猫を起こさないように
シン・エヴァンゲリオン劇場版
シン・エヴァンゲリオン劇場版

ゲーム「原神・閑鶴の章」感想

 原神の最新アップデート部分をクリア。「フォンテーヌと璃月はつながっている」という伏線の解消に、シルクロード的なエリアをはさんでくるのかと考えていたら、璃月エリアの拡張を中華の願望そのままに、ガチャッとフォンテーヌの隣へ接続させたのには、思わず苦笑してしまいました。原神はチャイナ発のゲームなので、同国をモチーフにしたエリアやキャラが増えていくのは仕方のないことですが、「鶴の仙人(鶴仙人!)をメガネ美女として擬人化するのは安直にすぎませんかね、更新頻度が高すぎてついに息ぎれですか?」などと、ヘラヘラ弛緩した笑いを笑っていたら、いつも通り原神のオハコである「家族の物語」を火の玉ストレートでキレーにみぞおちへと食らって、胃液を吐きながら号泣するハメになるわけです(学習しませんね)。実家を離れて都会に出た2人の娘を心配してコッソリ職場を見に行く母親の様子は、まさに子育てが終わったばかりの「空の巣症候群」の心情によりそったものだし、両親に先立たれて認知症のはじまった祖母と2人暮らしする少女について、ヤングケアラーなる珍奇な欧米の概念を用いず肯定的に描いているのも、その確信に満ちた手つきにほうと嘆息がもれます。つくづく思うのは、本邦において標準的な中央値の生活をしていると、「何者かの意図」みたいな陰謀論は申しませんが、うっすらと家族を嫌うように仕向けられていく気がしてなりません。当事者でない状況へわざわざ首をつっこんで口角泡をとばしたり、他者のルールをユニバーサルなお仕着せと信じて袖を通すのではなく、色川御大の言葉を借りるならば、我々はもっと「既製品ではない、手縫いの生き方をつくる」ことにのみ心を砕くべきだと強く思います。様々な形式の言語芸術が存在する中で、太古の昔より作りごとにすぎない虚構が途絶えず物語られ続ける理由は、自分ではない主観を通じて「手縫いの生き方」を追体験できるからで、その意味において、のちに仙人の弟子となるこの少女は、断じてヤングケアラーなる単語でおしはかれる存在ではないのです。

 永遠も半ばを過ぎると、多かれ少なかれ「取り返しのつかない後悔」はだれの中にも生じてきて、これを書いているのは大作ゲームを始める前に「ゲーム名」「取り返しのつかない要素」で必ずグーグル検索ーーバルダーズゲート3も2章の終盤で「取り返しのつかない要素」があまりに多くなりすぎて、頓挫してしまっているーーする人物なのですが、「あ、これ、ホンマに取り返しつかへんのや」との冷えた実感が、骨の髄まで浸透する人生のステージへとさしかかりつつあります。今回の伝説任務の終盤で、物忘れの果てに「人でも獣でもないモノ」と化す前に本来の姿へ戻ろうとする祖母へ孫がかける言葉、「おばあちゃんにとっては後悔ばかりだったのかもしれないけど、そのおかげで私はこの世に生まれることができた」は、物語の称揚による劇的な負の反転であり、ありえなかったはずの後悔の取り返しであり、「ジャパニーズ・フィクションa.k.a.中年男性が裏声でする十代のジャリの世迷言」では決してたどりつかない深い人生訓であると同時に、人間讃歌にさえいたっていると言えるでしょう。全共闘に端を発した「体制殺しによる国家解体」のカーボンコピーである「毒親殺しによる家族解体」をテーマとした昭和の物語群が、ついに新しく来た若い世代によって上品に忌避されはじめたことで、原神の大ヒットが生まれているのだとすれば、世界は確実に良い方向へと進んでいるのだと感じられます(いまなら、「昭和のフィクションたちの墓標」として、シン・エヴァンゲリオンに歴史的な評価を与えることができる気さえする)。また、「いやしい身分に己をやつしてまで、親の意に染まぬ相手とかけおちすることを選んだ娘」に対して、表面上の怒りとは裏腹に陰ながらゆるしと慈しみを与えるキャラの描き方は、「バブみ」や「オギャる」などの空疎なワーディングでしか、母性の輪郭を表現できなくなった本邦でのそれとは異なり、真の意味での「母なるもの」を篆刻していると言えるでしょう(本シナリオを読了後、レベルMAX・スキルMAX・聖遺物の軽い厳選・モチーフ武器への課金を最速で完了しました)。

 あと、パイモンが夢を見ていないことに気づく描写が一瞬だけ挿入されるのですが、いよいよ原神世界はペガーナの神々におけるマアナ・ユウド・スウシャイ(MMGF!の元ネタ)の、あるいは幸福な妖精の見る「夢そのもの」である可能性が高くなってきましたねー。

書籍「プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン」感想

 プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン、電子書籍で購入して、イヤイヤななめ読みする。客観的な数字に基づいた外部監査と思いきや、主観的な言葉ばかりの関係者によるお手盛り調査で、完全に予想通りではあったものの、ガッカリする気持ちをおさえきれませんでした。旧劇での「私たち、正しいわよね?」「わかるもんか」に延々と紙幅を割いてやっている感じと言えば、伝わる人には伝わるかもしれません。一見すると誠実そうなこの仕草は、新劇の抱える根本的な瑕疵から関係者全員が暗黙のうちに視線をそらし、言及を不可能にしている社内状況を如実に表すものでもあります。「思ったよりちゃんとプロジェクトしてた」みたいに印象操作を受けてしまっているアカウントも見かけましたが、このレポートの持つ性質は共産主義国家における全国人民代表会議であり、全体主義国家における国民総選挙であるという事実は最低限、ふまえておかなければならないでしょう。大本営発表へのカウンターとして、もうただの義務感から繰り返しますが、エヴァ破の予告からエヴァQへの変質について、東日本大震災に言及した反省が無いかぎり、現れる様々の症状から悪性腫瘍の存在に薄々は気づいていながらも、切除ではなく薬物療法のみを選択し続けるのと同じ結果になります。このまま病巣を放置すれば、エヴァンゲリオンというIPはますます痩せ細っていき、ついには取りかえしのつかなくなる地点にまでたどりつくにちがいありません。

 ステークホルダーまみれで構成された本冊子の中に外部的な視点があるとすれば、それはジブリの鈴木翁が寄せた原稿だけだと指摘できるでしょう。他の人物たちのものは、忖度たっぷりの筆致へさらに当局が検閲とリライトを重ねており、まったくの無味無臭へとロボトミー的に脱色されているのです。アニメ界での権威を完成させたがゆえに、旧エヴァのときのスキゾ・パラノにおける「庵野の母ちゃん、パイオツでけえのかなあ」みたいなざっくばらんさで、カラーのスタッフが語るインタビューを読むことは、もう決してかなわないのだと知り、どこか寂しい気持ちになったのは確かです。唯一、検閲からまぬがれた鈴木翁の文章を読みながら、庵野秀明の能力は「昭和アニメと特撮の完璧な脳内データベース構築」に双璧を成す、「ジジたらし、ババたらし」の人間的な魅力だったんだなあと、あらためて気づかされました。これも自戒をこめて書きますが、「ジジババたらし」の才覚でうまうまと組織や業界の上に昇ってしまった人物は、そのジジババの引退や現世からの退場を迎えてはじめて、等身大の中身と能力を部下や若い世代から検証されることとなり、精神的に厳しい立ち番へ置かれることとなります。本冊子には、その有形無形のプレッシャーに対して防壁を立てたいという気分が、全編にわたって横溢しているように感じました。もし巻末に、匿名Aと匿名Mの対談がノンタイトルで収録されていて、

「宮さん、もうぶっちゃけて言いますけど、なんであのとき、ボクを福島に連れていったんですか。あれからエヴァがおかしくなって、昔からの友人ともケンカ別れになっちゃった。予定してた会社の事業計画はもうグチャグチャで、クリエイターとしての円熟期を十年以上もエヴァで食いつぶすハメになるし、もうマジでシッチャカメッチャカな状況っすよ……」
「正直、一見チャランポランで、オレにもズバズバとモノを言うオマエが、じつは先生の言うことを真面目に受けとめる優等生タイプで、何の気なしの放言をあそこまで作家人生の宿題にしてしまうとは、思ってもみなかったんだよ。すまなかったな、ヒデアキ。だが、人生に無駄なことなどひとつもない。大事なのは、ここから君たちカラーという会社がどう生きるかということなんだな」
「なんかいい話ふうにまとめようとしてますけど、Qとシンはやっぱり余計な苦労だったと思うっす……」
「ハハハ、終わったことをクヨクヨするな! さあ、しみったれた顔してないで、飲め飲め! 若者は元気がいちばん!」
「宮さん、ボクもう還暦っすよ……」

 などのやりとりが赤裸々に交わされるのを見ることができれば、私はきっとシン・エヴァンゲリオンという大いなる駄作をゆるす気になれたでしょう。終わります。

雑文「宵宮賛歌(近況報告2023.5.28)」

 原神、伝説任務「星拾いの旅」を読む。「宵宮、スメールへ行く」という筋立てを聞いただけで、本作が持つ「異邦人による諸国漫遊記」の魅力から、間違いなく面白くなるのがわかるでしょう。義理と人情で泣かせにかかる物語は、特に小鳥猊下のようなすれっからしの冷笑家を相手にする場合、かなりの難しい注文になるものです。最近では、だれかを馬鹿や悪役にするストーリーテリングへ向けた拒絶反応が強く出ていて、一瞬でもその気配を感じとると、脳の「物語受容器官」が完全に閉じるーーゆえに、ほとんどの転生モノは読めないーーようになっています。また、シンエヴァ以降は登場人物への人格洗脳について非常に敏感になっており、「そのキャラがするはずのない言動」ーーすなわち、作者のマリオネット現象ーーを目にした瞬間、件の器官が強制終了してしまうのです。今回の伝説任務も、どこかでこの脱線が起こるのではないかと半ばおびえながら読み始めたのですが、設定・キャラ・ストーリーが一度たりとも軌道を外すことなく整然と進行し、生じた感情のさざ波はいっさいくじかれることなくテンションを高めてゆき、最後には逆まく巨大な情動のうず潮となって、気がつけば画面の文字が読めないほどの大泣きをさせられていました。

 否応な苦しみを前に子どものままでいることを許されず、確かに存在したはずの感覚が失われていくのに為すすべを持たないーー「子どものときにしか見えない生き物」を狂言回しとして、「やがて失われる子どもという属性」へ優しく寄り添いながら、「流星雨を見ること」と「自分の足で走ること」という二人の目的を一点に重ねあわせてゆく構成の見事さは、ここまでの原神世界におけるもっとも高い到達点のひとつだと指摘して、決して過言にはならないでしょう。「我々は、ひとりの子どもを見捨てない」ーーこれは、かつてnWoに書かれたうちでもっとも美しい言葉のひとつだと自負しているものですが、今回の道行きはかような真情に満ちあふれています。「全力で走るとき、耳元で風がビュウと鳴るのが好き」という台詞に古い記憶を刺激され、自分が「坂の多い町で育った、走るのが大好きな子ども」だったことを数十年ぶりに思いだしました(なぜ、そのことをずっと忘れていたのでしょうか)。

 「星拾いの旅」という掌編は、宵宮なる個性を抜きにしては成立しない筋書きになっており、これも特筆すべき美点だと言えるでしょう。この人物は、SNSに多く棲息する家族憎悪の「大卒白襟」が冷笑する「中卒職人」であり、耳が遠くなって少しボケ始めた父親を明るく介護しながら暮らしている。彼女はまっとうな両親と近隣の大人たちに育てられた、まごうことなき「地域社会の子ども」であり、肥大した頭ではなく等身大の心と手を使って日々を生きている。さらに言えば、正しく成長した人間は自然に善意と利他を身にまとうのだという希望の体現でもあるでしょう。彼女のような存在と負の共依存ではない関係を築くことを夢想しながらも、悪意と利己の塊である「間違った人間」が「正しい人間」を近くでわずらわせるべきではないとも思わされます。打算ばかりで呼吸するようには人助けへと身を投げだせないこと、そして、ひねこびた性格を時代と社会のせいにし続けてきたことを、大の大人に深く恥いらせる純粋の清廉さが、宵宮からはまばゆいばかりに発散しているのです。ネット経由で定着した「毒親」なる激烈な単語は、ピンポイントで一部の人間を救済する力を持ちながら、その辺縁あるいは外周にいるだれかにとって、旧エヴァにおけるアダルトチルドレンと同様、偽りの自己定義と化してしまうのではないかと懸念し続けていましたが、原神のつむぐ物語は、特に思春期のオタクたちにとって、その誘惑に対抗するための有効な処方箋となるのかもしれないーー若いファンたちの感想に触れ、そんなふうに感じました。

 今回の伝説任務を通じて、「萌えコション」でありながら重篤な「性能厨」でもある私は、いずれにも合致する雷電将軍や神里家のご令嬢を愛用するかたわらで、すでに宵宮を所持していたにも関わらず、単純に性能だけの理由からレベル1桟敷へと追いやっていることを深く反省しました(ちなみに、白朮先生のレベルマとスキルマは達成済みです)。そして、伝説任務1章のときは「土のにおい」なんて言い方ではぐらかしていましたが、ようやく本当の気持ちに気づきました。宵宮のことが大好きです、今度はウソじゃないです。

映画「シン・仮面ライダー」感想

 シン・仮面ライダー見てきました。ほとんど同シリーズに思い入れがなく、「俺は太陽の王子」などと言いながら界王拳みたいな技を使うライダーしか記憶にない人物による感想となります。キメキメの画角とカット割の連続に、感情ではなく反射の応酬によるドラマがインストールされた「きれいな外殻をした昆虫」、さらに内容物がほぼ昭和特撮への偏愛のみで構成されていることを勘案すれば、「きれいな外殻をした昆虫標本」のような映画でした(バッタだけに)。怖い人を招きよせる呪文なので短く婉曲的に言うと、「他人のエモーションに鈍感な、型番偏愛のロコモーション好き」が絶賛しそうな作品に仕上がっています。何度でも繰り返しますけど、監督は絵作りの奇才ですがシナリオを書く能力は絶無なので、ちゃんとした脚本家と組むべきでしょう。

 「他人の心がわからない」「世界ではなく自分が変わりたい」「人生に無駄なことなどひとつもない」ーー終盤、上下段への回転攻撃と崩拳のリピートによるラスボスとの鉄拳みたいな戦闘から、なぜか突然まったく理由がわからないまま、グレコローマンスタイルへと移行した後の主人公の台詞なんですけど、監督は本当に真ッ正直かつ「成長しない人」ですね! シンエヴァへの酷評にダメージを受けた結果と推察いたしますが、還暦を過ぎた人物の内面が掛け値なしにこのまんまなのだとすると、オタクの人生の道行きとして教訓を得ようとした場合、なんとも暗い気持ちにさせられてしまいます。不自然に浮いているエフェクトとか、唐突なロケーションの瞬間移動とかもたぶんわざとやってて、「ウルトラマン飛行形態フィギュアの縦回転」みたいに参照するオマージュ先があるのでしょうが、もはやそれを調べる気にはなりません。本編であれだけ使うのを我慢していたオリジナル主題歌についても、エンドロールで3曲たて続けに流したのには、ジョビジョバとズボン内に失禁する監督の弛緩した微笑が脳裏に浮かんでしまい、気難し屋の眉間に刻まれたシワは否応に深まりました。

 昭和の頃って、前日の番組がクラスの話題だったり、共有する知識の前提がテレビ由来だったじゃないですか。それを究極にまで濃縮したのが、本作の監督を頂点とする特撮やアニメのオタクだったと思うんです。本放送を逃せば視聴のハードルが一気に高まるため、昨今の「ながら見」や「倍速視聴」とはまったく性質を異にした、台詞や絵のタイミングをすべて暗記するような視聴が行われ、マニア同士なら脳内にデータベースと化したそれらの引用だけで会話を成立させることができた。その高速で行われる「反射の応酬」がコミュニケーションの型で、ついてこられなければアイツは「薄い」とか「ヌルい」とか、仲間内で馬鹿にされる。シン・仮面ライダーの会話劇に「特撮とアニメのみを学習対象としたチャットAIによる出力」のような不自然さを感じるのは、まさにそういった「昭和オタクの作法」を「シナリオ執筆の作法」と勘違いしていることに加えて、意見を言えるチェッカーが監督の周囲にもはや存在しなくなっているからでしょう。

 本作を視聴する中でもっとも怖かったのは、キャラ立てに「あらら」を連呼するハチ怪人の容姿が、若い頃の宮村優子にソックリだったことです。この恐怖の中身はたとえば是枝作品の子役、特に女児について同じ傾向の顔が選ばれ続けることへ抱くそれと同質のものだったことを、皆様にお伝えしておきます。劇場で思わず「こっわ」と大きめの声が出てしまったのですが、近くの席にいた方々には、この場を借りて改めてお詫び申し上げます、ガクッ。あと、ヒロインに向けるカメラがいちいち性的な気配をまとっていて、後半のビデオレターでそれはエクスタシーの絶頂へと達するのですが、ライダーマスクがVRゴーグルみたいなものだと判明したいま、監督の次回作としてヤングMIYAMOOにクリソツの新人、おっと失礼、シン人を発掘してのVRアダルトビデオを提案しておきます。あまりにビッグネームとなった彼に、業界の方々はオファーを躊躇するでしょうが、そのシン人を伴って挨拶に行けば、ぜったいに引き受けると断言しておきましょう。

 それと、些末なことながら気にかかったのは、主役の子がアップで映ったときに、ずっと生まれたての子鹿のようにプルプル震えていたことです。一瞬、「寒いのかな?」とも考えたんですけど、同じ場面におけるベテラン俳優たちの所作は堂々としたもので、もしかすると偏執狂かつ編集狂の監督から現場で一人だけリテイクをくらいまくった結果、演技することが怖くなってしまったんじゃないかなーと思いました。

質問:最近VRでのAVを初めて体験したばかりだったので、ヒロインのメッセージの場面は「ヴァーチャルAVみてえ」と感じましたが監督のAV監督転進は思い至りませんでした ぜひ見てみたいものです
回答:旧エヴァのときもテレクラ遊びを公開したり、アスカのエロ同人をチェックしたりしてましたね。菜食主義を前面に押し出すことでごまかそうとしていますが、人間のベースは「酒とセックス」でできていると思ってます。さすがに実名で撮ってくれる気はしませんけど、「母乳せせせせ」みたいな変名でローアングルへの異様なこだわりを見せる監督が彗星のごとくアダルトビデオ業界に現れたら、それはまぎれもなくヤツです。ちなみに超新星のごとく現れたら、それはシンカイ=サンです。

質問:空母そそそそ覚えてる人がいたことを実感できてむしろおれは今喜んでいます……
回答:回答:ホホホ、長くオタクをやっている者にとっては、ほんのたしなみのような知識でございますよ。最近ショックを受けたのは、「片桐彩子日記」を知らない人がフォロワーの半数を占めていたことです。記憶にあるバナーを探そうと検索をかけても、あらかじめそんなものは存在しなかったかのように、どこにも見当たらないのです。ほんの二十年ほどの時間しか経っていないのに、大海嘯に洗われた絶海の孤島のごとく、その植生ごとすべてが消滅してしまうなんて、想像だにしませんでした。あの頃、インターネットは永遠の同義語だと信じていたのに……。

雑文「テキストサイト・サーガ実績解除報告」

 シンエヴァの円盤発売に伴って2年前の「:呪」が掘り起こされ、ジワジワと閲覧数が増えているようです。新規フォロワーもチラホラ見かけるので、あらためて自己紹介をしておきましょう。ここは1999年1月に開設したテキストサイト「猫を起こさないように」ーーのちに「よい大人のnWo」へ改名ーーの分社であり、その管理人は詭弁タラコの「2ちゃんねる」より古くからインターネットの深海に生息している小鳥猊下です(例えの通り、現実に引き上げられると口から内臓を吐き出して死ぬ)。自分の中にあるオタク気質を嫌悪するあまり、人生の岐路は常にオタクから遠ざかる選択をし続け、現世に口を糊する裏でオタクへの怨嗟を表明する小説を3本書き、それでも内なるオタクを殺しきれず、いまはエヴァへの愛憎と中華アプリへの礼賛を垂れ流すばかりとなった「なれはて」でもあります。

 しかしながら、長くインターネットを続けていると、ときには望外のすばらしいことも起こります。(突然のドラムロール)このたび、なんと小島アジコ先生に萌え絵を寄贈していただきました! 私の中でテキストサイト時代のインターネットーー個人的な定義は、1999年1月から2000年12月までのワールドワイドウェブ空間ーーと強く印象が結びついている絵師が何人かおり、氏はまさにオレのレジェンド伝説の一人だと言えるでしょう。また、この萌え絵はnWoのトップ画像であると同時に、ある意図をもって作られた現代芸術でもあります。次に鑑賞の手順を示しますので、これに従ってください。

 『56kbps程度までの遅い回線を準備し、夜の11時以降に当該の画像が上部から30秒ほどをかけてジワーッと表示されるのを、貧乏ゆすりでマウスをカチカチ鳴らしながら閲覧する』

 あなたが創造的行為に加わることで、はじめてこの作品は完成するのです(背景に走るイナヅマ、「デュシャーン!」の擬音)!

 今回の寄贈によって、私が20年以上をプレイしているクソゲーであるところの「テキストサイト・サーガ」実績解除が、数年ぶりにまたひとつ進みました。生ウガニクには5年前に会ったし、あとは生ノボルとオフ会して天野大気さんにトップ絵を依頼したら、実績コンプでプラチナトロフィーをゲットだなー(左の目尻に瑠璃色の涙が盛りあがり、やがて頬を伝い落ちる)。

ゲーム「2022年のFGO」雑文集

ゲーム「2021年のFGO」雑文集
ゲーム「FGO第2部6.5章」感想
雑文「虚構時評(FGO&MANGAS)」

 どこかで深く信頼していたものから、シンエヴァのごとく裏切られた傷心を癒すためにFGOを起動すると、なぜか聖晶石が1000個(時価総額6万円)ほどボックスに配布されていて、今度は自分の気がくるったのかと疑いました。7周年ピックアップを見て、「まーた、この顔かよ」なんて微苦笑しながらも、身内優遇で性能がいいことだけは間違いないので、300個分ぐらいガチャを回したら、運よく2枚を引けました。んで、種火をつっこんで再臨させてから、ようやく「これ、月姫のキャラじゃん!」と気がついた次第です。うーん、オルガマリーをアルクェイドで倒すみたいな展開は、昔ながらの型月?ファンにとっては嬉しいのかもしれませんが、エヴァンゲリオンマトリックスの最終作みたいに、作中の困難やテーマを「キャラで解決する」エンディングになってしまうのではないかと恐れています。時代時代の「人間」や「世界」といった抽象を語りきるのが文学の役割であって、FGOは現在までのところ、ファンガスの筆でのみという条件はありながら、その域に達していると思うのです。何度も言及していますが、キャラと文学を両立させて終わることのできたジュブナイルは近年においてランス10のみであり、これらの妄言もFGOがそれへと続くことを心から願うがゆえの老婆心だとお受け止めください。

 FGO、やはりファンガス千年王国の礎を築いた母たる存在だからだろう、7周年記念のマザー・ムーンキャンサー(中黒の位置に注意)の異様に優遇された性能が使うほどにわかってきた。さらに言えば、今後の第2部クライマックスに向けて、シナリオでの最恵鯖待遇(なんじゃそりゃ)も間違いないだろう。そんなわけで、宝具3&スキルMAXの状態から、ベター・コール・ソウルの2周目マラソンと並行してレベル120まで上げたーー参考として、AP半減+大成功率UPで青リンゴ130個くらいで到達ーーものの、今度は宝具の威力に不満が出てくる。このマザームー、おっとマザー・ムーンキャンサーは宝具レベルに比例して威力が上昇する仕様であり、気前よく1000個も石を配布しているように見せかけて、星5キャラを5枚引く期待値とだいたい同じ数が計算づくで、プレイヤーに手渡されているのである。さらに、マザームーン・キャンサーのガチャは夏イベ開催の直前でちょうど終わることになっていて、無料石でガチャの気持ちよさを思い出させると同時に課金への抵抗感を下げてから、3体の星5水着を投入するというユニファイなチャーチばりの奸計が、善意を見かけとした裏に張りめぐらされているのだ。就職アイスエイジ・エラを出自に持つ金髪美少女である実存は、貧困層の常として短絡的な消費に我慢がきかないため、「乗ろう、あなたのイービル・集金スキームに!」と高らかに叫びながら残った600個ほどの石をブン回して、マザームーンのガン細胞野郎を宝具5にしてやりました。

 あと、例のファミ通インタビューを読みましたけど、業界にまぎれこんだガチのファンから矢継ぎ早に投げかけられる第2部6章に関する質問へ、まさに快刀乱麻、すべて明快な即答を与えていくのは、さすがファンガスだと感心しました(まあ、取材後の校正で追記した可能性もありますが……)。そのやりとりを生温かい視線でながめながら、かつて栗本薫が「ファンタジー小説を書くなら、作品世界の隅々までを熟知してないとダメ。もし何か聞かれて即答できなくても、『次までに、現地の生物学者に聞いておきます』ぐらい言えなきゃ」みたいな話をしていたのを思い出した次第です。そして、「長くサービスを続けていくために、開発の方法を抜本的に見直した」という発言から、第2部終了をFGOのそれとしない(できない)気配がただよってきましたが、第3部は所持サーヴァントと育成状況のデータごと、「古臭く」ない新アプリへと引き継ぐことを大いに期待しております(2回目)。

質問:小鳥、シンエヴァ呪詛は面白かったのにfgoはエアプが漏れてんな
月姫リメイクなんてクソオタクは買ってないのでアルクェイドは古参が騒いで回してるから回しとこ!のクソ短絡的なゴミですよ バカじゃなかったら温存してるか徐福引いてる
回答:いいですね、じつにいい! 最近のネットって凪いだ水面に清らかな水質って感じで、古参の泥魚にとっては棲みにくさに窒息しそうな場所ですが、湖底の泥の下には昔ながらのエゲツないクリーチャーどもが、まだまだ元気に生き残っているのですね! こういうこじらせたファンが現存してるのって、さすが30年を長らえた同人IPだなーって気持ちにさせられました(まさか、「ブドウ酸っぱい」じゃないよね?)。エヴァのことなら人後に落ちる気はまったくしませんが、月姫についてはリメイク(オリジナルは未プレイ)のアルク・ルートだけ、かろうじてクリアして投げてしまった程度の、文字通りの「エアプ野郎」ですからね! ぶっちゃけ本丸のFGOにしたところで、萎えていく気持ちをおもしろテキストで自家発電して盛りあげて、第2部の終わりを見届けるために、離れていく心を無理矢理つなぎとめるだけになってきているのです。ともあれ、テキストに残されたほんのわずかな瑕疵から、サトリの化物のようにニュウビイのエアプを見抜いてウザがらみする古参とは、あらゆる創作物のファンがやがてたどりつく、異形の終末なのかもしれません(エヴァ呪を読み返しながら)。

 配布石1000個でアルクェイドを宝具5にしたことはご存じのことと思いますが、話題のレディ・アヴァロンもなぜかちょこちょこ配布される石の無償11連1回だけで手に入ってしまいました。最後にFGOへ課金したのがいつだったか忘れるほど課金してないので、そろそろ課金したかったのになーと残念に思っている自分がいて、それを不思議な気持ちでながめております。まあ、残り2体の星5水着の性能に期待しましょう。型月ガチ勢の皆様にエアプの感想を漏らしますと、レディ・アヴァロンは劣化マーリンといった手触りで、宝具を重ねる意味もあまりなく、マザームーンとはちがって追い課金の魅力に乏しいキャラですね。ただ、顔がいい。顔だけは、すごくいい。なので、NP100礼装をつけた浴衣道満とアルクェイドで周回する際、レースクイーンとしてカタワらに立たせております。2騎3ターンでバトルは終わるので、レベル10にしたスキル群に指を触れてさえやりません。タイムラインによく流れてくる「ひとりだけ腕立て伏せをさせてもらえない」漫画のように、レディ・アヴァロンを精神的に痛めつけるのはゾクゾクします。

 いやー、それにしてもアルクェイドをレベル120宝具5にしたのは大正解でした! こういう大きな決断を躊躇なく下せるのは、まがりなりにもマネジメントを経験し、自由にできるカネがある大人の特権ですね! ムーンキャンサーの「ほぼ全クラスに等倍」という特性は、言い換えれば「弱点がない」ということですからね! さらに再臨2はバニヤンばりの高速宝具なので、イベント周回もストレスフリーです! 「充分に強化したアルクェイドは、全体宝具バーサーカーと見分けがつかない」というアーサー・C・クラーク御大の名言を引用することで、ニュウビイからパイセンへの反論に代えておきましょう。(熊フェイスで)宝具1か2のみんな、いまどんな気持ち? ねえねえ、どんな気持ち? (女児フェイスで)宝具3とか4でビビッちゃうなんて、ざこ、ざぁーこ! 上手にお願いできれば、(視線をそらし、頬を赤らめ、鼻の下を指でこすりながら)フレンドになってやってもいいんだぜ……?

 ゲーム「FGOぐだぐだ新邪馬台国」感想

 FGOの新イベント、開始5行でだれが書いたかわかり、ゲンナリして読む気をなくさせるって、逆にすごくないですか? スタートアップの黎明期に創業メンバーとしてまぎれこんだミソっかすが、大企業へと躍進したあとの重厚な広報誌に嬉々としてポンチ絵の4コマ漫画を寄せている感じ。きっとハイテンションで早口の、アゲアゲアッパーな女性なんでしょうねー。「そういえば、小鳥猊下がほめていたな」とFGOをいまさら始めただれかが、今回のイベントから読みだしたとするなら、恥ずかしさのあまり首を吊るレベルです。それに、今回の新キャラにせよ、ジャック・ド・モレーにせよ、書き手の力量に対して豪華すぎるメンツ(ポプテピピックじゃないんだから!)で、あまりにもったいない使い方だと思います。本編での活躍予定がないなら、早くファンガス再生工場に回さないと、ヨゴレが落ちなくなっちゃいますよ!

『生きるということは、
 即ち濁るということ。』

これぞ、茸再生工場の面目躍如となるフレーズ。 けれどトラオムは、「濁り」どころか「腐れ」。

雑文「あるウルトラファンへの公開書簡」

 映画「シン・ウルトラマン」感想

質問:お久しぶりです。ウルトラマン観てきました。(略)残念な感じでした…。ちょっと誰かわかる人に聞いてほしくてDMしてしまいました…子供向けコンテンツを「大人でも楽しめる」って言って提供する仕草本当に嫌いで、隣の席に座っていた多分ウルトラマン好きの子供が、微妙な顔をして最後劇場から出て行ったのが印象的でした

回答:原典の信奉者ほど内容に納得できないのが、直近の「シン・シリーズ」2作だったかと思います。初代マンの熱烈なファンほど、廃れたIPの復活を願うからこそ、盛り上がりに少しでも水をかけないように、太ももへアイスピックを突き立てるようにしながら不満を圧し殺して、「1兆点」みたいなツイートをしぼりだしている感じは伝わってきました。そして、話題作に乗っかって感想をバズらせたい非ファン層(オマエが言うな)がコア層のそういったふるまいに「褒めてよし」の許可を得たとカン違いして、とたんにペロペロと好意的にしゃべりだす感じ。最近のネットは特にこの傾向が強く、たとえば私はヨネヅ某の主題歌にまったく感心しなかったのですが、「古参の俺よりウルトラマンを理解している歌詞に嫉妬」みたいなひとつのツイートから伝播して、視聴した者たちの総体が歌の激賞へと雪崩れていく様子も、なんだか薄気味悪かったです。エンディングは「赤背景の黒シルエットでオリジナル主題歌」の方が、はるかに印象的な余韻となったことでしょう(この点は樋口監督によるマーケティング優先のジャッジだったと思ってます)。

 シンエヴァでも感じたことですが、ヒーロー物に重要な「後から来るだれかに預けるための未来を守る」という視点にとぼしく、それはやはり本作にも雰囲気として引き継がれています。「人間を好きになる」過程についてベタでも構わないので、それこそ「寿命に由来する大人から子どもへの継承」を不老不死の者から驚きをもって眺めるような挿話があれば、ゾフィーの台詞もちゃんと響いたと思うんですよね(もしくは冒頭付近の自己犠牲をもっと詳しく、異星人に理解不能な「聖なるもの」として描写するか)。庵野監督は人間のドラマに興味がなくーーないというより、「わからない」が正確な気もしますーー、政治的にも哲学的にも思想性は絶無であり、造形の表象とカメラアングルにのみ作家性を有する極めて特異な人物です。シン・ウルトラマンでは、まさにこの特性の悪い部分がすべて出ていたように感じました。

 こういった特質を理解して撮影する作品や題材をコントロールできる、ジブリの鈴木某のような敏腕プロデューサーがいないことは彼自身にとっても、彼がシンの名でマーキングしにかかっている作品群のファンにとっても、大変に不幸なことだと言えるでしょう。この裏には、もしかするとエヴァQの制作で大好きなヤマトのリブートに関われなかったショックがあり、その恨みが庵野監督の現在の行動を規定している気がするのです。「自分だったら、ヤマトのオープニングは1カットも変更しない。オリジナルのタイミングを完全にコピーする」との発言からもわかるように、原典が持つ「テーマ以外」への偏愛が強すぎるため、過去作を現代にリブートすることの意義、つまりテーマやメッセージを更新することへの意志が希薄なことこそが問題の本質なのでしょう。シンが新、Qが旧の言葉遊びだとするなら、本作のタイトルは「Q・ウルトラマン」こそがふさわしいと感じました。すなわち、大人の、大人による、大人のための、退行したウルトラマンです。

映画「シン・ウルトラマン」感想

映画「シン・ウルトラマン特報」感想

 迷いましたが、個人的な感情の忘備録としてシン・ウルトラマンの感想を残すことにします。同監督の作品で比較するならば、端的に表現すると「シン・エヴァンゲリオンほどつまらなくはないが、シン・ゴジラほど面白くはない」といったところです。ちなみに、私にとっての初代マンは「M78星雲の宇宙人?」「そうだ、ワッハッハッハ……」というやりとりから、テーマ曲のようなものが流れるレコード盤の記憶のみで、たぶん本編はほとんど見ていません。

 本作の視聴中は、フィクションに触れたときに生じる心の熱量がほぼゼロで、プラスとマイナスが相殺しあった結果としてその地点に至ったのではなく、物語の開始から終盤まで感情の動きがほぼフラットだったという意味でのゼロでした。シン・ゴジラのときは、直近の作品(エヴァQ)がビックリするような駄作だったためか、期待値マイナスの状態からスタートしながらも、作品そのものの力強さに支えられて、マニア層から一般層へと燎原の火のように評価が広がっていくのを見ました。しかしながら、現段階で本作へと送られた賛辞は、特撮ファンおよびウルトラファンによる「自分たちにはすごく面白いので、一般層にも名作として受け入れられてほしい」という願望的なものが多く、今後シン・ゴジラと同じことが起きるような気はしていません。

 アクションパートはエヴァのオマージュ元と聞いて期待していたカイジュウとの戦いが、エヴァほどの緊張感も迫力もなく拍子抜けで、ドラマパートもメフィラス星人のシーンだけが、役者の力によって劇空間としてかろうじて成立しているのみで、他はその水準に達しているようには感じられませんでした。早口の台詞も、言われるほど内容が難解なわけではなくて、書き言葉としてしか使わない漢語を多用するため、脳内変換に時間を食われて理解がいそがしいだけのことです。カトクタイの隊長とゾフィー?が、どっちも「残置」という希少度の高い単語を使っていたり、監督が単独で脚本を手がけるときに顕著な「すべての登場人物が同じ語彙プールから選択する」悪癖からは、本作もまた逃れられていません。

 そして、シン・ゴジラではうまく作品テーマへと落としこめていた「宗主国と属国」「核使用の恐怖」というリフレインが、本作では完全に浮いてしまっています。この原因は、「体制への抵抗運動が頓挫した結果の左翼思想」が、監督にとって「昭和のフィクションで頻繁に提示されたカッコいい雰囲気の考え方」に過ぎないことが露呈したからでしょう。あれだけ政治家や官僚を登場させ、「官邸」というワードを連呼しながら、面白いことに作品のトーンはまったくのノンポリなのです。オリジナルがそれぞれ志向していた、「ゴジラ的なるもの」「ウルトラ的なるもの」という相容れない2つの要素を、「すべての映像を己のフィルモグラフィーとして統合したい」という欲求から、本作で無理やり1つに合流させた結果、水と油になってしまっているのを強く感じました。

 余談ながら、セクハラ云々の指摘については昭和のオッサンなので、1ミリも気になりませんでした。この程度のことが気になってしょうがない「繊細な感覚」に、己をアップデートしたくはないものですね。

 さて、ここまで指摘した内容は実のところ、個人的な最近の関心に比べては、些末事であるとさえ言えましょう。シン・ウルトラマンを視聴して私がもっとも気になったのは、理論物理学と素粒子物理学の停滞を打破するために捏造され続けたマセマティカル・フィクションが、皮肉にも半世紀にわたってサイエンス・フィクションへ元ネタを提供し続けてきたという共犯関係を、本作においては特撮作品の荒唐無稽な設定を無矛盾化するための方便として使っていることです。理系と文系の異なる分野において、不都合な断絶を乗り越えるために数学を用いたファブリケーション(作話)が行われているのは、非常に興味深いことです。

 マーベル最新作の副題であり、本作でも連呼されるマルチバースやら11次元やらが、超弦理論の数学モデルを破綻させないためだけに導入された概念であることは、最近になって知りました。自然の中で観測されるいくつかの数値のうち、なぜ他の数値ではなくその数値なのかについて「ただ我々の世界ではそうなっている」という説明に満足できず、そこへ何らかの意味を見出そうとした結果、「同じ事象に異なる数値を持つ他の宇宙を仮構すると、数学的に派生を説明できるようになる」のが、多元宇宙を導入した最大の動機のようです。文系クソ人間にとって、数学という突き詰めればパターン認識に過ぎない学問ーー最高学府の学生が提供する、アホみたいな脳トレ問題ーーが最も洗練された知性とされるのには、ずっと納得がいきませんでした。数学や音楽の分野は、明示的に遺伝的影響が優位との調査を見たことがあり、特定の脳の器質がたどる発達の偏りがパターン認識に重要だとするならば、ダーレン・アロノフスキーの「パイ」に描かれた内容のアカデミア版が超弦理論の正味ではないかという気にさせられます。「パターンが整合することに意味があり、パターンが破れているのには理由がある」という思考で半世紀を追い求めた結果、いまや万単位の論文ごと研究分野そのものが完全に消滅する可能性に脅えているのを、観客席からビール片手に眺めるのは、文系人間にとってこの上ない愉悦と言えるでしょう。

 いま流行りの「超弦しぐさ」は、検証不可能な高エネルギー領域(天の川銀河と同サイズの粒子加速器!)に「正解を隠すこと」だそうで、いやあ、センセたちの誠実な学問探求の姿勢にはドタマが下がりますわ! うち、アホやからようわからへんねんけど、それ、「1兆度の火球」となにがちがいますのん? あれやわ、これザビーネ・ホッセンフェルダー監修のシン・ウルトラマンやったら、ゼットンから発した1テラケルビンの高エネルギー下で超対称性を成立させる素粒子の不在が明らかとなり、超弦理論の予測した事象がその観測によってことごとく否定され、結果として余剰次元のプランクブレーンが科学者による虚妄であることが確定し、ゼットンをどこへも追放できないまま天の川銀河ごと地球が消滅して、ゾフィーが悲しそうに光の国へ飛び去るゆうエンディングになっとるで! せやけどな、こっちの展開のほうがよっぽど21世紀のフューチャー・サイエンスに忠実なんとちゃいまっか?

 え、途中から超弦理論ディスに話がすりかわってる上に、期待してたシンエヴァへの言及もないですよ、だって? うーん、本作を通じて初代マンのストーリーを把握して思ったのは、これを換骨奪胎した旧エヴァのほうがずっと洗練されてたなってことと、ゼットンに相当するのがゼルエルだったんだなってことです。もし人的にも時間的にも余力があったなら、テレビ版の第弐拾話以降は新マンのオマージュみたいな展開になっていたのかもしれません。だとすれば、すでにネットでリークされている「シン・帰ってきたウルトラマン」が、私にとって次の主戦場になる予感がしております。

 *参考記事
雑文「SSとIUT、そしてGBK(近況報告2022.5.8)」
雑文「数学に魅せられて、科学を見失う」感想

 シン・ウルトラマン追記。全編にわたって感情がフラットだったと書きましたが、冒頭の30秒だけは大興奮でした。ウルトラQのオマージュだなんて知らない私は、シン・ゴジラのタイトルがシン・ウルトラマンへとモーフィング?した瞬間、「やった、ツソ・ウノレトラマソだ! 他社IPを私小説でメタメタ(メタフィクション×2)にする気だ!」と心の中で喝采をあげましたからね! まあ、そのあとはずっとフツウに最後までウルトラマンだったわけですが……。

 本作とシンエヴァとの共通点を挙げるとすれば、どこか息苦しい閉塞感みたいなものがあることでしょうか。ずっと監督の自意識の内側にいる感じで、しかもその場所は閉所恐怖症を誘発するぐらい狭く、エヴァ破までは確かに存在した外界への解放的な「抜け感」が消えて、破綻が無いことへ偏執的にこだわって編まれた球体の内側にいる感じなのです。ただ、本作にシンエヴァのような不快感が無いのは、あっちは毛糸じゃなくて髪の毛で編んであったからでしょうねー。それも手触りに違和感を覚えて、よく顔を近づけてみたら人毛だったみたいな恐怖体験です。

 シンエヴァとの比較で、エヴァ旧劇があんなにも心の深い部分に刺さったのは、「圧倒的に嘘をついていない」印象が貫かれていたからだと思うようになりました。「他人だからどうだってのよ!」から始まるシンジへ向けたミサトの語りかけに、「他人を傷つけたほうが、自分がより深く傷つく。だから、あなたは自分が嫌いなので、他人を傷つけようとする」みたいな理路の話があり、ほとんどイジメっ子かサイコパスみたいな理屈で、劇場ではじめてそれを聞いたときから二十数年が経った現在に至るまで、まったく意味がわかりません。けれど、物語内の状況と声優の鬼気迫る演技に気おされて、毎回なぜか泣いてしまうのです。これこそが語り手のその時点の本当にすべてで、「まったく偽りが混入していない愚かなほどの純粋さ」を正面からぶつけられて、すっかり感情をやられるからでしょう。シンエヴァはこの真逆になっていて、表面上は整合しているように見せかけているのに、すべて嘘と偽りから成り立っており、そのごまかしが深甚な怒りを誘発する源になっているのだと考えるようになりました。

 さて、シン・ウルトラマンへ話を戻しますと、最近シティーハンターの実写版を見たんですよ(またも戻ってない)。特にアニメ版への愛にあふれた作品で、かなり楽しんで視聴したんですけど、これ、オリジナルを熟知している人物からの情報補完が前提のストーリー理解になっている気がしたんです。原作を知らない方が見れば、おそらく「Mr.ビーン・カンヌで大迷惑」をさらに支離滅裂にしたような中身にしか映らないことでしょう。あれから、シン・ウルトラマンの感想をいくつも読んで、私が見た物語は昔からのファンが読み解いた物語とは、まったくの別物だったんだと気づきました。例えば、「そんなに人間が好きになったのか」という台詞は、ウルトラマンが戦う動機を指摘しているはずなのに、本作がほぼ初見の私にとって、かなり唐突な内容であり、無辜の地球人を殺してしまったことへの贖罪が理由としか読み取れなかった。おそらくテレビシリーズを前提として、「人間を好きになる」過程を外部からの情報として補完するからこそ、響いてくる台詞なのでしょう。

 「人の心がよくわからない」からこそオタクにならざるをえなかった私たちは、それゆえウルトラマンやヴァイオレット・エヴァーガーデンのような「人の心を必死に理解しようとする」キャラクターの造詣に、無条件で強く共鳴してしまう。この皮肉屋にしたところで、一般社会で日々の生活を送り、ときに文章で秘めた感情を表現しながらも、それらが擬似的な人間のエミュレーションに過ぎないのではないかと、いつも疑っている。「人の心がよくわからない」ことは、我々の実人生において、怒らせたり、恥をかいたり、惨めだったり、少なくとも積極的には思い出したくない過去であるはずなのに、それらを美しく気高い試みだったとして、彼らの物語は語りなおしてくれる。どれだけ「人のまねごと」をしようとつきまとう、ある種の人々が持つ「本質的な疎外感」に寄り添ってくれるキャラクターたちに、私たちはどうしようもなくひかれてしまうのかもしれない。

雑文「建築物としてのエヴァンゲリオン」

承前

質問:きっしょ

回答:オタクの定義って、子どもの頃に大人にとって感情が厄介なので抑圧するよう教育されてきた結果、自分の抱く感情が正しいのどうかいつも自信が無くて、その感情への自信の無さから、とにかく言葉が多くなってしまう人たちだという気がするのね。だから、いつも自分の抱く感情を周囲に正しいものとしてケアされてきた人たちの言葉が持つ、短いけれどまばゆいばかりの強さに目をくらまされて、すっかりやられてしまうところがあると思うわけ。エヴァ旧劇にしたって、あれだけ精緻にシナリオを計算された25話と、情動と音とイメージの洪水である26話と、当時から現在に至るまで、本邦のアニメ史上において永久に越えられないクリエイティブの頂点だったわけでしょう。にも関わらず、それを編み上げた究極のオタク自身が、自らの感情を疑ったこともない人物が思いつきで発した「気持ち悪い」という言葉に、完全にノックアウトされてしまった。じつは今、それと同じような気分です。私の記した数万文字の不快に対する不快として、この言葉はなんらの過不足がない。

 我々はこの3月8日に、エヴァという名前の建築物が完成するのを見たわけですが、入り口部分はGUCCIの店舗みたいな外装で、接客も控えめながら要点はおさえた上質さで、入店した若い女性の2人連れは「いいじゃん、私これ好き!」とか言いながら店の奥へと進んでいく。すると、内装はまるで昭和の秘宝館のようなチープなものになり、古い蝋人形とかハリカタが雑に並べられているばかり。60代の館長と思しき人物がムッツリと黙り込んで座っていて、話しかけてくるでもなく不躾にジロジロとこっちを見てくる。ここで不安を感じて引き返せればまだよかったものの、若い女性たちがさらに薄暗く狭い連絡通路を進んだ先は、高級ブランドの見かけはどこへやら、もはや乱雑と汚濁の極み、さながら九龍城の阿片窟へと変貌していく。室内は薄くけぶっており、水ギセルをくわえた全身刺青だらけの大勢のジャンキーたちが、赤いビロードをかけられたソファへ気だるげに身をもたせかけていて、若い女性たちが室内へ踏みいれるや否や首を起こして、いっせいにドロリと濁った視線を向けてくる。「なにこれ、キッショッ!」と叫びながら若いお嬢さん方が逃げていかれるのも、理の当然、無理からぬことなのです。エヴァとは元来、そういうコンテンツなのですから(水ギセルをふかしながら、黄色く濁った目で悲しげに)。

雑文「エヴァンゲリオン大学心理学部形而上心理学科」

 承前

質問:もうエヴァからは卒業したほうがいいですよ

回答:いや、卒業してたんですよ。1997年7月にエヴァンゲリオン大学心理学部形而上心理学科を卒業したはずが、「ごめん、教務課の手違いで単位が足りてなかったから、実は卒業できていない。4日間の短期集中講座で済ますから、申し訳ないけど再履修してくれる?」と急に電話がかかってきたんです。大学のミスなのになぜか受講料とられて、懐かしい階段教室に入るんだけど、むかし見たことのある教授が明らかに25年前と同じ黄ばんだ講義ノートでボソボソ授業はじめて、まあ社会人になって長いこと大学なんて来てないから、頬づえつきながらボーッと聞いてても、面白くないこともないわけ。そしたら最終日の講義に教授が来なくて、みんな顔を見あわせてザワザワし始めるわけ。しばらくして事務の人が入ってきて、「すいませーん、今日はビデオ講義になりまーす。文科省には確認してオッケーもらってますんでー」っつって、擦り切れたビデオ映像を黒板横のモニターへ流し始めるわけ。明らかに25年前に受けた記憶のある授業なんだけど、カメラが教授の真横のアングルから撮影してて、板書がすごい見にくい。んで、最後にA4ペラ1枚のレポート書かされて、教務課に持ってくんだけど、受付のオバハンは煎餅バリボリかじりながら昼メロ見てる。「レポート持ってきたんですけどー」って声をかけたらふりむきもしないでめんどくさそうに、「そこの箱にレポート入れって書いてあるの読めないの? 学籍番号と名前が間違ってなかったら、みんな単位でるから」って言われて汚いボール紙の箱にレポート出すの。「おっかしーなー、ほんとに卒業できてなかったのかー?」っつって首をひねりながら帰るんだけど、いつまで経っても新しい卒業証明書が郵送されてこない。代表番号に問い合わせしたら、「この電話番号は、現在使われておりません」っつって録音が流れて、いまは手のこんだ特殊詐欺にあった気分です。