猫を起こさないように
少女保護特区
少女保護特区

少女保護特区(1)

    おぼえておいて。一羽の鳥が砂を一粒一粒、大海原を越えて運ぶとするでしょ。
    砂を全部、向こう岸に運び終わったところで、やっと永遠が始まるのよ。
    まあ、それはそれとして、鼻をかんだら。  (カポーティ『冷血』 )
 奈良全体は、四つの部分に分かれていて、その一つには教育特区があり、もう一つには平城特区があり、三つめには、土地の人の言葉でポントチョウとよばれ、行政的にはただ鋳物特区とだけよばれる刀匠の居住地帯がある。京都のそれとは全く関係を持たない。特区内で最も人口の集中する「日本刀町」の名が人口に膾炙してゆくうち、自然と音声面での脱落を生じた結果と思われる。四つめは、青少年育成特区である。しかし、土地の人で公文書上のこの呼び名を使うものは、ほとんどいない。この地域は一般に、少女保護特区の俗称でよばれる。
 この四つの特区はお互いに異なった制度と特例措置をもっている。教育特区は名物無き県の無形品目を有形化するために、平城特区は天災無き県の歴史遺物を人災から保護するために、それぞれ大和川水系ならびに淀川水系とちょうど重なる行政単位の上に成立している。次に鋳物特区について、区全体がポントチョウの名で代替されるほど刃物の生産に傾倒してゆく過程には、少女保護特区へ隣接する地勢が人心へ大きく影響したとの推測が成り立つ。なぜなら特区内で許可証を得た少女は、異性というより同性に対する身の安全から、即座に武器をつかむ必要に迫られるからである。ここ五年に清掃局が公表した統計を参照すれば、許可証の発行から武器の確保までに死傷される少女の数が年を追って増え続けているのがわかるはずである。鋳物特区は新宮川水系、青少年育成特区は紀の川水系に位置する。
 わずかの米粒が、白濁した液体にふつふつと上下する。予が炊事の煙を目で追えば、上空を旋回するヘリの操縦者があわただしく無線機をつかむのが見える。町内に点在するスピーカーからは、サイレンの音が肉食獣のうなりのように低く長くしぼり出される。予は自分自身に出立を指令すると、橋の下の陣営へ輜重を残したまま、ビデオカメラを片手に大和川の浅瀬をかちわたり現場へと急行する。半刻の行軍の先に、身の丈の半分ほどもある鉄門扉を押し開き、まさに路上へ足を踏み出さんとする予の少女と遭遇を果たす。ちょうどビデオカメラの射程内にまで接近すると、何より視線を避けるため、予は自分自身に大地へと身を伏すよう号令を下す。たちまち左上にRECの赤い明滅を伴った視界は低くなる。風雨の状況によっては、予の少女が腰巻きにする布襞の内幕を暴露せん危険な位置である。予の軍団兵はたちまち闘魂たくましく猛りたったが、まだ時は来ておらぬと諫め、闘魂は内側へ燃やしたまま静かに待機するよう伝令をとばす。
 予の少女が大通りへと進発する。鳴り響くサイレンの音階が、一段階高くなる。町内報には決して記載されず、町議会での議題となることもないが、まぎれもない少女警報である。町内に徘徊する少女が一定数を越えたときに発令される。予はここに特区法の機能不全と人間世界の不実とを浮き彫りに見る。近隣の飼犬たちはあからさまな敵意を燃やし吠えたてる。ゴミあさりの猫は毛を逆立てると後も見ずに走り去る。青洟を垂らして街路に立つ少年をその母親が横抱きにして家へと連れ帰る。通勤途中の背広男は大きくひとつ震えると、視線の位置を悟られないようにサングラスをはめ、外套の襟をそばだて、命を運にまかせ南無三と駅へ駆け出す。民家の朝顔は小学生の観察日記を逆回しに見るように、しおしおと蕾へ返る。見慣れた朝の、緊迫した光景である。
 予は両腕で全身を引き上げるようにして、じりじりと這い進む。兜で防護した頭部の隙間から極度の緊張による大汗が頬を滴り、迷彩を溶かしながら大地へと垂れる。少女たちの発する熱気だろう、灼熱化した舗装道路の上へ色彩だけを残して、汗は瞬時に蒸発する。南北へ走る大通りはなだらかな傾斜を描いており、丘の上に作られた住宅街という地勢上、南へ向かうにつれてその勾配はますます深まっていく。油断なくビデオカメラを低く構える予の視界に引かれた地平は、立ち上る熱気にゆらいでいる。やがてそこから茶色い固まりがせり上がって来る。この距離では正体を確かめようもなく、予はただ手をこまねいて待つ以外の戦術を採用できぬ。やがて茶色い固まりは地平線から浮上を開始し、息詰まる数分の後、ついには人の形を成すに至る。見間違いようもない、少女である。安い染髪料に加え、継続的には手入れが施されなかったのだろう頭髪は、茶と赤と黒がまだらに混在しており、だらしなく開いた服の襟元は本来の白とは遠い垢じみた黄に変色している。最大公約数の受け手を想定し控えめに表現したとして、一斗缶を満たした弛めの排泄物を頭から行水したようにしか見えぬ。胸元や腹部から垣間見える肌は、予の軍団兵の闘魂をいつも烈々と燃え立たせる少女本来の質感からは、はるか遠い。たくし上げられた腰巻きの短さは、その布が本来持っていた文化的な定義を失うほど短く、風速というよりは単純に角度のみで陣営の内側に蓄えた具材を予に提供しそうなほどである。
 ひるがえって予の少女を言えば、すべての特性においてただ対極にあると指摘するだけでよい。二人の少女は相手を頓着せず道の端を歩み、まさにすれ違わんとする。予の動悸は爆発的に高まる。なぜなら、少女同士の邂逅がお互いへ無事な結果を残すということは、ありえないからである。顎と左肩で保持された携帯電話へ注がれる大きな音量と小さな語彙の発話が、人気の失せた大通りへ耳障りに響きわたる。その醜態を避けるため予の少女へとビデオカメラを振りむけようとして、予はある決定的な違和感を抱くに至る。先ほども述べたように、相手の腰巻きはその陣営内へ我々を深く誘い込む陽動の如く、しかし全く充分ではない粗雑さで仕上げられているのだが、それに反して上半身を覆う衣類はと言えば、これ手首にまで及び、特に右袖の布地はひどくすり切れている。暗示的にゆるめられたその袖口は、とても防寒の役目を果たしそうにはない。学習用具の不在が平らにしたのだろう革鞄を持つ左手首の袖口は、対照的に強く引き締められている。低い視界からのぞく画面を横切るように、陣風が丸まった紙くずを転がしてゆく。二人の少女の影は、まさに重ならんとする。
 さて、ここで奈良のみならず国土全体を覆う特区制度の根本について、若干の説明を加えておくことは、あながち意味の無いこととも思われないのである。Full Faith and Credit shall be given in each State to the public Acts, Records, and judicial Proceedings of every other State.「各州は、他州の法令、記録および司法上の手続きに対して十分の信頼および信用を与えなくてはならない」。合衆国憲法第四条第一節の引用である。特区制度の根幹は、米国の州制度と極めて近い。すなわち、特区内の法律に照らして下された決定事項の有効性は、当該の特区内に限定されず、他の特区においてさえ留保されるのである。先に述べた鋳物特区の隆盛は、人体を殺傷できる刃物の購入に所持証明を申請する必要がないという点の寄与するところ大であろう。特区設立の当初、たちまちやくざ者や、思春期の世迷い言に目の据わった少年たちが押しかけたが、彼らは依然、殺傷することをまで法を越えて許されてはいない。報道番組に他人事の悲痛を楽しませることはあれ、社会秩序を根本的に擾乱する存在ではありえない。特区制度導入の最黎明期であり、特区法の雛形となった合衆国憲法第四条第一節が、我が人民の持つ固有の性質と混郁した場合の結果を誰も予想しきれなかったとはいえ、青少年育成特区から少女たちへ認められる特権の莫大さは群を抜いている。特区内法の整備は各自治体の首長に預けられる部分が大きく、故に追試を行うものは誰もいなかったのではないかと推測できる。そして後に、我が人民特有の、根拠の希薄な相互信頼が産みだした結果に、誰もが青ざめることになるのである。
 大通りの向こうから、こげ茶色に塗装された大型車がやってくる。公式にはランブラーと呼ばれ、土地の人は陰で霊柩車と呼ぶ。清掃車と消防車を組み合わせたような奇妙なそのフォルムは、実のところ与えられた目的と完全に合致している。逐一破片を取り除くより、大量の水で洗い流してしまう方がはるかに効率的なケースも多いからである。カラーリングの起源については諸説あるが、付着した血液が渇いたときに目立ちにくいという説が最も理に適うところではないか。屋根部分に据えられた手すり付きの足場には、妙齢と称すべきだがそのじつ高齢の女性局員が手ぐすねを引いて待ちかまえる。無数のカーラーが埋まり更にネットで固定された紫の頭髪と、湿布薬の欠片が未だ生々しく残るこめかみは、この召集がいかに緊急のものだったかを予へ語りかける。その視線は老眼に厳しく細められ、まさに歴戦の古強者といった風情である。この仕事は一般に不名誉なものとされるが、その高給のためだろう、少女たちとの邂逅へ想像逞しくする夢見がちな無職青年の志願は後を絶たない。しかし、最初の出動を終えての離職率は9割を越えるとの調査がある。詳しい理由は不明だが、どの地域においてもやがて妙齢で高齢の女性が構成メンバーのほとんどを占めるようになるという。
 予が清掃局の車両に目を奪われた一瞬のうちに、すべては始まり、終わる。相手の少女が平手を打つように右手を跳ね上げる。予の少女が一瞬、上体を沈めるのが見える。何かが陽光を反射させる。腰巻きの布襞が風をはらんで膨らむ。鋭い金属音、潰したゴムホースの先端からするような水音がわずかな間をおいて連続する。両者の身体はいつの間にか入れ替わり、予の少女はすでに血煙の向こうにいる。茶色い頭髪に覆われた左耳の下から水平に血が噴き出している。その勢いで身体をよろめかせ、縁石に足をとられて車道へとまさに転倒せんとするところへ、乗用車が猛然と走りこむ。運転席の男はきつく目をつぶり、ただアクセルを踏み込むばかりで、眼前の障害物に気づかない。少女警報のただ中、車を走らせる必要に迫られた自暴自棄は、あながち首肯できない理由ではない。速度と続く衝撃に千切れた首は、フロントガラスの角度によって真上へと高く跳ね上げられ、主人を失った胴体は布襞をタイヤへと引き込まれながら、人の形を崩壊させる過程で前輪をロックさせる。制動を失った車はたちまち対向車線へと流れ、電柱に激突する。予が目視で確認できたのは以上であり、これより記述することは、予の優秀な子飼いであるビデオカメラに提供させたスロー再生機能で知ったのである。
 予の少女が通学鞄と共に捧げ持つ竹刀袋の先端は、熊の顔をデフォルメしたキルト製カバーで覆われている。相手の少女はすれちがう最後の瞬間に、明確な意図をもって歩幅を広げる。大きな動作で振り戻された右腕から滑るように短刀が出現し、それは鞭のしなりをもって驚異的な速度で跳ね上がる。キルト製の熊が口を開け、咆哮する。一つ目の斬撃が小さな弧を描いて手首を切り飛ばす。一撃目の勢いをそのまま重力方向へ預け、身を沈めながら予の少女が回転する。一瞬、風をはらんで腰巻きの布襞がふくらむ。陣営の内幕を垣間見、烈々と闘魂を燃え立たせた軍団兵は予の身体をわずかに浮上させる。その上昇は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。先ほどより高い位置から画面をのぞき込む予の視界で、鋭い踏み込みからなされた二つ目の斬撃が、最初より大きな弧を描いて相手少女の左耳下部を通過する。キルト製の熊が口を閉じ、鍔鳴りが高く響く。小さな円と大きな円から成る二つの斬撃は、完全に一連の動作として繰り出されている。加えて、予の優秀な子飼いの機能をもってしても刀身を残像にしか確認できないほど速い。
 霊柩車から飛び降りた女性局員へ、予の少女は学生鞄からパスケースを取りだし、許可証を提示する。老眼に目を細めつつ顔写真を確認すると、パスケースを叩きつけるように投げ返す。運転席には恐ろしく似通った容貌をした、しかし別の女性局員が座っており、やくざに無線をつかむと、清掃局独特の符丁で少女殺人発生の旨を短く通達する。女性局員は大股に歩み寄ると、漆喰壁に刺さった手首を短刀ごと引き抜く。続いて泣き別れの胴体を車の下から引きずり出すと、足を掴んで粉砕器へと投げ込む。回転を始めた巨大ブレードはめりめりと音を立てて、迅速な焼却を目的に、すべてを細切れへと分解する。もう一方の女性局員はホースを腋の下へ固定し、大通りへ向けて放水を開始する。舗装道路へ濃く広がった赤い染みは、たちまち希釈されて下水口へと流れてゆく。
 何ひとつ大事は無かったかのように、予の少女は大通りを消失点の彼方へと遠ざかってゆかんとする。予はその最後の後ろ姿を逃すまいと映像の倍率を高めるが、そこへ茶色い頭部が突き刺さった。それはちょうどコロンブスが卵を立てたのと同じ手段で逆さに屹立したため、飛び散る黄身と白身――修辞的には――がひどくレンズを濡らす。その顔面は半月と半月を未就学児が戯れに貼りあわせたようにもはや完全な球から遠く、左右の瞳が向ける視線を延長したとして同じ物体の上には永遠に交わらないであろうと思われる。予の視界はたちまち沈下する。その下降は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。歩み寄ってきた女性局員は見下すような一瞥を予に与えると、突き刺さった頭部を片手でわしづかみにし、ハンドボールの要領で粉砕器へと投げ入れたのである。

少女保護特区(2)

 後の歴史が断じるどのような悪政も、誰かの善意から志向されたことを予は疑わない。かの青少年育成特区でさえ、有効な対策の無い少女への略取行為の抑止となることが、その当初の目的であったのだ。ここに一枚の許可証がある。すでに持ち主は死亡しており、彼女の死は当局によって公的にも追認されているため、もはやそれが与えていた特権は失効している。山中深くで行われた少女殺人に立ち会った際、清掃局の到着前に予が資料として私的に接収したものである。一見して運転免許証と見まがうが、所持者に与えられる権限は全くその外見と乖離している。青少年育成特区のホームページに記載されていた「復讐において生じたあらゆる結果を合法とする」という文言は削除され、現在では閲覧することができない。だがそれは、文言が表現していた実体の消失までを意味しないのである。
 許可証の右肩には、3×4センチの写真が貼付されている。少女の前髪は目許まで垂れ、薄く青白い唇と相まって持ち主の印象を乏しくしている。写真の下には、Avenger Licenceと英文字で朱書きされている。はなはだ正確性に疑問符の付く英語だが、発案者が青春時代に少年漫画を愛好していたのだろうことだけはうかがえる。氏名、誕生日、本籍地、住所、交付年月日の記載が並び、続いて条件等の項目が来る。そこには、「少女である限り有効」と金地に白抜きされている。青少年育成特区はまず女子の保護を優先したのだが、男子へ許可証が発行される機会はついになかった。あの大混乱を経た後、各自治体の首長たちはすでに、例えば痴女に貞操を奪われる際の精神的外傷がいかほど深いかについて議論を尽くす気力を失っていたのである。
 特区の設立からほどなく県下で発見された身元不明の死体が、少女による復讐の結果であることが判明し、県議会は揺れに揺れた。当該特区の首長たちのみに求められていた善処も、少女殺人が県境を越えるに及び、焦点であった許可証の文言を適切に採用したのが誰かは特定されないまま、国会へと舞台は移される。少女の定義を巡って議事堂で繰り広げられた痴態は、年月というよりはその衝撃ゆえに、市民たちの記憶に新しいところだろう。普段は表明が許されず、よって相対化されることも標準化されることもない各人の性癖と異性への偏見をすべての議員が公の最たる場へ生のまま開帳したのだから、無責任に徹することを決めれば、これほど面白い見せ物は無かったはずである。
 ほとんど土俗イニシエーション的とさえ言える答弁を除けば、少女の定義はほぼ二つへと集約された。当人のみによる賛同しか得られなかった少数派の意見だが、その多様さは議会の過半数を占有したほどである。民主主義はビザールを圧殺しえないことの証左として、また当時の空気から遠く離れて読む受け手の理解への一助として、行われた無数の答弁から一つを引用する。「マネキンの頭部を糸鋸で切開し、トマトで煮込んだ獣肉で満たす。その後、切開した頭部を元のように封じる。少しでも汁気が漏れないよう、ビニールテープで成されることが望ましい。その後、マネキンの頭部を粉砕する。漬け物石か庭石が、入手の点では簡便でよいだろう。その際、鶏の羽根を黒く染色したものを外套に張りつけ、鳥に扮装することが望ましい。その後、飛び散った獣肉のうち、地面に落ちたものだけをかき集める。付着した塵埃は洗浄されるべきではない。その後、食した獣肉が排泄されるのを目視できたなら、少女を成熟した社会の構成員として認めるべきである。食餌と排便は、薬品による睡眠や殴打による昏睡など無意識のうちに始められ、意識を取り戻した段階で無理矢理嚥下、排泄せしめられるのが望ましい」。
 先に述べた二大勢力とは、初潮を少女の終わりとする月経派と、処女喪失を少女の終わりとする破瓜派――タカ派のイントネーションで――である。日々の議論のうちに少数派は押しやられ、やがて超党派の両勢力が議事堂を席巻してゆく。世に言う血の七日間の幕開けである。少女の声を持つ年齢詐称の声優がするラジオ電波、いやラジオで電波を延々と答弁に代えた末、係官からの退去を演台を抱きかかえて拒んだり、演台を拳で殴打しながら男女の性差について宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、義務教育年齢の女子が奔放な姿態を露わにする本邦でのみ公開可能な冊子を実物投影機で開帳したり、実物投影機を馬乗りにして全議員へ具材を強要しながら宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、猥褻ゲームのポスターを掲げながら現実に少女はいないと宣言したり、馬乗りに具材を押しつけた腺病質の顔面へ拳がめりこむほど殴打を加えながら宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、国営放送の画面には断続的に、しかし総計すれば一日八時間以上に渡って野山の静止画が映し出された。倫理は小声の謝罪か極小の囲み記事がすべて引き受ければよいとばかり、あらゆる報道は一斉に加熱を極める。すべての良識が自制を失った当時の狂騒ぶりを忍ばせるできごとを紹介したい。理性ではなく感情に訴える、全体主義統制下の政策報道官の如き言辞に得々とするニュースキャスターが、「これだけ国民を騒がせておきながら、直腸性交に関する議論が全く行われないという一種異様な事態があるわけですが、そこのところどうでしょう」と発言する。コメントを求められた、クオリティペーパーを以て任ずる大手新聞社の編集局長は、生放送の最中にもかかわらず完全に絶句した。また、その新聞社と関西圏のみに販売経路を持つ夕刊専門誌の一面が、スーツの下を脱がされて議事堂内を逃げ回る男性議員の写真を同一日に一面で掲載する。フォントの種類や大きさの違いはあれ、どちらも見出しに「お粗末」と書かれた。両紙の持つ品格の違いは、モザイクの濃淡にのみ帰せられたのである。
 破瓜派の優勢は一時ゆるぎないものに思われた。なぜなら当時の与党の国対委員長、老利数寄衛門が強力な破瓜推進派だったからである。しかし、その構図は最終局面を目前に逆転することとなった。運命の夜、老利は料亭を出たところで待ちかまえていた記者団に取り囲まれる。月経か破瓜かと詰め寄る記者たちに対し、道端で手毬遊びをしているおかっぱの少女を指さして、「あのように愛らしさの中にも凛とした清冽さが同居できるのは、両足の間に膜がぴんと張って心棒の役割を果たしているからである。もし膜を喪失してしまえば”しなをつくる”の言葉どおり、身体の中心は張りを失って蛸のようになる。それはそれで別の趣を持つが、あの少女のような清冽な美しさはもはや望めないだろう。世には陰毛論争もあるそうだが、それは論点をはき違えている。生えてしまっては割れ目が見えないではないか。割れ目だけに筋の通らぬ話である」と発言する。軽妙な冗談に爆笑する記者団の傍らで、少女は浮かぬ顔のまま、「どうか許して欲しい。騙すつもりはなかった。私はあなたに言わせれば、少女とは呼べない。なぜなら、この花はすでに望まぬ形で散らされてしまっているからである」と返答する。とたん老利は多くのカメラが取り囲む衆人環視の最中、潮吹きのように両の眼球から涙を噴出させると、少女の足元へ我と我が身を投げ出し、宣言した。「きみは少女である。誰が何と言おうと、この老利がきみを少女にしてみせよう」と。老利数寄衛門が破瓜派から月経派に転じた瞬間である。この映像は不作為の大スクープとなり、政治史上もっとも劇的な思想転向として語り継がれることになった。後の世に言う、老利の変である。
 だが、すでに大勢は破瓜へと傾いている。この大物の転向も趨勢を完全にくつがえすことは適わなかった。依然として発生し続ける少女殺人に決断を促される形で、両勢力は妥協案を採択することとなる。膣内よりの流血を第三者が観測した段階を少女の終わりとするという、玉虫色の折衷案に猛反発が巻き起こった。いわく鉄棒で股間を強打した場合はどうなるのか。いわく一輪車で股間を強打した場合はどうなるのか。いわく挿入式の生理器具が誤動作を起こしたらどうなるのか。しかし時すでに遅く、様々の矛盾を孕みながら少女の定義に関する法案は、野次と怒号の中で可決されたのだった。次いで少女喪失観測者の国家資格が新設され、出血の量に始まってその粘度と間隔に至る細部が文言として整備される。手順の煩雑さもさることながら、青少年を性的略取とその二次被害から守るという特区の理念が優先されたゆえに、少女の終わりは本人からの申し出が無ければ審議の対象とはならなかった。実質上の骨抜きである。ゆえに、少女であることを生きたまま失効した者は、現在に至るまでただ一名を数えるのみである。権利の放棄を手続きする手順とは正反対に、許可証の発行は極めて簡略化されている。戸籍抄本を用意すれば、残る要件は唯一「異性からの略取行為」であり、さらに口頭による申告ですべての手続きを完了できた。一時期、AvengerLiscenceの発行数は爆発的な増加をみる。どれほどの冤罪がこの数を裏で支えたのか、もはや確認するすべはない。炭坑のカナリヤとして常に狩られる側の立場にあった少女たちが、初めて他者に対する真の優越を得たのである。この至上の楽園さえも、しかし長くは続かなかった。結果の価値とは、過程において手に入るものだと予は考える。卓に満載された皿を前に自足しろというのは傲慢であり、パンの固まりを片手に自足しろというのは欺瞞であろう。特区の理念はたちまちに適えられたが、その無窮の位置で周囲を見回した少女たちは、鏡写しの自分自身を発見したのである。少女に与えられた特権を奪えるのは少女だけであり、彼女たちの持つ特権の膨大さは望むと望まざるに関わらず、すべての介入と救済を拒絶した。
 少女の定義が確定したとき、予が人間世界にとって何者であるかという定義は未だ確定していなかった。予は高等遊民として、俗世から離れた生活を自身に強いていたのである。労働が予の純粋さをわずらわすことを好まなかったからだ。睡眠と覚醒へ好きなように時間を配分し、数十年程度の強度をしか保てぬ凡百の常識を超越した場所で、予はときに何時間も飽かず自由な思索をくゆらせたものだ。市民たちの嘆息ぐらいは、歴史的な視点から人間世界の実像を俯瞰する予にとって、何の痛痒でもなかった。日々は素晴らしい気づきと変革に満ちており、予は人間精神の広がりの無限を喜んだ。予の生活においての惰性は、ペットボトルに蓄えたし尿を二階の窓から庭の木々へ撒く日課を除くならば、絶無であった。獲物へ跳びかかる肉食獣の筋肉に漲る一瞬の静止の如く、来る大事に備え、予は極めて創造的な雌伏の日々を過ごしていた。無論、遠大なる高邁はしばしば近視眼の低俗に、容易な非難の口実を与えてしまうものである。だが、何の実利や栄誉を得ることなく果てるとして、それが予の貴族精神による選択の末ならば、恥じるべき理由はどこにもない。予の主人は、予以外にあり得ぬ。この確信を誰かに証明するべきだという強迫は他ならぬ相対化の罠であり、予の無謬はあまりに市民の生来と離れていたので、悲しいかな、予の本質を貶める以外の伝達は不可能だと言えた。
 寒い日だったことは覚えている。自室に長く寝そべって食事を口へ運びながら、天気予報と同程度の頻度でなされる少女殺人についての報道を眺めていた。法の庇護を享受しただけであるのに、ほとんど指名手配犯のように並ぶ少女たちの顔写真の一つに予は目を留める。突如、長らく抱き続けてきた脳髄の外へは決して共有され得ぬはずの予の観念が、現世へと受肉したのである。予は数年ぶりで自室の扉を開くと居間へ駆け下り、炬燵を囲むように蝟集する市民たちへ少女観察員となることを誇らかに宣言する。しばらくぶりの発声に予の言葉はくぐもったが、それは予の言葉を少しも汚しはしなかった。あれほど明白な確信の様を理解できず、うろたえるしか知らなかった市民たちは、今では予を恐れて彼らの城門を予の前に閉ざし続けている。少女観察員の概念は当時、予の内側にのみ存在していた。しかし、巨大掲示板での熱心な匿名討論の末、予の克己はあらゆる政治的な誹謗と中傷を乗り越えるに至る。少女観察員は当たり前の選択肢として、すでに一定の社会的承認を得た職業と考えてよいと思われる。実際、少女同士の対決を撮影した映像は、役場や大学など実地の検証を常に求める公的機関へ提出すれば、いくばくかの謝礼金と交換することができた。また、ネット上にパスワードをかけて配信すると、ダウンロードの権利を求める市民たちは後を絶たない。もちろん、先の清掃局員が予に投げたような不条理を浴す機会も少なくはない。しかし、あらゆる理解と援助をただ克己により拒絶した上で、精神力と実行力の極限を自身に問い続ける少女観察員は、名誉ある職業と予によばれている。

少女保護特区(3)

 最後尾に接続された木製の有蓋車が、地鳴りと鉄の軋みをあげてホームへと滑り込む。耳障りなその残響も収まらぬうち、巨大な体躯に制服を歪曲させた三人の鉄道職員が異様な俊敏さで互いの位置を入れ替えながら駆けて来、太い鎖で厳重に封印された鉄扉にとりつく。一人が赤子の頭部ほどもある巨大な錠前へ鍵を差し込み、内部の仕掛けを利用してというよりはむしろ握力によってそれを回す。残った二人が制服の縫製を漲る筋肉で引き裂きながら、顔面を紅潮させて扉を横へ引く。露わになった肩口に血管が浮き、にじむ汗が爬虫類の質感を赤銅色の肌へ生じさせる。均衡が作り出す完全な静止を越えて、溝に浮いた赤錆をこそげ落としながら鉄扉がじりじりと滑り始める。わずかの隙間から、人間が身をよじるようにして続々と降りてくる。どこまでいっても男しかいない。その衣類は一様に暗い色調で、ちょうど台所に生息する例の昆虫が家具の隙間から出現したような錯覚を、嫌悪感と共に与える眺めである。ホームが鋼鉄の間仕切りで分けられ、それぞれから別々の出口へと階段が続いているのは、万一にも少女と男性が遭遇しないようにとの配慮からだ。当初は単に金網が引かれていたのだが、局所のみを金網の隙間へ通過させる者が続出し、微弱な電流を流す対策を施したところ、局所のみを金網に通過させる者が逆に増加するという陰惨な経緯があった。当局の、高度に政治的な判断を求められる決断だった。
 鉄扉が完全に開放されると、精神を崩壊した焦点の無い瞳でホームに蝟集する男たちが、意志というよりは眼前にある状況に促されて、幽鬼の如く空の車両へと吸い込まれていく。この有蓋車こそが、青少年育成特区の生み出した副産物のひとつ、男性専用車両である。異臭に耐えて一歩足を踏み入れれば、劇的な大気の変化は組成自体に及んでいるかのように感じられる。この世界に偏在する特殊な磁力を持つ場、その境界を踏み越えたときの悪寒や霊感を与える変容は、正に異界や結界の類である。入り口付近の床は光に四角く切り取られ、清掃の手間をはぶくためだろうか、干し草が敷き詰められているのが見える。その表面は黄から茶への階調で濡れ濡れと照っており、生理的嫌悪と直結する何らかの成分を大量に吸い取っているようだ。干し草に含まれた微生物とそれとの発酵現象に、なま暖かな白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。明かりの届かぬ先は黒く塗りつぶされ、狭いはずの車内は広所恐怖を感じさせるほどの莫大な空間へと変じていた。かような劣悪の環境を、なぜ男たちは移動手段として甘受するのか。人として堅守すべき尊厳が藁の上へ臭気を伴って遺棄されるとしてさえ、少女警報の頻繁な公道に乗用車を走らせること、あるいはかちゆくことに比べれば、目的地へ到着するのに少なくとも命だけは伴うことができるからである。
 鉄と鉄が擦れる不快な軋みが獣の断末魔の如く響き、乗客たちの背後にがちり、と錠前の閉じる音がすると、窓の無い車内は完全な暗黒に包まれた。慣性の存在により、接続された電動客車が牽引を始めたのをかろうじて知ることができる。やがて、天井付近に人魂と形容したいような灯りが浮かぶ。その、不定期に明滅を繰り返しながら揺れる裸電球が唯一の光源であり、ぼんやりと浮かんではまた闇へと消える視界は、脳波への負の影響を心配させる。座席と呼べるものはかつての残骸がわずかに散見されるのみであり、家畜のように詰め込まれた男たちは苛立った様子で身体を前後へ揺すったり、足を踏みつけられては怒声を挙げたりしている。自立することを放棄し生存を疑わせる脱力で漂うものもいるが、倒れる心配だけはないほどの乗車率である。
 背後から強く押された一人が、肩越しに不快げな視線を投げる。その瞳孔がたちまち驚愕に収縮し、ひゅっと小さく息を呑むのが聞こえる。急なカーブにさしかかり、車両が大きく傾ぐ。裸電球が焦げるような音を立てて消えると、永遠のような漆黒が視界を満たした。流れる車内放送は、停電程度の不便をことさらに詫びる欺瞞には気づかぬふりである。古いスピーカと車掌の胴間声の相乗効果で音声は割れに割れており、「茂吉の猫、死ぬべし」という台詞を、構成する最小の音素群に分解してさらに濁点をつけ、日本語ノンネイティヴのする抑揚で読み上げたように聞こえた。再び焦げるような音を立てて、裸電球に光が戻る。少女の、床の間に置かれた由来の知れぬ日本人形のような無表情が、男の前にあった。特定の数字や単語が、日常をただ通過するだけの膨大な情報群から、ほとんど意味を伴った連続であるかのように浮き上がる錯覚が存在する。無意識の執着がその検索を可能にするのだが、このとき、物理的にも列車の走行音を圧するほど大きかったはずのない「少女だ」というつぶやきに呼応して、車内にみっしりと詰め込まれた男たちが、群衆を表現した低予算のCGを思わせる動きで一斉に振り返った。どの顔にも光源の影響による陰影とばかりは言えない恐怖と――何より、抑えきれぬ欲望がにじんでいる。立錐の余地など元より無かったはずの車内に、少女が背にする鉄扉を直径とした半円がたちまち形成された。
 青少年育成特区において、少女から与えられる死とは、有機体としての終焉に止まらない。人の死は情報を残すがゆえに、動物のそれとは一線を画す。だが、少女に殺された者はその聖別を奪われ、畜生道へと墜ちるのである。古代の記録抹殺刑、尊厳死の定義する状態を真逆にしたものが少女と関わった者のたどる末路なのだ。死亡届は受理されず、戸籍は焼却され、火葬の許可が得られぬ死体は川を流れ、山に白骨化する。我が社会において、その影響市民生活に甚大なれど、少女殺人は公的には存在しないというパラドクスである。人と人との関係性が命の喪失に際して生じることを仮定するならば、究極の社会性は殺人であり、究極の反社会性は自殺であると定義できよう。意識的にせよ、無意識的にせよ、行為にこめた意味のすべてを社会に無化された少女たちの多くは、自らの始末へ同じ手段を選ぶこととなった。もし同等の権利が与えられれば予はどうふるまったかを想像するとき、予の胸中をどよもす少女たちへの感情は同情に近い。しかしこれは、発信の源をたどれぬ行為は存在せず、よって法を度外視するならば救済に値しない人間は存在しないという、予の信念から見た一方的な感傷に過ぎぬこともわかる。実際、この災厄を得た者たちの親族は予の見方には全く同意せぬだろう。それどころか、具現化した精神上の疾患を見るが如き反応を予へ示すに違いないのである。理解へ到達することが不可能な人と人との関係というものは疑いなく存在し、そこへ妥協点を見いだすことが政治と言えるが、少女観察員という予の立場から試みることができる営為はそれとははるか遠い。そして、例え予に政治が可能であったとして、予はそれをすることを望みはしないだろう。無欠の予にうしろ暗さがあるとすればそれは、予の人生をどれほど延長しても政治には到らないという一点においてである。
 微温的な幻想の理解が消失し、世界に虚無と政治が現出するその瞬間を見ることのできる機会は決して多くない。不幸な若者が、少女を中心とする半円の内側へ押し出される。他の全員を救うための、集団によって選ばれた生け贄である。群衆の一人へ戻ろうと人垣へ突進するも、彼の力では身体ひとつ分の空間を圧倒的な人口密度の中へ作り出すことが適わない。たまらず跳ね返され、床に敷き詰められた藁へ顔面から倒れ込む。口腔内に侵入した汚物を唾と共に吐き出しながら顔を上げれば、発光して見えるほどに白い少女のふくらはぎがそびえており、それらは襞の折られた陣営へと続いていく。その内幕に漂う闇は、若者の周囲にある闇と全く同じものだったが、全く違うものだった。上半身を起こすと、ふくらみが持ち上げた上衣の隙間からのぞく、うおの腹のように湿った濃い白が見える。弱々しく立ち上がった若者の腰が引けているのは、群衆による打撃のせいばかりとはもはや言えなかった。整髪剤で固めた前髪のひと房が、汗のにじむ額へと落ちかかる。頬は痩け、顔に血色は無く、一見すると内向的な書生風だが、その実、戦争などの外的エクスキューズを得ると最も残忍に豹変しそうな容貌だ。若者は、恐怖と絶望と嫌悪と好奇と憧憬と欲情と諦観とが入り交じった、修辞上でのみ無責任に表現可能な表情を浮かべている。その内面には死と性の、嵐のような葛藤が渦巻いているのだ。取り囲む群衆は両手を振り上げ、足を踏みならし、車内はほとんどショウダウンの様相を呈し始める。長い睫毛を伏せ、少女が怯えたように後ずさりする。いまや車内の全員が少女の――あるいは若者の共犯者だった。背後から忍び寄る無数の手が、若者の背中を強く押す。彼は踏みとどまることもできた。しかしその瞬間を恐れると同時に強く望んでもいたため、一瞬、両足に力を込めるのが遅れる。男性の重みを預かり、少女は鉄扉へと押しつけられる。若者の意識は柔らかさと香りにくらんだ。逃れようと身をよじった少女の手の甲が、若者のセクスを撫でる。君は激しく勃起したな、と余人が指摘できるほど身を震わせた後、痛みにも似た放出をした、と表書きされている表情で若者は放出をした。刺激によってというよりはむしろ、自らの置かれた状況に放出したのである。それは分厚な生地越しにさえ、少女の手の甲へ粘液を残すほどの激しい放出だった。長い長い放出の後、若者は膝から床に崩れ落ちる。ハンカチを手の甲に当てながら少女が、駅員を呼んでください、と小さくつぶやくのと、鉄扉が少女の背後で開くのはほぼ同時だった。ホームにはすでに、制服姿の巨漢が阿吽の如く待ちかまえていた。
 近くを列車が通過する度に、ほとんど灯火管制のような深い、幅広の傘に覆われた電球が小刻みに揺れ、待つ者たちそれぞれの不安を象徴するかのように大気を光で攪拌した。やがて、耳障りなじゃりじゃりという音と共に黒電話の受話器が漫画的に跳ね上がる。目深にかぶった制帽のつばが落とす濃い影に視線を消失させられ、ほとんど非人間的に見える制服姿の巨漢が受話器を取り上げ、応答する。短いやりとりの後、通話口を片手で覆うと、申請が受理された旨を少女に伝えた。駅舎に入れられてからというもの、うつむいたまま組んだ両手の親指を見つめるばかりだった若者は、駅員の言葉に促されるように顔を上げる。その表情は、人間が平常に浮かべ得るものの中では笑顔にもっとも近かった。若者の視線の先には、少女が腰掛けている。きつく合わせた膝の上へ、身長ほどもある日本刀を横抱きにする少女の表情は、人間が平常に浮かべ得るものの中では笑顔にもっとも近かった。だが、両者の内面はその実、究極と究極の両端へ乖離しているのだった。少女は陣営の襞を揺らしつつ、日本刀を床に突いてことさらにゆっくり立ち上がると、駅員の方を向いてわずかにおとがいを上下させた。与えられたばかりの権利の行使を肯定したのである。少女の意図を確かに理解したはずの若者の表情は、依然として笑顔のままだった。しかし、彼の足はわずか数分の先に待ちかまえる自己存在の完全な消失を認識したことで、逃走の不可能な距離で腹を空かせた肉食獣と遭遇した草食獣と同じほどに萎えており、社会の規定する新しい人権の中でも最も新しい人権を少女に行使させるためのあらゆる助力を拒絶できない第三者、いまや法に強制された正義がお互いを双子のように似通わせている巨躯の駅員たちが、両脇から支えてやらねば立ち上がることもできないほどである。本能が萎えさせた両足から悟性が若者の大脳へ満ちるには、しかしさらにいくばくかの時間が必要だった。日本刀の柄に手をかける少女を見た若者は、体中の穴という穴から人体に可能なあらゆる粘度の液体を流しに流し、やがて水分を喪失して木乃伊のように収縮してしまう。一方、駅員たちは己れの幇助する権利の正しさへますます膨張肥大してゆき、いまや天井を突かんばかりだ。少女は悠然と日本刀を肩にかつぐと、そのまま重力が鞘を払うにまかせた。鞘の先端が床に触れるのと、刀身が爆発的に右から左へと薙がれるのはほぼ同時だった。その速度は、特定の自意識の持ち主ならば、”疾走”に”る”と送りがなをつけて「はしる」と読ませるほどだったろう。消えた刀身は、瞬間移動のように駅舎の壁に突き刺さった形で出現し、その威力を殺しきれずぶるぶると蠕動していた。このとき、まだ少女の技術は斬撃をあますところなく制御する精妙さには至っていなかったことがうかがえる。刀身の震えがおさまると、駅舎に完全な静寂が訪れる。しかし、それはほんの須臾の時間に過ぎなかった。駅員の上半身が背中の方向へ、ずるりと滑り落ちる。遅れて、切り離された若者の首が、頸動脈からの血流に押し上げられて天井近くまで上昇し、噴水の上に乗ったボールの如く、顔全体を赤く染めながらくるくると向きを変える。やがて血流は弱まり、首はけん玉の要領で頭頂から元の受け皿へと見事に着地した。もし切断された頭部にしばらく意識が残るのだとすれば、若者の視界には天井を歩み去る少女の後ろ姿が見えたに違いない。そして、少女の陣幕が重力の影響を全く受けないのを口惜しく感じたはずである。
 空にはすでに月があった。原色に近い黄色を、霞が覆うような月だ。見上げる少女の右手が、陣営の上から小刻みに太ももを叩いている。そこへ、茶色に塗装された清掃車が猛然と走り込んで来、後輪を激しく滑らせながら半回転すると、駅舎へ横付けになる。車体が停止する暇もあらばこそ、頭髪を紫に染めた妙齢の女性が両腕を組んだまま跳躍し、五輪選手もかくやという月面宙返りを見せて少女の傍らに着地する。その跳躍が、月を背景に横切る文字通りのものだったことは付け加えるまでもないだろう。昂ぶる感情によるものか、高ぶる年齢によるものか、鼻の頭にいっそう皺を寄せる動作から、彼女が視覚というよりはむしろ嗅覚によって敵を発見したことがわかる。大気へかすかに混じる血の匂いを嗅ぎとったのだ。獅子の如き威嚇の表情と、その猛烈な視線を涼しく受け流すと、少女は艶然たる微笑を返した。完璧に抑制されたその微笑の裏に、そのとき本当は少女が何を感じていたのかをうかがうことは、不可能だった。
 以上が、数少ない現場証言と一級の史料に当たって予が再現した、予の少女の――誰もが人生で一度は通るとは限らぬ――殺人の処女性を喪失した事件の全容である。

少女保護特区(4)

 神の摂理とは人の摂理である。人の本質を否定するもの、そこへ疑問符を投げるものが悪と呼ばれてきた。しかし、人の存続を許さぬものが人より生まれ出づるのなら、それはいったい何と呼ばれるべきだろうか。
 汚れた熊の人形を地面に引きずり、夜の街路へ身長を数倍する影を残しながら、一人の女児が歩いている。少女と形容するには、まだいくぶん幼い。街灯の投げる円錐の中へ立ち入ると、女児は立ち止まる。その顔は遠目にわかるほどの青痣を残し、鼻血の跡が両頬へ隈取りのように茶色く凝固している。爪のない素足は泥にまみれ、人形の破れた表面からは中身の綿が飛び出している。女児はほとんど自失しているようだったが、電球へ衝突を繰り返す一匹の蛾を見上げるうち、その瞳は次第に正気を宿し始める。口元がへの字に曲がり、表情は大きく歪む。しかし、にじむ涙がこぼれぬうちに手の甲でぬぐってしまうと、女児は再び歩き始める。
 建て売りの住居が建ち並ぶ夜の住宅街は、どこまで歩いても表情を変えず、まるで終わりのない迷路のようだ。幾度も道を折れるが、どこかにたどり着く様子はない。爪のない素足が運ぶ一歩先だけを見つめていた女児は、何かの気配にうながされて顔を上げる。視線の先にあるのは、向かい合う住宅の狭間に長々と身を横たえた巨大な黒い固まりである。近くに街灯は無く、家々は雨戸を閉め切り、雲間からのぞく月明かりだけが照らす夜の底に、夜の黒より深い黒がその輪郭を際だたせている。かすかに上下する曲線は、それが生きていることを伝えている。二本の筋が曲線の囲む内側に生じ、やがて二つの球形へと転じる。大人たちよりもはるかに鮮烈で曖昧な女児の心に去来するのは、両親が手を振り上げるときの恐ろしい表情と――私を叱るときだけ二人は仲が良いのだと、いつも思う――図書館にある外国の絵本に描かれた、モノクロの深い森である。女児の両親はおそらく、自分たちが娘にしてきたことすべてを忘れたふうに、突きつけられるマイクの列を前に泣くだろう。記者会見で泣き、誰もいないリビングでさえ観客を意識して泣き、そして一定期間は娘のために心を痛めて泣いたのだという事実に、すっかり赦されてしまうに違いない。女児が抱いていた、数年の後には顕在化しただろう漠然としたある気分、自己抑制の外で行われる不条理への負の感情はついに言語化されないまま――この世界のどこにも残されないまま、消滅することになる。
 言語を持たぬ者が力によって圧殺されることだけが、絶望と形容するに足る。千年の視座を持つ予は、鼓膜へわずかに振動を残すだけの時の泡沫には何ら痛手を受けることは無かったし、何より自身を言語化する以前に死を与えられることはなかった。無論、言語化した結果を十全の形で凡人に受容させることは極めて困難である。言語化しきれなかった、あるいは言語化したものを受け止めきれなかった余分は、身体の奥深くへ蜂の一刺しのように残り、その規模の小ささゆえに誰にも原因として指摘されることなく、ついには発症へと至る。しかし、大人たちは破局を回避する準備期間を十分に長く与えられているがゆえに、彼らが直面する事態は絶望というより危機と表現されるべきである。人類はいわばこの、精神の危機と幾千年に渡って格闘し続けてきている。然るべき観察と実行を怠りさえしなければ、救済への道はほとんどマニュアル化されていると断言してよい。だからこそ、鳥や動物や樹々や大地や、声を持たぬ子どもがこの世から消滅することだけが真に絶望と呼べるのである。
 夜の街路に対峙したのは、誰も気づかぬ社会の毒素を蓄積させて真っ先に死ぬ存在とそれを吸い込むことで肥大化してゆく存在との象徴であり、両者は対極にして同一であった。
 熊の人形がアスファルトの上に落ちる。続いて、女児の右手が熊の上に落ちる。女児と熊の手はしっかりとつなぎあわされたままだ。人形が見上げる先に、両脚をつなぐ腰骨の中央から白い棒状の何かをわずか屹立させたオブジェがある。奇怪なその外観は、極めて前衛的な芸術作品と呼べないこともない。女児が最後に見たのは黄色い乱杭歯と、濡れた赤の奥に広がる黒い虚無だった。
 辺りに濃密な鉄錆の匂いがたちこめる。咀嚼音と液体のはねる音が夜の街路に響き、息を潜めたような静寂が惨劇を取り巻く。黒い固まりは皮膜に包まれた液体のようにゆっくりと、縦に長く変形する。濁った重低音が長く鳴り満足げな吐息が続くと、大気は腐乱した肉の臭気に満たされた。
 雲が去り、月は地を照らす。
 一糸まとわぬ巨大な女が、指に付着した液体を舐めている。家々の屋根を真上から睥睨する全長をもってして、それはなお女だった。膝にまで達する両腕を除けば、身体を描く曲線は未だ性徴を際だたせず、ほとんど少女にさえ見える。だが、全身を覆う肌は奇蹄目犀科に属するほ乳類のように硬質化している。
 認可番号AA00001――仁科望美。青少年育成特区最初の少女殺人者。
 彼女は同じ性別のものを好んで食餌とする。若い雌へ潜在的に抱く生物学的優劣に根ざした脅威が、顕在化した死との狭間に名状し難い何かを受胎させ、我々にとっては未知のその衝動が同類たちを殺戮の対象として選択させるのであろう。異様に長く発達した前腕で獲物の両足をすばやく押さえつけ、丸かじりに頭部へ食らいつく。そして、柔らかな腹部から背骨の周囲に付着した肉ごと上半身をこそげとるのである。奇しくも先ほどの獲物のように幼かった頃、彼女が愛好した棒付きアイスを食べるときと同じやり方だった。芸術を意図してというより、過って子宮や精巣を食ってしまわぬためである。それらを食餌とすることは、初潮の訪れを早めてしまうと彼女は強く信じている。実のところ仁科望美の最初の血と澱は、十数年の歳月を経て未だ彼女の体内に万力のような筋肉で閉じこめられているに過ぎない。しかしこの不条理に外部との連絡や整合性を求めることは、全く意味が無い。信念とは、時にこのような形をとるものである。
 予は仁科望美の両目を正面からのぞきこんでなお命を残すという僥倖を得た、数少ない一人である。その両目は頭蓋の眼窩に張り付いた目蓋のせいで、常に眼球本来の球形で見開かれている。金縛りのようなあの数瞬、一秒を数百に分解したその時間は、彼女の身体能力を考慮するならば予を数回は殺すのに十分な長さだった。最初に感じたのは、喉元に溜まった嘔吐である。予に向けられた表情は、確かに微笑みであったと記憶する。もはや唇と呼べぬほど削れた肉の内側へ常にのぞく乱杭歯には、彼女が咀嚼した人体の滓がこびりついているのが見えた。いまなお、彼女の精神は我々の延長線上にあるのだという理解が予に吐き気をもよおさせた。予と同じ経験をするものは、例え明確に言語化できぬにせよ、同じ感慨を抱くはずである。彼女は、蝦や蟹のような甲殻類の感性を世界に対して構築していた。そして、一個の人間が世界に対して甲殻類のような感性を構築し得るという深淵が、見る者の心胆を寒からしめるのである。仁科望美は依然として、人間なのだ。
 いつ彼女がその闇を心に抱いたのか、当局の記録は何も伝えない。役所努めの父親と教員の母親と二つ年上の兄と過ごした十四年間は、決して波乱に富んでいるとは言えない。しかし、少女が最初の合法的な殺人を犯したその日、平穏は終わりを迎えた。一家は、少女殺人者を身内に持ってしまった場合の典型的な転落を歩んでいる。迫害、転居、離散。予が追うことができたのは、そこまでだ。無数にある家々の内側で本当は何が起きているのかを知ることは、部外者へほとんど禁じられている。仁科望美の生家を訪れたが、取りつぶされて更地になっていた。漫画のような土管の上で、二人の子どもが背中合わせに携帯ゲームで遊んでいる。予は眩しさに目を細める。陽光は世界を漂白し、すべては色を失う。
 伸ばした腕の先が見えないほどの闇の中で、ただ草いきれのみが山中にあることを予に告げている。夜の底に訪れる覚醒と続く混乱を、予は樹上から見てとった。仁科望美は腹の減っていない際に、獲物を生きたままねぐらへと連れ帰り、空腹が理性を凌駕するまでその恐怖を弄ぶことがあった。法を超えれば、法の庇護を失う。法を超えた者同士の間にあるのは、生き残った方がその正当性を主張できるという、戦争以前の純然たる暴力だけだ。特区法の理念は少女を異性から完全に隔離したが、少女を少女自身という脅威から保護することはかなわなかったのである。切りそろえられた前髪に顔の半ばまでを隠した少女は、後ろ手に折りたたみ式ナイフを取り出す。刃は仁科望美の爪の先ほども無く、人の崇高と滑稽がそこへ同時に表現されるかのようである。猫が毛玉を弄ぶ仕草の軽い平手で、少女を引き倒しては立ち上がらせる。獣は嬲らない。仁科望美がある種の遊戯として行為を楽しんでいることは傍目に明らかであり、この陰惨な宴の中にあってそれが逆に彼女の人間を証明していると言えた。巨大な掌をかいくぐり、少女は怪物のふくらはぎへナイフを突き立てることに成功する。だが、刃は柄を支点にして直角に折れ曲がっただけである。仁科望美は、あくびに似た動作をした。口腔からはき出される音波が樹々を激しくゆらす。少女はたまらずナイフを取り落とし、両手で外耳を覆った。ゆっくりと持ち上げられた巨大な右手が親指と人差し指の輪を形作る。丸太のような人差し指が恐るべき速度ではじき出され、少女の顎先を通過する。小さな顔が重力方向にぐるりと一回転すると、元通りの位置に静止した。口から蟹を思わせる泡が赤く吹き、少女は糸の切れたように倒れ伏す。仁科望美は立ち上がることのできなくなった獲物の腹部へ足をかけ、羽毛のようにそっと体重をのせる。たちまち少女は二つの肉に分かたれ、人であることをやめた。
 仁科望美が立ち去ってから、優に二時間は樹上で待機したろう。好奇はしきりと予を促したが、予の生来である用心が行動を妨げたのである。生きているものと死んでいるものは、どうしてこんなにも違うのか。少女の口からは、何か赤黒いものが飛び出していた。目深に垂れた前髪がその両目を隠していたことは、予にとって幸いだった。死体と暗闇を共にする恐怖は極めて根源的であったが、何より一種の使命感に促され、予はそれの首からぶらさげられていたAvenger Licenseを接収せしめる。当局へ連絡する義務を果たすために携帯電話を取り出すが、電波状況は圏外を告げる。ふと気がつけば、いつの間にか固く閉ざされた鉄扉が眼前にそびえていた。視線を上げると、そこに仁科望美がいる。鉄扉と見えていたものは、女性の巨大な秘所であった。予は彼女の両目をのぞきこみ、彼女は予の両目をのぞきこんだ。その首が傾き、暗闇に浮かぶ二つの円形が半円に細められる。この怪物はすべてを了解していたのである。髪の毛が太くなり、予は爆発的に駆けだした。木々の枝が予を傷つけるのにも構わず、夜の山中をほとんど転がるように走る。仁科望美は予のすぐ背後まで迫り、口腔から荒々しく押し出される呼気が大気を揺らすあらゆる瞬間に、予の生命を刺し貫くかと思われた。地面にアスファルトの固さを感じたとき、予の足はようやく動きを止める。遠くからヘッドライトが迫ってくるのが見え、その接近にあわせるように背後にあった気配は次第に消滅した。予の威武をもって逃げおおせたとは言わない。ただ、食欲と嗜虐を満たされた後に諧謔を与えられ、彼女の精神はその晩、完全に満足していたに過ぎないのである。
 動物たちの行動は特定の環境に対して特化しているものである。人間たちの行動は特殊化を指向する一定期間を過ぎると、普遍化へと向かう。世界の宗教を見ても顕著であるが、特定の環境や状況を前提としない行動、思考様式へ傾倒してゆくのである。生存を追求する上ではなはだ有効ではない全体性への指向が人間存在の本質に組み込まれており、それが人間を他の動物たちと峻別する唯一の要素であるのかも知れぬ。善にして全なる場所へ向け、背中から落下してゆく。ゆえに来し方は眼前へ遠ざかり、行く先は見えない。落ちるにつれて種々の執着や魂の輪郭が溶解してゆく放埒に包まれて、誰かの魂を傷つけ汚さなければ他の数十億から私を私と名指しすることはできない。仁科望美はいつもするように、左胸へ爪を立てた。私という名前の孤絶へ永遠に留まり続けるため、彼女が魂の所在と信じる左の乳房の上に強く爪を立てた。しかし、長い繰り返しの果てに堅くなった皮膚には、わずかも爪を食い込ませることはできなかった。この怪物は安息を得たいのか。安息とは全であり、彼女の願いは個である。両者は遠く矛盾し、何よりすでに殺しすぎている。孤絶が溶解することに気がつけないまま死ぬことが、地獄へ落ちるということだ。
 膝を抱えてうずくまっていた仁科望美が顔を上げる。生存に特化した野生動物の本能のみが可能な、五感を超えた鋭敏さで自身の存続に対する脅威を感じ取ったのである。この破格の怪物を脅かす何かが地上へいったい存在し得るというのか。法から庇護されると同時に、単純に物理的な影響力で法そのものをさえ凌駕する最初の少女。彼女に対抗することが可能な実存を人類の叡智が仮定できるとするならばそれは、これまで地上に存在しなかった何かがこの瞬間、新たに生まれ出たことを意味している。
 夜空へ向けて低くうなり声を上げていた仁科望美が、腰を深く落とした。まるで大地そのものと交接したがっているかのようだ。大腿筋がよじれ鋼鉄の如く硬化し、恐るべき力がそこへ漲ってゆく。仁科望美の足下はすり鉢状にへこみ、彼女の周囲だけ重力の仕技はその法則を変える。大気はゆっくりと渦を巻きはじめ、すり鉢の中心へ向けて収束してゆく。
 次瞬、仁科望美の身体が消失する。山の稜線を形成する木々の間から恐ろしい数の鳥たちがいっせいに飛び立ち、近くの地震観測所は人が体感できるほどの揺れを記録した。逃げまどう鳥たちの群れを突き切り、黒い固まりが宙空を渡る。その巨躯が黄色い満月を横切る瞬間、この世を照らすすべての光は遮られ、ただ漆黒の闇が支配した。
 予の少女と仁科望美との邂逅は、青少年育成特区が成立する基盤そのものへ決定的な影響を及ぼすことになるのだが、それはまだ少し先の話である。

少女保護特区(5)

 抱えた両膝に顔を伏せて永く微睡むようだった予の少女が、不意に顔を上げる。ただちに視界の上部から赤いRECの文字は消滅し、ノイズの多く混じった薄青い少女の像は部屋の隅にある現実として予の認識にとらえなおされた。予の少女はゆっくりと、予の立つ部屋の戸口へと顔を向ける。しかしそれはどうやら予が恐れたような、予の盗撮に対する消極的な疑義の申し立てではなかった。背を伸ばし、予を通り越した遠くの虚空へ視線を投げる様子は、猫科の動物を思わせる。隣室より予の少女のご母堂が夕餉の支度を告げ、その張り詰めた空気は早々に破られた。予の少女は小さく眉を寄せ、起きぬけに忘れてしまった夢を虚しくさぐるような、遠ざかるある感覚を惜しむような素振りを見せる。かすかに首を振ると、胸元に抱えた刀を畳に突いて立ち上がり、まるで予がそこにいないかのように眼前を通り過ぎる。大気の流動に残された香りを求めて、予は鼻腔を膨らませる。少女の余韻はまるで魂を緩ませるかのごとくであるが、先ほどより大きいご母堂の声が予の没入を阻害した。予を一秒の何分の一か麻痺させた陶酔を振り払うと、再びビデオカメラを目線に構えて、予は食卓へと進発する。
 隣に座る予の少女を強く意識しながら、予は二杯目を突き出すときの角度と速度を綿密に計算する。そのシミュレーションを予の身体は完璧にトレースしたが、やんぬるかな、おかわりを言う声はくぐもった。しかしそのわずかの失態もあまりの完全さゆえ、ときに冷たさすら感じさせてしまうだろう予の神性に、暖かい人間性を滲ませるという肯定的な材料となったことは疑いがない。それにしても、悪い米を使うものだ。予は口中の澱粉を、苦い薬を飲むように嚥下しながら考える。加えて古い借家のフローリングは床暖房すら伴わず、顔の火照りと裏腹に底冷えがし、予は食卓の下で両足を揉みあわせる。予は無償で雨露をしのぐ場所を与えられながら、心の底でその良否について批評を抱くことができるほどの無頼である。
 今朝方に近隣で発生した少女殺人からの保護を求めた予の要請は、無数のたらい回しの末、予の執念に屈する形で当局に認められた。少女殺人の発生した地区の住人は、事後二週間、その近隣に住居を持たない人物を保護する義務があることは、特区法にも明記されている。法制化されているが誰も利用したことがないという旨の言葉を数十回ほど聞き流し、姑の執拗さで突き返される十数枚の公文書を書き直した結果の居候であるから、予の少女が生活する様を間近で活写できるという僥倖以外の不便は、甘んじて受けるべきであろう。
 二杯目を受け取るとき、ご母堂と予の指がわずかに触れた。ご母堂は鼻の頭に皺を寄せると、台拭きで人差し指を執拗にぬぐう。予は予の少女と離れがたく結びついてしまっているというのに、罪なことである。同じ遺伝子が、むなしい懸想を錯覚させるのやも知れぬ。ご母堂の隣におられるご尊父は、新聞を防壁のように食卓へ張りめぐらせ、ときどき共有の惣菜へ箸を伸ばすとき以外は、誰とも視線を交じえようとしない。悪い米から立ち上る濡れた雑巾のような臭いの湯気越しに、予はご尊父とご母堂を観察する。ここにいるのは、罰する者と罰される者の夫婦である。二人は幼少期の自分とそれぞれの親とに同化し、人知れぬ片田舎のこの地でかつての悲劇の再演を行っている。負の意味で、お互いはお互いを必要としており、文字通り運命的に結びついてしまっている。そして傷がゆえの結合を不可欠な愛情と錯覚し、手に手を取って破滅へと螺旋状に墜落しているのである。予の少女は、子どもにとって最も近しい者たちが破滅を望み、そしてそれを止める手段を与えられていないことに、腕を揉みしぼり続けてきたのだろう。予の少女が合法的殺人という圧倒的な力を求めたことは、この家庭において日々味わい続けてきた遠回しの無力に対抗する側面があったことは否めない。しかし、両親のする破滅のダンスは精神的なものであり、かつ本人たちがそれを意識化できないがゆえに普段は隠蔽されている。つまり予の少女が求めた力は、その当初の理由から離れた場所でしか発揮を許されず、ゆえに無力感は解消を得ない。本来の対象から転移した感情は強められ、過激化する。解消を求めて噴出する感情が、対象を誤るがゆえに解消せず、空を拳で打つような苛立ちが怒りを増幅するのである。予の少女がこの短期間のうちに、青少年育成特区においてその暴力の度合いという意味で極めて重大な要因になりつつあるのは、まさにこの家庭的背景が関係していると予は考える。そして同時に、その暴力が依拠する部分の病的な脆さに危惧を覚えるのである。
 無論、予の少女が抱く病――それは予の実在にも同じ和音でもって通底するものである――を保護しようとすることは、予の少女がその病質ゆえに、主体的にではなく不可避の受動性でもって予に依存する可能性を残すことでもあり、予の少女を偏愛する我が自意識の陥穽と指摘されることは理解する。しかし、忘れてはならないのは、予の少女はすでに少女殺人者なのである。予の少女が精神的な弱さを克服するということは、肉体的な強さを喪失するということと同義だ。予の少女がいまの暴力を失えば、たちまちその生命を失うことになる。ここに至り、予は諸兄の陥穽論をひらりと飛び越えた三段論法で、正当性の向こう岸へ典雅に着地する華麗さを見せるのである。
 金切り声で我に返ると、予は実際に予の席から食卓とご母堂を跳び越して、フローリングの床へ着地するところであった。予の少女の視線を意識しつつ背筋を張って席へ戻ると、予は鷹揚に食事を再開する。いまここに思考の肉体性が証明されたことを宣言したとして、ご母堂の機嫌は直るまい。こんなとき、わずか一週間ほどの滞在であるにもかかわらず、ご尊父と予はほとんど双生児のような有様で食卓を挟み、ご母堂に訪れた一時の激情が去るまでの間、視線を新聞と虚空に彷徨わせるのである。ただ、予の少女の口元が少しゆるんだように見えたことは、この椿事における唯一の収穫であったと言えよう。もちろん、すべての娘は父の残像を求めるという予の魅力を否定する諸兄の言辞には積極的に耳をふさぐとしてだが。それにしても、全く気に障る金切り声である。現代の貴種流離譚、高貴すぎる精神性ゆえに誰かと思想や日々の言葉を同じくすることのできない予が、あえてこの侮辱的な居候関係を受け入れるのも、すべては喪失をあらかじめ約束された予の少女の強さが、崩壊へ向かうことをわずかでも先送りにせんがためである。
 全員の食事が終わらぬうち、ご尊父は早々と二階の自室に引き上げてしまう。新聞をたたむ際、わずかに交差した予の視線とご尊父の一瞥が互いへの共感に満ちたものであったことを予は確信する。しかし、食卓に下りた沈黙は懸想への確信を充分に裏付けるほど濃密なものであり、ご尊父に対する無作為の裏切りに、予はほとんど胸の潰れる思いをする。先ほどのご母堂の激情も、懸想を悟られたくないがゆえに表面上を本心と正反対の感情で過剰に装飾するというあの、永久凍土をカタカナ読みした名づけの精神病質によるものに違いない。乙女と確実に乙女ではない二人が予に行うだろう告白の重圧を軽減するため、予はまずこの沈黙を予のユーモアでもって破らねばならぬと感じる。それが、男子に生まれた義務のひとつだからだ。しかし、確かに発したと思った言葉は予の喉の入口に留まり、外的にはくぐもった呻きが大気を揺らしたのみであった。予を羞恥で悶絶させるはずのその呻きは、しかし大きめの家鳴りに掻き消される。予は再び予の内側へと退却し、今回の戦術を戦略的視座から再検証するべく引きこもった。状況は楽観的どころではなく、手始めに予は斥候として、考えられる最善のタイミングで空の茶碗を突き出す。予への恋慕を押し隠すためのご母堂の、露骨な舌打ちが追い討ちをかける。斥候が無事に帰還を果たすか、全く予断を許さなかった。
 だが、予の苦境は思わぬ形で解消をみるのである。天井がわずかにきしみ、湯気を立てる予の三杯目に埃をちらす。それに先んじた重い音を予は聞き逃さなかった。予の少女は食卓にたてかけてあった刀をつかむや否や、真後ろへ蜻蛉を切る。かすかにのぞいた陣幕の内側が、確かに予の視界にあったのかを巻き戻すビデオカメラはなく、予の左手には三杯目が、予の右手には里芋を突き刺した箸が握られていた。予は両手を眼前に並べると、激しく叱責する。「諸君は予の精鋭として、長い苦しみに耐えてきた。それが今度の体たらくは何か。輜重に眼を奪われるあまり、最良の勝利の瞬間からは眼をそらしたのだ。君たちの心の中で、廉恥と劣情が勝つか、空腹が勝つか、それをできるだけ早く知りたいと思う」。予がまくしたてると、驚くべき変化が起こった。左手はたちまちビデオカメラをつかみ、右手は里芋ごと箸を放棄したのである。我が意を得た予は莞爾と微笑み、予の少女を激写せんと雄々しく進発を宣言する。一方で中座を申し出る声はくぐもったが、ご母堂は予の緊迫した様子に圧倒され、眉間と鼻の頭にある皺をますます深く寄せるにとどまった。
 最強行軍で駆けに駆け、やがて予は予の少女の尻、ではなく殿と接触を果たす。無論、誤解をしてほしくないのだが、物理的にという意味ではない。眼前に立ちはだかる段差を攻略しあぐねているのかと思いきや、予の少女は階段の中腹へ鞘を突くと棒高跳びの要領で刀身を支点に跳躍し、その体を縦方向へ大きく回転させる。予の精鋭たちは二度の失態を許さぬとばかりビデオカメラを神速にて掲げるも、大気が垂直に伸びた予の少女の両足へぴったりと陣幕の布を張りつかせる映像を残したのみであった。二階廊下への着地と同時に、予の少女は回転の余勢を駆って抜刀し、続く動作で突き当たりの扉を袈裟に斬り下げ、同じ速度で逆袈裟に斬り上げた。鍔音に続く完全な静止から一瞬の間をおいて、木製の扉は四枚の二等辺三角形となって部屋の内側へと吹き飛ぶ。
 木屑の舞い落ちるその先には果たして、両手足の関節を人間の本来とは逆方向へ折り曲げた異形がご尊父を四つに組み敷いていた。窓がわずかに開いており、ここからの侵入が先ほどの家鳴りを生じさせた原因かも知れぬ。異形の首がくるりと回転し、ほとんど浪曲師の嗄れ声でノイズのような音を立てる。笑っているのだ。防衛のための殺人が自己目的化し、そこへの耽溺が理性を消滅させる。やがて係累との関係を失い、野良化した少女のうちの一人だろう。むき出しになったご尊父の下半身と野良少女の下半身は接触しており、寄生蜂の産卵管が幼虫に差し込まれている図を予に想起させたが、現実はその正反対である。
 鋭敏な感性を持つ予は気づかざるを得なかったのだが、ご尊父のパソコンにこの異界の点景として、言うもおぞましい婦女の図画が表示されているのがわかった。天然色の頭髪に包まれたその頭蓋は変形し、巨大に発達した眼窩が組み敷かれたご尊父を見下ろしている。予の少女がそれを見なかったことを祈る。これこそが、家族の団欒に優先したご尊父の秘密なのであった。野良少女とモニター上の図画は、その異形性において類似点を見出せないこともない。つまり、眼前に繰り広げられる陰惨のまぐわいがご尊父にとって決して合意ではないという断言は、困難なのである。騒ぎを聞きつけたのだろうご母堂が足音荒くやって来、予は状況を説明する困難さに肝を冷やす。しかし、ご尊父の部屋を覗き込むと、無表情のまま回れ右で階下へ去っていく。
 野良少女へ側面から対峙する予の少女は、圧倒的に有利な地形的条件を得ているとみてよいだろう。ときに十メートルを超える先を切断する予の少女の抜刀であれば、野良少女がまばたきをする瞬間にその首を落とすことができる。しかし、ご尊父を巻き込むことを心配しているのか、低い姿勢で右手を柄に置いたまま、予の少女は動かないでいる。部屋の中にはある種の均衡が醸成されており、誰も動くことはできないはずだった。予の頬から伝い落ちた汗がビデオカメラのレンズを流れ画面を滲ませる先を、しかし、上下ひとつながりの薄物をまとったご母堂が横切る。予の少女の肩がわずかに震えるのが見えた。薄物の上からでも視認できる乳暈の濃さは位置によって、経年の使用と純粋な加齢から、それらが重力に敗北しつつあることを教えてくれる。しかし、予の背筋と予の少女の心胆を寒からしめたのは、乳暈の色合いではない。ご母堂が右足にだけピンヒールをはいていることが、予と予の少女を慄然とさせたのである。
 誰もが虚を突かれ、ご母堂の存在をこの場面に意味ある何かとして当てはめることができないでいる。ご母堂はよどみない動きでパソコンが置いてある机によじのぼると、仁王立ちに野良少女とご尊父の媾合を見下ろした。制止する暇もあらばこそ、完全な無表情からの跳躍と、両足をそろえた落下の次の瞬間、ピンヒールの高さはすべてご尊父の右のこめかみへと消える。濁った音とともに、マヨネーズ状の何かが噴出するのが見える。ご母堂の鬼気に飛びのいた野良少女の首が、予の少女の抜刀によって切断される。生首は血流を推進剤に回転しながら宙空を進み、天井にぶつかってからご尊父の傍へと落下する。爆発的な動きの後に訪れた再びの静寂を破ったのは、鍔音に続くご母堂の笑い声である。
 予は固まってしまった右腕を意識しながら、無理矢理とビデオカメラを下ろす。予の視界はもはや少女殺人の終わった現世を映しているはずであったが、哄笑を続けるご母堂の肩越しから向こうに、奇怪な生物が立ち上がるのが見えた。それの側頭部からは角のような物体が生えている。右目は釣り上げられた深海魚のように突出し、生気のない左目は暗闇の中でなお燃えるように赤い。それの両手が背後からご母堂の首にかかる。たちまち哄笑は途絶え、ご母堂の口腔に舌が盛り上がる。予の少女がそれの両手首を斬り落とすのと、何かが折れる鈍い音が聞こえるのはほとんど同時だったように思う。それは――両手首を切断されたご尊父は膝から床へ落ちると、上体を前のめりに傾ける。意識という制御を失った怪力に頚骨を砕かれて絶命したご母堂は、もはや支えるものの無い頭蓋の重みで後頭部方向へと倒れる。二人の身体はその途上で交錯し、予の眼に“人”という字のシルエットを残した。
 ご母堂は自分の知らない女性と寝るかつての父を見つけ、ご尊父は愛ではなく性で支配するかつての母を見つけ、その混濁した互いの意識の裡に、この世界で最も正統な復讐を果たしたのである。 母を求めた男と父を求めた女はお互いの幻想と差し違え、誰もが現世で手に入れるはずのない究極の達成を得た。二人は己の死と同時に全く過不足の無い精算を果たしたのである。彼らは天国にも昇らず、地獄にも堕ちるまい。それらは造物主イコール両親へ向けられた感情の真実さへの欺瞞、あるいは罰を象徴する名前に過ぎないからである。幸いなるかな、二人の魂は完全にこの世界から消滅することができるだろう。
 音も無く回転する車載用電火表示板の赤さに照らされて、予の少女は闇に沈み、そしてまた現れる。その様子は予の少女の持つ一種の二面性、脆い内面を実体として衆目にさらすようである。そのむき出しの痛ましさは、直視に耐えぬ。今回の事件は予の通報を伴わなければ、二件の少女殺人と一件の通常殺人として処理されたはずであった。しかし、少女殺人に遭遇すること頻繁な予が県警にする説明は陪審員を前にした辣腕弁護士の如くであり、予のビデオカメラを用いた検証が駄目押しとなって、発生したのは一件の少女殺人と二件の通常殺人であったことが証明される。野良少女の死後に、予がビデオカメラの撮影を中断したことは幸いであった。ご尊父は予の少女の斬撃で両手首を失う前、すでに致命傷を得ていたと思われるが、あの場面の映像を前にそれを県警に納得させることは難しかったろう。ただ、法的処理の段階において少女殺人はこの世には存在しないように振舞うので、予の説明は予の少女から父殺しの衝撃を取り除いてやりたいという、極めて心情的な側面から発していたことは否めない。
 落下してくる白球をどちらが捕球するかで争う外野手と内野手のように、霊柩車と救急車を挟んで睨みあう救急隊員と妙齢の女性たち。両者を呼んでする県警の指示により、三つの遺体は公平にそれぞれへと分配された。霊柩車のブレードが野良少女の遺体を粉砕する一方で、三つ以上の部分に分かれた予の少女の両親は担架に乗せられ、ほとんどうやうやしく救急車の内部へと搬入される。霊柩車の持つ冷厳な即物性に比して、死体を搬送する救急車というものは、法の便宜的な側面をことさらに強調し、生と死の間にあるマージンを象徴する。その緩衝地帯は生の側にとってのみ必要とされ、死の側に立つ者は全く頓着しない領域である。霊柩車から見下ろす妙齢の女性たちは、その事実を経験として知っているようでもある。
 事情聴取を終えて歩み寄る予に、予の少女は顔を上げる。その瞳はつやで黒く濡れており、予の呼吸を停止させんばかりであった。正対する予にしかわからぬほどのわずかな逡巡の後、予の少女は予の両腕の間に身を投げる。ほとんど骨格を感じさせない柔らかな肢体を得て、予の全身へ雷鳴に似た衝撃が走った。親と子の関係を象徴的に語りなおすのが宗教であるとするならば、人類の最初期に塗りつけられたその汚辱が、予の少女を予に執着させる。神という名の呪いに端を発する歪んだ執着が、愛という名付けで巧妙な偽装を行う。正体を知りさえしなければ、それを楽しめるのだろう。しかし予は、予の自己欺瞞を許すことができない。魂を不可逆に改変するという意味で、知ることは呪いである。いまでもときどきこの瞬間を夢に見る。もしかすれば、抱きすくめればよかったのだろうか。それが、正解だったのか。
 抱きしめる代わりに予はその細い両肩をつかむと、予の少女を引き離した。布一枚の向こうにあるしなやかさを通して、予の少女の傷の形がありありと見える。ぴったりとそこへ嵌まれば、予は本当の意味で予の少女を手に入れることができたのかも知れぬ。永遠を依存する一つの病になれたのかも知れぬ。それが幸福の一形態ではないと、誰に断言できるだろうか。予はただ、人間に対して誠実であろうとしただけである。
 しかし予の少女は、予が最も重大な瞬間に裏切ったと感じたはずだ。予の少女の瞳は干上がるように渇き、みるみるうちに表情が消えてゆくのがわかった。予は立ち尽くし、声をかけることもできない。永遠のようにうつむいた予の少女は、やがて完璧に抑制された微笑を浮かべると、軽く膝を曲げて会釈をする。助手席へ誘導しようとする救急隊員の制止を振り切って、予の少女はかつて両親だった残骸の傍らへ腰かけた。扉が閉められる瞬間まで、予の少女が顔を上げることはなかった。
 救急車が走り去るのを見送ると、予は少女殺人からの保護を盾にして、霊柩車へと乗り込んだ。妙齢の女性たちは露骨な嫌悪を向けたが、予の主張する権利は特区法によりその履行を強烈に裏書きされている。居候先を失った予は、当面の生活費を稼ぐ必要があった。少女殺人の記録はどんなものであれ、当局に高値で売りさばくことができる。しかし何より、この場所を早く離れてしまいたかった。
 どうか覚えておいてほしい。言葉があるということは、現実がないということだ。予が語りはじめたことは同時に、予の少女の不在証明となることを。

少女保護特区(6)

 当局の提供する簡易宿坊に腰を下ろすと、予は背嚢からラップトップ式のパソコンを取り出す。ビデオカメラと双璧を成す、予の配下において最も重要な子飼いである。予の少女との別離がもたらした衝撃から回復しつつあった予は、たとえ無償の提供を受けたとしても感謝ではなく批評が真っ先に来訪するあの豪胆さが身内に戻りつつあるのを感じていた。起動を待つ間、予はあてがわれた部屋の価値を値踏みするべく視線を走らせる。床には布団というよりはむしろムシロが引かれ、排泄物を垂れ流す穴は板囲いがしてあるだけだ。その質素さに比べて、数本の鉄棒が重力方向へ平行に走る戸口だけは奇妙に装飾的である。鉄棒を通り抜けて、予のノートパソコンから伸びたケーブルが廊下を這っている。ネットワークへ接続できる環境の提供を論理的かつ強力な身振り手振りで主張する予に屈する形で、大便のごとくに巻かれたそれがうやうやしく投げ与えられたのである。その先端はいまや予の希望を適えるべく管理官の舌打ちを乗せて、通路の奥へと消えている。
 ブラウザを立ち上げると、予はブックマークのひとつをクリックする。少年と少女が生気の無い目で視線を宙空へと彷徨わせる足元に「青少年育成特区」と装飾的な字体で記された、例の見慣れたロゴマークが出現する。画面の下部から回転しながら現れ、中央に一定時間静止してから上部へ消えていくのだが、スキップする方法はない。おそらくは、取り出した煙草に火をつけさせるためだろう。官庁がするこの心にくい時間的配慮を、予はひどく気にいっている。肺腑が吸い込んだ煙で満ちると、予の呼吸は何千分の一秒か完全に停止する。全身の血管を毒が駆け巡り、予の自尊心に死という等価の重りを与え、予はほとんど敬虔な気持ちになる。もはやただの物質と化した煙を鼻から勢いよく噴出しながら、画面に焦点を合わせないまま、予はマウスを数センチ滑らせる。エッチ・ロリコン板のバナー上にカーソルが到達するのと、予が人差し指を痙攣させるのは同時だった。そして次の瞬間、予の内側にあった至高の安逸は完全に消滅したのである。
 さて、性的な暗喩が他の暗喩を圧してあまりに素早く脳内へ醸成される諸兄のために、いまの場面を少々補足する必要があると予は考える。予が閲覧しているのは、AvengerLicenseを持つ者たちの動向をランキング形式で記録する官庁の広報用ボードである。正式名称は”The Hardcore Ladder of Liberty for Girls’ Survival Convention”だが、その頭文字を取って俗にH-L-o-Li-Con板、あるいは単にL-o-Li板と呼ばれる。後者の場合、中間の母音を脱落させ、ろりーた、と発音するようだ。暴力という観点から許可証所持者の危険度を客観的に測り、台風や津波等の災害警報のように民間人へ注意を喚起するため設置されたのだが、もはやその本来の理念を念頭にアクセスする者はいない。少女たちの顔写真に出歯亀的関心を持つか、少女同士の対決を対象にした非公式の賭博を行うか、許可証所持者の係累に連なるか、次に殺害する同胞を求めるかが利用目的の大半である。予は無論、このボードを最新の状態に維持するための情報提供者の一人であり、いずれにも該当しないことを付け加えておく。
 次にロリ板の特徴である。基本的にすべての許可証所持者が登録されており、少女同士の接触の際に闘争が生じた場合、その結果は可及的速やかにランキングへ反映されることになっている。上位者が下位者に勝利した場合はSポイントと呼ばれる点数が上位者に加算される。頭文字Sの意味については殺戮とか殺害とか殺傷とか諸説あるが、はっきりとしない。下位者が上位者に勝利した場合はお互いの順位が入れ替わり、死亡者の氏名は暗転表示されてランキングの最下位に回される。もはや半分以上の氏名が灰色に沈んでいるが、その総数は日々増え続けている。命の軽重を視覚化するこのランキングには美人コンテストに向けられるのと同質の感情的な非難が集中する。しかし、予はロリ板を心の底から愛した。望むと望まざるに関わらず、生命の価値に序列は存在する。その真実への社会的検閲を極めて局所的にではあるが無化するこの板は、予にとっての福音である。
 一位から以下二十名は拳闘風に表現するならば上位ランカーとされる。下位者からの挑戦を多く受けるも彼女たちの敗北は稀である。マッチメイカー不在ゆえに上位ランカー同士の闘争がほとんど発生しないため、その構成員はほぼ固定されている。スポーツとは違い、何の名誉も伴わないランキングである。力の拮抗した者同士の闘争には死のリスク以外が存在せず、必然的に争いは回避されるのであろう。だが、自然淘汰が発生しないという意味合いで、上位二十名のランキングは現状を正確に反映できない恐れがある。そこで、より多くの実戦に生き残っている事実を客観的に示す、先ほどのSポイントが登場するのである。加えて、予を嚆矢とする少女観察員が全国に遍在し随時の情報提供を行う。当局はそれらを集約して、諮問機関である少女審議委員会、略して少審へ上位ランカーの正当性について検証を依頼するのである。上位二十名の少女たちは殺傷力、持久力、敏捷性、成長性、処女性から成る五つの観点を五段階で評価される。最後に挙げた項目、処女性が何を評価しているのかについては、ロリ板において長く議論の対象とされてきた。なぜなら法律上、許可証所持者は全員、言及するまでもなく処女のはずだからである。現在では、該当少女の精神や容姿を判定しているのではないかという推測が多数を占める。また、評価システムそのものに対する疑念も多い。少審の五段階評価を仮に二十五点満点へ換算した場合、点数の寡多と順位が連動しないという指摘は、メジャーな議論の一つである。例えばランキング二位の老利政子は順にDCEEAであり、総得点はわずか十二点にしかならない。これは、上位ランカーの中で下から三番目に低い数字である。各項目が異なった係数を与えられているという見方もあるが、未だ大統一理論の完成は遠いようである。
 話を戻そう。予が受けた衝撃は、予の少女の名前を仁科望美、老利政子から始まる上位ランカーの中に発見したことへ由来したのである。実際の闘争を除けば、少審による上位ランカーの格付けは「その必要が生じた際、適宜」という会則に則り行われるが、その頻度は最短で四ヶ月、最長で二年半とまちまちである。格付けと格付けの谷間の期間はシーズンと呼ばれ、現在は特区法制定から十六回の格付けを経て、17thシーズンに該当するはずだった。しかし、今回のアクセスは予に18thシーズンの到来を告げたのである。予の少女の順位は十九位、評価は順にCDBBBである。予はただちに予の少女の敏捷性と処女性を一段階高めることを具申する陳情書をしたためにかかる。あの野良少女が、もしや上位ランカーだったのではないか。予の少女が迎えるだろう終わりのない闘争の日々への不安が、予の心へにわかに積乱雲の如く佇立するのであった。先に述べたように、上位ランカー同士の争いは極めて稀であるが、下位者から受ける挑戦は激増する。過去、二十位入り直後の一週間で名前を暗転表示させた少女がおり、少審への抗議が殺到したこともある。殺戮ではなく審議によるランクインであったからだ。少審の構成員が非公表であることも相まって、ランキングの恣意性については常に批判が耐えない。
 その少女の二の舞となる心配は無いと信じたいが、実際のところ両親の死が予の少女の暴力に何らかの影響を及ぼした可能性を予は否定できない。予の少女に向けられた外部評価の不当な部分をくつがえしておくことは、しかし当面の挑戦者たちを牽制する役には立とう。陳情書を裏付ける情報として、予の少女の闘争をあますところなく記録・編集した動画をアップロードせんと、予は全国の少女観察員たちが共同で管理するサーバーへアクセスする。煙草一本分の時間を経て無事にファイルが転送されたことを確認するため、予の少女の躍動をネット上で眺めるうち、予は奇妙な感情が身内にわきおこるのを感じた。このような陳列がひどい冒涜にあたるのではないかという、理屈に合わぬ思いである。予は予の行う社会正義を信じていたし、手に入れた情報を他者と共有することで生まれる新たな発見や思想を喜んでもいた。予は宗教家ではない。だが、無神論を言うほど人間を超えた何かを信じていないわけではない。デジタルではない部分を持つ神は電子回線を通るときに劣化しないのだろうか。予の側にある神聖さへの畏敬は果たしてこの方法で共有できるのだろうか。突然の内なる問いかけに予はとまどった。予の少女の動画を閲覧することがなぜこのような疑問を生じさせるのか全く分からぬまま、予はアップロードしたファイルを衝動的に削除する。サーバーはすでに自動的なバックアップを行っているはずで、予の少女の動画はそれを撮影したときの予の感情とは切り離されてやはり誰かに届くだろう。だが、予の想いを伴った動画は削除されたのだ。その不合理な安堵感に、予は不快を禁じざるを得ない。電子メールによる陳情書を送信するとき、ファイル名を含むURLを消さなかったのは予の予に対する腹いせである。ノートパソコンの電源を落とした予は、入り口の装飾的な鉄棒に手をかけて前後に強く揺さぶった。耳障りな音が廊下へ響き渡り、やがて眠そうな目を擦りながら管理官が現れる。予が宿坊からの退室を願いでると、午後九時以降の入退室は規則により禁じられている旨を言いかけるが、ケーブルをめぐるやりとりを思い出し論理的かつ確信に満ちた予を論破することが難しいと悟ったのに違いない。予から放たれる無形の圧力に屈する形で、管理官はしぶしぶと鍵束を取り出した。特例なので見つからぬよう裏口から出て欲しいと申し出るのを超然と退け、予は表玄関から外界へと堂々の帰還を果たしたのである。
 予の少女の居場所を割り出す追跡行が異例の短期間で終結をみたことで、二人の間に横たわる強い絆への確信を予は新たにした。予の少女が所持する携帯電話にはGPS機能が備わっており、子飼いのノートパソコンがする獅子奮迅の活躍のおかげで、現在位置を市内のホテルへと特定できたのである。諸兄もご存知のように予の面体はあまりに高貴であり、加えて身にまとうオーラとも呼ぶべき不可視の何かが凡百の人民をして常に過たず、この人であると指ささせる要因となっている。ビデオカメラを筆頭として一筋縄ではいかぬ、歪さこそが才能に直結する歴戦の子飼いたちを統率するのにその、予の持つ生来のカリスマ性は極めて重要な役目を果たしていると言えよう。しかしながら、ホテルのロビーなどを通過しようとするとき、品よく裁縫された制服に野生と暴力を去勢された憐れな兵士である警備員が、志願兵として雇用の可能性を尋ねるために違いない、予を呼び止めようとすることが頻繁にあった。予の手下は精鋭を以てよしとする。直立の威嚇行為に塩を得る彼らは、予の向かう闘争を前にすればすくんで身動きもとれまい。それをわざわざ口頭で伝える無神経さも予の高貴な精神にははばかられたので、ロビーが客室応対の電話を取り上げ、警備員が交代の引き継ぎに詰め所へ戻る一瞬の間隙をぬって、予は全軍に突撃を命じる。予と兵士たちはエスカレーターを二段とばしに駆け上がり、中二階からエレベーターへ滑り込むことに成功した。電光石火の奇襲作戦を成功させ、兵士たちは意気を強める。予の指揮ぶりを褒め称える万呼が頭蓋に鳴り響く。並の将ならば破顔してそれに応えるところだろうが、エスカレーターの中に人がいたこともあって、予はただ鷹揚にうなずくにとどめた。敵陣にあっては天災のごとき大勝利にも気を緩めぬ様子を見て、子飼いの勇将たちは予の大きな器を感じとったようである。兵士たちが予への崇拝を闘魂へと変えて静かに、しかし烈々と燃えたたせるのがわかった。結果、予は最小を用いて最大を得たのである。
 最上階から順に各階をしらみつぶしにする腹づもりであったが、二人の絆のおかげであろう、予の少女が滞在する階は容易に同定できた。空気中へかすかに混じる血の匂いは、少女殺人に立ち会うこと頻繁な予にとって、もはや馴染みと言ってよいものである。匂いに導かれるまま、予は向かいあって立ちならぶ扉の谷を進軍する。この階に降りたった瞬間から、状況を察知した全軍は予の命令に先んじてすでに臨戦態勢にあり、それに応じて行軍は極めて慎重なものとなっていた。じりじりするようなその速度の中、回廊の対称性が持つ無個性の印象は予に終わりのないループを連想させる。五感を刺激する情報の乏しさに時間への意識が麻痺しはじめた頃、斥候の任に当たっていたビデオカメラがそのズーム機能によりわずかに開いた扉を発見し、伝令を寄越してくる。予は前線へと急行する。
 薄闇の濃厚さが訴えかけるような感覚は、実際に少女殺人へ立ち会ったことのある者にしかわかるまい。予は口中で唾が固まっていくのを意識しながら、人が通れるほどまで隙間を押し開く。はたしてそこには、頭頂から縦方向へ二つに開かれた白人男性のさらす人体の不思議が、部屋の奥から漏れる間接照明の光に照らされていた。鮮やかなその断面が、日本刀での斬撃によることは疑いがない。陳情書に記述する格好の材料として、予はズームしたビデオカメラの視界をゆっくりとなめさせる。空間的に不安定なはずの性器までもが測ったように同じ容積の二つになっており、予は様々の意味で縮みあがらざるをえない。白人男性の右手に名刺大の紙片が握られているのに気づいたビデオカメラは、さらに視界を拡大する。最大の望遠を用いてようやく視認できたその紙片にはヘルス・エンジェルと大書きされ、0120で始まる電話番号が記載されていた。白人男性にとって配達されてきた死は、まったくの意想外であったことが推察される。遺体から点々と続く血の跡がバスルームへと消えているのを確認し、予は様々の意味でふくらまざるをえない。しかし、浴槽にはすでに使用された形跡があり、予は様々の意味でしぼまざるをえない。浴槽の底と濡れたバスタオルはわずかに桃色へ染まっている。予はそれらへ口づけたい欲求を、白人男性の遺体を思い浮かべることで防がねばならなかった。バスルームを出ると、周囲に漂っていた濃密な血の匂いがほとんど感じられなくなっているのに気づく。嗅覚が鈍化したのであろう。あとは遺体の方へ視線を向けないようにすれば、この客室は完全に清潔な空間と信じることができる。我が身が痛まない限り、この世で地獄が長続きしないことを予は知っている。
 大きなベッドの中央に、小さなふくらみがあった。そこに予の少女が寝息を立てている。永遠のように思われた別離はその実、わずか数時間のことに過ぎなかった。予は書き物机から椅子を引き寄せ、ベッドの傍らに腰かける。神ならぬ人の身が作り出した殺戮する天使は、小さな頭を枕にうずめ黒髪を放射状に周囲へ投げている。喉まで引き上げられた薄手のキルティングにすっぽりと包まれ、予はそこにあるのが予の少女の生首なのではないかという錯覚を抱く。青く見えるほどに白い肌へわずかに隆起する赤は、ベッドの上にある唯一の色彩的要素であった。やがて、予の少女の呼吸が浅くなる。おそらく、予という闖入者の存在に気がついたのだろう。予の少女が寝具の下に日本刀を隠し持っているのだとすれば、予は完全にその間合いにいる。予の少女は予を傷つけぬという自信は、もはや過去のものになっていた。立ち上がろうと足の筋肉を硬直させた瞬間に、予の少女は予を切り捨てることができる。
 実のところ、この瞬間まで予は予の真意を測りかねていた。予の意識はあまりに深遠であり、時に自分が何を知っているのかを知らぬことさえあった。つまり、予は予の少女に殺されるためにここへ来たのである。いまや予の少女の中で予と両親は渾然と同化していた。予の少女が幼い頃から求め続けた抱擁を、両親と同じく予が拒絶したからである。予が殺されることは、予の少女を解放するだろう。そして、予の少女が解放されることで初めて、予は現世のあらゆる欺瞞を超えてこの狂おしい恋慕を完成させることができる。惜しむらくは、予の少女を抱きしめる瞬間に予の実存が肉体を喪失していることか。予と両親を失った予の少女はその暴力の根拠を揺らがせ、やがて青少年育成特区から発した多くの狩られる存在へと堕ちていくだろう。そこまで考えて、予はこの行動に自棄の感情が含まれていることを否定できなくなる。予は予の少女への恋慕ではなく単に理性でもって、時間差の形で心中を作ろうとしているのやも知れぬ。もはや瞬きすらできず、予は予の少女の端整な横顔へ視線を釘付けにしたまま、ただ呼吸のリズムを合わせるしかない。この、他殺を模した自殺がサクリファイスではない事実を発見したことで、予の明晰な頭脳は極めて稀な、思考停止に近い混乱を生じたのだった。
 両耳の間に心臓を移植したかの如き騒擾を裂いて、予の頭蓋に鈴の音が鳴りひびく。気配の方へ視線を送れば、ベッドの足元には和装の少女が立っている。いつからそこにいたのか、予は予の想念へあまりに深く没入しており、その侵入を気がつけなかった。失態である。直線に切りそろえられた襟元と額の黒髪に、瞳は瘡蓋のような赤茶色をし、蝋で固めたような顔にはおよそ人が持つ感情の一切は認められない。
 ――老利政子である。少女審議委員会から派遣された。
 外見とはそぐわぬ、年ふりた声だった。他人に対する強制力を疑わぬ、予と同じ、命令する側の声である。応じるように寝具が裂け、内側から抜き身が跳ね上がる。だが、その必殺の斬撃に対して和装の少女が行った動作は左足をゆっくりと手前に引くだけであった。ベッドを二つに割った日本刀の威力は、いとも簡単にいなされたのである。羽化した蝶のように、予の少女は斬撃の余勢を駆って回転しながら床へ降り立つ。そして窓を背にすると、鞘へ戻した刀を腰だめに構えた。
 ――老利政子は闘争を求めない。だが、求められた闘争を拒絶するほど愚かではない。
 応じるように予の少女が抜刀し、老利政子がゆっくりと一歩下がる。切っ先は細い首があった空間をむなしく通過した。予期した切断の手ごたえを得られなかったためか、制御を失った刀身は流れて背後の窓ガラスを粉砕する。少女殺人に立ち会うこと頻繁な予の経験則からして、一方がまだ獲物を見せていないにも関わらず、どちらが殺される側にいるのかはもはや明白であった。我が身を守るように日本刀をかざした予の少女の両目は大きく見開かれ、追い詰められた猫科の肉食獣のようである。老利政子が一歩を踏み出す。見えない力に弾かれたように、予の少女は背後の窓から夜空に身を躍らせる。一足飛びに距離を詰め、和装の少女が宙を舞う。
 駆け寄った窓の外には、頭上で日本刀を高速回転させて滑空する予の少女と、居並ぶビルの屋上を人外の跳躍で八艘飛びに追いかける老利政子の姿あった。予はクローゼットから予備のシーツを引きずり出し両手両足の指で四隅を挟むと、むささび飛びに追跡を開始する。だが、超人ではない予の身体はほとんど重力だけの落下と同じ速度で、ホテルへ隣接するビル屋上へと近づいていく。もちろん、この程度の危地は自室での二十年に渡る思索の生活においてすでに想定済みである。冷静にシーツを放棄すると予は、爪先、膝、腰、肩、側頭、頭頂の順に接地および回転し、落下の衝撃をすべて受け流すことに成功する。なぜか右腕が上がらなくなったが、一時的なことだろう。子飼いのビデオカメラは左手で構えれば全く問題がない。階段を駆け下りて街路に立てば、はるか前方のビルへ上空から二つの影がもつれあうように降下してゆくのが見えた。予は大音声で最強行軍を号令する。
 ――少女審議委員会の至上目的は、第二の仁科望美を作らぬことである。本日、新たな上位ランカーとの接見を果たしたが、老利政子は安心をした。
 息を切らせて階段を駆け上がり、屋上へと続く鉄扉に手をかけた予が聞いたのは、命令する権利を疑わない者だけが発することのできるあの強い声であった。こちらに注意を引きつけるため、予はわずかに浮かせた扉を蹴り開ける。けたたましい音に、二人の少女がこちらへ視線を向ける。予の少女は片膝をつき、日本刀に身をもたせてかろうじて上体を維持している。制服のあちこちが裂け、そこから流血も生々しい傷がのぞいている。老利政子は目を細めると、食餌を発見した有鱗目のように予を見る。
 ――もっとも、不確定要素が残されていないわけではない。老利政子はこの芽をあらかじめ摘んでおくこともできる。
 応じるように、もはや力尽きるふうであった予の少女が刀を振り上げて、背中へと切りかかる。老利政子は身じろぎひとつしない。抜き身は誰もいない虚空をないで、斬撃の勢いのまま予の少女は予の足元へと転がりこんでくる。
 ――しかしながら、確実性を欠く予断に基づいた殺戮は、老利政子と仁科望美の区別を難しくする。老利政子は何より矜持のため、この機会を見送ることとする。
 和装の少女はほんの軽い屈伸で、屋上の貯水槽へと移動した。伏したまま肩で荒い息をする予の少女に、もはや立ち上がる力は残されていないようである。満月を背景にした和装の少女は、予が予の少女に捧げていなければ心惑わされたであろう、人外の美を放っていた。わずかに腰を落とした老利政子を中心にして大気が渦を巻き、来たる躍動への予感が辺りを充満する。しかし、予には確認しておくべき事柄があった。無論、予とてわずかの推測を手がかりにした問いかけであり、まさか真実がそのまま得られると考えていたわけではない。
 ――いかにも、老利政子の保護者は老利数寄衛門である。だが、このことは決して他言せぬがよろしかろう。少女審議委員会の構成員には公安警察の出身者も多い。もし約束を守れぬ場合、今後の行動に極めて重篤な制約を受けると理解するがよい。
 つまり、老利政子の率直な返答は、この段階において予と予の少女が少審にとって全く問題ではなかったことの証明である。さらに質問を重ねようと予が口を開いた瞬間、貯水槽から和装の少女が消滅する。視認不可能な速度の跳躍で上空へと自らを射出したのだ。予が抱え起こしたとき、失血によるものかショックによるものか、予の少女はすでに意識を失っていた。予は右腕をかばいながら予の少女を背中にかつぐが、ほとんど子どものように軽い。鞘に収めるべく拾い上げた日本刀は反してひどく重く、優に持ち主の体重以上はあるかと思われた。少女殺人者の持つ特権に潜む業の深さを垣間見るようである。老利政子が去ったにも関わらず、予と予の少女は依然として重大な危機の中にあった。無数に刻まれた傷がどの程度深いのかもわからず、近隣の医療施設へはあまりに長大な主観距離が横たわっている。なぜなら、市内を徘徊する他の少女殺人者たちにとって、重傷を負った上位ランカーは自らのステータスを一息に高めてくれる格好の獲物だからである。
 両親の死から始まった予の少女の長い夜は、未だに終わりを見せようとはしなかった。

少女保護特区(7)

 すべては他人事のように感じられて、映画やテレビの向こうのように感じられて、たまらなくイヤだった。
 頬にかかった熱湯に、思わず悲鳴をあげそうになる。指をすべらせればぬるりとした感触がして、手のひらは真っ赤に染まった。噴出する液体はすぐに勢いを失い、床に広がりながらやがて制靴を浸した。
 駆けつけた警官にパスケースの許可証を見せる。反応は劇的だった。青ざめた顔で一歩下がり、半分ほどの年齢の小娘に最敬礼で応じた。無表情を装ったまま、大きく目を見開いて下からのぞきこむ。何かを問うそぶりで、わずかに歯の間から舌先を押しだすと、たちまち真っ赤になって顔から汗をふいた。その狼狽ぶりを忘れない。
 立ち去る背中へ、血のように粘る好奇と欲情が向けられるのがわかった。後悔と、そしてたぶん悲しみを、すぐに軽蔑で塗りつぶす。
 あの瞬間にこそ、私は誕生したのだ。喜びと祝福に満ちた、しかし望まない生の瞬間のようではなく、確かにこの意志を介在させた、人間世界と人間存在にとってのある災厄として。
 大気に満ちた霧雨が十字架をけぶらせ、遠近感をなくしていた。
 教会の入り口で傘をたたむと、コートの表面は水滴をふきつけたように濡れている。重い扉を引いて一歩ふみいれた途端、オルガンの音が足元からせりあがるような質感を伴って鼓膜を揺らし、平衡感覚にゆらぎを生じさせた。
 館内は完全な祝祭の空間を形成している。内なる高貴な精神性にだけ信仰を捧げるこの身でさえ、眼前の明白な秩序をあえて乱そうとは思わぬ。
 祭壇へと続く通路が、整然とならぶ木製のベンチをふたつに割っており、そこに少女殺人者への断罪の光景が広がっていた。黒いワンピースを身にまとった喪主は、蝟集する親族たちから隔てられて、ひとり座っている。
 可視化された正常と異常の狭間を進み、コートを脱ぎながら喪主の隣へ、人ふたり分を空けて腰かける。性質の良くない興味と侮蔑のいりまじった意識が、物好きな、あるいは邪な下心をもった若い後見人へと注がれるのがわかる。古くから慣れ親しんだその感覚に、もはや何の痛痒も感じない。喪主へと向けられる悪意を少しでも軽減できるのならと、意識して胸をそらした。
 うつむいて膝の両手へと視線を落とす横顔は、漆の光沢を持つ黒髪で御簾のようにさえぎられ、表情をうかがえない。いつのまにかオルガンの演奏は止み、神父か牧師か、初老の男性が聖書を朗読する声が響いている。耶蘇の宗派はさっぱりわからぬ。しかし、喪主にとって唯一だった神を葬送するのに、これ以上ふさわしい儀式はないだろう。
 ――なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
 自我が永遠に存続することを寿ぐくだりは、いつ聞いても恐怖に身震いがするほどだ。生命の最初期に与えられた望まぬ呪いと、呪いゆえの不完全な意識を清算する術は、あらかじめ奪われている。幾度も幾度も檻の内側へと復活し、世界と己の破滅を等価のごとく秤にかけ続ける永遠。
 生々しい幻視に首を振る。教会の内部は、現世的な枠組みを弱める装置として機能するゆえか。だがそれでは、通路の向こうから曖昧な敵意を向ける人々の説明がつかぬ。
 説教を終えた初老の男性にうながされ、喪主が献花へと立ち上がる。半歩下がって続く。隣あって並べられた棺からのぞく顔は、穏やかな表情に復元されていた。あの夜の光景が脳裏へフラッシュバックし、ご尊父とご母堂の表情が一瞬、凄惨なものへと変わる。片方だけとなった眼球が恨むようにこちらを見るのも、頭蓋の内側にのみ投射された映像である。
 強く閉じた瞼を開けば、やはり横たわるのはふたつの穏やかな顔でしかない。表層と深層の間に横たわる、欺瞞に満ちた隔絶の淵。しかしそれは、多くの精神にとって有効である。死者だけが静かに、現世の喧騒を拒絶している。ようやく訪れたこの至上の安楽を、はたして死者は手放したいと考えるだろうか。死んだ人々のよみがえりを言うことが、誰にとって必要なのだろう。
 低く流れる奏楽の下に、小さなさざめきがある。壇上から何度かうながされるが、誰も喪主に続こうとはしない。ある種の憤りにかられ振り返ると、親族たちの座席から小さな男の子が飛び出して、喪主の足元へと駆け寄ってくるのが見えた。母親らしき人物が金切り声をあげて制止するが、彼の瞳には恐れよりも憧憬があふれている。
 ――おねえちゃん、人を殺したことがあるんだって?
 喪主はとまどったように両手を胸元へと引き寄せた。わずかに視線をさまよわせた後、まっすぐと見つめ返す。
 ――ええ。
 ――何人くらい殺したの?
 少年はあくまで無邪気だ。記憶をさぐるように、喪主はかるく目をつむった。
 ――二十八人よ。
 ――へえ、ぼくのクラスより多いんだ。すごいや。
 ――でも、もう数えないわ。
 ――どうして?
 屈託のない問いかけに、全身から汗がふく。無意識のうちに、両手を背中に回す。
 ――数えられないの。
 ――ぼく、百まで数えられるよ!
 喪主の口元へ、かすかに微笑が浮かぶ。棺に納められた百合のように静かなやり取りの裏で、母親の懇願はもはや悲鳴と化した。
 両手を頭のうしろへ組むと、何度も喪主をふりかえりながら席へと戻る。とたん、母親が音を立てて平手を打つ。黒を基調とした少女の美に心を残していた男の子は、たまらずバランスを崩してしまう。椅子の背もたれに強くこめかみをぶつけ、ずるずると床へくずれおちる。失神したのだろう。ぐったりとした身体を抱きあげて、母親が泣きだす。取り巻く周囲の人々は今度こそあからさまに、喪主へと敵意のこもった視線を向ける。
 感情に翻弄され、自ら作り出した劇場で演じる人々こそが、よみがえりである。神になりかわり、祝福を与えよう。お前たちは、永遠を生き続けるがいい。
 立ちつくす喪主の細い肩へ軽く手をのせると、わずかに身を震わせるのがわかった。一瞬の間をおいてこちらを見上げた両目には完全な抑制があり、感じたと思った悲しみの波動はすでに消えていた。いや、悲しみは残っていた。いつのまにか胸の深奥へ伝播した悲しみは、いまや痛みで喉元をしめつけている。この関係をこそ、望んだはずではなかったのか。
 喪主とともに死と不死の境界をたどって、元のように腰をおろす。親族たちはようやくのろのろと立ち上がり、少女殺人者とその後見人とを大きく迂回して棺へ向かう。それはまるで、障害物に最短距離をさまたげられた蟻の行軍を俯瞰するような滑稽さだった。もちろん、笑いはしない。この偏狭な世界観が誰かにとっての蟻の行軍でないと、断言はできないからだ。見上げると、ステンドグラスを透過する輝きが、雨天にも関わらず目を細めなくてはならないほどまぶしい。光には人の感覚を麻痺させる何かの力があるようだ――
 握りしめる柔らかな手のひらから、ぬくもりが失われていくのがわかる。ひとつの公立病院とひとつのクリニックが受け入れを拒絶した。少女殺人者であることが理由だったのかどうかは、わからない。すでにいくつかの影が、予と予の少女を遠巻きに観察している。反撃の恐れが完全にないことを、この上ない慎重さで確認しようとしているのだ。上位ランカー相手の警戒は、臆病のそしりを受けるものではない。だから、次に訪れた私立病院が治療を提供してくれていなかったら予の戸籍は消滅し、予の少女の氏名はランキング上で暗転していたに違いない。
 先の医療機関に比して、驚くような慇懃さと厚遇で迎え入れられ、匿名の入院に個室まで供与される。予はただちに解決すべき重要な案件を抱えていたが、予の少女を預けたままの外出さえ心安らかに行うことができた。しかし、好意が過大である場合の含意は、やはり過大な見返りであることを処世術として予期せねばならない。
 強引に設定した整形外科医との面談で、予の少女の玉肌に傷を残さぬよう予が所持する高解像度写真を例示しながら復帰すべき現状を申し述べているところ、今後の治療計画について院長が相談を求めている旨を、背後から近寄ってきた看護師にそっと耳元へ告げられる。渡りに舟とは、まさにこのことである。眼前の不快な表情をした医師の態度が激変する未来を予言視した予は、知性の程度が互いに遠い場合は特に非生産的な対話をたちまち打ち切った。そうして予から知性の離れた者へもっとも有効に機能する鼻薬を手に入れるべく、揚々と院長室へと向かったのである。
 丁寧な口調で予の味わった艱難をねぎらいながら時代がかった人払いを命じると、院長はごく自然な動作で扉に鍵をかける。予の洞察力はこれから訪れるだろう政治的なかけひきへの即応性を予の内側へ構築した。まずは先制点を獲得したことで、予は意気を強める。それにしても、相当な老齢である。垂れ下がった顔の皺が柔和な微笑みのような印象を作り出しており、声の調子は対する者の警戒を解かせるのに充分なほど穏やかで確信に満ちている。ブラインドが調節され、床が陽に満ちる。予に対面の椅子をすすめながら、院長は窓を背に座った。反射する陽光に目を細めねばならず、その表情は陰となって判別しにくい。いま思えば、意図された舞台装置であったのかも知れぬ。
 ――お連れの方は順調に回復しておられます。あと一週間もすれば寛解するでしょう。医は仁術と申します。しかし退院なさる前に、治療のお代について話を通しておく必要があると考えまして。現世のよしなしごとが心わずらわせるのは、好む好まざるへ関わらず避けられぬものです。
 穏やかに言葉がつむがれると、黒い空洞が見え隠れする。歯茎にのぞく白いものはまばらで、粘膜の色合いは灰色に近い。相手というよりは陽光に幻惑されたせいだろう、治療費に足るだけの持ち合わせのない旨を傲然と告げる予の声はくぐもった。
 ――然り然り。医は仁術と申します。少女殺人者とその随伴へ求める対価は心得ておるつもりです。血刀に刃物傷のお二人が当院をくぐられるのを見ましたとき、野戦病院の昔を思い出して久しぶりに心おどったことは確かですからな!
 院長が両手を広げると、ブラインドから差し込む光線が弦のようにはじかれ、予の視界を明滅させる。黒い穴からは擦れた音が断続的に漏れている。笑っているのやもしれぬ。
 ――医は仁術と申します。しかし、ある戦争状態に対して「世界は平和であるべきだ」と批評を行うことに、はたして意味がありましょうか。当事者だけが述べることを許される言葉は多いはずですが、誰もが等価に世界の不幸へ関与できるとお考えの向きも、最近ではかなりおられるようで。心の闇だとか組織の闇だとかそういった名づけは、第三者にとって見えないゆえに暗いというだけのことでしょう。物体の表面へそそぐ光線の有無が、物体そのものの性質を変えることがありましょうや。当院は宿坊や家庭ではございません。まして我々が保護者の代理であろうはずはない。いらだたしいのですよ。
 周縁から円心へ回転するような物言いに相手の意図をはかりかね、生来の剛毅が生む率直さから予は真意をただす。院長のたるんだ目蓋が持ち上がると、両目は老木のうろを思わせる虚無を湛えていた。
 ――院内で、一件の少女殺人が発生することを望んでおります。
 予の心へ空白が生まれる。この申し出は、何ら意想外ではないことに気づいたからだ。青少年育成特区というシステムの中で唯一の不確定は、少女の心である。遠隔的にであれ、それを操作できる目算を持てるならば、すべての殺人は合法となるだろう。だが、病院側が手に入れる利益が事の後に訪れる現世的な大騒ぎを差し引いて、なお正であるとは考えにくい。
 ――確かに、治療費だけでは充分な対価とは申せませんな。ただ生を長らえるだけで、現世のしがらみは身体の奥底へ澱のように沈んで参ります。その身動きのとれなさはわずらわしいものですが、ときに大きな助けともなりえます。いずれの公的機関にせよ、私の一筆や口ぞえは、あなたが少女殺人者の傍らで拒絶し続ける社会的な価値を多く含んでいると言えましょうな。
 返ってきた答えは予の問いかけを正しく理解した内容ではなかったが、院長自身が差し引きを正ととらえていることだけは了解できた。渇いた口腔を唾で湿してから、予は勘違いを指摘する。黒い穴から間歇的に擦過音が漏れる。
 ――さきほど申し上げたではありませんか、野戦病院を思い出して興奮したと! 殺したことのない者は信用できませんからな! 命を奪う者と奪われる者、この当事者の感覚だけが命の真実です。こういう話をできる友人も、年々少なくなりまして。孫などを抱くともういけませんな。あの切り立った崖、世界の最突端から落下の恐れがない場所まで転進してしまうのです。あなたが磐石の何かとして想定し対抗するこの社会は、傷の上に形成された瘡蓋のような、ほんの一時的なものにすぎません。私はあなたのお立場に同情し、共感をさえ覚えているのですよ。私はわずかだけ瘡蓋の端を引き剥がして、予期される出血から傷が癒えていないことを確認したいだけなのです。医は仁術と申します。しかし、少なくとも私の心が痛まぬ命が存在し、この個人的な妄執を満たすのに心が痛まぬほうの命を供物として、かつ当院の実利にも貢献できるというのなら、どこに与えられた好機を看過する選択がありましょうや!
 光が下からやってくるこの空間は、惑星の表皮に進化を続けた結果の現実認識を不安定にさせ、揺さぶる効果があるようだ。平衡感覚はゆらぎ、数日前に行われた予の少女の後見人をめぐるやり取りが脳裏にリフレインする。
 ――親族の方々は、軒並み拒否の姿勢ですね。あのモンスターは、もう二十七人も殺していますから、無理もありませんわ。お話をうかがいましたが、未成年被後見人が貴方を選んだという点が極めて疑わしいですな。最近では“少女殺人者の人権を守る会”なんていうネット発の、本末転倒な団体もありまして。事件が起こるとすぐに、いくつか連絡が来るんですわ。つまり、推薦名簿に候補者はあふれておりまして、両親の遺書もなく、被後見人からの請求も証明できない以上、家裁があなたを優先的に選任する理由はどこにもない。妙な下心を持った連中も多いんでしょうが、少なくとも社会的立場はしっかりしていますしね。まあ、逆に不利なぐらいですよ、あなたは……
 枕を腰に当てて、霧のような雨にけぶる窓の外を見ている。気づいているはずだが、ふりむこうとはしない。長い髪の流れる小さな背中へ、医師とのやりとりや、今日あったことや、とりとめのない日常の気づきを報告する。返事はないが、確かに話を聞いている気配はあった。治療代の話はできなかった。沈黙がおり、それが充分に長くなると退室の合図だ。去り際に、未成年後見人の話をする。受け入れる気がないならこの場で断ってほしいと伝える。黒髪がわずかにゆれたようにみえたが、沈黙がやぶられることはなかった。扉を閉める最後の瞬間まで、隙間からのぞく後ろ姿は窓の外を見ていた。
 廊下で何人かの患者たちとすれちがう。いったんは拒絶したはずのものたちが、再び周囲をとりまき、その包囲を縮めていくのがわかる。山に老婆を遺棄して帰宅すると老婆が笑って出迎えてくれるような、循環する恐怖。階段を下りると、待合いは人でごったがえしていた。なんとなく出かける気をなくして、空いている長椅子へ腰かける。左には赤ん坊の背中をさする母親がおり、右には杖に額を乗せて荒い息の下で祈るような格好の老人がいる。真ん中にいるのは、いったい誰なのだろう。山頂のほこらに老婆をおさめて扉を閉めたときの気持ちを思い出す。重荷がなくなったことが足取りを軽くした帰りの山道での気持ちを思い出す。だが、帰宅して土間から仏壇の老婆を見たときの気持ちは、はたして恐怖だったか。人間世界で最も古い職業は娼婦である。ならば、最も古い虚構は、死者のよみがえりではないのか。
 相部屋のベッドから、天井を見上げる。腸炎で絶食中とのふれこみで、治療を終えるまで間借りできることになっている。カーテンの向こうに人の気配がし、車輪のきしる音は部屋の外へと移動する。足元の非常灯だけが照らす廊下で、点滴を引きながら人影はトイレへと消えた。まちがいない。足早に追いかける。個室へ入ろうとするところを後ろから回した左腕で顎ごと便器へ押さえつけ、喉元にあてた刃物を一気に引く。背後の扉を片足で押さえながら、大便用の水流で物音を消す。持ち上げた片手を便座にかけたのが、示された唯一の抵抗だった。内側からの施錠を確認し、目に見える血をぬぐったトイレットペーパーを流すと、懸垂の要領で個室の外へと出る。洗面台で両手と刃物をすすいで顔を上げると、鏡の人物には血の飛沫がそばかすのように散っている。乱暴に顔を洗う。トイレを出た両足は自然、個室へと向かっていた。細心の注意を払ってわずかに隙間を開くと、身体をすべりこませる。ベッドのふくらみは規則正しく上下しており、それを眺めるうちに両足が震えはじめて、そのまま床へ座り込む。両膝を引き寄せると顔を埋める。小学生のとき以来だった。
 あまりにもあっけない。あまりの脆弱さが、もはやせんのない疑念を生む。いったい、これに値するような罪だったのか。得体の知れない人影が乱舞する。その顔はこれまでに出会った誰のようでもある。全身を伝う汗に目を覚ますと、窓の外は明るくなりはじめている。院内はまだ静寂を保っているようだった。いぶかるのをうながして荷物をまとめ、時間外受付で退院の手続きを済ませると、面会者出入口へと向かう。驚いたことにすでにタクシーが停車しており、院長室へと招きいれた看護師がその脇に控えていた。
 ――これを渡せとおおせつかっております。
 差し出された封筒には、カードと便箋が二枚入っている。金釘文字で、こう書いてあった。
 「おふたりが出立した後に、報道各社へ連絡を行うよう申し伝えてあります。私の感謝を伝えるためにハイヤーをとも考えましたが、素性を思えばやはり目立つやり方を避けるのが賢明でしょう。
 ご首尾、お見事でした。命を奪う者と奪われる者、この当事者の感覚だけが命の真実です。瘡蓋の端が持ち上がるのは、見えましたでしょうか。
 どうぞ良い旅を、ご同類!」
 二度ばかり目を通すと、看護師に便箋を返す。提示された正体の知れない感情を咀嚼できず、受け取るという形を作ることに抵抗があったからだ。少なくとも午後になっての報道を確認するまでは、その真意をはかりかねた。
 ――本日未明、市内の私立病院で、病院長が何者かに喉を切られて死亡しているのが発見されました。入院者リストに少女殺人者の名前があり、警察は関連を調べています。
 斎場で、聖別された水が棺にふりかけられるのを見る。奇妙な眺めだ。耶蘇教の埋葬は、すべて土葬なのだと思っていた。地中に収められる棺に遺族が一握りずつ土をかける場面を思い出したからだが、それらはすべて映画の中の光景ばかりだったと気づく。
 火葬の完了を待つ間、親族のつどう控え室に喪主と後見人の居場所はない。施設の周囲をぐるり歩いても、時間は停止したように動かない。互いに語ることをなくしたふたりが、どちらからともなく見上げる煙突に黒煙はのぼらない。いまや、飾りなのだそうだ。
 炎は制御の下に無煙化され、肉を焼く臭気は周到に除去される。飛散しない自意識、管理された死。聖書の一節が思い浮かぶ。はたしてこれは、それと同じものだろうか。
 ――我はよみがえりなり、命なり。我を信ずる者は死すとも生きん。また、生きて我を信ずる者はとこしえに死なざるべし。
 左手に日本刀をさげ、黒いワンピースに身をつつんだ細い姿態。その表情に差す翳りは超越者の憂悶であったことが、いまならばわかる。
 確かに、二十八人と言った。この少女殺人者は、誰も寄せつけぬほど強くなるだろう。

少女保護特区(8)

 これはいつの記憶だろう。
 薄闇のむこうに、ロウソクの炎がゆらめいている。両親は誕生日を祝う歌を英語で歌い、兄はおどけて床を転がりまわる。うながされて息を吸いこむが、頬がこわばったようになって、どうにも吹きかけることができない。兄の目が一瞬、真剣なものを宿す。テーブルに身を乗り出すと、唾を飛ばさんばかりの勢いで、兄はケーキのロウソクを吹き消した。母が兄の無作法を叱るうち、父が笑いはじめ、兄は上目づかいに私を見ながら頭をかく。電気が点くと、危うい瞬間はまるで嘘のように消えた。
 どうして私の頬はこわばったのだろう。幸福な家族の一場面が、私によって完成されることを拒んだのか。私はいつも外側に立って、幸福の像が小さな球の中で、まるでロウソクの炎のようにゆらめくのを見ていた。
 優しい人たちだったと思う。私といっしょに、幸福を手に入れようとしていた。いや、それはあらかじめあったのだ。幸福は所与のもの、不幸だけがこの世に新しい。人にできる努力は、与えられたものを壊さないようにすること。そこに関わる人たちすべての同意を前提としなければ、たちまち崩れてしまうような、もろいもの。いったん失われれば、神の御業を人の身で再生することは不可能なのだ。小さな私はただそれを壊さないように身を固くし、やがて埒外から眺めるようになった。
 何が悪かったかといえば、私の中にはあらかじめ与えられた幸福がなかったこと。だからといって、私に権利があったとは思わない。ただお互いを尊重し、別々のように生きることができればと望んでいた。死ぬことは論外だった。異物である私と、あの人たちの幸福は不可分なほど一体化していたから。
 私が望んだのは消滅。この世界のすべての記憶から抜け出し、何の痕跡も残さずにいなくなりたい。
 許可証の入ったパスケースを食卓に置いたときの気持ちは、おそらく悲しみだった。ただ内気だと信じられていた私のうちあけ話に、集まった人たちは目を輝かせていた。まるで、これまでの長い誤解とすれちがいが、今こそすべて解かれると信じるかのように。私が求めたのは、この小さな球からの離脱。ここにある幸福をそのままに、私だけがいなくなる。だとすれば、期待は正しくむかえられるはずだった。私が求めたのは法外な対価ではなく、ただ埒外にいる権利だけだったのだから。
 沈黙が降りる。幼い頃から、私とこの人たちが境界線の上にいるときにいつも響いた、身体になじんだ静寂だ。おどけた兄が軽口を言いながら、許可証に手を伸ばす。兄はほんの少しだけ、両親よりも私に近い場所にいるような気がしていた。決して自分のことを語らず、道化を演じつづけてくれた。ただ、私が遠くへ行かないように。
 慣れ親しんだ悲しみは、このとき私を突き抜けて、沸騰した怒りへと転じた。食卓へ、血に濡れた短刀を突き立てる。兄の人差し指がちょうどそこにあった。絶叫が響く。そして、私たち家族の時間は永久に停止した。
 絶叫は、今でも頭蓋の中に響き続けている。
 主に予の頭蓋の中に響くファンファーレとともに、より強い少女の殺害を企図する列島縦断の旅は幕を開けた。北加伊道では短刀を口に四足で襲いくる少女殺人者のこめかみへすれ違いに抜きつけ斬殺し、青森県ではねぷたを引き裂いて奇襲する少女殺人者をラッセラッセと浴衣姿で斬殺し、岩手県ではワカメに足をとられながらも南部鉄器で防護を固める少女殺人者を初太刀で斬殺し、仙台県では冷凍サンマを高速で射出する少女殺人者のホタテから水月へ切り込み斬殺し、秋田県では人喰いウグイス二羽を使役する刈目衣装の愛らしい少女殺人者の顔面へ柄当てして撲殺し、山形県ではグラスに割り入れた生卵を飲み干した予があべスあべスと坂道を駆け上がり、若松県では合気柔術を駆使する少女殺人者に苦戦するも超々至近距離からの抜刀で斬殺し、茨城県では爆砕した畑の畝からセリとミツバを煙幕に襲い来る老齢の少女殺人者を二人の従者ごと心眼で斬殺し、栃木県では鬼怒川温泉に傷を癒す予の少女へてばたきしてランク上昇を告げにいぐ予のとうみぎがちゃぶれかけ、群馬県ではだるま状少女殺人者の正中線最下部内奥に鎮座した近代こけしへ刀を止められるもそのまま強引に斬殺し、埼玉県では美豆良に埴輪状の胴回りをした登校中の一般学生風少女殺人者三人を三方切りに斬殺し、千葉県では沖のクジラに手を振りながらフード付の灰色ジャージ上下で予が浜辺をランニングし、東京都では電脳街に違和感なく溶けこむも撮影に及ぼうとする濡れ雑巾の臭気放つ小太り青年たちを予が追い払い、神奈川県では白人男性の外見をした少女殺人者を疾走するタクシーの屋根から金網越しに斬殺し、水原県では投擲した複数枚のフリスビーを足場に迫る犬状の耳をした少女殺人者を空中戦の末に斬殺し、相川県では周囲にかがり火を焚いた能舞台で金銀能面の少女殺人者姉妹を演武の如き極遅の面打ちで斬殺し、新川県では早稲の香の中でチンドン屋に扮するきときと少女殺人者の不意打ちを激突の一刀で斬殺し、金沢県では少女殺人者に霞ヶ池へと引きずりこまれるも予が水面へ投じた加賀友禅を足場に斬殺し、足羽県ではハープの音階を物理衝撃波として操る少女殺人者に衣類を裂かれるも予の期待空しく斬殺し、山梨県では青木ヶ原樹海の遊歩道付近で少女殺人者が首を吊って虫の息なのを発見して斬殺し、長野県では体操服にブルマーを着用した少女殺人者がその健康な足技を披露するも高まる世論に降参して斬殺し、岐阜県では赤いマスカレードマスクを装着した少女殺人者が忍者衣装で襲い来るのを檜ごと両断して斬殺し、安倍県では野宿の深更を焼き討ちされるも延焼を防ぐため草木へと繰り出した剣撃が匍匐前進の少女殺人者を偶然に斬殺し、愛知県では少女殺人者から先端に味噌を塗りつけたういろうを頬へ押し付けられ苦戦するも金太・マスカット・ナイフで切り斬殺し、三重県では真珠を射出するガトリング砲を装着したフォーミュラカーに搭乗する少女殺人者のヘルメットを面打ちでラッコ割りに斬殺し、滋賀県では琵琶湖から飛び出した雑食性の少女殺人者を飯の詰まった桶めがけ腹開きに内臓処理しながら斬殺し、京都府では祇園祭宵山巡行の死闘で実に十四基の山鉾を中大破しながらも牛頭全裸の少女殺人者を秘剣・大文字切りで斬殺し、大阪府では電脳街に違和感なく溶けこむも撮影に及ぼうとする濡れ雑巾の臭気放つ小太り青年たちを予が追い払い、兵庫県では白鷺城の天守閣へ追い詰めたスーツ姿の男装麗人少女殺人者が突如歌い出すのを背後から斬殺し、和歌山県では紀州備長炭を頭上に紐でくくりつけた少女殺人者が炊事を開始するところを苦もなく斬殺し、鳥取県ではブロンズの肌理をした百二十人の少女殺人者を一昼夜におよぶ死闘の果てに砂丘の底へと斬殺し、島根県では宍道湖周辺で七人の少女殺人者から奇襲を受け水際へ押し込まれるも相撲の足腰で体を残して七方切りに斬殺し、岡山県ではグラスに割り入れた生卵を飲み干した予が高病原性トリインフルエンザに感染し予の少女から看病を受け、広島県では歯軋りのひどい少女殺人者を平和記念公園でみね打ちしてから水没した鳥居まで電車で移動の後に斬殺し、山口県では宇部市小野地区の茶畑を横目にしながらフード付の灰色ジャージ上下で予がランニングし、名東県では襦袢・裾除け・手甲に網笠の少女殺人者が連から三味線を振りあげるのをヤットサヤットサと斬殺し、香川県では有名チェーン店の従業員少女殺人者に背後からコシの強い麺で喉を締め上げられるも所詮はうどんなので斬殺し、愛媛県ではなもしなもしと迫る着物姿の少女殺人者が二階から飛び降りて腰を抜かしたところを斬殺し、高知県では百キロ級の土佐闘犬にまたがる少女殺人者が興奮した飼い犬に逆襲されて死にかかるのを介錯の形で斬殺し、福岡県では便座より噴射する液体を浴びしとどに濡れるも左斜め後ろより迫る少女殺人者の水月を刺し貫いて斬殺し、佐賀県では玄海原子力発電所の3号機から4号機へ跳びうつる際にプルサーマル少女殺人者がキセノンオーバーライドで出力低下するところを斬殺し、長崎県ではアイパッチの海賊少女殺人者を平和祈念像の前からフロントネックロックで対馬海流上に引きずり出してから斬殺し、熊本県では五人を殺害した少女殺人者を「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」と唱えつつ裏腹に斬殺し、大分県ではひとり山肌に槌を打つ僧衣の少女殺人者のトンネルを背後から掘削しつつ恩讐の彼方に斬殺し、宮崎県では基礎体温による避妊法を連想させる元アイドル似の少女殺人者を人工の波うち寄せる閑散としたドーム内で斬殺し、鹿児島県では言葉だけでは表せない海苔巻きむすびの如き顔面の軍服少女殺人者をごめんなったもんしと斬殺し、沖縄県ではフード付の灰色ジャージ上下の予が子犬を足元にまとわりつかせながら首里城正殿めがけて階段を駆け上り達成の歓喜に諸手を挙げて振り向けば予の少女が繰り出される御殿手をかいくぐりつつ少女殺人者をちょうど斬殺するところだった。
 マフラーの下から白い息を長く吐くとわずかに身を沈め、身長の三倍はあろうかという門扉を助走なしで跳び越した。途端、赤いランプが回転し、警報が鳴りひびく。詰め所から警棒を振りかざし襲いくる警備員を瞬く間に大地へ切り伏せると、雨樋を利用した三角跳びで予の少女は三階の窓を蹴破り、施設内へ侵入を果たした。割れた硝子がリノリウムに跳ねる音が止むと、非常灯のみに照らされた廊下には完全な静寂が訪れた。
 列島の縦断は、予の少女をロリ板ランキング三位へと浮上させる。しかし、戦いは未だ終わりを見ず、まさに永遠へと続いていくようだった。一人殺しても、その間にまた次の少女が許可証を握っている。それは、たった一人で人類全体を殺害しようという天文学的な試みだったのだ。補給は断たれない。戦いの際に真っ先に叩くべき敵の輜重は無尽蔵のみならず、男を知らぬ少女にすればほとんど不可視でさえあった。だから、予の少女がここへたどりつくのは、もはや時間の問題でしかなかったと言える。幸いにして予は生まれながらにして自身の精神が持つ不可侵の貴族性にどこかで気づいていたし、その事実が単純に生育過程で経なければならない教育機関での時間を難しくしたとは言え、これまでの生涯を――あるいは、己が生きてある力を疑ったことは微塵も無かった。判断の基準は常に精神の内奥へとすえられていたからだ。しかし、例えば幼少期に得た養育者からの虐待が、現在の自分の上に依存とか、自己否定とか、不安感とか、自殺願望などを深刻に残していると悟ったとき、その原因となる人物と対話を試みようとすることは全く意味のない空転だろうか。予の少女の行為を馬鹿げた妄想だとか論理性に欠けるとか、非難の言葉はいくらでもあるに違いない。だが、世に満ちた、生命の与奪を伴わないがゆえに可能な99%の評論を乗り越えるには、1%の情熱あるいは狂気だけが原動力となり得るのである。その前進が新たな地平を押しあげれば常識を拡充した勇気として語られ、失敗すれば世界の埒外でする愚劣な人間の消費、すなわち狂気として地に落とされる。ただどちらも、ひとつの動機より発した結末の側面を違えたものであることは、覚えておかねばならぬ。予の少女にとってはおそらく、得られる結果というよりも対話という行為そのものが必要だったのだ。遺伝という名付けの消極的で薄弱な根拠をしか持てなかった両親はすでに互いの始末をつけ、他界している。予の少女を真にこの世界へ産みだした誰かが、この奈良県立政策科学研究所にいるはずなのだ。
 自らの呼吸音に苛立ちながら門扉をよじのぼり階段を駆けあがった予は、予の少女へと合流を果たす。膝に手をかけ肩で息をする予を一瞥し、スカートの埃を軽くはらうと、予の少女はゆっくりと右手を柄にかけた。奥の暗闇に、猛獣よりもなお危険な何かが息を潜めている。予は気配を殺しつつ伝令を発し、予の子飼いに斥候目的の暗視機能を解放させるよう命じる。耳障りなほど大きく響く作動音へ呼応したかのように、消失点の彼方から輝く金属片が床すれすれに飛来し、子飼いを通じた予の視界へ急速に拡大する。たちまち時間の観念が吹き飛び、己の正体を知らぬがゆえに泣き通しだった子ども時代の場面が驚くほどの鮮明さで、整然とした時系列に脳裏へ再生され始めた。もしや、これが走馬灯というものであろうか。中学時代を迎えてから自室のみで繰り返されるようになった現実の光景は、予の内側に展開されていた哲学的スペクタクルを伴わない物理的な事実の羅列だったので、そのあまりの変化の無さに予は思わず早送りボタンを探したりした。
 鋭い金属音が、予を走馬灯から現世へと引き戻す。リノリウムの床に突き刺さった短刀が、未だ余勢を残して蠕動している。予の少女の抜刀が、予を殺すはずのそれを鼻先で叩き落したのである。予の子飼いが提供したスロー再生で顛末を確認した予は、文字通り一髪差での攻防に全身の毛が太くなり、太くなった分だけ縮むのを感じた。
 ――誤算だった。
 廊下の暗闇を滲ませるように出現する和装の少女は、怪談の一場面を思わせる眺めである。だが、予に訪れた震えは、むしろ彼我の戦闘力が拮抗している事実に由来するものだった。予の少女は何者も寄せつけぬほどに強くなったはずだ。しかし、眼前の少女――老利政子をはたして殺せるかどうか、予は確信できない。予の少女は恐ろしい早業で抜き身を鞘へと返す。予の迷いを断ち切るかのような鍔鳴りは、澄んだ残響を伴って静寂にしばしの色を与える。
 ――いや、正確には私の中にあった破滅を求める性向が、あえてこの誤算を看過したと言うべきか。もはや、眼前の少女殺人者が老利政子と同じほど強いことに何の疑いもない。互いの生死が定まるのに刹那も必要あるまい。勝敗のわからぬ戦いを戦うのは、二度目である。自棄に近いこの感情は、実に心地よい。特に、老利政子にとっては。
 語られる内容とは裏腹に、老利政子の口調にほとんど抑揚の変化は感じられない。それが、生き人形のような人外の不気味さを醸成していた。
 ――この奥に、予の保護者と特区法を生んだ頭脳がある。もし私が殺されれば、老利政子はようやく敵に出会い、そして死んだと伝えて欲しい。
 己の死さえも陶酔を超越したところで計算に入っている。予の持つ生来の貴族性は、老利政子の示した高い精神性への場違いな共振に揺れた。時の経過と共に積もりゆく生の余剰に価値を見ないがゆえに、いつでもすべてを捨てて死の零地点へと帰ることができる。これが処女性Aランクの所以か。瞬間、ロリ板が奥行きを伴って立体化し、予は屹立する思想の中身にぞっとさせられる。
 ――もし眼前の少女殺人者が殺されれば、老利政子は誰に何を伝えればよいのか。
 予の少女は一瞬だけ予のほうをうかがうと、静かに首を振った。
 ――そうか、実にうらやましいことだ。
 言い終わらぬうち、老利政子は予の少女の前にいた。予の子飼いのスロー再生さえ、コマ送りの残滓をしかとらえぬ。日本刀三尺三寸を封じる九寸五分の間合い。しかし、翻る短刀より先に雁金抜きからの右袈裟が放たれている。若松県での死闘で見せた、超々至近距離からの抜刀である。鎖骨と肋骨を砕かれ、複数の動脈を切断された老利政子は、一瞬にして絶命した。噴出する血液と倒れこむ身体を、予の少女は半身でかわす。濡れたモップを床に叩きつけるような音が響いた。予の心に湧き上がるのは、畏敬である。本来、生命の喪失はひとつの哲学の終焉と同義なのだ。死が弛緩させた筋肉は老利政子の表情から険を奪い、その顔はほとんど笑っているようにさえ見えた。日本刀が音を上げて空を切り、血の飛沫が壁を汚す。続く鍔鳴りは、仏壇の鳴物の如く弔意を示して響いたように思った。
 研究所の中枢へ近づくにつれた激しい抵抗を予想していたが、もはや拍子抜けするほどに人の気配はない。もっとも、ランキング二位の老利政子を退けたいま、予の少女を止める手立てが他にあるとは思わない。猫足立ちに先を歩く予の少女がふと立ち止まる。廊下の突き当たり、わずか開いた扉の隙間からかすかな物音が聞こえてくる。予の少女は完全に気配を消して一足に歩み寄ると、回避に充分な距離をもって鋭くドアノブへ柄当てする。扉はしかし、ただ軋みを上げて開くのみであった。
 室内の光景は、まず予の内奥にかすかな不快感を生じさせた。続いて、その理由が既視感ゆえであることに気づく。だが、それが病室にも似た部屋の外装へ向けられたものか、片隅のベッドに横たわる老人へ向けられたものかは、判然としなかった。
 ――君たちがついに、君たちの旅のひとつ目の窮極であるここへ足を踏み入れたということは、あれは死んだのだな。
 生きているのが不思議なほど小さく皺がれ、弱々しく震えている。傍らの機械から数本のチューブが伸び、老人をベッドへと拘束していた。
 ――老利数寄衛門と言う。ずっと会いたいと思っていたが、いまはこれほどにも君たちの顔を見るのがつらい。なぜなら、あれを殺さなければ誰もこの部屋へたどり着けないことを知っているからだ。誰かの死を悼むには、私は年をとりすぎていると思っていた。若い死、老いた死――何より私たちの世代には、生命に意味付けをできないほど、死が多すぎたから。ともあれ、私を始末する前にしばらく時間が欲しい。勝者は敗者からすべてを聞く権利がある。
 濁り震える呼吸音に、ほとんどかき消されてしまいそうな弱々しい声だった。しかし、それゆえに呪縛となる。圧倒的に蹂躙できると理解したときに生じる躊躇は、逆説的な人間の証明か。予と予の少女はあらゆる行動が眼前の老人を殺し得るという事実に、完全に制止させられた。
 ――青少年育成特区は民主政の生んだ鬼子だ。あまりに多くの意思がその成立に寄与したがゆえに、誰も確たる意図を同定できないほどに複雑化し、肥大化してしまった。私が語る内容さえ、青少年育成特区の持つひとつの側面に過ぎない。同じだけ深く関わりながら、私と全く別の見解を持つ者もいるだろう。
 言葉を切ると、老人は部屋の奥を見る。視線の先には、どっしりとした両開きの扉があった。どうやら、ここが研究所の最奥ではないようだ。
 ――老人がする童女への歪んだ情愛が、青少年育成特区を成立させたと揶揄される。醜聞としては、よく出来た部類の報道だ。私があれを愛したのは事実だからな。だが、最初の少女は老利政子ではない。仁科望美だ。
 ロリ板のトップに君臨し続ける少女殺人者の名である。それを口にするとき、老人は消え入りそうな声をさらに低めた。だが、充分ではなかったらしい。予と予の少女は何か人外の意識がこの場所をとらえ、まざまざと注視するのを感じた。
 ――ランキングは官僚的な形式だ。飾りに過ぎない。事実、仁科望美は過去に一度だってその座を明け渡しはしなかったのだから。最初の少女は、特区法成立以前から究極の治外法権として存在し続けてきた。法に縛られぬ埒外の実在を国家が許容することはできない。特区法とそれに付随するシステムは、すべて仁科望美を法の内側へと規定するための方便だ。書面やモニターの上ならば、膨大な文言と無意味な細則の積み重ねで、まるで仁科望美が青少年育成特区の一部であるかのように錯覚することができるだろう。しかし、あの少女だけは別なのだ。破格なのだ。一日数トンの動植物を摂取し、年間で二億トンの二酸化炭素を排出する怪物。集落ごと仁科望美の食餌と化した例さえある。その知能は狡猾極まり、日中は深山へ身を潜め、己を傷つける可能性を持つ大型兵器の前へは決して姿を現さぬ。個人が携行できる規模の銃器では、硬質化した肌をわずかも傷つけられない。極めて単純な物理的能力によって、最初の少女は法を超えている。
 予は甲殻類の心を持った少女が、両目を細める様を思い出していた。
 ――青少年育成特区の終焉を望むならば、仁科望美を殺すがいい。老利政子を殺した君には、権利と可能性がある。もっともそれは、未だ試みられていないという程度の意味合いに過ぎないにせよだ。君を規定しているすべては、仁科望美に付随した人間世界からの余剰だ。もし、目的を完遂することができれば、君は仁科望美に成り代わり、新たな王として君臨するという選択肢もある。もっとも、いずれを選ぶにせよ私には関係のないできごとだがね。
 老人は息を吐いた。細く、長く。室内は充分に暖かかったが、なぜかその息は白く見えた。
 ――いまの私にあるのは、君に対する憎しみだけだ。心の底から君を憎んでいる。血のつながりこそなかったとはいえ、あれはかけがえのない私の娘だったのだからな。できうることならばこの手で君を殺したいという気持ちだけが、最後に残った私の持ち物だ。しかし、少女殺人者を相手に老いさらばえた身体にこの復讐を完遂する力は無い。だが、あれの係累やあれを愛した者たちの誰かがいつかその宿願を果たすかも知れぬ。この希望を抱けば、私は死ぬことができる。覚えておくといい。君が殺してきたすべての少女殺人者の背後には、私がいたのだ。憎悪の種子はかように広く多く蒔かれ、そのどれひとつも萌芽しないなどということはありえぬ。仁科望美と同化する以外の道が、君に残されていることを祈るよ。
 注意していなければ見過ごしてしまうほどかすかに、老人は微笑んだ。
 ――さあ、私を殺し、君たちに残った最大のひとつを消しにゆけ。しかし、そのひとつは人類の憎悪を人類ごと抹消するという、大いなる救済を孕んだひとつであったことを覚えておいてくれ。仁科望美は強大だが、それでもなお人類が殺し得る。あの少女が全世界を殺害できるほど強くなれたならば、歴史の宿痾とも言うべき親から子、子から他者へと連鎖する憎悪の連なりを断ち切り、人類は新たな再生へと進むことができたものを。いや、これは過大な妄想と言うべきか。
 語り終えたことを示すように、老人は目をつむる。予の少女はうながされるように、のろのろと柄へ手をかける。だが、そこで動かなくなった。待てど訪れぬ死に、歳月に薄くなった目蓋が再び開かれる。
 ――この光景を目にするのは幾度目だろう。人の心とは不思議なものだな。多くの同胞たちを呵責なく殺し続けてきた誰かが、ひとつの無力を前に立往生するのだから。
 言うなり、老人は機械につながる管をまとめて引き抜いた。赤・黒・黄の体液がチューブを逆流して噴出し、皺がれた身体が痙攣する。
 ――うむ、快なり。
 ほどなく老人の両目は、生命を持つ者が宿す輝きを失った。予の少女の手が、放心したかのように柄から滑り落ちた。これまで殺してきた多くは、予の少女にとって単独の死に過ぎなかった。だが、二つの死が編んだ質感は、思いもかけぬ衝撃を与えたようである。なぐさめに肩を抱こうとする予の指先は、かつての拒絶を思い出し震える。布越しの感触は、その場で斬り捨てられたとて後悔せぬほどの甘美な柔らかさだった。しかし、わずかの抵抗さえ示さず、予の少女は俯いたまま睫毛を震わせるばかりである。はかなげな横顔が訴えるのは、殺戮を続けることへの倦怠か。だが、ここですべてを頓挫させるわけにはゆかぬ。途中で降りるには、意味なく殺しすぎた。予が指先へかすかに力をこめると予の少女は頭を軽く振って、おぼつかぬ足取りで一歩をふみだした。他に進むべき方向はない。引き返す道は、すでに少女たちの遺体で埋まってしまっているのだから。
 研究所の最奥へと続く扉は、厳重なセキュリティとは無縁の無防備さで、あっさりと侵入者を受け入れた。薄暗い部屋の中央には、楕円形の会議机が配置してある。異様なのは、すべての席に人形が置かれていることだ。和人形、磁器人形を初めとして、予の卓抜した知識でさえ出自を特定できないほど、多種多様である。それらは一様に眼前のラップトップ式パソコンを注視するようで、画面からの照り返しが与える不気味な陰影は、無機物であるはずのものどもを有機物のように見せていた。
 ――いいぞ、いいぞ。老利政子はずっと死に体だったからな。流動性が担保されるのは、実に結構なことだ。
 こちらに背を向けた白衣の男が、わずかに常軌を逸脱した激しさで頭上に手のひらを打ち鳴らしている。奥の壁面にはモニターがびっしりと並び、和装の少女が斬殺される瞬間が幾度も繰り返し流れていた。予の少女は、その悪趣味に顔をそむける。白衣の男は椅子ごと振り返ると、愉快そうに予の少女を眺めた。
 ――ついにたどり着いたか。ぼくのことを知るはずもないだろうが、ぼくにとって君たちはずっと特A級の観察対象だった。まるで、憧れていたアイドルに初めてに会うときの少年みたいな気持ちだよ。それにしても、あの日本列島殺人行脚は大ヒットだったね。あやうく公僕の立場を忘れて、大手旅行社と鉄道会社へタイアップ企画を持ち込むところさ。
 雑草のように無秩序な髪は白いものが多く混じっている。軽薄で軽躁的な話しぶりとは裏腹に神経な視線を銀縁眼鏡で覆い、内臓の虚弱を疑わせるほど頬は痩け、皮膚と同じ色をした唇は酷薄な印象を予に与えた。相反する印象が集積した外見は、老人のようでもあり青年のようでもある。
 ――ようこそ、少女審議委員会へ。委員長の五嶋啓吾だ。政策研究所の所長も兼務している。そして、ここに居並ぶのは、当委員会の錚々たる構成メンバーのみなさん方だ。会議に欠席する場合、あらかじめ代理人として人形を立てるよう決まっている。ご覧の通り、実在の名士なんてのはこういう輩ばかりさ。少審は委員長の諮問機関に過ぎず、決裁権は委員長であるぼくが握っているから、会議の運営はもはや他に類を見ないほど円滑だ。
 言いながら突然、手近の椅子を人形ごと床に蹴り倒す。磁気人形の頭髪が剥がれ、黒い空洞がのぞく。ひび割れて対象性を失った顔面は、ひどく既視感を刺激した。
 ――そして、罷免も任命もぼくの思いのまま。いつだって、ひとり分の席は空いている。必要なのは、永久に自我の形を変質させる一種の諦念だけだ。何も放棄せずに、何かが手に入るわけはないからね。
 異様な光を帯びた視線が予へと向けられた。瞳に込められた熱量次第で、年齢についての印象が全く変わる。だが、予の経歴に対する遠まわしの揶揄も予をひるませるには至らなかった。これまでの人生に後悔はあるか。いや、ない。予は毅然と胸をそらしたのである。
 ――君が少審にあげる動画や報告書は、実に興味深い。委員へ推挙したいくらいだ。魅力的な申し出とは思わないか。君の反社会的な本質をそのままに、君は確たる社会的な地位を得る。これがどれほど度外れた大逆転の可能性か、君ならばわかるはずだ。
 浮かされたような口調に釣りこまれそうになり、予は主導権を取り戻すべく老利数寄衛門の死を告げた。社会的地位は少女殺人者にとって何ら盾にならぬことを、五嶋啓吾に思い出させるためである。傍らに立つ少女殺人者は、居ながらにして脅迫と同じ効果を持っている。ただ、予の少女が今日の死に倦んでいることだけは、悟られてはならぬ。
 ――見ていたよ。残ったのは恋着した童女の行末を見たいという妄執だけで、実際あの老人は長い間ずっと死に続けていた。よくもった、と言うべきだろうな。ただ、青少年育成特区の設立に寄与したという一点でだけ、歴史に名を残す資格はある。政治屋にしてはまあまあ話せる人だったけど、いつだって容れ物を作ることが前提から目的へすりかわってしまう。何を納めるかはどうでもよかったんだろうね。フレームはなくても、実体はある。抽象概念だけが、この世の底とつながっている。老利数寄衛門との議論は平行線だったね。何を見せたいと思うかが政治だとすれば、青少年育成特区は世の人々に何を見せたかったのか。
 わずかに細めた目の下に皮がたるみ、その顔はたちまち時を刻んだ。年老いた分だけ口調の帯びるトーンに憂鬱さが加わり、人格の置換さえ疑わせる変容である。もっとも、青少年育成特区導入からの歳月を考えれば、設立に関わったというこの男が見かけほど若いはずはない。
 ――全体主義的な風合いに対するカウンターとして消極的に採用された民主政は、対立項への嫌悪ゆえに真逆の極端へと暴走していった。均質化と個性化は常にせめぎあい続けなければならず、どちらかへ完全に着地することこそ避けねばならなかったはずなのに。結果はご覧の通り、行き過ぎた個人主義が価値を拡散させてしまった。価値とは「何を是とするか」という命題に対する回答、すなわち善の様相を意味する。善は自由の名の下に組織、あるいは人間と同じ数にまで際限なく分割されていく。一方で、悪は変わらないままその版図を維持し続ける。悪は法により規定されるが、善は法により規定されないことを考えるといい。善が悪に勝利できなくなったのは、道理じゃないか。最初期段階で青少年育成特区が目指した理念とは、目指すべき社会システムの可視化にあった。個々人の戦争状態は恒常的に存在し続けるべきだ。不可視であるがゆえに、穏やかな天秤の例えで結論を次代へ先送りにする破滅への保留を廃し、少女殺人者たちは現状が常に戦争であるという事実を人々の前へ顕在化させる。さらに、青少年育成特区は舞台の主役である少女たちを抽象化した。ネットやテレビや新聞や、手の届かない場で繰り返される虚像には実在を薄める効果がある。哲学書や思想書の文言なら涙が浮かぶほど身に沁みるが、隣人や親族の小言は許容できないほど苛立たしいからね。形が無く、ほどよく遠いということが啓蒙には重要なんだ。……まあ、ここまでは建前だね。この国の政治に統計データは必要ない。つまり、小説を書くように政策を書けば、あとは人気投票次第で自動的に事が運ぶのさ。実のところね、ぼくはただ、少女が、大好きなだけなんだ。
 異様な光に目を輝かせながら、五嶋啓吾は爬虫類を思わせる長い舌で色の無い唇を湿した。大きく開かれた目が顔全体の皮膚を持ち上げ、劇的な若返りの印象を容貌へ与える。嗅ぎ取った臭いに全身は粟を生じ、想起した同族嫌悪という言葉に予は首を振った。
 ――ただの一瞥で男どもを蹂躙する少女たちが、陰惨な陵辱の末に社会の枠組みへと規定されてゆく過程にぼくは切歯扼腕してきた。青少年育成特区は、フェミニズムなんてメじゃない、国家の庇護の下に少女たちが他を圧倒し君臨し、暴力で世界をほしいままにするシステムだ。少女たちの神聖を守るためには、社会からの同調圧力を退けねばならぬ。万が一にも誰かの手に入ってしまうような可能性があってはならぬ。現世の誰からも触れられないよう少女たちの存在をエンターテイメント化し、つまりいったん実在から実存へと引き上げることで一時化し、外的・抽象的・遠隔的消費が可能な状態を作り出すことにこそ、青少年育成特区の真の目的がある。消費され尽くすということは、関心を完全に喪失することだからね。その先に少女たちは、路傍に苔むし、打ち捨てられた道祖神の持つ、何人もその由を遡れないがゆえの不可解の聖性を獲得することができる。
 じっと話を聞いていた予の少女は、そこで何かを言おうしたのか、わずかに唇をひらく。先ほどまでの虚脱の様子は消えており、予は傍らから漲る圧を感じる。しかし、五嶋啓吾はかぶせるように言葉を続けた。
――ぼくを狂っていると思うか。いや、正常と異常は時空において相対的だなんて、つまらない指摘はたくさんだ。自然とは異なった環境に置かれて壁に頭蓋を骨折させるマウスの発狂が固着したものが、人の持つ知性なのだろう。だから、カウンセリング的な、心理学的な救済に神を感じて心乱される。本当はただ発狂しているだけにすぎないのに。環境への適応が知性を作り出したのなら、皮肉にもそれは神の不在をそのまま証明しているじゃないか。いまや君たちは余人からの入力を受けつけず、外部からの刺激に殺す以外の応答を必要としなくなった。ぼくたちは一方的に君たちへ祈りを捧げ、愛と欲望を投影し、次の少女の到来を望むがために、君たちがただ消えてゆくのを傍観し、やがて完全に忘却する。君たちをこの世のものとも思われないよう神秘的に、蠱惑的にするために「殺し」を与えたが、言葉まで奪った覚えはない。君たちには、それを保持し続ける自由もあった。けど、殺人の享楽をさまよううちに、言葉を放棄したんだ。言葉は「殺さない」ためにあるものだからね。
 予の少女は、つまらなさそうに前髪へ手櫛を入れる。五嶋啓吾が一瞬、ひるんだように視線をそらす。続く一声はわずかにかすれていた。
 ――さあ、ぼくの話はここまでだ。仁科望美のところへ向かうといい。君が人がましく話すのを聞きたくはない。もっとも、少女殺人者に何かを強制できるとは思っていない。ぼくの存在と言葉を無化する手段は、すでに与えられている。
 予と予の少女への興味を失ったかのように、白衣の男は再び壁面のモニター群へと向き直った。しかし予は、肘掛からのぞく指先がかすかに震えているのを見逃さなかった。無頼と狂気を装った一世一代の大芝居は、ただ助かりたいがゆえだったのか。誰かに向ける最も冷酷な感情は失望である。はたして気がついているのか。いぶかった予が、端整な横顔をのぞきこんだ瞬間――
 一閃、予の少女は白衣の男を椅子ごと切り伏せた。

少女保護特区(9)

 私のために殺すとき、心は痛まない。誰かのために殺すとき、心は痛む。
 黒く巨大な影がゆっくりと顔をあげた。誰かの――もしかすると自分の――悲鳴を聞いたように思ったからだ。それは、震える音叉の右と左が否応に伝えるような、剥き出しの、痛覚さえ伴う共鳴だった。
 近づいている。私の魂と同じ色をした魂が近づいている。あれは、私が喪失してしまった片翼だろうか。
 いや――
 あの色合いは似非だ。あれは煤の集積した黒に過ぎぬ。拭えばたちまち黄疸のような、濁った地金を晒すに違いない。一人や二人多く殺したところで何も変わらぬ。家族の血でさえ、私にとって特別ではなかったのだから。
 そこまで考えて、心臓と胃壁を細く刺し貫くような違和感に気づく。久しぶりの感覚だった。仁科望美はその正体を知っている。それは、孤独である。悲しみも痛みも超越し、恐怖を己がうつし身とした。しかし、最後に残るのは、やはり孤独なのか。
 孤独は心を惑わせる。どんな強靭な精神も孤独に迷う。だが、孤独が他者へと向かう感情ならば、己よりも劣った相手へは生じぬはずだ。人間すべてを殺害できるのならば、行き先を失った孤独は、きっと霧消するに違いない。
 最初の少女が殺し続けることに何か理由があるとするならば、まさにこの歪な哲学こそがそれであっただろう。
 近づいている、近づいている。
 知恵と本能が渾然となった仁科望美の意識は、愉悦をもって目蓋の無い瞳をぐるりと回転させた。
 あれを殺害せよ、必ず殺害せよ。あれが私よりも劣っていることを証明しながら、入念に殺害するのだ。
 ものを作ることはものを壊すことと同じである。無限のような繰り返しのうち、最初に生じた意味を消滅させることで、それは完成する。ものを作ることの終着にあるのは、完全な無化だ。
 ――これ以上は無理です!
 叫び声が、予を思索から現実へと引き戻した。
 ローター音の下で、操縦士の声はほとんど悲鳴である。無理からぬことか。ランキング二位の少女殺人者を一位の元へ同道する仕事なのだ。孕みきれず結露した死が眼前へ滴り落ち、複数の死を一時に求めえぬ人の身は、汚辱を伴った残虐さが支払いの代わりになることを否応に予期するのだろう。
 ――もう少し近づいてください。姿の見えるところまで。
 精気の無い声。振り返れば、予の少女が日本刀を膝へ横抱きにして座っていた。視線はまっすぐ前を見つめているが、その実どこにも焦点がない。
 しかし、操縦士に湧き上がった感情は、予とは異なるものであったらしい。とたんに背筋を張り、操縦桿を握る指の関節は白くなった。
 ヘリは、次第に密度を濃くするようにさえ思える大気を裂いて、大和川上空を通過する。一年前の予は、少女殺人者とこれに乗る未来を予想していただろうか。青少年育成特区における観察対象、すなわち少女殺人者の動向を探るために導入された対少女哨戒機である。特区の成立に際して国から格安で払い下げられたが、メンテナンスにかかる費用は地方自治体の収入でまかなわれており、いまや相当度に老朽化していた。
 仁科望美を殺し、青少年育成特区を終わらせる。予と予の少女が得た結論には、一種の高揚感があった。だが、その感情的な側面は一人の少女にとっての最善を曇らせてはしまわなかったか。そして、予は本当にこれを望んでいるのか。
 成体までの被支配の歳月が、自立というよりは支配を求める人間の基本的な性向を決定する。最良の支配者、究極の王政が常に民主政を上回るように思えるのは、初源の不可避的な無力状態に起因している。人類がイデオロギーの呪縛より逃れるためには、まず何より幼年期の時間を消滅させる必要があるのだが、生物学的な事実がそれを妨げる。ゆえに、社会は個人に先行できない。個人の世界観は幼少期の感情生活によって致命的に影響され、それは成長して以後の価値判断を予め決定してしまうからである。卵と鶏の議論よりも明白な結論だ。この意味で予は運命論者にならざるを得ない。
 しかし、これは人の歴史が抱え続けてきた大前提を確認するに過ぎず、改めて指摘すべき内容とも思われぬ。近代の抱える新しい問題とは、かつてなら養育する者とされる者の間へ侵入して運命をゆらがせた外的な要因が薄まり拡散してしまったことにある。幸福は家族に矮小化され、不幸は世界へと巨大化する。
 家族へ背をむけ、世界を破壊する。仁科望美の殺害は象徴なのだ。これは、時代に向けてする予の復讐である。
 たどりついた結論を打ち消すために、予はかぶりを振って窓の外を眺める。眼下の大和川に、以前仮居していた橋桁が見えた。河原では、やはり何者かが炊事の煙を上げている。あれは自分か、自分はあれか。視界が倍率を上げるような没入の感じがあり、続いて自己が二重になる錯覚が生じた。茫洋とした、特徴に乏しい人影が立ち上がり、こちらへ手をかざす。この距離で視線が交錯するはずはない。しかし一瞬、痛ましい輝きを宿す瞳を覗き込んだ気がした。
 現実を直接手触りするときのざらついた感じに嫌悪感を覚え、予はそれを避けるように予の子飼いを眼前へと掲げた。思えばビデオカメラとは、意識の不滅へ捧げる信仰に近い。対象が消滅した後も、己の意識は存続しているという確信がなければ、撮影を行う意味がない。現在という熱を過去へ冷却し、対象の実際を越えることを願う。すなわち、撮ることの本質とは対象の消滅を祈願することである。
 予はそれの消滅を強く願いながら、録画ボタンを押す。RECの赤い文字が点滅すると、炊事の煙だけを残して橋桁はすぐに無人となった。
 付近の山林より、それは出現する。予の認識は最初、縮尺が狂っているのだと判断した。前傾した姿勢で、すでに電線へ届くほどの大きさである。しかし、両手が膝頭の付近にまで垂れていることをのぞけば、滑らかな曲線で構成された肢体は、未成熟の少女そのものであった。最初にして最強の少女殺人者、青少年育成特区の生まれいづる処――仁科望美である。
 ヘリの接近に気づいたのか、ふいにこちらへと顔を向けた。柔らかな卵型の輪郭の内側で、目蓋と唇だけが無い。予にとってこれは二度目の邂逅になるが、前回は宵闇のうちであった。すべての魔術を解く真昼の陽光の下で、なお仁科望美の異様さは少しも減じるところがない。
 突然、操縦士が許可を得ぬまま、ヘリの高度を下げ始めた。真っ赤になった両目と青ざめた頬が絶望のコントラストを成す。もはや背後からの圧力よりも、眼前の怪物から来るほとんど有形の恐怖に屈したのである。予は予の不快を伝えようと操縦士へと向き直った。
 ――だいじょうぶです。もう、いけますから。
 だが、予の少女は静かに予を制止する。不快の正体は、操縦士の動物的な本能が予の少女よりも仁科望美の力を大きく見積もったところにある。予は不承不承うなづくと、足元の荷を接近する道路へと投げ下ろす。続いて、予と予の少女は、ホバリングに空中静止する哨戒機から共に飛び降りた。転倒する予を尻目に、予の少女は重さのない羽毛のように着地する。瞬間、足元が黒い影に覆われた。
 人の姿をした、人ではない何かが、上空より急速に予の視界へと迫る。目蓋の無い錆び色の瞳。甲殻類にも似た、生命からの共感を拒絶する濡れた質感。削げ落ちた唇は、赤黒い乱杭歯を隠さない。脳頂から差し込まれた恐怖が、すぐに諦念となって全身を呪縛する。狩られる者が狩る者に対して身を開くときの、あの麻痺だった。
 しかし、予の少女もまた、狩る者である。左手で荷をすくいあげながら、その勢いのまま予の腹へと右肩を差し入れ、跳躍する。巨大な少女は飛び立ちつつあった哨戒機を荒々しい陵辱のように両脚で挟み込むと、地面へと叩き伏せた。落下の衝撃と単純な質量へ耐えかねたフレームは、玩具のようにひしゃげる。
 一秒を引きのばす長い静止と、爆発。遅れてやってきた爆風が予の少女の陣幕をはためかせ、背後に吹き上がる炎は小柄なほっそりとしたシルエットを際立たせる。その表情はすでに、これから起こる殺害を疑わない少女殺人者の冷徹を湛えていた。予の少女は、何をすべきか迷わない。足元の荷を素早くほどくと、幾振りかの日本刀を取り出す。予の政治力が日本刀町に現存する業物のうちから最良の七本を蒐集したのだ。これらは、仁科望美を殺害するために準備された凶器である。
 予の少女は鞘を払うと、七本の刀を順に道路へと突き立ててゆく。少しも力を込めていないようなのに、抜き身はまるで熱したナイフのバタを裂くが如く、やすやすとアスファルトへ突き刺さる。やがて、予の少女の背を取り巻くように、刃の青白い半円が形成された。
 黒煙の中から現れた最強の少女が、天を仰いで咆哮する。火傷ひとつ無い。炎では、その肉を焼くのに冷たすぎたのだ。赤子の泣き声を逆回転でスロー再生したような、重く低い叫びが大気を震わせる。叫び声は音波となり、音波は物理的な衝撃波と転じて、左右に立ち並ぶ民家の窓ガラスを粉砕しながらこちらへと迫る。
 しかし、抜き身を片手にした予の少女は微動だにせぬ。まさか受け止めるつもりか。いや、背後に予が控えているせいで、回避できないのだ。正眼へ構えた日本刀が、衝撃波を左右に分かつ。予と予の少女が立脚するのは、さながら氾濫した激流の最中に残る中州だ。
 澄んだ音を立てて鋼鉄の刃が折れると同時に、激流は途絶える。四足に身を屈めた仁科望美が、長い前腕を地面に叩きつけて移動を開始したのだ。その速度は、見かけからは想像できぬほどに速い。
 予の少女が予を見、予はこめられた意図を感じとる。この戦いに、予は足手まといだ。だが、南北の街路へ東西に壁の如く差し渡す巨大な少女を前に、避ける場所などあるはずがない。予の思考は停止する。しかし、予の少女は判断を迷わなかった。新たな抜き身を口にくわえ、さらなる二本を左右へつかむと、東の民家へと駆け出す。目蓋の無い眼球が予の少女を追う。それは、フェイクだった。
 次瞬、ブロック塀を蹴って間逆へと跳躍した予の少女は、仁科望美に生じた死角へと身を投じた。二本の刀を交叉させると、右の手のひらをアスファルトへ縫いつける。突然に支点を得て、おそろしく巨大な臀部が回転しながら滑り、いくつかの家屋をなぎ払うように粉砕する。
 そこへ砂煙を裂いて、茶色に塗装された消防車が猛然と飛び出してくる。瞬間、予の身体は浮き上がった。軽い衝撃を感じた後、予はランブラーの屋根に横たわる己を発見したのである。傍らでは、死体処理用の手鉤をかつぎ、やくざに紫煙をくゆらすツナギ姿の妙齢女性が予を見下ろしている。
 ――やあ、アンタだったのかい。死体を釣り上げたかと思ったよ、あたしゃ。
 予が予の少女の観察員となって間もない頃、予の少女によって行われたいくつかの少女殺人に立ち会った清掃局の職員である。一年以上を経てなお、予を予と認識できたのは、よほど予の発する何かが特別であるのに違いない。
 ――まさか、二人とも生きてるとは思わなかった。まったく、あれから何人殺したのやら。
 家屋の残骸から、巨大な少女が立ち上がりつつある。左手から滴った血が下水へと流れこんでゆくのが見えた。殺せる。この生き物は、人類が殺せるのだ。
 仁科望美がうろうろと周囲を見回す。敵を見失ったのだろう。その背後に、抜き身を片手に電柱の上へ直立する予の少女がいる。半円を描くようにゆっくりと刀を正眼へと戻す。終わりだ。
 ――けどね、今回ばかりは相手が悪すぎるよ。
 吸い口を噛み潰しながら、清掃局員は厳しく目を細める。何を言っているのだ。いま、勝利は正に達成されつつあるではないか。
 音もなく宙に身を躍らせる予の少女。呼応するように、仁科望美が振り返った。唇の無い口腔が歪む。笑っている。知っていたのか。回避行動の取れない空中へ、狡猾な演技で標的を誘い出したのだ。
 頬が膨らみ、右腕が鞭のようにしなる。群がる蝿に牛の尻尾がするような、無造作な一撃。しかしそれは、蝿にとって致命的である。
 予の少女はたちまちアスファルトへと激突し、大きく跳ねた。そして、動かなくなる。予は、接触の瞬間に予の少女が身を屈めるのを見た。衝撃は吸収されたはずである。ただ、信じるのだ。殺戮の日々が積み上げた予の少女の強さを信じるのだ。
 ――あー、こりゃ死んだかもね。
 霊柩車にもたれかかりながら紫煙をくゆらせていた清掃局員は、煙を吐き出すのと同じような無感動でつぶやく。言葉に状況を確定させまいと息を潜めていた予にとって、その発言の無神経さは容認しがたかった。予は清掃局員をにらみつける。こめかみに白い切片を貼り付けた妙齢の女性は軽く首をかしげ、目を細めた。
 ――出歯亀ぐらいに観察員なんて名前をつけて、全く連中どもはいけすかないが、その目を見る限り、もしかするとあんたは少し違うのかもしれないね。増岡ってんだ。紀の川水系を担当してる。あと数分ばかりのつきあいだろうが、よろしく頼むよ。
 皺がれた片手が差し出された。予は無言のままとりあわず、予の少女へ向けて再びビデオカメラを構える。予の少女は地面に倒れ伏したまま、微動だにしない。
 ――嫌われたね、こりゃ。まあ、お互いにするべき仕事をするだけさ。
 増岡は、わざとらしくため息をつく。その間にも、仁科望美は腰を屈めるようにして、予の少女へと近づいてゆく。偽死を警戒しているのか。小柄な両肩はもはや上下しておらず、折れた刀をつかんだ右手は力なく垂れている。ノイズのような眩暈。撮影することは、対象の消滅を願うことである。ならばいったい、この行為が何を引き起こすことを望んでいるのだろう。
 ゆっくりと振り上げられた右足の影は、予の少女をすっぽり覆ってしまうほどに巨大だった。それが小さな身体を圧し潰さんとする正にその瞬間、予の少女は劇的に横回転して危地を脱する。そして、アスファルトを鞘にした抜刀術で、抜きざま右足へと斬りつける。しかし、狙いが充分ではなかった。分厚い爪に阻まれ、わずかばかり肉へ切り込んだところで刃はふたつに折れる。
 予の少女は新たに刀を引き抜くと、大きく後ろへと跳びすさった。仁科望美に訪れた変化が、次なる攻撃を躊躇わせたのだ。
 ――二度も傷つけられた。あの化け物の自己愛にゃ、充分すぎる打撃だろうね。
 つぶやいた増岡の横顔には、軽口の様子からは遠い深刻さが浮かんでいる。
 ――あの身体に肺呼吸じゃ、実際、動くのもままならんわね。ここからがアンタたちにとっての本番ってわけさ。
 それは、極めて生理的嫌悪に満ちた変化だった。肩口から背中の上面が波打ち、隆起する。少女が、少女の持つ柔らかさと滑らかさをそのままに、正体不明の皮膚病に侵されていくのを早回しにするような眺めである。
 ――さしずめ、エンジンを積み替えてるってところか。
 やがて仁科望美の上半身へフジツボ状の突起がびっしりと並んだ。外観とは似合わぬ柔軟さで、それらは収縮を繰り返している。肥大した上半身は細身の下半身と異様なバランスを成し、突起に押される形で首は地面と水平に曲がっている。これが、殺し続けてた者の本性なのか。それはもはや、人の戯画へと堕していた。
 かつて少女殺人者だったものの成れの果て――人類に仇為す巨獣である。
 その背中に、小型の竜巻のような気流が発生する。肩越しの景色が陽炎の如くゆらいだかと思うと、突起からゆらゆらと褐色の気体が立ち上り始める。清浄な吸気は、糜爛した呼気へ。緩と急、二つの動作をあわせて、それは呼吸しているのだ。予は息苦しさが増した気がして、思わず喉元へ手をやった。
 巨獣は突如、予の少女へと風を巻いて襲いかかる。小動物の敏捷性を備えた鯨を思わせる、ほとんど物理法則を無視するような動きだ。長い前腕を鞭の如くしならせる一撃が発する轟音は、それがもはや音の壁を越える速度へと達したことを知らせる。触れれば、この世のあらゆる形象は崩壊するだろう。
 だが、単純に速度を比べあうならば、予の少女が遅れをとるはずはない。巨獣の攻撃は、次々と紙一重にかわされる。同時に、予の少女を包む陣幕は次第に切り裂かれてゆく。
 大きく蜻蛉を切って距離を取ると、予の少女は引き剥ぐように陣幕を脱ぎ去った。その下には、極めて精緻に肌へと密着した体操着がある。予の政治力が日本刀町以外の場所で特注させた逸品である。達人同士の戦いでは、いかに肌へ近い位置で攻撃を見切るかが決め手となる。繰り出される攻撃にこそ、最大の隙が存在するからだ。陣幕を脱ぎ去る暇もあればこそ、追いすがる巨獣の追撃は予の少女へと突き刺さった。しかし、それは残像である。予の少女はすでに前腕の内側にいた。巨獣の肩にある突起物のひとつが逆袈裟に切り裂かれ、赤黒い粘液が噴出した。仁科望美と同じく、予の少女もまたエンジンを積み替えたのである。
 ふたりの攻防は、影を追うのも困難な高速の戦いへと変貌した。巨獣の攻撃は、もはや予の少女をつかまえることができない。だが、攻撃が引き戻される隙をついた予の少女の反撃も皮一枚を裂くのがやっとである。傍目には激しい攻防にうつるが、その実は互いに決め手を欠いた、極めて静的な消耗戦なのだ。
 そして、永遠に続くと思われた均衡は、思いもかけぬところから崩れた。巨獣のひと振りに破砕された電柱が、瓦礫ごとランブラーへと飛来したのである。電柱は無人の運転席を貫いたのみだったが、予の少女はなぜか動揺を見せる。視線がこちらへと逸れる瞬間を、仁科望美は見逃さなかった。
 嘲笑、そして一撃。
 咄嗟の防御に差し入れた刀の峰はやすやすと破壊される。予の少女は地面と平行に長く滑空し、家屋の壁へ叩きつけられた。予の子飼いが倍率を上げると、予の少女の口の端から赤い泡が吹き、鼻から血が流れるのを写した。どこかで不滅を信じていた。信じる強さが足りなかったのか。まさか、死ぬ。世界の中心であったはずの、予の少女が死ぬ。
 ――さあて、仕事の時間だ。
 増岡が手鉤をつかんだところへ、予は立ちはだかる。
 ――相手が違うんじゃないかね。
 苦笑しながら、その女性はまっすぐに予を見た。
 ――いいかい。いくら他人を殺したところで、一発殴り返されなきゃ、命が何かなんてわからないのさ。あんたの世界も、私の世界も、あの子たちの世界も、ぜんぶ自己愛から成り立っているからね。自分の命がどういう形をしてるかわからなけりゃ、他人なんざどこまでいってもただの書割りさ。一方的に殺してきたから、自分を生み出した長い営みの正体について、何ひとつ理解することができないでいる。どっちもね……ところでさ。
 鼻から細く煙を噴き出すと、吸いさしの煙草を人差し指で宙へはじいた。
 ――いつまでそこへ突っ立ってるつもりなんだい。いまならまだ、あの子の人生に関わることができるんじゃないのかい。
 関わる。ただ少女の語り部であることで、少女と世界を連絡させてきた一観察員が、少女の人生に関わる。突然に来たしたパラダイムの転換に、思わず掲げていたビデオカメラを下ろした。視界からノイズが消えると、鼻腔へ鉄錆のような血の匂いが混じった。
 ――この年になると、おせっかいが身上みたいになっちまう。まあ、いま動かなけりゃ、なんにもならないわね。
 殺害を確信した巨獣の吼え声が住宅街へこだまする。ビデオカメラが手のひらから滑り落ちる。レンズの割れる音が合図になって、駆け出した。あらゆる理性は頭から吹き飛び、ただ大の字に両手足を広げて、巨獣の前へ立ちはだかる。
 ――殺させないぞ、馬鹿野郎。やれるもんならやってみろ。
 歯の根が鳴り、涙が出る。
 家族や、社会や、歴史や、世界や、ぜんぶくそくらえだ。本当のことは、この手の届く範囲だけが大切で、他はみんな消えてしまって構わないということ。けど、なんでいまさらなんだ。
 曲がった首は相手の行動に対する不審を表明しているようにも見える。闘牛が地面を掻くのにも似た動作でアスファルトの感触を確かめると、巨獣は身を屈めた。まばたきひとつほどの時間だったに違いない。それは、爆発的な速度でぐんぐんと視界へ拡大した。
 皮肉なものだ。説き伏せるのに有効な言葉を持たず、殺すのに有効な暴力を持たず、長く体験し続けてきた世界との対峙の構図を、この状況は余すところなく体現している。
 がしゃん。
 粗なガラス細工が破裂する音が体の中から響き、視界がアクロバットのように回転する。家々の屋根と巨獣の背中が見えた。少女の姿はない。懐かしい感覚。そういえば、昔は落ちる夢ばかり見ていた。うつぶせとあおむけ、アスファルトへ二回、大きくバウンドする。
 私――の目の前に広がるのは広々とした青空だった。ひとつながりの熱が全身を包んでいる。指一本動かない。痛みは不思議と無かった。
 私は、内側にあった私より大きなものが、私と同じ大きさへ収縮してゆくのを感じた。二人の少女の顛末はどうなったろう。重力に身を預けて、ようよう首を転がす。
 敵を見失った巨獣の背面へ、蜻蛉を切る少女。その手にある刀は、最後の一振り。
 ああ――
 いまこそ、この世の真実に気づく。
 私は、私たちは、子どもたちに、隣人たちに、そして見知らぬ誰かに、この世界へ充満する死と死、破滅と破滅との間隙で、わずかの生を与えるために存在している。
 そして、時に愛されたその究極の人物は――
 神速の斬撃は音もなく巨獣の首を通過する。刀身が、澄んだ音を立てて割れた。音叉が共鳴するような静寂と、時が吸い込まれるような静止。
 ――人類を救済する仕事をするのだ。
 激しい血流が八方へ噴き、弾けるようにすべてが動きはじめる。巨獣の首は血の噴水に乗り、電線を超え、家々を超え、尾根を超え、入道雲を超えて上昇してゆく。
 その日、列島の各地から成層圏へと昇ってゆく生首が見られた。街頭で、市場で、公園で、学校で、会社で、病院で――ある者は泣いているように見えたと言い、ある者は笑っているように見えたと言った。ある者は両手を組みあわせ、ある者は眉を潜め、ある者は忌々しげに唾を吐き、ある者はただ好奇にカメラを向けた。
 最初の少女の葬送を偶然に目撃した人々へ共通するのは、誰も無関心のうちには見送らなかった、ということである。
 衛星軌道に乗った少女の生首が引く血の筋は、やがて土星の如く地球を環状に取り巻いた。夜空を見上げるとき、誰かが思い出すことを願ったのだろうか。
 名乗りでた唯一の係累は、米国航空宇宙局の支援を得た壮大な首実検を経て、それが確かに妹であることを確認した。頭髪に白いものの目立つ、柔和な面持ちをした初老の男性だった。
 このときの様子は感動の対面劇として、いささか過剰な演出を伴って生中継された。
 ――妹さんの変わり果てた姿を見て、いまどんなお気持ちでしょうか。
 レポーター群から成される質問は、いずれ良識のある者ならば背筋の凍るような内容ばかりだった。
 ――変わっていませんよ。
 しかし、その男性はどの問いかけにも、激さず、黙せず、ただ静かに答えた。
 ――あの頃のままです。内気で、繊細で、寂しがりやで、この世の誰よりも優しい。少しも変わっていません。
 愛おしげに、つい、といったふうで生首の映るモニターへ這わせた右手は、人差し指を欠いていた。
 この瞬間、いずれの局も大慌てで番組をCMへと切り替えた。それまで申し訳程度のモザイクで損壊した死体を放映しており、倫理規定の運用が極めて恣意的であることが露呈したのである。
 男性は遺骨の回収を願い出たが、却下された。単純に、これだけの大質量を持ち帰るだけの技術を人類が持たなかったからだ。
 そして、仁科望美は天から地上を見守る存在となった。
 私は人工衛星に乗せられた、あの犬の話を思い出す。文字通り、真空のような孤独。宇宙塵に粉々に粉砕されるか、暖かい星の抱擁にからめとられるまで、最初の少女はあらゆる生命から離れて、ずっと一人きりでいることを許される。愛する誰かを遠く見守りながら。
 私は想像する。たぶん、私自身の幸せのために。もしかすると、仁科望美は最後に願いを叶えることができたのかもしれない。
 さて、地に残された人々の話を少しばかりしなくてはなるまい。
 幸いなことに私の怪我は、全身の打撲といくつかの単純骨折で済んだ。少女は私よりもよほど軽症であったが、病院側が融通をきかせたらしい、いくつかの精密検査が退院を長引かせた。
 白い壁に囲まれた穏やかで、何も無い日々。ふたりでたくさん話をした。全国を旅して回ったというのに、こんなに話をしたことはなかった。
 退院の日、ふたりで川沿いを歩いた。春の日差しに川辺から綿ぼうしが舞い上がる。偶然にふれあった指先から、お互いの手のひらをからめた。橋を渡る途中、ふと気になって欄干から身を乗り出す。ブリキの鍋がひとつ転がっているだけで、そこにはもう誰もいなかった。
 どちらから言ったわけでもない。足は自然に少女の生家へと向かっていた。門扉に手をかけると、わずかに鉄のきしる音がした。すべてはここから始まったのだ。
 ――いま、帰ったよ。
 透き通った声が、玄関にこだまする。主を失った家屋はがらんとして、返事があろうはずもなかった。背後から差し込む陽光に舞う埃が、喪失の感じを強くする。私は座敷へ上がると、少女へと向き直り、声音を作った。
 ――おかえりなさい。さぞかし、疲れたでしょう。
 少女は大きく両目を開いて驚いたように私を見つめると、泣き顔とも笑顔ともつかない表情を浮かべる。そして、意を決したように私の両腕の間へと身を投げた。少女の両親が死んだ日と同じように。
 布一枚の向こうにあるしなやかさを通して、少女の傷の形がありありと見える。家族や、社会や、歴史や、世界や、そんなものはぜんぶくそくらえだ。
 私は少女の背中に両腕を回すと、強く抱きしめた。せめて、この手の届く範囲のものだけは逃さないように。
 唇が重なると、呪うべきか、寿ぐべきか、すべては正しくなった。
 血のついた脱脂綿をジッパーつきのビニルに収める。少女はわずかに身を震わせて放心しているようだったが、毛布をかけて頭に手を置いてやるとすぐに眠った。
 私はベッドサイドの明かりだけを頼りに、幾枚もカーボンの写しが付いた書類を埋めてゆく。膨大な量である。実際にすべての記入が終わったのは、少女が起きだし、また眠り、そしてもう一度起きてきてからのことだった。
 翌日、私と少女は最寄の役場へと向かった。整理番号が印字された紙片を渡し、用件を告げる。丸眼鏡をかけて黒い肘あてをした職員は、いぶかしむように上目遣いで私と少女を見た。そして、整理棚の奥へと消える。
 長い時間が経った。少女が不安に私の袖を引く。すると、分厚いファイルを抱えた職員が戻ってくる。事務机にファイルを置くと、表紙に浮いた埃をひと吹きした。そして、眼鏡をぬぐいながら、「なにぶん、初めての申請でしてね。わかりませんよ」と小声で言った。
 その日、無数のAvenger Licenseのうちの一枚が初めて国へと返却され、ひとりの少女が少女殺人者であることを止めた。
 「予の少女」は永久に消滅したのである。

少女保護特区(10)

 書類を片付けながら、ふと手の甲に鼻を近づける。石鹸の匂いがするだけだ。少々過敏になりすぎているのかもしれない。現場から離れて久しいのに、ほとんど習い性になっている。妻は、血の臭いをひどく嫌うから。
 局の建物を出るとき、水音を聞いた。奥の駐車スペースで、同僚が車両を洗浄しているのだろう。ポケットに手をつっこんだまま、ゆっくりとそちらへ歩いてゆく。
 吹きかけられた水は車体を伝ううち、茶褐色に染まってコンクリートへと滴る。ホースを握っているのは、初老と言っていい年齢の女性だ。一声かけると、眉を寄せた険しい表情で振り返る。だが、私を見るやたちまち相好を崩した。
 お互いの家族に関する他愛の無い会話。内容は以前に話したことばかり。同じ職場に居合わせただけの、出自も年齢も異なる二人の間に深い理解があるとは思わない。けれど、言葉を交わすときの仕草や表情に、私の心は安らいだ。安らぎとは暖かではなく冷えているのだと気づいたとき、私はずっと拒絶してきたものを許せると思えた。ふと会話が途切れ、夜勤へのねぎらいを言いおいて帰途につく。
 ラッシュ時と言っていい時間帯にも、田舎の単線は高い乗車率からほど遠い。戸口の席へ崩れるように腰を下ろすと、急に体を重く感じる。最近ではいつも、このまま立ち上がることができないのではないかと思う。定時退社に週二日の休みが約束された閑職である。収支の固定した、毎年同じ数字を並べるだけの経理に、職務上のストレスなど生じようがない。確かに、年齢を言われればその通りだ。ただ、不安になる。休息をわずかに上回った疲労が体の奥底へ澱のように積もって、駱駝の背に置く藁の例えのように、いつか私を壊してしまうのではないかと。
 車内の様子を見渡すと、やはり誰もが疲れているように見える。だがそれは、慰めを求めた願望の投影に過ぎないのだろう。向かいの窓へ視線を戻せば、薄暗い景色を背にして一人の男が映りこんでいる。スーツ姿のくたびれた中年だ。あの頃、誰がこの未来を予想しえただろう。本当に、長い回り道だった。私は、来し方を振り返るような気持ちになる。
 結局のところ、はぐれ者の居場所は、はぐれ者たちの中にしかなかった。少女との旅を終えた私は、家のローンを返済しながら子を成すような当たり前の日常を求め、職探しに奔走した。合法だったとは言え、有名な大量殺人者の片割れだ。人定作業をすれば、すぐにそれとわかる。応募する片端からすべて不採用。いま思えば当たり前のことだ。しかし、それほど切実で、それほど何も知らなかったのだ。途方に暮れた私は、ほとんど唯一のコネを頼りに清掃局を訪ねた。
 ――もっと早くに連絡をくれればいいのにさ。水くさいねえ。
 面会を求めに来た私は、よほどくたびれていたのだろう。見るなり、相手は声をあげて笑った。
 ――机はもう用意してある。あのときからね。功労賞だよ。
 言いながら、皮肉っぽく口の端を歪めてみせる。
 ――まあ、あんたたちのせいでこの部局もいずれ、ゆるやかに解体されていくんだろうが、公務員にはちがいないからね。入り口は関係ないさ。あんたがあの娘を引き受ける限り、私はあんたを引き受けるよ。それが私の、仁義ってやつだ。
 ともに日常へ帰ることを求めたのに、結果として私たちを受け入れたのは、非日常と隣合わせの一隅だった。やくざ者は任侠を隠れ蓑にして弱者をからめとり、コネや情実は排除すべき俗劣な悪習だと人は言う。けれど、かけられた言葉に涙が出た。
 私は長い間、社会での己の位置を定めてこなかった。観測の定点を持たなければ、現実をいかようにも断罪できる。ゆえに、私は何も知ることができなかったのだ。どこにも所属しなければ、すべては意味の無い繰り言として通り過ぎてゆく。所属することで、人は己が壊してはならない最小限を定める。その約束は、小さな灯火となって闇を照らす。そして、別の誰かが周囲で灯火をかざしていることを知る。人類を存続させることを決めた人々が身を寄せあい、この世界の実相である暗闇に、共同体という名付けの微かな光を切り取ってきたのだ。
 古来、数々の伝承で想定されてきた神々とは、世界の埒外にいて誰とも約束をしない存在の暗喩であった。すべてが意味を持たないならば、ただ破壊を繰り返すことで自足できる。そして、すべてを壊し続けることは、誰にも救えぬ永遠の孤独を生きることに他ならない。かつて、この身は一柱の神だった。やがて人々と約束を交わし、朧な灯火をかかげ、この肉は人となる。神代の騒擾が去ると、残ったのは人の世のしんとした静寂だった。
 神を捨て、人として手に入れたものを愛しているかと問われれば、間違いなく愛着はある。愛情は他者へ向かうが、愛着は己へ向かう。そして、倦怠は新たな関係の構築を億劫にさせ、結果、愛着が増幅する。あるいは、この静寂を拒否できないほどには、私も歳をとったということかもしれない。
 郊外にある駅舎の灯は早々に消える。夜空を見上げればいくつもの星座がくっきりと浮かびあがり、赤い帯が筆を走らせたように縦断しているところだけが、子どもの頃の記憶を裏切っていた。最寄り駅から中古の一軒家へと歩くこの十五分ばかりは、いまの私にとってすべての社会性から離れることができる唯一の時間だ。深い闇に身体の輪郭が薄れると、自我もじわりと溶け出してゆく。安逸とともに、十代のときそうだった何者でもない自分へと還る。間遠に並ぶ防犯灯が光の円錐を投げ、そこへ踏み入れるとき、闇に拡散した分子は私へと再構成される。そして、戻りきれなかったわずかの澱が羽虫となって街灯の周辺を舞う。だとすれば、この自我はきっといつかすべて消失してしまうに違いない。私はたぶん、その日を心待ちにしている。
 いつもの角を曲がり、遠目に我が家を確認する。門扉が薄暗ければ問題ない。でなければ、何かがあったということだ。そしていま、開け放たれた戸口から差しこむ家の明かりが、ほっそりとした人影を浮かび上がらせている。妻だ。
 気取られないほどわずかに、歩調を速める。もはや異変を確信していたが、それを深刻に受けとれば妻は動揺するだろう。門扉に手をかけると、笑顔とともにさりげない調子で帰宅を告げた。途端、妻は胸のうちへ倒れこんでくる。青ざめ、震え、涙を流す。あの頃と変わらぬ肉付きの薄い、それでいて柔らかな肢体。背中を撫でてやりながら、栗色に染まった髪に白い一房を発見する。やはり、あれから時間は流れたのだ。
 愛する妻に向けたいくつもの優しい、当たり前の言葉。けれどそれを聞くとき、なぜか身内の疲労はかすかに、水を含むように重くなった。泣き顔に刻まれた皺は、かつてより長くそこへ残る。妻の言葉は一向に要領を得ず、家の中へ入るよう肩を抱いてそっと促すと、わずかに首を振った。その仕草が、事の顛末を理解させる。心配しないよう言いおくと、ダイニングキッチンへと向かう。
 割れた食器と食べ物が散乱し、広がったソースが床を汚す。椅子は横倒しになり、テーブルは壁との並行を失う。その無秩序の中に、黒髪の少女が仰向けに横たわっている。瞬間、倒錯した印象が私を襲った。ここは古代の王の居城であり、我が娘はその主菜として饗されるのだ。王の名は知っている。王の名は――
 そこで背後に妻の気配を感じ、私の幻視は破られた。タートルネックに包まれた胸元はかすかに上下しており、どうやら意識を失っているだけのようだ。
 ――強く叩いたつもりはなかったの。
 妻の心に刻まれた深い傷跡。あれからもう、十年以上が経つというのに、それは決して癒えようとしない。私たちは皆、傷跡に足をとられる。幾度も幾度も、繰り返してしまう。そこにあるとわかっているのに、滑稽なくらいまた、同じ場所で転ぶのだ。
 ――言うことを聞かなくて、だから……
 ふいに耳鳴りがし、外界が遠ざかる。じつに不思議だ。予の少女は目の前で気絶しているのに、鈴のような愛らしい声が後ろから聞こえた。ぬめるような黒髪の質感を楽しみながら、うなじへと腕を回して予の少女を抱え起こす。軽く頬をはたいてやると、艶めかしい呻き声とともに意識を取り戻した。
 魚の腹の肌理をした白い肌。
 紅をはいたように真赤な唇。
 大きな瞳は澄んだ湖というより、むしろ森の奥に隠された沼のようだ。しばらくして、眠ったような瞳に焦点が戻ると、私の首へ力無く両腕をからめてくる。すぐ耳元での嗚咽に、背筋へ電流が走った。
 この美しい生き物は、予を頼っている。予へ依存している。
 予なしでは生きられず、呼吸の如く予の関心を必要とする。
 この穢れない魂を、そう、予は恣に蹂躙することができる。
 灯火が消え、闇がゆらめく。魔のような、永遠と同じ長さをした一瞬。
 ――……さん、吉之助さん。
 人の名が呼ばれ、神が去る。振り返れば、幼子の寄る辺なさで、妻が身を震わせている。そして、怯えた表情の娘が、腕の中で私を見上げている。
 その瞬間、理解した。かつて私に向けられた、瞳に宿るかぎろいの正体を。
 ああ――
 両親が見ていたのは、この光景だったのか。
 ふいに、悲しみが私の胸を浸した。人のいない雪山のような、静かな悲しみだった。
 娘を抱き上げ、立たせてやる。そう、ならばやりとげなくてはならない。二つの傷から、この穢れない魂を遠ざける仕事を。
 ――どこも痛いところはないね。
 言いながら頭に手を乗せてやると、こわばった表情はようやく緩んだ。
 ――怪我はないみたいだ。大丈夫だよ、万里子。片付けたら、みんなで食事にしよう。
 微笑みが、不自然にならないように。妻の両目から涙がこぼれ落ち、かすれた声がしぼりだされる。
 ――ごめんなさい、吉之助さん、ごめんなさい……
 きっと明日から、疲労はいっそうつのるだろう。昼は色を失い、夜は長くなるだろう。
 人生という名の永遠が、いまようやく始まったのだ。  <了>