猫を起こさないように
少女保護特区(1)
少女保護特区(1)

少女保護特区(1)

    おぼえておいて。一羽の鳥が砂を一粒一粒、大海原を越えて運ぶとするでしょ。
    砂を全部、向こう岸に運び終わったところで、やっと永遠が始まるのよ。
    まあ、それはそれとして、鼻をかんだら。  (カポーティ『冷血』 )
 奈良全体は、四つの部分に分かれていて、その一つには教育特区があり、もう一つには平城特区があり、三つめには、土地の人の言葉でポントチョウとよばれ、行政的にはただ鋳物特区とだけよばれる刀匠の居住地帯がある。京都のそれとは全く関係を持たない。特区内で最も人口の集中する「日本刀町」の名が人口に膾炙してゆくうち、自然と音声面での脱落を生じた結果と思われる。四つめは、青少年育成特区である。しかし、土地の人で公文書上のこの呼び名を使うものは、ほとんどいない。この地域は一般に、少女保護特区の俗称でよばれる。
 この四つの特区はお互いに異なった制度と特例措置をもっている。教育特区は名物無き県の無形品目を有形化するために、平城特区は天災無き県の歴史遺物を人災から保護するために、それぞれ大和川水系ならびに淀川水系とちょうど重なる行政単位の上に成立している。次に鋳物特区について、区全体がポントチョウの名で代替されるほど刃物の生産に傾倒してゆく過程には、少女保護特区へ隣接する地勢が人心へ大きく影響したとの推測が成り立つ。なぜなら特区内で許可証を得た少女は、異性というより同性に対する身の安全から、即座に武器をつかむ必要に迫られるからである。ここ五年に清掃局が公表した統計を参照すれば、許可証の発行から武器の確保までに死傷される少女の数が年を追って増え続けているのがわかるはずである。鋳物特区は新宮川水系、青少年育成特区は紀の川水系に位置する。
 わずかの米粒が、白濁した液体にふつふつと上下する。予が炊事の煙を目で追えば、上空を旋回するヘリの操縦者があわただしく無線機をつかむのが見える。町内に点在するスピーカーからは、サイレンの音が肉食獣のうなりのように低く長くしぼり出される。予は自分自身に出立を指令すると、橋の下の陣営へ輜重を残したまま、ビデオカメラを片手に大和川の浅瀬をかちわたり現場へと急行する。半刻の行軍の先に、身の丈の半分ほどもある鉄門扉を押し開き、まさに路上へ足を踏み出さんとする予の少女と遭遇を果たす。ちょうどビデオカメラの射程内にまで接近すると、何より視線を避けるため、予は自分自身に大地へと身を伏すよう号令を下す。たちまち左上にRECの赤い明滅を伴った視界は低くなる。風雨の状況によっては、予の少女が腰巻きにする布襞の内幕を暴露せん危険な位置である。予の軍団兵はたちまち闘魂たくましく猛りたったが、まだ時は来ておらぬと諫め、闘魂は内側へ燃やしたまま静かに待機するよう伝令をとばす。
 予の少女が大通りへと進発する。鳴り響くサイレンの音階が、一段階高くなる。町内報には決して記載されず、町議会での議題となることもないが、まぎれもない少女警報である。町内に徘徊する少女が一定数を越えたときに発令される。予はここに特区法の機能不全と人間世界の不実とを浮き彫りに見る。近隣の飼犬たちはあからさまな敵意を燃やし吠えたてる。ゴミあさりの猫は毛を逆立てると後も見ずに走り去る。青洟を垂らして街路に立つ少年をその母親が横抱きにして家へと連れ帰る。通勤途中の背広男は大きくひとつ震えると、視線の位置を悟られないようにサングラスをはめ、外套の襟をそばだて、命を運にまかせ南無三と駅へ駆け出す。民家の朝顔は小学生の観察日記を逆回しに見るように、しおしおと蕾へ返る。見慣れた朝の、緊迫した光景である。
 予は両腕で全身を引き上げるようにして、じりじりと這い進む。兜で防護した頭部の隙間から極度の緊張による大汗が頬を滴り、迷彩を溶かしながら大地へと垂れる。少女たちの発する熱気だろう、灼熱化した舗装道路の上へ色彩だけを残して、汗は瞬時に蒸発する。南北へ走る大通りはなだらかな傾斜を描いており、丘の上に作られた住宅街という地勢上、南へ向かうにつれてその勾配はますます深まっていく。油断なくビデオカメラを低く構える予の視界に引かれた地平は、立ち上る熱気にゆらいでいる。やがてそこから茶色い固まりがせり上がって来る。この距離では正体を確かめようもなく、予はただ手をこまねいて待つ以外の戦術を採用できぬ。やがて茶色い固まりは地平線から浮上を開始し、息詰まる数分の後、ついには人の形を成すに至る。見間違いようもない、少女である。安い染髪料に加え、継続的には手入れが施されなかったのだろう頭髪は、茶と赤と黒がまだらに混在しており、だらしなく開いた服の襟元は本来の白とは遠い垢じみた黄に変色している。最大公約数の受け手を想定し控えめに表現したとして、一斗缶を満たした弛めの排泄物を頭から行水したようにしか見えぬ。胸元や腹部から垣間見える肌は、予の軍団兵の闘魂をいつも烈々と燃え立たせる少女本来の質感からは、はるか遠い。たくし上げられた腰巻きの短さは、その布が本来持っていた文化的な定義を失うほど短く、風速というよりは単純に角度のみで陣営の内側に蓄えた具材を予に提供しそうなほどである。
 ひるがえって予の少女を言えば、すべての特性においてただ対極にあると指摘するだけでよい。二人の少女は相手を頓着せず道の端を歩み、まさにすれ違わんとする。予の動悸は爆発的に高まる。なぜなら、少女同士の邂逅がお互いへ無事な結果を残すということは、ありえないからである。顎と左肩で保持された携帯電話へ注がれる大きな音量と小さな語彙の発話が、人気の失せた大通りへ耳障りに響きわたる。その醜態を避けるため予の少女へとビデオカメラを振りむけようとして、予はある決定的な違和感を抱くに至る。先ほども述べたように、相手の腰巻きはその陣営内へ我々を深く誘い込む陽動の如く、しかし全く充分ではない粗雑さで仕上げられているのだが、それに反して上半身を覆う衣類はと言えば、これ手首にまで及び、特に右袖の布地はひどくすり切れている。暗示的にゆるめられたその袖口は、とても防寒の役目を果たしそうにはない。学習用具の不在が平らにしたのだろう革鞄を持つ左手首の袖口は、対照的に強く引き締められている。低い視界からのぞく画面を横切るように、陣風が丸まった紙くずを転がしてゆく。二人の少女の影は、まさに重ならんとする。
 さて、ここで奈良のみならず国土全体を覆う特区制度の根本について、若干の説明を加えておくことは、あながち意味の無いこととも思われないのである。Full Faith and Credit shall be given in each State to the public Acts, Records, and judicial Proceedings of every other State.「各州は、他州の法令、記録および司法上の手続きに対して十分の信頼および信用を与えなくてはならない」。合衆国憲法第四条第一節の引用である。特区制度の根幹は、米国の州制度と極めて近い。すなわち、特区内の法律に照らして下された決定事項の有効性は、当該の特区内に限定されず、他の特区においてさえ留保されるのである。先に述べた鋳物特区の隆盛は、人体を殺傷できる刃物の購入に所持証明を申請する必要がないという点の寄与するところ大であろう。特区設立の当初、たちまちやくざ者や、思春期の世迷い言に目の据わった少年たちが押しかけたが、彼らは依然、殺傷することをまで法を越えて許されてはいない。報道番組に他人事の悲痛を楽しませることはあれ、社会秩序を根本的に擾乱する存在ではありえない。特区制度導入の最黎明期であり、特区法の雛形となった合衆国憲法第四条第一節が、我が人民の持つ固有の性質と混郁した場合の結果を誰も予想しきれなかったとはいえ、青少年育成特区から少女たちへ認められる特権の莫大さは群を抜いている。特区内法の整備は各自治体の首長に預けられる部分が大きく、故に追試を行うものは誰もいなかったのではないかと推測できる。そして後に、我が人民特有の、根拠の希薄な相互信頼が産みだした結果に、誰もが青ざめることになるのである。
 大通りの向こうから、こげ茶色に塗装された大型車がやってくる。公式にはランブラーと呼ばれ、土地の人は陰で霊柩車と呼ぶ。清掃車と消防車を組み合わせたような奇妙なそのフォルムは、実のところ与えられた目的と完全に合致している。逐一破片を取り除くより、大量の水で洗い流してしまう方がはるかに効率的なケースも多いからである。カラーリングの起源については諸説あるが、付着した血液が渇いたときに目立ちにくいという説が最も理に適うところではないか。屋根部分に据えられた手すり付きの足場には、妙齢と称すべきだがそのじつ高齢の女性局員が手ぐすねを引いて待ちかまえる。無数のカーラーが埋まり更にネットで固定された紫の頭髪と、湿布薬の欠片が未だ生々しく残るこめかみは、この召集がいかに緊急のものだったかを予へ語りかける。その視線は老眼に厳しく細められ、まさに歴戦の古強者といった風情である。この仕事は一般に不名誉なものとされるが、その高給のためだろう、少女たちとの邂逅へ想像逞しくする夢見がちな無職青年の志願は後を絶たない。しかし、最初の出動を終えての離職率は9割を越えるとの調査がある。詳しい理由は不明だが、どの地域においてもやがて妙齢で高齢の女性が構成メンバーのほとんどを占めるようになるという。
 予が清掃局の車両に目を奪われた一瞬のうちに、すべては始まり、終わる。相手の少女が平手を打つように右手を跳ね上げる。予の少女が一瞬、上体を沈めるのが見える。何かが陽光を反射させる。腰巻きの布襞が風をはらんで膨らむ。鋭い金属音、潰したゴムホースの先端からするような水音がわずかな間をおいて連続する。両者の身体はいつの間にか入れ替わり、予の少女はすでに血煙の向こうにいる。茶色い頭髪に覆われた左耳の下から水平に血が噴き出している。その勢いで身体をよろめかせ、縁石に足をとられて車道へとまさに転倒せんとするところへ、乗用車が猛然と走りこむ。運転席の男はきつく目をつぶり、ただアクセルを踏み込むばかりで、眼前の障害物に気づかない。少女警報のただ中、車を走らせる必要に迫られた自暴自棄は、あながち首肯できない理由ではない。速度と続く衝撃に千切れた首は、フロントガラスの角度によって真上へと高く跳ね上げられ、主人を失った胴体は布襞をタイヤへと引き込まれながら、人の形を崩壊させる過程で前輪をロックさせる。制動を失った車はたちまち対向車線へと流れ、電柱に激突する。予が目視で確認できたのは以上であり、これより記述することは、予の優秀な子飼いであるビデオカメラに提供させたスロー再生機能で知ったのである。
 予の少女が通学鞄と共に捧げ持つ竹刀袋の先端は、熊の顔をデフォルメしたキルト製カバーで覆われている。相手の少女はすれちがう最後の瞬間に、明確な意図をもって歩幅を広げる。大きな動作で振り戻された右腕から滑るように短刀が出現し、それは鞭のしなりをもって驚異的な速度で跳ね上がる。キルト製の熊が口を開け、咆哮する。一つ目の斬撃が小さな弧を描いて手首を切り飛ばす。一撃目の勢いをそのまま重力方向へ預け、身を沈めながら予の少女が回転する。一瞬、風をはらんで腰巻きの布襞がふくらむ。陣営の内幕を垣間見、烈々と闘魂を燃え立たせた軍団兵は予の身体をわずかに浮上させる。その上昇は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。先ほどより高い位置から画面をのぞき込む予の視界で、鋭い踏み込みからなされた二つ目の斬撃が、最初より大きな弧を描いて相手少女の左耳下部を通過する。キルト製の熊が口を閉じ、鍔鳴りが高く響く。小さな円と大きな円から成る二つの斬撃は、完全に一連の動作として繰り出されている。加えて、予の優秀な子飼いの機能をもってしても刀身を残像にしか確認できないほど速い。
 霊柩車から飛び降りた女性局員へ、予の少女は学生鞄からパスケースを取りだし、許可証を提示する。老眼に目を細めつつ顔写真を確認すると、パスケースを叩きつけるように投げ返す。運転席には恐ろしく似通った容貌をした、しかし別の女性局員が座っており、やくざに無線をつかむと、清掃局独特の符丁で少女殺人発生の旨を短く通達する。女性局員は大股に歩み寄ると、漆喰壁に刺さった手首を短刀ごと引き抜く。続いて泣き別れの胴体を車の下から引きずり出すと、足を掴んで粉砕器へと投げ込む。回転を始めた巨大ブレードはめりめりと音を立てて、迅速な焼却を目的に、すべてを細切れへと分解する。もう一方の女性局員はホースを腋の下へ固定し、大通りへ向けて放水を開始する。舗装道路へ濃く広がった赤い染みは、たちまち希釈されて下水口へと流れてゆく。
 何ひとつ大事は無かったかのように、予の少女は大通りを消失点の彼方へと遠ざかってゆかんとする。予はその最後の後ろ姿を逃すまいと映像の倍率を高めるが、そこへ茶色い頭部が突き刺さった。それはちょうどコロンブスが卵を立てたのと同じ手段で逆さに屹立したため、飛び散る黄身と白身――修辞的には――がひどくレンズを濡らす。その顔面は半月と半月を未就学児が戯れに貼りあわせたようにもはや完全な球から遠く、左右の瞳が向ける視線を延長したとして同じ物体の上には永遠に交わらないであろうと思われる。予の視界はたちまち沈下する。その下降は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。歩み寄ってきた女性局員は見下すような一瞥を予に与えると、突き刺さった頭部を片手でわしづかみにし、ハンドボールの要領で粉砕器へと投げ入れたのである。