猫を起こさないように
世界の果て-1
世界の果て-1

ガッデムさん(2)

 「いやァ、うれしわァ。私、子どもの頃からずうッとガッデムさんのファンやってん」
 「さよか。そら、おおきに」
 「主題歌かて、まだそらで歌えますよ。非道ォー、せぇんしィ、ガぁッデムぅ、ガぁッデム、君よォー、パシれー」
 「自分、看護士のくせして相部屋で大声だしなや。向かいのベッドのニイちゃん、にらんどるで」
 「あの人は誰に対してもあんなふうなんですよォ。ここだけの話、ガッデムさんの前にもふたり、オバアチャンが入っとったんやけど、ふたりともなんや気味悪いゆうて部屋かわってますねん」
 「ぶるぶるぶるぶるッ。なら、ワシは三人目かいな」
 「まァ、ガッデムさんは戦争にも行ったことあるロボットやし、だいじょうぶかなァ、おもて」
 「じぶん、傷くつわ、それ。鋼鉄の中身は繊細なハートでできとんねんで」
 「またまたァ。これ、入院のための書類やからサインだけしてもらえますか」
 「えらい細かい字やなァ。老眼で読まれへんわ。それにしても向かいのニイちゃん、顔色も目つきもだいぶ悪いで。なんで外科病棟なんかに入院しとるんや。ぱッと見ィ、どっこもイワしてへんけど」
 「本人は精神病やゆうて信じてるみたいやけど、先生の見立ては大腸炎ですわ。切るかもしらんからここに入れてるんやて」
 「へえ」
 「なんでも地元で有名な髪結いのオバアチャンが身内におって、テレビにも出たことあるらしいねんけど、そのオバアチャンがなんかするたび親戚中ふりまわされるねんて。こんどの都知事選にも出馬するゆうて、だいぶ親族会議でもめたらしいわ」
 「そら、美談どころの話やあらへんな。しかし自分、ひとの個人情報をあんまベラベラしゃべらんほうがええんとちゃうか。最近どないもこないもうるさいで」
 「なに水くさいことゆうてんのん。ガッデムさんはどんな年とっても私のアイドルやさかい、特別やがな。ほら、早うサインしてしもてや」
 「君がずっと邪魔しとんのやがな。ハラ撃たれてからこっち、どうにも手に力が入らんのや……ほれみい、せかすから書き損じてしもたやないか」
 「歯ァ、食いしばれ。そんな書き損じ修正してやる」
 「アラ、この子くちきいたわ。めずらしなァ。やっぱりガッデムさんの人柄ゆうか、人徳やねえ」
 「あほ、もうただの中年ロボットや。あちこちボロッとるわ」
 「冴えてはるわー、ガッデムさん」
 「ニイちゃん、わざわざすまんな……おっと、いま自分、服に白いのついたで。はよとらな」
 「わかるまい。戦争を遊びにしている者には、この俺の体を通してでる力が」
 「どう見たって修正液やがな。なんや、はやりのプチ右翼かいな」
 「ガッデムさん、着替えの装甲もってきましたよ」
 「何から何まで迷惑かけるなァ。おっと、このアクセラレーターはもらわれへんゆうたやないか」
 「ぼくの気持ちやから。黙って紙袋にしまっといてくださいよ、ガッデムさん」
 「あらッ。もしかしてこの人」
 「ほれ、サインでけたで。自分おるとややこしいから、仕事もどれや。さっきからナースコール鳴りっぱなしやで。隣のベッドのオッサン、土気色やないか」
 「もうッ、女心がわからないんだから。何かあったらぜったい私を指名してや」
 「キャバクラちゃうねんど。もう呼ばへんわ」
 「あッ、コイツ、ガッデムさんのいとことコンビ組んでたヤツですやん」
 「ホンマかいな。そら気づかんかったわ」
 「そや、間違いないわ。髪ピンク色に染めたごっついオバハンをヤクザと取り合いして、それから蒸発してしもてたんですわ」
 「や、ヤクザやて」
 「ガッデムさんをねろうとる組とは関係ありませんよ。すごい黄色のストライプのスーツ着て、ふはははは、ゆうて笑うインテリ風のヤクザやったさかい」
 「おどかすなや。あれからワシ、ドアとか開くたびにビクッてなるねん」
 「病院の中は安全ですやろ。コイツもホンマはそのクチで逃げこんどるんとちゃいますか」
 「自分、その袖口のてんてん、どないしてん」
 「これは、あの、なんでもあらしまへんわ」
 「ワシを病院にかつぎこむときに付いた血ィやな。ホンマ、自分にはいろいろと悪いことやったわ」
 「なにゆうてますのん、ガッデムさんはぼくのために腕もげたことありますやん。こんなん、なんでもあらへん」
 「大きな星がついたり消えたりしている」
 「うわ、なんやいきなり。あほが、修正液で服の染みが消えるかいな。後ろにも目ェつけとけ、われ」
 「男の証明を手に入れたかったんだ」
 「意味がわからんで。頭おかしなっとんのか」
 「いや、案外見かけより狡猾なヤツかもしれへんで。ヤクザに訴えられたときのこと考えて、今からあほのふりしとんのや」

少女保護特区(4)

 神の摂理とは人の摂理である。人の本質を否定するもの、そこへ疑問符を投げるものが悪と呼ばれてきた。しかし、人の存続を許さぬものが人より生まれ出づるのなら、それはいったい何と呼ばれるべきだろうか。
 汚れた熊の人形を地面に引きずり、夜の街路へ身長を数倍する影を残しながら、一人の女児が歩いている。少女と形容するには、まだいくぶん幼い。街灯の投げる円錐の中へ立ち入ると、女児は立ち止まる。その顔は遠目にわかるほどの青痣を残し、鼻血の跡が両頬へ隈取りのように茶色く凝固している。爪のない素足は泥にまみれ、人形の破れた表面からは中身の綿が飛び出している。女児はほとんど自失しているようだったが、電球へ衝突を繰り返す一匹の蛾を見上げるうち、その瞳は次第に正気を宿し始める。口元がへの字に曲がり、表情は大きく歪む。しかし、にじむ涙がこぼれぬうちに手の甲でぬぐってしまうと、女児は再び歩き始める。
 建て売りの住居が建ち並ぶ夜の住宅街は、どこまで歩いても表情を変えず、まるで終わりのない迷路のようだ。幾度も道を折れるが、どこかにたどり着く様子はない。爪のない素足が運ぶ一歩先だけを見つめていた女児は、何かの気配にうながされて顔を上げる。視線の先にあるのは、向かい合う住宅の狭間に長々と身を横たえた巨大な黒い固まりである。近くに街灯は無く、家々は雨戸を閉め切り、雲間からのぞく月明かりだけが照らす夜の底に、夜の黒より深い黒がその輪郭を際だたせている。かすかに上下する曲線は、それが生きていることを伝えている。二本の筋が曲線の囲む内側に生じ、やがて二つの球形へと転じる。大人たちよりもはるかに鮮烈で曖昧な女児の心に去来するのは、両親が手を振り上げるときの恐ろしい表情と――私を叱るときだけ二人は仲が良いのだと、いつも思う――図書館にある外国の絵本に描かれた、モノクロの深い森である。女児の両親はおそらく、自分たちが娘にしてきたことすべてを忘れたふうに、突きつけられるマイクの列を前に泣くだろう。記者会見で泣き、誰もいないリビングでさえ観客を意識して泣き、そして一定期間は娘のために心を痛めて泣いたのだという事実に、すっかり赦されてしまうに違いない。女児が抱いていた、数年の後には顕在化しただろう漠然としたある気分、自己抑制の外で行われる不条理への負の感情はついに言語化されないまま――この世界のどこにも残されないまま、消滅することになる。
 言語を持たぬ者が力によって圧殺されることだけが、絶望と形容するに足る。千年の視座を持つ予は、鼓膜へわずかに振動を残すだけの時の泡沫には何ら痛手を受けることは無かったし、何より自身を言語化する以前に死を与えられることはなかった。無論、言語化した結果を十全の形で凡人に受容させることは極めて困難である。言語化しきれなかった、あるいは言語化したものを受け止めきれなかった余分は、身体の奥深くへ蜂の一刺しのように残り、その規模の小ささゆえに誰にも原因として指摘されることなく、ついには発症へと至る。しかし、大人たちは破局を回避する準備期間を十分に長く与えられているがゆえに、彼らが直面する事態は絶望というより危機と表現されるべきである。人類はいわばこの、精神の危機と幾千年に渡って格闘し続けてきている。然るべき観察と実行を怠りさえしなければ、救済への道はほとんどマニュアル化されていると断言してよい。だからこそ、鳥や動物や樹々や大地や、声を持たぬ子どもがこの世から消滅することだけが真に絶望と呼べるのである。
 夜の街路に対峙したのは、誰も気づかぬ社会の毒素を蓄積させて真っ先に死ぬ存在とそれを吸い込むことで肥大化してゆく存在との象徴であり、両者は対極にして同一であった。
 熊の人形がアスファルトの上に落ちる。続いて、女児の右手が熊の上に落ちる。女児と熊の手はしっかりとつなぎあわされたままだ。人形が見上げる先に、両脚をつなぐ腰骨の中央から白い棒状の何かをわずか屹立させたオブジェがある。奇怪なその外観は、極めて前衛的な芸術作品と呼べないこともない。女児が最後に見たのは黄色い乱杭歯と、濡れた赤の奥に広がる黒い虚無だった。
 辺りに濃密な鉄錆の匂いがたちこめる。咀嚼音と液体のはねる音が夜の街路に響き、息を潜めたような静寂が惨劇を取り巻く。黒い固まりは皮膜に包まれた液体のようにゆっくりと、縦に長く変形する。濁った重低音が長く鳴り満足げな吐息が続くと、大気は腐乱した肉の臭気に満たされた。
 雲が去り、月は地を照らす。
 一糸まとわぬ巨大な女が、指に付着した液体を舐めている。家々の屋根を真上から睥睨する全長をもってして、それはなお女だった。膝にまで達する両腕を除けば、身体を描く曲線は未だ性徴を際だたせず、ほとんど少女にさえ見える。だが、全身を覆う肌は奇蹄目犀科に属するほ乳類のように硬質化している。
 認可番号AA00001――仁科望美。青少年育成特区最初の少女殺人者。
 彼女は同じ性別のものを好んで食餌とする。若い雌へ潜在的に抱く生物学的優劣に根ざした脅威が、顕在化した死との狭間に名状し難い何かを受胎させ、我々にとっては未知のその衝動が同類たちを殺戮の対象として選択させるのであろう。異様に長く発達した前腕で獲物の両足をすばやく押さえつけ、丸かじりに頭部へ食らいつく。そして、柔らかな腹部から背骨の周囲に付着した肉ごと上半身をこそげとるのである。奇しくも先ほどの獲物のように幼かった頃、彼女が愛好した棒付きアイスを食べるときと同じやり方だった。芸術を意図してというより、過って子宮や精巣を食ってしまわぬためである。それらを食餌とすることは、初潮の訪れを早めてしまうと彼女は強く信じている。実のところ仁科望美の最初の血と澱は、十数年の歳月を経て未だ彼女の体内に万力のような筋肉で閉じこめられているに過ぎない。しかしこの不条理に外部との連絡や整合性を求めることは、全く意味が無い。信念とは、時にこのような形をとるものである。
 予は仁科望美の両目を正面からのぞきこんでなお命を残すという僥倖を得た、数少ない一人である。その両目は頭蓋の眼窩に張り付いた目蓋のせいで、常に眼球本来の球形で見開かれている。金縛りのようなあの数瞬、一秒を数百に分解したその時間は、彼女の身体能力を考慮するならば予を数回は殺すのに十分な長さだった。最初に感じたのは、喉元に溜まった嘔吐である。予に向けられた表情は、確かに微笑みであったと記憶する。もはや唇と呼べぬほど削れた肉の内側へ常にのぞく乱杭歯には、彼女が咀嚼した人体の滓がこびりついているのが見えた。いまなお、彼女の精神は我々の延長線上にあるのだという理解が予に吐き気をもよおさせた。予と同じ経験をするものは、例え明確に言語化できぬにせよ、同じ感慨を抱くはずである。彼女は、蝦や蟹のような甲殻類の感性を世界に対して構築していた。そして、一個の人間が世界に対して甲殻類のような感性を構築し得るという深淵が、見る者の心胆を寒からしめるのである。仁科望美は依然として、人間なのだ。
 いつ彼女がその闇を心に抱いたのか、当局の記録は何も伝えない。役所努めの父親と教員の母親と二つ年上の兄と過ごした十四年間は、決して波乱に富んでいるとは言えない。しかし、少女が最初の合法的な殺人を犯したその日、平穏は終わりを迎えた。一家は、少女殺人者を身内に持ってしまった場合の典型的な転落を歩んでいる。迫害、転居、離散。予が追うことができたのは、そこまでだ。無数にある家々の内側で本当は何が起きているのかを知ることは、部外者へほとんど禁じられている。仁科望美の生家を訪れたが、取りつぶされて更地になっていた。漫画のような土管の上で、二人の子どもが背中合わせに携帯ゲームで遊んでいる。予は眩しさに目を細める。陽光は世界を漂白し、すべては色を失う。
 伸ばした腕の先が見えないほどの闇の中で、ただ草いきれのみが山中にあることを予に告げている。夜の底に訪れる覚醒と続く混乱を、予は樹上から見てとった。仁科望美は腹の減っていない際に、獲物を生きたままねぐらへと連れ帰り、空腹が理性を凌駕するまでその恐怖を弄ぶことがあった。法を超えれば、法の庇護を失う。法を超えた者同士の間にあるのは、生き残った方がその正当性を主張できるという、戦争以前の純然たる暴力だけだ。特区法の理念は少女を異性から完全に隔離したが、少女を少女自身という脅威から保護することはかなわなかったのである。切りそろえられた前髪に顔の半ばまでを隠した少女は、後ろ手に折りたたみ式ナイフを取り出す。刃は仁科望美の爪の先ほども無く、人の崇高と滑稽がそこへ同時に表現されるかのようである。猫が毛玉を弄ぶ仕草の軽い平手で、少女を引き倒しては立ち上がらせる。獣は嬲らない。仁科望美がある種の遊戯として行為を楽しんでいることは傍目に明らかであり、この陰惨な宴の中にあってそれが逆に彼女の人間を証明していると言えた。巨大な掌をかいくぐり、少女は怪物のふくらはぎへナイフを突き立てることに成功する。だが、刃は柄を支点にして直角に折れ曲がっただけである。仁科望美は、あくびに似た動作をした。口腔からはき出される音波が樹々を激しくゆらす。少女はたまらずナイフを取り落とし、両手で外耳を覆った。ゆっくりと持ち上げられた巨大な右手が親指と人差し指の輪を形作る。丸太のような人差し指が恐るべき速度ではじき出され、少女の顎先を通過する。小さな顔が重力方向にぐるりと一回転すると、元通りの位置に静止した。口から蟹を思わせる泡が赤く吹き、少女は糸の切れたように倒れ伏す。仁科望美は立ち上がることのできなくなった獲物の腹部へ足をかけ、羽毛のようにそっと体重をのせる。たちまち少女は二つの肉に分かたれ、人であることをやめた。
 仁科望美が立ち去ってから、優に二時間は樹上で待機したろう。好奇はしきりと予を促したが、予の生来である用心が行動を妨げたのである。生きているものと死んでいるものは、どうしてこんなにも違うのか。少女の口からは、何か赤黒いものが飛び出していた。目深に垂れた前髪がその両目を隠していたことは、予にとって幸いだった。死体と暗闇を共にする恐怖は極めて根源的であったが、何より一種の使命感に促され、予はそれの首からぶらさげられていたAvenger Licenseを接収せしめる。当局へ連絡する義務を果たすために携帯電話を取り出すが、電波状況は圏外を告げる。ふと気がつけば、いつの間にか固く閉ざされた鉄扉が眼前にそびえていた。視線を上げると、そこに仁科望美がいる。鉄扉と見えていたものは、女性の巨大な秘所であった。予は彼女の両目をのぞきこみ、彼女は予の両目をのぞきこんだ。その首が傾き、暗闇に浮かぶ二つの円形が半円に細められる。この怪物はすべてを了解していたのである。髪の毛が太くなり、予は爆発的に駆けだした。木々の枝が予を傷つけるのにも構わず、夜の山中をほとんど転がるように走る。仁科望美は予のすぐ背後まで迫り、口腔から荒々しく押し出される呼気が大気を揺らすあらゆる瞬間に、予の生命を刺し貫くかと思われた。地面にアスファルトの固さを感じたとき、予の足はようやく動きを止める。遠くからヘッドライトが迫ってくるのが見え、その接近にあわせるように背後にあった気配は次第に消滅した。予の威武をもって逃げおおせたとは言わない。ただ、食欲と嗜虐を満たされた後に諧謔を与えられ、彼女の精神はその晩、完全に満足していたに過ぎないのである。
 動物たちの行動は特定の環境に対して特化しているものである。人間たちの行動は特殊化を指向する一定期間を過ぎると、普遍化へと向かう。世界の宗教を見ても顕著であるが、特定の環境や状況を前提としない行動、思考様式へ傾倒してゆくのである。生存を追求する上ではなはだ有効ではない全体性への指向が人間存在の本質に組み込まれており、それが人間を他の動物たちと峻別する唯一の要素であるのかも知れぬ。善にして全なる場所へ向け、背中から落下してゆく。ゆえに来し方は眼前へ遠ざかり、行く先は見えない。落ちるにつれて種々の執着や魂の輪郭が溶解してゆく放埒に包まれて、誰かの魂を傷つけ汚さなければ他の数十億から私を私と名指しすることはできない。仁科望美はいつもするように、左胸へ爪を立てた。私という名前の孤絶へ永遠に留まり続けるため、彼女が魂の所在と信じる左の乳房の上に強く爪を立てた。しかし、長い繰り返しの果てに堅くなった皮膚には、わずかも爪を食い込ませることはできなかった。この怪物は安息を得たいのか。安息とは全であり、彼女の願いは個である。両者は遠く矛盾し、何よりすでに殺しすぎている。孤絶が溶解することに気がつけないまま死ぬことが、地獄へ落ちるということだ。
 膝を抱えてうずくまっていた仁科望美が顔を上げる。生存に特化した野生動物の本能のみが可能な、五感を超えた鋭敏さで自身の存続に対する脅威を感じ取ったのである。この破格の怪物を脅かす何かが地上へいったい存在し得るというのか。法から庇護されると同時に、単純に物理的な影響力で法そのものをさえ凌駕する最初の少女。彼女に対抗することが可能な実存を人類の叡智が仮定できるとするならばそれは、これまで地上に存在しなかった何かがこの瞬間、新たに生まれ出たことを意味している。
 夜空へ向けて低くうなり声を上げていた仁科望美が、腰を深く落とした。まるで大地そのものと交接したがっているかのようだ。大腿筋がよじれ鋼鉄の如く硬化し、恐るべき力がそこへ漲ってゆく。仁科望美の足下はすり鉢状にへこみ、彼女の周囲だけ重力の仕技はその法則を変える。大気はゆっくりと渦を巻きはじめ、すり鉢の中心へ向けて収束してゆく。
 次瞬、仁科望美の身体が消失する。山の稜線を形成する木々の間から恐ろしい数の鳥たちがいっせいに飛び立ち、近くの地震観測所は人が体感できるほどの揺れを記録した。逃げまどう鳥たちの群れを突き切り、黒い固まりが宙空を渡る。その巨躯が黄色い満月を横切る瞬間、この世を照らすすべての光は遮られ、ただ漆黒の闇が支配した。
 予の少女と仁科望美との邂逅は、青少年育成特区が成立する基盤そのものへ決定的な影響を及ぼすことになるのだが、それはまだ少し先の話である。

少女保護特区(5)

 抱えた両膝に顔を伏せて永く微睡むようだった予の少女が、不意に顔を上げる。ただちに視界の上部から赤いRECの文字は消滅し、ノイズの多く混じった薄青い少女の像は部屋の隅にある現実として予の認識にとらえなおされた。予の少女はゆっくりと、予の立つ部屋の戸口へと顔を向ける。しかしそれはどうやら予が恐れたような、予の盗撮に対する消極的な疑義の申し立てではなかった。背を伸ばし、予を通り越した遠くの虚空へ視線を投げる様子は、猫科の動物を思わせる。隣室より予の少女のご母堂が夕餉の支度を告げ、その張り詰めた空気は早々に破られた。予の少女は小さく眉を寄せ、起きぬけに忘れてしまった夢を虚しくさぐるような、遠ざかるある感覚を惜しむような素振りを見せる。かすかに首を振ると、胸元に抱えた刀を畳に突いて立ち上がり、まるで予がそこにいないかのように眼前を通り過ぎる。大気の流動に残された香りを求めて、予は鼻腔を膨らませる。少女の余韻はまるで魂を緩ませるかのごとくであるが、先ほどより大きいご母堂の声が予の没入を阻害した。予を一秒の何分の一か麻痺させた陶酔を振り払うと、再びビデオカメラを目線に構えて、予は食卓へと進発する。
 隣に座る予の少女を強く意識しながら、予は二杯目を突き出すときの角度と速度を綿密に計算する。そのシミュレーションを予の身体は完璧にトレースしたが、やんぬるかな、おかわりを言う声はくぐもった。しかしそのわずかの失態もあまりの完全さゆえ、ときに冷たさすら感じさせてしまうだろう予の神性に、暖かい人間性を滲ませるという肯定的な材料となったことは疑いがない。それにしても、悪い米を使うものだ。予は口中の澱粉を、苦い薬を飲むように嚥下しながら考える。加えて古い借家のフローリングは床暖房すら伴わず、顔の火照りと裏腹に底冷えがし、予は食卓の下で両足を揉みあわせる。予は無償で雨露をしのぐ場所を与えられながら、心の底でその良否について批評を抱くことができるほどの無頼である。
 今朝方に近隣で発生した少女殺人からの保護を求めた予の要請は、無数のたらい回しの末、予の執念に屈する形で当局に認められた。少女殺人の発生した地区の住人は、事後二週間、その近隣に住居を持たない人物を保護する義務があることは、特区法にも明記されている。法制化されているが誰も利用したことがないという旨の言葉を数十回ほど聞き流し、姑の執拗さで突き返される十数枚の公文書を書き直した結果の居候であるから、予の少女が生活する様を間近で活写できるという僥倖以外の不便は、甘んじて受けるべきであろう。
 二杯目を受け取るとき、ご母堂と予の指がわずかに触れた。ご母堂は鼻の頭に皺を寄せると、台拭きで人差し指を執拗にぬぐう。予は予の少女と離れがたく結びついてしまっているというのに、罪なことである。同じ遺伝子が、むなしい懸想を錯覚させるのやも知れぬ。ご母堂の隣におられるご尊父は、新聞を防壁のように食卓へ張りめぐらせ、ときどき共有の惣菜へ箸を伸ばすとき以外は、誰とも視線を交じえようとしない。悪い米から立ち上る濡れた雑巾のような臭いの湯気越しに、予はご尊父とご母堂を観察する。ここにいるのは、罰する者と罰される者の夫婦である。二人は幼少期の自分とそれぞれの親とに同化し、人知れぬ片田舎のこの地でかつての悲劇の再演を行っている。負の意味で、お互いはお互いを必要としており、文字通り運命的に結びついてしまっている。そして傷がゆえの結合を不可欠な愛情と錯覚し、手に手を取って破滅へと螺旋状に墜落しているのである。予の少女は、子どもにとって最も近しい者たちが破滅を望み、そしてそれを止める手段を与えられていないことに、腕を揉みしぼり続けてきたのだろう。予の少女が合法的殺人という圧倒的な力を求めたことは、この家庭において日々味わい続けてきた遠回しの無力に対抗する側面があったことは否めない。しかし、両親のする破滅のダンスは精神的なものであり、かつ本人たちがそれを意識化できないがゆえに普段は隠蔽されている。つまり予の少女が求めた力は、その当初の理由から離れた場所でしか発揮を許されず、ゆえに無力感は解消を得ない。本来の対象から転移した感情は強められ、過激化する。解消を求めて噴出する感情が、対象を誤るがゆえに解消せず、空を拳で打つような苛立ちが怒りを増幅するのである。予の少女がこの短期間のうちに、青少年育成特区においてその暴力の度合いという意味で極めて重大な要因になりつつあるのは、まさにこの家庭的背景が関係していると予は考える。そして同時に、その暴力が依拠する部分の病的な脆さに危惧を覚えるのである。
 無論、予の少女が抱く病――それは予の実在にも同じ和音でもって通底するものである――を保護しようとすることは、予の少女がその病質ゆえに、主体的にではなく不可避の受動性でもって予に依存する可能性を残すことでもあり、予の少女を偏愛する我が自意識の陥穽と指摘されることは理解する。しかし、忘れてはならないのは、予の少女はすでに少女殺人者なのである。予の少女が精神的な弱さを克服するということは、肉体的な強さを喪失するということと同義だ。予の少女がいまの暴力を失えば、たちまちその生命を失うことになる。ここに至り、予は諸兄の陥穽論をひらりと飛び越えた三段論法で、正当性の向こう岸へ典雅に着地する華麗さを見せるのである。
 金切り声で我に返ると、予は実際に予の席から食卓とご母堂を跳び越して、フローリングの床へ着地するところであった。予の少女の視線を意識しつつ背筋を張って席へ戻ると、予は鷹揚に食事を再開する。いまここに思考の肉体性が証明されたことを宣言したとして、ご母堂の機嫌は直るまい。こんなとき、わずか一週間ほどの滞在であるにもかかわらず、ご尊父と予はほとんど双生児のような有様で食卓を挟み、ご母堂に訪れた一時の激情が去るまでの間、視線を新聞と虚空に彷徨わせるのである。ただ、予の少女の口元が少しゆるんだように見えたことは、この椿事における唯一の収穫であったと言えよう。もちろん、すべての娘は父の残像を求めるという予の魅力を否定する諸兄の言辞には積極的に耳をふさぐとしてだが。それにしても、全く気に障る金切り声である。現代の貴種流離譚、高貴すぎる精神性ゆえに誰かと思想や日々の言葉を同じくすることのできない予が、あえてこの侮辱的な居候関係を受け入れるのも、すべては喪失をあらかじめ約束された予の少女の強さが、崩壊へ向かうことをわずかでも先送りにせんがためである。
 全員の食事が終わらぬうち、ご尊父は早々と二階の自室に引き上げてしまう。新聞をたたむ際、わずかに交差した予の視線とご尊父の一瞥が互いへの共感に満ちたものであったことを予は確信する。しかし、食卓に下りた沈黙は懸想への確信を充分に裏付けるほど濃密なものであり、ご尊父に対する無作為の裏切りに、予はほとんど胸の潰れる思いをする。先ほどのご母堂の激情も、懸想を悟られたくないがゆえに表面上を本心と正反対の感情で過剰に装飾するというあの、永久凍土をカタカナ読みした名づけの精神病質によるものに違いない。乙女と確実に乙女ではない二人が予に行うだろう告白の重圧を軽減するため、予はまずこの沈黙を予のユーモアでもって破らねばならぬと感じる。それが、男子に生まれた義務のひとつだからだ。しかし、確かに発したと思った言葉は予の喉の入口に留まり、外的にはくぐもった呻きが大気を揺らしたのみであった。予を羞恥で悶絶させるはずのその呻きは、しかし大きめの家鳴りに掻き消される。予は再び予の内側へと退却し、今回の戦術を戦略的視座から再検証するべく引きこもった。状況は楽観的どころではなく、手始めに予は斥候として、考えられる最善のタイミングで空の茶碗を突き出す。予への恋慕を押し隠すためのご母堂の、露骨な舌打ちが追い討ちをかける。斥候が無事に帰還を果たすか、全く予断を許さなかった。
 だが、予の苦境は思わぬ形で解消をみるのである。天井がわずかにきしみ、湯気を立てる予の三杯目に埃をちらす。それに先んじた重い音を予は聞き逃さなかった。予の少女は食卓にたてかけてあった刀をつかむや否や、真後ろへ蜻蛉を切る。かすかにのぞいた陣幕の内側が、確かに予の視界にあったのかを巻き戻すビデオカメラはなく、予の左手には三杯目が、予の右手には里芋を突き刺した箸が握られていた。予は両手を眼前に並べると、激しく叱責する。「諸君は予の精鋭として、長い苦しみに耐えてきた。それが今度の体たらくは何か。輜重に眼を奪われるあまり、最良の勝利の瞬間からは眼をそらしたのだ。君たちの心の中で、廉恥と劣情が勝つか、空腹が勝つか、それをできるだけ早く知りたいと思う」。予がまくしたてると、驚くべき変化が起こった。左手はたちまちビデオカメラをつかみ、右手は里芋ごと箸を放棄したのである。我が意を得た予は莞爾と微笑み、予の少女を激写せんと雄々しく進発を宣言する。一方で中座を申し出る声はくぐもったが、ご母堂は予の緊迫した様子に圧倒され、眉間と鼻の頭にある皺をますます深く寄せるにとどまった。
 最強行軍で駆けに駆け、やがて予は予の少女の尻、ではなく殿と接触を果たす。無論、誤解をしてほしくないのだが、物理的にという意味ではない。眼前に立ちはだかる段差を攻略しあぐねているのかと思いきや、予の少女は階段の中腹へ鞘を突くと棒高跳びの要領で刀身を支点に跳躍し、その体を縦方向へ大きく回転させる。予の精鋭たちは二度の失態を許さぬとばかりビデオカメラを神速にて掲げるも、大気が垂直に伸びた予の少女の両足へぴったりと陣幕の布を張りつかせる映像を残したのみであった。二階廊下への着地と同時に、予の少女は回転の余勢を駆って抜刀し、続く動作で突き当たりの扉を袈裟に斬り下げ、同じ速度で逆袈裟に斬り上げた。鍔音に続く完全な静止から一瞬の間をおいて、木製の扉は四枚の二等辺三角形となって部屋の内側へと吹き飛ぶ。
 木屑の舞い落ちるその先には果たして、両手足の関節を人間の本来とは逆方向へ折り曲げた異形がご尊父を四つに組み敷いていた。窓がわずかに開いており、ここからの侵入が先ほどの家鳴りを生じさせた原因かも知れぬ。異形の首がくるりと回転し、ほとんど浪曲師の嗄れ声でノイズのような音を立てる。笑っているのだ。防衛のための殺人が自己目的化し、そこへの耽溺が理性を消滅させる。やがて係累との関係を失い、野良化した少女のうちの一人だろう。むき出しになったご尊父の下半身と野良少女の下半身は接触しており、寄生蜂の産卵管が幼虫に差し込まれている図を予に想起させたが、現実はその正反対である。
 鋭敏な感性を持つ予は気づかざるを得なかったのだが、ご尊父のパソコンにこの異界の点景として、言うもおぞましい婦女の図画が表示されているのがわかった。天然色の頭髪に包まれたその頭蓋は変形し、巨大に発達した眼窩が組み敷かれたご尊父を見下ろしている。予の少女がそれを見なかったことを祈る。これこそが、家族の団欒に優先したご尊父の秘密なのであった。野良少女とモニター上の図画は、その異形性において類似点を見出せないこともない。つまり、眼前に繰り広げられる陰惨のまぐわいがご尊父にとって決して合意ではないという断言は、困難なのである。騒ぎを聞きつけたのだろうご母堂が足音荒くやって来、予は状況を説明する困難さに肝を冷やす。しかし、ご尊父の部屋を覗き込むと、無表情のまま回れ右で階下へ去っていく。
 野良少女へ側面から対峙する予の少女は、圧倒的に有利な地形的条件を得ているとみてよいだろう。ときに十メートルを超える先を切断する予の少女の抜刀であれば、野良少女がまばたきをする瞬間にその首を落とすことができる。しかし、ご尊父を巻き込むことを心配しているのか、低い姿勢で右手を柄に置いたまま、予の少女は動かないでいる。部屋の中にはある種の均衡が醸成されており、誰も動くことはできないはずだった。予の頬から伝い落ちた汗がビデオカメラのレンズを流れ画面を滲ませる先を、しかし、上下ひとつながりの薄物をまとったご母堂が横切る。予の少女の肩がわずかに震えるのが見えた。薄物の上からでも視認できる乳暈の濃さは位置によって、経年の使用と純粋な加齢から、それらが重力に敗北しつつあることを教えてくれる。しかし、予の背筋と予の少女の心胆を寒からしめたのは、乳暈の色合いではない。ご母堂が右足にだけピンヒールをはいていることが、予と予の少女を慄然とさせたのである。
 誰もが虚を突かれ、ご母堂の存在をこの場面に意味ある何かとして当てはめることができないでいる。ご母堂はよどみない動きでパソコンが置いてある机によじのぼると、仁王立ちに野良少女とご尊父の媾合を見下ろした。制止する暇もあらばこそ、完全な無表情からの跳躍と、両足をそろえた落下の次の瞬間、ピンヒールの高さはすべてご尊父の右のこめかみへと消える。濁った音とともに、マヨネーズ状の何かが噴出するのが見える。ご母堂の鬼気に飛びのいた野良少女の首が、予の少女の抜刀によって切断される。生首は血流を推進剤に回転しながら宙空を進み、天井にぶつかってからご尊父の傍へと落下する。爆発的な動きの後に訪れた再びの静寂を破ったのは、鍔音に続くご母堂の笑い声である。
 予は固まってしまった右腕を意識しながら、無理矢理とビデオカメラを下ろす。予の視界はもはや少女殺人の終わった現世を映しているはずであったが、哄笑を続けるご母堂の肩越しから向こうに、奇怪な生物が立ち上がるのが見えた。それの側頭部からは角のような物体が生えている。右目は釣り上げられた深海魚のように突出し、生気のない左目は暗闇の中でなお燃えるように赤い。それの両手が背後からご母堂の首にかかる。たちまち哄笑は途絶え、ご母堂の口腔に舌が盛り上がる。予の少女がそれの両手首を斬り落とすのと、何かが折れる鈍い音が聞こえるのはほとんど同時だったように思う。それは――両手首を切断されたご尊父は膝から床へ落ちると、上体を前のめりに傾ける。意識という制御を失った怪力に頚骨を砕かれて絶命したご母堂は、もはや支えるものの無い頭蓋の重みで後頭部方向へと倒れる。二人の身体はその途上で交錯し、予の眼に“人”という字のシルエットを残した。
 ご母堂は自分の知らない女性と寝るかつての父を見つけ、ご尊父は愛ではなく性で支配するかつての母を見つけ、その混濁した互いの意識の裡に、この世界で最も正統な復讐を果たしたのである。 母を求めた男と父を求めた女はお互いの幻想と差し違え、誰もが現世で手に入れるはずのない究極の達成を得た。二人は己の死と同時に全く過不足の無い精算を果たしたのである。彼らは天国にも昇らず、地獄にも堕ちるまい。それらは造物主イコール両親へ向けられた感情の真実さへの欺瞞、あるいは罰を象徴する名前に過ぎないからである。幸いなるかな、二人の魂は完全にこの世界から消滅することができるだろう。
 音も無く回転する車載用電火表示板の赤さに照らされて、予の少女は闇に沈み、そしてまた現れる。その様子は予の少女の持つ一種の二面性、脆い内面を実体として衆目にさらすようである。そのむき出しの痛ましさは、直視に耐えぬ。今回の事件は予の通報を伴わなければ、二件の少女殺人と一件の通常殺人として処理されたはずであった。しかし、少女殺人に遭遇すること頻繁な予が県警にする説明は陪審員を前にした辣腕弁護士の如くであり、予のビデオカメラを用いた検証が駄目押しとなって、発生したのは一件の少女殺人と二件の通常殺人であったことが証明される。野良少女の死後に、予がビデオカメラの撮影を中断したことは幸いであった。ご尊父は予の少女の斬撃で両手首を失う前、すでに致命傷を得ていたと思われるが、あの場面の映像を前にそれを県警に納得させることは難しかったろう。ただ、法的処理の段階において少女殺人はこの世には存在しないように振舞うので、予の説明は予の少女から父殺しの衝撃を取り除いてやりたいという、極めて心情的な側面から発していたことは否めない。
 落下してくる白球をどちらが捕球するかで争う外野手と内野手のように、霊柩車と救急車を挟んで睨みあう救急隊員と妙齢の女性たち。両者を呼んでする県警の指示により、三つの遺体は公平にそれぞれへと分配された。霊柩車のブレードが野良少女の遺体を粉砕する一方で、三つ以上の部分に分かれた予の少女の両親は担架に乗せられ、ほとんどうやうやしく救急車の内部へと搬入される。霊柩車の持つ冷厳な即物性に比して、死体を搬送する救急車というものは、法の便宜的な側面をことさらに強調し、生と死の間にあるマージンを象徴する。その緩衝地帯は生の側にとってのみ必要とされ、死の側に立つ者は全く頓着しない領域である。霊柩車から見下ろす妙齢の女性たちは、その事実を経験として知っているようでもある。
 事情聴取を終えて歩み寄る予に、予の少女は顔を上げる。その瞳はつやで黒く濡れており、予の呼吸を停止させんばかりであった。正対する予にしかわからぬほどのわずかな逡巡の後、予の少女は予の両腕の間に身を投げる。ほとんど骨格を感じさせない柔らかな肢体を得て、予の全身へ雷鳴に似た衝撃が走った。親と子の関係を象徴的に語りなおすのが宗教であるとするならば、人類の最初期に塗りつけられたその汚辱が、予の少女を予に執着させる。神という名の呪いに端を発する歪んだ執着が、愛という名付けで巧妙な偽装を行う。正体を知りさえしなければ、それを楽しめるのだろう。しかし予は、予の自己欺瞞を許すことができない。魂を不可逆に改変するという意味で、知ることは呪いである。いまでもときどきこの瞬間を夢に見る。もしかすれば、抱きすくめればよかったのだろうか。それが、正解だったのか。
 抱きしめる代わりに予はその細い両肩をつかむと、予の少女を引き離した。布一枚の向こうにあるしなやかさを通して、予の少女の傷の形がありありと見える。ぴったりとそこへ嵌まれば、予は本当の意味で予の少女を手に入れることができたのかも知れぬ。永遠を依存する一つの病になれたのかも知れぬ。それが幸福の一形態ではないと、誰に断言できるだろうか。予はただ、人間に対して誠実であろうとしただけである。
 しかし予の少女は、予が最も重大な瞬間に裏切ったと感じたはずだ。予の少女の瞳は干上がるように渇き、みるみるうちに表情が消えてゆくのがわかった。予は立ち尽くし、声をかけることもできない。永遠のようにうつむいた予の少女は、やがて完璧に抑制された微笑を浮かべると、軽く膝を曲げて会釈をする。助手席へ誘導しようとする救急隊員の制止を振り切って、予の少女はかつて両親だった残骸の傍らへ腰かけた。扉が閉められる瞬間まで、予の少女が顔を上げることはなかった。
 救急車が走り去るのを見送ると、予は少女殺人からの保護を盾にして、霊柩車へと乗り込んだ。妙齢の女性たちは露骨な嫌悪を向けたが、予の主張する権利は特区法によりその履行を強烈に裏書きされている。居候先を失った予は、当面の生活費を稼ぐ必要があった。少女殺人の記録はどんなものであれ、当局に高値で売りさばくことができる。しかし何より、この場所を早く離れてしまいたかった。
 どうか覚えておいてほしい。言葉があるということは、現実がないということだ。予が語りはじめたことは同時に、予の少女の不在証明となることを。

五十六万ヒット御礼小鳥猊下基調講演

 「もう、もう、もーッ!!」
 画面の奥から襞の入った洋装の少女が、頬を紅潮させて猛然とかけてくる。
 そのまま諸兄の眺めるカメラへ額から激突し、もんどりうって倒れる。頭部をハンマーで強打された瀕死の猫のように、尻を高く突き出し、顔面を地面にすりつけて、ぐるぐると回転する。
 やがて立ち上がると、青ざめた顔でカメラへ向き直る。
 「(怒りに肩を震わせて)ゆ、ゆるさん……! いまのは痛かった……痛かったぞーッ!」
 少女、頭突きを試みて再び猛然と駆け出す。
 しかし、諸兄の眺めるカメラへ額から激突し、もんどりうって倒れる。頭部をハンマーで強打された瀕死の猫のように、尻を高く突き出し、顔面を地面にすりつけて、ぐるぐると回転する。
 死んだような静寂の後、少女、自らのまきあげた埃の中から姿をみせる。
 「(額を両手で押さえながら、涙声で)本当に、救いようのないおばかさんたちですね……教えてあげましょう、私のアクセス数は56万です。(突然のすごいかんしゃくで足を踏み鳴らして)もうッ! なのになんで誰もあたしをほめてくれないのよ! (ひと言ごとにますます激しく床を踏み鳴らしながら)大きらい――大きらい――大きらいだわ! (どしん、どしんと地団駄を踏みながら)よくもあたしのことを構成力に欠けて、読みにくい文章だなんて、言ったわね! よくも萌え不自由で、アクセス数貧乏だなんて、言ったわね! あんたたちみたいにおたくで、幼女趣味で、精子なしの人を見たことがないわ! これであんたたちが気を悪くして、アクセス数がもっと減ったって、あたしヘイチャラだわ! はかったみたいに更新の翌日から、それまで毎日1件はあったweb拍手をぴったりととめて、あんたたちはあたしの気持ちをもっとひどく害したんだもの! あたしの腹心の友といったら、もうだんぜん、スパムメールだけだわ! だからけっしてあんたたちなんか許してやらないから! 許すもんか! (袖のフリルでごしごしと目元をふいて)でも、あたしはかしこいネット孤児だから、どうやればみんなの期待を裏切らないかってことも、わかってるつもり……(両手を組み合わせ、薄幸そうな笑顔で)愛されるようにふるまわなくちゃ、だれも、ワンクリックでやっかいばらいできるネット孤児を愛してくれるわけなんてないもの……けど、覚えておいて。ウィンドウが閉じられるたび、ブラウザーの戻るボタンが押されるたび、あたしはひとり、死ぬんだってこと……うふふ、やれこわやれこわ! せいぜいネット弁慶と呼ばれないように、これからはあたしもかんしゃくを直さなくちゃ! だから、あたし、きょうは冷静におはなしできるようにって、お手紙かいてきたのよ……お兄ちゃんたち、聞いてくれる?(胸元から便箋をとりだすも、取り出す際に衣類の内側を計算された角度でカメラに誇示する)
  『本当に、今回の無反応は身に染みました。最上のクオリティをお届けしたい一心で、他意はございませんでした。みなさまの求めるものと私が良いと感じるものは、もはや致命的にズレてしまっていることを痛感します。よって、自戒をこめた次回の(少女、突然手紙から顔をあげて爆笑する)更新からは次の七ヶ条をまもり、読みやすく、みなさまに愛されるnWoへと回帰いたす所存です。
 わたくしこと、小鳥猊下は、
 1.一文を短くします。動詞は修飾関係を含め、二語にとどめます。読点は一つまでにします。また、同文中に複数の主語を持ちません。
 2.改行を増やします。できるだけ、句点ごとに改行します。
 3.難解な漢語を用いません。ひらがなにひらくか、あるいは中学生レベルの語彙で理解できる平易な英語のカタカナ表記で言い換えます。
 4.会話を増やして、地の文を減らします。また、マンガ的な擬音を挿入することで場面に臨場感を加えます。
 5.新奇さを追求しません。ヒットする歌謡曲の条件である「どこかで聴いたような」を至上の目標とします。人名や地名の策定には、神話辞典などを用います。
 6.万物に対して肯定的に考える姿勢を貫き、読み手を不安にさせません。否定的な意見や場面を挿入した場合も、後に肯定的なものへ必ず転換しますので、安心して最後までお読み下さい。
 7.養育者へ常に感謝の意を表明し、攻撃することは二度といたしません。
 以上、みなさまにおかれましては流感などに気をつけつつ、お時間に余裕のあるときだけ、鼻毛や臍の下を抜いても抜いても無沙汰がまぎれないようなときにだけ、当サイトを流し読みくださればと思います。かしこ。二伸。まったく、萌え画像ってやつはハードディスクにとって邪魔にならない存在ですね』
  (襞の入った洋装の少女、便箋を胸にかきいだく)かわいそう! あたし、かわいそう……ッ! お、お父さんとお母さんを大切にッ! ファーザーアンドマザーをインポータントにぃぃぃィッ! あーんあん、あん」
 少女、どしーん、という擬音を口にしながら床へ倒れこむと、大泣きに泣き出す。
 しばらくして顔を上げ、ちらりとこちらを見る。まだカメラが回っていることを知ると、床に顔を伏せ、前にも増した大きな声で泣きわめく。
 「(嬌声ともとれる抑揚で)あーんあん、あん。あーんあん、あん」