サイバーパンク2077、深い没入感で濃密な体験を約束してくれるんですけど、ゲームを起動するまでのハードルがとても高い。細切れの時間では楽しめないし、プレイ中は他のメディアを触れないし、何より世界観と人物相関がけっこう混みいっているので、シラフでないと理解できない。なので休日の昼間とかに「よし、サイパンやるか! やるぞ、オレはやる!」などと大声で自分を鼓舞してから始める感じになります。
平日の晩はといえばアルコールを入れながら、ニュース番組とネトフリを同時に流しながら、艦これとフェイトゴーの周回を同時にやりながら、ツイッターを横目に見つつFF11の時間ポップNMの沸き待ちをやっててーー書いてて我ながらたいがいやなと思いましたーー可処分時間ではないですが、やることの多い現代人にはそれぞれへ薄く意識を偏在させた状態の一部となれるような遊戯や仕組みが好まれるんでしょうね。PSVRなんかも起動したら面白いのはわかってんですけど、完全に他を廃した没入を強制されるので、宅配のピンポンが鳴ったらどうしようとか、いかがわしい動画の最中に音も無く家人が背後に忍びよっていたらどうしようとか、下半身まるだしのまま終始バイザーを上げ下げして周囲を確認しなければならず、完全に集中することはなかなかに難しいわけです。
そして気づいたら、あれだけイヤイヤだったはずのカラドボルグ作成も小石とランプと心臓の収集が終わって、いつのまにかリフトボウルダーをいちマンコ納品するだけの状態になっているわけです。あとはオーメンとうなぎを往復していれば完成できる、カネさえ積めばだれかと競争せずに解決できる段階になって、ホッとすると同時にひどくさみしい気持ちになっている自分に気づきました。アビセア・ウルガランでNMを釣り負け、他PCに「死ね! 今すぐ消えろ!」なんてリアルで絶叫して、スッとんできた家人にこっぴどく叱られる状況よりは、はるかに平穏な日常がもどってきたはずなのに! 結局、私たちはみな、一人では避けがたいさみしさを心の奥底に抱えており、「死ね!」とか「消えろ!」とか、乱杭歯をむきだしに叫びかかることのできる他者を求めているのでしょう。歪であっても関係を築きたい、憎悪であっても何もないよりはずっといい、もしかするとツイッターもそんな場所なのかもしれません。とりとめもない日記的独白(最低な)を、いい話ふうにして終わります。
ネット越しとはいえ、二十年ほどもおつきあいいただいていると、私の人格的な陥穽とか異常は親族のように理解いただいていることと思う。おたくを罹患した自分において、大人になるということは、精神的な成長や人格的に陶冶されることとイコールではないと警戒し続けてきた。二十歳ぐらいで固着した本性は、どれだけ時間を重ねようとも決して変わることはない。人格の歪んだ部分、欠けた部分に自らの意志でもって義肢をあてがい、正常のような見かけでふるまうことができる、それが私にとっての大人になるということである。幾度も手痛い失敗を繰り返し、そのたびに擬態の能力を高めていく繰り返しだった。けれど、うまく擬態を装っていける時間が長く伸びれば伸びるほど、もしかして本当に私は成長して、人格が陶冶されて、充分に成熟したのではないかと錯覚する瞬間が訪れる。もういまの私はかつての異常な私のようではなく、長く私を苦しめてきた症状は完治したのではないかという、都合のいい錯覚。アル中病棟で読んだ「ぬか漬けのキュウリが生のキュウリに戻らないのと同じ」で、異常な嗜癖を病んだ者は、おたくを病んだ者は、二度とそうでなかった状態へは戻れない。その事実を定期的に、痛烈に突きつけてくるものがある。そう、艦これのイベントだ。これまでの甲難度と同じレベルの乙難度ゲージ破壊に数万の燃料と数百のバケツを空費させられ、いったん攻略を中断して資源確保に当たっていた。そして昨晩、友軍艦隊が来ているのに気づき、これでようやく鬱陶しいやり残しの仕事を清算してしまえると、再び最終ゲージの攻略に乗り出したのである。するとどうだ、友軍艦隊はカスのようなダメージしか与えず、尋常ならざる敵最終編成の撃破にはまったく届かない。かりそめの希望がひるがえって絶望に転じるとき、それは限りなく深くなる。息苦しい暗がりの洞窟を延々と進んだ先、出口の陽光へと踏み出そうとした瞬間に、襟元をつかまれてグイッと暗闇に引き戻されたときに感じるだろう絶望。前衛艦隊が無傷のままボスの夜戦に突入し、すべてのクリティカルが敵旗艦に吸い込まれるという妄想を抱いたまま、やめどきを失っていく。撤退を繰り返すたび、心の中に昏く重たい感情が累積していくのがわかる。そして幾度目の出撃だったろう、最初の空襲マスで一隻が大破した瞬間に、それは決壊した。キーボードを殴りつけ、マウスのコードを引きちぎり、コントローラーを机に叩きつける。怒りの自失から我にかえると、モニターは倒れ、右手には血が伝い落ちていた。もしこの感情が人へ向けば、間違いなく殺してしまうような性質のものだ。穏やかな表情で日々を過ごしている自分、もしかしたら敬意や信頼を寄せられさえする自分の内側に、こんな制御不能の異常な汚れたものが潜んでいる。そして時折、外へ噴出しては自分を絶望させる。
艦これは、きらいだ。ずっと忘れていたいのに、私が異常者であることを、幾度も幾度も思い出させるから。
ワンピース(衣類)やシネバ(呪詛)からの客の離れ方を見ているとそれは、懐かしさ半分と惰性半分でずっと追いかけてはいたものの、次第に商売と骨がらみになって純粋さを失ったクリエイティブに対して、じつは心のどこかで嫌気がさしていたことに、鬼滅を筆頭とした近年の、伏線をキチンと回収してバランスよく終わるコンパクトな物語群によって、気づかされた結果ではないかと思うのです。物語は長くなればなるほど、物語単体としての純粋さを失って、語り手の人格や人生と骨がらみになり、作者の変節が物語の変質につながる段階を必ず迎えるような気がします。
例えばグイン・サーガも50巻ぐらいまでは純粋なファンタジーでしたが、最後のほうでは作者の自意識を代弁する何かに成り果ててしまったのですから(それまでいっさい登場しなかったアルド・ナリスの母親が突然あらわれ、病床の息子を数ページにわたって改行無しに罵り続けるなどの、物語の自走性ではない、作者の内発性によるストーリーテリング)。
そして物語への興味ではなくて、作者への関心で読むようになってしまうと、ストーリーへの好悪よりも語り手への愛憎が意識の前面に出てきて、エンターテイメントの観客の本来である楽しみや喜びを味わえなくなってしまうのです(私にとってのエヴァがそれ)。
ともあれ、この二十年かけられ続けてきた集団催眠ーーテレビの形状がボックスからプレートに変わっても、まだ画面には青い猫型ロボットや入道雲パーマが映ってるーーから我々は、ようやく目覚めようとしているのかもしれません。時代の変化というと大げさですが、長い長い夏が終わり、エンターテイメントの季節が成熟の秋へと移った年として、本邦の2020年は記憶されるのでしょうか。
わえ(一人称)! 先割れの蛇舌でする聖夜のフェラーティオウ、小鳥猊下であるッ!
昔はこの時期、わざと更新せんとリア充感だしとってんけど、今年はクリスマスも中止になったみたいやし、ちょっとならええやろ。書きやすいから関西弁でいくで。あのな、ファンガスの最新インタビュー読んでん。チンポコ?(チェンクロ)だかゆうスマホRPGを作ったヤツとのべしゃりになっとって、キホン相手を立ててて(ミスタイプやないで。「て」3つで正解や)、おべっかとまではゆわんけど、ずっとじょうずばっかゆうて進んでくねん。ファンガスがメディアに顔だしするときやけど、気に入った作品のおたく語りやとか、好きな作家のレスペクトなんかが話の中心になっとって、なんやホンマはどんな人物なんかとらえどころがないんやけど、対談のうしろのほうで鬼滅の話題をふられたとたんスイッチ入って、ギラギラと眼光するどくおもしろさの分析するみたいなモードんなって、ここまで立ててた対談相手の話をさえぎるわ否定するわ、クリエイターとしての生の怖さゆうか、すごみみたいのが出てて、うわ、こらエエもん見たわって感じやった。
対談のまえのほうではスマホRPGとかMMORPGとか、数年に渡って運営せなあかんゲームの難しさも語られとって、オンラインのRPGは、プレイヤーが飽きて離れたり、サービスを続けられなくなったり、かならず後味わるう終わるゆう指摘には、その通りやとヒザを打つところがあったで。オフラインのRPGやと、少ないリソースで四苦八苦しながらキャラを育てる過程が楽しゅうて、その楽しさのピークとラスボスたおすんが重なったところで、ゲームを終えることができるやんか。でもな、オンラインのRPGは運営が長期化すればするほど宿命的に、レベル99になってからの時間がプレイタイム全体の100%に限りなく近づいていくねんな。レベル99の世界で何を楽しませるかに、作り手はみんな四苦八苦しとる。見てると、解決法はだいたい3つに集約される感じやな。1つ目「既存のキャラ・アイテムを一定のペースで陳腐化する」、ガチャの新キャラが旧キャラよりも確実に強く設定されるのがこれやね。2つ目「レベル上限を一定のペースで解放し続ける」、レベル200とか300とか、どこまでもキャラが成長する青天井方式やね。でも敵もつよなるから、差し引きでレベルアップの意味はほぼ消えてんねんけどな。プログラム上の限界はレベル65535なん? 知らんけど。3つ目「レベル上限はすえおきで装備やアイテムで少しずつステータスを上乗せする」、エフジーオーはこれに該当するんかな。絆上限解放とかコマンドカード強化とか、つよなった気はぜんぜんせえへんけど。
わえ(カワイイ!)、6年にわたってメッチャ課金しとうから、もう弊カルデア(笑)の戦力はぜんぜん飽和してんねん。せやな、レベル99になって3年ぐらい経つ感じやから、そろそろなんか目先を変えた新しい遊び方が欲しいところやな。そこで提案やねんけど、持ちキャラが全滅するまで侵攻できるタクティクスオウガの「死の迷宮」みたいなヤツはどないやろ。ファンガスも好きなはずやで。持ちキャラが多いほど単純に有利になるし、戦力飽和のマスターにも課金する別の意味が出てくる。課金せんならせんで、少ないキャラでどこまでもぐれるかアタマつこたチャレンジもできるしな。あとは、報酬をどうするかが問題やね。ゲーム内でほしいもんもうないねんけど、「聖杯」「獣の足跡」は当確として、なんでかかたくなに導入しようとせえへん「任意のキャラの宝具レベルを1上げるアイテム」はどうやろ。ガチャの売り上げも下がってきてるみたいやし、頃合いとちゃう? 期待しとうで!
でもな、ファンガスはん、「ボクが新キャラを引くためにいくら使ったと思いますか!」とかぬかすんは、もうけすぎの煙幕にしたかて白々しすぎるんとちゃいまっか? 例え10万円つこたとして、キミのこづかい50億円の0.00002%やないか! ほぼオナイやのに月額2万千円でバンザイの子もいるんやで! わえ(キュート!)はこの二十年間でテキストのかせぎは0円、いや、売れない同人誌のぶんマイナス50万円やねんで(正確にはnoteで500円もらったから、49万9千500円)! トボけるのもええかげんにしいや!
質問:シンエヴァの本予告、出ましたね。試写会を見た人の評価もすこぶるいいみたいですし、これは期待できるのでは?
回答:うーん、試写会の感想っていっても、関係者のでしょ? Qのときも公開前に原画マンだったかのひとりが、「我々はとんでもない怪物を作りだしてしまった」とか興奮ぎみにツイートしてたの覚えてんだけど、フタを開けたら中身はあんな感じだったじゃない? 作る側は創造の熱狂で作品への客観性なんか吹きとぶものだし、アニメーターの方々の評価は、全体のバランスというより切片へのフェティシズムーー「今の動きすごいな!」「この構図キマッてるね!」ーーにあふれているので、一般的な評価者としてはまったく信用できません。私とエヴァの関係はさんざん語ってきましたけど、熱烈な恋愛でゴールインしたはずの夫がDVモラハラ野郎だったと判明し、長い苦難の結婚生活の果て、別れ話を切り出したら、もう暴力はふるわない、真人間になって定期的に家へカネも入れる、なんて泣きながら言われて縁を切れず、どこか信用しきれないまま、いつまたなぐられるかビクビクしている幼妻と同じなのです。
つらつらと本予告を見た感想など述べると、ぶんだー(笑)とピンクタラコとコネメガネがいくら出てきても鬱の底みたいに気持ちは動きませんが、無重力空間でアスカの下半身を執拗に映し続けるのにはEDなのにチンピクでしたし、シンジさんが初号機のコクピットに座っているのには目頭が熱くなりました。第三新東京市を背景にした、旧劇の量産機とのバトルとは大違いの、ヌルヌルと重量感の無いCGぽい殺陣がわざとだとすると、冒頭10分の映像でも画面外から繰演線が見えてるみたいな指摘もあったし、ストーリーにVR的な要素も入ってくるのかしらん。でもね、もし13号機(たぶんカヲル君が乗ってる)がラスボスなのだとしたら、本当にガッカリですよ。エヴァって、理由もわからず我々を滅ぼしにやってくる、ディスコミュニケーションの象徴としての、天使の名を持つ正体不明の使徒に、どう人類が抗うかという巨大なスケールの話だったのに、前も言いましたけど空前絶後の大駄作であるQ以降、浅間山荘の内ゲバの話へと卑小化されちゃってるんですよ。エヴァの魅力をエヴァの創始者が理解していない、あるいは我々が小出しの情報から二十六年もカン違いをしていたのだとしたら、これほど不幸なすれちがいはないでしょう。予告の最後の「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」ていうシンジさんのつぶやきにしても、旧劇の「さよなら、かあさん」に引っかけてんでしょうけど、エヴァンゲリオンって単語が機体を指してんのか、なんかの概念を指してんのか、作品そのものをメタく意味してんのか、まず「ボクの考えたカッコいい台詞」ありきみたいな感じに響いて、物語からは浮いちゃってる気がするなー。
あと、十年くらい前にルーブル行って、ほぼ貸切の状態で館内を見学して、モナリザの防護ガラスにキチガイがティーカップを投げつけてついた傷も間近で見た私だから言うんですけど、テーマソングの歌詞、なんかダサくないですか? それと、もし本作が並行宇宙の結論に落ちるのだとしたら私がもっとも見たいのは、2011年に震災が起こらず、2014年か2015年に破の続きとして新エヴァが終わる世界線です(もちろんエンディングは、beautiful worldのアカペラ・バージョン)。予感ですけど今回のシンエヴァは、話の緻密さは脇に置いて、若干の謎の整合性は投げうって、スターウォーズ9みたく大団円のための大団円をやる気がします。そして公開が終わったら、エヴァ界隈はシークエル後のスターウォーズみたいな状況になるのではないでしょうか。全体としては冷めてるけど、マンダンロリアンとか「わかってる」スピンオフが局所的に傷を癒やしてくれるみたいな。読んだことないですけど、ANIMAのTVアニメ化とかね。残りの1ヶ月は一縷の希望ーーシンエヴァにまつわるこれまでの映像情報すべてがフェイクで、純然たる破の続編としてのエヴァ急が上映され、騒然となる会場でひとり莞爾として笑うーーにすがりながら、下を向いて過ごしたいと思います(静かにうつむく)。え、冬にたたずむ謎の子どもキャラ、だれなんでしょうねって? (ゆっくり顔を上げて)前にも言いましたけど、トウジと委員長の子どもなんじゃないですかね。ちょっと父親の面影があって、鼻ッぱしらの強そうなとこ、萌えますよね……。
「(ハンドポケットの銀髪が遠目で)キボウ……これがリリンの言う、希望ですか」
ゲーム「FF11の思い出」その1
ゲーム「FF11の思い出」その2
ゲーム「FF11の思い出」その3
ゲーム「FF11の思い出」その4
ゲーム「FF11の思い出」その5
ゲーム「FF11の思い出」その6
ゲーム「FF11の思い出」その7
ゲーム「FF11の思い出」雑文集
カラドボルグ完成。ツイートで確認すると11月26日に作成をスタートしていたので、一ヶ月とかかっていない。だいたいの目算であらかじめ一億ギルを用意していたとはいえ、もはやFF11にかつての廃人の居場所はないのだと痛感させられた次第である。
FF11終焉の地、醴泉島にてカラドボルグの試し切りを行う。あのカタパルトピンクパイオツさえいなければ、ひんがしリージョンはもっと豊かなものになったのになあと、ある種の寂寥感に浸りながらモヤったエンピリアンウェポンをふるう。これがまー、アホみたいに強い。過去、ジョブポかせぎでリンクしないようビクビクしながら一匹ずつ釣っていたのがウソみたいで、敵の集団へつっこんでトアクリーバーを撃ちまくるだけで延々とチェーンがつながっていく。前世がナ赤、今生が青シ風で、まともな前衛を経験するのがほぼ初めてということもあり、まるで別のゲームをしているような感覚さえあった。青シだったら通常攻撃2桁、クリティカル3桁、ウェポンスキル4桁前半だったのが、それぞれ3桁、4桁、5桁になるのだから、文字通り世界が変わる体験である。
テレホーダイ末期の古いMMORPGなので、遊び方やシステム理解へのゲーム的誘導は絶無で、そもそもインターネットにつなぐのさえ低くないハードルがあったものだから、プレイしている層は腺病質の高学歴(たぶん理系)が大半で、当時は単純なアタッカーをどこか小馬鹿にするような感じが漂っていた。赤魔道師が「いやー、器用貧乏なんでー」とか言いながら、エン系やブリンクやHP/MP交換アビなどを駆使してソロでハイ・ノートリアスモンスターを倒して「すげー」なんて羨望を集める裏で、ただ殴ってウェポンスキルを撃つだけの脳筋ジョブは半ば公然とディス(あwんwこwくw)られていたのだった。しかしながら、今回じっさいにさわってみると暗黒騎士の強さは非常にわかりやすく際立っており、プレイヤー層のリアルでの偏りが評価の偏りに影響を与えていたのではないかと感じた次第である。
そしてツイッターもたぶん同じことで、文章の書ける頭の回転が速い人物(腺病質の高学歴で、きっと理系)が24時間ずっと現代の社会とか政治に関する高速合意形成と大衆の教化(そして忘却)を続けており、それは実のところ世界の半分にも満たず、現実ではネットに姿を現さない低学歴の文系ヤンキーがコミュ力と物理で版図を広げ続けているのを、横目の視界に半ばとらえながら、見ないふりをしている。仮に両者が現実でエンカウントしたならば、なぐられた頬を押さえた赤魔道師が「この案件に関しゅる合意わ、とっくに済んでりゅはずひゃないでひゅか~」と訴えるのにまったくとりあわず、無言の無表情で彼の顔面へ大剣を振り下ろす暗黒騎士といった構図になるであろう。
ともあれ、カラドボルグの試し切りを通じて、本気で世界を変えたいならば、ときに暗黒騎士であることを避けずに生きねばならないなと、気を引きしめ直した次第である。
サイバーパンク2077、いっさいの情報を遮断してメインストーリーをクリアした後、そのまま新キャラ作って2週目をプレイしてる。ジャッキーと別れるのがイヤで、紺碧プラザへ行くのを先延ばしにしながら、ときどき犯罪行為に武力介入したりゴミを拾ったりする以外は、特に目的もなくウロウロしてる。真っ暗にした部屋で大画面のナイトシティをそぞろ歩いていると、年末に必ずやってくる「まだ何もしていない」という謎の焦燥感をいっときでも忘れることができ、たいへんに心安らぐ。この街の住人は一様にクズで向上心がなく、いつも他人を陥れることばかりを考え、口を開けば政治的に間違った言葉ばかりが飛び出す。だからこそ、私は心やすらぐ。社会的な正しさの擬態が必要なく、人生に目的があるといった欺瞞から離れて過ごすことができるからだろう。
ナイトシティでのできごとって、ぜんぶ「夜の街関連」だよな……。
サイバーパンク2077の2周目プレイ中。1周目をクリアした後だと、最初は気づかなかった様々なアラが見えてきた。メインストーリーと箱庭の作りこみとサブシナリオとゲームシステムを別々に作って、最後にガッチャンコ(関西弁で「ひとつにまとめる」くらいの意)しようとしたらうまくいかなくて、それぞれが収まるよう順に枝葉を切り落としていったら、ついには幹にチェーンソーを入れざるをえなくなった感じ。ジャッキーやTバグとの関係性を深めるストーリーが丸々カットーーTバグに至ってはおつかいのサブシナリオがひとつポツンとあるのみーーされてたり、大小様々な組織の利害が入り乱れる街で出自まで選べるのにコーポ中心のエンディングしか用意されていなかったり、街頭の作り込みはすさまじいのに中に入れる建物が極端に少なーーこれはたぶん、エリア構築とハッキングのシステムが一体化していることが原因、コピペのがらんどうでいいのにーーかったり、独自AIで自律的に動くはずの住人や警官(犯罪行為の瞬間に間近へスポーンするのは萎える)についてたぶん発売直前に白痴化が行われたり、ちんちんの長短やヴァギナの有無や声帯の男女入れ替えなどのトランスジェンダー的キャラクリにほぼゲーム的な意味が無かったり、とにかく「あるべき場所にあるべきものがないことで生じる空洞」が多すぎるのです。細かいけど、ゲーム内でキャラクリを自由にやり直しできないのって世界観を真ッ正面から否定してるよなー、性別や見かけではないところに真のアイデンティティがあるっていうさー。
あと、ジョニーというキャラが好きになれるかどうかがゲームへの印象を大きく左右する作りになってて、クリア後もジョニーのrelicを外せないのって、結構マイナスポイントになる人いると思うなー。冷凍漬けにしてた、あるいはクローンの肉体にrelic内の魂を転写してジョニー復活、以後はバディとして同行可能、みたいな展開を予想してたんだけどなー。いま挙げた不満の中には有志のMODで解決できるものもあるけど、メインの部分ではCD Projektにがんばってほしいところです。みんなウィッチャー3一作でこの会社の実力を判断しちゃってたとこはあると思うんだけど、ほんと前作が奇跡のバランスだったんでしょうね。数年(8年!)に渡って、出入りのある数百人のクリエイターの成果物をすべてチェックして次の方向性を与えて、ゴールを明確に提示しながらそれらを矛盾なくずっと統御し続けるって、よく考えたら人智を超えたマネジメントですもん(世界1個を丸々創造するという意味で、ヤハウェと同等の管理能力が求められるはず)。
同社のウィッチャー3の何がすごかったかと言うと、オープンワールドRPGなのにシナリオに整合性があって、ゲームバランスが破綻していないことだったと思うんです。オブリビオンにせよフォールアウト3にせよ、最初期のオープンワールドは箱庭に特化した、良くも悪くも雑な作りのゲームでした(逆に言えば、細部を雑にしておかないと立ち行かない)。そして後発のオープンワールドでストーリー重視のものは、箱庭要素を極限まで切り捨ててほぼ一本道にすることで、物語ることに特化していたわけです。ウィッチャー3は箱庭要素と物語要素が初めて矛盾なく高いレベルで成立したという点で、極めて画期的だったと思うのです。サイバーパンク2077にも同じレベルが内外から要求され、8年間の発酵期間を経て膨れに膨れた期待を結果として上回ることができなかったのが、発売後の騒動の原因ではないでしょうか。発売直前の絨毯爆撃的アドバタイズメントで初めて今作を知った私にとっては、自宅に押し込められた空虚な年の瀬へ、予想外に訪れた良質のエンターテイメント体験だったのですが、AAAタイトルはその宿命として空前を更新する大傑作であることを常に求められ、「良ゲー」ぐらいの評価では済まされないのでしょう。
世界観とそこで提示しようとしている命題については今日的ですばらしいと思うんですよ。殺人犯(ヨハネよりルカが好き発言とか萌え)が殉教者として十字架の上での磔刑を選び、その様をブレインダンス(VRのすごいヤツ)で録画されることを希望するとか、アラサカ社のプレジデントが息子の肉体を魂の上書きで乗っ取り、恒久の企業的安定を手に入れる(それに関する法解釈と生命倫理の演説も好き)とか、そこここで考えさせられる、魅力的なモチーフにあふれているのです。特に後者は「最良の名君による王政問題」、それが大げさなら「中小企業の創業社長問題」を想起させ、人間社会における問題の多くは個の寿命に由来しているのだなあと改めて感じさせられました。アホが総体をダメにしないよう任期を決めて支配の実権をローテーションする仕組みは、天才をアホですげかえねばならない事態を同時に抱えてしまいます(たしか銀英伝でも同じ話してましたね)。養育者に生命の継続を依存しなければならない十数年の体験から、ヒトという生き物にはどうしても神様ーーそれの命令を聞けば、脅威は取り除かれ心の安寧が約束される存在ーーを求めてしまう性向が植え付けられています。バランス感覚のある清廉潔白な無私の天才が永久の生命を有するとしたら、彼/彼女に永世を支配してもらうことにいち大衆として何の不都合が想像できるでしょうか。この架空の、それでいて根源的な問いに対する答えは、しかしあらかじめ決まっています。「変化し続け、やがては死ぬこと」が人間の本質であると同時に尊厳の根幹を成しており、被支配を求める頑なな凡夫である私たちにその点をじっくりと諭してくれるのが、今年のFGOや鬼滅のような良質の物語なのです。虚構の持つ機能のひとつとは、日常生活では起こりえないイフを突き詰めることで、隠された真実の片鱗を明らかにすることだと言えましょう。それはときに数式が世界の真理を体現するのと同じ明晰さと強度で、我々の倫理に迫るのです。
話がそれましたが、この命題に対する西洋の物語は英雄譚に寄りがち(マーベル!)なので、魂の不滅についてサイバーパンク2077の世界観の内側で弱い人間たちが出す結論を、今後のDLCで期待したいと思います。
サイバーパンク2077、2周目はメインストーリーをガン無視して、サイドジョブばっかやってる。女性の声にしてるんだけど、同じやりとりなのにガラッと印象が変わるのが面白い。今度こそJUNKERプレイに徹しようとハンドガンのパークにポイントを入れるも、あまりに弾が当たらなくてイライラして、「ウワーッ!」と絶叫しながら突撃してはブレードをふりまわしていたが、オートエイムのスマート武器を手に入れてから、ようやくそれらしくなってきた。
サイバーパンク2077、女性声のVだとジョニーとのやりとりがぜんぶ痴話喧嘩っぽくなるなー。ウザさがすごく増幅されて、「ぼくのかんがえたさいこうにカッコいいバディ」を制作者に強要される感じ、どっかで体験したことあるなー、どこだったかなー、と考えていたら、「俺の屍を越えてゆけ2」だった。
サイバーパンク2077、1周目のキチガイに刃物プレイにくらべて、だいぶハンドガンVがサマになってきた。それもこれも、ガチのFPS者にとっては当たり前の話なのかもしれないけど、マウスでエイムするようになったから。スマートリンクの無い銃でもまともに戦えるようになると、なんだか銃撃戦が楽しくなってくる。街中で黄色い矢印のついたキャラを見かけると、いままではビクビク迂回してたのに、ガンガン喧嘩をしかけるようになった。いま、なんか腱鞘炎になりにくい縦につかむマウス使ってんだけど、コントローラーでの移動から黄色い矢印を視認して右手でマウスをつかむ一連の動作が、ちょうどホルスターに手を伸ばして拳銃のグリップをつかむみたいで、すごく没入感がある。結果、黄色い矢印をもとめて街中をうろついては、ほとんどスナック感覚で文字通りの快楽殺人を繰り返す、サイコキラー・プレイになってしまっております。ロード画面のフレイバーテキストに「この年、合衆国の人口が15%減った」みたいのがあるんだけど、たぶんうちの主人公のせい。
質問:謹んで新春のお慶びを申し上げます。猊下の鬼滅論を密かに待っておりましたので、拝読できて嬉しかったです。ありがとうございました!時に幾原監督作品に関してのご見識をお伺いできれば幸いです。あと、お勧めのアニメ作品を教えてください。
回答:年に一度のやり取りですが、遠方の親戚でもそんなものでしょう。今年もよろしくお願いします。幾原監督ではウテナがいちばん好きなのですが、印象としてどの作品も内側に閉じることで完成度を高めていて、今回は問われたから少しだけ答えますけれど、下手な言及はしにくいなと感じています(某A監督の対極)。数年の制作休止期間を経てからの、ピングドラム以降の作品はすべて同じ手法で作られていて、第1話にバンク用のいわゆる「カロリーの高い」カットをこれでもかと詰め込んで、最終話まではそれらを変形しながら繰り返し使用していくことが演出と一体になっています。繰り返される毎にバンクに込められた意味が具象から抽象へと位相を移していって、最終的にそれが作品テーマの象徴として受け手へどのように感得(理解ではない)されるかが作品受容のキモになってる気がするんですよね。ピングドラムはちょっと危険なほど現実にあったテロ事件とオーバーラップして読ませる語り方になってて、「多くを不幸にした犯罪者の子どもが、幸せになっていいのか?」という問いかけの重さとバンクの繰り返しが最後まで緊張感をもって釣りあっていた気がするんです。でも、ユリ熊嵐とさらざんまいはバンクの華麗さが語ろうとするテーマを上回ってて、第1話で受けた衝撃が最終話に向けて漸減していき、つまり回を追うごとにつまらなくなっていき、視聴を継続するのが辛かったというのが正直なところです。同じ手法を3回続けて、オリジナルはよほどのテーマを見つけない限り、そろそろ厳しくなってきたと個人的には感じているので、いちど原作ありのアニメ制作に回帰して、純粋な演出家しての冴えを見せてほしいなと思います。えらそうですいません。あとアニメですけど、他人におすすめできるほど見てません(エヴァー某は女性にはおすすめできない)。ドラマでもいいなら、クイーンズ・ギャンビットが漫画的で面白かったです。
チャウ・シンチー監督作品は本邦でビデオ化されたものは、必ず買って見ると決めている。悪くは無いけど、なんだろう、このモヤモヤとした気持ち。たとえば松田洋子ファンが「薫の秘話」や「リスペクター」を期待して追い続けてるのに、「ママゴト」や「父のなくしもの」が上梓されるのを見るときの感じ。バッドトリップみたいなギャグと言語センスによる唯一無二のグルーヴ感を持ってるのに、親子の葛藤みたいな、だいたいだれが書いても同じハンコ絵みたいになる寸劇に才能が使われることを惜しむ気持ちだ。同じように、本作も映画としては悪くないのかもしれないけれど、やはり昔からのファンは「少林サッカー」や「カンフーハッスル」や「西遊記」のような、チャウ・シンチーにしか撮れないものを見たいと思っているのだ。荒唐無稽から普遍の崇高へと至る落差が彼の持ち味で、いまこの文章を書きながら、「少林サッカー」でサイクロンみたいなシュートをヒロインが太極拳の動きで止めるシーンが思い返され、じっさいに鳥肌が立ち目頭が熱くなってきている。
本作は旧作「喜劇王」の半ばリメイクになっているのだが、主人公を女性にしたのは明らかな改悪で、不燃ゴミみたいにジメジメした当アカウントで炎上をわざと引き起こすために言うと、「女芸人の芸は笑えない」という例の命題を引き起こしてしまっている。映画全体の9割ぐらいが下積み時代の話で、主人公の女性を殴る蹴るは当たり前、性格は元より顔の造作から果ては体型までを何度も何度もディスっていく。執拗な繰り返しで笑いを作っていくこと自体はチャウ・シンチーの持ち味だと思うし、西洋の映画文法や構成術をガン無視していく手法は大好きだけれど、今回ばかりは「もうええって」と渋面でつぶやかざるをえなかった。最後、主人公は女優として大成ーー「一年後」というテロップで済ます雑さだけどーーして、これまで彼女をイジメてきた人物たちへの間接的な復讐を果たす「スカッとチャイナ」みたいな展開になるんだけど、ラストシーンのファンとのやりとり含めて、本作が監督の自伝的作品だとするなら、いい話ふうに終わってるけど結局これ、バリバリの生存者バイアスじゃねえのって気分にさせられた。成功したからこそ浪費した時間や無駄な努力を肯定できるし、過去の貧乏や不幸も人生のスパイスとして懐かしく振り返れるんですよね。だれに何を言われても、自分を信じて続けていればいつか何者かになれるっていうメッセージをもはや額面通りには受け取れないし、後から来る人たちにそれを言う無責任さへの躊躇が勝る年齢になってしまいました。
そうそう、この年末年始で「ゲンロン戦記」を読んだんですけど、この世には作り手になれない人のほうが多いので、豊かな文化を形成するためには観客の育成こそ肝要みたいなことが語られてて、文筆だけで食っていける人物がその事実を使ってだれかをなぐる(じっさい、多くがそうしている)ことを選ばないのには、正直なところ視座の高さが違うなと思わされました。荒廃した祠の忘れられた神になるくらいなら、たとえ小さくとも祭りを続けられるよう信徒を集めた方がはるかにいい。イーストちゃんをはじめて知ったのは、クイックジャパンだったかで旧エヴァ劇場版を見て興奮しまくっている記事だったなー。以後、エヴァに関する言説という点でのみ追いかけていたので、ときどき横目で生存を確認しては安心するような関わり方であり、熱心なフォロワーではありませんでした。他にも同書では、この半年ぐらいアカデミズムに対してモヤモヤしていたことが言語化されていて、読んでてスッとした。かいつまんで要約すると、後から来る未熟な者たちを導くためには、先を進む者たちの熱狂に現場で感染させるしかなく、オンラインではそれを生じさせることが難しいという内容です。
またぞろムカムカしてきたんで下品に怒るから、イヤな人はこっから何行か読みとばしてほしい。あのな、自分の内側にあるのに独力では気づけない衝動を呼び覚ますプロセスが、教育とちゃうんか。いまだ己が何者かわからない未熟な存在にアンケートした結果で、”see?”とか小馬鹿にした態度すんの、ほんま腹わたが煮えくりかえるわ。奴隷商人が奴隷に「おまえら、幸せだよな?」と聞いて「ハイ!」と言わせるみたいな構図になってんの、自己弁護に汲々とするあまり見えてへんねん。動画や文章による専門性の伝達がよりすぐれた少数へ収斂して他が淘汰される未来で、肉体を伴った場が持つ伝播の力をあえて無いようにつるつる語れるんは、年齢的にもう逃げ切れると思ってるからやろ、ああ?
怒りのあまりだいぶ話がそれた(いつも通り)が、何が言いたいかといえば、文章で読むときのイーストちゃんは理知的(シラフだし)でホントいいこと言うなってことと、チャウ・シンチーには監督兼任で主演へ戻っていただき、「少林サッカー」ワールドカップ編や「カンフーハッスル」天下一武道会編や「西遊記3」天竺編をぜひ撮影してほしいってことと、シリアスや感動ものはもういいので、そろそろ「リスペクター2021」が読みたいなってことです。