半世紀に5年前後足りない人々のお気持ち表明がここ数日、テトリスみたいに次々とタイムラインを下ってくるので、イヤイヤ目を通す。まず最初に感じたことを言葉にすれば、「オイオイ、パンピーは置くとして、オマエらは『医師』やら『京大』やら、現世のプレフィックスがついたネームドじゃねえか。こちとら20年ずっと、小部屋のアンアイデンティファイドなんだが? 近ごろのネットではプレフィックスのないテキストは読まれないんだが?」ってところでしょうか。「存在が知られて、テキストに金銭が発生する」のが小鳥猊下の目指す最終ゴールなので、それを達成した方々がショボくれた弱音みたいなのを吐いてるの、正直いらんなーって感じです。しかしながら、12歳の少女である我が実存に響くところがなかったわけでもないので、この件について少し感想を残したいと思います。
「人生は重荷を背負いて遠き道を行くが如し」を家訓とする小生(おっと、身バレはカンベンな!)が20年以上を律して、同じ生活と節制を繰り返してきたのは、ひとえに核家族時代の家長が抱く恐怖であるところの「オレが倒れたら、一家全滅」に支配され続けてきたからに他なりません。これはつまり、田舎の大家族の次男坊以下が与えられた「家を出て、都会で独立」という人生観、言わば「子消し・口べらしの呪い」を先代から受け継いでしまっているからに他ならず、やはり地元実家住みの、「ママとは友だち」マルチプル・インカム高卒若年多産ヤンキーこそが時代に対する最適解であったなと、己の無用の苦しみをふりかえって今ごろ痛感しておる次第です。近年では「オレが倒れても、まあ大丈夫」という心境へと次第に変化しつつあり、日常生活にせよ、仕事での決断にせよ、かなり楽にできるようになってきた実感があります。「失敗・イコール・死」のくびきからマインドが解放されて、肩の力が抜けてきたからかもしれません。
「エンダーのゲーム」の続編である「死者の代弁者」の最後で主人公が語る、「今なら、ぼくはおそらく死んでもいい。ぼくの生涯の仕事はすべてやり終えている」という告白へ、隣接した状態になってきているのでしょう。「年をとるごとに、なんだか楽になってくなー、いいのかなー」というのが最近の感じなので、ネームドたちが吐露する苦悩も、文学として読めば「かっけえ!」なのかもしれませんが、生活として読めば「んー?」と首をかしげざるをえないわけです。少女のような「ふわふわタイム」を過ごしてきた末代か資産家か高等遊民が、「己のアイデンティティに比べれば、取るに足らぬもの」と放置してきた人生の宿題に追いつかれはじめているだけじゃないの、とか意地悪く思っちゃう(最後まで高楊枝で「取るに足らぬもの」とうそぶいてくださいよ、もう!)。その「宿題をやっていない8月31日の子ども」に対して、7月中に宿題を終えることができそうな私は、本当に「おそらく死んでもいい」瞬間が訪れたときの解放感を心待ちにしながら、これからも日々を振り子のようにコチコチ生きてゆきます。
まあ、この語りさえバリバリの生存者バイアスであると同時に「虚構日記」の一環なので、真に受けんほうがええよ。
質問:麻雀漫画で何かおすすめはありますか?
回答:インターネットで目にした中でもっとも残酷な言葉のひとつに、「タモリの地質学の知識は、ある年代からの学説が反映されていない。彼がそこで学ぶのを止めたからだ」というものがあります。他人の知識を地層に見たてた皮肉、受け取る相手のことをいっさい斟酌しないこの痛烈な批評は、「なんてひどいことを言うんだろう!」と私をいきどおらせると同時に、まるで自分ごとのようにふかぶかと胸に突き刺さりました。学生時代にマスターキートンを読んだため、「どんな状況でも学ぶのを止めない姿勢」というのが至上の美徳として刷り込まれているからで、それは文系アカデミアへの羨望の源泉でもあります。「空襲で瓦礫と化したばかりの街角で、民衆を鼓舞して講義を始める教授」は、あまりにも鮮烈な学びの象徴だと言えるでしょう。「は? まずは避難と衣食住の心配だろ?」というモニター外からの冷笑をふきとばす、個の熱量による知恵と勇気の伝播で、「もし、その場にいられたらなあ!」と私が思うフィクションの場面のひとつです。
なので、面白い麻雀漫画を紹介したいのはやまやまですが、「小鳥猊下のレビューには、ある年代からの作品が反映されていない。彼がそこで漫画を読むのを止めたからだ」とか書かれるのを目にしたらと想像すると……うるせえ! じゃあ、オマエがオレの代わりに家族を養って、組織をマネジメントしてみやがれ! ウラナリの青瓢箪のネット弁慶めが、ブチころがすぞ!
最初のおススメは、押川雲太朗「根こそぎフランケン」です。運の細い裏プロと運の太い素人による麻雀ロードムービーで、巻が進むにつれて単話完結からストーリーものへと変化していきます。最終話にかけての「竹ちゃんはいつも正しいです。麻雀のことでも、世の中のことでも……バカな人間の気持ちなど竹ちゃんにはわからんです」というセリフ、そして大切な人を失ったにも関わらず、「おれはバカだから、この気持ちもきっとすぐに忘れてしまうです」という独白は、いつ読み返しても涙がこぼれます。私の人生を通じた実感と、かなり近いところを言い当てているからでしょう。「身を売る女性は、かなりの確率で知能に」みたいな言説がタイムラインへ流れるのを視界の端に入れただけで、怒りに脳が沸騰して視界が狭くなります。自分と関わりのない不幸を安全な場所から論評するのは、さぞや楽しい遊戯でしょう。「根こそぎフランケン」に描かれているのは、そういった論評される側、搾取される側、壁に砕ける卵の側、つまりここには登場しない人々の物語なのです。最近、私が思いをはせるのは「インターネットにいない人々」のことばかりです。
次のおススメは、片山まさゆき「理想雀士ドトッパー」です。全2巻という短さで、どうやら打ち切りらしいのですが、それを思わせない絶妙な起承転結のバランスで完結しています。最終話のナレーション「それは賞金もなにもない、ただの麻雀雑誌のエキシビション対局だった」という一行が、何年もずっと心の深い部分に残っています。個人の私生活までもが回線に乗り、世界のいかなる一隅さえネットに公開されている現在、いや、ネットに公開されていないものは、もはや世界には存在しないのと同義だと言えるでしょう。もっとも貴重なものはネットに対していつも秘匿されていると私は信じているし、この瞬間にも名も無きだれかがすんでのところで世界を破滅から救い続けていて、それはここではない場所においてであると感じます。スパイダーマンNWHがすばらしかったのは、米ドル札をバラまきまくるアホみたいなお祭り騒ぎの後に、ヒーローを1セント硬貨が机上に置かれた匿名の場所へキチンと戻したことだと思っています。「だれにも知られない場所に咲く、世界でいちばん美しい花」というのが、私にとってずっと大切なモチーフなのかもしれません。
「それは賞賛もなにもない、ただのインターネットに記述されたテキストだった」。
ゲーム開始直後
テトリスの長い棒みたくやたらタイムラインを下ってくる「ヘブバン」なるが気になり、ダウンロードしてさわりだけプレイ。フルプライスの大作エロゲーからエロを抜いたような内容で、これを集金のためにパッケージではなくスマホアプリでリリースしなければならないところに、ひどく時代を感じました。
女性だけが集められた学園イコール軍隊(美少女動物園!)で、中身がオッサンの乳袋美少女たちがボケとツッコミだけで話を進めていく序盤はまさにいにしえのエロゲーのノリで、あまりのなつかしさに脳が時間感覚を失って、哲学的なめまいさえ覚えます。関西人で昭和のほうの私は「あほ」とか「くるくるぱー」に、いちいちゲラゲラ笑わされてしまうわけですが、常識人で令和のほうの私はあまりの価値観のアップデートされていなさに、いちまつの不安を感じてしまったこともまた事実です。かつての「ぬすめ!たいやきくん」と同じく、限られた人々の中で面白さが最大化される類のニッチな嗜好品だと思うので、SNSを利用した絨毯爆撃広報が裏目となって、最近の「くさやがくさい」みたいな批判をするインターネットに発見されないことを心から願っています。
おそらく序盤の軽いノリと終盤のシリアスで落差を生じさせ、その位置エネルギーで情動をゆさぶる系の作劇だと思うので、買い切りノベルゲーのつもりで1日1DAYぐらいをゆっくり読み進めていく予定です。
第1章クリア後
ヘブバン、第1章クリア。うーん、シリアスパートになると急にテキストが薄くなって、ギャグパートであれだけ魅力的だったキャラの個性が消滅しちゃうのはなんでかなー(特に諜報員と殺人鬼が完全に消える)。まるで鬱病の本体が立ち上がってくる感じとでも言いましょうか、8日目くらいまでの内容が「鬱で会社を休んでる先輩とひさしぶりに外で会ったけど、なんだかテンション高めで楽しかったな。もう大丈夫なのかも?」だったのではないかという怖さを覚えました。
イベントシナリオもちょろっと読んでみましたけど、話の展開が唐突でキャラの言動に納得感がありません。今後の期間限定イベントも、「レイプファンタジーのレイプ部分にフォーカスした美少女たちの精神的外傷紹介」に終始するのではないかというイヤな予感がします。こっちは動物園の管理運営とその裏にある秘密を知りたいだけで、「このミツユビナマケモノの指が2本しかないのは、過去に悲しいできごとがあってね……」とか老飼育員が語るのを聞きたいわけではないなー。世界でキャラを語るのではなく、キャラで世界を語ってほしいなー。
システム部分では「レベルマックスからの転生によるステータス引き上げ」とか、スマホゲーのエゲツない周回に対応してる気配はあるんですけど、肝心かなめのストーリー部分が年単位の運営に耐える作りになってないのではないかという不安が残ります。基本的に、課金はクリエイターへの投げ銭だと考えているのですが、第2章クリアまでは保留することといたします。
第2章クリア前
え、ヘブバンはどうなりましたかって? テレビCMでけっこう大きめのネタバレっぽい映像を見て、「ああ、やっぱりそうなるのかー」と思いながら、その場面にいたるのがイヤで2章23日目で足踏みしたまま、ダンジョンにもぐったりオートでレベルをあげたり各キャラの交流シナリオを読んだりしてます。本作の日常パートを「寒い」と思う向きもあるようですが、たぶん書き手と世代が近いせいでしょうか、私は大好きなノリなんですよねー。ほんと油断してると、声をだして笑っちゃうくらい。進行をためらってる理由としては「虚構内の死の描き方」への不安が大きくて、けっこうクリエイターの倫理観とか誠実さーーあるいは、不誠実さーーがモロに出る側面があると思うんですよ。
またエヴァの話しますけど、Qでアスカがシンジと再会する際に、「この世界はもう、人ひとりの生き死にへ関わっていられない」みたいなことを言うんですよね。これ、ブンダー外の状況を観客に提示する目的で置かれた説明のためのセリフで、アスカというキャラクターの持つテレビ版から一貫した人格が壊された場面であり、また新劇の意志であった「無辜の市民が営む守るべき日常」へのまなざしを失って、エヴァが空疎な作りごとへと褪色した瞬間でもありました。
ヘブバン、1章終盤や期間限定イベントの内容からシリアスの描写にまだ身をあずけきれない感じがあり、シンエヴァのようにキャラの尊厳がストーリーや感動に隷属するみたいな展開だったらどうしようと、好きになったものを嫌いになりたくない一心で、クリアを先延ばしにしておる次第です。でも、3章も公開されたみたいだし、そろそろ進めないとなー、どうしよっかなー。ヘブバン、嫌いになりたくないなー。
第2章クリア後
ヘブバン、第2章クリア。予想通りの結末となりましたが、その描き方にはありていに言って心をゆさぶられました。交流イベントを数こなしていたので、あだ名の伏線はちょっと強引だなとか、猫語尾の人物に対しては、気持ちよりもキャラ優先なんだとか、細かい部分は気になりながら、総体としては戦士の死を通じて世界観の深い部分までをほのめかしていて、とてもよかったです。せめてパッケージ分だけは、課金させていただくことにしました。
なるほどなー、キャンサーにとってのガン細胞が人間で、彼らの行為は殺戮ではなく治療なんだなー。そして治療された人間は記憶と感情を失って、トラウマや苦しみから解放された彼岸の生命体に置換されると。みんな大好きガイア理論とか、エフエフのライフストリームがネタの下じきなのかしらん。最終話では主人公がマクロスよろしく歌を通じて、トラウマと苦しみまでを含めた記憶と感情こそが人間そのものであることをキャンサーへ伝えて異知性間コミュニケーションを成立させ、人類の「在り方」を救済する展開になるんだろうなー。やっべ、また勝手な妄想で感動して涙が出てきた。
話を戻すと、ヘブバンは演出を含めてテレビ版・旧劇・序破までの正しいエヴァンゲリオン・フォロワー作品であるとも感じます。このクリエイターは「旧エヴァに影響を受けて創作活動を始めたが、公でシンエヴァには一言も触れていない商業作家」の一人であるような気がしますので、今後の本作が新劇当初の志を正しく翻案したSF的アンサーを提示する快作へと化けてくれることを強く期待しております。私事ながら2章最終盤の流れに、この2年間というもの一度も葬儀に参列できていない事実を突きつけられて、愕然としました。もはや実在する人間よりも、ゲーム内のキャラクターの方が敬意をもって扱われる時代になってしまったのですね。
あと、けっこうな時間をレベル上げに使ってきたはずなのに、レア度の低いキャラがボス戦でまったく役に立たないのには、まいりました。1ユニットが破壊されるとゲームオーバーになるシステムで、最高レアを6体ならべることを前提としてバランス調整が成されているようです。どうやら、エゲツない集金の要素が見えてきましたねー。
第3章クリア後
ヘブバン、第3章をようやくクリア。「無課金勢がコンティニューやオートバトルでクリアできない戦闘があるスマホゲーはプレイ禁止」を家訓とする名家の女児なので、21日目の終盤で放置せざるをえなかったのです。このラストバトル、「敵がターン毎にする行動を綿密に記録し、1つのミスもせず最適行動を選択し続け、残った運要素について天に祈る」中身になってて、なんとか倒したと思ったら強化版の第二形態が現れたので、「はい、クソー」と叫んでスマホを放り投げて、そのまま数ヶ月が経過していたのでした。このたび第4章の追加に伴う難易度緩和で、ついにオートバトルでのこれの突破へ成功し、ようやく家訓の縛りをまぬがれてプレイを再開できたというわけです。以前に「年単位の運営へ耐える作りになっているか不安」と書いたことが的中しつつあり、難易度の上げ方はリリースからわずか半年にもかかわらず、すでに5年くらい経過したアプリゲーみたくなっているので、そろそろ全何章の予定かは教えてほしいものです。
んで、第3章の最後まで読みましたけど、シリアスパートは我々が冷笑的に「エロゲーのリアリティライン」と他作品をディスるとき想定する内容そのもので、シナボン(BCSの影響)の上へ生クリームを山盛りにしぼってから大量の黒砂糖をまぶすような怒濤の胸やけ泣かせ展開に、目を白黒させられました。第2章の最後にも感じましたが、隊員の死に伴う彼岸の描写にコニー・ウィリスの「航路」っぽさがあるのは、書き手の闘病体験を反映しているせいでしょうか。それにしてもあれですね、13歳から18歳までの少女が、30歳から80歳までの男性がようやく手に入れる熟練を、過程をスッとばして付与されてる(リコリス・リコイル!)の、最高に美少女動物園って感じですね!
油断すると茶化してるみたいになりますけど、ヘブバンの日常ギャグパートが本当に大好きで、特にサイキッカーがハイヤーセルフにつながろうするのををゲテモノ・グルメで邪魔する話なんて、断続的に「ヒーッ!」って引き笑いしながら、床をこぶしでドンドン叩くみたいにして面白がったくらいです。虚構の鉱脈がすべて掘りつくされたかに見えるこの令和の御世で、「声優による美少女スタンダップ・コメディ」ってメチャクチャ新しいし、オタク市場の需要あると思うんですよ! え、すでにバーチャル美少女ユーチューバーがそれに近いものを提供してますよ、だって? ちがうちがう、そういうシロウトの若さとナマっぽさがウリみたいのじゃなくて、プロのテキスト書きによる台本で、プロのベテラン声優がかけあい漫才するのを見たいの! 「パパ活の隆盛でキャバクラが衰退してる」みたいな話もタイムラインに流れてくるし、本当にだれもプロの技術にカネをはらわなくなりましたね……。カネっていうのは本来、言うことを聞かせる腕力の誇示じゃなくて、相手の経験に対する敬意の表明なんですよ……。
第4章1日目クリア後
ヘブバン第4章1日目を読了。えぇ……(ドン引き)。これまで積み上げた世界とキャラをグッチャグチャに壊して修復不能にしちゃったけど、不老フィギュア美少女のマインド・スプラッタって、この書き手の性癖か何かなの? 「おいしそうな懐石弁当!」と思ってハシをつけようとしたら、「ちょっと待って!」と料理人に手首をつかまれて、いぶかしむいとまもあらばこそ、オカズの仕切りを外してフタをしたかと思うと、目の前で猛烈にシェイクし始めたのを唖然として眺めている感じ。おまけにフタを開けてから真ッ赤なソースをドボドボかけられて、「よくかきまぜて食べてね!」とハシを取り上げられてスプーンを渡される始末で、しかも料理人は寸分の悪意もない満面の笑みなんですよ! ネットミームとしての「ぬすめ!たいやき君」と「クラナんとかは人生」は知ってるけど、まともに読むのは本作が初めてなので、もしかすると古い馴染みの客たちが「うーん、この味この味! 大将、変わらないねえ!」とか内輪ボメするのに囲まれた観光客みたいな存在になってしまっているのでしょうか。すいません、どうも私はこの店の客じゃなかったみたいで……失礼しました(暖簾をくぐって、FGO方面へと去る)。
第4章2日目クリア前
ヘブバン、第4章2日目を読もうとアプリを立ち上げては落とすのを繰り返してる。また愚痴りますけど、繊細なタッチで水彩画がキャンバスに描かれてゆくのを眺めていたら、おもむろに画家がドぎついピンクのペンキ缶にブ厚いハケをつっこんだかと思うと、後ろからはがいじめにするいとまもあらばこそ、その上からキャンバスをショッキングピンクに一色に塗りあげて、「バーカ、最初から抽象画じゃーい!」と叫んだみたいなもんですよ、これ。「女の股から産まれていない者」たち(ネタバレ)に家族や友情へまつわる泣きゲー的トークをさせてたって、これあれですか、最近タイムラインへ頻繁に流れてくる「気のくるったシングル40代」による「エス・エヌ・エスを用いた人生の偽装」をフィクション上で再現しようとしたってことでしょうか。まあ、「語りたい筋書きにキャラを強引に沿わせる書き手だなー」とは薄々ながら感じていましたけど、この展開を「衝撃の真実」として、読み手が肯定的に受け止めてくれると考えたのだとしたら、やはり正気から遠いとしか言いようがありません。
夏イベント感想
ヘブバン、ギャグパートがあまりに好きすぎるので、第4章2日目で足踏みしながら、ぐじぐじと未練たらしくログインボーナスだけは受け取っている。そうしたら先日、夏イベントが配信されたので、なんとなく読みはじめましたけれど、FGOと比べるとかなり見劣りがしますねえ。まず、イベントのタイトルがセンスゼロのダサさーー「夏だ!Aだ!Bだ!」の昭和構文ーーで、ロゴのデザインはアマチュアレベル、発出時にエフェクトもジングルもなく、開発の人材およびリソース不足を強く感じさせるものでした。超高校級のエースピッチャーとその恋女房だけで無理やり抑えにかかっていて、前々から指摘しているように、この体制では長くもちそうにありません。水着キャラは3体しか実装されず、シナリオもフルボイスで1時間もあれば読了できるひかえめなボリュームなのですが、トロピカルギャグだけで終わるのかと思いきや、予期しない方向へどんどん話が曲がっていったのには、正直まいりました。
このライターのインタビューを読みましたが、成功率のきわめて低い大きな手術を経験していて、「ここで生き残ったのは、貴方に何か使命が残されているからだ」と医者に言われたという内容でした。そのせいなのでしょうか、作品全体のシリアスな部分がリンボ的な死生観に彩られてしまっているのです。言葉にすれば、「親も子もない、過去も未来もない。でもいま、ここに私と貴方がいて、音楽がある」といった感じで、登場人物ひとりの人生観にとどまるなら、まったく結構なことなのですが、作品の持つ世界観の基調にこの通底音が大文字のイエスという言葉とともに流れ続けているのです。
話はそれますが、三体第2部を少しずつ読み進めており、いまちょうど作者のアバターである大学教授が、自分の脳内にいる理想の少女を現実で探しだして、史アニキに別荘へと連行させたあたりです。栗本薫が読んだら「キミは一人娘を拉致された両親(以下略)」と大激怒ーーいや、ノースコリアのそれに「劇的な人生でうらやましい」とのたまい、大炎上した女史なので、スルーしたかもーーしそうな、男性作家ならではの最高にキモチワルイ展開で、「ホウ、いまはなつかしいセカイ系ですか」などと渋川翁の顔で油断していたら突如、「親不孝の最大は、子をつくらないことだ」という孟子の言葉がズバッと引用され、不意打ちでガツンと後頭部を殴られました。ヘブバンに代表される「ロスジェネ末代の自分語り」である本邦のフィクションとは大きく異なった、複数の価値観が激突しながら並走ーーそして、いずれも脱線しないーーする大陸の強靭さを、まざまざと見せつけられた気分で、少し落ちこんだ次第です。まあ、孟子と同レベルの偉人としてヤン・ウェンリーの台詞が引用されるのに、またすぐのけぞるハメになるのですが……。
映画イベント感想
ヘブバンの新しいイベント読了。オートで放っておけばアニメのように順に再生されていき、1時間ほどで終わるのは、可処分時間をあらゆるエンタメがコンマ秒単位で争う現代社会において、すばらしい仕様ですね。ソウルハッカーズ2の魂の迷宮?がダダッぴろすぎる上に、「棒を振る」「NPCに話す」以外の行動が存在せず、「ゲームをしてるのにヒマ」な状態が続くため、このイベントには大いに助けられたことを付記しておきます。
やっぱり、サイキッカーの関西弁ツッコミ、大好きだなあ。ツッコミの本質って、「何かヘンに感じるところがあれば、どうしても口に出して言いたくなる」性向のことだと思うんですよ。京都の方々が口の端を歪めて冷笑し、東京の方々が知っていながら黙りこむ状況で、「言語化して、場を救う」優しさの積極的な表出がツッコミなのです。私がいまの時代には流行らない、批判的な視点たっぷりの虚構時評をやめられないでいるのも、自分が関西人だからなんだなあと、あらためて実感させられました。
でもね、毎回ラストは泣かせ展開にするの、もういいんじゃないでしょうか。ギャグパートが本当に生き生きと自然に描かれているのに、シリアスパートはすごく窮屈で感情も不自然に感じるのです。それに本編のせいで、「老化も成長もないアメーバ状の生き物に、家族や人生を語られてもな……」とどうしても思ってしまう。「失われる今」を失った物語のシリアスに価値を感じることは、もはや私にはできません(第4章は2日目で止まったままです)。時限イベントだからこそ可能な、「全編オールギャグ」に取り組んでいただくことを、切に願っております。
先輩イベント感想
雑文「ヘブバンとキートン、そして銀英伝(近況報告2022.10.2)」
剣士イベント感想
雑文「HEVBUNとFGO、そしてKANCOLLE+α(近況報告2022.12.3)」
Angel Beats!コラボ感想
月風魔伝アンダイイング・ムーン、ファミコン版から35年の歳月を経て、まさかの新作リリース! タイムラインに何の情報も流れてこないし、ググッてもまともな攻略サイトすら出てこない惨状に、かつてのファンがテキストによる援護射撃を行うものであるッ!
当時、ゲーセンで源平討魔伝の圧倒的なオリジナリティを体験した子どもたちが、なんとか家でそれをプレイしようと四苦八苦した結果、代用品として手に取ることになったのが、この月風魔伝である。Huカード版は秀逸な移植だったが、PCエンジンを所有している家庭は少なかったし、ファミコン版は付属のボードゲームを使うパチモンだったからだ。当時の常として、多くの子どもたちが「源平討魔伝のバッタモン」にガッカリさせられる未来が待ちかまえているはずだったのに、企画の段階ではコピーキャットにすぎなかったゲームが、大化けに化けたのである! 見かけは純和風ながら舞台は西暦一万四千年、敵の魑魅魍魎は地球外生命体など、おそらくナムコに訴えられないためのネジの外れたSF設定を背景に、2D見下ろしマップからの横スクロールに始まり、広大な3Dダンジョンまで登場したあげく、果ては主人公がフロムソフトウェアも真っ青の3WAYビームまでブッぱなす、期待値ゼロからの超大作に仕上がってしまったのだ! 「はどうけん」と聞けば、スト2ではなく即座に月風魔伝が思い浮かぶほどの重篤なファンであり、プレイするゲームが年間で1、2回ほどしか更新されない少年時代、いったいこのゲームを何周したかわからない。新作であるアンダイイング・ムーンの周回を前提としたゲームシステムは、この「1980年代のぼくらのリアル」から着想を得たものにちがいない(たぶん、ちがう)。
オリジナルは音楽がどれも印象的で、特にラスボス龍骨鬼のBGMは今でも脳内でフルコーラスを再生できるし、そのたびに感動で肌が泡立つほどだ。流麗なテキストでそれを再現するならば、「(突然立ち上がり、白痴の表情で)デデデデデデデデデデデデ、デッデデデデッデデデ、デデデデデデデデデデデデ、デッデデデデッデデデ、デ、デ、デ、デ、デデデデデデデデ、ラリラリラリラリラリラリラリラリラリララララ、ラリラリラリラリラリラリラリラリラリララララ、ラリラリラリラリラリラリラリラリラリララララ」となる。未プレイ者にもすばらしさの一端がたしかに伝わったことと思うが、和太鼓からエレキの速弾きのような曲調に切りかわるときの高揚感は、35年前にはじめて聞いた瞬間から少しも薄れることがない。
さて、新作のほうはどうかと言えば、ローグヴァニアをうたっているわりに移動スキルを習得せずマップの広がりが絶無だったり、死ぬとすべてがご破算になるシステムなのにキャラの強化要素が異様にしぶかったり、プレイヤーの反射神経が9割みたいな作りになってて、酔っぱらいのアクション下手にはかなり厳しいゲームに仕上がっていると言えましょう。今後のバージョンアップへ期待したいところですが、広報の姿勢にゼノブレイドクロスのような「売り逃げ感」がただよっているのと、メタルギアをゾンビゲーにするくらい自社IPの価値に無関心な会社が、初動でコケたゲームのテコ入れを赤字覚悟でしてくれるような気はしません。でも、最初のボスが龍骨鬼で、例の音楽がアレンジバージョンで流れたときにはテンションがぶち上がりました! たぶん、クリアしない(できない)と思いますが、ファミコン版の月風魔伝がオマケでついてくるので、個人的には120点です!(2作で200点満点なので、援護射撃になっていない)
月風魔伝アンダイイング・ムーン、シラフで周回すればするほど惜しいというか、残念なゲームであることがわかってきました。どのくらい残念かといえば、「ゾッとするような美貌の金髪碧眼白皙少女が、じつは日本生まれ日本育ちの純日本語話者で、しかも語彙が少ないために話す内容はすべてひらがなで聞こえる」ぐらい残念な感じです。「黙ってれば美人なんだけどなー、おまえ」って男友達に言われるような残念さで、かつてのファンとしては本当に残念です。
ローグライクというか風来のシレン系のゲームって、同じ素材を使いまわしながら周回のたびに新しい展開になるのが魅力じゃないですか。本作はといえば、武器とキャラを強化するのに、中年のアクション下手へ対してアホみたいな回数の周回を求めるくせに、毎回のゲーム展開がほぼ変わらないんです。マップもランダム生成と見せかけて数パターンしか存在せず、「少ない素材でいかに長時間あそばせるか」がゲームデザインの主眼に置かれていて、グラフィックとアクションを作りこんだ段階で力尽きた感がひしひしと伝わってきます。まさに「35年前に月風魔伝の熱烈なファンだった人物」にしか訴求しないゲームになってて、そんな層は就職アイスエイジでほとんど絶滅して生き残っていないし、ローグヴァニアをやりたい新規層がわざわざ本作をファースト・チョイスにする未来がまったく予想できません。
あと、本作の正式タイトルは「GetsuFumaDen: Undying Moon」なんですけど、「海外の熱烈なファンが二十年かけて一人で作ったインディーズ作品を、かつて月風魔伝のファンだった本社役員が見そめて、晴れて正式ナンバリングとして採用された」みたいな背景を想像して、また勝手に感動してたんです。調べていくとどうも日本国内の子会社での内製のようで、「忘れられたIPコンテンツがファンの愛によって現代によみがえる」という内容を制作秘話として優良誤認させるために英語のタイトルをつけたのではないかという疑惑が浮かび、どんどん残念な気持ちが加速していっています。ほんとおまえ、ルックスだけならアイドル級なのになー。
漫画「鬼滅の刃」感想
映画「鬼滅の刃・無限列車編」感想
雑文「鬼滅の刃・最終巻刊行に寄せて」
鬼滅の刃・遊郭編、最終回の報を聞き、ネトフリでまとめて見る。劇場版と見まがう作画のクオリティは見事の一言ですが、「自分の状態、仲間の状態、敵の状態、周囲の状況をすべて余すところなく台詞で説明する」という原作のアンバランスな部分が、アニメ化によって改めて浮き彫りとなっています。ある回の前半パートなんかは、キャラのバストアップが台詞のたびに上下に動くのが延々と続いて、「オイオイ、いい加減くっちゃべってないで戦えよ」と思わずツッコまされるぐらいでしたけど、原作の単行本を見かえすと、その場面を忠実にアニメ化してあるんですよね。「ラノベの主人公の決め台詞が長すぎて、声優に音読されると不自然さが際立つ件」と同じ根を持っていて、これはFGOのアニメ化にも同じことが言えるでしょう。
あらためてこの世界に戻ってみると、鬼殺隊の柱はどいつもこいつもサイコパスばかりだし、高速戦闘は酔っぱらってると何が起こっているのかわからないけど、最終話における鬼の回想には、やはり心の底から同情して泣いてしまうわけです。「鬼になった理由」が鬼滅という物語の本体であり、「同じ境遇に置かれたら、同じことをしただろう」と読み手に感じさせる点において、万引き家族やジョーカーや半地下の家族と同じ作りになっているのです。それは同時に恵まれている者たちへ、いまの自分があるのは「環境と幸運」がそろっていたからだと気づかせ、強い者・富める者の責務を突きつけてきます。以前にも書きましたが、氷河期世代のサバイバーが持つ醜さの本質とはまさにこの点で、死屍累々の同胞たちを暖かい場所から眺めながら、「自分はあそこにいなくてよかった」と胸をなでおろす、その無意識の仕草にこそあるのです。鬼滅の刃・遊郭編の最終話を見て、私が「四十代の自分語り」へ覚えた違和感の正体が、「先のわかった者が明日をも見えぬ者を視界から外して語る、その口調」だと気がつきました。これはSNS時代の常ですが、暖炉に背中をあぶらせながらワインを片手にロッキング・チェアーを揺らす者の傲慢な言葉だけがネットに浮遊し、寒空に裸足でかけだして雪の中から同胞を抱き上げるだれかの行為はどこにも記述されないのです。
だいぶ脱線しましたので鬼滅に話を戻しますと、テレビ版エヴァ(戻ってない!)の各話についている英語のサブタイトルが好きで、当時はさんざん考察とやらの対象になっていたと思うんですけど、いちばん印象に残っているのは第弐拾弐話の”Don’t be.”でしょうか。直訳すると「存在するな」となりますが、当時ネットだかどこかでこれを「あなたなんて生まれてこなければよかったのに」と意訳しているのを見かけて、ひどく感心したのを思い出します。遊郭編の最終話において、主人公がこの言葉を言わせないよう鬼の口をふさぐという行為は、彼の人物造形とピッタリ合致しており、短い台詞とあいまって余計に胸をうちます。回想のあと、鬼たちが光に背を向けて地獄の業火へと歩んでいくシーンで、あれだけ過剰な言葉の作劇だったのを兄に一言もしゃべらせず、妹を「抱えなおす」という芝居だけですべての心情を表現したのには、本当に感動しました。花の慶次で主人公が「自分のような者でもこれほど苦しいのに、馬や牛の苦しみはいかばかりのものか」と独白する場面が頭に浮かんだのですけど、やはり「重い、苦しい」を言わないのが私の中で美徳になっている側面はあると思います。たぶん時間が経過しすぎて、「重い、苦しい」がドラゴンボールの亀の甲羅みたいになってるんでしょうねー。
あと、次の劇場版はどの話になるかの予想ですが、ズバリ無限城での猗窩座との戦いでしょう。無限列車編「だけ」を見た多くの観客を再び劇場に呼び戻すことができる種明かし編であると同時に、テレビ版1話「だけ」を見た人でも、例の共闘は劇中の長い時間を感じさせて心をゆさぶられると思うんです。え、最終巻はどっちになりますかって? テレビ放映でしょうね。転生後の話は映画のおしりにつけると長い蛇足になっちゃうし、何より無惨様がブザマでカッコ悪くて、劇場の大画面で見ると、きっとみんなイライラしちゃうから……(目をそらす)。
1キャラ目
社畜ムーヴの週末を越えて、遅ればせながらエルデの地へと足を踏み入れる。人文学と神学の確かな知識に裏づけられた幻想世界が構築されていて、巷間にあふれかえるドラクエやエフエフをベースにした転生モノ「はい、ファンタジー(笑)」とはまったく異なった、圧倒的なオリジナリティを持つ本物の「ハイ・ファンタジー」であると言えましょう。
最初の手触りはなじみの定食屋が出す安定の「いつもの」で、自キャラの操作性とオープンフィールド部分はダークソウル、馬の操作感とストームヴィル城はデモンズソウル、各種の地下迷宮はブラッドボーンといったふうに、過去シリーズの集大成に仕上がっています。他にも記憶を刺激する要素が端々にあって、思い出せそうで思い出せずモヤモヤしてたんですけど、モーンの城をマルチプレイで攻略していってボスエリアに到達した瞬間、その正体がわかりました。このプレイフィール、キングズフィールド2ですわ。26年を隔てた思わぬ邂逅に、ボス打倒後の岸辺でメラナット島が見えないか水平線を眺めて、しばし感慨にひたりました。生きるって、悪くないですね。
生活をやったあとの余り時間をすべてエルデンリングに捧げている。いまは2個目の大ルーンを取得したあたりだが、いっこうに終わりが見えない。広大なオープンフィールドの探索パートに、「キングズソウル」の印象はますます強まっていく。1日に1、2時間程度のプレイではまったく進展がないため、社畜の悲しさ、仕方なく他人の成果a.k.a.攻略サイトに目を通すと、視界の端に現段階での最適解みたいな情報も入ってきてしまう。すると、途端にプレイ全体がそれに引っ張られていき、あれだけ自由だった世界と選択肢が狭まってしまったのを感じることになる。「ダークソウルの成長要素をそのままオープンワールドに持ってきたものだから、膨大な時間をかけた探索の成果物にブレワイのような喜びがない」などという感想を読んでしまうと、もうなんだかそういう気分にさせられてしまう。
心の中に抱く世界は自分だけのものなのに、いったん他人の印象が流入してくると、本来の純粋さと混ざりあい、やがて不可分となってしまう。映画やアニメなどの「短い」娯楽は、完全に周囲の情報を遮断して、自分だけの印象を構築することができ、完成したそれはめったなことでは小ゆるぎもしない。いっぽうで通してクリアしないと印象が確定しない「長い」ゲームに対する感想は、ときどきそれが自分の考えたものなのかどうか、わからなくなることがある。エルデンリング、インターネットの存在しなかったーー本当に、無かったんですよ!ーー少年時代に、自分とまったく同じ生活時間を持った同年代と、ああでもないこうでもないと雑談しながら、毎日すこしずつ進めていくのが、もっとも楽しい遊び方なのだろうなと無想する。
発売3日で70時間プレイするような大人がどんな大作ゲームもたちまち丸裸にし、そのプレイ時間の不均衡が99%のプレイヤーを、意志を持たない家畜にしてしまう。ロンダルキアの台地とそこへ至る洞窟が、エルデの地に負けないぐらい広大だった、あの時代のようにまたゲームを楽しむことができれば……おッ、中ボスのお出ましやないけ! まず霜踏みでのけぞらせて、夜と炎の構えからの、レーザービーム! 溶けよった、溶けよったで! これでどんな敵も瞬殺や! 高時給の身でチマチマ試行錯誤なんかしとられるかいな! インターネット、最高や!
時間のある週末などは、シアタールームに引きこもってエルデンリングをプレイしている。ラダーン・フェスティバルを終えて、各地の英雄墓にキャラクターではなくプレイヤーのステータスが「発狂」となったりしながらも、ついに王都へとたどりつく。雪魔女装備で馬を駆っていると、まさにロード・オブ・ザ・リングでガンダルフが平原を征くシーンそのものであり、思わず目頭が熱くなる。
しかしながら、あまりにもゲームの物量が膨大なため、細かいNPCイベントを自力の探索で進めるのは、フルタイムの勤め人のカジュアルプレイぐらいでは、ほぼ不可能に近い。一刻も早くラニたんやフィアたんのコスをしたいサラリーマン・ジェイケーである小生は、乱立するアフィリエイト攻略サイトを何の外聞をはばかることもなくガン見しつつ、フラグ立ての最短ルートをファストラベルでショートカット、ボス戦では写し身にタゲを取らせた背後から霜を踏みまくるのだった。探索の喜びと攻略の意志は露と消え、「霜踏みしか勝たん!」だったのが「霜踏みでしか勝てん……」と化す。そう、家畜の完成である。
エルデンリング、まだ一周もしていないのに最強武器と最強戦技と最強遺灰がナーフされ、我が愛キャラは露助紙幣もかくやという大暴落からのゴミ屑と化した。リアルタイムアタックが1時間を切ったみたいな情報も目に入ってくるし、社畜で家畜のオレは十年に一度のこの傑作をまったく創造的に楽しめてねえ! 昨日はあれだけ勝利に肉薄していた宿将ニアールだったのに、もうぜんぜん勝ち筋が見えねえ! シュクショーッ!(チクショー、のイントネーションで)
エルデンリング、1周目クリア。まだまだ探索の余地は残っていましたが、屍山血河をメインウエポンとした神秘ビルド、通称「ちいかわ」のナーフを恐れたゆえです。いま厨二界隈を席巻するこのビルド、左手の盾を印に持ちかえ、蠅たかりや発狂ビームでひるませたのち、敵のふところに跳びこんでスタミナが尽きるまで戦技ボタンを連打するだけの、反射神経の衰えた中年にとてもやさしいプレイングなのです。まあ、進むほどにジリ貧となり、ラストバトルはつよつよ白霊たちにタゲを預けて中距離からへっぴり腰の腐敗ガスを放つ(放屁)だけの存在に成り下がっていましたが……クリアできたので、オールオッケーです(ウインクしながらサムズアップ)! え、ティシーの遺灰が強いので使ってみてはどうですか、だって? バカモノ! 帰ってきた(仕事から)酔っぱらいに、アレクトーをサシで倒せるわけなかろうが! なに、盾の戦技をうまく使えば楽勝ですよ、だと? バカも休み休み言え! 陰キャのご本尊である俺様に、パリィ・ピーポーの真似事ができるはずなかろうが!
あと、奈良在住なのにこれまでナラティブって言葉がピンときてなかったんだけど、ニュースを見ながらエルデンリングの終盤をプレイしてて、「ナラティブによるレジティマシーの獲得」が神話なるものの正体なんだなー、としみじみ感じたわけです。じゃあ、プレイヤーを通じた究極の暴力装置である褪せ人が、この世界でどんなレジティマシーを持つのかって考えてたんだけど、主人公の正体はミケラが遺灰で召喚した写し身なんじゃないかって考察を見つけて、もうシアタールームは興奮の坩堝(騎士)と化したわけです。指摘が正しいかどうかはいったん置くとして、エルデの地に住まう者たちに対して、これ以上のナラティブがあるかよって、ひどく感心させられました。そう、フォースとナラティブをかねそなえた者が王となる。フォースを持たない者にフォースを与えることはできる。しかし、ナラティブを持たない者にナラティブを与えることはできない。これすなわち、言葉と物語のよみがえりであろう。それと、初回のエンディングが「星の世紀」でなかった者は、現世での信頼を得られないし、死衾の乙女には抱いてもらえないし、口からは糞喰いの臭いがするであろう。
2キャラ目
エルデンリング、2周目ではなく2キャラ目で最初からプレイしている。NPCイベントのフラグを潰さないように、純魔でじっくり各地を探索していくと、驚くほど多くのロケーションを見過ごし、サイドストーリーを取りこぼしていたことに気づく(ボック、パッチ、ハイータなんて存在すら知らなかった)。80時間ほどかけた1周目では、おそらく4割くらいのゲーム体験しかできていなかったのである。大型のボスも1周目の近接キャラでは、足元でワチャワチャ攻撃するばかりで全容があまりつかめていなかったのが、魔法で距離をとって戦ってみるとどういうデザインやアクションなのかがよくわかり、まるで別のゲームをプレイしているような感覚さえある。
そうこうするうちに、中盤の序盤(そういう規模のゲームなの!)で魔法の威力にわずかな不足を感じ始め、ほんの出来心で名刀月隠に手を出したら、もうダメでした。「技の出が速い」「リーチが長い」「強靭削りのひるみ」と三拍子そろった強武器であり、純魔の志はたちまち消滅して、重度の依存と耽溺へと陥ってしまいました。またもや先人の知恵をむさぼる家畜プレイに逆戻りし、鬱々とした気分になっていたところ、何も考えず召喚した白霊の名前がガッツで、おまけにグレートソードを装備していたのには、思わず口元がほころびました。ソウルシリーズからの伝統かもしれませんが、股間にシャブリリのブドウを2つつけただけのスッポンポンで、頭部に奇矯な被り物をしたテキトーなキャラ名の「変態仮面」が、もっとも確実にボスを倒してくれる味方なんですよねー。そんな中で、一生懸命カッコつけたロールプレイをする人物を発見して、嬉しくなってしまったというわけです。案の定、すぐに蒸発して元の世界へと帰られましたがね……。
純魔で始めたエルデンリングの2キャラ目、途中から名刀月隠に本体を乗っ取られて、ジョジョ第3部のスタンドの依り代みたいな意味不明の存在になってんだけど、いよいよ火の巨人を倒して黄金樹を燃やすとこまで来たの。その前に王都の取りこぼしが無いようにしようと隅々まで探索したあと、地下へ地下へと潜っていったのよ。途中、牢に閉じ込められて額をガンガン壁にうちつける糞喰いに出くわし、「エヴァ零号機みてえ」とゲラゲラ指さして笑いながら通り過ぎて、ついには王都が秘し隠す奈落の底へとたどりついたわけ。ドン突きに意味深な扉があるんだけど、何をどうやっても開かない。「おっかしーなー、どっかでフラグを立てそこねてんのかー?」っつって腕組みしながら来た道をもどるんだけど、いったいどこから湧いたのか、目ン玉くってゲロ吐いた巫女がヌッと部屋の隅に立ってて、あんまり怖くてリアルで「ギャーッ!」って声あげちゃった。
おそるおそる話しかけてみたら、「全裸で行け」みたいな気のくるったアドバイスをくれるわけ。さすがに聞き間違いかと思って、後頭部に右手を当ててヘラヘラ笑いながら、もういっぺん話しかけてみたら、やっぱり真顔で「スッポンポンで行け」みたいなこと言ってくるの。「おまえ、ウソだったらボコすかんな」とか毒づきながらマッパになったら、篝火で背中をあぶっていたメリーさん、激おこ。滅利滅利ゆいながら抗議してくんのをガン無視して扉を押したら、ギギギっつってなんか開いちゃったわけ。中から指3本の化け物ーー制作会社がこれを4本指にしなかったことに、心の底からホッと胸をなでおろしましたーーが出てきて、おもむろにギュッとされてボッと燃やされちゃうわけです。そしたら上半身の皮膚はケロイド状にただれて、なぜか両の瞳はイエロー・ピーポーみたいな色になってしまいました。
「え、これヤバいんじゃないの? もしかして取りかえしのつかないやつ?」とウィキを調べまくったら、「ミケラの針を使えば、元通りになるよ」って書いてある。「なんだよー、おどかすなよー」って笑いながら、吐瀉物まみれの巫女の顔面を炎のアイアンクローでグイグイしめあげたら、苦痛の下からあえぐように、女は細く声をしぼりだした。
「みんな叫んでいました、『決して生まれてきたくはなかった』と。彼らの王におなり下さい。すべてがひとつに焼け溶け、もうだれも生まれなくてすむように」
その瞬間、落雷のような天啓が頭上から全身を貫いた。壊れた世界に生まれた者が、壊れた世界を繰り返し修復しようと、それはすごろくのゴールからスタートへコマを戻すだけのことではないか。サイコロの振り手が変わろうとも、盤面は変わらないままだ。世界の観測に現有する人の意志が介在しないこと、少なくとも壊れた世界を認識する私たちの意識が消滅すること、そして「もうだれも生まれなくてすむ」ことが、混沌に与えられた唯一の正しい解答なのだ。「狂い」とは、すべての人々が共有する観念宇宙の埒外へと逃れ出ることに他ならない。ならば私は、狂うべきだ。
ーーその日、世界は狂いの炎のうちに焼け溶け、ひとりの少女が復讐者として受肉した。
3キャラ目
エルデンリング、さすがにもう1周する気力はないので、2キャラ目のセーブデータ退避と上書きですべてのエンディングを見て、実績をコンプリートしました。やれやれ、これでDLCまではプレイしなくてすむとコントローラーを置きかけたところへ、新たなパッチが導入され、特大剣のモーションへ大幅なテコ入れが行なわれたのです。「ちょっとだけ! 操作感をちょっと確かめるだけだから!」などと、だれにしているのかわからない言い訳をしながら3キャラ目を作成し、ゲール砦の戦車でちょろっとソウル稼ぎをしてグレートソードを両手でつかんだら、世界が変わりました。ダメージを受けた敵がひるみ、こちらの攻撃ターンが続く、これだけのことがなんて気持ちいいんでしょう! まるでふつうのアクションゲームをプレイしているみたいじゃないですか!
気がつけばゴドリックをボコボコにして、リエーニエで「盲目の指巫女をシャブリリ漬け戦略」に着手していたのです。指痕のブドウの味を覚えたら、褪せ人のなんて絶対に食べてくれませんからね! 「ほんと、オマエはうまそうに食うなあ!」なんてハイータをからかいながら2個目のブドウをしゃぶらせているところで、ハッと我に返りました。窓の外はすでにとっぷりと日が暮れており、貴重な休みがまた空費されてしまったことに気づいたからです。エルデンリング、ファミコン時代からずっとゲームを続けていますけど、何らかの点でゲーム体験の究極に到達している気がします。言語化しにくいですが、「膨大な物量からしか転換できない質」のようなものがあるのかもしれません。
新世紀エヴァンゲリオンが独裁者の手による陰惨かつ無意味な死をむかえてから、1年が経過しました。かつてのエヴァを愛したわれわれファンの悲しみは、いまだ癒えることを知りません。
「数学者の大きな功績は、20代の頃に作られる」という話を聞いたことがあり、フィールズ賞の受賞資格も40歳以下となっています。知力そのものは向上し続けると私は考えますが、これは思考を途切れさせず深め続けることができる気力の減退と大きく関わっているのでしょう。個人差こそあれ、人間は必ず衰える生き物です。考え続けることができなくなると、それへのいらだちから安易でわかりやすい結論へととびつくようになってしまうのかもしれません。
シンエヴァは「旧劇の展開をなぞり、今度は全員を救済する」という安易でわかりやすい構図になっていて、四半世紀を生きながらえたキャラと物語が自律的にたどりついた場所ではなく、クリエイターの衰えによって思考停止の果てに選ばれた結論であることが痛いほどに伝わってきました。だれにも頼らず、自分だけで結論を出さなければならないのは、さぞかし苦しかったことでしょう。けれど批判者を遠ざけて、だれにも頼らない孤立を選んだのはご自身ですし、作品で正しさを証明することができなかったばかりか、エヴァという万民の公共物をだれにも触れない場所へ未来永劫、閉じこめる結果になってしまったことに、どう説明をつける気ですか!
「独裁者の晩年」というのは、非常に興味深いテーマと言えます。若いうちはひとりでする決断すべて図に当たったスーパースターが、己の能力の衰えを自覚しないまま、若い頃と同じやり方でふるまってしまうことで、大きな過ちを引き起こすようになるのだと思います。「老いては子に従え」ではないですが、「周囲の意見を聞いて、大事な決断をあずける」ことが必要になる人生の季節は遅かれ早かれ、だれにでも、どんなスーパースターにでも、必ずやってきます。東日本大震災の被災者とエヴァンゲリオンに対する明白な冒涜であるエヴァQへの反省を、作品内外にわずかも示さないことがシンエヴァを決して認めない理由のひとつであることは、以前にもお話しました。
あの大失敗作のあと、シン・ゴジラが過去の焼き直し的な手法で大成功してしまったことは、独裁者にしのびよる衰えを周囲に対して、そして何より自分自身に対して覆い隠してしまった。そして、苦手分野の裁量と決定を人にあずけず、「オレはまだまだイケる!」と独断専行した結果、シンエヴァなる認知症的大凡作を産み落としてしまうこととなったのです。某国の大独裁者による半島での成功と小国での失敗が決断のトレードオフになっているように、本邦の小独裁者によるシン・ゴジラの成功とシン・エヴァンゲリオンでの失敗もまた、決断のトレードオフになっているのです。どちらも「政策で自分を語ること」と「作品で自分を語ること」を、そろそろやめなければならない人生の季節にさしかかっているのかもしれません。
……などと努めて穏やかな語り口でテキストを入力していたところ、「エヴァ防災アプリ」なるニュースが目に入ってしまう。とたん、1年前に劇場でシンエヴァを見終わったときと同じ、冷え冷えとした怒りが心を満たす。東日本大震災の被災者だというアプリ制作者に対してではなく、この企画に許諾を出すとき、このニュースリリースをマスコミ各社へ流すときに監督兼社長の胸に去来したものを、まざまざと想像してしまったからである。たぶん、こう思ったのだろうーー「この人物の挿話は、イメージ戦略に使えるな」、と。
実体を伴った証拠が新たに提出されたことで、新劇場版15年の軌跡が以下の通り確定しました。
エヴァ序「新スタジオの実績作りと資金集めを目的とした著名なIPの再始動。海外発注で失敗したテレビ版6話のリベンジ」
エヴァ破「序の成功に意気を得た、テレビ版後半を語り直すためのスプリングボード。旧劇モチーフの意図的な前倒し導入」
エヴァQ「宮崎翁のそそのかしに屈した、東日本大震災と作品世界との強引なリンク。独断的路線変更による友人との訣別」
シンエヴァ「実写の成功に伴う、失敗の認知症的忘却。戦争経験者への隠しえぬ羨望と、晩年を迎えたDINKs夫による懺悔録」
まさに、サイエンス・フィクションとは何の関係もない、特定の人物のバイオグラフィーになっていますね。私が新劇に感じている断絶の中身を、ご理解いただけたことと思います。シン・ウルトラマンかシン・仮面ライダーが世界情勢に影響を受けた独断的路線変更でグチャグチャの私小説へと変じ、シン・ユニバース(バズらなかった)とやらが特撮オタクの情動失禁を揶揄するフレーズになる未来を、心から願っております。
取り巻きの女性たちはニュース映像を前に、「あなたは映画監督でしょ? だったら、この惨劇に作品で応える義務があります!」って、ちゃんと詰め寄ってくださいね! そうでもしてくれないとエヴァンゲリオンが、戦争未経験者によって壊されたエヴァンゲリオンだけが、あまりにもかわいそうじゃないですか!
夢の微睡みから、覚醒へと意識が帰ってくる。
眼前へ、赤々と燃える祝福の篝火に焦点が合うと、こう思った。
ーーああ、また戻って来てしまった。
幾度、敗走を重ねただろう。
だが、今や確信があった。
宿将・煮痾々瘤(にあある)ーー
次こそは、その首級を上げるだろうという確信。
一つ目の階段を駆け上がり、左へ。
囚人の絶叫に呼応して、幻影の騎士たちが召喚される。
それらが現界する前に、二つ目の階段を走り抜けて、広場へ。
三つ目の階段から黄金の霧を抜けると、背後の気配は消え去った。
眼前に待ち構えるのは、宿将とその従者たち。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。
九字を切り、分身の術で我が身を二つに分つ。
熟練の技によるそれは写し身と呼ばれ、殆ど術者当人と変わらぬ技量を持つ。
何故か、今日に限って動きが鈍い。
常ならば、見逃さなかった違和感だろう。
しかし、久方ぶりの死闘に身を浸せる喜びと、己が奥義への強い信頼が、それを打ち消した。
霜踏みーー
穢流伝(えるでん)流、秘奥義の名前である。
鍛え抜かれた右足の踏み込みから、扇状に絶対零度の霜花が咲く。
その速度と範囲には、ばっくすてっぽ、さいどすてっぽ、いずれも間に合わない。
があどを、固めるしかないのだ。
白い花に触れた瞬間は、殆ど何も感じない。
易しと侮り、距離を詰めようと、があどを解く。
すると蛟の如く、全身を霜が咬むのである。
絶命しなかった者には、霜の第二波が続け様に襲い来る。
それを逃れても、霜の第三波。
死の波状攻撃。
そう、必殺の戦技だ。
褪せ人は大きく右へと迂回しながら、宿将が引き連れる従者たちを巧みに誘い出す。
二人の動線が、縦に重なったところをーー
霜踏み。
霜踏み。
霜踏み。
それで、終わるはずだった。
だが、霜に全身を咬まれたはずの従者たちは、微かによろめいただけで、距離を詰めてくる。
何が、起こっている。
何かが、あったのだ。
そう言えば、すちいむの起動時間が、妙に長かった。
まさか、あっぷでえと?
しかし、褪せ人の思考は速い。
秘奥義なあふと見るや、たちまち戦術を切り替えた。
こんま一秒を待たず宿将へと標的を変え、写し身と挟撃になる位置へろうりんぐする。
一回転。
二回転。
三回転。
写し身の緩慢な一撃は、掠り傷すら負わせない。
だが、宿将のたあげっとが移り、背中を見せる。
褪せ人は、ばねの如く跳ね起きると、上段の構えから大地と水平に太刀を寝かせた。
これぞ穢流伝流、秘中の秘。
夜と炎の構え。
しゅう。
裂帛の呼気と共に突き出された太刀は、極太の青いれえざあびいむを纏う。
確死の槍が、宿将の背中から鳩尾へと、突き抜けた。
原型を、失ったか。
それとも、蒸発したか。
知らず、唇に昏い微笑が張り付く。
勝利を確信した褪せ人の視界に映ったのはーー
無傷の、背中だった。
今度は、褪せ人が宿将と従者たちに、挟撃される番だった。
疑念。
混乱。
惑乱。
主人の危機にさえ、写し身の動きは鈍い。
けええっ。
霜を踏もうとしてーー
斬られる。
かああっ。
れえざあびいむを放とうとしてーー
斬られる。
なぜなぜなぜなぜ。
どうしてどうして。
堪らず、ろうりんぐで逃れようとした先に、謀ったように宿将の槍が、突き出される。
深々と胸板を貫かれ、褪せ人は絶命した。
その遺骸が、黄金の霧となって消滅してゆくのを、写し身は、白痴の眼差しで見つめていた。
YOU DIED
「悲しみ、おぉ悲しみ」
戦技「霜踏み」の威力とモーション性能を下方修正
戦技「夜と炎の剣」の威力を下方修正
アイテム「写し身の雫の遺灰」で召喚する霊体の攻撃力を下方修正、行動パターンを調整
『俺はいま47歳だ。仮に60歳まで生きるとして、あと13年ある。あまりに長い。どう生きればいいのだ』
ドライブ・マイ・カー、見る。最高に正しい、村上春樹作品の映画化。すなわち、アジア人たちに彼らが持つはずのない西洋人格をかぶせた、西洋トラウマ劇の上演会である。かつて、「自暴自棄になった村上春樹」の異名を頂戴したことのある私だから、はっきりわかんだね。撮影手法はリアル指向なのに、人物造形は徹頭徹尾フィクショナルであり、3時間もの全長に対して物語が動くのは、終盤の30分のみ。冒頭30分はエロゲーみたいにウソくさい妻のキャラ設定を聞かされ、ようやくタイトルが出たと思いきや、そこからの2時間はドキュメンタリー調の長回しが淡々と続く。そして最後の30分は泣きゲーばりの虚構然とした伏線回収パートで、まさに戯曲そのもののわざとらしいチェーンリアクションが次々と展開していく。
ダニエル・キイスを思わせる「虐待母の別人格」の話が出た瞬間は、「それ、いる?」と思わず強めにつぶやいてしまいました。京職人の和菓子に「甘さが足らんかも?」と食べる前からハチミツをかけるようなもので、「これが村上春樹なんだよ!」と言われれば、曖昧に笑って目をそらすしかありません。押井守ばりの車中劇で展開するネトリ・ネトラレ・ダイアローグには、夫の緑内障と対応する空き巣の左目にペンを突きたてたりとか、「不倫をする妻の懺悔録として聞いてね!」という圧が強すぎて、「本当に村上春樹って、ストーリーテラーというよりは文体作家なんだよな……」と思いました。「『観客は制作者が思うより、ずっと賢い』という言葉に殉じて、観客を信頼した演出をつけている」みたいな評を見ましたけど、作り手の誘導する解釈のフレームが強固すぎて、私は終始バカにされているように感じました。
全篇にわたって昭和の価値観が横溢しており、マイカーとセックスへ向けた不可思議な執着や、なぜか演劇が世界を革命するという考え方(この化学反応を劇場で観客と起こすんだ!)や、生理周期に由来する女性のジャッジの揺れを神格化して巫女と奉るとか……最後のは、女性と接点が少ない男性全般かな。全共闘の闘士たちが大手企業と国家公務員の採用で厳格な人定作業を受けた結果、高学歴なのにどこにも採用されず、消去法として漂着したサブカル(アニメ業界とか)やらノースコリアやらを己の人生を否定しないためだけに正しい道行きだったとすりかえて受容したことが、本作のエンディング付近に吐きたての吐瀉物からもうもうと立ちのぼる湯気として表れています。ラストシーンが半島へと移ったのには、「地上の楽園へと向かう万景峰号」の思想がある種の臭みとしてありありと画面から漂ってきて、思わず鼻の前を手のひらではらいました。まさに内田某や平田某や、それに連なる全共闘の有象無象が激賞しそうな中身に仕上がっています。
ゴドーやゴーリキーにだまくらかされたフランスの批評家や、広島から北海道への日本縦断をロードムービーと勘違いしたアメリカの批評家はまあいい(よくない)として、それ以外の人物が賞レースにめくらましをくらって、これをほめちゃダメでしょ。本作を評価しているのは、おそらく現世での権威となった70代・80代の人物たちであり、その「人生終盤の懐古趣味」を我々が鵜呑みにするのは、人類の知性が総体として前進する事実へ向けた冒涜であると同時に、ほんの半世紀ほどしか保たなかった「間違った」価値観が、後の世代へと受け継がれてしまうことの無責任な看過でありましょう。我々はこれへ、厳に抗うべきなのです。村上春樹がノーベル文学賞を与えられない理由が、表層では土着の物語と見せかけながらその実、キリスト教由来の西洋人格をアジア出身の登場人物にインストールした小説だからであることを喝破した慧眼の諸君は、それぞれの立場からいかに本作が視聴する意味の希薄な「昭和歌謡大全」なのか、自信を持って堂々と表明してほしい。