猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

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アニメ「NOMAD メガロボクス2」感想

 NOMAD メガロボクス2、見る。「あしたのジョー50周年企画」として再アニメ化が模索されたものの、「あおい輝彦と出崎統ぬきでジョーをやるなんて、キリストとヨハネぬきで聖書を書くみたいなもんだな」と冷静になり、舞台を近未来に移して登場人物も翻案したのが前作でした。ほぼ初代劇場版に沿った内容で進み、「力石徹に当たるキャラが死なない」という変更に作品テーマを重ねて、きれいに終わっていたように思います。これまで言及しなかったのは、「白都のお嬢様、原作と違って、クールというよりコールド」「サチヨって名前、少年のナリだけど、成長したら美少女の伏線だろうな」ぐらいの感想しか抱かなかったからです(ただ、ギアの設定は最後まで意味不明でしたが……)。

 本作はその続編であり、劇場版第二作をなぞって力石徹の死からホセ・メンドーサ戦までのアレンジが描かれるのかと思いきや、ストーリーラインをまったくのオリジナルへと変更してきました。南米要素はそれこそ音楽ぐらいのもので、原作の後半パートを換骨奪胎し、作品テーマだけを取り出して新たな物語へと移植しているのです。「放浪者が家族を見つけ、安息の地に定住する」「未来のため、燃えつきるまで戦わない」がそれで、原作ジョーがたどりつく孤独と破滅の逆を描くことが強く意識されています。近年では非常にめずらしくなった、ガチガチにテーマ・オリエンティッドな作品であり、「間に合わないタオルと間に合うタオル」とか「放浪をやめた者から始める者へ引き継がれるバイク」とか、徹頭徹尾、主題が先行して描かれます。キャラクターはそれを表現すべく配置されており、長く鬱々としたビルドアップもいとわず、丁寧に丁寧に人物の背景と舞台を描いていく。かつてのセル画を思わせるアナログな描写も、他のアニメにはない独特な雰囲気を作り出すことに成功しています。

 ただひとつ問題なのは、そこまでやってるのにぜんぜんおもしろくないことです。フィクションの魅力って、現実の地続きからはじまって、読者が気づかないうちにウソで離陸して、気づけばはるか上空を飛翔していることだと思うんですよ。メガロボクス2は、「現実を徒歩でかちゆき、ペースをあげないまま、同じ現実にたどりつく」話なんです。作り手の押し出したいテーマを語ることが最優先で、物語的なカタルシスはまったく与えられない。近年、ドラゴンクエストやらアンジェリークやら既存の虚構にビルドアップ部分をすべて依存して、カタルシスだけを描き続ける作品群が幅をきかせているのを苦々しく思っていましたが、メガロボクス2を最後まで我慢して見て、テーマ先行型のフィクションが廃れてしまった理由がよくわかりました。

 だって、つまんないんだもん! 余力を残してるのにタオルでTKO負けするジョーなんて、だれが見たいんだよ! ヨーコとのロマンスを全面的にオミットしてどうすんだよ! リングで死ぬ覚悟を決めたのに、思わぬ告白をされて生きることへ未練が出て、世界戦の舞台でアパシー状態に陥るジョーとか最高に泣けるだろ! 「恋人を殴り殺された財閥令嬢が、なぜかオレのことを好きになってしまった件」だろ! 「鑑別所あがりのオレを追い回していた警官たちが、なぜかオレのために君が代を演奏している件」やろがい! そのくせ、サソリやらハチドリやら、ヤクザが作品の主題とおぼしきポエムや絵本を延々と朗読したり、作り手の自意識がダダ漏れになってんだよ! 話さえおもしろきゃ、テーマなんてどうだっていいんだよ!

 面白くするためにわざと言い過ぎましたが、良い作品の条件とは「テーマの面白さとキャラクターの魅力が合致していること」だと、本作を通じて、あらためて確認できました。けれど、サチヨが男の子だったことだけは、本当にゆるせないです。え、サチオって言ってる? マジで? (ヘッドホンで確認して)ホンマや……クルーエリティ・オブ・エイジング!

雑文「近況報告(D2R&FGO)」

 近況報告。ディアブロ2に本腰を入れだすと、他の虚構に触れる機会がほぼゼロになる。特に低レジストのマジック・ファインド装備でヘル難度を「面のトレハン」するときなど、他のメディアはすべて遮断せねばならず、一種の過集中みたいな状態に陥ってしまう。90%の時間は無為に過ぎるのに、ユニークやハイルーンがドロップした瞬間の多幸感から、ズルズルと止めどきを失って、気づけば数時間が経過しているというありさまである。「ディアブロ2の面白さの本質は、パチンコと同じ」という指摘を否定する言葉を、いまの私は持っていない。そして、メフィストの対岸焼きなど「点のトレハン」を行うときは、同じルートをテレポートするだけなので、他のメディアを「ながら見」する余裕ができる。そこで、FGOの新イベントが来たこともあり、長らく終盤で放置していた絶対魔獣戦線バビロニアを最後まで視聴したのです。

 テキスト上ではあれだけ壮大で感動的だった物語が、アニメだとどうしてこんなにもイマイチな感じになってしまうんでしょうか。メフィストが生きながらにして焼かれるうめき声を聴きながら、つらつらとその理由を考えていくうち、ファンガスの書く物語の魅力は、テキストとして視界に入った瞬間に最大化される性質のものではないかと思い至りました。例えば、山の翁が登場する際の口上って、文章で読むと痺れるようなクライマックスなのに、音声で聞かされると脳内で漢字が変換できず、まったく内容が頭に入ってこないんです。かつて、「祇園精舎の鐘の声」か「春はあけぼの」くらい陰キャの中高生男子に暗唱されただろう「体はホニャララでできている」から始まる例の文章も、じっくり読んでみると英語もヘンだし、ほとんど意味不明なんですよ。そして、それが声優のイケボで読みあげられるのを聞くと、なんだかモゾモゾと恥ずかしくなってくる。特に最後の部分、技名を英語で叫ぶところなんて、羞恥のあまりきつく目をつぶって固まってしまいますからね。けれど、テキストの字面だけ追えば、不思議とカッコいいんです。ファンガスのテキストって、「ある程度の速度で読みとばすことを前提とした、絵画的な文章」なのではないでしょうか。FGOでもときどき感じますが、視界に入った2行の文字バランスが最高に美しい瞬間がある。月姫のインタビューでも、「同人版は既存のフォントしか使えなかったので、あらためて読み返すのが辛かった」とか言ってましたし、彼が持つ天賦の才はノベルゲーに特化した「テキストの外観を装飾する異能」のような気がしてきました。「死生観が逆転する」なんてフレーズ、目に飛びこんだ瞬間こそ「かっけえ!」ですが、3秒後には腕組みをして「んー?」と首をかしげてますからね! ですので、FGOのアニメ化に必要なのは優秀な脚本家ではなく、彼のテキストからカッコよさだけを抽出して朗読可能な日本語へと変換する、翻案家みたいな存在だったのかもしれません。

 え、ハロウィンイベントは楽しんでますかって? 冒頭パートだけで「些かの人」が書きとばした文章だとわかりましたので、今回は薄目でナナメ読みにして、素材ひろいに専念したいと思います。ファンガスならギャグの方がむしろ文章が精緻になるんですが、「些かの人」はネットスラングっぽい口語をユーモアと勘違いした軟便たれ流し(源泉かけ流し、のイントネーションで)なので、読んでてつらくなってきます。けれど、その低品質なテキストに比して、「フォーリナー専属の人」による新キャラのガワは、とてもとてもいいですね。怖いほどに写実的なPDFの骨格へ、妄想の欲望のみで肉づけをしていき、現実の女性にはありえないフォルムを作り上げる。この肢体が持つ魅力は、3次元の肉どもがどれだけあがいても届かない、まさに2次元の幻想だけが到達できる至高の領域(キメツの影響)と言えましょう。

 さて、最後にディアブロ2へと話を戻します。このゲームをプレイしていて気づいたのは、表現することに対する私の内発性が、もはや完全に枯渇したのだなという事実です。旺盛に行われているように見える批評めいた言説さえ、どれも「外部刺激に対する反射」に過ぎません。シンエヴァ以降、毒のあるテキストを多方面へまきちらしてきましたが、それは同作への巨大な不満がビッグバンの如く炸裂した余波、すなわち初期宇宙の膨張のようなものでしかなかったということでしょう。いま、その速度が緩やかになり、宇宙から熱が引いていくのを感じています。小鳥猊下のインターネットへの登場は、これまでよりも間遠なものになっていくのかもしれません。もっとも、まだ見ぬ萌え画像が寄贈されるようなことがあれば、この宇宙の膨張は再び加速していくだろうことをお約束します!

ゲーム「FGOハロウィンイベント感想」

 承前

 ハロウィンイベントをイヤイヤ読んでる。FGOの主人公って、数年にわたる冒険を経て、奇しくもビルグンドゥス・ロマン的というか、古典文学が人々の「生き方」や「在り方」を教化するために描いたような人物造形になってきてると思うんですよね。

 少し話はそれるけど、鬼滅の刃に出てくる善玉サイドの人物たちもまさにそれで、あちらは特にロスジェネ以降の大人たちが抱える欠落に焦点を当てているようにも読める。「富める者は貧しき者に分け与え、力ある者は力なき者を助けなくてはならない」という倫理感の裏返しが鬼舞辻無惨という悪玉であり、わずかの富を我利我利に抱えこみ、社会に裏切られた己の不遇だけを嘆くロスジェネ世代の醜さを痛烈なまでに戯画化している。それは同時に、人としての生き方の「良い見本」と「悪い見本」の提示になっていて、正しいふるまいへの憧れによる共鳴と我が身をふりかえって恥入る気持ちが、既存のヒットの閾値を超えさせた要因だと考えるのです。ある大御所の漫画家がアクションシーンの拙さを理由に、「ここまでの大ヒットになったのはアニメ化による偶然だ」と愚痴めいた批判をしてましたけど、本質がわかってないなあと思いました。

 話をハロウィンイベントへ戻します。FGOの世界観にはかすかに女神転生からの影響を感じるのですが、キリストの人がロウ・ルートなら、主人公はニュートラル・ルートを描いていると思うんですよね(ちなみにカオス・ルートはオベロン)。そして物語が進むにつれて、「ファンガスが正しいと信じる人間像」へと共感させることによる教化がますます深まっていき、読み手・イコール・プレイヤーを事件の当事者として否応に巻き込んでいく(第2部6章ではその没入を分離するような伏線があり、これがどう回収されるのか、今から楽しみでなりません)。なのに、今回のイベントの書き手はそれを理解しないまま、ベタベタ主人公に触ってくるのが不快でしょうがない。意に染まぬ相手から逃れられぬ閉鎖空間で、合意を求めず始められるペッティングみたいなもので、直近の展開にはほとんど絶叫しかかりました。「些かの人」はもっとファンガスのテキストを読みこむべき(特に第2部6章)だし、もっと漢字をひらがなに開くべきだと思います。まあ、何度も言ってきたように、いちばん求めてるのはFGOに「関わらない」ことなんですけどね!

 ハロウィンイベント読了。低品質なばかりか、支離滅裂のグチャグチャで、登場したキャラクターすべての価値を下げる同人誌未満の内容でした。ジャック・ド・モレーにしても、後のメインシナリオ登場に先駆けた顔見せなんでしょうけど、うんこ(失礼)をなすくったみたいなファーストインプレッションになってしまい、たいへん残念に思いました。アガルタとセイレムのテキストは、間違いなくFGOの抱えるセキュリティホールですが、ファンガスの監修なしに肛門(失礼)を通過させるぐらいなら、むしろ惰性の季節イベントなんて開催しなくていいくらいでしょう。

 あと、自分のツイートを読み返して思ったんですけど、「女神転生」ってタイトル、例のしょうもない作品群の隆盛のおかげで意味を汚染されてしまった感じ、ありますねー。

映画「閃光のハサウェイ」感想

 紆余曲折の果て、ネトフリで閃光のハサウェイ、ようやく見る。予備知識は絶無でしたが、端的に言って面白かった! 立体(プラモ)が欲しくなる気持ちも、少しだけわかりました。そして私にとって、はじめて「内容が理解できる」ガンダムが登場したのは、たいへんにめでたいことです。この作品は「長いテレビアニメ」ではなく、実写映画の文法と尺と撮影で作ってあり、「禿頭の御大による節回し」が脱臭されていたことが、大きかったのかもしれません。もっとも、原作そのままと思われる人物のかけあいが、ときどき「普通の映画」の見かけを突き破って出てくる瞬間があるのは、さすがの作家性だと感心しました。

 ハサウェイがテロ組織を率いる動機は最後までよくわかりませんでしたが、ギギ・アンダルシアは最高にエロ可愛いかったです。周囲への忖度がいっさい存在しないため、状況に応じてクルクル回転し続ける感情の奔放さは阪神間の金持ちのお嬢さんって感じで、「ああ、こういう女の人いるよなー」と思わされてしまいました(非現実的な女性描写で鳴らす、あのガンダムなのに!)。戦火を逃れた後、彼女が感情の放出に疲れて弛緩したアクビをする演出は、すごくリアルで印象的でした。同じ場面で、ハサウェイが渡されたマグをさりげなく、唇の触れていないほうへ回しながら受け取るのも、童貞くさくて良かったです。

 せやけどな、ハサウェイはん、ギギとだけは絶対に結婚したらあきまへんで! あっても一夜かぎりのアバンチュール(死語)にとどめとくんが正解や! あの類のお嬢さんは年をとるにつれて、どんどん性格の歪みがエゲツのうなっていきますさかいな! いずれ、まちがいなく「春にして君を離れ」みたいになりまっせ! 繰り返し言うとくけど、結婚相手を選ぶのにいっちゃん大事なんは、「感情が安定していること」やで!

 あと、なんかこの映画、話がまだ終わってなくない? え、これ三部作の一作目なの? またもや、優良誤認ならぬ単品誤認じゃないですかァーーッ! でも、次回はたぶん劇場へ見に行くゥーーッ!

漫画「むこうぶち(20巻まで)」感想

 無限焚書のセールで購入していた「御無礼」の漫画をボツボツ読んでる。あまりの面白さに何度か電車を乗り過ごしたため、最近では業務に影響の出ない仕事帰りに読んでる。これだけ面白いのに、麻雀を知らないと本当の意味では楽しめないのが、なんとも歯がゆい。麻雀漫画の名作って、エロゲーのそれと同じ宿命を持ってると思うんですよね。口コミでの広がりを期待しにくく、一般の客へ向けた伝播もある程度までで天井がついてしまう感じ。本当に熱狂的なファンだけが声高に宣伝していて、「すごく好き」くらいまでの客は反社や変態と思われたくないので、おとなしく黙ってる感じ。まあ、小鳥猊下が置かれてる状況もまさにこれなんですけどね! 本シリーズの感想をいろいろ眺めていると、「主人公の正体は、いつ明かされるのか?」みたいなのがあって、そのモンモウ教徒ぶりに心底ビックリして、腰が抜けました。あのね、この主人公は物語を動かすための無人格的な装置であって、だからこそ彼に翻弄される人々のドラマが際立つんじゃないですか。もっとも、借金などの窮状に陥った人物の独白から、主観カメラで雀卓に座る黒服の彼が映される展開は、繰り返されるうちにほとんどギャグの領域ーー脳内に響く「デデーン、アウトー」の音声ーーに突入していくのですが!

 他の麻雀漫画で言えば、不朽の名作であるノーマーク爆牌党も、物語後半の闘牌において「爆岡が何を考えているのか」を明かさなかったからこそ、そのミステリアスな戦術をめぐって高いドラマ性を保つことができたのです。「何を考えているかわからない主人公」つながりで、ザ・ワールド・イズ・マインのことをいま思い出しました。総体としては空前絶後の傑作だという前提で話を聞いてほしいのですが、最終回付近でモンの生育史を詳細に語ったあげく、ジョン・レノンを模した「虐げられる側」のアイコンにしてしまったのは、ストーリーを終わらせるためとは言いながら、まずい展開だったと感じています。一貫して「物語を駆動する、正体不明の無人格な何か」であり続けたモンの正体が、「幼少期のトラウマから殺人とアオカンへの指向を植えつけられた、傷ついた子ども」だったというのは、ありきたりでドッちらけな種明かしでした。もちろん、それを含んでさえ、人類を絶滅させることで作中に繰り広げられた数々の殺人を相対的に無化するという結末は、人が持つ宿業の解決として未だに圧倒的なことは認めざるをえません。

 最後に話を「御無礼」へと戻します。まだ20巻ぐらいまでしか読めてないのですが、長期連載の果てにネタ切れして、主人公の過去編へと手を出すようになる前に終わっていることを心から願っています。

 漫画「むこうぶち(56巻まで)」感想

ゲーム「真・女神転生5」感想(完全版)

序盤の感想

 真・女神転生5をサクッとディー・エルし、序盤をプレイ。(スッと挙手して)わたくし、このシリーズにはあまりくわしくないのですが、感想よろしいでしょうか。端的に言えば、はじめての「オープンワールド・女神転生」。プレイフィールとしては、ゼノブレイドクロスのフィールドでポケモンソードのワイルドエリアをやってる感じ。正直なところ、最初の2時間の印象は最悪で、プレイを止めてしまう可能性もあったと思います。ひさしぶりの据え置き機によるリリースということで、ナラフォルニアの邸宅に備えられたシアターでプレイを開始したのですが、ジャギジャギの画質は大画面への引き伸ばしに耐えず、音質も高級アンプを通してさえくぐもって聞こえ、おまけにサラウンド対応していない。主人公のモデリングはほとんどプレステ2時代のそれだし、さらには両腕を広げてアラレちゃん走りするし、イケボで「キーン」とか言ってそう(ゲームの評価と関係ない)。加えて、背後から追いかけるカメラの位置と動きも悪くて、画面全体をやや把握しづらい。3Ⅾマップそのものも、次の瞬間ポリゴンの隙間にハマって異次元に永久落下しそうなドキドキ感を提供する、なつかしくも疎で粗な仕上がりになってます。

 本作を大画面で体験する意味はきわめて薄いことがわかったので、自室のモニターにスitchyをつなぎなおして、先週ゲットしたZODルーンでヌーブをシャークしてやろうとPCでDiablo2のトレードチャンネルを開いて、ブツクサ言いながらプレイを続けたんです。それがですね、東京タワーを過ぎたあたりからやれることが増えてきて、俄然おもしろくなってくんの。まあ、プレスターンと悪魔合体のシステムは3の段階で完成しているんだから、新しい要素が邪魔さえしなければ、おもしろいに決まってます。ただ、フィールドについてはオープンワールド初期の本当に古いタイプの作りになっていて、ウィッチャー3などを経過して目の肥えたファンにとっては、やはり物足りない造形でしょう。極端な高低差で行動を制限するマップを最初にドンと作って、後からスカスカのエリアを埋めるために闇鍋式でバラバラの要素を放りこんだ感じと言えば伝わるでしょうか。ベセスダあたりがウレションしそうな文明崩壊後のトーキョーという最高のネタを仕入れておきながら、「大トロをじっくりコトコト煮込んで、砂糖と醤油で甘辛く仕上げてから、キッチンシンクへ鍋の中身をぶちまける」みたいになってます(わかりにくい例え)。

 そして、本作に登場する悪魔は過去作のデザインをすべて3Ⅾで作り直しており、その労力には頭が下がるのですが、個々のクオリティにかなりの差を感じました。例えば、ネコ好きを憤死させかねないケットシーのクソいい加減なモデリングと動きに対して、マーメイドといったら湿った肌の質感から、貝殻におおわれた薄い胸のたたずまいから、脇腹に浮いたあばら骨のエロチックさから、固有技を出すときの上半身のなよめいたモーションから、まさに「指先まで神経のかよった」仕上がりで、思わず「公私混同すなーッ!」と例のポーズで叫んでしまいました。まあ、昔からひそかに根強い人気悪魔で、何を隠そう私も前作では、ランダマイザとかコンセントレイトとかメギドラオンとかを継承で突っ込みまくったステータスマックスの最強マーメイドを作ったくらいですので、アナタの気持ちはわからないではありません。(サムズアップして)グッジョブ!

 あと、よく見るとマーメイドの顔って、どこか御無礼の人に似てるなー。タバコ吸いながら「人に魚と書いて、人魚と呼ばれています」とか自己紹介してそう(してない)。それと、3からの「強い主人公をサポートするための仲魔」って構図は、女神転生シリーズの解釈違いだとずっと思ってます。「いつ裏切るかわからない悪魔さえ、利用せざるをえない非力な人間」という2までの世界観が本筋だと思うので。個人的には、仲魔のレベル固定とマグネタイト制の復活を希望です。え、肝心のストーリーはどうですかって? 学園に戻ったくらいの進行状況だけど、ストーリーはダメそう。

コンテナヤードでの落下

 真・女神転生5、2つ目のマップに入ったら、いよいよ「ノーマルジャンプしかないマリオ64」みたいなゲーム性になってきた。コンテナを落ちては登る作業に終始イッライラさせられんだけど、副産物の御霊レベリングで明らかにエリアと見合わないほど強くなってくんの。そしたら、主人公の連撃とヨシツネの八艘跳びで敵にターンが渡らなくなり、ゲームとしてはほとんど破綻してしまっているのに、だんだん愉快な気持ちになってくるのが我ながらおもしろい。昔からバランスの壊れたゲームが大好きで、ディアブロ2への偏愛も同作の破綻した部分に依っているのかもしれません。エフエフ(ファイファン派は死ね)でいちばん好きなのはファミコン版の2で、初期の町から一歩も離れず、パーティアタックやチェンジの魔法で延々と育成を行ったことを思い出します。

 話を戻しますが、本作のマハタルカジャやマハスクカジャって魔法、またまたシリーズの解釈違いだなー、って感じました。メガテンの醍醐味って派手な大技や攻撃魔法ではなく、ギリギリのバトルで単体アタッカーに託すタルカジャやスクカジャだと思うんですよねー。長い長いダンジョンを抜けた果て、疲弊した仲魔たちと挑むボス戦、毎ターン壊滅ギリギリの攻撃をヒーラーで耐えながら、タルカジャやスクカジャを複数回かけることで辛くも通るアタッカーの攻撃をジリジリと、薄く薄く積み重ねていく。やがて回復手段も底をつき、最後の最後で南無三と繰り出した一撃がボスを倒したときの、得も言われぬ高揚感といったら! 近年の同シリーズがリソース管理の煩雑さとトレードオフにしたものの中に、作品としての本質が含まれていたような気がしてなりません……お、ようやっと中ボスのおでましやないけ。シリーズ初登場のラフムゆうてアンタ、若手スタッフがFGOの影響を受けまくっとるんちゃいまっか。ほれ、マハタルカジャ、マハスクカジャ、八艘跳びからの至高の魔弾どーん! らっくしょー! この一方的に蹂躙する爽快感、やめらんねー!

アキハバラでの落下

 真・女神転生5、きょうはアキハバラに来ています。けどここ、ちっとも秋葉原じゃありません。アキハバラ電脳組ぐらいの無関係さです。もはやテキトーに作った3Ⅾ迷路に、東京の地名をテキトーに選んでつけているだけです。ちょうど3つ目のエリアになるのですが、高低差はますます激しくなり、NPCのメッセージに「元の場所に戻るのタイヘンだから、落下しないように気をつけて!」なんてものがあるほど、制作側もひどさには自覚的なようです。でもこれ、強打者を迎えたピッチャーに対して「人類のまだ見ぬ変化球を投げろ」とサインを送るキャッチャーとほとんど同じで、クソの役にも立ちません。このエリア、さらに例えるなら「ハイジャンプの存在しないジャンピングフラッシュ」みたいなもので、正解ルートを探るために登っては落ち、登っては落ちを延々と繰り返すハメになります。おかげで、早くも主人公のレベルはカンストしました。固有技に強い物理攻撃があるのと、全属性の攻撃アイテムが買えてしまうので、本作のステータス振りは力速が正解のような気がします。定番の魔速で育成してしまいましたが、このクソマップをイチからやり直す気力は、もはやありません。もう早くクリアして、ディアブロ2に戻りたい気持ちでいっぱいです。

 そして2時間ほどをかけて、ほうほうの体で目的地へたどりついたら、ほんの短いやりとりの後、マップの反対側にある障害物を除去するアイテムをもらって終わりという、ファミコン時代のおつかいRPGみたいな展開にめまいがしました。ここまでの体感として、プレイ時間の10%が雑魚とのバトル、10%が悪魔合体、80%が道に迷ってるというバランスです。本編である「真シリーズ」は、いまやペルソナに軒下を貸して母屋を乗っ取られた状態ですので、ベセスダかCD ProjektあたりにIPごと売却して、フォールアウトサイバーパンクのチームに、崩壊後の東京を実際の地図ベースでシュミレートした内容へと作り直してもらうのがいいんじゃないでしょうか。え、英語版のタイトル? オー・マイ・ゴッデス・オブ・リインカネーションとか?(ダサい)

風雲! 魔王城

 真・女神転生5、きょうは魔王城に来ています。またぞろコンテナのときみたいなジャンプゲーが始まって、心底ゲンナリする。この城に入ってから、ずっと「クソマップ・オブ・ザ・イヤー」と声に出して連呼しながらプレイ、いや、登っては落下してる。マリオ64が「高い身体能力を駆使して、様々なルートを発見する楽しさ」なのに対して、魔王城は「低い身体能力に制約されて、唯一の正解ルートを探す苦しみ」になってます。自由に動けるアナログ空間で、ゼロイチのデジタル解答を求められる苦痛ったらありません。監督チャンさあ、この扇風機のギミックだけど、ちゃんと吟味した上で面白いと思って入れてんの? ひとりがハッスルして作っちゃったのをバランス調整せず丸まま採用って、どこに監督チャンのディレクション要素があるわけ? 何の能力に対して給料もらってんのか、いちどちゃんと考えたほうがいいよ?

 話を戻しますと、レベルもとうの昔にカンストしており、雑魚との接敵も時間のロス以外のなにものでもありません。え、御霊レベリングはメガテンに慣れていない人への救済措置のようなもので、ふつうにプレイするときには自分で縛るものですよ、だって? だまれ、令和ベイビーズ(3さい)めが! ファミコン世代にとってのゲームってのはなァ、絶対にクリアさせまいと本気で殺しにかかってくる制作者との闘争そのものなんだよ! クリアできればプレイヤーの勝ち、できなければ制作者の勝ち、その瞬間に持っている全身全霊と全知力を注いで取り組むのがゲームをするという行為であり、ヤツらがウッカリこちらに有利なバグなど残していようものなら、それを利用することに一瞬の躊躇さえしてはいけない、そういう世界なんだよ! デジタルデビルストーリー女神転生の最終パーティが、ガネーシャ、ウォンロン、クリシュナ以外はありえないように、視界に入った御霊はすべて狩り尽くすのが、昭和ベイビーズたちのジャスティスなんだよ!

 ……というのは、話を面白くするためにワザとする吹き上がりで、実際は「すべてのエンディングを見るために3周はするから、1周目は引き継ぎ要素であろう悪魔全書の完成が最優先。すなわち主人公のレベル99はゴールではなく、単なる前提。御霊縛りの難易度ハードは2周目から」と考えての行動でした。しかしながら、メガテン本来のゲーム性とは何の関係もない、このクソマップ・オブ・ザ・イヤーを周回する時間も気力もありませんので、シリーズではじめてのトゥルー・エンドを動画で見る作品になりそうです。

マンコの神殿から至高天へ

 真・女神転生5、きょうはマンコの神殿に来ています。魔王城の息が詰まるようなキツキツさに対して、歩道と車道ぐらいの段差と時間停止のギミックが完全に死んでいる、ユルユルのマンコです。え、表記は万古だから読み方はバンコじゃないですか、だって? たわけが! 「シニアカーだと死にやカーに聞こえるから商品名はセニアカーにしよう」みたいな態度が言語を歪めるのだろうが! このバカバカマンコ!

 続くラストダンジョンも分岐の無い一本道で、あわせて1時間くらいアラレちゃん走りしていたら、あっさりクリアできてしまいました。たぶんカオスルートだったと思うんですけど、どんなエンディングかワクワクしていたら、新しい世界の顛末をなんとナレーションだけでぜんぶ説明して終わりでした。そこはルートを代表するNPCと主人公のかけあいとか、がんばってちゃんとビジュアルで見せてよ……まあ、マンコの神殿以降の出来を見るにつけ、発売を急ぐため開発に巻きが入ったのかもしれません。主人公が右から左にゆっくり歩いていくだけのスタッフロール、なんか既視感あるなー、なんだったかなーと考えていたら、俺屍2だった。

 クエストと悪魔の取りこぼしは回収するかもしれませんが、周回はしないでしょう。本作が低機能のスitchy専売なのは、後の完全版商法をあらかじめ見込んでいるためで、高画質高解像度、高フレームレート、サラウンド対応、ストーリー補完、新規悪魔およびマップ追加のFINALバージョンがPC/PS5で発売されることは、ほとんど確定しているみたいなもんです。なので、トゥルー・エンドでのクリアはそれを待ってからにいたします。

 よっしゃ、おつとめゴクローさん! これで晴れてシャバ(モーモー牧場)に復帰や! お、いきなりOHMポロリとは幸先いいやないけ! ハイルーン1個のドロップとメガテン30時間の楽しさは、ワイにとって等価みたいなもんや! ディアブロ2最高や! これぞゲームの至高天やで!

修正パッチに寄せて

 真・女神転生5、魔王城の修正パッチくるんですってね。あらためて、ネット社会における小鳥猊下の影響力を実感しました(範馬勇次郎が正拳で地震を止めたときの表情で)。んで、パッチノート読みにいったら、「連続ジャンプのギミック数削減」って書いてある。

 監督チャンさあ、オレの金言(オウゴン)のどこをどう読んだらそうなるワケ? 「ロケーションを嵐の海から凪の海に変更しました」って、あのさあ、オレらが不平をもらしてるのは、そこじゃねえのヨ! オレらプロの泳ぎ手たちは、「両手両足を縛られたまま海に突き落とされる」ことに文句つけてんのヨ! 「ダッシュジャンプに慣性をつけて飛距離を伸ばしました」とか「空中で姿勢制御が可能な2段ジャンプを追加しました」とかが、「顧客の本当に求めていたもの」じゃねえの? わかる、わかるよ、監督チャン、そんなことしたら全マップで挙動の確認と見直しが必要になるもんな? ナーフ中心で調整したほうが、修正後のチェック項目が少なくて楽だもんな? 100%のステータスでボス戦のバランス調整してから50%にキャラの能力を減じて、残りの50%を集めるべき装備品にパラメータとして撒いたほうが、チェック工程を最少にできて管理しやすいもんな?

 ハハハ、わかる、わかるよ……このクソたわけが! 勃起角度と最大膨張ばかりを気にする、女不在のフニャチン童貞野郎めが! ゲームってのは引き算じゃねえ、足し算で作るもんなんだよ! プレイヤーをてめえらの想定の内側に置くことだけに窮々としやがって! どれだけ工程を減らして作業量を抑制するかみたいな思考で、クリエイティブがつとまるかよ! プレイの可能性をどんどん拡張する、バフまたバフのビッグバン調整こそがゲーム制作の本懐だろうが! 過去作を丸コピして何体か萌え悪魔を追加した秘伝のシステム部分に比して、マップ部分の設計思想があまりにそのメガテン本来の自由度の高さを裏切ってることに、みなさん怒ってらっしゃるんだよ! 「なんか評判わるいみたいだから修正しときましたー」って、アリンコみたいなクソ修正を得々と自慢してんじゃねえ! 鎮火しかかってるプレイヤーの怒りにわざわざ油を注ぎにきやがって、オマエはシン・エヴァンゲリオン劇場版かよ! アヤナミ(ひとつ前のバージョンに費やしたカネと時間)を、返せッ!

 あのさあ、すげえイヤな顔して聞いてっけど、これぜんぶ監督チャンのためを思って言ってんのヨ? オレ、いまからエミリーと焼肉いってくっから、完全版の作業、進めといてくれよナ? マップの縮尺はマリオやゼルダじゃなくてフォールアウトと同じにして、ジャンプとアクションのバリエーションをガッツリ増やすんだゼ? ガッデムビッグ(中指を立てる)、ガッデムファスト(腰を振る)、ガッデムセクシー(胸をもむ)、これこそがゲーム本来の調整ってもんサ! おッ、この牛、LOルーンをポロリしよったで! よっしゃよっしゃ、これでgreifとfortitudeを完備した最強ワールウインド・バーバリアンの完成や! (金髪美女とドル札風呂で焼肉しながら)ディアブロ2、最高やないけ!

トゥルーエンドに寄せて

 真・女神転生5、周回せずにトゥルーエンドへ到達できるという情報を得たので、一週間ぶり?くらいにプレイを再開。クエストをクリアして順にフラグを立てていくんだけど、シヴァとの戦闘で序盤以来、2回目の全滅を経験する。もうアッタマきて、主人公は無反吸の完全耐性に仕上げ、仲魔もレベル99にして香と経典をブチこみまくって再戦するんだけど、ここまでやってようやく戦況が均衡するくらいの感じ。プレイヤー側の完全耐性を見越した万能属性の全体攻撃と、倒しても倒しても無限に続く手下悪魔の召喚にゲンナリする。これ以上は強くしようがない状態で、回復アイテムが枯渇するかしないかでHPを削りきれるよう調整されてて、一度でもディアラマが来たらジリ貧になって負けがほぼ確定する。何度かやりなおしたら無事に撃破できましたけど、ちっとも楽しくありません。ラスボスまでは旧来のシステムとパラメータを踏襲しているーーと言えば聞こえはいいけど、もうだれも怖くて触れないーーから、ちゃんと積み上げ式のバランスになってるのに、シヴァだけ強さの作り方が異質なんですよ。前も少し言いましたけど、プレイヤー側の成長限界から引き算で作った性能になってるんです。なので、ここだけゲームジャンルがRPGというより、パズルになってしまっている。しかも運要素がからむもんだから、単純に試行回数の勝負になって、倒せたところで達成感がない。

 某MMORPGにもそれを感じて、イヤだなって思って離れたところあるんですけど、こっちは勇者・バーサス・魔王ゴッコがやりたいと思ってプレイしてるのに、最近のゲームは最終的にバーサス・クリエイターの意図になってしまうものが多くて、その構図がメタ的に俯瞰できた瞬間、冷めちゃうんですよね。なあんだ、これ、よく見たらツクリモノじゃんって。シヴァ戦がまさに「それ」で、戦ってませんがDLCの人修羅もさらに「それ」なのでしょう。そんな冷めた気分のまま、強化ルシファーを一蹴ーーシヴァ打倒が条件なのに、シヴァよりはるかに弱いってどうなのーーして、トゥルーエンドを見ました。本作をプレイして改めて気づいたのは、メガテンは強い作家性の複合からできているゲームであり、オリジナルスタッフ不在のまま存続可能なプロダクトへ寄せようとしすぎると、ゾンビの登場するメタルギアみたいになってしまう危険性をはらんでいるということです。個人的に、真シリーズを真シリーズたらしめてきたのは、「今日的な問題と作品テーマのリンク」だと思うんですけど、今回は過去シリーズへの強い意識ばかりが先行していて、最後までそれを感じられませんでした。

 アオガミとの訣別をWHO女史への目くばせタップリに描いてから、オープニングのムービーをちょろっと改変したのを見せられて、「それは大宇宙の意志だけが知っている」みたいなナレーションで終わり。オマエさあ、唐突に「大宇宙の意志」ってどないやねん。FGOの抑止力からの影響か知らんけど、文脈から浮きすぎて、なんや新興宗教みたいになっとるで。ラフムといいフィン・マックールといい、ちょっとFGOの影響を受けすぎとちゃいまっか? これ、あの偉大なメガテンの本編、言わば正史のほうでっせ? 「メガテンに影響を受けた英霊システムに影響を受けたメガテン」という、ゲームの歴史が充分に長くなったがゆえの顛末に世代交代の感慨はありますが、嬉しいのはファンガス本人だけでしょう(いや、こんな劣化コピーみたいなレスペクトは喜ばないかもしれません)。

 あと、本作で追加された悪魔のほとんどが美女か美少女かイケメンで、「悪魔を造形する」のがいかに特異な才能であったのかを再確認できました。SNSでもてはやされる類の絵のうまさが、要素として作品にそのまま流れこんでいる点にだけ「時代とのリンク」が見られるのは、じつに皮肉なことです。

 というわけで、完全版を待たずして、私の冒険はここで終わりました(ざんねん! きみのぼうけんはここでおわってしまった!)。そして、モーモー牧場へと出もどったわけですが、休日返上で100周しても何ひとつ出ません。マックス品にこだわりがない(メリケンどもは異様にこだわる)ので、装備の更新はずっとプラトー状態が続いており、貴重な人生の時間をただ空費している事実に、ひどく気持ちが沈みます。おッ、LO……なんやIOルーンかいな、まぎらわしい。ディアブロ2、最低や!

後日談

 ディアブロ2、メフィスト・ランでのソーサレス突発死とキーボードの損壊率が強い相関関係にあることへ気づいたため、いよいよCall to Armsの作成を決意する。毎月のキーボード代がバカにならないし、何より両のこぶしに包帯を巻いて得意先を訪問する営業担当なぞ、剣呑以外の何者でもないからだ。このCall to Arms、HP・MP・防御力を飛躍的に向上させるバーバリアン専用スキルを全クラスへと解放する超級アイテムなのだが、いかんせん可変値の幅が大きすぎるため、ズルズルと実作を先のばしにしていたのだった。近所にある神社の境内で全裸水垢離をすませ、「神様仏様、664とは申しません。443、いや、332くらいで構いませんから、なにとぞ!」と祈りながら使用ルーンをカバンに並べていきます。100回くらいルーン名と使用する順番を指差喚呼した後、世紀末覇者の顔でマウスボタンを「ぬん! ぬん!」と強く圧迫して念を込めながら、ベースアイテムのフレイルへとはめこんでいきます。するとどうでしょう、できあがったのはなんと211、可変値最低のCall to Armsだったのです! 「もう1回つくれるドドドドドドドン!」などと衝動的に叫びながら無呼吸連打で4Kモニターを破壊しそうになったため、「アラ、メガテン5に視野角調整のパッチが来ているわね」とオネエ言葉で怒りの発作をリセットし、クリア直前のデータで冒険を再開しました。

 「若干カメラが引いたところで、クソマップに変わりはねーな!」などとずっとボヤきながらプレイしていたら、気がつけばミマンを200体すべて発見し、サブクエストをすべてクリアし、人修羅以外の魔人をすべて撃破して、2周目ハードでの「美少女ロリコン悪魔とゆく魔界転生」へ突入していました。あれ、もしかしてオレ、このゲームのこと好きなんじゃ……(トで始まる例の擬音)。ち、ちがうんだから、こんなゾンビの出るメタルギアみたいな続編、ちっとも好きじゃないんだから!

最強デビル・ロリコン軍団

 就職氷河期世代がアイスエイジをマーメイドに継承させなければならないという残酷物語! 小鳥猊下であるッ!

 真・女神転生5、周回で地形を覚えてしまうとマップへのストレスが低減し、前作までで完成している育成システムの楽しさが前面に出てきた。最強デビル・ロリコン軍団の筆頭であるステータス・マックスのアリスを作るため、まず「つはもの誕生」の恩恵を最大化させるのに合成素材の悪魔4体をレベル99にして、その前に必要なスキルをそれぞれの素体に継承させる合体をあらかじめ行なって、そのスキル継承の元素材も念のためレベル99にして……みたいな作業の入れ子細工ループに入りつつある。完成したところでゲーム内に活躍できる場面は皆無なのだが、黙々と取り組んでしまう。

 思えばダークソウル・シリーズも、ゲームバランス的には1と3を絶賛しながらも、最も長時間プレイしたのは不出来な2だった。通称オジェイ・マラソンにて無限にソウルを稼ぐことができるため、止めどきを失って延々と周回レベリングしたからである。この偏執狂的なプレイスタイルの初源を探れば、FC版ウィザードリィへとさかのぼるだろう。定番のグレーターデーモン養殖から連写パッドを使ったマーフィーズゴースト自動狩りまで行い、ゲーム的にはまったく無用の強さを持つレベル1000のニンジャなどを作成しては悦に入ったものだった。

 ……などと、いにしえの時代をなつかしんでいるうちに、必要スキルを仕込んだ素材悪魔4体がレベル99に到達しました。コイツらを4身特殊合体すると、ホラ、この通り! 魔力150総ステータス500越えのハイパー・アリス誕生です! ではさっそく、そこの赤い御霊を試し切りしてみましょう! 呪殺プレロマと呪殺ギガプレロマと、貫く闘気(小声)かーらーのー、「死んでくれる?」! キッヒッ、死ぬ死ぬぅ! このジト目からの即死ダメージ、たまんねえ! まあ、固有スキルに貫通がついていないせいで、使い勝手は最悪なんですけどね! さて、あとは香でステータスをカンストさせるだけ……あれ、これ200が上限じゃないな……もしかして、999めざしてオダイバ・マラソンで香あつめしろ、ってコト?

 アトラスはん、なんちゅう、なんちゅう御褒美を用意してくれたんや……時間をかけたらかけただけ報われる金髪白皙碧眼美少女へする奉仕活動に比べたら、有色人種のオッサン・オバハンと数十時間を無為に過ごすブリザードはんのディアブロ2はカスや!

ドラマ「カウボーイビバップ(実写版)」感想

 ネトフリでカウボーイビバップの実写版を見る。アニメ版の台詞と場面と音楽をツギハギにコラージュした中身を、ファンのアマチュア・コスプレイヤーたちの演技で見せられてる感じ。画面の作り方は、一般ドラマの撮影とYoutubeの素人動画が混在しているみたいで、時折オッと思わせるカッコいい絵もあるんだけど、平均値を算出すると赤点になってしまう感じ。キャラについて言えば、スパイクはちっともジークンドーを使わないし、ジェットは多様性と人種への配慮で子持ちのバツイチ黒人にされるし、フェイはなぜか見た目を林原めぐみへ寄せたキャスティングにされている(だれ得やねん)。最初こそマジメに見ていたものの、早々にディアブロ2をプレイしつつの「ながら見」へと移行しました。吹き替えはオリジナルの声優が当てているーージェットの人が生きていればなあ!ーーので、画面さえ注視しなければ20年ぶりの新作エピソードを体験している気分になれたのはよかったです。

 しかしながら中盤を過ぎたあたりから、次第に原作の改変が鼻につくようになってきます。まず、ビバップクルーたちのドライで絶妙な距離感を、ベシャベシャした旧来的な家族のフレームへと落としこんでいくのは、原作の意図をちゃんと読めてないなあと思いました。そして、性的マイノリティや政治的正しさへの目くばせっていうのは、つくづくフィクションと相性が悪いというか、ぜんぜん内容の面白さとは関係ないですね。ディズニー資本でスターウォーズが壊れてしまったのも、まさに余計な視点を作中へ流入させたことが原因だったと、いまでも恨んでおります。この実写版では、原作があえて触れなかった部分を詳細に語って白けさせたばかりか、作品テーマの根幹だった「男の生きざま」を「女の一生」ーーモーパッサンかよ!ーーへと改変してしまいました。最後の最後でエドが唐突に登場して、シーズン2への色気をただよわせましたけれど、このクオリティと路線で継続することはファンの理解を得られないのではないでしょうか。「女帝ジュリア」みたいなのがアップ・トゥ・デイトされた「正しい」最新の物語トレンドだというのなら、白人と見まがう少年が異世界で様々な人種の半裸美少女からモテまくる「間違った」話の方が、はるかに上等でマシなものだと吐き捨てておきましょう。

 私にとってのカウボーイビバップとは、「泥の河に浸かった人生も悪くはない、一度きりで終わるなら」と願いながら、「どれだけ生きれば、いやされるのだろう」と神ではないものへ祈る祈り、他者との議論や承認を通過しない「生き方」の話なのです。その万人が苦しむ苦しみ、固有の地獄であると同時に普遍的な崇高さを、性別や人種などのガワ一枚へと矮小化することで解決できる対象になったと信じる傲慢なムーブメント、特に虚構へとそれを持ち込もうとする態度には、強い嫌悪感を伴った反発をしか感じません。

映画「サイダーのように言葉が湧き上がる」感想

 タイムラインで話題になってたのを覚えてて、ネトフリで「サイダーのように言葉が湧き上がる」を見る。謎の移動集団「癲狂族」の一員だった過去を持つ身として、たいへん興味深く見ました。ただ、ラスト10分までは60点を大きく越えていく仕上がりだったのに、そこからが個人的に20点の展開だったので、全体としては40点ぐらいの読後感に収まりました。特に恍惚の老人が物語のフロントから点景へと、あっという間に後退したのは、残念でした。俳句にしても海外への目くばせに止まり、物語のギミックとしてはあまり効果的でなかったと感じます。過去作の絶叫で強引に「伝える」のじゃなくて、新しい俳句ひとつで静かに「伝わって」いれば、同じ展開でも印象は違ったかもしれません。

 だれだったかの小説で初老を迎えた夫婦が寝室でいたした後、「私たち、いつまでこういうこと、するのかしらね」って妻がつぶやくシーンがあるんですけど、それになぞらえて言うなら、「俺たち、いつまでこういう作品、見るのかな」という気分になりました。男性の監督が描く少女の話って、女性の葛藤や成長には寄りそわないっていうか、どれも寄りそうポーズにとどまっているように感じます。底にあるのは、十代の少年が持つ「相手の人格なんか無視してムチャクチャにセックスしたい」という正露丸のごとき激臭を放つ真っ黒な核で、それをどんな甘さの糖衣を使ってどんな厚みで包むかってところに工夫があるだけで、突き詰めるとどれも同じ話なんですよね。

 あと、小道具としてのマスクも世間の状況が変わったことで、たぶん企画の段階にあったのとは違う意味になってしまっています。本作のラスト、少女がマスクを外して前歯を見せながらはにかむシーンがあるんですけど、演出の意図には微塵もないだろうにも関わらず、「うわ、エロいなー」って思ってしまいました。左耳のゴムを外してゆっくりと顔の下半分を露出していく仕草が、じらしながら下着を脱ぐストリッパーの様子と同じに見えてしまったのです。おそらく、この脚本は感染症で世界がこうなる前に書かれ、この2年を経て我々のマスクへの意識は「汚いものを出す穴」をおおい隠すもの、つまり「顔にはくパンティー(昭和の表現)」と同じになってしまったのでしょう。

 それと、背景がわたせせいぞうみたいだなーって思いました。

映画「マトリックス・リザレクションズ」感想

 マトリックス・リザレクションズ、見てきた。あまりに自己言及の多すぎる作品で、最初のうちは代紋TAKE2みたい結末になるんじゃないかとハラハラしました。マトリックス・シリーズって、「真にエポック・メイキングだったのは1だけで、2と3は設定を流用した大作アクション映画」みたいな言われ方をされることが多いように思います。あらかじめ絵コンテを作ってから撮影を行ったというのは有名な話ですが、映像とポスプロ技術の進化からマモルさんが予言した「すべての映画はアニメになる」を、おそらくはじめて実現したのが初代マトリックスでした。個人的には2がかなり好きで、特にアーキテクトがネオを言葉でガン詰めにするシーンは、いつ見ても最高にゾクゾクさせられます。これぞまさに、管理職が実施すべき評価面談の見本ですね(パワハラ)。そして、この人物がラスボスに違いないと思い込んでしまい、3で三下のスミス相手に実写版ドラゴンボールZをオッぱじめたのには、たいそうガッカリさせられました。物語としての終わり方も、主人公の自己犠牲は停戦協定を引き出したに過ぎず、機械による支配の構図は動かないままで、なんとも消化不良でカタルシスの薄い中身だと感じたことを覚えています。

 本作を見た人たちの感想を追ってみると、「行かなければよかった同窓会」とか評されてて笑いましたけど、私はこの同総会に参加してよかったと思いました。アーキテクト相当のキャラを主人公とヒロインでガン詰めにして機械側から主導権を奪う結末には、旧シリーズに抱いていた不満を大きく解消してもらった気分です。まあ、話の展開がスローかつ冗長だという指摘はその通りで、男性だったときの監督なら同じ内容を90分で撮影したことでしょう。しかしながら、全体的に長回し傾向だったり、アクションのカメラが寄り気味だったり、何よりCGではなく実在する人とモノを写そうとするのは、監督の明確な意志で行われていると思います。見ていて同じ感覚を持った作品にTENETがあるんですけど、先祖返り的な撮影方法をわざと志向していると言いますか、マーベルに代表される近年のポスプロまみれの作品群へ向けた一種の批評性を持たせようとしている気がしました。本作は、色彩とアングルの完璧に決まった画面を速いカット割りで見せていくのとは真逆の作り方になっていて、奇しくも初代マトリックスが先鞭をつけてしまった現代映画の方向性に疑問符を投げかけているように見えるのです。手かざし教の教祖と化したキアヌの下半身にボリュームが寄った鈍重な立ち姿や、50代を迎えたキャリー・アンモスのシワやシミや毛穴やうぶ毛をドアップでいっさい加工せずに写すのにも、それを感じました。つまり、撮影の手法で「マトリックス的なるもの」の解体を試みるのが本作の裏テーマだったかもしれないという見方は、うがちすぎでしょうか。

 ただ、スタッフロールの後に「ナラティブは死んで、いまはネコ動画の時代」みたいな寸劇を入れてきたのには、監督の精神状態が心配になりました。企画の通らない長い時間と、マトリックスの名前を引っ張り出したら、とたんに出資者が現れたことへの自虐のような感じは、作品全体に漂ってましたからね。

 あと、旧シリーズであれだけ強烈だった世界観が消滅して、キャラクターの関係性へと物語が収斂していく様は、シンエヴァっぽいなーと思いました。え、ゲンドウの出身校が筑波大学だと判明しましたね、だって? なに二次創作を元にして話をでっちあげとんねん! テレビ版・第弐拾壱話「ネルフ、誕生」の設定がエバーの本筋やろがい! ゲンドウは京都大学中退に決まっとるやろがい! 百歩ゆずったかて、吉田寮に転がりこんだ高卒の半グレやろがい! 息子の最終学歴は第3新東京市第壱中学校やろがい!

 考えれば考えるほど、マトリックス・リ(レ)ザレクションズとシン・エヴァンゲリオンって、よく似た性格の作品になってると思います。どちらも作り手の私小説なのに、前者を温かい気持ちで認められて、後者を冷たい気持ちで許せない(いわゆる絶許)のは、どうしてでしょうか。今回、旧マトリックスがサイファイ・陰謀論・思想哲学・神話体系と、あまりに制作者の手を離れて語られすぎてきたのを、ラナが「ちがうの、これは私が作ったお話しなの! 私の大切な、家族の物語なのよ!」と正直にぶっちゃけて作品を取り戻したのに対して、旧エヴァは終盤が私小説すぎたのを「やっぱ前のはちょっち自分語りしすぎたわ。今度はちゃんとエンタメにして、ファンに返すわ」と宣言してたのに、ヒデアキが「は? ちげーし、そんなん言ってねーし! エヴァは昔からずっとオレの私小説だし!」と居直り、作品を抱え込んで自爆したからでしょうね。マトリックスとエヴァンゲリオン、いずれも90年代を代表する一大フィクションだったのに、その最終作の比較が「正直者とウソつき、どっちが好ましい?」みたいな道徳の話になってるの、20年前の自分に言っても信じないだろうなー、アハハハハー……はあ。

 あと、トリニティのほうが先に空を飛べるようになる展開に、ポリコレの臭いをかぎとっている方がおられるようですけど、違いますよ。監督が性転換して女性になったために感情移入の対象が変わっただけで、制作の動機から何から、本作はどこどこまでも私小説なのです。

 昨日の続きだけど、マトリックス・リ(レ)ザレクションズってハッピーな蛇足と言いますか、鬼滅の刃の最終回みたいなもので、トーンがこれまでとぜんぜん違うけど、本編自体の解釈にはほぼ影響を与えていないじゃないですか。一方、シン・エヴァンゲリオンは旧シリーズまで侵食・融合して、作品を土台から歪めちゃったことが大問題なわけで、これ前も言いましたけど、スターウォーズ・シリーズのたどった軌跡と似てると思うんですよ。456から入ったファンは123を見て、「ルークの物語だったスターウォーズがダースベイダー・サーガになってしまった!」と嘆き、123から入ったファンは789を見て、「ベイダーの物語だったスターウォーズがパルパティーン・サーガになってしまった!」と嘆いたのです。そして、シンジの物語にゲンドウのそれを「上書き保存」したのがシン・エヴァンゲリオンで、夏には滅びを追体験するため必ず再生していた旧劇だったのに、もはや見返す気はまったく起きません。せめて、「名前を付けて保存」で別ファイルにしてくれいたらと、いつまでも恨みが消えないのです。