猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

ゼノブレイドクロス


ゼノブレイドクロス


ブラッドボーンの直後だと、全般的にきつい。グラフィックの細部が粗くて気になるし、昭和のSFみたいな固有名詞のセンスと造形デザインには目眩を感じる。13歳という設定の女性キャラのモデリングがきつい。長年、二次元のみを見続けたおたくが、その精神の歪さを客観視できなくなっている感じがありありと伝わる容姿である。このキャラだけは一般人には絶対に見られたくないし、「おたく=ペドフィリア」の偏見を助長するので誰にも見せたくない。前世紀末のライトノベルを未だに地でいくキャラどうしのかけあいがきつい。視点の置きどころがない、構図のないカメラで撮影されたムービーでそれをやるため、なんというかひどくいたたまれなくなる。「斃す」とか「赦す」とか、常用漢字に親を殺された感もすごいきつい。でも、さすがにゲーム部分は面白いので、無理して我慢して作品世界へ没入しようとする。けれど、頻繁に挿入されるムービーにいちいち現実へと引き戻され、その決意をさんざんに砕かれる。いい年齢をして未だにゲームを止められない自分が恥ずかしくなり、さらにいい年齢をした大人がこれを作っているかと思うと暗澹たる気持ちにさせられる。「社長が訊く」で制作側の素顔をダブルミーニングで知ったゆえか、名状しがたい負の感情がとめどなく噴き上がり、本当に冗談ではなく死にたくなる。ぼくたちおたくは嫌われて当たり前だし、軽蔑されてもしょうがないんですも。なんだこれですも。

ベイマックス


ベイマックス


あ、あれっ。貴様らがマジンガーZだのグレンラガンだのに言及して褒めそやすから、すごいワクワクして視聴を開始したのに、なにこのガッカリ感。ちょうど大トロを食いにいったのに、アボカド巻きが出てきたみたい。きれいに伏線を回収するシナリオとか、物語中ただひとり喪失を経験したヒーローが復讐を放棄するメッセージとか、すべてが然るべき場所へとピッタリ収まる気持ち良さは、確かにある。でも、これはアートじゃなくてプロダクトなんだという感じにすごくさせられた。こういうのを見ると、エヴァQの側につきたい自分を発見して複雑な気分になる。エヴァQにベイマックスの工業製品感を与え、ベイマックスにエヴァQの歪みと情念を与えれば、両者ともちょうどいい塩梅になるのになあと思った。ともあれ、これだけ絶賛のみが聞こえてくるというのは、デザインとかアクションだけでフィクションを視聴をできる層が本邦にとくべつ多いのだろうな。たぶん、ロコモーションにいれあげる特定層と同じで、情感の部分が乏しいか欠落しているのかもしれない。

インターステラ―


インターステラ―


理論物理学の重鎮を科学考証に迎えた本作の実相は、SFというよりむしろコミュニケーションを主題に据えたファンタジーである。我々の意思疎通は、頼みにならない郵便屋が届ける、番地まで宛名の書かれていない手紙のようなものだ。いつ届くかわからないし、届いても開封されたかどうかわからない。その曖昧さは、親から子へ渡されるときの言葉の性質にもっともよく表れる。差出人はいつか開封されることを願って投函し、手紙が読まれたかどうかは受取人だけが知っている。そしてこの性質はまた、「いまここにいないもの」という意味での死者と対話を可能にしており、テロ後の、震災後の世界における我々のコミュニケーションの本質を喝破しているのだ。とは言いながら、インセプションやダークナイト・ライジングを自信満々で世に送り出してしまうノーラン監督だから、娘萌えが昂じた結果、偶然そういうメッセージ性を孕んでしまった可能性も否定はできない。そのすれ違いがあったとしてさえ、疑いのない傑作である。

ブラッドボーン


ブラッドボーン


実はこの二ヶ月というもの、ひどい気鬱に悩まされていた。サブカル道を歩む者は、三十路でマッチョ願望にとり憑かれ、四十路で抑鬱状態に陥るという。どのくらいひどい状態だったかと言えば、雨戸を閉めて電気を消した部屋で、新作の映画やゲームを傍らに積み上げたまま手も触れず、かろうじて視認できるほど輝度を低減したモニターで延々とディアブロ2をプレイしていたぐらいだ。しかも、音が耳に障るという理由でスピーカーは外してあった。バーバリアン用にグリーフとフォーティテュードを完成させたところで、さすがにこのままキャラ数分のエニグマを作成するのはまずいと感じはじめた。革張りの社長椅子から腰を上げ、長らく2月だったカレンダーを3月にめくると、明日がブラッドボーンの発売日であることに気づいた。よろよろとゲーム専用シアターに向かい、プロジェクターの埃をはらって、アンプに通電する。0時を待ってダウンロードを行い、120インチのスクリーンにタイトルが映し出されたとたん、現実が消失した。疲労と空腹が再びこの身に意識を取り戻してはじめて、私は自分が血濡れの病み人として別世界を徘徊していたことを知ったのである。ファミコンを体験したことに後の人生を大きく規定された私が、成人して以来ずっと求めていたゲームは、正にこれだと思った。極限まで突き詰めた映像と音楽と操作性が織りなすこの没入感を貴様らにわかりやすく説明するなら、決して萎えない理想のペニスが挿入され続けるアヘ顔ダブルピースの24時間であり、美少女にがんばれがんばれと励まされずとも間断ない最高の射精が続く状態である。実はドラクエヒーローズもプレイしたのだが、あれっ、鬱じゃなかったの、ゲーム性はひとまず置くとして、大音量での再生をわずかも想定しない最悪のモノラル的音質に耐えられず、早々にクリアを断念した。よりアッパーな再生環境に耐えるという、プレステ4でリリースすることの意味を制作側が少しも理解しておらず、すぎやま先生とオケの面々に土下座して謝れよ、てめえらはいつまでもジャリ相手の携帯ゲーム作ってろよ、パズドラ死ねよ、と素直に感じることができた。あとシレンジャーなので、家人の携帯ゲーム機を無理やり奪って世界樹の迷宮も嫌々プレイしたが、おまえ、ぜんぜん鬱じゃないじゃん、品薄が高評価を一時的に形成することがあるというネット特有の現象を体験したことだけが収穫だった。引き算が本質のゲーム性に足し算し続けるという、無駄な努力の天然色見本とも言うべき的外れのつまらなさで、これまた早々にクリアを断念した。これら二つのクソゲーを紹介したことで何が言いたいかといえば、ブラッドボーンは映像と音楽とゲーム性の極めて高いレベルでの融合に成功しており、既存の映画ジャンルを超える新たな映像芸術の位置にまでゲームという存在を止揚した、ひとつの到達点であるということだ。とはいえ、100インチ以上のスクリーンと7.1チャンネル以上のサラウンド環境で復元された本作を体験できない者は、この革新が見えないまま、幼年期の始まりに気づかないまま、過去作との愚かな比較を繰り返すばかりだろう。ゲームをチープな暇つぶしへと追いやってしまったのは、我々が街角の売春婦にするようにその対価を値切り続けてきたことが原因だ。パトロンであったはずの我々が安く買わんがために、美女の価値をことさらに世間へ貶め続けてきた。この新たな映像芸術に対して、現在の10倍、いや100倍を支払うことに私は一瞬のためらいもない。さあ、全国津々浦々のファミコン世代よ、クリミナルかセレブリティかの二択世代よ、じつは高学歴の金満家たちよ、いまこそ我々にゲームを取り戻そう。これだけ豊かな体験を人生に与えうるゲームにより高い敬意を、より多くの金を払おうではないか。

セイビング・ミスター・バンクス


セイビング・ミスター・バンクス


「私たちはみんな、子どもの心を持っている」。創作の本質とは、与えられた呪いをいかにして普遍的な何かへと昇華できるかにある。男性向けフィクションにマザコンものが多いのに対して、女性向けフィクションにはファザコンものが少ない理由がわかった。人生の早い段階で父親を亡くし、理想化された父親像を否定する時期を経なかった少女だけが、ファザコンものの語り手となりえるのだ。存命の父親が理想化されたまま成人を迎えるケースもあろうが、そうした人々は創作を行う内的必然性を持たないと思われる。そして雑に言えば、どちらにも当てはまらない女性のうち、母親との関係が良好ではない者たちがボーイズラブに向うのだろう。話がだいぶそれたが、本作ではメアリー・ポピンズが父親との葛藤にのみ依拠した作品であるように語られてしまっているので、いい映画であることに間違いないが、同作品への思い入れが強ければ強いほど反発は大きくなるのではないかと思った。強い思い入れを持たないはずの私だったが、軽い気持ちで視聴を始めたところ突然の重たいボディーブローをくらうこととなった。娘の視点から描かれる夢見がちな一人の社会不適合者の肖像は、アル中の諸君をいたたまれなくさせること、うけあいである。

ジ・アクト・オブ・キリング


ジ・アクト・オブ・キリング


千人を手にかけたかつての殺人者を題材とすることが無謀だという声に、私は同意しない。このアメリカ人監督はむしろ、ドキュメンタリーという手法の、そしてアクト、「演じること」の持つ力の魔性を熟知した上で、アンワル・コンゴの精神を意図的に壊しにかかっているからだ。本作を見て思い出した作品が二つある。一つ目は、ドイツ映画の「エス」。我々はだれもが与えられた環境に応じて役割を演じているに過ぎず、個性や自己同一性と呼ばれるものは一種の幻想、揺れる大地の上のかりそめである。ゆえに演じるという行為、「ジ・アクト・オブ・アクティング」を通じて私たちはあらゆる人物になれるし、あらゆる心理を追体験することができる。二つ目は、邦画の「ゆきゆきて神軍」。このドキュメンタリーでカメラを向けられたことが主人公を躁的に狂わせていくのと対照的に、本作ではカメラを向けられた人物が演技を通じて正気を取り戻してしまい、罪悪感ゆえの絶望へと転がり落ちていく。私は、無辜の千人を殺したという事実を前にしてなお、彼に対して最後まで同情する立場を崩すことができなかった。同じ立場に置かれたら、たぶん、私たちのだれもが殺していたと思うからだ。ひとりの老人に殺される側の味わった恐怖と絶望を「主体的に」体験させる手法は、千人を殺すほどに残酷ではないというのだろうか。階段の踊り場に取り残された、かつての殺人に嘔吐するだれか。そして、数多くのANONYMOUSが並ぶ異様なエンドロール。監督が映画を通じて行う残虐は、アンワルの行った残虐に勝るとも劣らない。れこそが、世界にするアメリカの残虐の正体だと思う。知恵の実を食べたものが、知恵の実を食べなかったものに行う、悪魔の残虐である。

楽園追放


楽園追放


フルCGとのふれこみで視聴するも、ファーストインプレッションは劇場版・3Dカスタム少女。サイファイギークであるところの俺様はニヤニヤと小鼻をふくらませながら大いに楽しんだが、正月休みでついウッカリいっしょに見ることとなったそのような素養と耐性の薄い方々は、冒頭からわりとすぐに熟睡していた。「ロリィ」や「そういう趣味」など未成年への劣情を連想させるエロゲー的表現(一般人には異様に響くに違いなく、内心ヒヤッとした)が散見され、18禁版ではねっちりと描かれているのだろう「はじめての肉体」のもたらすはじめての排泄やはじめての性交を省いた全年齢版が、本作なのだと推察される。また、一つひとつの台詞が非常に長い上に堅い方の語彙を常に選択するため、かなり意識して聞かないとすぐに何を言っているのかわからなくなる。家人は寝た。この辺りもアニメというよりはテキスト主体のゲームに向けて書き起こされたようなシナリオで、やはり18禁のエロゲー版が存在するに違いない。そして、女子のパイロットが画面手前に向けて乗り出してくるカットとか、複数のミサイルが意志を持っているみたいに標的を追尾するカットとか、青空にロケットの噴煙が傾ぎながら登っていくカットとか、全体的に映像の既視感が強く、フルCGでなければ表現できない絵作りはまったく見られなかった。もしかすると、既存の表現をより低コストで達成できることを強調するための見本市的なねらいがあるのかもしれない。いずれにせよ、全編を通してギークなら確認するまでもないが、実は普遍性に乏しい前提を視聴の際に強要される感じがあり、家人は寝た。昔はものすごい数の時代劇が放映されていたのに今はテレビの片隅に追いやられてしまった、アニメも現在ものすごい数が放映されているがいずれ時代劇と同じ道をたどるだろう、みたいな記事だかつぶやきだかを以前に見かけたことがあったけれど、その理由を体現するような作品だった。うかつなことを言えば、ため息からものすごい反論が返ってきそうな面倒くさい感じが全編に漂っており、家人は寝た。あと、前情報からフロンティアセッターがガンダムやイデオンみたいな位置づけで活躍すると勝手に思いこんでいたので、ジムとザクが格闘するみたいなクライマックスの戦闘シーンにはガックリした。それと何より許せないのは、生物の進化と惑星の重力に対する科学的な考察が非常に甘いところである。そもそも十六歳はあんなおっぱいしてないし、あんなおっぱいをしてるのにゆれないのはSF考証ができてない証拠だし、ゆれないのにレオタードなんて一般人を遠ざけるデザインでしかないし、こんな3Dカスタム少女みたいなんだから、家人も寝たことだし、もっと激しくゆれればいいのにと思いました。

ドラゴンエイジ:インクイジション


ドラゴンエイジ:インクイジション


3D全盛の時代に、これよりグラフィックやモーションのいいゲームはいくらでもある。UIも使いづらくダサいし、戦闘の戦略性もそれほど高いとは言えない。しかしながら、本シリーズを他の凡百のRPGと峻別するのは、ストーリーである。その精緻な紡がれ方を見れば、ジャンルはRPGに属しこそすれ、本質を複数分岐のアドベンチャーゲームだと指摘できるほどだ。話は少しそれるが、本邦のRPGにおいては物語を駆動する主体が常に主人公とは別のところにあって、ヒーローのする行為はすべて敵側の決断に対するリアクションに過ぎず、本質的に事件の現場へ「間に合わない」ことで進行していく。そして、その溜まりに溜まったフラストレーションを純然たる暴力として敵にぶつけ、最後の最後で解放のカタルシスを得る。これはつまり、水戸黄門や暴れん坊将軍や忠臣蔵に代表される、日本人の好む昔からの物語類型だ。理不尽へは忍耐を求めるが、相手のふるまいが大きく度を越えていく場合、暴力に訴えても非難されず、むしろ称賛を与えられる閾値がこの社会には確かに存在している。JRPGのストーリーはこういった本邦の気質によく合うし、何よりシナリオライターの力量の問題もあるだろう。悲劇や理不尽を定型的に繰り返すことによる物語の駆動は、白黒つかぬ権謀術策や成熟した者たちの政治劇を興味深く描くより、はるかに簡単だからである。話を戻そう。以前nWoでは、FF12がキリストの復活をモチーフにしたギャルゲーになると的外れの予言をしたことがあった。恐ろしいことにドラゴンエイジ最新作は正にその、私の求めるファイナルファンタジーの正統な後継であり、聖痕を持つ者の復活と遍歴を真正面から四つ相撲に描いているのだ。例えるなら、ローマ帝国健在なりし頃、そしてユダヤ教全盛の時代に、キリストを主人公として展開していくようなストーリーである。己の現し身がビホールド・ザ・マンのその人となり、まさに唯一無二の存在として世界の中心に置かれ、我が一挙手一投足、我が言葉と決断がそのまま歴史を紡いでいくというこの圧倒的な感覚は、JRPGなどでは到底得られぬ次元の快感であり、大人の愉悦と言えよう。だが、台詞をボタン連打でスキップするような遊び方をする層には、ひとつの凡庸な3Dゲームに過ぎないこともまた、事実である。激しく人を選ぶが、選ばれた者には至高のゲーム体験を与えてくれるだろう。本年度のジー・オー・ティー・エヌ(Game of the nWo)、堂々の大賞である。

新世紀エヴァンゲリオン14巻


新世紀エヴァンゲリオン14巻


二十年の歳月を経て、エヴァという巨大な虚構のアニメ版と漫画版の結論を分けた要素が、双方の作者に子どもがいるかいないかという事実にのみ由来しているのは、あまりに情けなく腹立たしい。この漫画版では、親子の葛藤を描くのに最も無難な落としどころを見つけており、個人的なトラウマで世界を破壊してはならないという当たり前の普遍性へ至ることに成功している。反対に、劇場版が制作責任者の個人的な生活実態をライブ感で写したがゆえに、前二作から生じていたはずの作品の自走性を完全に殺してしまい、主人公の子どもへ虐待のための虐待を繰り返す、擁護不能の異様なディストピアを露わにしたことは示唆的であろう。エヴァQは、まるで蟹工船みたいだ。創作者の個人的な状況を言うのは批評としてアンフェアだとは思うが、すべてのSF作品は人間原理を超えねばならないという私的な思い込みがどこかにあって、エヴァという作品の持つポテンシャルを己が生例えば、「幼年期の終わり」はSF史上に燦然と輝く傑作であり、もしこれより千年を人類が耐えたとして、作者から完全に切り離された神話として読み継がれることへ疑いはない。アーサー・C・クラークが子を持たず、同性愛者だったかもしれない事実は、「幼年期の終わり」の強度に何ら影響を与えない。活感情へと卑小化し、単なる私小説へと変じたことは決して看過されるべきではない。エヴァの新劇場版には、そうあって欲しかった。もし巻末のEXTRA STAGE(もちろん、nWoへのオマージュに違いない)なる掌編が、カラー原作のお墨付きを得た上で正史として扱われるならば、ループの否定という依怙地の結論をさらに強弁していることになる。それは石女の理論であり、純文学としての評価は期待できるかもしれないが、SFの所作とは何の連絡もない。人間理論を超越し、蟹工船のようではない続編を見ることこそが、いまの私の願いである。