猫を起こさないように
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映画「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」感想

「オカンがな、さいきん映画みたんやけど、タイトルが思いだされへんゆうねん」
「ほうほう、ほんなら、どんな内容かボクにゆうてみ」
「オカンがゆうにはな、主人公が車から落ちる話やったらしいねん」
「そんなもん、さいきん公開された映画で主人公が車から落ちる話ゆうたら、怪物に決まりやないか! 男と女でつくるフツウの家族の話を母親から聞いてたら、おホモだちのヨリくんからケイタイに着信があって、主人公は衝動的に助手席からとびおりてまうのよ。そら、怪物で決まりや、まちがいない!」
「でもな、オカンがゆうにはな、主人公はずっと車から落ちそうやねんけど、最後は落ちへんゆうねん」
「だったら、怪物とちゃうかー」
「オカンがゆうにはな、その車ゆうのがトゥクトゥクやったらしいねん」
「そら、インディ・ジョーンズと運命のダイヤルやないか! インディは三輪タクシーの運転中、ナチの残党とかにおそわれて、首ねっこつかまれたりなぐられたり撃たれたりするけど、壁とか障害物にぶつかる寸前で腹筋したりエビ反りしたり回転したりして、ぜーんぶかわして運転席にもどってくるのよ。インディが乗り物から落ちることだけは、ぜったいにないのよ。こらもう、インディ・ジョーンズで決まりや、まちがいない!」
「でもな、オカンがゆうにはな、主人公はゲイやってゆうねん」
「ほな、インディ・ジョーンズちゃうやないか! インディはゴリゴリのヘテロで奥さんも息子もいるのよ。インディがゲイなんてことは、シリーズ作品のどれを見てもありえないのよ」
「オトンがゆうにはな、スーパーマリオブラザーズちゃうかゆうねん」
「うそこくな、ファック野郎。だが、ワンチャンあるかもだ。もうええわ、ありがとうございました」

 インディ・ジョーンズ「と」運命のダイヤル、愛マックスで見る。事前情報をいっさい入れずにいたら、冒頭でディズニーとルーカスフィルムのロゴが現れ、イヤな予感は一気に最高潮へとたかまりました。結論から言いますと、本作にはスターウォーズ・シークエルの反省が充分に生かされており、最後のジェダイのようなひどい有様とはなりませんでした。まず、1969年を舞台とするストーリーを語るのに、2023年の倫理観を持ちこまなかったのは、最良の判断だったと賞賛すべきでしょう。公衆の面前で酒を飲みまくり、屋内でタバコをふかしまくり、顔面をグーで音高く殴打し、黒人女を躊躇なく射殺し、悪党のナチスは皆殺しにし、同性愛者はひとりも登場しないーーもう清々しいばかりの割り切りぶりです。場面転換の際の編集やアクションパートの尺など、ヘタクソだったりバランスの悪かったりする面は多々ありますが、全体としてスピルバーグが撮影・編集したと言われても不自然には感じないレベルでの、模倣と擬態が行われています。

 さらに特筆すべきは、ディズニーがSNSを通じた市場調査を徹底的に行なった結晶である、足元さえおぼつかない80歳のハリソン・フォードに代わって物語を駆動する役割を与えられた、フィービー・ウォーラー扮する「おもしれー女」a.k.a.エレナ・ショーの存在です。詐称、捏造、淫蕩、詐欺、虚言、飲酒、暴力、喫煙、友人を亡くして意気消沈のインディを前にゲラゲラと悪魔のように哄笑しながら自らの手柄をまくしたてる天然のサイコパス、生まれながらのdamn thief、「この人物であわよくば続編を」の色気さえ廃した最高のアンチ・ヒロインであり、ここまでマイナスに突き抜けさせないと、SNS優位の時代においては好感度なるものが上昇に転じないのは、心胆を寒からしめる事態であると言えましょう。ストーリーの最後に奇想天外の大オチを持ってくるのは当シリーズの伝統ですが、前作では宇宙人とUFOの実在をビジュアルで提示してしまい、旧3部作のファンに総スカンを食ったのは記憶に新しいーーえ、もう15年前なの? マジで?ーーところですが、本作における大オチもそれに負けず劣らず荒唐無稽なのに、インディ・ジョーンズというキャラクターの造詣から逆算した中身であり、思わず彼の心情につりこまれて涙ぐんでしまうような、感動的なものとなっています。そして、インディと古くからの観客とのシンクロニシティによるその感動を、「おもしれー女」が暴力的に蹂躙していくところまでがセットになってて、「ディズニー、ふっきれてんなあ」と、逆に感心させられました。

 個人的には、冒頭の列車と序盤のカーチェイスをもっと短くした上で、例の場所から帰還するシークエンスを追加して、上映時間を2時間前後に収めれば完璧な続編になったと思いますが、世界的なブロックバスター(古い表現)には星の数ほど批判が向けられるのが宿命なのだと言えましょう。初代インディ・ジョーンズの登場が決定的なものとした「考古学アドベンチャー」というジャンルに対して、その偉大な先達の後継者となるべく、古くはハムナプトラやナショナルトレジャー、最近では実写版アンチャーテッドなど、様々な追随の試みがなされてきました。しかし、グーグル社のカメラが全地表から全海底までを覆いつくし、ダイバーシティの御旗の下に打倒すべき悪は地上から消滅し、「どこを冒険して、何と戦うのか」を設定するのが極めて困難な現代において、そのいずれもがいまや頓挫を余儀なくされています。本作において、半世紀も前のずっとシンプルな世界でインディ・ジョーンズが活躍するのを、最新の映像であるにも関わらず、郷愁にも似た気持ちでなつかしく眺めながら、どこか一抹のさみしさを禁じえませんでした。

 最後に、いま行われている戦争の終結から10年ほどの冷却期間を経たのち、新たに戦うべき「絶対悪」を得た次世代のインディ・ジョーンズが再び銀幕(古い表現)へと登場するだろうことを予言しておきます。それまでは、ネットフリックスなどによるマスターキートンの実写ドラマ化で、我々の「考古学アドベンチャー」への渇きが満たされることを、半ば本気で期待しております。

映画「アナと雪の女王2」感想

 え、これ劇場で上映されたの? 本国ではスター・ウォーズのホリデー・スペシャルみたいな扱いで、テレビ放映のみで円盤は発売されてないんですよね? くだくだしい脚本とこみいった台詞に加えて、映画芸術を真っ向から否定した時系列のリニアーすぎる展開にガックリ。CGクオリティの低い部分も散見され、前作の高い完成度に比して蛇足としか形容しようがない後日譚に仕上がっている。

 ところで先日、国営放送にて「若おかみは小学生!」が地上波初放映されたが、家名や地域共同体にからめとられている既婚女性(憶測)が、少女に世界の命運を背負わせることへ性的な興奮をおぼえるフリークス野郎だけが肯定する、グロテスク極まる作品だと口汚くののしっておられるのが目に入ってしまった。関心を得たい一心でノトーに同作品への高い評価を再公開してしまったフリークス野郎a.k.a.薄汚いおたく代表であるところの小生は背筋が寒くなり、キンタマーー失礼、ゴールデンボールズーーがきゅっと収縮した次第である。しかしながら、社会現象となった前作「アナ雪」の感想においては、家と公への隷属を長女に対して強要しているのが物語の瑕疵だと指摘できていたので、織子たんの萌え萌えなキャラデザインに目をくらまされたこのキモオタをどうかゆるしてほしい。

 本作のラストで意中の男性と結婚して家督を継ぐことになった妹(低学歴の肉欲)が姉(高学歴で知的)を王国から放逐し、ウォールデンばりの森の生活を強いたことで、エルサの扱いがぞんざいである印象は強められ、長男長女たちにとってのソレジャナイ感を高める結果になったことをとても残念に思う。映画産業のような「虚業」に就くことをゆるされるのは、家に対して責任のない次男次女以下であることが多いからの結末ではないかと疑わせるぐらいの、ほとんど憎しみさえ感じるぞんざいぶりだった。

 あと、近年のデ銭さんに顕著な現実への逆張りーー女性と有色人種を持ち上げるために男性と白人をディスるなどの手法ーーには、そろそろみんな気づいているので、やめたほうがいいと思いました。乾いた軟便にスチームを当ててるみたいで、すごく臭いますよ。

映画「トイストーリー4」感想

 上映時間が100分なんだけど、エンドロールが10分弱として、80分くらいまではとても楽しく見ていたのね。新しいキャラクターたちも魅力的だし、このシリーズでなくてはならない新しいアイデアもある。なので、昔からのファンに向けた、かつてのアイドルたちによるカムバック公演、一夜限りのお祭りムービーだと思ってたわけ、80分くらいまでは。それが最後の最後で唐突に、作品の根幹に関わるデリケートな部分へ、デ銭の野郎がベロで湿らせた毛むくじゃらの指を突っ込んで、愛撫を始めたわけよ。そしてキラキラしてたアイドルたちが別人みたいに豹変して、舞台上でアンアン悶えだしたのを見せられる気持ち、わかる? スター・ウォーズ8といい、いまのデ銭からは「挿入すれば俺のもの」みたいな、薄汚い男根的商業主義をしか感じない。ああ、怒りにかられて同じレベルに堕してしまった。汚された心を浄化するために、前作を見たときに書いた感想を引用しておく。

 『本当に大切なものだから、だれかが汚さないうちに終わらせる。子どもの目には夢の国、大人の胸には死の気配。どこも壊していないのに、ほら、もう何の足し引きもできなくなった。己が代換品であることを知りながら、なお生きなければならないあなたへ送る、数少ない本物のマイルストーン。』

映画「アナと雪の女王」感想

 世紀末覇王ディズニーの歩む、比類なき王道。

 一点の曇りさえ無いその有様には、「ハア? 180キロの速球を投げられんのに、なんでチンケな変化球とやらを覚える必要があんだ? いらねえよ、小細工はよ!」などと、スキンヘッドに刺青の大男がパツパツのタンクトップで後ろから耳元に囁きかけるのが、聞こえてくるようですらある(幻聴です)。

 西洋のミュージカルは、日本の歌舞伎に相当すると考える。観客席の御見物の視線はカメラの機能を持たないから、演技側の過剰な強調によってカメラ的演出が行われる点が共通しているからだ。あらかじめカメラ的演出を持っている映画芸術にミュージカルを落とし込むことは、ストーリーテリングと歌唱パートの尺のアンバランスが理由で失敗するケースが多いように思う。この意味では、一般に評価の高いレ・ミゼラブルも失敗していたと感じている。成功したミュージカル映画は、例外なく通常の映画の枠を外れた長い尺で構成されていることに気づくと思う。先に挙げた2つの要素の避けがたいアンバランスを、できる限り薄めるためだ。本作では、驚くべきことに1時間40分強という短い尺でありながら、極限までテンポを高めた演出とキャラの表情、そして台詞でストーリーテリング部分を圧縮するという力業を用い、ミュージカル映画の持つその欠点を克服してのけた。正直、この類の物語のビルドアップ部分は日本昔話の例をあげるまでもなく定型化されており、今回のディズニーのやり方は新たなテンプレートとして定着する革新でさえあるかもしれない。

 一点の不安さえ無いその様子には、「ハア? 格闘技? 減量して弱くなってんだろ? なのに、どこがチャンピオンなんだ? わかんねえ、そりゃ小人の見世物小屋の間違いだろ!」などと、黒人の大男がトランクス一丁の馬乗りで耳元に囁きかけてくる重みを我が腰に感じるようでさえある(幻覚です)。

 しかしながら、ラプンツェルのときにも指摘した毒を新生ディズニーは依然としてはらんでおり、今回は兄弟姉妹間に存在する双方向でありながら、たぶんに一方的な葛藤がそれに該当する。スタッフロールの後、悪役にまで救済を用意するディズニーが、エルサにだけは身内の愛だけで我慢することを強いて、「国イコール家族」のために奉仕する残りの人生を喜びとして受け止めるよう洗脳する。無邪気にこの映画を礼賛するのはおそらく次男か次女であり、老老介護に疲弊した長男や家族が理由で婚期を逃した長女は、きっと砂を噛むような読後感で劇場を後にすることであろう。