猫を起こさないように
万引き家族
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万引き家族


少女保護特区の最終話にも書いたが、個としてのヒトは神であり、神をヒトに抑制するのが家族や共同体である。そして異なる家族や共同体から離れたヒトたちを抑制するのが法である。家族や共同体の内側は本質的に法の埒外であり、さらに蛇足ながら現代の問題の多くは法が直接に神を裁くことから生まれているように思う。さて、本作のテーマは「誰も知らない」のそれを延伸ないし踏襲したものであるように感じる。前作のラストが血によらない新たな家族の誕生を予感させたのに対して、本作のラストは血のつながらない家族の解体であり、テーマの後退を感じた向きもあろう。話はそれるが、今回の子役たちが「誰も知らない」の子役たちとクリソツであり、ペド方面での監督のブレなさを実感した。そうそう、テーマの話だった。本作では老婆の死と逮捕後の展開において、「当事者に対する部外者のクソリプ」「お父さん、お母さんとは最後まで呼ばせない」「私たちじゃダメなの(親にはなれない)」「おじさんにもどるよ(父親をやめる)」など、物語的なカタルシスを徹底的に排除していく。しかしこれは、クソリプの部外者から犯罪行為の肯定と受け取られる要素を慎重に、注意深く排除したゆえである。そして、最後のカットで犯罪者に教えられた数え歌を歌いながらビー玉を拾い上げる少女の視線の先に、誘拐犯であり窃盗犯であり殺人犯である者たちが彼女を迎えに来る現実を、視聴する誰もが幸福な結末として幻視させられてしまうという点に、監督の意図が粛々と完璧に積み上げられていく怖さがある。観客たちの、弱き者たちの犯罪を肯定するその視点をもって初めて、この映画は完成するのだ。深い感情移入の後に、何も知らない連中の安全圏からするクソリプを浴びることで、見るもの全員を犯罪の当事者に共感させるという没入の深度は、監督の過去作のどれをも超える高みに達している。ただひとつ瑕疵を指摘するとすれば、ジェイ・ケー・リフレの下りであろう。松岡某演じる売春婦の膝枕を涙で濡らす吃音のキモオタとの交流は、かつてネットに存在した「善良な一市民」と名乗るテキストサイト運営者(よもや我々を捨て、実名でテレビ出演などしておるまいな?)が好んで使ったところの「レイプファンタジー」そのままと言える。逮捕後の展開において松岡某だけ扱いが雑なことも相まって、監督の趣味でこのシーンを撮ってる感が強く、本作からはひどく浮いた感じを受けてしまう。オーッ! ミーもマイセルフのブサメンをマイフィストでワンパンしてからオーバー・トゥエニィのジェイ・ケーもどきとタダマン、エー・ケー・エー、フリー・エフ・ユー・シー・ケーしたいヨー!