このいやはての集いの場所に
われら ともどもに手さぐりつ
言葉もなくて
この潮満つる渚につどう……
かくて世の終わり来たりぬ
かくて世の終わり来たりぬ
かくて世の終わり来たりぬ
地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに (T・S・エリオット)
新潟県珍垢寺――
ある程度の規模を有する水族館にしか無いだろう、マナティかゾウアザラシを収めて輸送するようなサイズの巨大棺桶と、葬儀屋はさぞや写真加工に苦労しただろう、精一杯の望遠になお入りきらぬ巨顔の遺影を前に、私はまだ信じられぬ思いだった。白黒の垂れ幕や数々の花輪、線香にけぶる部屋の大気――周囲を埋める葬式にありがちの様々の表装は、人の死の厳粛さを虚構として演出する役割をこそ果たせど、その死の持つ意味を説明するものでは、全くなかった。私は棺桶にすえつけらえた梯子を登ると、たっぷり5メートルほどもその上を膝行して、うがたれた窓より中をのぞき込んだ。
――ああ。
思わず漏れる嘆息。あれから2年が経つが、その顔はもう見間違えようがなかった。それはまさしく、上田保椿の――
CHINPOの暑苦しい巨顔だった。
私は釈然としない、どこか落ち着かない気持ちで何本目かの煙草を苛立たしくもみ消した。この部屋に通されてから、もう4時間にはなるだろうか。私は真新しい畳の上へ横になると天井を見上げながら、自分がなぜこんなところで待たされるはめになったのかを、ぼんやりと思い返した。
焼香に棺桶をよじ登ろうとした親族の何人かが足をすべらせ真っ逆様に墜落し、重軽傷を負ったことをのぞけば、全く他のどれともかわりばえのしない、そしてその退屈な劇的で無さが残されたものにとっての救いでもある葬式が終わり、私は無言でその場を離れた。私のような半端な元おたくが挨拶に現れたとて、親族は困惑するだけだろう。長いおたく人生で得た様々の経験則から、私はそれを痛いほど知っていた。
長い苔むした石段を下り、呼んでおいたタクシーの扉に手をかけたとき、私は突然背後から呼び止められた。明らかに常人とは異なったあのオーラを持ったケミカルウォッシュのジーンズと黄ばんだTシャツの男が、こちらを直視しているようでいながら、そのくせ微妙に視線をずらしたまま、素養の無いものならヒアリングの不可能なほどの喉の奥にこもった早口で、私に告げた。――これより故人上田保椿を忍んでの通夜式を執り行う手筈となっております、お忙しい中ではございましょうが、故人の遺志を尊重して、あなた様にはどうぞお残り願いたく存じます――。私はやはり、昔の戻ってきたような感覚に後ろ髪引かれるところがあったのだろう、男の申し出になんとなくうなづいてしまっていた。
私は体を起こして頭を振ると、テーブルの上の灰皿を引き寄せた。しかし、通夜とは普通葬式の前にするものなのではないのだろうか。CHINPOの死に顔を見たときからぬぐえないかすかな違和感。人の死などというものは残された者たちにとってそういうものなのかもしれないが、この葬儀のすべてがどこか茶番めいていて、それでいながらその理由をはっきりと言葉にすることはできなくて、その状況がますます私を苛立たせた。
私がちょうど十五本目の煙草に火をつけようとしたところ、快い擦過音とともに背後の障子が引き開けられ、私を石段で呼び止めた男が糸の数本切れたパペットのような動きで入って来、喪主が通夜の会場へ案内致します、と意志疎通を放棄しているとしか思えない早口で告げた。
喪主、CHINPOの両親だろうか。確か大学教授をやっていると聞いたことがある。遠くから聞こえる耳障りな呼吸音と、畳を通して伝わるかすかな振動。障子と梁を漫画状の型に打ち抜きながら、何かの確たる意志を持っているかのようにふるえる肉を腹の両脇に大量に輸送しながら部屋へ入ってきたその人は、果たして――
「CHINPO! やっぱり、CHINPOじゃないか!」
その、ほ乳類ではクジラ以外が持ち得ないような巨躯を陸上で保持したおたくな有様は、CHINPO以外の何者かであるはずがなかった。私は、やはり照れくさかったのだろう、再会の喜びを怒りにまぎらせて詰め寄った。
「これはいったい、どういう悪い冗談なんだ。説明してくれるんだろうな」
「フフ、まぁ、それは道々話すとしよう」
CHINPOはあの頃のような、他者への優越を感じるためだけにどんなにつまらない事象であっても、それが自分だけの知っているものである限り、もったいぶって教えようとしないあのやり方をかすかに漂わせた。だが、2年という歳月はやはりCHINPOの上にも流れたのだろうか、持たざる者のする深刻な自己存在肯定のための切り取り合戦の様子を呈することは、ついになかった。CHINPOは廊下の床板を漫画状の型に打ち抜きながら、こちらを振り返ろうともせずに歩き出した。左足を前に出しながら大きく、見ているこちらがはらはらするほど左に傾ぎ、今度は右足を前に出しながら大きく右へと傾ぐ。軽トラ程度なら前方から近づいてきていても後ろに歩く者は全く気がつかないだろうその膨大な背中に、私はめまいのするような既視感を覚えた。同時に、こんな最悪のおたくであるはずの、全世界の嫌悪の対象であるはずのCHINPOの後ろ姿に、涙が出そうな慕わしさを感じている自分に気がついた。では、私も、やはり年をとったということなのだろうか。
と、CHINPOは廊下の隅に落ちている”小学生の顔にプレイメイトのボディ”をしたアニメキャラのポスターの横を、まるでそこに何もないかのように素通りした。私はいぶかんで、その背中に声をかける。
「CHINPO…?」
CHINPOはいま気づいたというふうにアニメポスターに視線をやると、奇跡のようなバランスで体を右へ大きく傾がせて床に落ちているそれを拾いあげ、ケミカルウォッシュのジーンズの尻ポケットにねじ込んだ。
「どういう按配かな…?」
庭の築山へ目線をやりながら、CHINPOは静かに言った。
「記号の集合を有機的な連なりとして認識し、欲情するおたく的約束の部分が頭から三分の一ほどトンじまって、見えてねえ」
CHINPOの意味するところは全くわからなかったにもかかわらず、その奇妙に静かな――まるで死者のような――達観した言い様に、私の心臓は早鐘の如く打ち始めた。
「CHINPO、話してくれるって言ったよな。今日のこれはいったいどういうことなんだ。まさか、からかってるんじゃないだろうな」
「どうもこうもねえさ。おまえが見てきたとおり、今日は俺の葬式なんだ…!」
CHINPOは太りすぎた皇帝ペンギンのように滑稽に、肉に埋もれた肩を無理矢理すくめてみせた。
「それはつまり、生前葬みたいな…?」
「似ているが少し違うな、あと数時間後、俺は本当に死ぬ手筈になっている」
「死ぬ手筈ってのは、いったいどういう…?」
私はじりじりと歩み寄る不安に押し潰されそうになっていた。
「まあまあそこから先はこれから行く部屋の連中に聞いてくれ。聞く方は初めてでも、俺は今日何回も同じことを話していて、いささか食傷気味なんだ。頼むよ…」
「し、しかし」
CHINPOが言いつのろうとする私を手で制す。廊下の突き当たりにある部屋の障子が、先ほどのおたく男により静かに開かれる。
「さあ、着いた。懐かしい顔がお待ちかねだぞ」
「みんな…!」
そこには果たして、あの思い返すだにじめじめといじましい、日の射さぬ四畳半に放置された悪臭放つ牛乳雑巾、持たざる者たちの持たざるゆえによる黄金の蜜月を共に過ごした、忘れたい過去ナンバーワンの同人仲間たちがいた。本来ならそれぞれが何らかの形での社会性を手に入れたいま、二度と会いたくない、積極的に連絡を持とうなどとは毛ほども思わないだろうあの面々が一同に会するこの異常な空間を前にして、さすがに私も事の重大さを理解しはじめた。
「CHINPOがさ、なんかおかしなこと言うんだよ――昔っからだけど、CHINPOが」
問いかけに、ネクタイの締め方を致命的に間違えている、着慣れぬ喪服にぎこちなく逆緊縛されているといったふうの有島が、重々しく口を開いた。ああ、有島! なんという懐かしさ、そしてなんという嫌悪感だろう!
「残念だが、その言葉の通りだ。これを見てくれ」
有島は病院名の書かれた茶封筒から一枚の写真を取りだした。菌糸類としか言いようのないものが周囲を埋めた薄暗い部屋で、どうやってそんな小さな部屋に入ったのかと疑うような巨躯の男がこちらに背中を向けて写っている。男は下半身丸出しで、どうやらオナニーをしている最中らしい。青白く発光するテレビ画面には、名の知れた巨乳AV女優の出演するごく普通のアダルトビデオが映っていた。
「これが、いったい……?」
一瞬、私はなぜ有島がそんな写真を見せるのかわからなかったが、恐ろしい呪いの託宣のように、徐々にその意味するところが私の胸に染みわたり始めた。
「ま、まさか、そんな…もしかして」
この世で一番あり得ないことを聞いた人のように、私は自分が馬鹿のように首を振っているのを感じていた。
「そのまさかだよ。この写真の男、これが、CHINPOのいまの姿なのさ…!」
「バカなっ、信じられるか、そんなこと!」
「事実よ。受け止めなさい」
太田が脇から、かつての十八番の声まねで、目を合わさないまま言った。ああ、太田よ。言った自分を、あとで呪い殺したくなるだろうに。
「しかも、進行の早い早発性だ。通常2、3年でアニメ絵に勃起できなくなり、ついにはおたく廃人かおたく死を迎えることになる。CHINPOはその事実を知り、決した。本当に更正してしまう前に、エロゲーに欲情できなくなる前に、己が人生を自ら閉じようと…!」
「バカなっ! どうして…どうしてっ…! あの、最悪の2次元コンプレックスが、なぜそんなことに…!?」
やはり、2年に渡るサナトリウム生活ではあの事故の傷を治癒できず、それはCHINPOの脳髄を見えないところで侵していったというのだろうか。私が言いかけるのを、有島はわかっているといったふうにうなづいた。
「それは誰にもわからないし、そのことを考える時間はもう残されていない。こうしている間にもCHINPOはどんどん…そうだな、どういうべきか、良くなってきているんだ。受け止めよう。これ以上言葉を積み重ねることは無意味じゃないか。言葉を重ねることの無意味さに、言葉の無力さに一番気づいている俺たちじゃないか。人と人との熱心な話し合いや、心うち解けたやりとりが何かを生み出すなんて、そんな偽善がイヤでイヤでおたくを始めた俺たちじゃないか。そして、それが俺たちの唯一の美点だったはずだ。これから、それぞれがCHINPOとともに最後の面会を済ませる。俺たちはおたくだ。これまでだって、社会に冷遇されるものとして、曳かれ者同士の肩を寄せ合う集まりではあったが、本当の意味でお互いがお互いを必要だと思ったことなんて一度もなかったはずだ。話し合いなんてガラじゃねえ、それぞれが自分の思うようにCHINPOと15分か20分の最後の時を過ごしてくれ。無言で見送るもよし、引き留めるもよし。――俺たちはここでまた集まったが、明日にはきっと別の場所へと、2度と触れあわない別の世界へと逆戻りだ。寂しいなんて言わない、それがおたくだった罪で受ける相応の罰だ。それに、人間なんてもともとひとりぼっちだし、寂しいもんじゃないか……ともあれ、俺たちは俺たちの同類を見送る義務だけは果たそう。俺たちがずっと自分自身のものとして想像し続けてきた、おたくという人種のぞっとするような末路のひとつがいまここに、目の前にあるのだから…!」
早い風が雲を押し流してゆく。誰に促されるでもなく太田が立ち上がった。後ろ手に障子を閉めるその後ろ姿を、そちらに視線をやらないまま、皆が無言で見送った。
そう、有島は正しい。これは戦いなのだ。俺たち、更正してしまった元おたくたちが、過去の自分ではなくて本当に現在の自分の有様を肯定できるかどうか、CHINPOにつくりごとの世界よりも現実の世界の方が素晴らしいと説得することができるか、という――
「(芋虫と表現するも芋虫に失礼な、たこ糸で縛ったボンレスハムのような指でマウスのボタンを圧迫しながら)やはり最初は太田、いや、ハンドルネーム”まみりんLOVE”と呼んだ方がいいかな」
「フフ、懐かしい名前だ。(様々のアニメポスターが元の壁面の見えないほど貼られる中、唯一ある巨乳アイドルの水着グラビアがその調和を致命的に崩している部屋を見回しながら)ふ~ん。なるほど、なるほど。そうか…ここか。ここで死ぬんか?」
「(モニターに映し出された18歳の小学生という矛盾を体現する美少女キャラの痴態に垂らした涎を服の袖でぬぐいながら)ククク…」
「(床から足を上げる度に粘りけのある糸状のものが数本ついてくるのをズボンのすそでぬぐい取りながら)いいとこじゃねえか。死を迎える部屋としては最高さ。(床に散乱する歴代の家庭用ゲーム機を足で払いのけてスペースを作りながら)こざっぱりしてて…」
「(巨乳アイドルの水着グラビアに大きな嫌悪と、かすかな欲情の入り交じった複雑な視線を向けて)そうかもしれねえ。言われるまで、考えてもみなかったな」
「(机の上に並べられた無数の美少女フィギュアのひとつを手に取り)ひとつ、もらうぜ。(床にできたスペースに座り込み、美少女フィギュアをもてあそびながら、唐突に)特別なことじゃねえ。おたくは、決して特別なことじゃない。そう、思ってんだろ?」
「(美少女フィギュアのスカートの中を机の下からのぞきこもうとしながら)まあ、おおむねそんなとこさ」
「おたくは特別じゃない。皆…おたくを忌み嫌いすぎる。おたくであることは時に、救いですらある…! 本当に、羨ましい。一切の社会性を持たない、様々のグッズやおたく的人間関係だけを後生大事にためこんできた、夏にはコミケ、冬にはコミケの骨がらみの職業おたくには、決してたどりつけない境地…! だから本当にめでたく、羨ましい。(美少女フィギュアから顔を上げて、真正面から直視して)しかし、それでも、CHINPO、怖かねえか? おたくであることは? どんな気分だ? おたくのまま死ぬってのは」
「(あきれたふうに、完全に隆起の埋没してしまった肩をすくめようと痙攣しながら)おいおい」
「だって心配じゃねえのかよ! 美少女ゲーのキャラに操を捧げたまま、素人童貞として死んじまうんだぞっ…! もうすぐ…」
「(フーフーと平静でも常人の数倍する風圧の鼻息を吹き散らしながら)……おたくは、おたくになる前はなんだったんだろうな」
「(いぶかしげに)前?」
「(半眼で)動物として生まれ、動物としての本能を通じて世界を感じていた俺たちは、名付け、定義することで、新しく生まれた知恵という機構の中での、世界に存在する万物の配置を決定しなおさなければればならなかった」
「CHINPO…?」
「ちょうど小さな紙にスケッチを描くようなもので、どんなにうまく描こうとも、描かれる対象と描かれたものとは、どこか致命的に違ってしまっている。知恵によって、世界は本来よりも矮小な形で切り取られ、その切り取られた世界の残骸が、人間の持つ”意識”だ。このプロセスがつまり俺たちの”虚構”と呼ぶもので、この意味においてすべての人類はおたくであると言える。――おたくというのは、自らがさげすまれ、おとしめられることで、自己存在の鬼子的発生理由に気がつきたくない一般人たちを、社会という綿々と続くより巨大な虚構に同化させてやるための、そうだな、いわばスプリングボードなんだ。人が、個人であるということの次のステージ”社会”へ進むための、すべての汚れ役を引き受けているんだよ、俺たちおたくは」
「CHINPO…!」
「世界を世界のまま、現実を現実のまま受け入れるのを拒否したことが知恵の始まりの本質なのだとしたら、現実すべての脱構築・再構成を促すおたくの持つ虚構力・虚構没入力は、知恵のはるか延長線上にある”超知恵”とでも形容するべき知恵の正当なる後継者であり――そして、すべての人間の自然がおたくに嫌悪をしか感じないのだとしたら、それは人の選んだ知恵という選択肢そのものが”間違って”いたことの証明に他ならない。だから、最初のおたくがリン・ミンメイの無重力シャワーに目尻と鈴口から随喜の涙を流したのが罪だと、皆が石もて俺たちを追うのだとしたら、俺は甘んじてそれを受けようと思うのさ。(照れたように笑って)ハハハ、まぁ、それがおたくだわな」
「(下唇を噛み、涙をこらえながら)……そんな話をもっとしてくれ…もっと……! この間再発して…結婚してから2年間はなんともなかったんだが、おたく生活からはすっかり足を洗って、子どももできて…もうすっかり完治したと思ってたんだ。それが、そう思っていたのが、この間…ついに転移した。今度はペニスに……わしは、末期の童女趣味でっ…!! CHINPO、怖いんだ、これで妻子とするまっとうな社会生活もすべて終わりかと思うと…もうすぐ、幼女ポルノを備蓄した咎で社会から石もて放逐されるかと思うと…!!」
「(穏やかに目を細めて)まみりんLOVE」
「(涙で目をうるませ、おこりのように震えながら)わしは…」
「(限りなく優しく)大丈夫…おっかなくなんかねえんだよ。俺が死ぬ前に、先に行われたような幼女誘拐・監禁を犯してやるっ…! だから、まみりんLOVE、おまえはおまえの童女趣味を受け入れてやれ。出来る限り温かく、本来なら恥じ入るべきその性癖による露悪的なキャラクター作りで集客をしていたおまえのHPを、大人との軋轢に疲れ果てた哀れなおまえの自我を迎え入れてやれ。俺の感触じゃ、童女趣味者たちは、そう悪いヤツじゃない。出来るさ、おまえにも出来る。俺が見てきた限りじゃ、最悪の童女趣味者は、かなりの年月裁かれないまま、幼女が幼女でなくなるほど長い間、幼女とともに暮らしていけるんだ。おっかなくなんかねえんだよ…!」
「(もはや隠しようもなくボロボロと号泣しながら)CHINPO…、CHINPOッ……!」
もはや、月は出ていなかった。夜は、静かに流れていくように思われた。うら若い乙女の狭すぎる膣へ無理矢理するように、私たちの心を内側より圧迫し、胸苦しい痛みを引き起こすのは、ただ一つの言葉だった。
――チンポ。
年: 2000年
東京オフ始末書
『いつだって、おたくの末路は悲惨だ』
「(やたらと煙草をふかしながら、防衛的に足を組んで)だって、小説ったって、ジュヴナイルですよ? いいとこ、田中芳樹が限界じゃないですか。例えば40歳になって、そんな頭打ちが待ちかまえている人生なんて、まっぴらですよ。私だったら、そんな未来しか無いとわかったら、オマンコに顔を突っ込んで窒息死しますね。これホント、”膣”息死よね!(椅子ごとひっくりかえって馬鹿笑いする)」
『誰も、最も濃いおたくであり続けることはできない。いつかはより濃いおたくに敗北し、企業の食い物にされる受動的なサラリーマンおたくになり果てていく』
「(分厚いレポート用紙を閉じて眉根を押しもみつつ)やれやれ、ようやく全登場キャラの隠し・正規を問わないすべてのイベントテキストと、誕生日から性的嗜好に至るまでのプロフィールをこの灰色の脳細胞で把握することに成功したよ。どれ、久しぶりにネットでものぞいてみるか…(突然のけぞって)新作発売後半年を待たずして続編の発売だって!? (メーカーHPの商品説明を読み上げて)『総出演キャラ100名超、陰唇の裏にあるホクロまで作り込み、よりリアルな個性化に挑戦!』 ク・ク・ク・ギャヒーッ!!(藤子A不二夫的な絶叫とともにてんかん発作に似た動作で両手両足を胴に引きつけながら泡を吹きつつ後頭部方向へブッ倒れる)」
『それでも彼らが爆発し続けるのは、やはり、おたく、だからなのか』
「つい先日、商業的な婦女子(この表現が持つ隔靴掻痒の婉曲性を楽しめるほどには、読者諸氏の精神と性器は成熟していますよね?)と金銭を媒介にして懇意にする機会を持ったわけなんだけど…いやぁ、なんていうか、オマンコって臭いね(爆)。あのさ、8ビット時代は現実に満たされない性欲の代償行為としてエロゲーやってるのかって、どこか後ろめたかったんだけど、今回わかったわ。やっぱりオレ、現実の女、嫌いだわ(爆笑)。これからどんなにエロゲーがリアルになっていっても、オマンコの臭いだけは再現しないで欲しいね(核爆)」
◇登場人物紹介
小鳥さん……ネットでは大いばり、現実では鬱病・引きこもり・包茎の三重苦についつい俯きがちの典型的なネット弁慶。ネットワーク存症に、最近はアルコール依存症が加わり、自我領域を現実と虚構の双方からむしばまれつつある過去の巨人。
ノッポ………他者との距離を肌感覚によって把握するという、社会生物として当たり前に備えているべき固有の能力を、ネットワークにより蝕まれ、減退させられ、ついには粉々に破砕されているため、常に誰に対しても不必要なまでに慇懃な態度でしか接することできない哀れで矮小な犠牲者。身長だけが特徴の学生。
ユニクロ……現代文化に代表される、個を主張しないことで逆説的に個性を際だたせる類のこざかしいやり方で生きる、文字通り頭の先から足の爪の先まで一寸たりとも”現代の若者”という規格から外れない、誰もが存在するだけで持つ相手の自我への脅迫をフェミニンな弱々しい微笑みで必死にうち消そうとする、最も連続殺人や幼女誘拐などをやってのけそうな青年。
サムソン……名前は忘れたが、何とかいうオンラインゲームに耽溺し、誰もが生来等分に与えられている若さと才能を日々摩耗させ続けるヒヨコ頭のパラサイトシングル。同時に、気のおかしくなるような黄緑色の服とパンパンのおねえさんが着るようなコートに身を包んで大いばりのネット臭ふんぷんたる僕らのファッションリーダー。
あとひとり誰かいたような気がするが、忘れた。気のせいかもしれない。
実際のところ、このオフ会はあらゆる意味で私に何の益をも与えなかったのだけれど、持ち前の強迫神経症的な律儀さから、ほとんど忘備録としての意味合いでこれを記すことに決めた。20万ヒットになんなんとするサイトにあるまじき内輪ぶりだと憤慨される向きもあろうが、現実で充足されないがゆえにネット社会にほうほうの体で逃げ込んで互いに傷をなめあっているだけのいじましい、他力本願的に救われたい、他力本願的に癒されたい人間たちの集まりを、こともあろうにうらやましく眺めている方々がおられるようなので、私はその盲をとくためにもこれを書かねばならないと思いたった。本当に、思い返すだに寒気が背筋を走るような、いじましい、ひどくいじましい集まりだった! だからあなたたちはネット上にある狭い狭いコミュニティの仲良しグループぶりにほぞをかんで、勤務中に社のパソコンから、未だ彼らの持つネット上での既得権を持っていないように思える自分のHPを、上司の目を盗みながらこそこそ更新したりしなくてよいのだ。私はただ克明に真実のみをしるそうと思う。ネットワナビーの諸氏は、これをあますところなく読み、吐き気をもよおすその醜悪な現実に失望して頂きたい。その失望こそが、私のねらいだと言っていい。
その日、私は渋谷のモアイ像の前にひとり立っていた。東京に不慣れな私は、持ち前の俯きがちな内気さから誰に尋ねることもできず探しあてた案内板の表記が”モヤイ像”だったことに不安を感じつつも、待つこと以外何ができるわけでもなく、冬の早い日暮れに身を切る冷気の中、ただ立ちつくしていた。「小鳥さんのオフ会なのだから」と持ち前の気弱さに反論できないまま決定したところの目印である”nWo”とマジックで書きなぐった紙片を胸元に掲げ、周囲を取り巻くそういった素養の無いものたちの目からはずいぶんと奇態に映っているだろう自分自身の大馬鹿三太郎ぶりに深刻な吐き気をもよおしながら、うかれたネットハイでこのような無謀な企画を放言してしまったことをもう絶望的に後悔し始めた頃、頭ひとつ高い身長で人波をかきわけつつ、ノッポが現れた。「ヤァヤァドーモドーモ」という発話とともに、日本人の慇懃さを外国人の視点から客観的に戯画化したような国辱的振る舞いで近づいてくるその姿に、私はもう手にした紙片を放り出し、少女のように泣きじゃくりながら大阪へ逃げ帰ってしまいたいような気分におそわれた。ネット者特有の気づかなさで、ノッポはのけぞるくらいまでの距離に近づいて来、右手を差し出してきた。どうやら握手を求めているらしい。午後5時半を回った渋谷の、脅迫的なまでの人々のひしめきの中で、眼前にいる典型的ネット男と手と手を握り合うなどという恥辱プレイを強要されなければならないどんな罪を私が犯したというのか。視線恐怖症の私はわずかに目を反らしながら、これ以上の躊躇は無いといった素振りで嫌々片手を差し出したが、ノッポはネット者特有の鈍感な現実感覚で思い切りそれを握り返してきた。その手は外気の低さにも関わらず、なぜかわずかに湿っており、私は離した手をノッポに気づかれないようズボンの尻で拭いつつ、いつも持ち歩いているウェットティッシュを持ってこなかったことを激しく後悔した。こいつはあとで呪殺だ。
「アッ、モシかして小鳥猊下ですヨネー」と左の表記のまま発話しつつ、約束の午後6時をわずかに前にして、ユニクロが現れた。普通のまっとうな社会人が時間を指定して待ち合わせをする場合、最低その15分前にやってくるのが暗黙のルールだろう。全く悪びれた様子の無いこの外見的特徴に乏しい青年に懇々とそれを諭してやろうかと口を開きかけるが、自分の失っているものに気づいた様子の無いうすら笑いを浮かべているので、もう圧倒的に他人に干渉するあの気力を失い、そのまま放置することにした。どうせ、これを限りの出会いだ。「イヤァ、小鳥なのにデカいっすネー」謝罪も無いままに発話したその言葉のうすらトンカチぶりに、私は頬を引きつらせながら、自制心を失わぬよう拳の内側で手のひらに爪を立てた。こいつはあとで呪殺だ。
”三人寄れば文殊の知恵”と古人は言ったが、ネット者をいくら積み重ねても何かの建設性が生まれようはずがない。三人が集まったことにより、ふんぷんたるネット臭が周囲に漂い始める。互いに知り合いだろう距離に立ちながら、全く会話を交わさない私たちに、周囲の人間すべてが不審の視線を向けているような気がしてならない。会社帰りのアバズレOLどもの癇に障る笑い声がすべて自分たちに向けられた嘲りに聞こえてくる。約束の時間をたっぷり3分は経過しているというのに、まだ参加者の全員が集まっていないとはいったいどういう了見なのか。自分の生み出してしまったこの惨めな状況に、もうなんだか絶望的に消え入りたいような気分になってきた。私の煩悶に気づいたふうもなく、ただぼんやりと気詰まりな沈黙を潰す努力も無いまま両脇に立ち尽くすデクノボーどもに対して、吐き気と目眩を伴った怒りを覚える。こいつらはあとで呪殺だ。
もう致命的に手足が冷たくなり、頭の中で帰りの新幹線の時刻表を繰り始めたころ、あやしい身なりの女がふらふらと夢遊病者の足取りで近づいてきた。明らかにかわいそうな人か、立ちんぼの人かのどちらかだ。左右の有象無象に視線を向けるも、この終始痴呆めいた表情を顔面に張り付けたチェリーボーイどもに、何かこういう状況への対処ができるとは到底期待できない。私がそういう目的の集まりではないことを万勇を鼓して引けた腰とともに伝えようと息を吸い込んだところへ、その女はもごもごと自己紹介をした。聞くと、驚いたことに誰もが名前を知っている少し大きなサイトの運営者で、今日のオフ会の参加者だと言う。私は大幅の遅刻に少しも悪びれないその女の目に、ネット上でのパワーバランスを現実に持ち込もうとする無神経な優越を読みとった。他人への想像力の欠如と自我肥大、私は自己防衛を兼ねてそう決めつけることにした。加えてこっそりサムソンと恥ずかしいあだ名をつけて、以後主に心の中で呼びかけてやることに決める。サムソンは私たちの顔を右から左をへ眺め、そして左から右へ眺めると聞こえよがしにひとつ大きなため息をついた。合コンで女子参加者が男子参加者にやるような不躾な具合で、だ。こんな長大な遅刻をしておいて、オマエはいったいどこの何様か。私はサムソンの髪をひっつかまえて、モアイ像のざらついた表面に血の出るくらい、泣き叫んで許しを請うまで打ち付けてやろうかと思ったが、そうしなかったのは単にサムソンの頭髪がまるでサムソンのようにスポーツ刈りだったからだけだ。そんな激しい水面下のやり取りに気づいたふうもなく、ノッポが相変わらず癇に障る慇懃さで「じゃー、そろそろー」と移動を促すが、私のはらわたは深甚な瞋恚でたぎっていた。こいつはあとで呪殺だ。
あとひとり誰かいたような気がするが、忘れた。もしいたとしても、忘れるくらいだからきっと大したことのないヤツに違いない。
サムソンを加え、もうどうにも隠しようのないほど漂うふんぷんたるネット臭の中、私は出来るだけ目立たぬように身を縮めながら有象無象の後をついていくが、ほどなく今日のオフの受け入れ側主幹であるところのノッポが、どこの店にも予約を入れていないことが判明した。私は内なる激昂を押さえつつ、寒さと空腹に尖りきった神経にできる限りの穏やかさで、事前に時間と人数をあなたに伝えておいたのは何のためなのですかとノッポに婉曲的に尋ねたが、裸の大将を思わせる精薄的な微笑みを微笑んだだけで何も弁明もしようとせずに、自分の重大な失態に対する追求をそのまま流そうとする。苛立ちにゲロを吐きそうになりつつも、関東の人間はきっと関西の人間とは違うOSで動いているのだろうとコンピュータ少年らしい取りなしを自分で自分にしたが、拳の中で手のひらに食い込む爪の先はもう手の甲の骨に届かんばかりだった。最終的に場所を見つけることができたからよかったようなものの、私は曲がりなりにも歓待される側のゲストであろうに、なぜこんな屈辱的な扱いを繰り返し受けなければならないのかと、もう絶望的に死にたい気分になっていた。こいつはあとで呪殺だ。
当初の開始予定時間を一時間近くオーバーした渋谷は場末の居酒屋で、私は死にたくなるような気詰まりな沈黙に全身全霊で耐えていた。注文を受けに来た店員にした発話がその場に流れた唯一の意味のある音のやりとりだった。後ろの席から聞こえてくるサラリーマンの馬鹿騒ぎが無性に癇に障る。わざわざ東京くんだりまでやって来て、こんな精神的虐待を受けなければならないどんな罪を私が犯したというのだろうか。私のファンというくらいなら、唐突に私のサイトの引用をひとくさりしゃべってみたりしてはどうなのか。あらかた注文の内容がテーブルを埋めても、何か流れのある会話が始まる気配は微塵も無い。皿やグラスの触れあう音が妙に大きく響く。隣に座ったサムソンの側から流れてくるもうもうたる煙草の煙と、時折聞こえる軽い舌打ちが私を追いつめる。何度も対面に座ったノッポとユニクロに目線を送るが、二人は箸袋でする折り紙に夢中だ。間の持たなさに空けたビールのグラスがすでに大量にテーブルを占領しているが、こんなに酔えないアルコールは初めてだった。東京のビールは製造方法が違っているのだろうかと思わずラベルをわざとらしく確かめたりしたが、誰も私のする動作に突っ込んでこない。場の空気を暖める努力を最初から放棄している人たちの中で、私は関西人らしい沈黙恐怖症にほとんど肉体的な切迫を伴った身をよじる苦痛を味わっていた。これは歓待ではなく拷問だ。耐えきれず、私は万勇を鼓して引けた腰とともに卓上の皿に乗せられたウインナーを箸で転がしながら、誰とも目を合わさずに「チ、チンポ?」と脅えた子鹿のように発話してみた。横目でそれを見ていたサムソンが露骨に顔をしかめ、対面の二人は相変わらず箸袋でする折り紙に夢中だった。この小さな事件で、私の存在は完全に封殺された。私は私の感情がかろうじての均衡を崩して決壊する前に、熱い目頭を抱えてトイレに立つことを告げた。こいつらはあとで呪殺だ。
トイレで何度も顔を洗い、赤い目をした鏡の自分に幾度も励ましを入れてから、痛む胃とともにトイレの扉を開けると、サムソンを中心としたたいへん楽しそうな歓談の様子が視界に飛び込んできた。私がビール臭い尿を放出するわずか数分の間にいったい何が起こったのか。思わず怒りにゲロを吐きそうになるが、柱の陰でしばし見守ることにする。席では、私の不在を誰も気にとめることもなく、時折笑い声すらあがっていた。血の出るほど下唇を噛みながら尻を突き出してうなっていると、店員のおねえさんに露骨にイヤな顔をされたので、しぶしぶ席に戻ることにした。しかし、私が席についた途端に、示し合わせたように場は元の冷たい空気を取り戻す。そのあまりに唐突な変化ぶりに、私は思わず首をまわして店内にある隠しカメラを探したりした。
しばらくして、突然サムソンが誰も座っていない席に向けて”受信したキチガイ巫女”としか形容のできない様子で楽しげに、これまでとは想像もできない陽気さでラブクラフト談義を始める。初めは呆気に取られていた私だったが、そのあまりに愉快そうな会話に耳を傾けるうち、誰もいない虚空に対してふつふつと激しい嫉妬が湧いてきた。私は主張しすぎない、だが聞き取るのには充分の低い声で、「ネクロノミコン?」などと呟いてみるが、見事に黙殺される。対面に座った二人はビール瓶でするリコーダーに夢中になっており、私の呟きを拾おうともしない。こいつらはあとで呪殺だ。
それから数分後、唐突に虚空との対話を中止したサムソンは、みるみる表情を消し、また不機嫌に煙草をふかしはじめた。対面に座った二人はウーロン茶についてきたストローの紙袋で伸び縮みするヘビを作るのに夢中だ。私は自分の持つ現実への干渉力の無さを改めてまざまざと感じさせられ、泡の抜けきったぬるいビールに口をつけながら、深く静かに絶望していった。東京、来るんじゃなかった。オフ会、調子にのるんじゃなかった。そしてこいつらは全員、末代に至るまで呪殺だ。
勘定を済ませて店を出ると、誰もいなくなっていた。私は、もう誰の目もはばからずおんおんと男泣きに泣きながら新宿のホテルに逃げ帰った。部屋のベッドに横たわると悶々とした気持ちが高まって来、急に有料チャンネルの小津安二郎が見たくなったので、ビデオカードを自販機で購入しようとするが、財布には一万円札しか入っていなかった。両替を頼んだフロントの女が、どうせアダルトチャンネルを見るためなんでしょといったうすら笑いで一瞬私を見たような気がした。こいつはあとで呪殺だ。その晩、小津安二郎を鑑賞しながら、私は2回オナニーをした。
そのまま寝込んでしまったらしく、翌朝目が覚めると陰毛が干からびた精液で張り付いていた。
今回の東京行での全できごと終了。
追記:実は上記以外にも二人参加を表明した者がいた。が、当日思いきり約束をブッちぎり、そして未だ謝罪どころか一通のメールすら届いていない。社会人としての常識をどうこう言う前に、人間としてどうだろうかと思う。こいつらは間違いなく呪殺だ。
背番号の無いエース
少年野球団の子どもたちがトンボひとつ残して家路につき、人気の無くなった河川敷のグラウンドというものは、いつだってもの悲しい。だが、夕暮れの中、手折ったチューリップの茎をはみ、重なった花弁の重みでそれが真下へ垂れ下がるままに土手へ座り込んでいるそのシルエットは、間違いなく、ネロだった。
11月の秋風が、ネロの焼きすぎた秋刀魚のような腋の臭いをわたしの鼻腔へ運ぶ。ネロの背中に、夕日が射す。
「ネロ」
わたしはそれへ、そっと声をかけた。言葉の意味というよりも、不意に鼓膜を振るわせた音に反応したという感じで、ネロは振り返った。黒とも茶ともつかぬ色のちぢれた髪の毛、薄くなった頭頂、突き出た頬骨、割れた顎、長い睫毛の下には地中海の青をした瞳がわずかに潤んでいた。それはまぎれもなくネロだった。秋も深まり、もう夕方の風は冬の気配を運んでいるというのに、薄手のくたびれた開襟シャツを着たネロの胸の谷間には、黒とも茶ともつかぬ色の胸毛が、どこか昆虫を思わせる様子で、さわさわと妖しくうごめいていた。
わたしはネロのそばの地面を手で軽く払うと、腰を下ろした。抱えた膝越しに眺めるネロの姿は、その容姿にもかかわらずはかなげで、ひどく寄る辺無く見えた。
「ネロは、さみしくないの?」
一日に起こった出来事をネロに話して聞かせるのが、ここ一ヶ月のわたしの常だったが、ネロの悲しげな様子にわたしは初めてネロのことを尋ねてみたくなった。
たとえネロがわたしの言葉を理解していないにしても。
ネロがゆっくりとわたしのほうへ顔を向けた。地中海の青をした瞳が、夕焼けの赤にも侵されない青をしたまま、わたしをまっすぐに見つめた。
「ネロはさみしくないの? オランダ人であることが」
ネロが口を開いた。驚いたことに、わたしがネロの声を聞く、これが最初だった。
「どうして君がぼくのことをオランダ人だと考えるのか、ずっと不思議に思ってきたものだった。そして、君はぼくにたくさんの自己投影を繰り返してきたものだった。それはちょうど友だちのいない小さな女の子がぬいぐるみに話しかけるようなものだった。それは君が自分のことを愛するために、ぼくという異邦人を媒介として利用していたにすぎない性質のものだった」
「まさか…ネロ、あなたまさか」
わたしはわずかに身をのけぞらせた。
「個人の意識と自我とを形成する言語において自分とは一切の共通項を持たないだろうという推測によってだけ、君はぼくという本来なら相容れるはずのない異邦人を、限定つきの王様の秘密を打ち明ける穴として、許容することができたというわけだった。けれどそれは、友情や愛情とはほど遠いものだった」
「ネロ、おお、ネロ」
意味だけを追い、言語を記号として発話する初歩の外国語学習者のように、しかしそれには到底あわぬ流暢さと確かさを伴った口調でネロは続けた。
「君の独白――それはいつも独白だったものだった。意味の双方向性が生まれなかった以上、それは独白というべきものだった――は、とても興味深いものだった。いや、君だけではなかったものだった。この夕闇の土手を訪れるたくさんの人間がぼくの横に座り、しばらくの沈黙のあと、決まって重大な告白を始めたものだった。それから、突然笑い出したり、突然怒ったり、突然泣き出したり、突然何度も繰り返し”ありがとう”を言ったりしたものだった。その感情たちはしかし、ぼくとは本当に完全に無縁なものであったものだった。ぼくは君たちがぼくの異形を見てまずちょっとうろたえ、次に君たち自身で作り上げた世界の解釈を決まって押しつけてくるのに、いつもひどく傷ついたものだった」
ネロは沈んでいく夕陽に正対し、何にも侵されない地中海の青をした目を細めながら、じっとそれを見つめていた。
「けれど、こんなふうにぼくの意味を世界へ伝えはじめたぼくを、ちょうどいまの君のように、誰もがぎょっとして、初めて出会った他人を眺めるみたいに遠巻きに眺めたものだった」
ネロは悲しげに目を伏せた。
「以前、とても好きなポルトガル人の作家がいたものだった。そして、ぼくはかれに会う機会を偶然得たものだった。けれど、会ってからこちらというもの、かれの書いたすべての作品は、ぼくにとって全く意味を変えてしまったものだった。意味の多様性を失い、あの不思議な魔力を失い、ひどく色あせて感じられたものだった。言葉という広義の解釈を可能にする記号が、生きた存在の与える情報によって解釈を極端に狭められてしまったからだと、ぼくは思ったものだった」
わたしは両手をもみしぼった。わたしの中に今この瞬間に使うべき言葉が何も見つからなかったからだ。
「その失望はわかりやすく言えば、ネットでそこそこのカウンターをかせぐホームページ制作者がオフ会の告知を掲示板でしたところ、一通の参加希望メールも届かなかったみたいなものなのかもしれなかった。その失望はわかりやすく言えば、ネットでそこそこのカウンターをかせぐホームページ制作者がオフ会の告知を掲示板でしたところ、一通の参加希望メールも届かなかったみたいなものなのかもしれなかった」
ネロはなぜか、その部分を少し強く二回繰り返した。
「彫刻が生き生きと動いてはいけない、なぜならそこに封じ込められた無限の動きの可能性を奪ってしまうから、と言った美術評論家がいたものだった。ぼくはここに来てから幾度となく、この言葉を噛みしめる機会を持ったものだった」
「ダッチ、ダッチ、そこにダッチ!」
険しい叫び声に振り向くと、土手の向こうから数人の警官が腰から警棒を引き抜きつつやってくるのが見えた。
「ネロ、あなたはいったい…」
「キリストの死を侮辱したために不死を得て、永遠の罪業をさまよいつづけることになったオランダ人がいたものだった」
ネロはのろのろと立ち上がった。
「だが、どうして君たちがぼくのことをオランダ人だと信じることができるのか、ぼくはずっと不思議に思ってきたものだった」
そう言うとネロは、これまでの様子からは想像もつかなかったような凶暴な機敏さで、夕陽に背を向けて駆けだしていった。ネロと、それを追いかけていく警官たちを見送りながら、わたしはただ呆然と立ちつくすしかなかった。
どのくらいそうしていたろう、かれらの後ろ姿が遠くに見えなくなって、ふと気がつくと足下にネロの開襟シャツが落ちていた。走り出す拍子に脱げ落ちたのだろうか。それは汗にまみれ、あちこち破れかけて、手に取ると涙が出た。顔を近づけると、ネロの焼きすぎた秋刀魚のような腋の臭いが、かすかに鼻腔に香った。
そうしてネロは、わたしの前からいなくなった。
永遠に。
ホーリー遊児(2)
ただ聞き手に何の感興も起こさせないことをだけ目的に作られたバックミュージックのためのバックミュージックが軽々しく流れる中、応接間を想定したのだろう、奇妙に生活感の欠如したセットの中央に男女が差し向かいに座っている。女性、カメラに対して深々とおじぎをする。
「みなさん、こんばんは。nWoの部屋の時間がやってまいりました。わたくし、今回より新たにホステスをつとめさせていただきます宵待薫子でございます。さて、本日はゲストに、いま400万本のミリオンヒットで話題沸騰中の”トラ喰え7”、そのシナリオ作家であられるホーリー遊児さんをお招きしました。(向き直り)ホーリーさん、今日はどうぞよろしくお願いします」
「(慇懃に)いや、こちらこそよろしく。前回来たときは逆巻さんがホステスやってたんだよ。彼女、どうかしたの?」
「(少し困った表情でスタッフに助けを求める視線を送る)ええと、逆巻さんもお忙しい方で、あの、スケジュールの方の都合がつかなくなってしまって」
「(含み笑いを口元に浮かべながら)スケジュールの方、ね。業界の事情ってヤツかな。まァ、ぼくもそういうのがわからない人間じゃないから、詮索するつもりはありませんよ(卓上のジュースを取り上げる)」
「(スタッフのする話題を変えろという手真似を見て)ええっと、前回いらしたときは”トラ喰え7”はまだ発売していなかったわけなんですが、ついに”トラ喰え7”発売を迎えて、その後心境の変化などはございますでしょうか」
「ぼくは所詮、(声音に自負を含ませ)シナリオ屋に過ぎませんから、シナリオが脱稿した時点でぼくの中の”トラ喰え7”は終わってしまっていると言っていいでしょうね。ゲームをプレイしているみなさんにとってはまさに”トラ喰え7”は旬であり、現在のことなんだろうけど、ぼくとってはもうすでにはるか過去のことなんですよ(サングラスの位置を神経な様子で直す)」
「なるほど。(膝上の台本に目をやりながら)では、もうすでにホーリーさんの目は次回作に向けられているということですか」
「そういうことだね。ぼくのここには、(人差し指をかぎ爪形に曲げて、こめかみをコツコツと叩いてみせながら)次回作の構想が半ば以上すでに構築されているんですよ」
「(新人の功名心に思わず身を乗り出して)それは、いったいどのようなものになるのでしょうか」
「(ずるい笑みを口元に浮かべ)おっと、これ以上は勘弁して欲しいな。ぼくくらいのシナリオ作家になると口にするほんのわずかの情報さえ、株式などの経済の流れに影響を与えかねないからね。誰もが文字通りの千金の千倍をぼくの前に積んでも手に入れたいと思うそれを、(鼻で笑って)こんな場所でおいそれと公開するわけにはいかないよね。(うつむいた下から見上げるようにして)ま、もっとも、今のは一経済人としての立場からの発言であって、一シナリオ作家としての立場からならシナリオの一端ぐらいを語って聞かせることは可能なわけだが……」
「(空港で芸能レポーターを振り切るときもかくや、というような勢いで甲高く)今回のゲストはあのホーリー遊児さんだということも手伝いまして、さまざまな意見や励まし、ご質問のお便りを当番組へたくさんいただいております。今日はそれらの声にお答えねがうという形で進めさせていただきたいと思いますが、よろしいでしょうか(おびえたようにホーリーを見る)」
「(不服そうに)ま、好きにしたらいいんじゃないの。(そっぽを向き、小声で)テレビ屋風情めが」
「(ホッとした様子で)ありがとうございます。では、今日はじめてホーリーさんの出演を知った方もいらっしゃいますでしょうし、今からメールと当番組の掲示板でもホーリーさんへのお声を受けつけ」
「(さえぎって)ダメだ」
「(スタッフの出す指示から目を離し、きょとんと見返して)は?」
「(紳士的な見せかけの下にある野獣の本性で、ぎらぎらと)購入したハガキをポストへ投函しに行くといった程度の能動性もないままに発信が可能な媒体なんぞで送られてくる意見にロクなもんはねえ。(本当にその顔が見えているかのような強さで虚空をにらんで)やつらはその手軽さの分しか推敲しねえし、その手軽さの分しか考えねえ。ネット経由の意見は全部破棄するんだ。(有無を言わせぬ強さでスタッフをも同時ににらみつつ)いいな?」
「(泣きそうになって)あ、あの、でも」
「(全身をぶるぶるとふるわせながら)世界という手の届かぬ至高の悪女を、誰とでも寝る安宿の淫売におとしめた電子回線なんぞに用は無いってぼくは言ってるんですよ、宵待さん……(モニターを目の端に確認すると、急にテーブルをひっくり返さんばかりの勢いで立ち上がり、振り上げた右足を卓上に音高く打ちつけて)メールアドレスのテロップ消せや、コラアッ! それともおまえから先に消されてえのか!」
「(腰を抜かしてテーブルの下へずり落ちながら、必死に封筒のひとつをつかんで)わ、わかりました、あの、では、さっそく封書で来たこちらを読ませていただきたいと思います。(泣き笑いで)あの、いまテロップ出てたかと思いますけど、そのアドレスにはメール送っちゃダメ。絶対送っちゃダメですから! ほ、『ホーリーさん、はじめまして。みんなこんなふうに書き出すんでしょうけど、ぼくは”トラ喰え1”のころからの、ホーリー遊児の大大大ファンなのです! 今回の”トラ喰え”もまたすばらしいテキストの連続で、ずっとティッシュの箱を横に置いてプレイしています。でも、ちょっと困ってることがあります。ぼくは”トラ喰え1”のころからのファンなので全然気にならないんですが、この前”トラ喰え”を一度もプレイしたことがない友だちにすすめたら、グラフィックがショボいからやる気がおきないって言われたんです。確かに最近の実写と見紛うばかりの他社のゲームと比べるとそんなふうに思えるのかもしれませんが、ぼくは”トラ喰え”の持つ昔から変わらない、職人芸的な味のあるグラフィックがとても好きです。どうぞ、このことについてのホーリーさんのお考えをお聞かせ願えませんか』……(おびえるように、ハガキから目線を上げないまま)あ、あの」
「(ソファに深く腰掛けたまま、両手を腹の上でゆるく組んで、半眼で)ふむ、その君はなかなかいい切り口を提出してくれたと思うね。なぜなら、それはいま、”トラ喰え”のみならずすべてのゲームが直面している根元的な問題であるからだ。つまり、”リアルさを追求していけばいくほどゲームは我々の現実へと際限なく近づいていき、ついにはその存在理由を自ら殺さざるを得なくなってしまう”というジレンマだよ。他社の同規模の作品に比べ、”トラ喰え”の表現は記号的だと表されることが多い。例えば、ゲーム中のキャラクターが死ぬときに、”ぐふっ”という発話をした後、明滅を繰り返して消えるといった表現がそれに当たるんだけど、これは家庭用ゲーム黎明期の、マシンのスペックの低さによる苦肉の策だと思われているようだが、実際のところ全然そうではないんだ。すべて、ぼくの指示による意図的なものなんだよ。”機械の限界による表現の制約がゲームをゲームの形たらしめ、メディアとして成立させている”という、最近になって皆がようやく気がつきはじめてきた、その鬼子的な存在の発生理由に、ぼくは最も初めから気がついていたというだけのことなんだ。つまり、ゲームは、”魔物に受けた背中の爪あとから赤い血液と緑の毒液をとめどなくしたたらせながら、徐々に体温を失って冷たくなっていく兵士の末期”を視覚的に、リアルに彫刻してはいけない。ゲームがゲームであり続けるためにね。ある場所にタブーが存在するのには、それがどんなに我々の持つところの近代的自我からしてばかばかしく思えるような場合でも、必ず何かの意味がある。そして、ゲームにとってのタブーをぼくはただ侵さないようにしているだけなのさ(キザに人差し指でサングラスの位置を指でなおし、斜めからポーズを作ってカメラ目線で見上げる)」
「(よくのみこめていない表情で、言葉だけで)なるほど、なるほど。(何かを恐れるように矢継ぎばやに)では、次のお便りです。『みなさん”トラ喰え”のことをほめますけど、私にはどこがいいのかわかりません。20時間ほどプレイしたんですけど、それ以上続けることは断念しました。だって、あまりにシナリオが女性蔑視的なんですもの。旧態依然とした家父長制の中で、ほとんど身売りに近いような形で結婚させられる女性の話とか、しばらくは我慢してたんですけど、もううんざりしてやめてしまった。特に、”たくさん子どもを生まなくっちゃ”という女性の台詞は無神経に過ぎます。みなさん、どこがいいんですか、本当にいいんですか、”トラ喰え”?』……(しまったという表情で全身をこわばらせながら、ハガキから顔を上げることができずに)い、いかがでしょうか」
「(静かに)ビチグソだな」
「(自分の耳を疑うように、見上げて)は?」
「(一音一音区切るように)ビ・チ・グ・ソだって言ってんだよ。生まれつきの不出来な顔面を性格の歪みがさらに歪ませて、両親と親戚からの無言の重圧に打ちのめされて弱り切って、その反動ですべての女性性への発言へ攻撃的になった30女ってとこじゃねえのか。もしくは自分の女性性を否定するようないでたちと言動を好んでする肛門性愛万歳三唱のおたく女かだ。ファンタジーってのは、”男が男であり、女が女であった”世界のことを描く方策なんだよ。資本主義と西洋文化に塗り替えられた哀れな近代人としての自分の脳みそを、人類の歴史の流れの中で対象化することもできないほどの知能で、自分の持つ女性性の一部を否定されたから、あるいは無視されたからというだけの個人的な理由で、すべての男性性を逆に取り込もうと必死になってんのが、こいつの似非フェミニズムの正体なんだよ……(激高して)ビチグソめらがッ! おまえらはおまえらだけに隷属する、おまえらにだけ気持ちのいい一様な価値観の言葉が聞きたいだけなんだよ! ムービーの合間に戦闘が数十回だけあるような公称RPGか、チンポの想像できないような美形の男が耳に心地よい言葉だけでおまえにオナニーの種を提供する腐れ疑似恋愛ゲームでも永遠にやってろ! ”トラ喰え”はチンケな物語どころじゃねえ、世界そのものなんだよ! おまえを不快にさせるような人間のいる、おまえを不安定にさせるような他人の幸せのある、ひとつの完成した世界なんだよ! それを受け止めることもできねえようなパパの陰嚢の中の未成熟さで、歴史から断絶された偏狭な現代的意識だけで、おれの”トラ喰え”をプレイしてんじゃねえ! クソがッ!(大理石のテーブルをかかと落としでまっぷたつにする)」
「(椅子の下で両手で頭を押さえて)ひいいッ。ごめんなさい、ごめんなさぁい」
「チッ、(血の混じった唾を吐いて)謝るくらいなら最初からそんなハガキ読むんじゃねえよ。(スタッフが割れた大理石のテーブルを運び出し、代わりに木製の長テーブルを持ってくる)で、どうなんだよ、もう終わりか、(凄まじい目でにらんで)ああ?」
「う、うふ。(泣き出しかけるが、自分を勇気づけるように背中を張って)つ、次のお便りです。と、『”トラ喰え”、もう売っちゃいました。6800円だったかな、売値。なんか全体的に、シナリオとか古くありません? フラグ立てるのにあっちこっちで話聞かなくちゃならないの面倒だし。最後まで感情移入できなかったな。クリアしなかったけど(笑)』……(読み終わった途端にハガキを放り出し、椅子の後ろに隠れる)すいません、すいませぇん」
「(恐ろしい穏やかさで、膝の上に両手を組んだまま微動だにせず))”トラ喰え”が意図しているテーマは数あるが、そのうちで最も根元的なものは”父と子の対決”であると言っていいだろう。近年”父と子の対決”を当初のテーマとして打ち出しておきながら、物語が進むにつれて制作者の中にある問題が実は父親ではなく母親との関係であることを露呈していった映像作品があったが、あれは”トラ喰え”と非常に好い対照を為していると思う。息子が切断的別離を強行した後に父との和解を迎えるというのが、聖書の昔からの父子対決の構図なんだが、”トラ喰え”のメインストーリーはそれを忠実に踏襲していると言える。加えて、象徴的に言うなら、ゲームをクリアーするために歩まなければならない不可避なストーリーの流れを構成するテキストが、人を見ぬ先へと有無を言わせぬ強さで駆り立てるもの、すなわち父性を象徴し、逆にプレイヤーの意志において触れても触れなくてもかまわないが、どちらを選ぶにせよ常に変わらずそこへ在り続ける世界の住人たちの上へ与えられたテキストが、決してゆるがず受け止めるもの、すなわち母性を象徴しているんだよ。(震える声で)それを、(突然激しく立ち上がり、テーブルを手刀でまっぷたつにする)したり顔の、腐れおたく共がッ! 母性に取り込まれる程度の弱い自我しか持てねえ、父性と対決する段階にまで成長できてねえクソおたく共がッ! ”トラ喰え”はなァ、ちゃんと父子の対決を済ませた、まっとうな社会参画を済ませた、精神的にも肉体的にも真に成熟した大人のための、あるいはそうなるための強さをあらかじめ持った未来の子どもたちへする、人間賛歌のゲームなんだよ! どこの誰がおまえたちみたいな母性とヌルヌルの、日なた水のボウフラどもに当ててメッセージを送ると思えんだよ! 父との問題にたどりついてすらいない、未分化の卵子風情のおまえらぐらいに、おれのシナリオの持つ高い人間的成熟がわかるはずがあるかよ!他人が持つ価値観や世界理解が自分のそれより高いものであるかもしれないことを感じとるどころか想像すらもできない、ほとんど向こうを見通せる薄皮一枚の差が永遠の差と等価であることへの悟りに絶望したこともない、大自然のゆぅるいゆぅるい水気の排泄物共が!(後ろ手に応接用の巨大なソファをつかむと、セットの外、スタジオに向けて巴投げの要領で放り投げる。支柱をヘシ折られ、撮影台がクルーごとセットの中へ倒れこんでくる)」
「(もうもうたる土煙の中から這いずるように身を起こして)そ、それではこちら、時間的にも最後のお便りになるかと思います。ど、『どうでもいいけど、あのムービーはヤバイんじゃねえの?』……もういや、いやあっ!(脱兎の如くスタジオの外へと向けて駆け出す。それに呼応するように、スタッフたちも機材を放り出し、次々と走り去っていく)」
「(横倒しになったカメラからの、怪獣特撮でやる踏みつぶされた街のアングルで)クソがぁぁぁぁぁッ! 俺の至高の作品を、誰があんな”おもしろポリゴン四コマ”としか形容できないおチンポ映像で台無しにしろって言ったよ! (絶叫が喉を裂いたのだろう、血煙が混じった咆吼で)クソがッ、クソがッ、クソがぁぁぁぁぁッ!」
「(つまづきつつ、まろびつつ、必死の逃走に乱れた衣服で)本日の、ゲストは、ホーリー、遊児さんでした。これで、nWoの部屋を(画面を斜めに走るノイズが次第にひどくなり、唐突に画面がかき消える)」
崩れゆく聖域
「ぼくは自分も見えないほど傲慢だったから、きっと君になにかしてやれると思ってた」
木々が重なりあい、互いにもたれあうかのように深く深く複雑に生い茂った暗い森。近くにある国道から時折車のライトが照らすが、番人のように密集してそびえる木々に遮られ、その奥はまったく様子がうかがいしれない。枝々の隙間から、かわいた血の色をした月明かりだけが微かにそこを照らすことができる。月明かりの下、小さな子どもなら頭まで埋まってしまいそうな木々の下生えに、もみあうふたつの人影が見える。そのうちのひとりはもうひとりの半分ほどの身長しかない。獣のような低い息づかい。突然の魂消る絶叫。速い風が雲を押し流し、斜めに差し込む月明かりが人影の上を照らす。ひとりの少女が下生えから足を引きずるようにして出てくる。身にまとう高価なものであったのだろう洋服は左胸の部分が無惨に引きちぎられ、その下にあるぎょっとするような生めいた薄い赤色の乳首の周辺には、5本の指をそれぞれ数えることができるほどくっきりと青く、手のひらの形のアザが浮いている。フリルのついたスカートは中ほどから裂かれ、少女の内股を伝って恐ろしいほどの量の血が流れつづけている。ほの赤い月明かりに照らされた横顔は、その年齢の子どもの精神では決して持ちえないような、一種凄惨な憎悪に引き歪んでいる。
「(手の甲で頬についた血をぬぐい、荒い息の下から)ちくしょう、あんなクソ野郎、前は何人だって簡単に殺せたのに! ちくしょう、ちくしょう……誰ッ!(物音に、洋服の残骸をかき集めるようにして後ずさる)」
「(木の後ろから、奇妙に人間めいた印象を欠いた幽鬼のごとき様子で男が現れる)江里、香」
「(警戒した様子を解かず)お父さん。よかった」
「(少女の無惨な姿に、恐ろしく低い声で)まさか、失敗したんじゃないだろうな」
「(瞬間ひどくおびえたような表情を見せるが、何かをはねのけるように強く)失敗? ハ、私が失敗するわけないじゃないの! 殺したわ、もちろん殺したわよ。このナイフの先端が頸骨を砕くほどに何度も突き立ててやった。白土三平の漫画みたいに、水平に数メートルも血を吹き出して、下衆な悲鳴を上げながら死んだの、ママ、ママって。そりゃ本当に無様で、みじめな…(言いかけ、急に片手を口に当てると身体を折り曲げるようにして嗚咽する)」
「(その様子を見下ろすようにしながら)そうか。確かに殺したんだな。ならいい。(感情も抑揚も全く感じられない声で)よくやったな、江里香」
「(少女、男の声の調子に嗚咽を止める。漏らしてしまった弱みを恥じるように、気丈に胸をそらし)死体の処理はどうなってるの」
「(事務的な口調で)今回は非常に簡単なケースだ。あの男はおたく的な引きこもりの典型だったからな。月に何度かはバイトに出ていたようだが、30を過ぎて定職にもつかず、両親はじめ親戚縁者からは軒並み勘当されている。ころ合いに社会から断絶され、今までの中でも最も処理しやすい死体のひとつだろうな」
「(苛立たしげにもつれた髪を手櫛でひっぱりながら、形だけの相づちで)そう、それはよかった。(さりげない話題を切り出すように)ところで、猊下は?」
「(男、初めてわずかに困惑したような表情を浮かべて)それは、わからない。ただ(口を開こうとして黙り込む)」
「(眉を寄せて)ただ、何?」
「(何かを推し量るように宙へ手のひらを指しのべて)猊下の虚構力が弱まってきていることは事実だ」
「(いらいらした様子で)あなたが何を言ってるのかわからないわ」
「おまえにもわかってるはずだ、江里香。いや、名前を持たないおれなどが言うまでもなく、おまえたちには何の障壁もなく感じることができるんだろう。それに、(侮蔑の表情を浮かべ)現におまえは取るに足りないあれくらいの獲物に逆襲され、犯され、ほとんど殺されそうになっているじゃないか」
「(薄明かりにわかるほど、サッと顔を紅潮させて)私が油断しただけよ! (胸に片手を当て)猊下には何の関係も無いわ」
「(聞こえないかのように)各地の実行部隊からの消息が次々と途絶えている。(ぽつりと)潮時かもしれんな」
「(首を左右に振って)何、言ってるの。いったい何を言ってるのよ」
「猊下の虚構力が現実を束縛できなくなりつつある。おれたちの形を規定できなくなりつつある。(唇の端を弱く歪めて)いまなら抜けられるさ」
「(崩れていく何かを見たくないかのように目をきつくつむり、絶叫する)お父さんッ!」
「おまえは傷つけられた子どもだった。おれは壊れてしまった家庭の償いをしたいだけの大人だった。夢を見ていたよ、ずっと。長い、長い夏の日だまりのような。おれはおれの家族を恢復することができるかもしれないと思った。だが、それは嘘だった。すべてつたない誰かの手による作りごとだった。洗脳から解けた人のように、ある朝おれは奇怪なギニョール人形を抱きしめて、廃墟でダンスを踊っている自分に気がついたのさ。(後ろめたさを隠すように陽気に両手を広げて)言っておくが、おれは猊下を恨んじゃいないぜ。(うつむいて)ただ、おれが気づいてなかったのは、それが他人の虚構だったってことだ。(間。唐突に顔をあげて)おれといっしょに逃げないか。そうして、誰のものでもない、ふたりだけの、新しい家族っていう虚構を始めないか。(すがるように)このままじゃ、そう遠くないうちにおまえは殺されちまうぞ」
「(殉教者の静かさで首を振って)ありがとう。でも、もう決まってるの」
「(力を無くして)そう、か。おまえは猊下に名前をもらった人間だから、そう言うだろうとはわかっていたよ。わかっていたんだけどな(語尾が弱々しく消え、男、顔を伏せる)」
「(男の感傷を遮る酷薄な冷たさで)さようなら」
「(男、口を開きかけるが、きびすを返して行こうとする。と、立ち止まって振り返り)なァ」
「(感情のない微笑みで)なぁに」
「(ためらうように)小鳥猊下って、いったい何なんだ?」
「(最も美しい数学の解答をうたうように)ただのホームページ制作者よ」
「(失う苦悩を声に含ませ、強く)だったら、なぜ!」
「(ひどく大人びた表情で、憐れむように、小さな子にかみふくめるように)誰かを愛するとき、崇高であったり、美しかったり、尊かったり、かしこかったり、価値があったり、そんな必要は少しもないの。ただ、それが愛であればいいんだわ」
「(男の顔が泣きそうに歪むが、すぐに無表情を取り戻し)さようなら、江里香」
「さようなら、(一瞬の逡巡の後)…お父さん」
男が森を抜け国道へと降りていくと、少女はただひとり暗い森の中へ残される。しばらくの間、何かに浸るように目をつむり立ちつくしていたが、やがて足をひきずりながら、重なりあい、深く深く複雑に生い茂った、すべてを拒絶するかのような暗い森の中へとひとり帰っていく。
なぜなにnWo電話相談室(2)
薄暗い室内。パイプ椅子に腰掛ける2つの人影。1人はぎょっとするほど低い身長で猪首、見えるのはほとんどシルエットだけであるのにひどく奇形な印象を与える。2人の前には折り畳み式の長机があり、花の生けられていない花瓶と黒電話が置かれている。部屋の反対側の隅に置かれたハンディカメラ。
壁際のブラインドが開き、室内が明るくなる。
「(やくざなやり方で高く結い上げた髪から櫛を引き抜き、ざんばらに振り回して)さァ、今週もこの時間がやってきたよ。ちょいとセットが簡素になっちまったが、まァ、それもこれもnWoがいよいよ本格化して、余計なコケ脅かしや客寄せの必要もなくなってきたってことさ(かけていた三角メガネをはずすと、将棋の駒でするような要領でパチリと机の上へ置く)」
「(せむし、ねじ曲がった背骨を更に前倒しに曲げながら両手で腹を押さえて)うゥ、ひもじいよゥ。姉御、今夜もまたソーメンですかい」
「馬鹿野郎ッ(せむしを平手で激しく打ちすえる)、カメラ回ってんだよ! 地上波から追ンだされたくらいで、ナニ情けない声出してんだい!」
「(今度は両手で頭を押さえながら)うゥ、すまねえ、姉御。おれァ、腹が減って腹が減って」
「(乱れた髪を手櫛でかきあげながら)この番組が売れりゃあ、肉でも何でも喰わしてやるよ。ちったぁプロ意識を持ちな。(と、机上の黒電話がけたたましく鳴り響き、受話器が漫画的に飛び跳ねる)電話だ。もしもし」
「(小声で)あ、あの。nWo電話相談室さんでしょうか」
「オヤ、聞いたことのある声だね」
「あの、ぼく以前に一度そちらにお電話したことがあって、あの小鳥です、小さな鳥って書いて小鳥。あの、それで早速相談なんですけど、最近ぼく、なんかこう、すごく不安定なんです。部屋にひとりでいるときに、考えがまとまらなくて、あの、ぼんやりしてて、ほんとなんとなく側にあった電話料金の督促の封筒の裏に、先の丸まった鉛筆で、『この世の中にはおおぜいの人間がいる』って書きつけたら、急に大粒の涙がぽろぽろ出てきて止まらなくなって、でも他人に対して共感できるっていうか、そういうのじゃないんです。外に出て電車とか乗ったら、たくさんの人がいるのにほんといらいらして、心の中で『みんな死んじゃえ』とか思ったりするから」
「(耐えかねたように机の上へ飛び乗って)ここはキチガイ病院じゃねえんだぞ、テメエ!」
「(疲れた様子で腕組みしたまま動かず)私たちよりカウンセラーの方が君のお役に立てるんじゃないかい」
「あ、ごめんなさい、最近あんまり人と話してなかったから、つい冗長になって、あの、いつもはこんな感じじゃないんですけど。あの、何を話すんだったかな。えと、前も言ったと思うんですけど、ぼく、ホームページ持ってるんです。最近は以前ほどは人も来なくなって、閑散とした感じなんですけど、あの、掲示板とかあって、メールとかあれから来ないんですけど、掲示板にはときどき誰かが、お世辞なんでしょうけど、はじめましてとか、面白かったですよ、とか書き込んでくれて、それがちょっとした心の助けだったりするんですけど」
「(急に遮って)もういい、もういい。アタシもこいつも機械にうといから編集とかできないんだよ。ズバリ、君の掲示板を荒らしたのはこいつだ(合図とともにせむしが隣の部屋とのしきりを外す)」
「(口に噛まされた猿ぐつわを解かれながら)…ッざけんな、ふざけんなよ、こんなことしてただで済むと思ってんのかよ! (せむし、無言で男の胸に取り出したナイフを突き立てる)ぎゃあッ!」
「(気のない表情で)30分のコンテンツって決められててね。まァ、前戯の無いポルノビデオみたいなもんさね」
「(嬉々として)あ、待って。ビデオ撮らなくちゃ、ビデオ。この日のためにDVDレコーダー買ったんだよ。アナクロでネット依存症の劣った生命が終わる瞬間を永久に劣らないデジタルの映像で保存できるように……あれ、逆巻さん、どのチャンネルでやってるんですか、あれ」
「イヒヒ、肋骨と肋骨の間を擦過音を立てながら鉄の刃が滑り込んでいく感触。おっと、動くなよ。(男に口づけするかのように顔を近づけて)わかるかァ、いまどの臓器も傷つけないままナイフの刃がおまえの身体に収まってんだ。心臓の太い動脈の横に鉄の冷たさを感じるだろう。(せむし、ナイフを引き抜き、今度は男の腹部に突き立てる)ヒヒ、ビビッたろ? 今度は膵臓と肝臓の隙間にナイフ通してやったぜ? (涎を垂らしながら)イヒヒ、たまらねえ、命を冒涜するこの感覚、たまらねえぜ……いくら流行にしたって、連中の痩せた精神にゃこの贅沢はわからねえだろうぜ。価値を知ってるからこそ、それを傷つけることでたまらなくオッ立つんじゃねえか!」
「ああ、もう、どうなってるの。逆巻さん、逆巻さんたら。(急に激しくテーブルを両拳で殴りつけて)無視するなよ、ぼくを無視するなよォ!」
「(腹のナイフを気遣って細く呼吸しながら、弱く)やめろ、やめろよ、こんなことして、いったい、タダですむと思って、(せむし、身体の比率から考えても異様な大きさの分厚い手のひらで男の頬をしたたかに打ち付ける。男の口から血の飛沫とともに吹き出した奥歯の破片が、窓ガラスに高い音を立ててはねかえる)」
「(異様なかぎろいを含んだ目で)虚構につかりすぎて、おまえら人が人を現実に壊せるって実感を失っちまってるんだ。仮の言葉、似非の暴力、馬鹿め、人間が発するもので架空のものなんざひとつもねェ! おれァ、学はねえがどのくらいの強さで殴ればオマエの頬骨と顎がグシャグシャに砕けてメシが食えなくなるかは身体で知ってんだよォ! メシ喰って自分が生きてるなんて意識したこともねえんだろが、なんか言ってみろよ、オラァ! 腹減って気が立ってんだよ!(せむし、男の襟首をつかんでゆさぶるが、男の口からは顎の骨が砕けたらしい証明の大量の鮮血が吹き出すだけである)」
「(先ほどまでとはうってかわった明るい調子で)さて、ここで視聴者の皆様にクイズです。みなさまがご覧になっている、腹にナイフをつきたてられ、顔が変形するまで殴られているこの男、果たして今から24時間後に生きているでしょうか? うぅん、難しい問題ですね。このせむし、ガウル伊藤とはもう十年来のつきあいになるんですが、かれの気性の激しさといったら、スゴイんです! 先日も北海道で気がつかずにクマの死体を丸三日殴り続けていたほどですから! あら、ヒントを出しすぎちゃったかナ? 24時間後に男が生きていると思ったアナタは今画面に出ている電話番号の末尾にある×の部分で”1”を、死んでいると思ったアナタは”2”をダイアルしてください。(惨劇を背後に、目の前の宙空を右から左へと指でなぞりながら)電話番号は画面に出ているこちらですよ~、画面に、出て、い、る? (ビデオカメラのモニターを横目で確認する。間。熱狂の冷めた突然の異様な静かさで)なんで、テロップが出てないんだい」
「(他に誰もいない部屋で気狂いの目でテレビを揺さぶりながら)どうなってんだよ、このボロテレビがァ! 見せろよォ、俺にあのペニスを上の口から出す残虐生け花を見せろよォォォォ!(口の端から気狂いの記号の泡を吹き出す)」
「(気狂いの目でビデオカメラを揺さぶりながら)どうなってんだよ、このクソビデオカメラめ! あたしゃ、天下のハリケーン逆巻だよ! そのアタシに、恥、恥をかかせる気かい! 馬鹿に、機械までアタシを馬鹿にしやがって! あたしゃ、逆巻だよ、天下のハリケーン逆巻なんだよォォォォ!(口の端から気狂いの記号の泡を吹き出す)」
「(血糊で汚れた全身に気づいたふうもなく)一寸刻み、五分刻み。キヒヒ。そォれ、いよいよ、おまえをおまえの大好きなデジタルとははるかに遠い単位に分断してやるぜ!(腹からナイフを引き抜き、大きく振り上げる)」
「(バラバラに分解されたテレビの傍らに座り込んで)裏切られた思い出、反故にされた約束、この世は無だ。ハ・ハ・ハ、こんな瞬間にさえ虚構から言葉を借りないとしゃべれない自分を知っている。ハハ、アハハ、おかしいね。(無表情で滂沱と涙を流しながら)みんな、死んでしまえ」
バーバリアンさん
「ヒスの女房を抱いた~、股を広げて座らせた~、アゴを反らしもって出した~、WarCry、WarCry、WarCry~」
「あれ、そのダミ声はもしかして、バーバリアンさんやおまへんか」
「なんやワレ、何なれなれしく話しかけてきとんねん」
「相変わらず声、大きいでんなぁ。ホレ、そこの子ども目ェ開いたまま金縛りみたいになっとるがな。ぼくや、この顔見て思い出さへんかな」
「なんや、自分かいな。えらい久しぶりやな。ここんとこ姿見ぃへんかったけど、どないしとってん。そや、自分なんか宗教やっとってんな」
「そうなんですわ。ひとり改宗さしたら何万いうて、一時はえらいもうかったんですけど、最近はさっぱりや。こないだも幹部がテレビでつるし上げられましてな。うち、えらいことなってますねん。ぼくの娘、今度6才になんねんけど、小学校入られへん」
「社会の風潮やな。強いのんの揚げ足とって、コケたら総攻撃や。みんなタマっとんねや。少しでも弱み見せたらはけ口にされる、えらい世の中やで」
「まったくですわ。バーバリアンさんのほうはどないですのん。最後に会ったときはずいぶん羽振りよさそうやったけど」
「ワシ、もう最近全然やわ。前は一晩で5、6回はいけたんやけどな。今では1、2回がせいぜいや。ワシ、人がええので売っとるから、誘われたら断れへんやろ。そやから、今では怖うて一人で京橋歩かれへんわ」
「何の話ですねん」
「話かわるけど、さっきそこの角であいつに会ったで。名前出てこんがな、ホレ、昔コンパの帰り鴨川で流れた」
「ああ、あいつでっか。名前出てきまへんけど。あいつ、今どうしてますねんや」
「ずいぶん調子ええみたいやで。『ぼくに貫通されたらどんな女も欲望の芯に火がつくんや、これもゼロ金利解除のおかげや』ゆうて、ずいぶん息まいとった」
「うらやましいかぎりですな。ゼロ金利解除でっか。それでうちとこも盛り返しますやろか」
「知らんわ。ワンカップ安なるんやったらええんやけどな。安なるんか」
「わかりまへんわ。安なるかも知れませんな。そや、ぼくもさっきそこの角であいつに会ったんでしたわ。名前出てきませんがな、ホレ、昔コンパの帰り神社で石灯籠倒した」
「ああ、あいつか。名前出てけえへんけど。あいつ、今どうしてんねん。暗いやつやったけど、ちゃんと就職しとんのか」
「それですわ。就職はしたんですけど、就職したとこがなんと死体を処理する会社なんやて」
「へえ、そんなんあるんかいな」
「なんか、孤独死の老人とかの腐った死体を片づけるんや言うてましたわ。『ついこないだまでは競合相手なんかおらんかったから、一体あたりの単価なんてあってないようなもんで、うちのとこで勝手に決めれたんですけどな。タケノコみたいにぽこぽこ同業者が出て来て、今なんかひどいですわ。死体探して営業しますねんやで、おたくで人死にありまへんかァ言うて。こないだなんか腐った卵投げつけられましたんや、出てけェ、この死に神め、ゆわれて。それやなくても実際ブルーなりますって、慣れへんパソコン使うて手作りのチラシに、”死体一体20万、応相談”とか打ち込んでたら。それもこれも孤独死する人間が増えすぎたのが原因なんでしょうなァ』ゆうて、えらいたそがれてましたわ」
「社会の高齢化と、核家族がさらに細かい個人へと分断された結果やろうな。そら、ええ商売なるわ」
「あの、バーバリアンさん。ひとつよろしいやろか」
「なんや自分、急に改まって」
「うちの、どうしてますやろか。フローリングの床に油まいて火ィつけて、『この離婚届に判押すか、うちといっしょに焼け死ぬか、どっちか選び』ゆうて逃げたうちの女房は、どうしてますやろか」
「……」
「なんかゆうて下さいよ。ぼく、ちっともうらんでませんのやで。あっ、待って、待って下さい、バーバリアンさん。アカン、跳んでってもうたがな。昔から都合の悪いことがあるとすぐに逃げるのがあの人の悪いクセや。ああ、マルビル跳びこして行ってもうたがな。あれさえなければ、ホンマええ人なんやけどなぁ」
デ・ジ・ギャランドゥちゃん(2)
デ・ジ・ギャランドゥちゃんは24歳辰年生まれ、巨大企業のエゴに日夜翻弄される関西在住のしがないサラリーマン。インターネットでうっかり自己実現してしまうようなそこつ者。でもね、愛の本当の意味はまだ知らないの。
「日本橋支店に移ってきて、はや半年。おたくたちの生態には慣れたつもりだったんだけどにゃあ。心なしか力弱い猫語尾です」
「どうしたの、デ・ジ・ギャランドゥちゃん。あなたはとても疲れているように見えます」
「ウガンダ先輩。何でもないんです」
「部下の心のメンテナンスも私の仕事のうちです。遠慮せずに、何があったか話してみてください」
「はい、ありがとうございます。さっきのことなんですけど、お客様の一人が私のところにやってきて、何かを棒読みするような感情の無い調子で、『アンタのホームページ見たけど、全然おもしろくないよ』と異常な早口で吐き捨てるように言って、そのまま立ち去られたんです。本当に唐突で、それにあっという間のことで、私、もうなんだか怒るというよりもびっくりしてしまったんです」
「うん。それは災難でしたね。でも、ここではよくあることです」
「それに、すごく近づいてきたんです。思わずこっちが上半身をのけぞらせるくらいにです。吐いた息のにおいでお客様が今日何を食べたかわかるくらいにまで近づいてきました。早口でと言いましたけれど、本当はそんな生やさしい感じではありませんでした。同じ人間の発する言葉のはずなのに恐ろしく機械的な、人間が発話するときに必ず含まれる感情的な意味を欠如したまま出される音の連なりで、私はほとんど圧倒されてしまいました。それはもう、なんと言えばいいのでしょうか、言葉ではなくてただのノイズでした。何かの外国語を習いたての人がしゃべる言葉を、その言葉を母国語とする人が聞いたときの明らかな違和感とでもいうのでしょうか。おたく様、いえ、お客様の奇行にはもう慣れているつもりだったんですが、正直参りました。魂が疲弊した感じです。もっと表層的なことで言わせてもらうなら、初対面の人間にあそこまで不躾なことが普通言えるものでしょうか」
「私たちがかれらを拒絶できるのは、かれらが法律に抵触する行為を行ったときと、かれらが金を払わなかったときだけです。それ以外の瞬間は、何があろうとかれらを受け入れなければなりません。それが私たちの鉄則ですよ、デ・ジ・ギャランドゥちゃん」
「はい。今日の件は私が個人的に受けた衝撃として今後の参考とするにしても、かれらのその驚くような人と人との距離感を読みとる能力の欠如に加えて、私に深甚な疑問と懊悩を投げかける問題が実はまだあるのです。聞いてくださいますか」
「もちろんです。それはいったい何なのですか」
「それは、この店舗に配属されてからというもの、自分の取り扱っている商品に対する責任と市場の傾向の確認から、俗に表現されるところの『美少女ゲーム』をプレイする機会が頻繁になったのですが、どうしてかれらのするこれらのゲームは、女性の持つ処女性にあそこまで重大な意味を与え、固執するのかということなんです」
「この業界に入ってすでに幾年も過ごしてきてしまった人間にとって、たいへん新鮮に感じられる素朴な質問ですね。閉じてしまった小さな集団の中に生まれた戒律というものは、それがどんなにより大きな集団の規範に照らしておかしなものであったとしても、皆がそこに慣らされてしまっているので、批判の対象にはならないものなのです。あなたの疑問はもっともですが、それは価値観の相違という理解で許容することはできないでしょうか。例えばイワシの頭を神様として毎日拝む老婆がいたとして、誰が彼女をそれだけの理由で自分たちの社会集団から排除しようとするでしょうか」
「それは詭弁ではないかという気がします。文化の比較と、人間の生来の比較は同じ次元において行われてよいものなのでしょうか。あの、生意気を言ってすいません」
「どうか気にしないでください。私はあなたとは対等の話し合いをしたいと思っているのですから。それで、あなたはどう考えるというのですか」
「私の素人判断に過ぎませんが、もってまわった表現になって申し訳ありませんけれど、かれらはかれら自身の有するところの不滅のヴァージニティを、女性の持つそれに逆照射しているのではないでしょうか」
「つまり、美少女ゲームに登場する女性の処女性は、各キャラが持つそれを、単調になりがちな性交の描写に起伏を与えるための小道具として単純に直截に表現しているのではなくて、美少女ゲームをプレイしているかれらの永久不滅の童貞を暗喩しているのだと、こう思うわけなんですね。なるほど、案外本質を突いているかもしれません」
「しかし、これが真実であるとすれば、かれらはかれら自身のヴァージニティを旧時代的な女性の持つ受動性のうちに、一刻も早く陵辱されたいと願い続ける一方で、ほとんど現代のものとは思えないような男根主義的側面をも同時に持っているということになります」
「話が見えなくなりました。なぜ、そう思うのですか」
「これも私がここ数ヶ月に美少女ゲームを集中的にプレイしていて感じたことなのですが、美少女ゲームに通底するテーマといいますか、思想といいますか、願望といいますか、うぅん、そう、ある意識を発見したのです。それは、その、何と言いいますか」
「歯切れが悪いですね。言いにくいことなんですか」
「ええ、とても言いにくいことです。私の羞恥心で先輩のお時間をわずらわせてもいけませんから、端的に表現しますと、『一回チンポ入ればオレのもの』という意識なんです。ああ、言ってしまった。ここに至って、私はもはやこれらのゲーム群が何らかの現代的な意識でもって真摯に作られているとは思えなくなってしまいました。あまりにもなんというか、前時代的であり、もっと言うなら、蛮族的ではないですか」
「しかしそれは現代の様々の倫理が薄めてきた男性性の本質であるとも言えますよ。現実の女性には目もくれず美少女ゲームに耽溺する青年たちの態度は、フェミニズムを代表とする現代の倫理観によって去勢されてしまったかれらの、女性存在に対する反乱であるとも読みとれるかもしれません」
「反乱、ですか。しかし、反乱とはもっと劇的な変革のエネルギーを伴うものなのではないでしょうか。過去、ここまで消極的で、怠惰で、思想を持たず、社会の豊かさへ甘えに甘えきった反乱がいったいあったでしょうか」
「あなたの憤りはもっともです。しかし私の意見は時代全体の風潮を少々乱暴に、包括的に言い表したに過ぎないものです。かれらのそれぞれが別個に持つ個人史の問題などをからめると、事態はもう少し個別性を持ってくると思います。何かを個別ではなく、俯瞰的に神の視点で理解しようとしたとき、憎悪は発生します。気をつけてください」
「すいません、私が安易でした。怒りを表出することで、これを自分には直接関係の無い事象であると、一時的な問題として片づけてしまおうとしていました」
「うん。ある事象を自分の問題にできないとき、人は怒るのでしょうね」
「しかし、かれらの持つ男性性の圧殺と満たされない被愛欲求との混郁とが、今日の美少女ゲーム市場の隆盛を作り上げているのだとしたら、これを仕掛けた人物、あるいは企業は何という冷酷な残忍さを持っているのでしょうか」
「デ・ジ・ギャランドゥちゃん、気をつけて下さい。あなたはまた無意識のうちに安易な場所へと結論を落とし込もうとしています。仕掛け人なんて、どこにもいないのです」
「いないとはいったいどういうことですか、先輩。すべての結果には原因が存在するはずです」
「わかりますか。ゲームの制作者は確かにいます。ですが、仕掛け人というのはいないのですよ。ゲームを制作する人々も、かれらの持つ病を同じく持っていたという意味で、元はかれらの一人に過ぎなかったのです。だからこそかれらの病、あるいは傷に感応することができ、それにぴったりと当てはまる作品を作り出すことができたのです。ですが、それは決してかれらを利用し、仕掛けようと思ってしたことではありません。かれらの病は『時代』という名前が上書きされた不治の病ですから、最初は小さなものだった市場を延々と底なしに拡大させる要因となり得たのです」
「それでは、いったい誰が責任を負うというのですか」
「現代という時代は――これは現実、抽象、形のあるなしにかかわらずあまねくすべての存在を含めての意味で言うのですが――『世界』に対して人間が最も影響力を持っている時代だと言うことができます。現実――例えば、原子力――と架空――例えばインターネット――の双方にわたって世界を丸ごと変革、あるいは崩壊させてしまう影響力をいまや人は持っている。そして、そのそれぞれに破滅的なパワーを内包している現象が単独で、あるいは相互に反応したときにいったい何が発生するかを言い当てることのできる人間はもはや誰一人としていないのです。それぞれの分野に専門家はいるにしても、肥大しすぎた人類のパワーを統括的に理解し、制御することのできる個人なり集団は、もうとっくの昔に存在できなくなってしまっているのです。だから、あなたの疑問にはこう答えるしかありません。”誰も責任を負うことはできない”」
「私が思うに、美少女ゲームという現象とインターネットという現象の婚姻は極めて破滅的ではないでしょうか。それは潜伏期の致死的な病のように、私たちを内側から突き殺そうと牙を研いでいるのではないかと思えてなりません。先輩、私たちはいったいどうしたらいいのでしょう。何ができるのでしょう」
「デ・ジ・ギャランドゥちゃん、私たちはどこで働いていますか。私たちの仕事は何ですか」
「私は、(有)プルガサリ日本橋支店2F美少女ゲーム売場の一販売店員です。それ以上でも、それ以下でもありません」
「私たちの誰もが世界を崩壊させる現象と関わりながら、私たちの誰もそれを御することができない。だったら、私たちは自分のことをやるべきです。デ・ジ・ギャランドゥちゃん、あなたは美少女ゲームを売りなさい。他の店舗よりも多くの美少女ゲームを売り、日本橋支店の業績を伸ばすことにだけに腐心なさい。そこに何の意味づけをするかは、あなた次第ですけれど」
「わかりました、先輩。明日から私は美少女ゲームを、日本の出生率が全世界でダントツのワースト1になるくらいに、売って売って売りまくってやります。そうして手に入れた莫大な年棒制のサラリーで結婚資金を貯めて、きっとおたくじゃない年下の男を捕まえようと思います」
「うん。少子化の極端に進んだ近い将来において、あなたの子どもは社会に厚遇されると思います。ご両親もきっと喜ばれることでしょう」
ラブレター
「夏のはじめには必ず深刻な様子で『今年はセミが鳴かない…』などと自分だけのものに過ぎない絶望と閉塞感とトラウマを図々しくも世界に押しつける発言でちょっと意識のある繊細さを御開示なさってしたり顔のみなさま、コンバンワ~」
「あっ。小鳥猊下がネットに特有の誰かに語りかけているようでその実どこにも対象の無い過激で挑発的な発言を繰り返しているぞ」
「かれの内なる両親を間接的に攻撃しているのよ。心の奥底からいつも響いてくるあの恐ろしい声を聞かないように、本当は何の興味も無い空虚な言辞で毎日の時間を埋めざるを得ないんだわ。もしかして、まだ自分の言葉に何かの意味があると思っているのかしら」
「(黒目をトーンで貼った茫然自失を表現する漫画的な記号の目で)フリーセックス! フリーセックス! 全国六千万の売女のみなさま、コンバンワ~」
思い出せない悲しい夢に目が覚めたら、身体が子どもみたいに熱くなっていた。
傷つけられた知恵は報復する。ぼくは醜く治癒した傷跡の起こすひきつれに、それと気がつかないまま幾度もつまづき転ぶ、哀れな小虫だ。それはぼくの盲点を巧みに突いてくる。どんなに気をつけたって、ぼくはやっぱりそこで転ぶんだ。ふと気がつくと、洗ったばかりのハンカチを気にくわず、小一時間も折り畳みなおしていた。どんな熱狂の瞬間にさえ、人生の貴重な時間を空費していると感じる自分がいる。誰かが眼鏡の位置を中指でキザっぽく直しながら無表情で言う。強迫観念。その誰かとは、もちろんぼくのことでもある。最近わかったけど、対象に共感できないとき、人は分析を始めるんだ。無数の分析屋たちの韜晦に、ぼくの心は気がつかないうちに、とても疲れていった。情報が受け手を選ばなくなり、ぼくは残らずこの世界の何でも知っているような気分で、知っているからもう何も知りたくなくなった。無気力と倦怠感だけが日々深まっていった。性の知識だけは豊富にある不潔で淫乱な処女のように、もはやどんな秘事でさえ、ぼくに何の関心も新鮮さも与えなくなった。ただすべての事象は平坦に、ぼくの心を波立たせることすらなく、通り過ぎていく。とても近いはずの人の死でさえ、ぼくには何の感興も与えることができなかった。ぼくの心には、喪失感が喪失している。だから今まで、どんなことにでも耐えられたのだろう。でもそれは、充たされたことがなかったから、喪失がいったいどんなものであるのかわからなかっただけなんだ。知らない人間にとっての知識は奇跡だ。そして、いまやぼくは何でも知っている。だから、ぼくの上には決してキリストがしたような奇跡も、救済も訪れないだろう。聖書の神は知ることを禁じるけれど、それはぼくがする訳知り顔の分析のような、両親が子どもに対して絶対の権威を維持するための寓話では実はなくて、多く知ることにより喪失してしまう人間存在の尊厳を保持するためだったのではないかといまになって思った。もう、すべて遅すぎるにしても、そこに気がつけたのは、よかった。
キリストの魂は、完全な愛だったんじゃないだろうか。かれは、数千年の人類の自我の歴史の中にあって最初の――そして、おそらく最後の――どこにも傷のない全き魂の持ち主だったんじゃないか。あのとき、ぼくは自分の中にとても純粋な、悲しみにも似た切なさが生まれているのを突然知った。それはまるで、愛のようだった。こんな気持ちがずっと続くことができるのなら、世界そのものだって救うことができるだろう。発露した愛はその自然のように、間違うことなく人間存在へと向かうだろう。そして、すべてをあますところなく癒すだろう。
キリストが、たったひとりでしたように。
窓を開ければ、ほら、世界はこんなにも美しい。
風の歌を聴け
その日、鼠はひどく荒れていた。どうやらじめじめと鬱陶しい気候のせいばかりというわけでは、ないようだった。
「もう一年が過ぎようとしているのに、二百? 二百だと? 街の売女だって一年ありゃ、これくらいの人間とは寝るだろうぜ!」
鼠は苛立ちを隠そうともせず、力まかせに部屋の薄い壁を殴りつけた。
薄暗い室内へ切り取られたように四角く浮かび上がるモニターには、便所の落書きとしか形容できない稚拙さで描かれた女が、こちらにむけて大きく股を開いている。肌色とは名ばかりの、のっぺりとした無機的な色で塗られたその女は、喪失した四肢のバランスから、奇妙な陋劣さを醸し出していた。
女の絵は下手であればあるほど猥褻だ、と言ったのは誰だったろう。
女の股間のちょうど中心部にピンクのひし形が、GIFアニメで形を変えながら、明滅を繰り返している。じっと見ていると平衡感覚が奪われ、奇妙に現実感の無い吐き気が襲ってくるような気がする。
ぼくは自分のペニスが軽く勃起しているのに気がつき、眉をしかめた。
「どいつもこいつもわかってねえ!」
鼠が叫んだ。
ぼくはマウスに手をのばし、ピンクのひし形をクリックした。”毒日記”と銘打たれた別のウィンドウがポップアップする。そこには不必要なまでの巨大なフォントで、『選挙に行かないヤツは死刑にするべきですよね!!!!!』と書かれていた。
「最高にクールでデッドリーなサイトだってのによ!」
デッドサイト以上の何者でもないガラクタを前に、鼠の声はほとんど悲鳴のようだった。
ぼくは座っていた椅子をゆっくりと回転させ、鼠のほうへ向き直った。
「ここで居心地の良さを感じることのできるような連中は、現実の現実らしく無さに飽いて、緻密かつ劇的に演出されたつくりごとの、ほとんど殴り合いめいた人間関係をこそ求めているんだ。これじゃ、無理もないさ。」
ぼくは後ろ手に、モニターの表面を軽く小突いた。
「真実であるかどうかは問題じゃない。ただ現実よりも現実らしい過剰な演技が必要なのさ。防御を考えず繰り出したこぶしの風圧に、裂けた玉袋から転がり出たてらてらと光る真っ赤な片玉へ、パラリと塩をまぶすような、想像するだに魂の一部が心底削り取られてしまうような、そんな人間関係をこそ、みんな見たいと思っているんだよ。」
鼠の顔は、いまやほとんど紙のように蒼白だった。
「誰もおまえの、商業的バックボーンという価値の証明を持たない、不思議と既視感を誘う創作や、完全におまえ自身の中だけに閉じた日々の繰り言に、時間を割きたいとは思わないのさ。リアリティのある、その一方で全く現実感の無い他者との関係性を、完璧に演出できなければ、それはもう、なんというか――失敗。」
鼠は両手で顔を覆うと、悲痛なうめき声を上げた。
「そんなことは、わかってるんだ。」
丸めた鼠の背中が、細かくふるえていた。
「わかってたけど、わかりたくなかったのに。それを、あんたは全部言葉にしちまうんだ。おれが薄々気づきながら目をそむけてきたことを言葉にして、あんたはおれをどこにも逃げられないようにするんだ。」
鼠は、歯を食いしばって嗚咽を殺していた。
鼠は、おたくだった。社会との深刻な関係性の断絶を周囲から、そして何より自分自身から隠蔽するために、投票日には殊更な大声で選挙についての攻撃的な発言をネットにアップロードするような種類の、重篤なおたくだった。
「でも、さみしいじゃないかよ。あんまりさみしいじゃないかよ…。」
ぼくも、以前は間違いなく鼠のようなおたくだった。自身の欠落した人間性の部分を完全に盲点の中に押し込めて、自分が何も見えていないことも見えないまま、幸福な無知に安住する哀れな一人のおたくだった。
ぼくは、椅子を回転させると、再びモニターへと向き直った。
キーを叩く音に、鼠が顔を上げた。鼠の目にはいま、かれがこれまで想像もしたこともないような、莫大な数字のカウンターが写っているはずだ。
「あんた、まさか」
「深夜ラジオの人気漫才コンビに、ハガキを書く要領でやるんだ。軽くて、無知で、非常識に。アナーキーで、けれど政治には一切ふれない。それがコツさ」
肩越しに振り返り、ぼくは鼠にウインクした。