猫を起こさないように
マトリックス
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ゲーム「ステラーブレイド」感想

 エッキス局所で話題のステラーブレイドを、連休を有効活用してプレイ。いやー、すごいよ、これ。またなにも調べないままテキトーにしゃべるけど、スペースハリアーの擬似3D表現からはじまった欲望がドゥームあたりを始祖とするFPSに引き継がれ、マリオ64の三人称カメラ革命によるジャンル超新星爆発で3Dゲーム繚乱の時代が幕を開け、時のオカリナ、フォールアウト3、ドラゴンエイジ・オリジンズ、アンチャーテッド2、スカイリム、デモンズソウル、ウィッチャー3(順不同)あたりが、その時々のマイルストーンだったように感じています。ステラーブレイドのすごいところは、それらすべてを参照した上で「ええとこどり」だけに徹して、オリジナル要素への色気をいっさいにおわせず、言わばサンプリングの手法のみでゲームシステムの根幹部分を作りあげていることです。おまけに世界観はまんまマトリックスで、ストーリーはまんまエイリアンだし、「我々が生まれる以前に、クリエイティブの鉱脈は掘りつくされて枯渇しており、オリジナル鋳造の技術も失われている以上、過去のジャンクを解体して取り出したパーツを使って、模造品を組みあげる他はない」という最後発ゆえの割り切りは、ものすさまじいレベルにまで達しています(個人的な愚痴ながら、シャレオツな極小の白いアイコンだけは、ミドルエイジの眼にとって視認性が最悪なので、改善してほしい……)。

 しかしながら、たったひとつだけ、凝縮された欲望の一点突破による生のオリジナリティが強烈な香辛料として、すでに名前のある郷土料理の皿にふりかけられていて、それはまず遠回しに言えば、「キャラクターメイキングの撤廃」だと指摘できるでしょう。近年の3Dゲームは、どれもキャラメイクのパラメータが膨大になっていて、それこそ骨格から頭蓋骨の凹凸までを調整していくようなレベルのもので、早く遊びたいイライラのうちに数時間を費やさされたあげく、”必ず”どこか自キャラへの不満を抱えたまま、モヤモヤした気持ちでプレイを開始するハメになるのは、みなさんもご経験がおありでしょう。ゲーム愛好家の過半数を越えるLGBTQF以外に属するアジア人たちの、声なき声を図々しくも代弁させていただくならば、「見た目のいい美少女で(と)遊びてえ」という身もフタも無い内容であり、アンケートフォームには恥ずかしくて記入できないその無意識の欲望(情)を、スティーブ・ジョブス的な慧眼ですくいあげたがゆえに、本作は世界的なスマッシュヒットになったのだと言えるでしょう。

 ここからが本題ですが、すなわちステラーブレイドの本質とは、あどけない10代半ばの美少女の顔(かんばせ)に、水平方向へ満々にふくらみきるも重力にはまだ負けていない20代半ばの乳房に、わずかに脂肪の乗りはじめた10代半ばの腹部とまだ骨ばった腰に、たっぷりと脂肪をたくわえた30代半ばの臀部とふとももに、軽量級のローキック1発でへし折れそうなふくらはぎと足首という「男の欲望まんぷくキメラ」しかメニューにない専門店であり、お品書きを見ながら店主になにか尋ねようと口を開きかけると、「お客サン、ダメヨ! ダメダメ! ウチはコレしかヤッてないアル! ダイジョーブ、コレが宇宙でイチバン美味しいダカラ! 調味料と生卵はテーブルにあるノ、好きなダケ使って味ヘンするイーヨ!」と大声でかぶせてくる感じ。少しでも料理を残したり、不満げな表情を見せたり、味の批評なんかはじめようものなら、顔を真ッ赤にして「ナニ、ナマ言ってるカ! ラバースーツの下でテカテカ・パンパンになったシリを、ロングポニーテールがシャラシャラなでまわス! ゲームの中でイチバン長いあいだながめる光景に、コレ以上のモノなんてないアルヨ!」と絶叫しながら、菜切り包丁を片手に厨房からとびだしてくる感じ(ほめてます)。

 文字通りの半世紀近くをゲームの歴史と伴走してきた、エコノミック音痴のドメスティック・ビジネス従事者にとって、何より「海外における本邦のプレゼンス低下」とやらをまざまざと実感するのは、こういった本来ならば我々が世に問わなければならない作品を、半島や大陸の若い世代に先回りで上梓されてしまったのを見るときです。本作の持つ偏執狂的なまでの、むせかえるようなフェティシズムとエロティシズムに対抗できるのは、近年の国産ゲームにおいてファイナルファンタジー7リバースのクラウドさんくらいしか思いつきません。あと、エスエヌエスの著名人(笑)たちがセクシャル要素に目くらましをくって、ゲーム部分を両手ばなしで激賞しているのをいくつか拝見し、「男って生き物、チョロいよな……」と思わず微苦笑してしまいました。「ステラーブレイド、スゴい! ハシゴを裏側からさわっても、自動的に表側へ回りこんでのぼってくれる!」ーーいやいや、それ、「美少女アバターもえくぼ」ですやん。おあとがよろしいようで。

アニメ「サイバーパンク・エッジランナーズ」感想

 ネトフリでサイバーパンク2077のアニメを見る。個人的に肝に銘じておきたいのは、度外れた激賞はテンポラリーな視聴につながりこそすれ、実際との落差から必要以上に評価を辛くさせるということです。最初の印象としては、「ネトフリ資本かつ巨大AAAタイトルのアニメ化にしては、低予算でがんばらされてるな」といったところでしょうか。ニューロマンサーの時代を彷彿とさせるサイケな色づかいや、この世界観でわざわざ少年を主人公にすえたミーツ・ガールにするところなど、全体的に「昭和のSFアニメ」感が強く、深夜の潜水艦で摩天楼を飛びこえて、はるかな時間の国へと行ってしまったかと錯覚するほどでした(なんじゃ、そりゃ)。動かすことを優先したために線の少ないキャラデザなのかと思いきや、止め絵とバンクと速いカット割りで見せていく場面が多く、10年近くをかけたタイトルが見るも無惨な大爆死を遂げたCD Projekt REDの緊縮財政をひしひしと感じさせました。このアニメを通じてゲームにかなり人が戻ってきたという話も聞きますし、創意工夫の高品質を欧米に安く買いたたかれる様は本邦の現状を否応に想起させ、涙が出てきます。

 そして、本作をほめている方々のことごとくが、サイバーパンク2077本編をプレイしていないーーゲーム制作が本業のはずのあの方さえーーようで、もはやゲームという娯楽が時間単価で相対的にハイコストなものになってしまったのだと、あらためて痛感させられました。発売日に購入して全クリした身としては、あの膨大な物量からうまく単語と設定を抜きだしてコンパクトにまとめたなーという感想が、何よりもまさります。でも、原作をプレイしていないのに、アニメだけを見て激賞できる方々の態度、やっぱりなんかモニョるなー。例えばアニマトリックスは最高だけど、やっぱりマトリックス本編あっての評価だと思うんですよ。みんな、4時間ちょっとのアニメシリーズでこの世界をわかった気にならず、サイバーパンク2077に残り少ない人生の100時間を捧げていこう!

映画「マトリックス・リザレクションズ」感想

 マトリックス・リザレクションズ、見てきた。あまりに自己言及の多すぎる作品で、最初のうちは代紋TAKE2みたい結末になるんじゃないかとハラハラしました。マトリックス・シリーズって、「真にエポック・メイキングだったのは1だけで、2と3は設定を流用した大作アクション映画」みたいな言われ方をされることが多いように思います。あらかじめ絵コンテを作ってから撮影を行ったというのは有名な話ですが、映像とポスプロ技術の進化からマモルさんが予言した「すべての映画はアニメになる」を、おそらくはじめて実現したのが初代マトリックスでした。個人的には2がかなり好きで、特にアーキテクトがネオを言葉でガン詰めにするシーンは、いつ見ても最高にゾクゾクさせられます。これぞまさに、管理職が実施すべき評価面談の見本ですね(パワハラ)。そして、この人物がラスボスに違いないと思い込んでしまい、3で三下のスミス相手に実写版ドラゴンボールZをオッぱじめたのには、たいそうガッカリさせられました。物語としての終わり方も、主人公の自己犠牲は停戦協定を引き出したに過ぎず、機械による支配の構図は動かないままで、なんとも消化不良でカタルシスの薄い中身だと感じたことを覚えています。

 本作を見た人たちの感想を追ってみると、「行かなければよかった同窓会」とか評されてて笑いましたけど、私はこの同総会に参加してよかったと思いました。アーキテクト相当のキャラを主人公とヒロインでガン詰めにして機械側から主導権を奪う結末には、旧シリーズに抱いていた不満を大きく解消してもらった気分です。まあ、話の展開がスローかつ冗長だという指摘はその通りで、男性だったときの監督なら同じ内容を90分で撮影したことでしょう。しかしながら、全体的に長回し傾向だったり、アクションのカメラが寄り気味だったり、何よりCGではなく実在する人とモノを写そうとするのは、監督の明確な意志で行われていると思います。見ていて同じ感覚を持った作品にTENETがあるんですけど、先祖返り的な撮影方法をわざと志向していると言いますか、マーベルに代表される近年のポスプロまみれの作品群へ向けた一種の批評性を持たせようとしている気がしました。本作は、色彩とアングルの完璧に決まった画面を速いカット割りで見せていくのとは真逆の作り方になっていて、奇しくも初代マトリックスが先鞭をつけてしまった現代映画の方向性に疑問符を投げかけているように見えるのです。手かざし教の教祖と化したキアヌの下半身にボリュームが寄った鈍重な立ち姿や、50代を迎えたキャリー・アンモスのシワやシミや毛穴やうぶ毛をドアップでいっさい加工せずに写すのにも、それを感じました。つまり、撮影の手法で「マトリックス的なるもの」の解体を試みるのが本作の裏テーマだったかもしれないという見方は、うがちすぎでしょうか。

 ただ、スタッフロールの後に「ナラティブは死んで、いまはネコ動画の時代」みたいな寸劇を入れてきたのには、監督の精神状態が心配になりました。企画の通らない長い時間と、マトリックスの名前を引っ張り出したら、とたんに出資者が現れたことへの自虐のような感じは、作品全体に漂ってましたからね。

 あと、旧シリーズであれだけ強烈だった世界観が消滅して、キャラクターの関係性へと物語が収斂していく様は、シンエヴァっぽいなーと思いました。え、ゲンドウの出身校が筑波大学だと判明しましたね、だって? なに二次創作を元にして話をでっちあげとんねん! テレビ版・第弐拾壱話「ネルフ、誕生」の設定がエバーの本筋やろがい! ゲンドウは京都大学中退に決まっとるやろがい! 百歩ゆずったかて、吉田寮に転がりこんだ高卒の半グレやろがい! 息子の最終学歴は第3新東京市第壱中学校やろがい!

 考えれば考えるほど、マトリックス・リ(レ)ザレクションズとシン・エヴァンゲリオンって、よく似た性格の作品になってると思います。どちらも作り手の私小説なのに、前者を温かい気持ちで認められて、後者を冷たい気持ちで許せない(いわゆる絶許)のは、どうしてでしょうか。今回、旧マトリックスがサイファイ・陰謀論・思想哲学・神話体系と、あまりに制作者の手を離れて語られすぎてきたのを、ラナが「ちがうの、これは私が作ったお話しなの! 私の大切な、家族の物語なのよ!」と正直にぶっちゃけて作品を取り戻したのに対して、旧エヴァは終盤が私小説すぎたのを「やっぱ前のはちょっち自分語りしすぎたわ。今度はちゃんとエンタメにして、ファンに返すわ」と宣言してたのに、ヒデアキが「は? ちげーし、そんなん言ってねーし! エヴァは昔からずっとオレの私小説だし!」と居直り、作品を抱え込んで自爆したからでしょうね。マトリックスとエヴァンゲリオン、いずれも90年代を代表する一大フィクションだったのに、その最終作の比較が「正直者とウソつき、どっちが好ましい?」みたいな道徳の話になってるの、20年前の自分に言っても信じないだろうなー、アハハハハー……はあ。

 あと、トリニティのほうが先に空を飛べるようになる展開に、ポリコレの臭いをかぎとっている方がおられるようですけど、違いますよ。監督が性転換して女性になったために感情移入の対象が変わっただけで、制作の動機から何から、本作はどこどこまでも私小説なのです。

 昨日の続きだけど、マトリックス・リ(レ)ザレクションズってハッピーな蛇足と言いますか、鬼滅の刃の最終回みたいなもので、トーンがこれまでとぜんぜん違うけど、本編自体の解釈にはほぼ影響を与えていないじゃないですか。一方、シン・エヴァンゲリオンは旧シリーズまで侵食・融合して、作品を土台から歪めちゃったことが大問題なわけで、これ前も言いましたけど、スターウォーズ・シリーズのたどった軌跡と似てると思うんですよ。456から入ったファンは123を見て、「ルークの物語だったスターウォーズがダースベイダー・サーガになってしまった!」と嘆き、123から入ったファンは789を見て、「ベイダーの物語だったスターウォーズがパルパティーン・サーガになってしまった!」と嘆いたのです。そして、シンジの物語にゲンドウのそれを「上書き保存」したのがシン・エヴァンゲリオンで、夏には滅びを追体験するため必ず再生していた旧劇だったのに、もはや見返す気はまったく起きません。せめて、「名前を付けて保存」で別ファイルにしてくれいたらと、いつまでも恨みが消えないのです。