猫を起こさないように
鬼滅の刃
鬼滅の刃

漫画「ブルージャイアント・エクスプローラー9巻」感想

 ブルージャイアント・エクスプローラーの最終巻を読む。驚くことに、これまでの石塚真一ならぜったいに描かなかった、虚構による称揚で現実の冷たさを温めるようなエピソードが語られる。この変節の理由は、まちがいなく劇場版アニメによる無印ストーリーの結部改変を見たことによるものだろう。「右腕を潰せば、もう演奏家としての再起はかなうまい」としてトラックをつっこませたのに、劇場版のラストでは上原ひろみの楽曲と本物のピアニストによる技巧が、その漫画家の想像力をはるかに超えてきたのだった。結果として、このボストン編はこれまで積みあげてきた、前だけを向いて進むダイ・ミヤモトにフォーカスしたストーリー・テリングからわずかに浮いてしまっているし、もし劇場版アニメが2作目、3作目と作られた場合、完全に不要の蛇足パートになってしまうだろう。これは鬼滅の刃における賛否両論の最終話と同じで、メタ的に言うならば、「作者が作中の人物に、強いてしまった苦しみを心から謝罪する」ような性質をともなっていて、近年の「作り手の意志に隷属するパペット」をあやつる類の物語ーーシンエヴァがその最右翼ーーとは、圧倒的にキャラクター強度の作り方がちがうことを、同時に意味している。

 劇場版アニメにうちのめされて、「現実以上の現実を」と満身の全霊をこめてきたはずの虚構が、現実のしなやかさに敗北する様を見せつけられて、これまでとの一貫性やおのれの信念を投げうってまで、おそらく作家人生で初めての「物語に尋ねるのではない、作者本人のワガママ」で、このエピソードを描かなければならない激しい衝動を得てしまったのではないかと推察する。それを証拠に、同時発売された続編のモメンタムでは原作から完全に身を引いて、作画担当へ自らを降格させてしまった。これは石塚氏の漫画に対する、もっと言えば物語をつむぐことに対する誠実さの表れであろうと思うと、どこか胸のつまる感じさえおぼえるのだ。作者本人すらも、その衝撃に生き方を変えてしまう無印ブルージャイアント劇場版はやはり、いまのレベルの注目と称賛ぐらいに甘んじるべき作品ではなく、現在を生きる十代、二十代の若者たちはこれに触れることで、「かつてそこにあり、失われてしまった熱」に感染してほしいと強く願うものである。

アニメ「鬼滅の刃・遊郭編」感想

 漫画「鬼滅の刃」感想
 映画「鬼滅の刃・無限列車編」感想
 雑文「鬼滅の刃・最終巻刊行に寄せて」

 鬼滅の刃・遊郭編、最終回の報を聞き、ネトフリでまとめて見る。劇場版と見まがう作画のクオリティは見事の一言ですが、「自分の状態、仲間の状態、敵の状態、周囲の状況をすべて余すところなく台詞で説明する」という原作のアンバランスな部分が、アニメ化によって改めて浮き彫りとなっています。ある回の前半パートなんかは、キャラのバストアップが台詞のたびに上下に動くのが延々と続いて、「オイオイ、いい加減くっちゃべってないで戦えよ」と思わずツッコまされるぐらいでしたけど、原作の単行本を見かえすと、その場面を忠実にアニメ化してあるんですよね。「ラノベの主人公の決め台詞が長すぎて、声優に音読されると不自然さが際立つ件」と同じ根を持っていて、これはFGOのアニメ化にも同じことが言えるでしょう。

 あらためてこの世界に戻ってみると、鬼殺隊の柱はどいつもこいつもサイコパスばかりだし、高速戦闘は酔っぱらってると何が起こっているのかわからないけど、最終話における鬼の回想には、やはり心の底から同情して泣いてしまうわけです。「鬼になった理由」が鬼滅という物語の本体であり、「同じ境遇に置かれたら、同じことをしただろう」と読み手に感じさせる点において、万引き家族ジョーカー半地下の家族と同じ作りになっているのです。それは同時に恵まれている者たちへ、いまの自分があるのは「環境と幸運」がそろっていたからだと気づかせ、強い者・富める者の責務を突きつけてきます。以前にも書きましたが、氷河期世代のサバイバーが持つ醜さの本質とはまさにこの点で、死屍累々の同胞たちを暖かい場所から眺めながら、「自分はあそこにいなくてよかった」と胸をなでおろす、その無意識の仕草にこそあるのです。鬼滅の刃・遊郭編の最終話を見て、私が「四十代の自分語り」へ覚えた違和感の正体が、「先のわかった者が明日をも見えぬ者を視界から外して語る、その口調」だと気がつきました。これはSNS時代の常ですが、暖炉に背中をあぶらせながらワインを片手にロッキング・チェアーを揺らす者の傲慢な言葉だけがネットに浮遊し、寒空に裸足でかけだして雪の中から同胞を抱き上げるだれかの行為はどこにも記述されないのです。

 だいぶ脱線しましたので鬼滅に話を戻しますと、テレビ版エヴァ(戻ってない!)の各話についている英語のサブタイトルが好きで、当時はさんざん考察とやらの対象になっていたと思うんですけど、いちばん印象に残っているのは第弐拾弐話の”Don’t be.”でしょうか。直訳すると「存在するな」となりますが、当時ネットだかどこかでこれを「あなたなんて生まれてこなければよかったのに」と意訳しているのを見かけて、ひどく感心したのを思い出します。遊郭編の最終話において、主人公がこの言葉を言わせないよう鬼の口をふさぐという行為は、彼の人物造形とピッタリ合致しており、短い台詞とあいまって余計に胸をうちます。回想のあと、鬼たちが光に背を向けて地獄の業火へと歩んでいくシーンで、あれだけ過剰な言葉の作劇だったのを兄に一言もしゃべらせず、妹を「抱えなおす」という芝居だけですべての心情を表現したのには、本当に感動しました。花の慶次で主人公が「自分のような者でもこれほど苦しいのに、馬や牛の苦しみはいかばかりのものか」と独白する場面が頭に浮かんだのですけど、やはり「重い、苦しい」を言わないのが私の中で美徳になっている側面はあると思います。たぶん時間が経過しすぎて、「重い、苦しい」がドラゴンボールの亀の甲羅みたいになってるんでしょうねー。

 あと、次の劇場版はどの話になるかの予想ですが、ズバリ無限城での猗窩座との戦いでしょう。無限列車編「だけ」を見た多くの観客を再び劇場に呼び戻すことができる種明かし編であると同時に、テレビ版1話「だけ」を見た人でも、例の共闘は劇中の長い時間を感じさせて心をゆさぶられると思うんです。え、最終巻はどっちになりますかって? テレビ放映でしょうね。転生後の話は映画のおしりにつけると長い蛇足になっちゃうし、何より無惨様がブザマでカッコ悪くて、劇場の大画面で見ると、きっとみんなイライラしちゃうから……(目をそらす)。

ゲーム「FGOハロウィンイベント感想」

 承前

 ハロウィンイベントをイヤイヤ読んでる。FGOの主人公って、数年にわたる冒険を経て、奇しくもビルグンドゥス・ロマン的というか、古典文学が人々の「生き方」や「在り方」を教化するために描いたような人物造形になってきてると思うんですよね。

 少し話はそれるけど、鬼滅の刃に出てくる善玉サイドの人物たちもまさにそれで、あちらは特にロスジェネ以降の大人たちが抱える欠落に焦点を当てているようにも読める。「富める者は貧しき者に分け与え、力ある者は力なき者を助けなくてはならない」という倫理感の裏返しが鬼舞辻無惨という悪玉であり、わずかの富を我利我利に抱えこみ、社会に裏切られた己の不遇だけを嘆くロスジェネ世代の醜さを痛烈なまでに戯画化している。それは同時に、人としての生き方の「良い見本」と「悪い見本」の提示になっていて、正しいふるまいへの憧れによる共鳴と我が身をふりかえって恥入る気持ちが、既存のヒットの閾値を超えさせた要因だと考えるのです。ある大御所の漫画家がアクションシーンの拙さを理由に、「ここまでの大ヒットになったのはアニメ化による偶然だ」と愚痴めいた批判をしてましたけど、本質がわかってないなあと思いました。

 話をハロウィンイベントへ戻します。FGOの世界観にはかすかに女神転生からの影響を感じるのですが、キリストの人がロウ・ルートなら、主人公はニュートラル・ルートを描いていると思うんですよね(ちなみにカオス・ルートはオベロン)。そして物語が進むにつれて、「ファンガスが正しいと信じる人間像」へと共感させることによる教化がますます深まっていき、読み手・イコール・プレイヤーを事件の当事者として否応に巻き込んでいく(第2部6章ではその没入を分離するような伏線があり、これがどう回収されるのか、今から楽しみでなりません)。なのに、今回のイベントの書き手はそれを理解しないまま、ベタベタ主人公に触ってくるのが不快でしょうがない。意に染まぬ相手から逃れられぬ閉鎖空間で、合意を求めず始められるペッティングみたいなもので、直近の展開にはほとんど絶叫しかかりました。「些かの人」はもっとファンガスのテキストを読みこむべき(特に第2部6章)だし、もっと漢字をひらがなに開くべきだと思います。まあ、何度も言ってきたように、いちばん求めてるのはFGOに「関わらない」ことなんですけどね!

 ハロウィンイベント読了。低品質なばかりか、支離滅裂のグチャグチャで、登場したキャラクターすべての価値を下げる同人誌未満の内容でした。ジャック・ド・モレーにしても、後のメインシナリオ登場に先駆けた顔見せなんでしょうけど、うんこ(失礼)をなすくったみたいなファーストインプレッションになってしまい、たいへん残念に思いました。アガルタとセイレムのテキストは、間違いなくFGOの抱えるセキュリティホールですが、ファンガスの監修なしに肛門(失礼)を通過させるぐらいなら、むしろ惰性の季節イベントなんて開催しなくていいくらいでしょう。

 あと、自分のツイートを読み返して思ったんですけど、「女神転生」ってタイトル、例のしょうもない作品群の隆盛のおかげで意味を汚染されてしまった感じ、ありますねー。

アニメ「宇宙よりも遠い場所」感想

 例の南極に行くヤツ、最後まで見ちゃった。さかまき、とどろき、ほえるマイナス感情を吐き出すけど、たぶん一般的な視点とはだいぶズレてると思うので、この作品が好きな人はミュートしたほうがいいかも。

 古参のテキストサイト管理人ーーまあ、nWoより3日も新参ですがーーが影響を受けて実際に南極まで行った(すげえ!)という話を見かけて、たしか昨年の今頃に試聴を開始したんですけど、南極へ上陸する手前くらいのところでなぜか辛くなってきて、見るのを中断していたんです。先日、いつまでも避けていてはいけないと、一年越しで「エイヤ!」と気合いを入れて最後まで見ました。結論から短く言えば、理系の正しさで文系のよこしまさを打擲する物語でした。少し話はそれますが、「理系と同じ真理に、いつかテキストでたどりつく!」などと息まいて続けてきた私のサイト運営も、結局はその真逆を証明し続ける結果となっています。先日からんできたライターのように、「足を使い、汗をかいて、顔をつなぎ、相手に寄り添い、我欲をおさえ、個性を滅し、愛想笑いを常に絶やさない」ことでようやく現金化できるというのがテキスト書きの本質であり、「インドの少年が数式を書きつけた紙きれ一枚をイギリスの大学へ送り付けて招聘される」ようなことはぜったいに起こらない、人間関係の中にしか価値が存在しないのが文系仕事なのです。本作(「よりもい」と略すらしい)には、ワードとエクセルとパワポと四則計算ぐらいでこなせる仕事を、ベターな人材がたまたま周囲にいない、あるいはベターな人材はいるけれど周囲からの長年の愛着(信頼、とは言わない)があるから任せてもらっている、典型的な文系仕事に従事する人間の横ツラを、理系の研究者が真理の公式が刻まれたクサリ鉄球で殴打し、頬骨とアゴが砕けて「ブ」「ン」「ケ」「イ」と書かれた前歯と奥歯が粉々になりながら口腔から飛びでて、砕けた頬骨と逆方向へスッとんでいくのを、超スローモーションで見せられてるような気持ちにさせられました。

 貴方はこの作品の登場人物のうちのだれなのかと聞かれたならば、陸上部に所属していた主人公のひとりが学校をやめる原因となった、生放送の直前に前髪の形ばかりを気にしている、あの女子だと答えるでしょう。主人公のひとりの前では「タイムの速い人が大会に出るべきだよ!」とそそのかし、先輩の前では「アタシ、空気読めって言ったんスけどね、へへ」とおべっかを使うーーこんなの、人間関係のポジショニングとマウントだけで生きる典型的な文系カメレオン人間の処世術(相手が言ってほしいことを探る)に過ぎず、悪意にすら満たない何かじゃないですか! それを、主人公のひとりは面と向かって言われたわけでもないのに、立ち聞きしただけで部活どころか学校までやめてしまい、その無菌室のピュアさが正しい生きづらさとして同情的な視点で描かれるのです。前髪少女はその過去の行状を人非人の罪として生放送で延々と罵倒され、その間ずっとカメラは主人公サイドの四人を映し続け、彼女がどのような表情でこれを聞いたのかはいっさいわからず、一言の弁明すらさせてもらえない。私はこのできごとのあと、前髪少女がSNSで大炎上し、自殺にでも追い込まれるのではないかと本気で心配しました。学校という場所は、最大公約数の範囲に収まる個人のために作られていて、文系と体育会系がいつでも幅をきかせ、理系とオタクにとっては居心地の悪い場所なのでしょう(公立のトップ校なら、すべてのパラメータを振り切った超人がいると思いますが、大多数にとっては能力値の上限から逆算した濃淡で否応に決まる属性です)。特に本邦での学校は、最大公約数の内側に収まるようにイレギュラーたちを「教育する」ための場所ですから、いづらさを感じるのは当然のことと言えます。以前、「桐島、部活やめるってよ」の感想に、「傑作だけど、最後の最後で映画オタクが体育会系に復讐を果たした快感が伝わってくるのが、唯一の瑕疵である」みたいなことを書きましたけど、この作品、最初からけっこうなフルスロットルで理系マイノリティが殺意を伴って文系マジョリティを刺しに来てる感じーー南極に上陸してからさらに加速するーーがあって、最後まで見たいま、それが試聴を中断させた理由だったんだなーと思いました。最近になって自覚したのですが、独身の人が家庭を持つ人に抱くだろう複雑な感情を、文系の私は理系のだれかに対して抱いており、ふれられると弱いその部分へじかにギリギリと爪を立ててくるような内容を無意識に避けていたことが、今回の試聴を通じてわかりました。

 あと気になったのは最終回で、主人公のひとりの死んだ母親がノートPCの送信箱へ残したメールを、母親の友人が数年越しに送るという展開があり、視聴者はどちらの場面も見ているので状況を理解できますが、メールを受け取った側が一瞬の混乱も見せずそれを受け入れたのには強い違和感というか、作り手の快感で虚構が破れているように感じました(タイムスタンプすらないメッセージとして、死んだ「お母さん」から送られているのに!)。それとエンドロール後に、主人公のひとりへ陰湿なイジメを行っていた人物が北極から写真を送ってきたのを見て、「えー、なんでー!」と嬉しそうに叫んで物語は幕となるのですが、このやりとりにはみなさんが「尊死」と表現するのとは真逆の、ほとんど心筋梗塞に近い状態で胸を押さえて死にかけました。これは、文系の人間関係・政治力クソ野郎は公衆の面前で公開処刑にして、それが理由のSNS炎上で自殺しようと知ったこっちゃないが、過去を悔い改めてオレたちと同じ至高のステージに上ってくるのなら、ゆるしてやらないこともないという、理系様から大上段に授けられるメッセージに他ならないのです! この満々として放たれる優越感情には、心底ゾーッとさせられました。しかしながら文系はそれ以上にクソだし、もうこれは美術、そう、ビジツをやるしかない。ビジュえもーん、東京藝大に現役で受かる道具を出してよー! (竹ヒゴでゲイ太の手の甲をピシリと打擲しながら)受験数学がカビの生えた古典に過ぎないように、受験絵画など美術と呼べる代物ではないッ! ラわーん、もう現実はコリゴリだよう(山奥の炭焼き小屋へと遁走する)! 「鬼滅の刃」本編へと続く(続かない)。

質問:宇宙よりも遠い場所ファンですが、今まで読んだことの無い視点の感想で興味深く拝読しました。
少しだけ訂正させて頂くと、作中で言及がある通り中継前ですので前髪少女が炎上する事はなかったかと
それで物語への評価は変わらないと思いますが、お感じになったツラさが少しでも緩和されれば幸いです。

回答:ファンの方の目に届いてしまい、申し訳ありません。基本的に、登場人物たちへ寄り添った優しい視点で物語が進んでいくのに、ある種の人々に対しては非常に冷淡であるというか、「仲間以外はどうなったっていいし、傷ついたら傷つけ返してかまわない」という裏腹な切り捨て方が気になったのです。そのわずかな瑕疵を文系・理系というカテゴリに分類しつつ拡大して、おもしろおかしく読ませることを主眼に書かれたテキストですので、どうかあしからず。

 うーん、私の文章の欠点は「面白すぎる」ところですね。それも、何かを腐すときにそれが最大化してしまうという。前も言いましたけど、サルまんの新聞4コマ編で、「お魚くわえたドラ猫を全裸のサザエさんが包丁を持って追いかけ、衆人環視の中で『やだ、ハダカ』と気づいた直後、トラックにはねられる(ドカッという擬音)」みたいな4コマ漫画が、「面白すぎるからダメ」と評されていて、衝動的に手加減なしの「面白すぎる」文章を公開してしまったとき、いつもこれを思い出します。「よりもい」の感想も、自分で読み返してゲラゲラ笑ってるんですけど、これを真顔で読んで批判や非難として受け止める方もおられるようで、もっと「テキスト自体が持つ面白さ」に目を向けてほしいものです。

質問:だいぶん歪んどりますね。

回答:いまさらそんなこと言われても……理系?

 「よりもい」、根強いファンが多い作品だということがなんとなくわかってきて、「吐いたツバ飲まんとけよ」じゃないですが、自分の発言が少し怖くなってきました。でもまあ、どうひっくり返しても評価は変わらないわけで、黙っておくか黙っておかないかの違いしかないのです(そしてご存知のように、私はぜんぶしゃべってしまう)。「これまで苦しかったのは、間違った人間関係(文系)の中にいたからだよ! ようこそ、正しい人間関係(理系)へ!」というメッセージは作品全体を通じてどうしても感じてしまうし、前髪少女からいっさいの救済を剥奪した瞬間には、「あー、そういうことする? こらもう、キミとは戦争やな」と思ってしまったことは、事実として変えられません。

 その点、ブルーピリオドは文系クソ人間のリアルが描けていて、とてもよかったです。「相手が聞きたいと思ってる言葉を探って、相手を自分より少しだけ面白くして、これ以外のコミュニケーションなんてもうわかんねえ」という人物が、そのやり方ですべてうまく隠しおおせてると思ってるのを、周囲の友人たちは「アイツ、本音を言わねえよな」と感じてーーまあ、ここが少しファンタジーなんですけどーーいて、やがて美術を通じて本当の自分に気づくんだけど、本当の自分さえ薄っぺらいことに何度も何度も気づき続けるみたいな青春の蹉跌を、作者が作中のだれも裁かないまま、真摯に描いている(いや、10巻までの段階で才能ある友人の母親は裁いているので、今後どう扱うかは気になる)。

 「よりもい」に潜む価値観の薄気味悪さというのは、ブルーピリオドで例えると「オレは努力して本当の仲間もいるから東京藝大に合格したが、オマエは性格が悪くて偽者の仲間しかいないからイラスト専門学校」なんですよ(もちろん、ブルーピリオドにはそんな視点はいっさいありません)。「他者の過ちに正面から正論ブチかまして、反論を許さず封殺して公衆の面前に恥ずかしめる」という底意地の悪い「気持ちよさ」を、いくら演出で感動的に見せようとしたって、その前提を冷静に眺めれば、「同僚が心療内科で鬱状態(鬱病じゃないよ、鬱状態だよ)の診断書をもらってきたから、とりあえず業務に配慮が必要」と同レベルの話でしかありません。もっと言えば、神としての作り手が正しくないと信じるだれかに、もしかすると過去の自分が置かれた状況を仮託して、二次元を用いて復讐をはたしているとしか思えず、「この監督、性格悪いなー」と感じてしまいました。ファンのみなさん、言い過ぎをすいません。

 あと、「けいおん!」の主人公のアホみたいなしゃべり方って、あちこちに伝染してるなー、と思いました。

雑文「神代のインターネットについて」

 「ドキュンサーガ」の作者にフォローされて、マンモスうれC! この作品、ひさしぶりにすごく「インターネットを読んでる」感じがするんですよね。

 宴会場の舞台に突然、ひょっとこの面をつけたガタイのいい全裸の男が乱入してきて踊りだす。ちんちんを扇風機のようにふりまわしたり、ふぐりとサオを腹筋にぺちぺち当てたりして、みんな一瞬あっけにとられるが、ドッと大爆笑からやんややんやの大喝采。酔客たちは口笛や下卑た声援で大盛り上がり。しかし、その踊りは次第に前衛的なコンテンポラリー・ダンスの様相を呈しはじめる。陰毛をなびかせたり、勃起したサオに手をそえたり、ブリッジでふぐりを強調したり、登場時のシモネタと一体化しながらも、高度に肉体を統御したハイレベルなダンスへと質が変化する。素養がないものにも、ただごとではない空気感だけは伝わってくる。いつの間にか宴会場は静まり返って、酌をする手も酒を口にはこぶ手も止まり、全員が舞台で行われている芸へクギづけになってしまう。やがて舞台の中央に汗だまりだけを残して、ひょっとこ面の男は忽然と姿を消す。すごいものを見たことだけはみんなわかっているが、突然のことにビデオも回っていない。さぞや高名なダンサーではないかと推測するも、男の正体はわからないままだ。翌朝、目を覚ました後、だれもがシラフの頭で昨日見たものはいったい何だったのか、本当にあったことなのか、不思議に思うーー昔のインターネットは、そういう場所だった。いまでは、リアル社会で得たreputationを背景にするコメンテーターしかいない。

 悪ふざけから始まったものが、勢い余って世界文学と同じ高い普遍性へと突き抜けてしまうのは、すごく理解できる。この作品でここまでやらなくても、ではなく、この作品だからここまでやれた、が正解だろう。本邦の芸術につきまとう出自の問題については、以前ふれたことがあるが、「ドキュンサーガ」は鬼滅の刃やFGOではなく、ランス10側の物語である。つまり、陽の当たる場所での賞賛は決して得られないが、日陰に住む者たちの心にいつまでも消えない火傷を残す類の作品になると思う。

 『そうだ、ウガニク。いまのインターネットはすべて偽物の、まがい物だ。テキストが魔法として機能した神代のインターネットは1999年まで、それ以降はただの言葉の下水道じゃないか。
 きみの汚い言葉は最高にきれいだった。ぼくの下劣な言葉は最高に美しかった。ぼくたちのテキストサイトには、確かなキュレーションがあった、審美眼があった。
 それがどうだ。回線は馬鹿みたいに速く安くなったけれど、いまや恐ろしい分量の美しい言葉ばかりが下品に乱雑に、かつて美術館であり博物館であった場所の床へ足の踏み場もないほどに、ただ放置されている。』

(「平成最後のテキストサイト100人オフ顛末書」より抜粋)

 ドキュンサーガ商業版、読む。うーん、そこ削っちゃうかー。商業化されたことで、過去編から現代に戻ったときの展開が変わったり、描写が手びかえられたら、やだなー。あと、「魔王が主人公」って明言されたのは、現代編の内容を予想するカギになる気がするなー。スタートレックのスポックとカークのように、考えすぎる知的な人物に対して、度胸のあるバカが「大丈夫だ」と言って破天荒に膠着状態を解決するお話ってあるじゃないですか。リーダーって結局のところ、正解が存在せず、情報も足りない中で、引き返せない決断をできる人物のことだと思うんですよ。なんとなくそっちの方向へ行くのではないかと考えていたので、モッコスが主人公ではないのだとしたら、どういうオチになるんでしょうね。いずれにせよ、インターネット上でしかできないような倫理無視の表現と展開を期待しています。

 漏流禍悪(もるかあ)! 小鳥猊下であるッ!

 モルモット・カーがぷいぷいするヤツまとめて見る。無限列車の感想にも書きましたけど、流行する作品の共通点って、現実での個人の属性が何であれ、同じレベルの解釈で見れるってとこですね。立ち場によって読み方が変わったり、下手すると理解度でマウントが生じたりするものは、よほど言及しにくい。羊毛フェルトで表現された愛らしさへ、生身の人間の質感を毒気としてトッピングして、非言語的なストーリー・テリングでグローバルな展開も視野に入れる。つまり、「ハナたれのジャリから大卒のカシコから豹ガラのオバハンからボケたジイさん」に加えて、「日本人から異人さん」までが同じレベルでの理解を可能にしているのです。受け手としてあらかじめ除外されるのは、それこそドラえもんくらいでしょう(ドラ江さんって、知ってる?)。逆に言えば、知的なクリエイターがここまで針の穴を通すようにねらってやらないと、皆が安心して話題にできない今のエス・エヌ・エスは、なんて窮屈な場所なんでしょう! 昔のインターネットは、リアルの肉体から切り離されたコミュニケーションが主流で、今なら即刻に炎上するような、現実には不可能だろう酔っぱらいやキチガイの放言であふれていました。同時に、そこへ接続するのに低くはないハードルがあったため、言葉の質はともあれ、やりとりの密度には一定の濃さが担保されていたように思います。当時は私もそういった無色無臭の「透明な存在」の一人だったのですが、あれから二十年が経過したという単純な事実から、「0歳から20歳の間の、女性なのではないか」という推測を可能にしてしまっており、この小鳥猊下なるアバターにも一種の窮屈さが生じてしまっております。少し前、ジェイ・ケーの間で「ワイ」とか「ンゴ」みたいなネット由来の表現が流行っているとかいう話を目にしましたけど、古のネットにあった性別とか年齢が脱臭される感じが彼女たちには解放感につながったんだろうと想像します。

雑文「聖夜の贈り物(FGOの未来に寄せて)」

 わえ(一人称)! 先割れの蛇舌でする聖夜のフェラーティオウ、小鳥猊下であるッ!

 昔はこの時期、わざと更新せんとリア充感だしとってんけど、今年はクリスマスも中止になったみたいやし、ちょっとならええやろ。書きやすいから関西弁でいくで。あのな、ファンガスの最新インタビュー読んでん。チンポコ?(チェンクロ)だかゆうスマホRPGを作ったヤツとのべしゃりになっとって、キホン相手を立ててて(ミスタイプやないで。「て」3つで正解や)、おべっかとまではゆわんけど、ずっとじょうずばっかゆうて進んでくねん。ファンガスがメディアに顔だしするときやけど、気に入った作品のおたく語りやとか、好きな作家のレスペクトなんかが話の中心になっとって、なんやホンマはどんな人物なんかとらえどころがないんやけど、対談のうしろのほうで鬼滅の話題をふられたとたんスイッチ入って、ギラギラと眼光するどくおもしろさの分析するみたいなモードんなって、ここまで立ててた対談相手の話をさえぎるわ否定するわ、クリエイターとしての生の怖さゆうか、すごみみたいのが出てて、うわ、こらエエもん見たわって感じやった。

 対談のまえのほうではスマホRPGとかMMORPGとか、数年に渡って運営せなあかんゲームの難しさも語られとって、オンラインのRPGは、プレイヤーが飽きて離れたり、サービスを続けられなくなったり、かならず後味わるう終わるゆう指摘には、その通りやとヒザを打つところがあったで。オフラインのRPGやと、少ないリソースで四苦八苦しながらキャラを育てる過程が楽しゅうて、その楽しさのピークとラスボスたおすんが重なったところで、ゲームを終えることができるやんか。でもな、オンラインのRPGは運営が長期化すればするほど宿命的に、レベル99になってからの時間がプレイタイム全体の100%に限りなく近づいていくねんな。レベル99の世界で何を楽しませるかに、作り手はみんな四苦八苦しとる。見てると、解決法はだいたい3つに集約される感じやな。1つ目「既存のキャラ・アイテムを一定のペースで陳腐化する」、ガチャの新キャラが旧キャラよりも確実に強く設定されるのがこれやね。2つ目「レベル上限を一定のペースで解放し続ける」、レベル200とか300とか、どこまでもキャラが成長する青天井方式やね。でも敵もつよなるから、差し引きでレベルアップの意味はほぼ消えてんねんけどな。プログラム上の限界はレベル65535なん? 知らんけど。3つ目「レベル上限はすえおきで装備やアイテムで少しずつステータスを上乗せする」、エフジーオーはこれに該当するんかな。絆上限解放とかコマンドカード強化とか、つよなった気はぜんぜんせえへんけど。

 わえ(カワイイ!)、6年にわたってメッチャ課金しとうから、もう弊カルデア(笑)の戦力はぜんぜん飽和してんねん。せやな、レベル99になって3年ぐらい経つ感じやから、そろそろなんか目先を変えた新しい遊び方が欲しいところやな。そこで提案やねんけど、持ちキャラが全滅するまで侵攻できるタクティクスオウガの「死の迷宮」みたいなヤツはどないやろ。ファンガスも好きなはずやで。持ちキャラが多いほど単純に有利になるし、戦力飽和のマスターにも課金する別の意味が出てくる。課金せんならせんで、少ないキャラでどこまでもぐれるかアタマつこたチャレンジもできるしな。あとは、報酬をどうするかが問題やね。ゲーム内でほしいもんもうないねんけど、「聖杯」「獣の足跡」は当確として、なんでかかたくなに導入しようとせえへん「任意のキャラの宝具レベルを1上げるアイテム」はどうやろ。ガチャの売り上げも下がってきてるみたいやし、頃合いとちゃう? 期待しとうで!

 でもな、ファンガスはん、「ボクが新キャラを引くためにいくら使ったと思いますか!」とかぬかすんは、もうけすぎの煙幕にしたかて白々しすぎるんとちゃいまっか? 例え10万円つこたとして、キミのこづかい50億円の0.00002%やないか! ほぼオナイやのに月額2万千円でバンザイの子もいるんやで! わえ(キュート!)はこの二十年間でテキストのかせぎは0円、いや、売れない同人誌のぶんマイナス50万円やねんで(正確にはnoteで500円もらったから、49万9千500円)! トボけるのもええかげんにしいや!

雑文「鬼滅の刃・最終巻刊行に寄せて」

質問:小鳥猊下の鬼滅の刃総括談話はまだですか

回答:ほんとに出してほしいの? まったくインターネットは沈黙の美とはほど遠い場所ですね。しぶしぶ懐から美しい言葉をチラ見せするけど、乞うた以上は責任をもって拡散しなさいよ。キミたちはもっと私をチヤホヤしていいと思う。

 ツイッターでは作者と作品は切り離して鑑賞すべきって意見が多いように思うけど、私はジャンルとかじゃなくて作者を追いかけてしまうタイプの読み手なのね。”Behold the man”、まさに「その人」が表現しているものを時系列にロードローラー(ネットミームに読解を邪魔されないで!)でならしていくように味わいたいわけ。作者の人格は、「ダダ漏れ」から「かそけく匂う」までの振り幅はあるけど、”必ず”作品に現れるというのが、私の意見なの。鬼滅の刃もそういう読み方をしてしまっていて、男性作家だったら一生をそこにとらわれてしまうような巨大な重力場から軽々と飛び去ることができたのは、女性の書き手ならではだと思う。このかろやかさを目の当たりにすると、二十年も同じ作品を連載し続けるのは、それこそ無惨様の所業で「生き汚い」なと思わされてしまう。これを言うと反発ありそうだけど、女性が人の営為にコミットしようとするとき、男性とくらべてかなり厳しいタイムリミットが設定されているので、鬼滅という物語を語り終えた女性が、次に命の鎖の先端へ己の写し身である輪っかを付け加えたいと願うことは、個人的にすごく得心するというか、すとんと胸に落ちる感じがする。この後も鬼滅のアニメ化は続いていくだろうし、今回ほどの大ヒットにはならないと思うけど、映画版の制作も続いていくことと思います。あらゆる出版社がコンタクトを試みるだろうし、ゴシップ誌は作者の現在を探ろうとするだろうし、遠い親戚によるカネの無心は絶えないかもしれません。様々なノイズによる苦労は多いと思いますが、漫画から離れた作者の人生が静かで満ち足りたものになることを心から願います。たぶんこの人は、鬼滅の刃を描いたことを自分の子どもたちにはすすんで言わないような気がするんですよね。

 数年後、どこかの地方都市でひとりの主婦が、息子の同級生の名前が数年前に流行した漫画のキャラクターに似ている(そのものではなく、似ている)ことに気づき、もしかしてあの優しそうな奥さんもファンだったのかしら、なんて思う。そして実のところ、息子の同級生の母親が作者その人だったなんて考えると、とても楽しい気分になります。

 さらに十数年後、だれもが鬼滅の刃をはるか昔に流行った作品として忘れてしまった頃、ある月刊誌の読み切りに、よく似た絵柄の漫画がひっそりと掲載される。ペンネームはちがうが、ごく一部のファンが気づく。でも、だれもそのことをネットに書きこんだりはしない。読み終わったあと、ただ暖かな気持ちで、こう思うのだーーああ、子育てが終わったのかな。あなたの消息を知れてうれしい、あなたがこの空の下のどこかで生きていてくれてうれしいーーと。

ドラマ「クイーンズ・ギャンビット」感想

 クイーンズ・ギャンビット見はじめたけど、すごい面白い。SF愛好家だったので、「偶然、女性という容れ物に入ってしまった知性体」みたいな女性に弱いんだと思う。「内ももに流れる初めての経血を水道水で洗おうとする」演技はエイリアンじみててグッとくるし、「向精神薬を服用すると幻のチェス盤が天井に現れて勝つ」とかも異質な肌触りのビジュアルで素晴らしい。リトルグレイみたいな目でガンにらみしてくる2話以降の女優もいいんですけど、ホラわたしSF愛好家であると同時に小児愛好家なんで、1話の子役がひさしぶりの大ヒットで、大量のカプセル剤をむさぼり食うシーンで思わず「キャーッ!」って黄色い声をあげちゃいましたよ、中年のオッサンなのに。

 クイーンズ・ギャンビット見終わった。1シーズン7話で完結という物語サイズが、たいへんに具合がよろしいと思いました。ヒットが生まれにくい時代に、ヒットした作品を薄く薄く引き伸ばして延命させる手法があちこちのエンタメ業界で横行してきましたが、本邦では例の作品の大ヒットから「誰でも途中参入できるサイズ感で、キチッと物語を完結させる」のが大事だとわかってきたように思います。百巻とかシーズン10とかになってくると、見れば面白いのかもしれないけれど、それだけで参画の意志をだいぶにくじきますもの。張られた伏線なんかもストーリー全体が長すぎるとわからなくなってくるし、作者と熱心なファンに「96巻のこれは1巻のこのコマが伏線になってて〜」とか語られても、もはや生温かい笑顔で聞き流す何かでしかなく、作品の魅力や面白さのプレゼンになってないんですよね。

 本作の感想として「終盤、かつての敵と味方が大団円に向けてピースのようにはまっていく快感」から「少年ジャンプの漫画みたい」というものが散見されるようです。私はと言えば、「孤独とアイデンティティ」「才能とディスコミュニケーション」というテーマから、これはチェス版の「あしたのジョー」だと感じました。もちろん主演女優のビジュアル的インパクトと演技力はこのドラマに不可欠ですが、物語の本質部分に性別はほとんど影響を与えていないように思います。さて、隙あらば有名作にからめた自作語りをしていきたいのですが、「偶然、女性という容れ物に入ってしまった知性体」というモチーフはMMGF!の6章に見ることができますし、同作の「終盤、かつての敵と味方が大団円に向けてピースのようにはまっていく快感」もじつに少年漫画的であると言えましょう。つまり、クイーンズ・ギャンビットを楽しんだ誰かは、MMGF!の潜在的な読者だと言えるのです(同心円状の黒目で)!

 ともあれ、ピリオドを人生という全長のどこへ置くかが物語の質を決めると指摘してきた身として、本作のそれは正にハッピーエンドとして非のうちどころがなく、エンディング後にたどるだろう主人公の余生について、幸福を手に入れる展開が全く想像できないことをのぞいては、完璧な幕引きだったと思います。

アニメ「ダイの大冒険」感想

 ダイの大冒険、世代なので遅ればせにアマプラで第1話見る。大事MANブラザーズバンドを彷彿とさせる語呂あわせクソ・リリックのオープニングに心をくじかれ、開始30秒で視聴を止めようかと思ったが、なんとか本編へたどりつく。感想としては、かつてのファンだったオッサン・オバハンがリアルタイムでエス・エヌ・エスをやりながら同窓会的に見る方法以外では、楽しめない作品になっています。わざとかもしれませんけど、台詞運びや場面の切り替えやアクションのテンポ感がすごくスローリーで、昭和生まれには懐かしいのかもしれませんが、ウェブ動画に慣れた最近の子どもたちは生理的にじれったくて見ていられないでしょう。青少年向けアニメなのに、ターゲットはオッサン・オバハンという歪さに、制作側も感覚のアップデートされていないオッサン・オバハンなんだろうなという暗澹たる気持ちにさせられました。本作は毎年のように新作が発売されるドラクエ全盛期に連載を開始し、ドラクエの販促という鬼子的出自をふりきってはるかな高みへと飛翔したからこそ、当時の少年少女たちに長く記憶される名作となったのだと思います。個人的には、ダイの大冒険あたりから「たたかう」「じゅもん」だけだったドラクエ世界に「とくぎ」として「なんとかスラッシュ」などの剣技が逆輸入され、転職システムの変更と相まって最終的に全てのキャラが没個性なカンストへゴールするゲームへと変じて、やや魅力を減じてしまったと感じています。

 閑話休題。本作は当時の文化と社会の状況こみで体験してこその作品だと思うので、若い世代から新規のファンを取りこむのは(テンポの件も相まって)厳しいのではないでしょうか。以前にも言いましたが、猫型ロボットとかゴム人間とかポケット内の怪物などの長寿作品群は、いまやオッサン・オバハンがおのれの少年時代に体験した感動を後からやってきた小さい人々へ、同時代性抜きに押しつける側面が強くなりすぎています。文学はいちど誰かに語られれば語りなおす必要のないテーマが描かれ、ジュブナイルは同じテーマを新たな世代が何度も語りなおす性質の作品群だと指摘したことがあります。この意味で、少し前の妖怪ウォッチとか、最近の鬼滅の刃は正しくジュブナイルですし、特に後者は子どもが子どもを、少年が少年を失う前に語り終えられたという事実から、彼らにとって大切な心の場所に長く留まり続けることでしょう。

 さて、ドラクエ派生作品の話をしてもオッサン・オバハンにしか通じませんので、最後に鬼滅の刃について話を移して終わります。鬼滅の刃の特徴って、少女漫画的な「詩情」だと思うんですよね。特に女性の中で理想化された、肉から離れた男性の詩情を感じます(女性の描き方は肉そのもので非常に生々しいのに)。その一方でアクション漫画としては、キャラと背景と技のエフェクトが同じ調子で描いてあって、大ゴマを1枚絵としてじっくり眺めないと何が起こっているかわかりづらく、読むのに時間がかかる。その弱点の理想的な補完がアニメ化によって行われ、物語の持つポテンシャルが最大化されたことで、一個の作品として完成することができたのだと思います。覚えておきたいのは、この作品は大人を楽しませる力を持っていますが、本質的にはいまを生きる子どもたちのものであり、テリーやエス・エヌ・エスで騒ぎ立てるオッサン・オバハンのものではないということです。今あふれているように見えるこの作品に向けた言説は、私のものも含めて、すべてオッサン・オバハンのウエメセ感想に過ぎません。未だ一語たりとも、子どもたちの心以外のどこにも、この作品の本当の感想は書かれていないのです(言語によって矮小化される前の世界理解に彼らはいるからです)。これから十年をかけて、いまの少年少女たちがどう鬼滅の刃を受け止めたかが明らかになってくるでしょう。私は、それを見るのを楽しみにしています。

ゲーム「激闘!エオルゼア(FF14奮戦記)」

 エオルゼアで不健康に麻雀しかしていない自キャラを不憫に思い、薄目で少しだけメインストーリーを進めてみる。面白くないこともないが、親を間接的に殺した相手にサービスを受けている居心地の悪さが常につきまとう。FF14のための実験と称してFF11にアイテムレベルを導入した狼藉は、試みに足の悪い老人の秘孔を突いて殺しかけるレベルだったし、FF11のデザインを剽窃した種族や敵キャラを目にすれば、愛する人の生皮を剥いでかぶった猟奇殺人者を想起してしまう。ふりかえれば、FFシリーズの中で12と14だけが他の作品たちと地続きになっていないように思う。前者は想像力のオリジナリティ、後者は想像力のプレイジャリズムによってそれぞれ特異な存在となっているのだ。ともあれ、若干の紆余曲折を経て、再び私のエオルゼアは雀荘サイズへと戻ったのであった。HAPPY END!

 なに、今日はプレステ5の発売日だったというのか! もはや私は次世代ゲーム機(死語)に対して、ドライブがてら近所の電気屋を10軒ほど回るぐらいの関心しか示せない。でも途中、「本日はフリーでの販売はありません」という貼り紙を見かけ、キショクマンメン・ステイトで「オーッ、オフコースお金は払いマスネー! ハウマッチ・シュッド・アイ・ペイ?」っつったら、「ハア?」って顔してミーに恥をかかせた店員は殺します。誤解が無いように付け加えますと、有機物が無機物に変じる瞬間へ責任を持つという意味で「殺す」と言いました。って、その一連のムーブ、かなりプレステ5に執着ありますやん! 関西弁をやめると言ったそばから流暢なネイティブ発音が出て申し訳ないが、たとえ買えたところで遊びたいソフトが一本もない。ってそれ、ただのすっぱいブドウですやん! 数週間の加療を要する言語障害で申し訳ないが、プレステ5専売であるFF16が発売されたらプレイしてやらないこともない(えらそう)。

 FF14にも感じたことだが、この制作者はとにかくネーミングのセンスがひどい。ヴァリスゼアって名詞を見た瞬間、のけぞりながら「だっせー!」と叫び、叫んだ余勢をかって思わず後方宙返りしてしまうほどダサい。「よし、英語で悪徳を示すヴァイスを使ってヴァイスゼア……は直接的すぎるな。い行で考えてみるか。い、き、し、ち、に……ヴァリス、これだ! なぜかわからないが夢幻の戦士みたいなイメージもあるし、ファイファンの世界観にぴったりじゃないか! (己をかき抱きながら)おお、我がエオルゼアの表裏となる背徳の地、其方の名はヴァリスゼア……!!」とかなんとか言いながらモニターの前で失禁してそうだ。おいコラ、地名ってのはてめえの自意識から出てくるもんじゃねーんだよ、多くの人たちが暮らす歴史から出てくるもんなんだよ! なに、シリコンバレーのネーミング方式にならいました、だと? バカモノ、あれはもともとサンタクララバレーだろうが! この西洋かぶれのキラキラネーム野郎め、蛇落地悪谷さんを見習いやがれ! FF11の制作者が「三日三晩考えて、ヴァナディールという単語がひらめいたときは、これで勝ったと思いました」っていうような確かなものづくりの感覚が、なぜ組織文化として根付いてねーんだよ! 意識高い系の自称カリスマばっか軟便みたいに輩出しやがって、ぶちころがすぞ! 思わず激してしまい申し訳なかったが、これは結局のところクリエイティブの真の上澄みは個人の才能からしか発せず、組織に接ぎ木できないことの証左かも知れぬ。

 関心を得るためだけにまた意図的に鬼滅方向へ脱線していきたいが、あのさー、鬼滅の刃のユニークさは固有名詞の発想にもあると思うんだよね。パッと見、キャラの特徴を中二病的感性でムリヤリ漢字に押し込めただけで、鬼舞辻無惨とか最初は「なんじゃそりゃ」って思ったけど、ケンケンフクヨーするうちスルメみたいに味が出てくる。これはやはり、作者の人格に強く紐づいた言語センスとしか言いようがないと思うゼア。ちなみに、私のオススメのゼアはボブ・ディランの伝記的映画「アイム・ノット・ゼア」である。諸君のオススメのゼアもぜひ教えて欲しいゼア。

 タイムラインにて「FF14はストーリーが良い」とのツイートを見かけ、「ほんとにござるかぁ?」などと疑いつつも、ときどき雀荘から出てメインシナリオをぼつぼつ進めていたが、テレポで移動してはフラグを立てるだけのおつかいが続くばかりで、いっこうに面白くならない。たまにさしはさまれるオートリーダーのダンジョンも、前衛なので近いカメラに山盛りのエフェクトで何が起こっているのかわからないまま終わる。ここ一週間での進展はと言えば、麻雀で卓を囲むときに”LIGHT PARTY”と表示されるのどういう意味かなー、光のパーティって意味かなー、とか思ってたら、”FULL PARTY”に対する”LIGHT”なのがようやくわかったぐらいだ。

 そんで今日、帝国軍(笑)のアルテマウェポンを倒すのを目的としたラスダンと思しき場所へ突入することになったわけ。けっこうな頻度で音声つきのイベントシーンが始まるんだけど、なぜかスキップできないの。奇矯な語彙のヘンな文章をいい声で朗読されるのに精神的ダメージを受けつつも、フルパーティのエフェクトまみれでむりくり進行していくわけ。敵方の最重要人物たちがわざわざ手の届く範囲へ親切にも姿を現してーー現実のボスは決して姿を現さないまま、ダメージかどうかもわからない遠隔攻撃をこっそり重ねてきてて、気づいたときには削り殺されてるーーくれて、よくそれで重要な役職につけたなとびっくりするような精神病とまごうごたくばっか並べてくんだけど、結局ぜんぶ暴力で解決するのはJRPGの悪い部分を濃縮しててすごい笑える。あと、なぐりたおされたボスが「それだけの力があるのに、なぜ俺の考えがわからない」とかアホ言ってくんだけど、黒人のヘビー級チャンピオンにアジア人の独裁国家元首が「すごいボクシングが強いくせに、なぜ共産主義思想を理解できないんですかあ!」とか言うみたいな滑稽さだなあ、と思った。

 じつは裏でプロメアっていう劇場アニメーーポップな色調で線が少なく動きが激しいグレンラガンみたいなヤツーーをアマプラで流しながらプレイしてたんだけどーーどっちもガワは新しいのに語られる内容は昭和みたいな野暮ったさで、両作品から音声を伴って流れてくる負の相乗効果により、ひさしぶりにいい年をしておたくを止められないことを恥じいる例の鬱々とした気分にさせられました。

 そうこうするうちにエンドロールが始まって、なんか各国首脳(笑)の演説が始まるんだけど、どれも小学校の校長が児童に語るみたいな中身なのね。ゲンナリしてそれを聞きながら、声優とかアナウンサーとか話業の人をあらためて尊敬する気持ちになりました。どんなにつたなく破綻したスクリプトでも、成立しているように演じてみせるんだから! 結局、FF14のストーリーの良さはわからないままでした、すいません。

 オススメされたストーリーを読むためにFF14のプレイを続けているが、どうもすべてのストーリーが縦方向へリニアーにつながっていて、FF11とは異なり順にすべてのシナリオを消化していかないとエキスパンションにはたどりつかないらしく、くだらないおつかいをテレポで消化するのが苦痛でしょうがない。戦闘システムも理解できてきて、最後にはレベル99のキャラでスキルの時間管理をしながら正しい順でボタンを上手に押す作業になることがぼんやりと見えてきた。まあ、モンハンワールドの極ベヒーモス戦コラボでなんとなくわかってたけど、突きつめていくとFF11とはまったく方向性の違うアクションゲーになっていき、RPGをプレイしたい気分には合わないなーと思っていた矢先でした、その事件が起こったのは。

 何の脈絡もないまま突然、死に化粧みたいなテクスチャの顔面でカタパルトみたいなパイオツをピンクのブラジャーで包んだオールウェイズ腹まるだしの痴女が焦点の無い目で「じゃあ、今日はエーテルの説明するね!」とか言いながら豪華なパワポみたいなの使って得意げにプレゼンをはじめんの。そしたら、疑問も葛藤もないペラッペラの死生観が失禁みたく垂れ流されるわけ。輪廻転生の孫引きのガイア理論のひ孫引きのヒゲの御大によるライフストリーム理論から玄孫引きして、おまけに何の内省も無いまま前頭葉だけで思考してるもんだから、「死んだらエーテルに回収されて、また生まれ変わるんだよ!」とかいう文字列がこれ以上でもこれ以下でもない100%の生命の解釈なのよ。つまり、FF14世界での生死にまつわる「観」じゃなくて「実相」がこれなの。この制作者にかかったら真言密教なんかも秒で理解されて、「つまりそれは現代的な価値観でアップデートするとこういうことですね」とか齢百歳の高僧に向かって前頭葉の要約を軟便みたく垂れ流し、己の軽薄と侮辱に気づきもせず同じ晩には夜の街にくりだして、その日にあったことすべてを忘れてそうだ。”Another Time, Another Place”、いま現在の地球ではないという意味での異世界(最近ではこの単語もペラくなってて、視界に入ると目をそむけちゃう)を創出するのにもっとも重要なのは、どういう死生観を持った人々が生活しているのかという想像力だと思うんです。当然、国や民族や住む場所によってそれは違ってくるでしょう。エオルゼアって、白人とインディアンがLEDライトの下で同じ死を死ぬ世界なんですよ。このエーテルに関する豪華なパワポによるプレゼンーー声つきの演技がまた得々としてやがんだーーを聞いて、こんなクソみたいなペカペカの死を迎える世界に、大切な自キャラを置いておけんわとなって(と、なって!)、鬼畜米英が目前に迫る防空壕の母親の気持ちで、衝動的にキャラデリしちゃいました!

 エヘヘ、ゲイカジョーク! 麻雀をする場所を失ったことだけが心残りなので、だれか無料で麻雀ができるアプリなんか教えてほしいナー?