猫を起こさないように
ロスジェネ
ロスジェネ

雑文「ルンペン的生活者の手記」

 ノトーの運営がまたぞろルンペンの記事でフレイミングしておるようだが、「スマホでnWo!」は過去サイトと比べても相当に読みやすく、提供されているフォーマットには感謝しきりである。そして、通勤や出張の合間にどこへも届かなかった作品をノトー上で読み返すことは、うらさびしくも楽しい時間だ。

 さて、自己選択的ルンペンなる概念については、特にロスジェネ世代が過敏に反応しているように見受ける。それは戦場の如き歳月ーー才覚と努力だけでは、生き残るのに充分ではない苛烈な環境ーーを過ごした経験から、いま現在の立ち場がいかほどであろうと、我々全員の社会的自認が「特別に運の良かったルンペン」にとどまるからだろう。私は生き残った方のルンペンだが、私の額をねらって放たれたはずの弾丸が逸れ、周囲の同胞を殺し貫くのを何度も何度も見てきた。なぜ私が死ななかったかを説明するのに、自身の能力を挙げることだけは絶対にないと言える。つまり私が生き残った理由は、運が良かったか、神に選ばれているかのいずれかというわけだ。小鳥猊下なるを構成する卑屈と諦念と高慢と自己愛は、まさにこういった時代背景によって形作られてきたのである。ゆえに、ちんぽおめこを連呼する躁の汚濁と、少女保護特区の終幕のような鬱の清浄は、私の中でまったく矛盾しておらず、両者は常に行き来する場所なのである。

 先日、移動の合間を使って5年ぶりぐらいにMMGF!を読了した。巧拙はおくとして、書かれている中身のあまりの偽りのなさに涙がこぼれた。同時に、これを繰り返せば技術の向上は見込めるのだろうが、この内容でダメだったなら私が私である限りは、もう何をどうやっても仕方がないとも感じた。高慢と自己愛から転落したその卑屈と諦念は、アイドルとセックスワーカーの隣接にも似ており、現代的な病理の形象化がすなわちキング・ルンペン・小鳥猊下の正体なのだろう。

 いやー、ルンペンに言及した文章だけでなく、こんなルンペンが書いた文章まで分けへだてなく掲載してくれて、ありがとう! ひと昔前なら、駅や公園の便所壁に記述するしかなかったわけだから! 弥栄、弥栄、ノトー運営の未来に栄えあれ!

忘備録「ロスジェネについて」(2013.12)

 ああ、またこの世代の犯行だったか、という感じ。ぼくたちの小中学生時代はインターネットが存在せず、ゆえに左の教育の純粋な効果が最も期待できた時代だった。ぼくたちは意味もわからず汗を軽蔑し、土からは遠く切り離されたまま、ファミコンのドットの群れに世界を見ていた。

 その暖かな楽土へ、当時はだれもそれとは知らなかった第一次就職氷河期がやってくる。社会に回収されない個人が多く野へ撒かれたのが、ちょうどこの時期だ。そしてぼくたちは、数少ない優れたクリエイターや、均衡を失った多くのキチガイになった。汗は牛馬に所属し、土を不浄とみなすようずっと教えられてきていたし、何より最悪なことに、大学生のときにエヴァンゲリオンの本放送があった。いや、大真面目だ。

 余談だけれど、90年代後半のテキストサイト管理者は、そんな社会に回収されないアウトローか、その予備軍である学生がほとんどを占めていたように思う。一昔前のアマチュアバンドに例えれば、有名テキストサイトがインディーズレーベルだとすれば、エロゲーライターになることはメジャーデビューする、みたいな感じだった。そう、エロゲー制作が最高にクールで、ワルくて、ゴッドな一時期は確かに存在した。いま、ぼくがそれを感じることはない。

 閑話休題。今回の事件は規模こそ違えど、マーク・チャップマンを描いたチャプター27的であり、また手前味噌を言わせてもらえば、極めて高天原勃津矢的である。護送車に乗せられるときカメラに向けた彼の表情は、目をキラキラさせた満面の笑顔だった。長い長い無視の不遇を経て、ようやく社会に見つけてもらえたこと、そしていま正にこの瞬間、世界の焦点が自分の上にあることが、嬉しくてしょうがなかったのだろう。ぼくに不機嫌にテレビを切らせたのは、まちがいなく同族嫌悪と呼ばれる感情だった。憎しみと自己愛の種子はかように広く深く撒かれており、これが最後の一人だとは、ぼくにはとうてい思えない。

 ぼくたちは、虫のようにたくさんいる。そしてぼくたちは、虫のように人の悪徳を実感できず、ただその種子を萌芽させないことに人生の多くを費やしている。

漫画「ピコピコ少年1巻」感想、あるいはファミコンの記憶

 タラムイーン、アズ・ノウン・アズ貴様ら陸貝どもの粘液トラック、あるいは排泄痕を日々薄目で眺める情強の俺様は、いま話題のピコピコ少年とやらをキンドルでサクッとダウンロードし、ビジネスにつきものである移動中の無聊を慰めるべく閲覧してみた。

 唐突に話はそれるが、電子書籍にキンドルと名づける欧米人のセンスはすさまじい。これすなわち「焚書」の意であり、貴様ら有肺類にもわかりいいよう例えるなら、エロゲーを円盤メディアからフリーにする大統一ハードにカストレート、これすなわち「去勢」と名前をつけるような感じだ。すさまじい。

 作者とは、おそらく同世代に近いと思う。土地とゲームの固有名詞こそ違えど、驚くほど似たような少年時代を過ごしてきた。言ってみれば、ここ半世紀ほどで最もクソみたいな時代をだ。ちょうど地方の大家族で居場所を失った次女・次男坊以下が、故郷から放逐される形で都市へと出て、核家族化していった最初の世代の子どもだからだ。父親は週6日午前様で働いて日祝は得意先とゴルフ、母親は会社のヒエラルキーを日常にそのまま移した社宅での人間関係に神経をすり減らし、子どもへの教育を考えたところで、商業高卒の若妻に将来への明確なビジョンなどは求めるべくも無い。そんな弱みをゆすられての押し売り上等、クーリングオフの存在しない時代の訪問販売に馬鹿高い百科事典などを買わされて、ただただ泣き寝入りの末、子どもへ怒鳴り散らすみたいな、クソみたいな日々。

 教育的な定観が無いものだから、ファミコンが流行れば近所で仲間はずれにされては大変とすぐさま買い与える。大人の感情、時々の気分に支配される毎日を過ごしてきた子どもが、人生で初めて入力に間をおかず答えを返す存在、一貫したその世界観に依存し、深く耽溺していくのは理の当然だった。得手ではない教育、好きではない我が子から逃避するために出かけるパートタイム・ジョブでの長い不在が、その傾向を加速させる。気がつけば、ファミコン漬けの子どもの一丁あがりだ。子どもを黙らせる良質のベビーシッター、その恩恵を得ていたにも関わらず、たちまち手のひらを返したように始まるゲームへの非難。何が良いか、何を大切にすべきか、何が正しいかを示すのではない、すでに存在する何か、起こってしまった何かを理屈抜きで否定することが、核家族の教育方針である。

 もちろん、彼らにも同情の余地はある。家名と血脈の存続という自明の命題を取り上げられているのだから。食って排泄して性交する以上の何かがなければ、人は生きていけない。男たちは残らず社畜と化すことで偽りの命題を得たが、女たちは我が子のゲーム狂いを否定することしか残されていなかった。教育観もなく、人生観もなく、世界観もない。なぜならそれらは一家一族に一つだけ継承されていく無形の何かだからだ。そこから切り離された個人はどう狂おうと、どう野垂れ死のうと、だれも省みることはない。ただ、犯罪だけがその例外だ。

 いろいろとしゃべったが、本作から「あの頃ゲームがなければ、死んでいたかもしれない」という一文さえ引用すれば、何の説明も必要ない。あの時代を過不足なく回顧する、素晴らしいフレーズだと思う。一筋の灯りも無い暗闇を手探りで生き延びた者たちの、偽らざる実感がここに込められている。

 えー、先ほどの内容はマット・デイモンがカウンセリングのカウチに横たわって早口でしゃべっていたと考えて下さい。

映画「チルドレン・オブ・メン」感想

 団塊の世代の子育ては大失敗。ゆえに女は父を求めて不倫をし、男は母を求めて二次元に耽溺する。女は父とファックしたいが、男は母とファックしたくないからだ。負け犬、おたく、認知症、カテゴライズが無限のグラデーションを喪失させ、カテゴライズが作り出した壁は無限に並列するカーストを形成し、階級間の移動を完全に不可能にする。エクセル状の伸縮するセルが我々の住処、少子化の悲惨極まるこの裏舞台、悲劇を連鎖を望まぬ無感情で申し上げる、社会評論家の諸君はうんこを食べなさい。コーンの入ったうんこを食べなさい。精子だけを要求される男たちがなぜ勃起できると信じられるのか。かてて加えて、配給会社は高所から白痴の群れへ骨付き肉を投げる傲慢さで、計算しつくされた原題へ外国語風人造言語を上書きする。人として、最低限の知性さえ疑われた我々は、銀幕やDVDのパッケージに刻印されたそれを前にして絶望するしかない。

 チルドレンオブメン、上記の理由から消極的におすすめです。

漫画「プラネテス4巻」感想

 世代の特徴と言うべきなのだろうか。某SF漫画を遅ればせに読んで、考えた。憎悪で膨らんだ世界観が愛で救済されるときの鼻白みと腰砕け、憎悪が漂白されれば残された解答はまるで宗教のようになり、宗教のようになれば語るべきは失われ、自壊あるいは拡散して物語自体が消滅してゆく。宇宙と対峙しながら、個人の内面へとその極大を押し込める。文化と歴史を前提としないからこそ、愛が憎悪を救済できるのだ。

 それに気づいたとき、小生思わず悶絶し、深く反省をした。完全に全き状態を到達地点に想定する、その錯誤は虚構の中にしかあり得ないと気づいたのだ。特定の人間関係の中で特定の課題へ繰り返し取り組むことは、個人の中のある部分を助長し、ある部分をより深く所与命題に適合するようたわめ、そして確実に必要ないがゆえに消滅してしまう人格の部分を持つということである。その失われる部分が悲しい口惜しいというのは、人間であることをどこかで拒否しているということだ。私が更新も無いままサイトを閉じようとせぬのも、変わりゆく自分への悲しみゆえなのかも知れない。

 しかしそれは一種の引きこもり的錯誤なのだ。繁忙期も過ぎつつあるし、そろそろ次をお見せしたい。いわば人外の獣がする同族殺しへの悲鳴である。