猫を起こさないように
FF14
FF14

雑文「私とカラドボルグ(FF11とはずがたり)」

ゲーム「FF11の思い出」その1
ゲーム「FF11の思い出」その2
ゲーム「FF11の思い出」その3
ゲーム「FF11の思い出」その4
ゲーム「FF11の思い出」その5
ゲーム「FF11の思い出」その6
ゲーム「FF11の思い出」その7
ゲーム「FF11の思い出」雑文集

 カラドボルグ完成。ツイートで確認すると11月26日に作成をスタートしていたので、一ヶ月とかかっていない。だいたいの目算であらかじめ一億ギルを用意していたとはいえ、もはやFF11にかつての廃人の居場所はないのだと痛感させられた次第である。

 FF11終焉の地、醴泉島にてカラドボルグの試し切りを行う。あのカタパルトピンクパイオツさえいなければ、ひんがしリージョンはもっと豊かなものになったのになあと、ある種の寂寥感に浸りながらモヤったエンピリアンウェポンをふるう。これがまー、アホみたいに強い。過去、ジョブポかせぎでリンクしないようビクビクしながら一匹ずつ釣っていたのがウソみたいで、敵の集団へつっこんでトアクリーバーを撃ちまくるだけで延々とチェーンがつながっていく。前世がナ赤、今生が青シ風で、まともな前衛を経験するのがほぼ初めてということもあり、まるで別のゲームをしているような感覚さえあった。青シだったら通常攻撃2桁、クリティカル3桁、ウェポンスキル4桁前半だったのが、それぞれ3桁、4桁、5桁になるのだから、文字通り世界が変わる体験である。

 テレホーダイ末期の古いMMORPGなので、遊び方やシステム理解へのゲーム的誘導は絶無で、そもそもインターネットにつなぐのさえ低くないハードルがあったものだから、プレイしている層は腺病質の高学歴(たぶん理系)が大半で、当時は単純なアタッカーをどこか小馬鹿にするような感じが漂っていた。赤魔道師が「いやー、器用貧乏なんでー」とか言いながら、エン系やブリンクやHP/MP交換アビなどを駆使してソロでハイ・ノートリアスモンスターを倒して「すげー」なんて羨望を集める裏で、ただ殴ってウェポンスキルを撃つだけの脳筋ジョブは半ば公然とディス(あwんwこwくw)られていたのだった。しかしながら、今回じっさいにさわってみると暗黒騎士の強さは非常にわかりやすく際立っており、プレイヤー層のリアルでの偏りが評価の偏りに影響を与えていたのではないかと感じた次第である。

 そしてツイッターもたぶん同じことで、文章の書ける頭の回転が速い人物(腺病質の高学歴で、きっと理系)が24時間ずっと現代の社会とか政治に関する高速合意形成と大衆の教化(そして忘却)を続けており、それは実のところ世界の半分にも満たず、現実ではネットに姿を現さない低学歴の文系ヤンキーがコミュ力と物理で版図を広げ続けているのを、横目の視界に半ばとらえながら、見ないふりをしている。仮に両者が現実でエンカウントしたならば、なぐられた頬を押さえた赤魔道師が「この案件に関しゅる合意わ、とっくに済んでりゅはずひゃないでひゅか~」と訴えるのにまったくとりあわず、無言の無表情で彼の顔面へ大剣を振り下ろす暗黒騎士といった構図になるであろう。

 ともあれ、カラドボルグの試し切りを通じて、本気で世界を変えたいならば、ときに暗黒騎士であることを避けずに生きねばならないなと、気を引きしめ直した次第である。

ゲーム「激闘!エオルゼア(FF14奮戦記)」

 エオルゼアで不健康に麻雀しかしていない自キャラを不憫に思い、薄目で少しだけメインストーリーを進めてみる。面白くないこともないが、親を間接的に殺した相手にサービスを受けている居心地の悪さが常につきまとう。FF14のための実験と称してFF11にアイテムレベルを導入した狼藉は、試みに足の悪い老人の秘孔を突いて殺しかけるレベルだったし、FF11のデザインを剽窃した種族や敵キャラを目にすれば、愛する人の生皮を剥いでかぶった猟奇殺人者を想起してしまう。ふりかえれば、FFシリーズの中で12と14だけが他の作品たちと地続きになっていないように思う。前者は想像力のオリジナリティ、後者は想像力のプレイジャリズムによってそれぞれ特異な存在となっているのだ。ともあれ、若干の紆余曲折を経て、再び私のエオルゼアは雀荘サイズへと戻ったのであった。HAPPY END!

 なに、今日はプレステ5の発売日だったというのか! もはや私は次世代ゲーム機(死語)に対して、ドライブがてら近所の電気屋を10軒ほど回るぐらいの関心しか示せない。でも途中、「本日はフリーでの販売はありません」という貼り紙を見かけ、キショクマンメン・ステイトで「オーッ、オフコースお金は払いマスネー! ハウマッチ・シュッド・アイ・ペイ?」っつったら、「ハア?」って顔してミーに恥をかかせた店員は殺します。誤解が無いように付け加えますと、有機物が無機物に変じる瞬間へ責任を持つという意味で「殺す」と言いました。って、その一連のムーブ、かなりプレステ5に執着ありますやん! 関西弁をやめると言ったそばから流暢なネイティブ発音が出て申し訳ないが、たとえ買えたところで遊びたいソフトが一本もない。ってそれ、ただのすっぱいブドウですやん! 数週間の加療を要する言語障害で申し訳ないが、プレステ5専売であるFF16が発売されたらプレイしてやらないこともない(えらそう)。

 FF14にも感じたことだが、この制作者はとにかくネーミングのセンスがひどい。ヴァリスゼアって名詞を見た瞬間、のけぞりながら「だっせー!」と叫び、叫んだ余勢をかって思わず後方宙返りしてしまうほどダサい。「よし、英語で悪徳を示すヴァイスを使ってヴァイスゼア……は直接的すぎるな。い行で考えてみるか。い、き、し、ち、に……ヴァリス、これだ! なぜかわからないが夢幻の戦士みたいなイメージもあるし、ファイファンの世界観にぴったりじゃないか! (己をかき抱きながら)おお、我がエオルゼアの表裏となる背徳の地、其方の名はヴァリスゼア……!!」とかなんとか言いながらモニターの前で失禁してそうだ。おいコラ、地名ってのはてめえの自意識から出てくるもんじゃねーんだよ、多くの人たちが暮らす歴史から出てくるもんなんだよ! なに、シリコンバレーのネーミング方式にならいました、だと? バカモノ、あれはもともとサンタクララバレーだろうが! この西洋かぶれのキラキラネーム野郎め、蛇落地悪谷さんを見習いやがれ! FF11の制作者が「三日三晩考えて、ヴァナディールという単語がひらめいたときは、これで勝ったと思いました」っていうような確かなものづくりの感覚が、なぜ組織文化として根付いてねーんだよ! 意識高い系の自称カリスマばっか軟便みたいに輩出しやがって、ぶちころがすぞ! 思わず激してしまい申し訳なかったが、これは結局のところクリエイティブの真の上澄みは個人の才能からしか発せず、組織に接ぎ木できないことの証左かも知れぬ。

 関心を得るためだけにまた意図的に鬼滅方向へ脱線していきたいが、あのさー、鬼滅の刃のユニークさは固有名詞の発想にもあると思うんだよね。パッと見、キャラの特徴を中二病的感性でムリヤリ漢字に押し込めただけで、鬼舞辻無惨とか最初は「なんじゃそりゃ」って思ったけど、ケンケンフクヨーするうちスルメみたいに味が出てくる。これはやはり、作者の人格に強く紐づいた言語センスとしか言いようがないと思うゼア。ちなみに、私のオススメのゼアはボブ・ディランの伝記的映画「アイム・ノット・ゼア」である。諸君のオススメのゼアもぜひ教えて欲しいゼア。

 タイムラインにて「FF14はストーリーが良い」とのツイートを見かけ、「ほんとにござるかぁ?」などと疑いつつも、ときどき雀荘から出てメインシナリオをぼつぼつ進めていたが、テレポで移動してはフラグを立てるだけのおつかいが続くばかりで、いっこうに面白くならない。たまにさしはさまれるオートリーダーのダンジョンも、前衛なので近いカメラに山盛りのエフェクトで何が起こっているのかわからないまま終わる。ここ一週間での進展はと言えば、麻雀で卓を囲むときに”LIGHT PARTY”と表示されるのどういう意味かなー、光のパーティって意味かなー、とか思ってたら、”FULL PARTY”に対する”LIGHT”なのがようやくわかったぐらいだ。

 そんで今日、帝国軍(笑)のアルテマウェポンを倒すのを目的としたラスダンと思しき場所へ突入することになったわけ。けっこうな頻度で音声つきのイベントシーンが始まるんだけど、なぜかスキップできないの。奇矯な語彙のヘンな文章をいい声で朗読されるのに精神的ダメージを受けつつも、フルパーティのエフェクトまみれでむりくり進行していくわけ。敵方の最重要人物たちがわざわざ手の届く範囲へ親切にも姿を現してーー現実のボスは決して姿を現さないまま、ダメージかどうかもわからない遠隔攻撃をこっそり重ねてきてて、気づいたときには削り殺されてるーーくれて、よくそれで重要な役職につけたなとびっくりするような精神病とまごうごたくばっか並べてくんだけど、結局ぜんぶ暴力で解決するのはJRPGの悪い部分を濃縮しててすごい笑える。あと、なぐりたおされたボスが「それだけの力があるのに、なぜ俺の考えがわからない」とかアホ言ってくんだけど、黒人のヘビー級チャンピオンにアジア人の独裁国家元首が「すごいボクシングが強いくせに、なぜ共産主義思想を理解できないんですかあ!」とか言うみたいな滑稽さだなあ、と思った。

 じつは裏でプロメアっていう劇場アニメーーポップな色調で線が少なく動きが激しいグレンラガンみたいなヤツーーをアマプラで流しながらプレイしてたんだけどーーどっちもガワは新しいのに語られる内容は昭和みたいな野暮ったさで、両作品から音声を伴って流れてくる負の相乗効果により、ひさしぶりにいい年をしておたくを止められないことを恥じいる例の鬱々とした気分にさせられました。

 そうこうするうちにエンドロールが始まって、なんか各国首脳(笑)の演説が始まるんだけど、どれも小学校の校長が児童に語るみたいな中身なのね。ゲンナリしてそれを聞きながら、声優とかアナウンサーとか話業の人をあらためて尊敬する気持ちになりました。どんなにつたなく破綻したスクリプトでも、成立しているように演じてみせるんだから! 結局、FF14のストーリーの良さはわからないままでした、すいません。

 オススメされたストーリーを読むためにFF14のプレイを続けているが、どうもすべてのストーリーが縦方向へリニアーにつながっていて、FF11とは異なり順にすべてのシナリオを消化していかないとエキスパンションにはたどりつかないらしく、くだらないおつかいをテレポで消化するのが苦痛でしょうがない。戦闘システムも理解できてきて、最後にはレベル99のキャラでスキルの時間管理をしながら正しい順でボタンを上手に押す作業になることがぼんやりと見えてきた。まあ、モンハンワールドの極ベヒーモス戦コラボでなんとなくわかってたけど、突きつめていくとFF11とはまったく方向性の違うアクションゲーになっていき、RPGをプレイしたい気分には合わないなーと思っていた矢先でした、その事件が起こったのは。

 何の脈絡もないまま突然、死に化粧みたいなテクスチャの顔面でカタパルトみたいなパイオツをピンクのブラジャーで包んだオールウェイズ腹まるだしの痴女が焦点の無い目で「じゃあ、今日はエーテルの説明するね!」とか言いながら豪華なパワポみたいなの使って得意げにプレゼンをはじめんの。そしたら、疑問も葛藤もないペラッペラの死生観が失禁みたく垂れ流されるわけ。輪廻転生の孫引きのガイア理論のひ孫引きのヒゲの御大によるライフストリーム理論から玄孫引きして、おまけに何の内省も無いまま前頭葉だけで思考してるもんだから、「死んだらエーテルに回収されて、また生まれ変わるんだよ!」とかいう文字列がこれ以上でもこれ以下でもない100%の生命の解釈なのよ。つまり、FF14世界での生死にまつわる「観」じゃなくて「実相」がこれなの。この制作者にかかったら真言密教なんかも秒で理解されて、「つまりそれは現代的な価値観でアップデートするとこういうことですね」とか齢百歳の高僧に向かって前頭葉の要約を軟便みたく垂れ流し、己の軽薄と侮辱に気づきもせず同じ晩には夜の街にくりだして、その日にあったことすべてを忘れてそうだ。”Another Time, Another Place”、いま現在の地球ではないという意味での異世界(最近ではこの単語もペラくなってて、視界に入ると目をそむけちゃう)を創出するのにもっとも重要なのは、どういう死生観を持った人々が生活しているのかという想像力だと思うんです。当然、国や民族や住む場所によってそれは違ってくるでしょう。エオルゼアって、白人とインディアンがLEDライトの下で同じ死を死ぬ世界なんですよ。このエーテルに関する豪華なパワポによるプレゼンーー声つきの演技がまた得々としてやがんだーーを聞いて、こんなクソみたいなペカペカの死を迎える世界に、大切な自キャラを置いておけんわとなって(と、なって!)、鬼畜米英が目前に迫る防空壕の母親の気持ちで、衝動的にキャラデリしちゃいました!

 エヘヘ、ゲイカジョーク! 麻雀をする場所を失ったことだけが心残りなので、だれか無料で麻雀ができるアプリなんか教えてほしいナー?

ゲーム「ファイナルファンタジー14」感想、あるいは麻雀について

 土間式麻雀(土を突き固めて作った玄関口において、蚕や牛のかたわらで行う麻雀の意)! 小鳥猊下であるッ!

 何やら無料で四人対戦ができるとのことで、東風荘の閉鎖からこちら遠ざかっていたネット麻雀を再開してみた。何を隠そう、私は麻雀が弱い。雀歴は20年以上、阿佐田哲也や片山まさゆきや押川雲太朗の著作をすべて読破し、戦術などへの理解は深いはずだ。しかし、とにかく弱い。今日も今日とて「久しぶりに麻雀ってヤツをやってみるか」などとワニ蔵の顔でつぶやき、対局相手全員の手牌を読みながら、捨て牌の手出し・ツモ切りをすべて把握しつつ、真剣に打った。するとどうだろう、4連続ラスを引き、うち2回はトビ終了だった。内容はと言えば、12局連続ノー和了、数少ないアガリはすべて低目、勝負牌はことごとくドラを抱えた相手のペンチャン・カンチャン待ちにつかまる。

 麻雀というのは本当に怖い遊びで、ドラ集めと絵合わせでなく、真剣に取り組めば取り組むほど、その人物の現在のカンや運などのパラメータをじつに正確に反映するようにできている。私が株やギャンブルの類を一切やらないのも、麻雀を通じて必ずトータルで負けることを知っているからである。

 しかし、読書をしながらの片手間とか、酒を飲みながらの絵合わせとかになると、かなり勝ててしまうのである。私が物事に当たるとき、少し力を抜いて正面から組みにかからない理由も、ここにあると言えよう。