猫を起こさないように
日: <span>2019年11月23日</span>
日: 2019年11月23日

忘備録「クトゥルフ神話、あるいはゲームブックの記憶」

 ところで、このトラペゾヘドロンを見てくれ、どう思う? すごく……輝いてます……小鳥猊下であるッ!

 クトゥルフ神話の良さって、何をおいても固有名詞の発するワクワク感にあると思う。nWoという物語は大不評頓挫中であるが、そんな私が今いちばん欲しいのは文章力でもアイデア力でもなく、間違いなくこの固有名詞ワクワク力である。背景とか全然知らないけど、フジウルクォイグムンズハーとか、イクナグンニスススズとかを、いつかネイティブの発音で実際に聞いてみたいものである。

 なぜ唐突にこんな話を始めたかと言えば、ギャラクティカがどうしてこんなに私にとって面白いのかを考えたとき、失われた故郷である地球を目指すという設定に古い記憶を刺激されているせいではないかと考えたからだ。この筋立ての原型、オリジナルは私にとって東京創元社ゲームブック、デュマレスト・サーガである。2巻の終わりで主人公がついに地球の座標を発見してからというもの、かれこれ25年ほど続きを待っているが、未だに刊行の気配さえない。その未消化感を満たしてくれているからこそ、ギャラクティカがこんなにもグッとくるのではないかと分析している。どうやらこのシリーズには原作があるようだが、個人的には「巨大コンピュータの謎」と「惑星不時着」のアール・デュマレストこそが本家本元なのだ。まさに江戸の敵を長崎で討つそんな最中に、ゲームブックつながりでクトゥルフ系のそれを連想したが故の、唐突な冒頭の話題ふりであった。

 おい、早くその球形のひっかかりのついた先細りのトラペゾヘドロンをしまえよ! しまえったら! えっ、トラペゾヘドロンってもしかしてそういう? 小鳥猊下でした。

 マーカーに更新されていく世界人口。そうか、我々が滅びるとき、残された人類の数はホワイトボード上でカウントダウンされるのか。

映画「ホビット2」感想

 ホビットの冒険における最重要の伏線である「暗闇の謎かけ」を前作で消化し、本作ではいよいよピーター・ジャクソンが他ならぬ「自分の」ロード・オブ・ザ・リングスにつながる前日譚として、好き勝手に語り出した感がある。「キャラの立ってない髭面ばかりじゃ、画面が持たねえな」とばかりに原作では未登場のレゴラスを登場させ、さらには原作には存在しないタウリエルなる森エルフをねじこんできたばかりか、生物学的に交配のできない設定(だよね?)のドワーフと胸焼けのするロマンスを展開させる始末である。

 ここまで水増しして三部作に仕立てようとするのは、本作をスター・ウォーズよろしく、同じ構成で異なる結末を持った、相似形を成すプレ・トリロジーに位置づけたいからなのは、もはや誰の目にも明白であろう。ロード・オブ・ザ・リングスのときに感じた原作への深い敬意はどこへやら、自分以外はもはや誰も指輪物語の映像化へ手を出せないことを自覚しての大狼藉、諸君の言葉で言うならば原作レイプ、それも衆人環視のまっただ中で見られていることに興奮を促進された大強姦である。面白く無いかと問われれば、面白い。しかしそれは、画面作りやクリーチャーの造形やアクションのアイデアや、ピーター・ジャクソンの持つ資質に依拠した部分が面白いのであって、もはやトールキンの原作とは関係ない次元の面白さだと言えよう。

 そして、前トリロジーと無理やり物語構成を似せにかかっている弊害の最たるものとして、アラゴルンのポジションにあるトーリンの描写の劣化が挙げられるだろう。児童文学の原作では一種のユーモアとして機能していた彼のアホさ、身勝手さ、カリスマ性の無さが、むしろ欠点として観客に強調されてしまっているのは、トールキン・ファンとして非常に残念である。

 あと、オーランド・ブルーム、相変わらずこの無表情のエル公は弓矢を近接格闘武器みたいに使うな、と思った。それと、サウロンのシルエットがまんまゼットンなのはギレルモ・デル・トロのスケッチが残ってるのかな、と思った。それと、スマウグはあんな口の形をしているのに、ティー・エイチの発音がうまいな、と思った。

アニメ「あしたのジョー2」感想

 過度なアルコール摂取にしばしば意識を喪失する、いわゆる寝正月の最中、西方蛮族提供の流感みたいな名前の動画配信サービスに、「あしたのジョー2」が追加されているのを発見し、長い前髪で片目を隠しながらジャージ姿の体育座りで視聴を行う。途中、家人が無神経に部屋の扉を開け放ち、「マア! また暗い部屋でテレビ見て! 目が悪くなるわよ! 前髪も切りなさい!」などと甲高い声でまくしたてるので、「うるせえババア! ブッ殺すぞ! あと、お酒買ってきて!」と絶叫したりした。

 最終話近く、少年鑑別所時代のジョーの仲間が喫茶店に集い、昔のことをふりかえるシーンがある。うろ覚えの記憶で再現すれば、こんな感じだ。

 「ぼくたちは変わってしまったけれど、矢吹丈だけがあの頃の青春のままにいる。それが、たまらなく嬉しいんです」

 「へえ……おまえ今、小説家とか、学校の先生でもやってんの?」

 「いいえ、地方の工場の、ただの工員ですよ」

 かつては気にも留めなかったこのやりとりが、いまでは強く胸に迫る。おのれが矢吹丈その人ではなく、矢吹丈のことを語るだれかであることを知っているからだ。ウルフ金串の回といい、元全日本チャンプの回といい、昔はものをおもはざりけり、年齢を経た現在だからこそ感じられる哀切の数々に、成熟を拒否し続けてきたこの身が、遠くまでよろよろと、なんとか歩いてきたことに気づかされた。物語後半へ進むにつれて力尽きてゆく作画と演出も、ジョー自身の崩壊とリンクしているように感じられ、涙なしには見ることができない。

 「へへ、ほんと、テキストサイトなんてのは運だよなあ。たった一発のラッキーヒットですべてが決まっちまうんだから。あのとき、あのラッキーヒットさえなけりゃ、メジャーのスターダムにいたのは、俺だった。俺の方だったんだ」

 あのころ、ぼくたちはみんな、矢吹丈になりたかった。