されている。戸籍抄本を用意すれば、残る要件は唯一「異性からの略取行為」であり、さらに口頭による申告ですべての手続きを完了できた。一時期、AvengerLiscenceの発行数は爆発的な増加をみる。どれほどの冤罪がこの数を裏で支えたのか、もはや確認するすべはない。炭坑のカナリヤとして常に狩られる側の立場にあった少女たちが、初めて他者に対する真の優越を得たのである。この至上の楽園さえも、しかし長くは続かなかった。結果の価値とは、過程において手に入るものだと予は考える。卓に満載された皿を前に自足しろというのは傲慢であり、パンの固まりを片手に自足しろというのは欺瞞であろう。特区の理念はたちまちに適えられたが、その無窮の位置で周囲を見回した少女たちは、鏡写しの自分自身を発見したのである。少女に与えられた特権を奪えるのは少女だけであり、彼女たちの持つ特権の膨大さは望むと望まざるに関わらず、すべての介入と救済を拒絶した。
 少女の定義が確定したとき、予が人間世界にとって何者であるかという定義は未だ確定していなかった。予は高等遊民として、俗世から離れた生活を自身に強いていたのである。労働が予の純粋さをわずらわすことを好まなかったからだ。睡眠と覚醒へ好きなように時間を配分し、数十年程度の強度をしか保てぬ凡百の常識を超越した場所で、予はときに何時間も飽かず自由な思索をくゆらせたものだ。市民たちの嘆息ぐらいは、歴史的な視点から人間世界の実像を俯瞰する予にとって、何の痛痒でもなかった。日々は素晴らしい気づきと変革に満ちており、予は人間精神の広がりの無限を喜んだ。予の生活においての惰性は、ペットボトルに蓄えたし尿を二階の窓から庭の木々へ撒く日課を除くならば、絶無であった。獲物へ跳びかかる肉食獣の筋肉に漲る一瞬の静止の如く、来る大事に備え、予は極めて創造的な雌伏の日々を過ごしていた。無論、遠大なる高邁はしばしば近視眼の低俗に、容易な非難の口実を与えてしまうものである。だが、何の実利や栄誉を得ることなく果てるとして、それが予の貴族精神による選択の末ならば、恥じるべき理由はどこにもない。予の主人は、予以外にあり得ぬ。この確信を誰かに証明するべきだという強迫は他ならぬ相対化の罠であり、予の無謬はあまりに市民の生来と離れていたので、悲しいかな、予の本質を貶める以外の伝達は不可能だと言えた。
 寒い日だったことは覚えている。自室に長く寝そべって食事を口へ運びながら、天気予報と同程度の頻度でなされる少女殺人についての報道を眺めていた。法の庇護を享受しただけであるのに、ほとんど指名手配犯のように並ぶ少女たちの顔写真の一つに予は目を留める。突如、長らく抱き続けてきた脳髄の外へは決して共有され得ぬはずの予の観念が、現世へと受肉したのである。予は数年ぶりで自室の扉を開くと居間へ駆け下り、炬燵を囲むように蝟集する市民たちへ少女観察員となることを誇らかに宣言する。しばらくぶりの発声に予の言葉はくぐもったが、それは予の言葉を少しも汚しはしなかった。あれほど明白な確信の様を理解できず、うろたえるしか知らなかった市民たちは、今では予を恐れて彼らの城門を予の前に閉ざし続けている。少女観察員の概念は当時、予の内側にのみ存在していた。しかし、巨大掲示板での熱心な匿名討論の末、予の克己はあらゆる政治的な誹謗と中傷を乗り越えるに至る。少女観察員は当たり前の選択肢として、すでに一定の社会的承認を得た職業と考えてよいと思われる。実際、少女同士の対決を撮影した映像は、役場や大学など実地の検証を常に求める公的機関へ提出すれば、いくばくかの謝礼金と交換することができた。また、ネット上にパスワードをかけて配信すると、ダウンロードの権利を求める市民たちは後を絶たない。もちろん、先の清掃局員が予に投げたような不条理を浴す機会も少なくはない。しかし、あらゆる理解と援助をただ克己により拒絶した上で、精神力と実行力の極限を自身に問い続ける少女観察員は、名誉ある職業と予によばれている。

少女保護特区(3)

 最後尾に接続された木製の有蓋車が、地鳴りと鉄の軋みをあげてホームへと滑り込む。耳障りなその残響も収まらぬうち、巨大な体躯に制服を歪曲させた三人の鉄道職員が異様な俊敏さで互いの位置を入れ替えながら駆けて来、太い鎖で厳重に封印された鉄扉にとりつく。一人が赤子の頭部ほどもある巨大な錠前へ鍵を差し込み、内部の仕掛けを利用してというよりはむしろ握力によってそれを回す。残った二人が制服の縫製を漲る筋肉で引き裂きながら、顔面を紅潮させて扉を横へ引く。露わになった肩口に血管が浮き、にじむ汗が爬虫類の質感を赤銅色の肌へ生じさせる。均衡が作り出す完全な静止を越えて、溝に浮いた赤錆をこそげ落としながら鉄扉がじりじりと滑り始める。わずかの隙間から、人間が身をよじるようにして続々と降りてくる。どこまでいっても男しかいない。その衣類は一様に暗い色調で、ちょうど台所に生息する例の昆虫が家具の隙間から出現したような錯覚を、嫌悪感と共に与える眺めである。ホームが鋼鉄の間仕切りで分けられ、それぞれから別々の出口へと階段が続いているのは、万一にも少女と男性が遭遇しないようにとの配慮からだ。当初は単に金網が引かれていたのだが、局所のみを金網の隙間へ通過させる者が続出し、微弱な電流を流す対策を施したところ、局所のみを金網に通過させる者が逆に増加するという陰惨な経緯があった。当局の、高度に政治的な判断を求められる決断だった。
 鉄扉が完全に開放されると、精神を崩壊した焦点の無い瞳でホームに蝟集する男たちが、意志というよりは眼前にある状況に促されて、幽鬼の如く空の車両へと吸い込まれていく。この有蓋車こそが、青少年育成特区の生み出した副産物のひとつ、男性専用車両である。異臭に耐えて一歩足を踏み入れれば、劇的な大気の変化は組成自体に及んでいるかのように感じられる。この世界に偏在する特殊な磁力を持つ場、その境界を踏み越えたときの悪寒や霊感を与える変容は、正に異界や結界の類である。入り口付近の床は光に四角く切り取られ、清掃の手間をはぶくためだろうか、干し草が敷き詰められているのが見える。その表面は黄から茶への階調で濡れ濡れと照っており、生理的嫌悪と直結する何らかの成分を大量に吸い取っているようだ。干し草に含まれた微生物とそれとの発酵現象に、なま暖かな白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。明かりの届かぬ先は黒く塗りつぶされ、狭いはずの車内は広所恐怖を感じさせるほどの莫大な空間へと変じていた。かような劣悪の環境を、なぜ男たちは移動手段として甘受するのか。人として堅守すべき尊厳が藁の上へ臭気を伴って遺棄されるとしてさえ、少女警報の頻繁な公道に乗用車を走らせること、あるいはかちゆくことに比べれば、目的地へ到着するのに少なくとも命だけは伴うことができるからである。
 鉄と鉄が擦れる不快な軋みが獣の断末魔の如く響き、乗客たちの背後にがちり、と錠前の閉じる音がすると、窓の無い車内は完全な暗黒に包まれた。慣性の存在により、接続された電動客車が牽引を始めたのをかろうじて知ることができる。やがて、天井付近に人魂と形容したいような灯りが浮かぶ。その、不定期に明滅を繰り返しながら揺れる裸電球が唯一の光源であり、ぼんやりと浮かんではまた闇へと消える視界は、脳波への負の影響を心配させる。座席と呼べるものはかつての残骸がわずかに散見されるのみであり、家畜のように詰め込まれた男たちは苛立った様子で身体を前後へ揺すったり、足を踏みつけられては怒声を挙げたりしている。自立することを放棄し生存を疑わせる脱力で漂うものもいるが、倒れる心配だけはないほどの乗車率である。
 背後から強く押された一人が、肩越しに不快げな視線を投げる。その瞳孔がたちまち驚愕に収縮し、ひゅっと小さく息を呑むのが聞こえる。急なカーブにさしかかり、車両が大きく傾ぐ。裸電球が焦げるような音を立てて消えると、永遠のような漆黒が視界を満たした。流れる車内放送は、停電程度の不便をことさらに詫びる欺瞞には気づかぬふりである。古いスピーカと車掌の胴間声の相乗効果で音声は割れに割れており、「茂吉の猫、死ぬべし」という台詞を、構成する最小の音素群に分解してさらに濁点をつけ、日本語ノンネイティヴのする抑揚で読み上げたように聞こえた。再び焦げるような音を立てて、裸電球に光が戻る。少女の、床の間に置かれた由来の知れぬ日本人形のような無表情が、男の前にあった。特定の数字や単語が、日常をただ通過するだけの膨大な情報群から、ほとんど意味を伴った連続であるかのように浮き上がる錯覚が存在する。無意識の執着がその検索を可能にするのだが、このとき、物理的にも列車の走行音を圧するほど大きかったはずのない「少女だ」というつぶやきに呼応して、車内にみっしりと詰め込まれた男たちが、群衆を表現した低予算のCGを思わせる動きで一斉に振り返った。どの顔にも光源の影響による陰影とばかりは言えない恐怖と――何より、抑えきれぬ欲望がにじんでいる。立錐の余地など元より無かったはずの車内に、少女が背にする鉄扉を直径とした半円がたちまち形成された。
 青少年育成特区において、少女から与えられる死とは、有機体としての終焉に止まらない。人の死は情報を残すがゆえに、動物のそれとは一線を画す。だが、少女に殺された者はその聖別を奪われ、畜生道へと墜ちるのである。古代の記録抹殺刑、尊厳死の定義する状態を真逆にしたものが少女と関わった者のたどる末路なのだ。死亡届は受理されず、戸籍は焼却され、火葬の許可が得られぬ死体は川を流れ、山に白骨化する。我が社会において、その影響市民生活に甚大なれど、少女殺人は公的には存在しないというパラドクスである。人と人との関係性が命の喪失に際して生じることを仮定するならば、究極の社会性は殺人であり、究極の反社会性は自殺であると定義できよう。意識的にせよ、無意識的にせよ、行為にこめた意味のすべてを社会に無化された少女たちの多くは、自らの始末へ同じ手段を選ぶこととなった。もし同等の権利が与えられれば予はどうふるまったかを想像するとき、予の胸中をどよもす少女たちへの感情は同情に近い。しかしこれは、発信の源をたどれぬ行為は存在せず、よって法を度外視するならば救済に値しない人間は存在しないという、予の信念から見た一方的な感傷に過ぎぬこともわかる。実際、この災厄を得た者たちの親族は予の見方には全く同意せぬだろう。それどころか、具現化した精神上の疾患を見るが如き反応を予へ示すに違いないのである。理解へ到達することが不可能な人と人との関係というものは疑いなく存在し、そこへ妥協点を見いだすことが政治と言えるが、少女観察員という予の立場から試みることができる営為はそれとははるか遠い。そして、例え予に政治が可能であったとして、予はそれをすることを望みはしないだろう。無欠の予にうしろ暗さがあるとすればそれは、予の人生をどれほど延長しても政治には到らないという一点においてである。
 微温的な幻想の理解が消失し、世界に虚無と政治が現出するその瞬間を見ることのできる機会は決して多くない。不幸な若者が、少女を中心とする半円の内側へ押し出される。他の全員を救うための、集団によって選ばれた生け贄である。群衆の一人へ戻ろうと人垣へ突進するも、彼の力では身体ひとつ分の空間を圧倒的な人口密度の中へ作り出すことが適わない。たまらず跳ね返され、床に敷き詰められた藁へ顔面から倒れ込む。口腔内に侵入した汚物を唾と共に吐き出しながら顔を上げれば、発光して見えるほどに白い少女のふくらはぎがそびえており、それらは襞の折られた陣営へと続いていく。その内幕に漂う闇は、若者の周囲にある闇と全く同じものだったが、全く違うものだった。上半身を起こすと、ふくらみが持ち上げた上衣の隙間からのぞく、うおの腹のように湿った濃い白が見える。弱々しく立ち上がった若者の腰が引けているのは、群衆による打撃のせいばかりとはもはや言えなかった。整髪剤で固めた前髪のひと房が、汗のにじむ額へと落ちかかる。頬は痩け、顔に血色は無く、一見すると内向的な書生風だが、その実、戦争などの外的エクスキューズを得ると最も残忍に豹変しそうな容貌だ。若者は、恐怖と絶望と嫌悪と好奇と憧憬と欲情と諦観とが入り交じった、修辞上でのみ無責任に表現可能な表情を浮かべている。その内面には死と性の、嵐のような葛藤が渦巻いているのだ。取り囲む群衆は両手を振り上げ、足を踏みならし、車内はほとんどショウダウンの様相を呈し始める。長い睫毛を伏せ、少女が怯えたように後ずさりする。いまや車内の全員が少女の――あるいは若者の共犯者だった。背後から忍び寄る無数の手が、若者の背中を強く押す。彼は踏みとどまることもできた。しかしその瞬間を恐れると同時に強く望んでもいたため、一瞬、両足に力を込めるのが遅れる。男性の重みを預かり、少女は鉄扉へと押しつけられる。若者の意識は柔らかさと香りにくらんだ。逃れようと身をよじった少女の手の甲が、若者のセクスを撫でる。君は激しく勃起したな、と余人が指摘できるほど身を震わせた後、痛みにも似た放出をした、と表書きされている表情で若者は放出をした。刺激によってというよりはむしろ、自らの置かれた状況に放出したのである。それは分厚な生地越しにさえ、少女の手の甲へ粘液を残すほどの激しい放出だった。長い長い放出の後、若者は膝から床に崩れ落ちる。ハンカチを手の甲に当てながら少女が、駅員を呼んでください、と小さくつぶやくのと、鉄扉が少女の背後で開くのはほぼ同時だった。ホームにはすでに、制服姿の巨漢が阿吽の如く待ちかまえていた。
 近くを列車が通過する度に、ほとんど灯火管制のような深い、幅広の傘に覆われた電球が小刻みに揺れ、待つ者たちそれぞれの不安を象徴するかのように大気を光で攪拌した。やがて、耳障りなじゃりじゃりという音と共に黒電話の受話器が漫画的に跳ね上がる。目深にかぶった制帽のつばが落とす濃い影に視線を消失させられ、ほとんど非人間的に見える制服姿の巨漢が受話器を取り上げ、応答する。短いやりとりの後、通話口を片手で覆うと、申請が受理された旨を少女に伝えた。駅舎に入れられてからというもの、うつむいたまま組んだ両手の親指を見つめるばかりだった若者は、駅員の言葉に促されるように顔を上げる。その表情は、人間が平常に浮かべ得るものの中では笑顔にもっとも近かった。若者の視線の先には、少女が腰掛けている。きつく合わせた膝の上へ、身長ほどもある日本刀を横抱きにする少女の表情は、人間が平常に浮かべ得るものの中では笑顔にもっとも近かった。だが、両者の内面はその実、究極と究極の両端へ乖離しているのだった。少女は陣営の襞を揺らしつつ、日本刀を床に突いてことさらにゆっくり立ち上がると、駅員の方を向いてわずかにおとがいを上下させた。与えられたばかりの権利の行使を肯定したのである。少女の意図を確かに理解したはずの若者の表情は、依然として笑顔のままだった。しかし、彼の足はわずか数分の先に待ちかまえる自己存在の完全な消失を認識したことで、逃走の不可能な距離で腹を空かせた肉食獣と遭遇した草食獣と同じほどに萎えており、社会の規定する新しい人権の中でも最も新しい人権を少女に行使させるためのあらゆる助力を拒絶できない第三者、いまや法に強制された正義がお互いを双子のように似通わせている巨躯の駅員たちが、両脇から支えてやらねば立ち上がることもできないほどである。本能が萎えさせた両足から悟性が若者の大脳へ満ちるには、しかしさらにいくばくかの時間が必要だった。日本刀の柄に手をかける少女を見た若者は、体中の穴という穴から人体に可能なあらゆる粘度の液体を流しに流し、やがて水分を喪失して木乃伊のように収縮してしまう。一方、駅員たちは己れの幇助する権利の正しさへますます膨張肥大してゆき、いまや天井を突かんばかりだ。少女は悠然と日本刀を肩にかつぐと、そのまま重力が鞘を払うにまかせた。鞘の先端が床に触れるのと、刀身が爆発的に右から左へと薙がれるのはほぼ同時だった。その速度は、特定の自意識の持ち主ならば、”疾走”に”る”と送りがなをつけて「はしる」と読ませるほどだったろう。消えた刀身は、瞬間移動のように駅舎の壁に突き刺さった形で出現し、その威力を殺しきれずぶるぶると蠕動していた。このとき、まだ少女の技術は斬撃をあますところなく制御する精妙さには至っていなかったことがうかがえる。刀身の震えがおさまると、駅舎に完全な静寂が訪れる。しかし、それはほんの須臾の時間に過ぎなかった。駅員の上半身が背中の方向へ、ずるりと滑り落ちる。遅れて、切り離された若者の首が、頸動脈からの血流に押し上げられて天井近くまで上昇し、噴水の上に乗ったボールの如く、顔全体を赤く染めながらくるくると向きを変える。やがて血流は弱まり、首はけん玉の要領で頭頂から元の受け皿へと見事に着地した。もし切断された頭部にしばらく意識が残るのだとすれば、若者の視界には天井を歩み去る少女の後ろ姿が見えたに違いない。そして、少女の陣幕が重力の影響を全く受けないのを口惜しく感じたはずである。
 空にはすでに月があった。原色に近い黄色を、霞が覆うような月だ。見上げる少女の右手が、陣営の上から小刻みに太ももを叩いている。そこへ、茶色に塗装された清掃車が猛然と走り込んで来、後輪を激しく滑らせながら半回転すると、駅舎へ横付けになる。車体が停止する暇もあらばこそ、頭髪を紫に染めた妙齢の女性が両腕を組んだまま跳躍し、五輪選手もかくやという月面宙返りを見せて少女の傍らに着地する。その跳躍が、月を背景に横切る文字通りのものだったことは付け加えるまでもないだろう。昂ぶる感情によるものか、高ぶる年齢によるものか、鼻の頭にいっそう皺を寄せる動作から、彼女が視覚というよりはむしろ嗅覚によって敵を発見したことがわかる。大気へかすかに混じる血の匂いを嗅ぎとったのだ。獅子の如き威嚇の表情と、その猛烈な視線を涼しく受け流すと、少女は艶然たる微笑を返した。完璧に抑制されたその微笑の裏に、そのとき本当は少女が何を感じていたのかをうかがうことは、不可能だった。
 以上が、数少ない現場証言と一級の史料に当たって予が再現した、予の少女の――誰もが人生で一度は通るとは限らぬ――殺人の処女性を喪失した事件の全容である。