猫を起こさないように
日: <span>2019年11月23日</span>
日: 2019年11月23日

漫画「ピコピコ少年1巻」感想、あるいはファミコンの記憶

 タラムイーン、アズ・ノウン・アズ貴様ら陸貝どもの粘液トラック、あるいは排泄痕を日々薄目で眺める情強の俺様は、いま話題のピコピコ少年とやらをキンドルでサクッとダウンロードし、ビジネスにつきものである移動中の無聊を慰めるべく閲覧してみた。

 唐突に話はそれるが、電子書籍にキンドルと名づける欧米人のセンスはすさまじい。これすなわち「焚書」の意であり、貴様ら有肺類にもわかりいいよう例えるなら、エロゲーを円盤メディアからフリーにする大統一ハードにカストレート、これすなわち「去勢」と名前をつけるような感じだ。すさまじい。

 作者とは、おそらく同世代に近いと思う。土地とゲームの固有名詞こそ違えど、驚くほど似たような少年時代を過ごしてきた。言ってみれば、ここ半世紀ほどで最もクソみたいな時代をだ。ちょうど地方の大家族で居場所を失った次女・次男坊以下が、故郷から放逐される形で都市へと出て、核家族化していった最初の世代の子どもだからだ。父親は週6日午前様で働いて日祝は得意先とゴルフ、母親は会社のヒエラルキーを日常にそのまま移した社宅での人間関係に神経をすり減らし、子どもへの教育を考えたところで、商業高卒の若妻に将来への明確なビジョンなどは求めるべくも無い。そんな弱みをゆすられての押し売り上等、クーリングオフの存在しない時代の訪問販売に馬鹿高い百科事典などを買わされて、ただただ泣き寝入りの末、子どもへ怒鳴り散らすみたいな、クソみたいな日々。

 教育的な定観が無いものだから、ファミコンが流行れば近所で仲間はずれにされては大変とすぐさま買い与える。大人の感情、時々の気分に支配される毎日を過ごしてきた子どもが、人生で初めて入力に間をおかず答えを返す存在、一貫したその世界観に依存し、深く耽溺していくのは理の当然だった。得手ではない教育、好きではない我が子から逃避するために出かけるパートタイム・ジョブでの長い不在が、その傾向を加速させる。気がつけば、ファミコン漬けの子どもの一丁あがりだ。子どもを黙らせる良質のベビーシッター、その恩恵を得ていたにも関わらず、たちまち手のひらを返したように始まるゲームへの非難。何が良いか、何を大切にすべきか、何が正しいかを示すのではない、すでに存在する何か、起こってしまった何かを理屈抜きで否定することが、核家族の教育方針である。

 もちろん、彼らにも同情の余地はある。家名と血脈の存続という自明の命題を取り上げられているのだから。食って排泄して性交する以上の何かがなければ、人は生きていけない。男たちは残らず社畜と化すことで偽りの命題を得たが、女たちは我が子のゲーム狂いを否定することしか残されていなかった。教育観もなく、人生観もなく、世界観もない。なぜならそれらは一家一族に一つだけ継承されていく無形の何かだからだ。そこから切り離された個人はどう狂おうと、どう野垂れ死のうと、だれも省みることはない。ただ、犯罪だけがその例外だ。

 いろいろとしゃべったが、本作から「あの頃ゲームがなければ、死んでいたかもしれない」という一文さえ引用すれば、何の説明も必要ない。あの時代を過不足なく回顧する、素晴らしいフレーズだと思う。一筋の灯りも無い暗闇を手探りで生き延びた者たちの、偽らざる実感がここに込められている。

 えー、先ほどの内容はマット・デイモンがカウンセリングのカウチに横たわって早口でしゃべっていたと考えて下さい。

映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」感想

 過去の日記を見返したのだが、前作については何も触れていないようだ。しかし、今回は言わずにはおれない。ネットの片隅で細々と書き継がれておる少女保護特区という更新は、旧作が与えた命題を極めて私的な形で解消したいという願望に端を発している。十余年を繰り返していれば、圧倒された体験は時間へ風化するし、同時に己の、主に精神面での力量が向上するため、完全にそれを無化する段階に達したと、直近の更新では感じることができた。読み手の感想はおくとして、個人的には確かにある種の克服にたどり着いたと思った。

 しかし、実のところ、またしても先回りされていたのだ。少女保護特区最新の更新で提示された、世界よりも手の届く一人の少女を、という構図である。誰にも求められないという点で究極に内的な作業を経て同じ場所にたどり着いていた、同時代性への嗅覚を内輪褒めする気には到底なれない。なぜなら、相手方のそれは結論ではなく、未だ途上に過ぎないからだ。そして、旧作で最後までもつれた個人の内面を精算する段階を早々と終えて、物語は世界の謎へと飛躍してゆきそうな気配である。追い越したと思えば、また先にいる、実体を伴う蜃気楼の如き、時代を象徴する化け物としか形容できない作品である。少女保護特区のエピローグを更新しようとしていた手が完全に止まったことは事実だ。無論、蟻が象へ向ける執着との指摘に反論する言葉はない。だが、少なくとも私にとって、少女保護特区は旧作と完全に等価だったことだけは記しておきたい。

 日記的な蛇足を少々。第17話から第19話までの流れがコンマ秒刻みで身体に染み付いているため、後半、旧作と同じ構図の絵が多用されるあたりで、生理的な違和感が没入を妨げる格好になった。そして、Quickeningは胎動初感の意であり、次回予告に知的な背負い投げを感じて驚いた。あと、次はアカペラバージョンになると予想した。

映画「チルドレン・オブ・メン」感想

 団塊の世代の子育ては大失敗。ゆえに女は父を求めて不倫をし、男は母を求めて二次元に耽溺する。女は父とファックしたいが、男は母とファックしたくないからだ。負け犬、おたく、認知症、カテゴライズが無限のグラデーションを喪失させ、カテゴライズが作り出した壁は無限に並列するカーストを形成し、階級間の移動を完全に不可能にする。エクセル状の伸縮するセルが我々の住処、少子化の悲惨極まるこの裏舞台、悲劇を連鎖を望まぬ無感情で申し上げる、社会評論家の諸君はうんこを食べなさい。コーンの入ったうんこを食べなさい。精子だけを要求される男たちがなぜ勃起できると信じられるのか。かてて加えて、配給会社は高所から白痴の群れへ骨付き肉を投げる傲慢さで、計算しつくされた原題へ外国語風人造言語を上書きする。人として、最低限の知性さえ疑われた我々は、銀幕やDVDのパッケージに刻印されたそれを前にして絶望するしかない。

 チルドレンオブメン、上記の理由から消極的におすすめです。

漫画「プラネテス4巻」感想

 世代の特徴と言うべきなのだろうか。某SF漫画を遅ればせに読んで、考えた。憎悪で膨らんだ世界観が愛で救済されるときの鼻白みと腰砕け、憎悪が漂白されれば残された解答はまるで宗教のようになり、宗教のようになれば語るべきは失われ、自壊あるいは拡散して物語自体が消滅してゆく。宇宙と対峙しながら、個人の内面へとその極大を押し込める。文化と歴史を前提としないからこそ、愛が憎悪を救済できるのだ。

 それに気づいたとき、小生思わず悶絶し、深く反省をした。完全に全き状態を到達地点に想定する、その錯誤は虚構の中にしかあり得ないと気づいたのだ。特定の人間関係の中で特定の課題へ繰り返し取り組むことは、個人の中のある部分を助長し、ある部分をより深く所与命題に適合するようたわめ、そして確実に必要ないがゆえに消滅してしまう人格の部分を持つということである。その失われる部分が悲しい口惜しいというのは、人間であることをどこかで拒否しているということだ。私が更新も無いままサイトを閉じようとせぬのも、変わりゆく自分への悲しみゆえなのかも知れない。

 しかしそれは一種の引きこもり的錯誤なのだ。繁忙期も過ぎつつあるし、そろそろ次をお見せしたい。いわば人外の獣がする同族殺しへの悲鳴である。

ゲーム「俺の屍を越えてゆけ2」感想

 俺屍2プレイ中。前作もそうだったが、ウィザードリィ世代直撃、いったんゲームを開始すると数時間はフッとぶほどの時間泥棒ぶりなので、できるだけ電源を入れないよう努めている。細部にまで神経の通ったゲーム性の手触りが、抜群に心地いい。そして、ストーリーも含めてゲーム全体を周辺状況込みで俯瞰するとき、とたん本作は狂王の試練場というよりコズミック・フォージの様相を呈し始め、狂気クリエイター更新への意欲を久しぶりにかきたてられるぐらい、面白い。

 赤の他人の屍を幾度も越えてクリアに至ったところの、小鳥猊下であるッ! ゲームに作家性を求めてしまうみたいな話を前にしたことあると思うんだけど、アタシほら、テキストサイト界隈のレジェンドだから、テキストに作家性を求めちゃうのよね。

 例の続編だけどさ、特にイベントパートでさ、明らかに違う人がセリフ書いてんの。指定の文字数を埋めるだけが目的みたいな、精の薄いテキストが書かれてんの。アタシってほら、2ちゃんねるの前から存在してる、日本のインターネットの生ける伝説だからさ、文章の密度とか艶とかでだれが書いたかなんてすぐにはっきりわかんだね。自動生成ダンジョンがウリになのに、ラストに近づくにつれてぜんぶコピペの一本道になってって、なんか全体的に納期に追われてむりくり完成させたみたいな突貫工事感ただよってんの。

 今回、一見さん向けにストーリー重視みたくなってんだけど、場面場面に整合性が無くて、なんか精神に疾患のあるキャラが自作自演した、統合失調みたいなシナリオなのよね。感情を知らない宇宙人がロジックで地球人の行動を推測したら、ぜんぜん違ってました、みたいな。赤の他人も「うるさい、黙れ!」しか言わなくて、おいおい、オマエがちゃんと話を聞いてやるだけで今回の件はもっと早い段階で収束したんじゃねーのって。

 あれっ、大人がちゃんと子どもと話をしてたら起こらなかった、本質的に不要のできごとが中心に置かれたストーリーって最近なんかあったなー、なんだったかなーと思ってたら、エヴァQだった。

 それと、エンディング後のおまけで一族全員が主題歌に合わせて左から右に行進していくみたいなのがあるんだけど、同じ顔で同じ衣服で同じ名前の部外者が何度も何度も現れるのがあんまりシュールで笑った。いや、むしろ笑えない。

 どんなベテランも自分の創作物への距離感を正しく保つのは難しいんだな、と思った。

漫画「HUNTER×HUNTER 33」感想

 ハンターハンター連載再開の第一話を読む。こちらが用意したあらゆる予想をことごとく裏切り、かつそれが邪道ではないという凄さに感動を覚える。例えば、エヴァQが予想を斜め下方向に裏切る、視聴側の予想を外すことだけが目的の大邪道だったのに対して、本作の変わらぬ王道感は素晴らしい。レベルの低い創作は、アマチュアの心をざわめかせる。オリジナルと二次創作の違いが薄まり続ける中で、つまりはプロとアマチュアの差が縮まりづつける中で、ゆるぎない本物のプロが存在することに安堵する。ハンターハンターを読むとき、私は決して敵わない何かへ素直に頭を垂れることができる喜びに、いつも深い安らぎを覚えるのだ。

 それにしても不思議な漫画である。週刊少年ジャンプに連載されているにも関わらず、もはや少年漫画ではない。かといって、青年向けの漫画ではさらにない。例えるなら、四角いゴムボタンの初代ファミコンが独自進化を遂げ続けた結果、いつかプレステ4を凌駕してしまったみたいな面白さだ。確かな作家性にそれは担保されており、少しでも似ている作品を現在の市場に見つけ出すことはできない。とりあえず、暗黒大陸編(?)の終了までは生きていたいと素直に思った。

 ギャラクティカの記事を追ううち、エヴァQ制作陣が同作品の記念イベントに出席しているのを発見し、またぞろ次作に対してイヤな予感が高まっている。未登場の旧キャラが残存する人類を集めた統一政府の大統領になっていたり、ネルフのメンバーは機械化やクローン化ですでにサイロンと近いような存在になっていたり、ヴィレの新キャラに二重スパイが紛れこんでいたり、今作舞台の地球は実は偽物で宇宙のどこかにある本物を見つけるための探索行に旅立ったり、裏切り者の主人公が突然「アイアムアンインストゥルメントオブゴッド」とか言い出したり、最後は奇形の箱舟戦艦が太陽にとびこんで人類が救われたりしそうだ。公開当時の感想にも書いたが、Qをパラレルのバッドエンド側として処理し、次回はトゥルーエンド側の急プラス最終作を公開する以外、まっとうな収集をつけることはできないのではないか。

 ああ、冨樫先生なら! 冨樫先生ならこんな地べたを這うシロウトの妄言に一瞥さえ与えず、はるか上空を軽々と飛び越えていってくれるのに!

漫画「惨殺半島赤目村2」感想

 あ、あれっ? 聖典・ファミコン探偵倶楽部を引き合いにしてまで期待感を表明した同シリーズの開幕だったのが、わずか二巻の打ち切り的大駆け足で終わってしまったことへ、ある種の失望を覚えている。

 しかも、村を焼き払い、登場人物を皆殺しにし、あらゆるタブーに触れつくす終盤の大カタストロフは、キャラクターの意志ではなく作者の自我に色濃く支配された悪い方の予定調和だった。キャラクターや世界の設定だけは非常に細かく書き込んでおきながら、最後は人類滅亡で皆殺しみたいな乱雑さに、私にも君にも覚えがあるところの学生時代の黒歴史的な創作ノート感がすごくある。

 鈴木先生は教師視点から学校を描くというアイデアが、ともすればエログロ方向へ傾きがちな悪癖をなんとか最後まで抑えこんだ、奇跡のバランスに立脚したがゆえの快作だったんだなと、読了後に半ば呆然としながら思った。なので、ループタイの男を登場させるバイオレンスジャック的クロスオーバーは、どちらの作品にとってもよいやり方ではなかったな、と感じた。

映画「エリジウム」感想

 前作とは比べものにならないほどの予算や大物俳優を有しながら、ここまでダメな映画にできるってどないやねん。

 タイトルとなった宇宙ステーションは申し訳程度の短い描写しかなく、物語の大半が第9地区のセットをそのまま持ってきたのかと疑わせる、スラム街での小競り合いに終始する。アフリカで難民となったキャットフード好きのエイリアンとか、低予算を逆手にとった前作の設定は、おそらくブレードランナー以降で示された中でもかなりユニークなSF的世界観だったように思う。

 ひるがえって、本作は何も新しいアイデアを持っておらず、伏線の欠如した場面と場面をそれらしく貼り合わせるだけの、致命的に構成の下手な監督であることを露呈してしまった。ストーリーは行き当たりばったりの支離滅裂、伝えたいメッセージは何もなく、かろうじて撮りたい設定やギミックだけが先行してあり、それらさえも二作目にして老大家の如き自己模倣が始まっている。もうびっくりするほど、褒めるべきところが見当たらない。特にステーション内の通路に桜だか梅だかを配置した戦闘シーンには、これを新しいと思っているのだろう監督の自意識と圧倒的なセンスの無さが鼻について、即座に視聴を止めようかと思ったぐらいだ。

 あれっ、登場人物の感情の動きを含めて、映画を構成するあらゆる要素が設定に隷属させられてるのって、最近どっかで見たなー、どこだっけなーと思ってたら、エヴァQだった。

アニメ「ガッチャマンクラウズ」感想

 質問:ガッチャマンクラウズはどう思いますか?

 回答:うむ? 私への質問はweb拍手ではなくアスクエフエムを通してもらえるとありがたい。まあよい、先のSF愛好家ディスを受けての質問かもしれないが、Huluに入っていたのでクルセイダー育成の傍ら視聴した。結論として、このアニメは3つの点でダメだ。

 一つ目は別にガッチャマンで無くても成立するところ、二つ目はセリフ回しが汚いところだ。若手の脚本家が「これが、今の……俺らの、リアルなんスよ……!!」とかつぶやきながら書いてそうだ。悪役から学生から政府高官から、登場人物すべての自意識がこの汚いセリフ回しのレベルに統一されており、長くは見ていられないぐらいだ。

 なに? 海外で人気あるんスよ? それは翻訳の過程でセリフの汚れが脱臭されたことが主な理由だろう。なに? 3つ目がありませんだと? あれで三つの理由だったんだよ。おれたちゃ数学があんまり得意じゃないのさ。ここじゃあな。

映画「アナと雪の女王」感想

 世紀末覇王ディズニーの歩む、比類なき王道。

 一点の曇りさえ無いその有様には、「ハア? 180キロの速球を投げられんのに、なんでチンケな変化球とやらを覚える必要があんだ? いらねえよ、小細工はよ!」などと、スキンヘッドに刺青の大男がパツパツのタンクトップで後ろから耳元に囁きかけるのが、聞こえてくるようですらある(幻聴です)。

 西洋のミュージカルは、日本の歌舞伎に相当すると考える。観客席の御見物の視線はカメラの機能を持たないから、演技側の過剰な強調によってカメラ的演出が行われる点が共通しているからだ。あらかじめカメラ的演出を持っている映画芸術にミュージカルを落とし込むことは、ストーリーテリングと歌唱パートの尺のアンバランスが理由で失敗するケースが多いように思う。この意味では、一般に評価の高いレ・ミゼラブルも失敗していたと感じている。成功したミュージカル映画は、例外なく通常の映画の枠を外れた長い尺で構成されていることに気づくと思う。先に挙げた2つの要素の避けがたいアンバランスを、できる限り薄めるためだ。本作では、驚くべきことに1時間40分強という短い尺でありながら、極限までテンポを高めた演出とキャラの表情、そして台詞でストーリーテリング部分を圧縮するという力業を用い、ミュージカル映画の持つその欠点を克服してのけた。正直、この類の物語のビルドアップ部分は日本昔話の例をあげるまでもなく定型化されており、今回のディズニーのやり方は新たなテンプレートとして定着する革新でさえあるかもしれない。

 一点の不安さえ無いその様子には、「ハア? 格闘技? 減量して弱くなってんだろ? なのに、どこがチャンピオンなんだ? わかんねえ、そりゃ小人の見世物小屋の間違いだろ!」などと、黒人の大男がトランクス一丁の馬乗りで耳元に囁きかけてくる重みを我が腰に感じるようでさえある(幻覚です)。

 しかしながら、ラプンツェルのときにも指摘した毒を新生ディズニーは依然としてはらんでおり、今回は兄弟姉妹間に存在する双方向でありながら、たぶんに一方的な葛藤がそれに該当する。スタッフロールの後、悪役にまで救済を用意するディズニーが、エルサにだけは身内の愛だけで我慢することを強いて、「国イコール家族」のために奉仕する残りの人生を喜びとして受け止めるよう洗脳する。無邪気にこの映画を礼賛するのはおそらく次男か次女であり、老老介護に疲弊した長男や家族が理由で婚期を逃した長女は、きっと砂を噛むような読後感で劇場を後にすることであろう。