猫を起こさないように
さいはての少女
さいはての少女

小鳥の唄(17)

 階段状の観客席が六角形に取り囲み、すり鉢状になったその底で全裸の男が立ちつくしている。
 男、骨格が視認できるほどに痩せており、局部にはなぜか紫色のもやがとりまいている。
 すり鉢の底を形作る六角形のうちの二面には、なんのためのものだろうか、長方形に切り取られた入り口があり、通路がそれぞれ奥へと伸びている。
 通路の奥から一人の少女が現れて、すり鉢の底へ形成された砂場へと足を踏み入れる。
 少女、しばらく躊躇したような様子をみせるが、やがて意を決したように全裸の男へ声をかける。
 「落ち込むことなんてないわ」
 少女の声音はあくまで優しい。
 「学生時代のクラスメートほどの人数は来ているって思えばいいのよ。だいたいあなたにとってクラスメートの数は友だちの数と同じどころじゃなかったんだし、そう考えればまだ気も晴れるんじゃないかしら」
 「物語っていうのはさ」
 少女の声が聞こえなかったかのように、男は話し出す。
 「0から始めて1に届こうとする躍動が描く、動線そのものだったと思うんだ。そりゃ、0から動かず0であることを肯定するための言葉を連ねるやり方だってあるけれど、それは少なくともぼくにとっての物語じゃないんだ。1に爪先を引っかけて0から身体を乗り上げた人たちの姿に、ぼくは自分もいつか1になるのだと深い感動を覚えたものだったし、1に向かって高く跳躍しながら、爪1枚で届かなかった人たちの肩を落とす様子さえ、ぼくの心を強く揺さぶった。けれど、いま世の中にあふれているのは、0以下から始まって0に届こうとする物語ばかりだ。マイナス1から0へ、というわけさ。否定してるんじゃないよ。その試みは0から1への希求と、その質や切実さにおいては何ら変わるところはない。けど悲劇的なのは、その”文学的達成”というやつが、ふつうの人たちにとっては何らカタルシスを持たないということなんだ。マイナス1から0への到達を誇示したところで、それは世間にとって少年院から出てきたヤンキーを見る程度の感慨をしか引き起こさない。つまり、身内に抱える積極的な、あるいは消極的な社会悪や犯罪性向をまず開帳し、そしてそれから『ぼくはもう犯罪衝動を押さえ込むことができるほど真人間になりました!』と前科持ちが宣言したとして、誰もそんな宣言を聞きたいなんて思わないし、例え耳を傾けてくれたところで、余計な差別を彼らの意識の中に加えるだけだってことは、ほとんど喜劇みたいじゃないか」
 つま先で砂に文字を書きながら、黙って話を聞いていた少女が口を開く。
 「じゃあ、あなたはどうなの? あなたのホームページに書かれている文字は、いったい今のどれに該当するの?」
 「痛いところを突くな。ぼくはつまり、『1をすでに達成しながら、0や0以下であることへの執着から逃れられないでいる』のさ!」
 「まあ」
 少女は驚いたように、手のひらを口元へ当てる。
 「それって、『終わらない思春期』よね。実物を見るのは初めてだわ」
 「ああ」
 全裸の男の局部をおおう紫のもやが、ふとももの間からへその下へとゆっくり移動する。
 「そうさ、へっさいへっさいモラトリアムなのさ」
 「アハハ、だから、いつまでたっても人の来なくなったホームページを閉鎖してしまわずに、未練たらたらで時々申し訳程度に更新したりしているわけね。アハハ、おっかしい!」
 男のこめかみに漫画的な十文字が浮かぶ。
 「ちょっと、茶目ッ気がすぎるんじゃないか」
 男、固めたこぶしの五本指を左頬からすべて数えることができるほど激しく、少女の右頬を打ちつける。
 陰影まで微細に誇張して書き込まれた犬歯や臼歯が、少女の口腔からはじけるように宙へと舞う。
 男、続けざまに、背中の側からつま先の形状がはっきりと視認できるほど深々と、少女のみぞおちを蹴りこむ。
 真紅の鮮血が少女の口腔から噴水のように吹く。が、地面に染み込んでいくそれは早くも赤黒く、さび色に変色してしまっている。
 少女は蹴られた衝撃で地面と水平に滑空し、壁面へ人型にめり込む。
 もうもうたる煙のはれた後には、少女が左の肘をあり得ない角度に折り曲げ、二の腕からぎざぎざに折れた骨を皮膚の外へ飛び出させているのが見える。
 少女、壁面から身を引き剥がし、よろよろと男の方へ数歩あゆむ。
 男の局部をおおう紫のもやが、へその下からふとももの間へ急速に移動する。
 「こんなふうな犯罪性向、自分より弱い存在を暴力でもって蹂躙して、それが悲鳴を上げるのを聞きたいといったような感情を、『人とつながることにそんな形をしか選択することのできない者の悲しみ』とでも表現したところで、それに涙を流したり共感したりするのは、やっぱり他人を痛めつけて悲鳴を聞きたいと思っているような人種だけで、結局、世間を構成する大半の、0から人生を始めている人たちにとってはどうでもいいどころか、嫌悪と敵意さえ抱かれてしまう可能性がある、人類を正常と異常の2つに分断する以外の機能を持たないやり方なのさ」
 「な、なるほど……わかり……やすいわ……」
 少女、身体をくの字に折り曲げて顔面から砂地へ倒れ込む。少女の瞳が黒ベタから灰色のトーン貼りに変わる。男、少女の生死に興味を残していないふうでしゃがみこむと、地面から一掴みの砂をすくいあげる。
 おたくの敵と非難され、嘲笑され、罵倒され――
 それでも更新したくって、更新したくって――
 あれほど更新したいと思い続けてきたのに――
 「もう、こんなに更新したくない」
 ――ああ。おたくの繰り言が聞こえる。
 こたつ布団に広がる去年の醤油染みのような、日常が新しさを失ってなお繰り返されてゆくのを否応なくつきつける、重苦しい現実。
 いつの間にこの人は、こんなにも輝きを失ってしまっていたのか。
 少女が、その少女らしい純粋さを希求する旅の果て、ついに手に入れたのは、この世で一番醜いものだった。
 この世で一番醜いもの――おたくの自意識に触れながら、小鳥猊下を最初期から取り巻いていた少女たちの最後の一人は、その八年と三ヶ月に渡る長い旅を終えた。

小鳥の唄(18)

 階段状の観客席が六角形に取り囲み、すり鉢状になっている底で全裸の男が少女の遺体に腰掛け、両手に顔をうずめている。
 男、気配を感じて顔を上げると、そこには少女が立っている。彼が腰掛けにしている少女とは似つかぬ容姿なのだが、おそろしく似通った雰囲気を感じさせる。
 男、再び両手で顔をおおう。
 「いつになったらぼくは君たちから解放されるんだろう。いつまで君たちはぼくに執着し続けるんだろう」
 「答えは自明なのに、口にされた言葉を改めて聞かないと納得できないのね」
 少女、老婆のような深く長いため息をつく。
 「ずっとよ。私は、私たちはあなたの無意識から生まれてくるのだから、ずっとよ。あなたが死ぬまで、ずっと」
 男、老人のようなしゃがれた声でつぶやく。
 「それは、それは。本当に、修辞的ですらない、地獄のような恋慕だな」
 少女、口元に冷笑を浮かべる。
 「あなたにしては気の利いた言葉だけど、何かからの引用かしら」
 男、笑顔のように口元を歪めて顔を上げる。
 「ずいぶんと無意味な質問をするもんだ。ぼくたちの言葉はすべて、引用からできている。巨大な歴史が順繰りに言葉をしらみつぶしにしていった結果、ぼくたちの言葉はすべて引用になってしまった。歴史がその処女野を蹂躙しつくした言葉を、ただむなしい引用として、中年夫婦の諦観と希薄さでぼくたちは発話する――」
 男、ゆっくりと立ち上がると通路の奥へと去っていこうとする。
 少女、一瞬、何かの感情をこらえるかのように口を引き結ぶと、それをすべて呑み込んで、大声を出す。
 「ねえ!」
 男、振り返る。その瞳は灰色に彩色されており、虚ろである。
 「なんだい」
 少女、消え入りそうな声で問う。
 「これで、終わりなの?」
 男、悪魔のように哄笑する。
 「ハ、ハ、ハ。これもやはりエヴァンゲリオンからの引用なんだがね……『わかるもんか』」