猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

雑文「Apocalyptic STARRAIL and Continuous GQX」(近況報告2025.7.10)

 崩壊スターレイルの最新バージョン3.4を読了。メインストーリー部分は、もはやゲームとして遊ばせる努力を放棄しているが、ナタ編後半で投入されるシナリオがことごとく失速ぎみの原神に比べると、たいへん高い熱量がこめられていて、大いに作品世界へと引きこまれた。先に予測していたように、オンパロスは無限の演算能力を持つ装置による”シミュレーテッド・リアリティ”であることがついにあきらかとなり、これまでに体験してきた「世界の崩壊へとむかうギリシャ悲劇」は、登場人物を同じうして3355万335回くり返されてきたことが示される。「膨大なテキストと細密な演出でつむがれてきた人々の想いは、それでもなお、プログラムされたフィクションにすぎず、現実との連絡は絶無で少しの影響もあたえられない」という絶望は、おそらくホヨバという会社が市場での規模を拡大させる過程にいだき続けてきたもので、神の被造物である人間を似姿とした人形が、ハードロックをBGMに神へ一矢むくいるという手描きのアニメーションは、「若く青くさい、熱情の切実さ」ゆえに強く胸をうった。この「虚構から現実への反逆行為」の実行者であり、のちにオンパロス世界の観測主体だとわかるファイノンというキャラクターは、壮麗かつ破天荒な綺羅星の如き他の英雄たちとは異なり、勤勉かつ実直な良識人として描かれてきた。失敗にいっさいの言い訳をせず、おのれの弱さを認めた上で、日々の鍛錬でそれを克服しようとする姿勢は好ましいものの、いささか生真面目すぎて人間的な魅力にはとぼしいと言わざるをえない。「親は婿として欲しがるが、娘は恋人に選ばない」タイプの、やや面白みに欠ける人物なのである(崩スタ未プレイ勢には、ジークアクスのエグザベ君を想起してもらうとわかりやすいと思う)。のっぺりとしたその特徴のなさは、じつのところ、驚愕の謎解きへと転化するための、「ミステリー小説における、真犯人からの視線そらし」であったことが判明し、アベンチュリンを前例に経験していたにもかかわらず、まんまと同じ手口にひっかかってしまったわけである。

 さらに、3355万335回のニーチェ的”永劫回帰”を追体験するパートは、古いオタクのたとえながら「エンドレスエイト」を想起させ、薄暗いシアターでプレイしていたことと相まって、ほとんど気がくるうかと思った。「観測者にとって”正しい”世界を求めて、無限個の試行をくり返す」物語ギミックは、太古のエロゲーであるデザイアがその原型を考案し、まどマギなるコピーキャットによって爆発的に人口へと膾炙させられたものだ。同様の物語類型として、直近ではジークアクスが記憶に新しいが、本作においては明確に次回のコラボ先でもあるFateの本歌どりを意図したのだろう。ここでまた、ジークアクス方向へ脱線しておくと、総集編による劇場版やブルーレイ販売の予告が、不自然なまでに避けられている現状について、いまにしかできない予想を述べておく。各話タイトルに話数の表記がないことから考えて、ズバリ、テレビ放送した12話へ新作の12話プラスアルファを挿入した「全26話の完全版」制作が、水面化で進行しているのではないだろうか。スタジオの体力面と金銭面での不安は、今回のメガヒットによって払拭され、パッと思いつくままにならべると「省略されたクランバトル回」「コモリ少尉とエグザベ君の交流”回”」「主人公とコモリ少尉の親睦”回”」「主人公失踪後の母親・同級生・運び屋回」「主人公とヒゲマンの特訓回」「アルテイシアと本ルート生存者の暗躍回」「最終話のエッセンスを3話に拡張(シュウジのループ回含む)」「登場キャラそれぞれの後日談」ぐらいのエピソードを、完全版において物語の大きすぎる余白へ埋めていくはずだと放言しておこう。

 ここからさらにアポカリプスホテル方向へと脱線し、本テキストは崩壊スターレイルという本筋から離れて、複線ドリフトしたまま終わると思われる。同作を最終話まで見たのだが、ゲストキャラにとどまると考えていたタヌキ一族が物語の中心にすえられて、主人公の属性である”永遠と停滞”の対比として「時間経過による成長と変化」を担当することになったのは、意想外の展開だった。6話までの感想にも書いた「昭和の風俗紹介」という印象は当たっていて、未確認飛行物体を召喚する呪文からはじまり、セーラー服反逆同盟(!)を思わせるスケバンのいでたちーーパーマネント、紫のチークとアイシャドウ、足首までのロングスカート、風船ガムという徹底ぶりーーまで、あると信じていたメインストーリーそっちのけで、徹底的に脇道のスラップスティックをつらぬく”ひらきなおりっぷり”には、もはやある種のすがすがしささえ感じたぐらいである。やがて、その「ドタバタ無法」は、結婚式と葬式を同時に挙行したあげく、祖母の遺体を手品の余興でもてあそぶという、往年の筒井康隆を彷彿とさせるブラックユーモアの絶頂へと達するのだった。ロボットたちの創造主である地球人が帰還する最終話にも、期待していたような”コッペリア的悲劇”はみじんも混入せず、最後の最後まで人をくった展開のまま、物語は幕を閉じてしまう。全体として、昭和末期から平成初期に国営放送で全52話が放送されていたアニメのサブシナリオだけを集めたような構成になっていて、これはもう国営放送で全52話のアポカリプスホテルを制作するしかない(政治家の名を冠した、例の構文)。終わる。

ゲーム「エルデンリング:ナイトレイン」感想

 エルデンリング:ナイトレイン、20時間弱でいちおうのエンディングを見る。本作はDLCではなく独立したゲームになっていて、本家にくらべると規模感はかなり小さい。時限の拡張エリアがいくつかあるワンマップで、用意された6体のボスから3体をたおせばラスボスが出現する仕組みになっている。15分の探索2回と10分のボス戦が1セッションなので、ソウルシリーズに対して無意味な仮定と知りつつ、もっとも極端な理論値を言えば、2時間40分でクリアできてしまうぐらいのサイズなのである。ゲーム内容は、ローグライクという単語があまり好きではない、古いオタクに表現させるならば、「攻略に時間制限のかかった、あわただしい風来のシレン」であり、マップ各所に用意された中ボスが落とす「武具とステータス強化のガチャ」をいかに効率よく回しながら、最大レベル15へと近づけるかが攻略のキモになっている。そして、正直に告白しておくと、私にはナイトレインを正しく評価する資格がない。本作のリリース日には、フランス産のJRPGにどっぷりとハマりこんでおり、プレイを開始できたのは発売から2週間後だったからだ。シャドウ・オブ・ザ・エルドツリーへの感想にも少し書いたが、オンライン要素のある近年のゲームは、発売直後3日からせいぜい1週間ぐらいまでが、混沌としていていちばん楽しい。その最高の時期を「熱と光の奔流が乱舞するビッグバン」とたとえるなら、1ヶ月後の現在は「暗く冷えた宇宙における背景放射」を観測しているようなものだ。

 クリアまでの20時間に感じていたことを率直に申せば、「最適解を知っているプレイヤーたちに引率されるリアル・タイム・アタック」であり、毎回がアイテムを吟味するヒマさえない高速参勤交代みたいな道中になっていて、たび重なる死や頻繁な迷子状態に対してはリアルに耳元で舌うちが聞こえたほどで、ソウルシリーズだからと意地になっての乞食プレイでクリアまではこぎつけたが、まったく楽しくはなかった。プレイ中、多くの時間を占めていた気持ちは「自己決定できないみじめさ」であったことを、ここに書き残しておく。ナイトレインをプレイするなかで気持ちがアガったのは、ボスガチャで強い武器や良い効果が引けた瞬間だけであり、楽しさの質としてはエルデンリングというよりパチンコやパチスロに近い。それにしても、よくもまあ、こんなに賞味期限の短いゲームを世に出そうと思ったものである。もっとも熱くてうまい提供直後を過ぎれば、どんどん冷めてまずくなってゆく”油そば”みたいなもので、しょうこりもなく美味しんぼでもたとえておくと、「果汁で皮がふやけてしまうため、作成してから数分しかもたないマスカット最中」のようなゲームなのだ。すでにして、順次追加される強化ボス以外は過疎っぽくなっており、時間帯によってはマッチングにさえ苦労する有り様である。

 え、マルチプレイに苦労して疲弊するぐらいなら、ソロで攻略すればいいじゃないですか、過疎の心配をする必要はなくなりますよ、だって? ほうら、体育とスポーツの得意なオマエら陽キャは、いっつもそれだ! 逆あがりや二重跳びのできない児童に指導ではなく、ため息や冷笑をかえしやがって! 「ストリートファイター6は、だれでもマスターランクまでいけますよ」じゃねえんだよ! 人間社会には想像を絶する下の下がいるという、単純な事実へ考えもおよばないまま、本邦の上位10%の知能の集積体であるエッキスに引きこもって、ヘラヘラ高等遊民ゴッコばっかやってるから、そんな無神経な発言ができんだよ! 就職氷河期世代でも年収4桁万円ごえなんて簡単だし、世帯を持って子育てするぐらい、ふつうにできるじゃないですか? どうだ、これでオレの傷つきをよーく理解できたろうがよ! ナイトレイン、知能は低く反射神経は高く、長期の計画より短期の快楽が好きな、社会保障費で優遇されている層へ、おススメのゲームになっておるゾイ(暴言)!

映画「28年後…」感想

 奈良の片田舎の小さなシアターで、ぶんむくれながら「28年後…」を見る。なんとなれば、前作「28週後…」をゾンビ映画の最高峰だと心から信じており、公開のあかつきには当然のことながら、本邦でもスター・ウォーズ級の待遇をもってむかえられるだろうと、無邪気に考えていたからである。ところがどうだ、我が土人県ではアイマックスはおろか、単館のノミみたいなスクリーンにかけられるばかりで、1ヶ月もせぬうちに上映が終了しそうないきおい(の無さ)であり、それが冒頭の不機嫌を引き起こしたのであった。だが、いざ映画がはじまるとそんな個人的なぶんむくれは、はるか視界の背後へとたちまち消えさってしまう。弓矢を装備した父子の冒険行へ「ドキュメンタリー映像」と「古い映画の映像」を順にオーバーラップさせながら、単調な「ブーツ、ブーツ、ブーツ」という詩の朗読にあわせて、速いテンポで画面が切りかわる導入部分は、ウスターソース野郎によるハリウッド文法をガン無視した、堂々たる「B級カルト映画」のたたずまいになっていて、いっきに作品世界へと引きずりこまれたからである。赤黒い血と白濁した脳漿がしぶき、内臓がドロリとこぼれるグロ映像の連続に、右ナナメ前に座っていた老夫婦からは「うわっ、やめてえや」「こんな映画やと思わへんかったわ」などの悲鳴があがるも、座っているハコの小ささとあいまって、それさえ映画の一部を成す環境音のように聞こえたぐらいだ。おそらく、「トレインスポッティング」や「スラムドッグ・ミリオネア」のほうのダニー・ボイル作品が好きで劇場に足を運んだのだろうが、アカデミー賞監督の威光というより本シリーズの世界観を偏愛する者からすれば、彼らの無知と無検索に対しては「ご愁傷様」以外に、かける言葉がない。シリーズ初登場の匍匐前進するスローロー、おなじみの全力疾走でせまる感染者、2メートルを越える体躯のアルファa.k.a.バーサーカーなど、いちどは途絶したはずの世界観が最新の映像技術で再現される、めくるめく”恐怖のなつかしさ”に、20年前(!)からのファンは陶然とさせられるのであった。特に、文明が崩壊したゆえの満天の星空を背景にした逃避行は耽美の極みであり、暗闇の中、全力疾走で父子を追う筋骨隆々のアルファに、炎のバリスタが突き刺さるまでのシークエンスは、呼吸さえ忘れるほどのすさまじい緊迫感だった。

 しかしながら、この地点を情動のピークとして、物語そのものへのクエスチョンは、どんどん増大していくのである。まず、作中で「本土」と呼ばれているのは、どうやらヨーロッパ大陸ではなくグレート・ブリテン島のようで、前作のラストにおいてエッフェル塔の下を走りまわる感染者の群れに大興奮してから、20年(!)ものオアズケをくった身にとっては、高まった意気をかなり阻喪させられる設定であると言えよう。また、「本土で感染者を殺すこと」がムラの男子のイニシエーションになっているのだが、自給自足のコミュニティなのに欠乏する物質の描写は、それこそベーコンぐらいしかないため、わざわざ危険を押してまで本土へわたる理由としては、「そうしないと、映画が始まらないから」以外に見つからなかった。さらに、あれだけ感染者たちにビビりまくっていた主人公の少年が、遠目に父親が人妻とファックするのを見かけただけで、観客からは完全に無謀だとわかる、病気の母親を連れての本土行きを決意するのも意味不明で、「まあ、主要キャラだから死なないだろう」ぐらいのメタで薄弱な根拠しか感じられない。そもそも、外部の人間から「近親相姦もめずらしくない」と揶揄され、人口維持を目的とした乱交パーティ(だよね?)が開催される規模の小さなムラ社会で、スマホもインターネット接続もないのに、「父親が一穴主義を裏切ったことへ、深甚な怒りをおぼえる潔癖さ」は、脚本家の倫理観に由来するのでなければ、いったい人生のどこで獲得したものなのか、じつに不可解である。意味深な描写をされる病気の母親にしても、当初はレイジウイルスに感染しているのを村人から隠す目的で、二階へかくまってるのだろうと思っていた。なので、廃教会で眠りこける息子を助けるためにスローローを撲殺したときには、「理性をたもった感染者、アルファ・メスだ!」と大よろこびだったし、みずから産婆となって感染者の妊婦から非感染者の赤子をとりあげるーーこの子の体液がのちに治療の血清となる伏線なのだろうが、前作でも類似の話はすでに提示されていたーー場面において、おぼろげな予想は強い確信へと変わったのだ。

 にもかかわらず、ヨードチンキおじさんの診断で、母の奇行と怪力はリンパにまで転移した末期癌ゆえだと判明したときには、公の場にもかかわらず、強めの「ハア?」という悪態が、知らずマウスからほとばしっていたほどである。このあとに続く、とってつけたような「メメント・アモリス」発言からの安楽死という展開も、作品世界の死生観を体現しているというよりは、監督か脚本家の実体験を反映しているようにしか見えなかった。そして、あろうことか、少年がコミュニティを離れてから「28日後…」のテロップが表示された直後、感染者と近接戦闘を行うテレタビーズの擬人化みたいなジャージ集団ーー「かまれる」「ひっかかれる」「体液が粘膜にふれる」と潜伏期間ゼロで発症するウイルス持ちが相手なので、ソウルシリーズで例えるなら、レベル1全裸短剣おじさんのような存在ーーの登場で、なんら伏線を回収しないまま、物語は幕となってしまったのだった。20年ぶりのシリーズ再始動は、コロナの世界的なパンデミックに新たな着想を得たためだろうと予想していたら、まったく1ミリも、露助のルーブルほどもそんなことはなく、この尻切れトンボな欠陥映画にたいそう感情を乱されたまま帰宅してググッてみると、本作は3部作の1作目だというではないか! だったら、スタッフロールのあととか、作品内で続編の存在をキチンと明示しろよ! 右前方に座っていた善のダニー・ボイルが好きなグロ耐性の低い老夫婦なんて、ぜったい次は見に来ないじゃねえか! ここにいたり、3部作の3作目を3部作にするというボーン・テンプルばりの不安定でイビツな構成があきらかになったわけで、1にあたる本作は28年後の28日後を描き、続編の2が28年後の28週後の話で、完結編の3が28年後の28年後を語る仕組みに……って、ややこしすぎるわーい(目の前の卓をひっくりかえす)!

 おまけに撮影が終わっているのは2までで、3の制作に入れるかは今後の興収次第らしく、本邦での様子をうかがうかぎり、パリからヨーロッパを経てユーラシア全土へと感染が広がっていく阿鼻叫喚の地獄絵図は、またも古参ファンの妄想に終わりそうな気配が、すでにしてただよってきているのであった。「物語を終わらせないまま、この世を去ることによって、擬似的な永遠を獲得したい」という欲望は、広く受容される虚構世界ーーガラスの仮面や王家の紋章などーーを構築した創作者にとって、めずらしいものではないのかもしれないなと思うと、発作的な空ぜきにも似た、乾いた笑いがでてくる。ラわーん、もう”終わらないフィクション“はこりごりだよう(年齢的に)!

アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアクス(最終話)」感想

 アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアクス(11話まで)」感想

 ジークアクス最終話、Qアンノにシンエヴァ由来の悪感情を持つ人間の事前予想よりは、かなり好印象な方向へと急旋回できたように思います。前回、”シャロンの薔薇”の正体をエルメスに改変したことで、話の大元が曲がったと指摘しましたが、手描きと3DCGの新旧ガンダムたちが、空前の一大バトルをくり広げる新作アニメーションという予想は、Qアンノを過大評価ーー「ヤツに関しては、つねに最悪の予想をしておけ。ヤツは必ずそのナナメ下を行く」ーーしすぎていたことが、今回わかりました。平成にリメイクされたヤマトを見て、「自分ならオープニングは1カットも変えない」と豪語した人物がやりたかったのは、光る宇宙?のモビルスーツ戦を現代のアニメ技術で”完コピ”することだけだったのです。彼の視野レンジの狭さによって、マッキーが最終話で自由に差配できるスペースが増え、主人公とそのマヴの描写に長めの尺をとることができたのは、作品にとって僥倖だったと言えるでしょう。

 でもね、1000ピースのパズルを12時間で完成させるリアル・タイム・アタックで、11時間ほど経過したのに600ピースぐらいしか埋まっていなかったのが、突如として北斗百裂拳のような動きへと加速して、ラスト1秒で最後のピースがハマッたみたいなもんですよ、これ。Qアンノによる余計なクチバシ・ツッコミを排除して、「虚構内虚構」のギミックをアトヅケで建て増ししていなければ、”TikTokガンダム”とでも名づけたくなるほどの超圧縮エンドロールを回避して、もう少し尺にゆとりをもたせてキャラの内面を掘りさげーーインド人の娼婦ばっか「傷ついた、傷ついた」って連呼しやがって、この作品の中でいっちゃん傷ついてんのは、主人公の母親やでーーながら、より正しく架空戦記として着地できたろうにと思ってしまいます。やはり、視聴後に「アルテイシアって、だれだっけ?」とウィキを調べたぐらいのガンダム下手が、Qアンノに向けた私情のみで、うかつに口をだしていい作品ではなかったと、いまは深く反省をしておる次第です。

 雑にまとめておくと、ジークアクスは悪く言えば、作品単体では自立できないーーアルテイシアがシャアの妹なんて説明、作中にいっさいなかったじゃん!ーー悪ふざけのすぎる夢小説で、良く言えば、新しいファンを古いガンダム作品の視聴へと環流する高性能のマシンなのでしょう。最後に識者のみなさんへ聞きたいのですが、結局、イトウ・シュウジって何者だったの? 重度のガンダム下手だから、ノーマルなファンにとっては自明すぎる帰結が追えてないだけ? あと、緑のヒゲ(マン)が全編を通してふりかえっても底割れしない、近年まれに見る「良い大人」であり続けたのには、率直に言って、とても感動しました。

アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアクス(11話まで)」感想

 生来のガンダム下手で、再放送によるガンプラブームをリアルタイムに経験し、逆襲のシャアも初映を映画館で見ているはずなのに、本シリーズに心を動かされたことが、まったくと言っていいほどありません。愛好家たちの語り口がおそろしく類似している点からも、炎上を避けるために肯定的な表現で申すならば、ガンダムは「数字や型式の暗記が得意な、知能の高い人物に特有の発達特性」へ深く刺さる物語造形なのではないかと、ずっと疑ってきた人生なのです。そんなわけでジークアクスに関しては、毎週の沸騰するタイムラインを横目に、資格のない者が余計な口をはさむまいと貝になってきたのですが、11話の放映でガンダム下手にもさわれる位置まで墜(堕)ちてきたーー最後の最後でビルドアップの積み木崩しをして、架空戦記としての軟着陸を放棄して、安直な「虚構内虚構」へと走ったストーリーについて、以前は「高い城の男」になぞらえていたことをディックに謝罪したいですーーことと、Qアンノのそらとぼけた「ボクもやりやがったと思ってる」発言にカチンときて、最終話の放映前にちゃんと真相を解明しておこうと思いたった次第です。

 ジークアクスはシンエヴァ副監督のスタートさせた企画とのことですが、「アバンタイトル5分で終わらせるはずだった”正史のif”」をQアンノが映画1本分に膨らませたところから、本作の方向性はゆがみはじめたと言えるでしょう。仮面ライダーがこの怪人を釘づけにしているうちに、さっさとプロットを固めてしまえばよかったものを、7年もの制作期間が日本3大オタクのひとりにつけいる隙をあたえてしまい、「ガール・ミーツ・ガール」の本筋をどんどん浸食して、半世紀前のロボットアニメからの汚染を拡大させてしまったのです。ビギニングでの狼藉が存外な好評価を得たことへ気をよくしたQアンノが、ウッカリ口をすべらせた「マッキーたちは、まだ禿頭の御大に遠慮してる」発言は、関係者の言う「制作の途中で、最初に用意したストーリーを大幅に改変することとなった」原因の震源地に彼がいたことを証明してしまっています。その変更とはズバリ、「”シャロンの薔薇”の正体はなにか?」という謎解きの中核部分で、映画を分割した2話と8話に続いて、テレビ新作パートのみの9話に、脚本担当としてQアンノの名前があることからも、あきらかでしょう。これは本来、シンエヴァ副監督が幾度も再話ーー栗本薫がそうだったように、同じテーマをくりかえし追い求めるのは、優れたストーリーテラーの資質でもあるーーしてきた「若さの喪失におびえる、少女たちの青春譚」の添えものに過ぎなかった要素が、メインディッシュへとすりかわった瞬間でもあります。

 8話までは、この2つの要素が拮抗しながらも、どちらを上に置くでもない、ちょうどいい塩梅で調理がなされていました。緑のヒゲ(マン)が口にした「総帥とその妹を同時に排除する計画」が物語終盤の本筋だったのでしょうし、ファーストガンダムにいっさい思い入れを持たない”物語至上主義者”からすれば、9話以降の展開は「奇妙な磁力にねじ曲げられた、不自然の変節」にしか見えないわけです。もちろん、その磁場の発生源は社長・Qアンノであり、「もうガンダムは満足した」との発言は、ビギニング・パートに由来すると考えてきましたが、どうやら「初代ガンダムを3DCGではなく、自身の手描きで動かしたい」という欲求が満たされたからであるような気がしてきました。最終話でのアニメーター・Qアンノによる手描きの”ガンダム無双”は、45年来のファンを狂喜させるすさまじいクオリティで饗され、申しわけ程度に主人公がチョロっと活躍して痛み分けぐらいの印象にもどして、ジークアクス世界とオリジナル世界の並立みたいな落としどころを見つけるのでしょうが、サイコガンダムの予告と単騎による大気圏突入のさいに、まざまざと幻視した「新世代が心の熱量だけで、旧世代の冷めた諦念をうち砕く」ことによって、主人公が主人公たる資格を真正面から証明する機会は、残念ながら永久にうしなわれてしまいました。

 Qアンノの偏執狂的な「クシャナ殿下のこのアクションだけをアニメ化したい」に類するこだわりによって、点景へまで追いやられた少女たちの「喪失と成長を交換する物語」をじっくり見たかったというのが、小鳥猊下のいつわらざる本音です。ジークアクスは「ガンダムシリーズの復興」という観点からすれば、商業的な大成功となったのかもしれませんが、物語の自走性とキャラクターの自我を無視したという意味においては、あの「親に捨てられた14歳の少年」に対する仕打ちとまったく変わるところがないと、ここに吐き捨てておきましょう。以上、ガンダムという単語を聞いても心の天秤が完全にフラットな、古い物語読みからの世迷言でした。くれぐれも、古参ファンのみなさまにおかれましては、気を悪くなさらぬように! この予想が外れることを、同時に願ってもいるのですから!

映画「トラペジウム」感想

 劇場公開当時から、様々のオタクたちによる正負の感情がうずまいているトラペジウムを、ようやくアマプラ配信で見る。全体的な印象としては、「男性の性欲フィルターを通さずに撮影した、思春期の少女たちのお話」で、なぜか「きみの色」を思いだしました。パッと見は、地方アイドル・グループの結成から解散までを追いかけるストーリーでありながら、その本質は、異常者であることに無自覚な東ゆうの言動を愛でる映画だと断言しておきましょう。未見の方にもわかりやすいよう、彼女の異常性を少しずつ位相をズラして例えるなら、理由もなく白發中の三元牌に強いこだわりがあり、「とても背が高いのに、なぜバスケ選手にならないんだろう」「ひどく太っているのに、なぜ相撲とりにならないんだろう」に類する思考の型を有していて、おそらく「女性の身体に男性の心」を持つ人物です。最後に挙げた性質は、思春期の少女にとって一過性の場合もあり、女子校の王子様が大学でブリブリの姫になるのを観測したことがある方もおられるでしょう。この現象を誘発するのがなにかと申せば、蛍光物質にむけたブラックライトのごとき「オス度の照射」の有無であり、令和のフィクションにおいてはバキやタフに代表される、ほとんどギャグへと突き抜けないと、発露をゆるされない種類のパーソナリティでもあります。もし本作において、東ゆうの協力者であるカメラ小僧が範馬勇次郎の0.01%でもオス度を有していたら、物語の展開がまったく変わっていた可能性はあります。

 少々それた話を元へもどしますと、作品世界そのものが「アイドルであること」を全力で称揚するアイマスやラブライブなどとはちがって、トラペジウムにおいてその特別性を信じているのは、登場キャラの中で東ゆうただひとりであることが、彼女の異質さをきわだたせていると指摘できるでしょう。アイドルなる職業に人生で一度たりとも魅力を感じたことのない者からすれば、「若い肉に価値があり、換金性まで有することを知った女性の、人生の予後は悪そうだな」ぐらいの感想しかないのですが、狂犬・東ゆうはこの冷めた視線に逆らうように、「ちがう! 特別な人間は発光するんだ!」と異様な想念を画面外へむけて吠えたててくるのです。偶像発生の初源を問えば、それは「神殿や河原や娼館や奴隷市場における、旦那衆への歌舞音曲」であり、かつては”必ず”売買春をともなう生業だったのです。「非常に整った造作」という稀少の例外こそあれ、多くの男性は「特別な情報を付加された肉」にしか性的な興奮を感じられないためかもしれません。その歴史的な営みから肉の媾合(媾合陛下!)を切りはなした上で、「一晩に一人」という物理的な限界を拡張する、動画配信やコンサートを通じた不特定多数との”まぐわい”が、現代におけるアイドルの本質だと言えます。かような穢れた実態について盲いたままで、「アイドルはみんなを笑顔にする」と「恋人のいないアイドルは高値で売れる」を同じ口から発することのできる東ゆうが、常軌を逸した妄想を破格の行動力で実現して、運痴や理系や整形などの「売春宿で値のつく少女たち」を手練れの女衒のように見初めて、いつわりの”トモダチ”へと籠絡してゆくさまは、ある種の恐怖と、誤解を恐れず言えば、清々しさの入りまじった光景でした。

 ここで確認しておきたいのは、彼女を動かしているのは名声欲ではなく、まして性欲や金銭欲でもなく、「金閣寺は燃やすべき、なぜって美しいから」へほとんど近接した、”狂人の美学”だということです。トラペジウムという作品への評価は、「東ゆうの異常さを、はたして受認できるか?」にすべてかかっており、ここからは個人的な話になってしまうのですが、彼女の言動にはたいへん身につまされるものがありました。なんとなれば、東ゆうの「アイドルになれば、なにか特別なことが起こる」という、根拠を持たないがゆえの強烈な思いこみは、「テキストを書けば、なにか特別なことが起こる」と四半世紀を書き続けて、何者にもなれずにいる小鳥猊下のそれと、奇妙な相似形を成していたからです。東ゆうには、「必ずアイドルになる」という妄執とともに、10年たっても20年たってもオーディション会場に現れる怪人として、界隈における”口裂け女”の逸話にまで昇華されていってほしい。そうして、若い肉と審査員からの失笑を買い続け、何者にもなれないまま、むなしき希望だけをいだいて、アイドルへの憧れに溺死してほしいのです。私の目には、「四者四様な、女のしあわせ」を描くエピローグは読後感を整えて、映画パッケージとしての体裁をつくろうためだけに用意された、東ゆうのような人物がけっしてたどりつくはずのない、虚栄に満ちたまぼろしにしか映りませんでした。

 「アイドルだとは明言されていないが、何者かにはなれた」ことを示す、数年後の東ゆうへのインタビュー場面なんて、あんなのはスタジオを借りて自腹で劇団員をやとって、彼女の妄想を台本で撮影させた自作自演のものにちがいありません! 小鳥猊下と同じ妄念をいだく東ゆうが、過ぎゆく時間に破滅しないのだとしたら、そんなのあまりにも都合がよすぎるし、なにより小鳥猊下がかわいそうじゃないですか! 公立校出身で、容姿にすぐれず、理系の才能もなく、実家も太くなく、オスとのつがいにもなれない東ゆうへ、「アイドルになれないまま、アイドルを目指し続ける」以外の道なんて、残されていないんですよ! フィクションだからって、ウソつかないでもらえますか(けだし名言)!

ゲーム「Clair Obscur: Expedition 33」感想

 海外で異様に評判のいい、仏国発のエクスペディション33を35時間弱でクリア。本邦のお家芸”だった”コマンド式RPGとソウルシリーズをガッチャンコしたシステムを用いて、世界観とストーリー以外のすべては過去のJRPG群、特にファイナルファンタジー・シリーズへのオマージュから構成されています。エフエフのナンバリングで言えば、7と8と10と13を下敷きにしながら、プレイフィールはそれらのゴチャマゼといった塩梅になっていて、なかば嫉妬に由来するエスプリをきかせまくった揶揄でJRPGをケチョンケチョンにけなし続けていたら、ガイアツに弱い本邦のメーカーがコマンド式RPGを作るのをなんとなくやめてしまい、絶滅危惧種と化した生物をあわてて異国の地で人工繁殖させたのが、このゲームの本質であると指摘できるでしょう。本作をプレイしていると、フランス人たちがときに蔑視の対象とし、音楽や舞台や映画に比べて一頭地劣るとされてきたゲームという名の革袋は、文化の精髄たるワインの豊潤を彼らに満たさせるほど、充分に古くなったのだという感慨がジワッとわいてきます。もっとも、ゲーム内で使われている美術や楽曲や文芸は、同時並行で制作進行中の映画版と共有することで爆死保険ーー学資保険のイントネーションーーをかけていたようで、「そういうところだぞ、この差別意識まみれのサレンダー・モンキーどもめ!」という気持ちにはさせられました。同じくJRPGの再興を目指した崩壊スターレイルが地に伏して我々を崇敬する一方で、エクスペディション33は青い瞳と天狗鼻を傲然とそらしながら我々を見くだす感じになっていて、不可解なアジア地域への恐怖ーードラゴンロード!ーーと劣等感が反転する、いつもの”西洋しぐさ”をそこに見ることができます。勝てない分野でのルール変更がきゃつらのオハコで、「ナイフを胸部中央に突き刺したのは認めるが、殺意はなかった」という態度で、「歴史に埋もれていた神秘のバサロ泳法を、私たちが再発掘した」みたいに喧伝してまわる様子には、さすがに「シェイム・オン・ユー!」とは言いたくなりますけれど!

 海外での激賞の裏には、こういった文化的な背景と歴史的な経緯があることを前置きとして、エクスペディション33への感想を述べていきましょう。RPGとしては、”かゆいところに手が届かない”不親切な部分が多くあり、メジャーな要素だけでも「ダンジョンでミニマップとコンパスが存在しない」「目的地へのガイドやマーカーが存在しない」「エフエフで言うところのアビリティに相当するルミナの仕様説明が充分ではない」「ほぼ必須のパリイにエフェクト等による補助が存在しない(モーションごとに目視で識別するしかない)」など、プレステ2か3時代のユーザー・アンフレンドリーを模している可能性は捨てきれませんが、とにかく「さわっておぼえる」しかないところが、現代のゲームにしては多すぎるように感じます。システムの全容を把握するまでの序盤は、いったいなにが楽しいのか伝わりにくいゲームなのですが、「エアリス相当の三十路独身男性」が退場(バレ)するあたりから、グングンと尻あがりにおもしろくなってゆくのです。ワールドマップに出てからは格段に自由度が高くなり、「キミはすべてをパリイする……それだけで、どんなボスにも勝てるよ」というソウルシリーズ由来のゲーム性によって、「序盤のうちから高難度ダンジョンに挑戦し、進行度に合わない高性能の武器を入手する」みたいな遊び方もゆるされています。くやしいですが、「わざと詰めを甘くしたバランス崩し」が大好きな、ファミコン時代からのRPGファンにとって、かなりグッとくる調整になっていることは、認めざるをえないでしょう。少し話はそれますが、いにしえの時代にバロックという中2病的な世界観をウリにしたゲームがありまして、「バランス調整に失敗した3D風来のシレン」としか形容できないシロモノなのですが、しつこく、しつこく、しつこぉく根強いファンがいて、延々とこすり続けていたのを、なぜか思いだしました(最近では、さすがに観測されなくなりましたが……)。

 このエクスペディション33も世界観が肌にあう人にはブッささり、そうでない人には意味不明という危ないラインをボールが転がっているような気はしますが、ベル・エポックへの造詣はあまり深くなく、記憶にあるフランス映画は「ロスト・チルドレン」「レオン」「アメリ」「エコール(最低)」ぐらいの人物にとって、まったく先の読めない物語の展開に、プレイの興趣を刺激された側面が大きかったことは否定いたしません。本作のストーリーを簡単に説明しますと、タイトルの33はある人物の享年(バレ)を意味しておりまして、この年齢以下の人間しか生存をゆるされず、年々カウントダウンが進行する世界という設定になっております。三十路半ばの独身男性が、年上の恋人の消滅を見送るところから物語は始まるのですが、「古いものほど価値がある」石の文明の有するアンティークの見立てを、脳がバグって人間にまで適用してしまった”おフランス”らしい導入だと言えるでしょう。MCRN大統領は世界でもっとも有名なグルーミングの被害者だと信じて疑わないのですが、この奇ッ怪の価値観を最先端だと叫んでやまない彼の国では、こんな当たり前の同情を口にすることさえできないのですから、まったく「進歩的である」とは、いつだって窮屈なものです。その一方で、おぶぁ(おぢの対義語)とのバランスをとるために少女愛ーージュディット・ヴィッテ! ナタリー・ポートマン!ーーを天秤の反対側に置くのが”カエル食い”どもの習い性で、本作のヒロインたちは順に「三十路独身女性」「三十路経産寡婦」「10代半ばの少女」となっており、ほとんど放言に思えるだろう分析の裏付けとなってしまっております(結果として、20代女性への言及が完全に消えるのは仏国のおもしろいところですが、それを愛でる中央値の男性は芸術になど、たどりつかないからかもしれません)。

 そして、FF7で言うところのクラウドに相当するマエルたんの造形がじつにすばらしく、本作の傑出している点は表情による演技の細かな機微であり、ひそかに思慕を寄せる年上の男性が惨殺(バレ)される場面で見せる絶望の様子には、局部へ電流が走りました。このグロテスクかつ壮麗なノワールは残念なことに、やがて「ある家族の問題」へと収斂していくのですが、ゲーム文化が充分に成熟して大人も楽しめるものになった結果、「各国の家族観」をそこに見られるようになったのは、非常に興味深いことです。イヤイヤながらに言及しておきますと、本邦の創作トレンドは「時代と毒親に人生を破壊された(と信じる)人物が、墓じまいをしてから自身を海に散骨する」みたいな内容ばかりですが、他方で大陸のそれは「祖父母の仕事と人生に敬意をはらい、家名に恥じぬ行動をおのれに求める」ような筋立てになっていて、人間集団の総体としてどちらが衰退してどちらが繁栄するかは、あまりにも自明すぎるでしょう。「愛国と差別」をそれに並立して矛盾を感じない心性は、全共闘世代のまいた病理の種の萌芽によるものだと考えていますが、以前よりくり返している話題なので、これ以上はここで申しますまい。ただ、我々の文化が西洋化されて長いため、本作に描かれる家族の軋轢はどこか既視感ーー山崎豊子とか横溝正史?ーーをともなうもので、大陸産のRPGにふれたときのような「蒙を啓かれる」感覚は生じませんでした。エクスペディション33の中核を成すミステリー要素について不満を述べておくと、そもそも「虚構内虚構」という入れ子細工でより外側にあるフィクションを補強しようとする仕掛けは、作り手の創作に対する強い自意識が臭みになるケースが圧倒的に多く、本作でもきついパルファムの香りの下から消せぬ臭気がただよってしまっております。「こんな大傑作を初手から上梓してしまうなんて、ミーの才能はそらおそろしいザマス! ジャポンで継承の途絶えた伝統芸能を復活させたフランセの手腕をもっとほめたたえるでセボン!」と大はしゃぎなのを、無言の微笑で生温かく見まもるぐらいが、我々にとってちょうどよい距離感でしょう。

 いつものごとく、メチャクチャにディスってるみたいになってしまいましたが、なァに、きゃつらのエスプリとやらへ対抗したまでのことです。ともあれ、エクスペディション33、ACT3の世界探索とマエルたんのダメージインフレまでを加味するならば、ファイファン派に敵愾心を燃やしていた、かつてのエフエフ愛好家のみなさんに、心の底からオススメできる珠玉の一品となっております。

映画「ミッション・インポッシブル:ファイナル・レコニング」感想

 ミッション・インポッシブル:ファイナル・レコニングを映画館で見る。「配信時代の銀幕の守護者」「ボクらの疾走する映画バカ」が、トップガン・マーヴェリックぶりに、劇場へと帰ってきました! スパイ大作戦や009の亜流だかスピンオフだかからスタートしながら、続編を重ねるにつれてトム・クルーズのプライベート・フィルムと化していったことで有名な本シリーズは、いよいよ「俳優トム・クルーズの人生と、その生き様」をダイレクトに表現する装置と化してきたようです。3時間ちかくある作品なのに、上映中は時計も尿意もいっさい気にかからず、オープニングからエンディングまで、ほぼひとつながりの意識で画面に集中することができました。劇場を出てから行う内容の反芻においては、「上映時間を30分は縮められるだろう、長すぎるアクションシーン」や「ツッコミどころの多い、隙だらけでご都合主義のシナリオ」などの感想が浮かぶには浮かぶのですが、上映中はまるで80年代から90年代にかけてのハリウッド・ブロックバスターを見ているようで、ひとりの観客としてエンタメ・ジェットコースターの快楽へ、完全に身をゆだねていました。デッド・レコニングへの批判を受けて、ストーリーの構成と編集をイチからやりなおしたそうで、ドラマパートをバンズ、アクションパートをアンコで例えるならば、前作が薄く切った味のとぼしいカステラで蜜抜きをしないーー美味しんぼからの知識ーーギトギトのアンコをブ厚くはさんだ、ひどく胸やけのする「失敗したシベリア」だったのに対して、本作はしっとりフワフワで味の濃い生地にサラリと口の中でほどける上品な甘さのアンコをとじこめた、開店1時間で完売する「上質なあんぱん」ーー検索エンジンを意識した例えーーだと表現できるでしょう。もっと具体的に言えば、前作でのドラマパートは撮影してしまった「やりたいアクション群」をつなぐだけの粗悪な接着剤みたいな中身でしたが、本作のそれはこれまでのシリーズから引用した映像を織りまぜながら、時間をかけてアクションシーンの目的と必要性を説明してくれるため、観客が主体としてミッションへ感情移入できるようになっています。2つのチームと過去/未来の場面を速いカット割でザッピングしていく手法は、長尺を使ったアクションパートとの好対照なメリハリを成しており、緊張の系は細く長くずっと切れないまま、3時間にわたってつむがれていくのです。

 そしてなにより、還暦をオーバーしたトム・クルーズによるCGをいっさい廃した生身のスタントは、もはやロコモーションの型番を偏愛するような脳の特性にしか響かなくなった、ポスプロまみれのマーベル作品ーー上映前に予告編をアホほど見せられるの、もうなんかのハラスメントちゃうの?ーーに向けた無言の批判として成立するレベルで、近年のクリストファー・ノーランが高尚かつ思想めいてきたのに対して、アホで低俗で愚かな大衆である我々を、トムが全力の笑顔でハグしにきているような暖かみさえ感じます。もしかすると、上空3000メートルで複葉機に取りついて行うスタントは、CGで95パーセント同じシーンを再現できるのかもしれませんが、この愛すべき映画バカは「それを生身でやることで生まれる、差分の5パーセントの意味」に大金と、文字通りの生命までを賭けており、観客の冷めたハートもその本気度にどうしようもなく燃やされてしまうのです。ロンドン橋の上やレシプロ機を追いかけての”イーサン走り”は、もはや「間に合わないことの直喩」みたいになっていますが、本作では「ピッチャーゴロを打った高校球児が、一塁まで全力疾走する」のを見るときのような、青ビョウタンの「無駄じゃん(笑)」という冷笑を問答無用にふきとばしてしまう、不思議な感動がありました。結局のところ、リモートワークや人工知能などの便利なツールは世に氾濫すれど、人間は人間の肉の実在とその躍動にこそ心を動かされるのであり、自分もそうあらねばならないと背筋の伸びる気持ちにさせられます。「アラカンのトムがあれだけがんばってるんだから、オレも明日からもっとがんばらなきゃな!」と思いながら、すがすがしい気分で劇場をあとにしたご同輩も多いのではないでしょうか。ここでまたいつものように脱線しておくと、ジークアクス8話における大気圏突入のワンカットを見た瞬間、大号泣してしまったことを告白しておかねばなりません。なんとなれば、現状を現状のまま留めおこうとする打算に満ちた政治と、既得権益に満ちあふれた賢しい大人の権謀術策を、年若な底抜けのバカが情熱だけでブチやぶって、冷えて固くなった世界のド真ん中に風穴を空けるシーンに見えたからです。50年もののシリーズにガンダム素人がうかつなことを申すまいと、ずっと口を閉じておりましたけれど、次週の展開を見ることでこの印象が薄れたり変わったりするのが怖いので、ここに感情の記録として書き残しておきます。

 話をファイナル・レコニングに戻しますと、世界同時公開となる大作映画として、終わらない侵略と進行するジェノサイドを前に、前世紀末の「核戦争の恐怖」を援用しながら、人工知能を仮想敵とすることで、トップガン・マーヴェリック終盤のように「現代において、だれがなにを打倒するべきなのか?」への焦点を徹底的にボカしたまま、旧世代にとってのカタルシスーーポセイドン・潜水艦・アドベンチャー、時限爆弾の色つきコードと時計カウントダウン、デジタルの脅威をアナログの物理で粉砕などーーを演出しきったのは、お見事というほかありません(デジタル・ネイティブである新世代が、これらを”快”と感じるかどうかは、正直わからないです)。ただ、作品の瑕疵とまでは申しませんが、3時間の中で一ヶ所だけ、フィクションへの没入から思いきりキックアウトされる場面があったことを、最後にお伝えしておきましょう。深度200メートルの海中から、酸素ボンベなしのスッポンポンで水面へと浮上するところまでは、「まあ……イーサン・ハントなら……ギリいける……のか……?」と自分をだませていましたが、直後に行われたポッと出のヒロインによる救命シーンには、怒髪天を突きました。人工呼吸はチュウやないし、胸骨圧迫は乳首へのペッティングとちゃうんやで! そもそも心臓とまっとんのに、人工呼吸で蘇生するわけあるかいな! トムやなかったら、ゆうに5回は死んどるところやで! ヒジを伸ばして関節を垂直に固定して、骨折させるつもりの全体重をかけて胸骨をヤッたらんかい! あと、黒人の女性大統領に対して、だれもが”ミズ”ではなく「マザー・プレジデント」と呼びかけるのですが、これはプロトコール等において現実に先んずる形で、すでにルールが決められているのでしょうか。それと、”コーリング”という単語が劇中で何度かくり返されていましたが、キリスト教における「神から与えられた使命」という意味だそうで、トム・クルーズにとっての映画制作は、もはやこの境地に達しているのだなと思うと、じつに感慨ぶかいものがありました。

アニメ「アポカリプスホテル(6話まで)」感想

 タイムラインが毎週ジークアクスに沸騰することへの逆張りとして、生粋のキャピタル・ウェイストランドッ子なことも手伝って、アポカリプスホテルを6話まで見る。この作品、なんと竹本泉(!)がキャラデザを担当しているおかげか、「宇宙船サジタリウス」や「YAT安心!宇宙旅行」のような”ザ・昭和のSFアニメ”というおもむきになっていて、毎回のゲスト宇宙人?もバラエティに富んでおり、とても楽しい。試聴しながら、なぜか昨年に放送された終末トレインを思いだしたのだが、あちらは「大好きな戦車に少女を乗せたらうまくいったので、大好きな電車に少女を乗せてもうまくいくのでは?」ぐらいの気軽な思いつきからスタートした企画が、物語の終盤に進むにつれて、脱線からの横転という大事故を引き起こす様は、悪夢のような一大スペクタクルだった(「原作なしアニメは、1話のおもしろさが最大になりがちだよなー」などと無責任に感じたのをおぼえている)。ざっくりあらすじをお伝えすれば、「こころざしと偏差値の低い少女が、こころざしと偏差値の高い少女に向けたチクチク言葉」に端を発した思春期のインナーワールドの話で、結局のところサイファイとしては飛翔しないまま、「男性作家が少女に世界の謎と命運を背負わせる」例の物語類型をなぞって、尻すぼみの地味な結末で終わってしまった。

 その一方で、アポカリプスホテルは少女の見かけをした存在を主人公に置きながら、これまでのところ内面の描写というよりは他者との交流に力点がある印象で、未来のイヴやフランケンシュタインのような「非人間に仮託した、父イコール造物主との関係性」へと、テーマは収束していくような気がしている。どちらも少女を物語の主体にしながら、両者の質のちがいが監督の性別にだけ起因するとすれば、なんとも即物的な結論であり、自省をともなった、やるせない気分にはさせられる。さらに、冒頭で挙げた昭和のSFアニメに視線をむけると、かつて多くの冒険譚の主人公は、男や少年たちであったことに気づく。彼らの成長を描くためにはイニシエーションとして、それを選ばないこともふくめた「暴力とセックス」を”必ず”通過させねばならず、後頭部に右手をあてながら令和の出ッ歯がおずおず告げる、「男女の性差は、物心ともに強調しない方向でオナシャス」というタテマエにそぐわなくなってきたからであろう。しかしながら、これがあらゆる物語ーー終末トレイン、迷走の果てにどこへ行った?ーーからストーリーテリングの起伏をうばってしまう遠因になっているような気がしてならない。なんとなれば、少年は時間の経過とともに低い場所から上昇しながら、「変化し、獲得する」ことで何者かにならなければならないが、少女は時間の経過とともに「一過性の特別さ」を喪失し続けて、高い場所から只人へと降下していくからだ(その後、さらにメタモルフォーゼの段階をむかえるが、ここでは論旨に合わないため、割愛する)。

 誤解をおそれずに言うならば、主人公の性別によって「獲得の物語」なのか「喪失の物語」なのかが、否応に決まるのである。ここでインプレッションを得んがために、nWoトレインはあえてガンダム方向へ脱線したいと思う。ジークアクスの設定が、グロス販売のアイドルユニットから影響を受けすぎているという批判を見かけたが、真におそれるべきは「30代、40代、50代になっても、10代の少女が好き」という多くの男性にとって身もフタもない事実を利用した、攻成り名遂げたアラカン監督さえもあらがうことのできない、この女衒商法の巧妙さであろう。一定の年齢に達した個体を”卒業”と称してグループから離脱させ、つねに新たな若い個体を補充することで総体を維持する”スイミー方式”は、「もっとも繁殖に適した条件を満たす細胞に強い魅力を感じなければ、効率的な種の再生産は見こめない」というオスの本能を逆手にとり、オスだけでなくメスたちにも、その欲望に応じることへの対価を用意し、チョウチンアンコウのイリジウムのように暗闇へ誘蛾の光をはなつ、邪悪な男性による奸佞邪智のたくらみの極北なのである。ジークアクスもそうだが、近年になって目だってきたのは、「少年のようにふるまう少女」を主人公にすえた物語群で、暴力とセックスを経由せずにーーもっと言えば、それらはモニター外の男性にあずけてーー「獲得をともなった上昇的変化」を目指そうとする試みなのかもしれない。水星の魔女は脚本の遅延で大失敗に終わったので、新しいガンダムが最終話でこれを達成することを、ひそかに願っているのだった。そして、7話のサブタイトルにおける”リベリオン”なる稀少ワードのチョイスは、小鳥猊下の小説の一節「本質的にrebellionが不可能である苛立ち」から、インスピレーションを得たにちがいないのである(ぐるぐる目で)。

 いつものごとく、だいぶにそれた話をアポカリプスホテルにもどすと、タヌキの協力でエイリアンの共通語を理解したあとは、異星人たちの文化や文明というより、彼らの言動に仮託した「昭和の風俗紹介」へと物語の屋台骨が傾いてきている気がするし、「出会って4秒」みたいなネットミームーーググッって元ネタを知ったときは、腰を抜かしましたーーは、竹本泉キャラに発話させるセリフとしては、いささか品位と品性を欠いてはいないでしょうか(やっかいなオールドファン)。また、各話で数十年単位の時間経過が生じているのに、登場キャラをふくむホテルの備品にまったく経年劣化がないーーベッドシーツなんて、住みにごりの引きこもり兄のタンクトップみたいになるはず(わかりにくい例え)ーーのも、中華のフィクション群を経てしまった身には、なんだかもの足りないところで、「時の流れによる摩耗」をキチンと描写するべきだと思うんですよね。映画化の決まったーー陽気なオッサンである主人公を、陰気なオジサマであるライアン・ゴスリングがどのように演じるのか、不安は絶えないーープロジェクト・ヘイル・メアリーで「脳のクロック数と生物の寿命は、居住する惑星の重力によって決まる」みたいな話があったように記憶していますが、物語の後半では後発のSFとして「定命の者の、定命の程度」を大きなスケール感ーー原神で言うところの「たとえ肉体は永遠を獲得したとしても、魂の摩耗はわずか千年を耐えない」ーーで表現していただきたいところです。

 あと、本作は劇伴の一部にオタクのみんなが大好きなジムノペディ調の楽曲を採用しており、人類滅亡後のダルでアンニュイな雰囲気を作りだすことに成功しているのですが、オープニング・テーマも同じ曲調で作られているせいでしょうか、メチャクチャ音痴でヘッタクソな歌唱に聞こえてしまうのは、数学と音楽の素養が絶無な”トーンデフ耳”のせいでしょうか? みなさんには、これ、どんなふうに聞こえてるの?

漫画「住みにごり(7巻まで)」感想

 例の複合施設で、住みにごりを最新7巻まで読む。近年、おそらくスーザン・フォワードの著書名から定着した「毒親」なる単語が人口に膾炙しすぎてカジュアル化し、本来は無限のグラデーションが存在する問題を、ゼロ100でデジタル的に断罪する方向へと、世相全体が傾いているように感じている。それもそのはず、この単語を使う者たちは「自分は生涯、当事者たる主体にはならないことを決めている、もしくはそれが事実として確定してしまった人々」だからで、あたかも”ホワイト企業”なる単語と同等の、毒の成分をまったく持たない親が実在するかのように、100の断罪を無敵の武器だと信じてふりまわし、もっと言えば末代が末代ではない者に向けるがゆえに、無意識の罪悪感や劣等感を打ち消そうと、いっそう過激にエスカレーションしていく側面はあると思う。以前、住みにごりの1巻を手に取り、稲中卓球部の人(名前失念)や新井英樹の系譜ーータコピーとは全然ちがいますよ、念為ーーに連なる新たな作家がひさしぶりに登場したなと感じたものの、引きこもりの兄をひたすら醜く不快に描き続ける展開に、コメディなのかシリアスなのかチューニングをあわせられなかったこともあって、読むのをやめてしまったのであった。今回、思いたって7巻までを通読し、毒成分の薄い家庭ーー子どもの才能や性質が毒素を希釈化したり、無毒化したり、薬に転じる状況もあることを付記しておくーーから、「親が子を、子が親を殺す」相克の猛毒家庭のあいだに存在する、無限のグラデーションのひとつを高い解像度で描こうとする作品なのだと、ようやく気づいた次第である。立ちあがりの遅い作品なので、不快感を我慢して物語の動きだす3巻までは、ぜひ読んでみていただきたい。「合う、合わない」を論じられるのは、そこからだろう。ネタバレを避けるために、抽象的な表現から始めるならば、「怪物だと思っていたものがじつは怪物ではなく、美醜と快不快が文字通りの”叙述トリック”として、主客の転倒を起こす」意想外の展開(ほぼバレ)がすばらしく、特に深夜の公園で行われるレスリングの場面は、漫画史上でも屈指の名シーンなのではないかと、ひそかに思っている。

 また、住みにごりを読む中で知らず満たされていたのは、以前フォールアウト3の感想にも書いた「おのれが住む町のすべての家庭の、すべての部屋の隅々までを、透明人間として探索したい」という、人には言えぬあの欲望であった。突如としてベセスダ方向へと話はそれるが、最近は就寝前の1時間ほどオブリビオン・リマスタードをプレイーーというより、シロディールで細々と生計を立てている。帝都の川べりの被差別地域にある掘ッ立て小屋の自宅から、近隣のダンジョンへと出勤し、目につく生物をみな殺しにしたあとは、めぼしい武具やアイテムを抱えられるだけ抱えて、なじみの商店へ売りさばいてからベッドに入るーーそんな平穏きわまる日々をくりかえしていた。ところが、ある日突然、全身からシュウシュウと白い煙がたちのぼり、日光の下では体力が減少するようになった。そう、シリーズおなじみの吸血病を発症したのである。過去の記憶を頼りにスキングラードの領主である吸血鬼(バレ)と面会して、治療薬の製法を知っている魔女の住処を聞きだす。魔女に言われるがままに、無実のアルゴニアンへ背中から切りつけ、強力なヴァンパイアを洞窟で殺害し、日の高いうちは屋内で時間をつぶしつつ、夜中にコソコソと人目を忍んで植物採集するものの、フィールドに自生しないニンニクだけ必要な数がそろわない。フードを目深にかぶって雑貨店へと買い求めにいくも、「この穢らわしい怪物め!」と剣もほろろに追いかえされてしまう。泣く泣く、人々が寝しずまった時間帯にピッキングで民家へと不法侵入し、暖炉へ吊るされたニンニクを盗むハメになるーー平穏なる市井の日常から、急転直下で犯罪者ロールプレイにきりかわる様は、もうどうしようもなくエルダースクロールズであると言えよう。なぜこんな話をしだしたかといえば、住みにごりを読むことと、オブリビオンをプレイすることは、体験としてきわめて近い位置にあるように感じたからなのであった。

 話を元にもどすと、ここまでを絶賛しておきながら、ささいな気にくわない点から急に評価が真反対へと舵を切るーー最近では、メダリストがその災難をこうむったーーのが、”nWoしぐさ”であることは、みなさまもすでにご承知おきであろう。醜く不快な肉塊の「ウンコ製造機」である兄が、おのれの王国たる2階の自室へ侵入をゆるしてしまった存在を凌辱できなかった時点で、彼はモンスターから只人へと受肉し、この物語の趨勢は不可逆に定まったのだ。3巻から6巻にかけての疾走感は、「ふいにおとずれた巨大な荒波の上で、作者はただサーフボードに自立している」ようなレベルにまで達しており、登場人物たちがそれぞれの自由意志で動くうちに、ストーリー自身が自明すぎるゴールを見つけて、そこへ向かって自走しているような印象さえあった。それを、6巻の途中で終わらせておけばよかったものを、ガロ方向のマイナーな作風で100万部も売れたものだから、明白きわまる着地点にピリオドを打つのがおしくなったせいだろう、5年後の「引きこもり支援編」という大蛇足へと突入してしまったのである。しかも、物語内での格付けがすんだはずの兄を「やっぱり、モンスターでした」と再び御輿でかつぎだしたあげく、終始セリフなしで演出をつけてきた彼自身の口で「引きこもりの哲学」を語らせた瞬間、本作は完全な”腰くだけのどっちらけ”になってしまったのだった。いまは「売れた男性作家の、作品との距離感」という例の命題を、”ひとつながり“や”狂戦士“に引き続いて、またもや突きつけられたような気分になっている。この先を読む必要はもうないと考えているので、遠い将来ーー数年は引きのばすだろうーーに住みにごりが最終回をむかえたら、小鳥猊下の見たてがはたして正しかったのかどうか、そっと耳うちしてほしい。