ところで、このトラペゾヘドロンを見てくれ、どう思う? すごく……輝いてます……小鳥猊下であるッ!
クトゥルフ神話の良さって、何をおいても固有名詞の発するワクワク感にあると思う。nWoという物語は大不評頓挫中であるが、そんな私が今いちばん欲しいのは文章力でもアイデア力でもなく、間違いなくこの固有名詞ワクワク力である。背景とか全然知らないけど、フジウルクォイグムンズハーとか、イクナグンニスススズとかを、いつかネイティブの発音で実際に聞いてみたいものである。
なぜ唐突にこんな話を始めたかと言えば、ギャラクティカがどうしてこんなに私にとって面白いのかを考えたとき、失われた故郷である地球を目指すという設定に古い記憶を刺激されているせいではないかと考えたからだ。この筋立ての原型、オリジナルは私にとって東京創元社ゲームブック、デュマレスト・サーガである。2巻の終わりで主人公がついに地球の座標を発見してからというもの、かれこれ25年ほど続きを待っているが、未だに刊行の気配さえない。その未消化感を満たしてくれているからこそ、ギャラクティカがこんなにもグッとくるのではないかと分析している。どうやらこのシリーズには原作があるようだが、個人的には「巨大コンピュータの謎」と「惑星不時着」のアール・デュマレストこそが本家本元なのだ。まさに江戸の敵を長崎で討つそんな最中に、ゲームブックつながりでクトゥルフ系のそれを連想したが故の、唐突な冒頭の話題ふりであった。
おい、早くその球形のひっかかりのついた先細りのトラペゾヘドロンをしまえよ! しまえったら! えっ、トラペゾヘドロンってもしかしてそういう? 小鳥猊下でした。
マーカーに更新されていく世界人口。そうか、我々が滅びるとき、残された人類の数はホワイトボード上でカウントダウンされるのか。
世紀末覇王ディズニーの歩む、比類なき王道。
一点の曇りさえ無いその有様には、「ハア? 180キロの速球を投げられんのに、なんでチンケな変化球とやらを覚える必要があんだ? いらねえよ、小細工はよ!」などと、スキンヘッドに刺青の大男がパツパツのタンクトップで後ろから耳元に囁きかけるのが、聞こえてくるようですらある(幻聴です)。
西洋のミュージカルは、日本の歌舞伎に相当すると考える。観客席の御見物の視線はカメラの機能を持たないから、演技側の過剰な強調によってカメラ的演出が行われる点が共通しているからだ。あらかじめカメラ的演出を持っている映画芸術にミュージカルを落とし込むことは、ストーリーテリングと歌唱パートの尺のアンバランスが理由で失敗するケースが多いように思う。この意味では、一般に評価の高いレ・ミゼラブルも失敗していたと感じている。成功したミュージカル映画は、例外なく通常の映画の枠を外れた長い尺で構成されていることに気づくと思う。先に挙げた2つの要素の避けがたいアンバランスを、できる限り薄めるためだ。本作では、驚くべきことに1時間40分強という短い尺でありながら、極限までテンポを高めた演出とキャラの表情、そして台詞でストーリーテリング部分を圧縮するという力業を用い、ミュージカル映画の持つその欠点を克服してのけた。正直、この類の物語のビルドアップ部分は日本昔話の例をあげるまでもなく定型化されており、今回のディズニーのやり方は新たなテンプレートとして定着する革新でさえあるかもしれない。
一点の不安さえ無いその様子には、「ハア? 格闘技? 減量して弱くなってんだろ? なのに、どこがチャンピオンなんだ? わかんねえ、そりゃ小人の見世物小屋の間違いだろ!」などと、黒人の大男がトランクス一丁の馬乗りで耳元に囁きかけてくる重みを我が腰に感じるようでさえある(幻覚です)。
しかしながら、ラプンツェルのときにも指摘した毒を新生ディズニーは依然としてはらんでおり、今回は兄弟姉妹間に存在する双方向でありながら、たぶんに一方的な葛藤がそれに該当する。スタッフロールの後、悪役にまで救済を用意するディズニーが、エルサにだけは身内の愛だけで我慢することを強いて、「国イコール家族」のために奉仕する残りの人生を喜びとして受け止めるよう洗脳する。無邪気にこの映画を礼賛するのはおそらく次男か次女であり、老老介護に疲弊した長男や家族が理由で婚期を逃した長女は、きっと砂を噛むような読後感で劇場を後にすることであろう。
質問:ガッチャマンクラウズはどう思いますか?
回答:うむ? 私への質問はweb拍手ではなくアスクエフエムを通してもらえるとありがたい。まあよい、先のSF愛好家ディスを受けての質問かもしれないが、Huluに入っていたのでクルセイダー育成の傍ら視聴した。結論として、このアニメは3つの点でダメだ。
一つ目は別にガッチャマンで無くても成立するところ、二つ目はセリフ回しが汚いところだ。若手の脚本家が「これが、今の……俺らの、リアルなんスよ……!!」とかつぶやきながら書いてそうだ。悪役から学生から政府高官から、登場人物すべての自意識がこの汚いセリフ回しのレベルに統一されており、長くは見ていられないぐらいだ。
なに? 海外で人気あるんスよ? それは翻訳の過程でセリフの汚れが脱臭されたことが主な理由だろう。なに? 3つ目がありませんだと? あれで三つの理由だったんだよ。おれたちゃ数学があんまり得意じゃないのさ。ここじゃあな。
前作とは比べものにならないほどの予算や大物俳優を有しながら、ここまでダメな映画にできるってどないやねん。
タイトルとなった宇宙ステーションは申し訳程度の短い描写しかなく、物語の大半が第9地区のセットをそのまま持ってきたのかと疑わせる、スラム街での小競り合いに終始する。アフリカで難民となったキャットフード好きのエイリアンとか、低予算を逆手にとった前作の設定は、おそらくブレードランナー以降で示された中でもかなりユニークなSF的世界観だったように思う。
ひるがえって、本作は何も新しいアイデアを持っておらず、伏線の欠如した場面と場面をそれらしく貼り合わせるだけの、致命的に構成の下手な監督であることを露呈してしまった。ストーリーは行き当たりばったりの支離滅裂、伝えたいメッセージは何もなく、かろうじて撮りたい設定やギミックだけが先行してあり、それらさえも二作目にして老大家の如き自己模倣が始まっている。もうびっくりするほど、褒めるべきところが見当たらない。特にステーション内の通路に桜だか梅だかを配置した戦闘シーンには、これを新しいと思っているのだろう監督の自意識と圧倒的なセンスの無さが鼻について、即座に視聴を止めようかと思ったぐらいだ。
あれっ、登場人物の感情の動きを含めて、映画を構成するあらゆる要素が設定に隷属させられてるのって、最近どっかで見たなー、どこだっけなーと思ってたら、エヴァQだった。
あ、あれっ? 聖典・ファミコン探偵倶楽部を引き合いにしてまで期待感を表明した同シリーズの開幕だったのが、わずか二巻の打ち切り的大駆け足で終わってしまったことへ、ある種の失望を覚えている。
しかも、村を焼き払い、登場人物を皆殺しにし、あらゆるタブーに触れつくす終盤の大カタストロフは、キャラクターの意志ではなく作者の自我に色濃く支配された悪い方の予定調和だった。キャラクターや世界の設定だけは非常に細かく書き込んでおきながら、最後は人類滅亡で皆殺しみたいな乱雑さに、私にも君にも覚えがあるところの学生時代の黒歴史的な創作ノート感がすごくある。
鈴木先生は教師視点から学校を描くというアイデアが、ともすればエログロ方向へ傾きがちな悪癖をなんとか最後まで抑えこんだ、奇跡のバランスに立脚したがゆえの快作だったんだなと、読了後に半ば呆然としながら思った。なので、ループタイの男を登場させるバイオレンスジャック的クロスオーバーは、どちらの作品にとってもよいやり方ではなかったな、と感じた。
ハンターハンター連載再開の第一話を読む。こちらが用意したあらゆる予想をことごとく裏切り、かつそれが邪道ではないという凄さに感動を覚える。例えば、エヴァQが予想を斜め下方向に裏切る、視聴側の予想を外すことだけが目的の大邪道だったのに対して、本作の変わらぬ王道感は素晴らしい。レベルの低い創作は、アマチュアの心をざわめかせる。オリジナルと二次創作の違いが薄まり続ける中で、つまりはプロとアマチュアの差が縮まりづつける中で、ゆるぎない本物のプロが存在することに安堵する。ハンターハンターを読むとき、私は決して敵わない何かへ素直に頭を垂れることができる喜びに、いつも深い安らぎを覚えるのだ。
それにしても不思議な漫画である。週刊少年ジャンプに連載されているにも関わらず、もはや少年漫画ではない。かといって、青年向けの漫画ではさらにない。例えるなら、四角いゴムボタンの初代ファミコンが独自進化を遂げ続けた結果、いつかプレステ4を凌駕してしまったみたいな面白さだ。確かな作家性にそれは担保されており、少しでも似ている作品を現在の市場に見つけ出すことはできない。とりあえず、暗黒大陸編(?)の終了までは生きていたいと素直に思った。
ギャラクティカの記事を追ううち、エヴァQ制作陣が同作品の記念イベントに出席しているのを発見し、またぞろ次作に対してイヤな予感が高まっている。未登場の旧キャラが残存する人類を集めた統一政府の大統領になっていたり、ネルフのメンバーは機械化やクローン化ですでにサイロンと近いような存在になっていたり、ヴィレの新キャラに二重スパイが紛れこんでいたり、今作舞台の地球は実は偽物で宇宙のどこかにある本物を見つけるための探索行に旅立ったり、裏切り者の主人公が突然「アイアムアンインストゥルメントオブゴッド」とか言い出したり、最後は奇形の箱舟戦艦が太陽にとびこんで人類が救われたりしそうだ。公開当時の感想にも書いたが、Qをパラレルのバッドエンド側として処理し、次回はトゥルーエンド側の急プラス最終作を公開する以外、まっとうな収集をつけることはできないのではないか。
ああ、冨樫先生なら! 冨樫先生ならこんな地べたを這うシロウトの妄言に一瞥さえ与えず、はるか上空を軽々と飛び越えていってくれるのに!
俺屍2プレイ中。前作もそうだったが、ウィザードリィ世代直撃、いったんゲームを開始すると数時間はフッとぶほどの時間泥棒ぶりなので、できるだけ電源を入れないよう努めている。細部にまで神経の通ったゲーム性の手触りが、抜群に心地いい。そして、ストーリーも含めてゲーム全体を周辺状況込みで俯瞰するとき、とたん本作は狂王の試練場というよりコズミック・フォージの様相を呈し始め、狂気クリエイター更新への意欲を久しぶりにかきたてられるぐらい、面白い。
赤の他人の屍を幾度も越えてクリアに至ったところの、小鳥猊下であるッ! ゲームに作家性を求めてしまうみたいな話を前にしたことあると思うんだけど、アタシほら、テキストサイト界隈のレジェンドだから、テキストに作家性を求めちゃうのよね。
例の続編だけどさ、特にイベントパートでさ、明らかに違う人がセリフ書いてんの。指定の文字数を埋めるだけが目的みたいな、精の薄いテキストが書かれてんの。アタシってほら、2ちゃんねるの前から存在してる、日本のインターネットの生ける伝説だからさ、文章の密度とか艶とかでだれが書いたかなんてすぐにはっきりわかんだね。自動生成ダンジョンがウリになのに、ラストに近づくにつれてぜんぶコピペの一本道になってって、なんか全体的に納期に追われてむりくり完成させたみたいな突貫工事感ただよってんの。
今回、一見さん向けにストーリー重視みたくなってんだけど、場面場面に整合性が無くて、なんか精神に疾患のあるキャラが自作自演した、統合失調みたいなシナリオなのよね。感情を知らない宇宙人がロジックで地球人の行動を推測したら、ぜんぜん違ってました、みたいな。赤の他人も「うるさい、黙れ!」しか言わなくて、おいおい、オマエがちゃんと話を聞いてやるだけで今回の件はもっと早い段階で収束したんじゃねーのって。
あれっ、大人がちゃんと子どもと話をしてたら起こらなかった、本質的に不要のできごとが中心に置かれたストーリーって最近なんかあったなー、なんだったかなーと思ってたら、エヴァQだった。
それと、エンディング後のおまけで一族全員が主題歌に合わせて左から右に行進していくみたいなのがあるんだけど、同じ顔で同じ衣服で同じ名前の部外者が何度も何度も現れるのがあんまりシュールで笑った。いや、むしろ笑えない。
どんなベテランも自分の創作物への距離感を正しく保つのは難しいんだな、と思った。
世代の特徴と言うべきなのだろうか。某SF漫画を遅ればせに読んで、考えた。憎悪で膨らんだ世界観が愛で救済されるときの鼻白みと腰砕け、憎悪が漂白されれば残された解答はまるで宗教のようになり、宗教のようになれば語るべきは失われ、自壊あるいは拡散して物語自体が消滅してゆく。宇宙と対峙しながら、個人の内面へとその極大を押し込める。文化と歴史を前提としないからこそ、愛が憎悪を救済できるのだ。
それに気づいたとき、小生思わず悶絶し、深く反省をした。完全に全き状態を到達地点に想定する、その錯誤は虚構の中にしかあり得ないと気づいたのだ。特定の人間関係の中で特定の課題へ繰り返し取り組むことは、個人の中のある部分を助長し、ある部分をより深く所与命題に適合するようたわめ、そして確実に必要ないがゆえに消滅してしまう人格の部分を持つということである。その失われる部分が悲しい口惜しいというのは、人間であることをどこかで拒否しているということだ。私が更新も無いままサイトを閉じようとせぬのも、変わりゆく自分への悲しみゆえなのかも知れない。
しかしそれは一種の引きこもり的錯誤なのだ。繁忙期も過ぎつつあるし、そろそろ次をお見せしたい。いわば人外の獣がする同族殺しへの悲鳴である。
団塊の世代の子育ては大失敗。ゆえに女は父を求めて不倫をし、男は母を求めて二次元に耽溺する。女は父とファックしたいが、男は母とファックしたくないからだ。負け犬、おたく、認知症、カテゴライズが無限のグラデーションを喪失させ、カテゴライズが作り出した壁は無限に並列するカーストを形成し、階級間の移動を完全に不可能にする。エクセル状の伸縮するセルが我々の住処、少子化の悲惨極まるこの裏舞台、悲劇を連鎖を望まぬ無感情で申し上げる、社会評論家の諸君はうんこを食べなさい。コーンの入ったうんこを食べなさい。精子だけを要求される男たちがなぜ勃起できると信じられるのか。かてて加えて、配給会社は高所から白痴の群れへ骨付き肉を投げる傲慢さで、計算しつくされた原題へ外国語風人造言語を上書きする。人として、最低限の知性さえ疑われた我々は、銀幕やDVDのパッケージに刻印されたそれを前にして絶望するしかない。
チルドレンオブメン、上記の理由から消極的におすすめです。