猫を起こさないように
風の歌を聴け
風の歌を聴け

風の歌を聴け

 その日、鼠はひどく荒れていた。どうやらじめじめと鬱陶しい気候のせいばかりというわけでは、ないようだった。
 「もう一年が過ぎようとしているのに、二百? 二百だと? 街の売女だって一年ありゃ、これくらいの人間とは寝るだろうぜ!」
 鼠は苛立ちを隠そうともせず、力まかせに部屋の薄い壁を殴りつけた。
 薄暗い室内へ切り取られたように四角く浮かび上がるモニターには、便所の落書きとしか形容できない稚拙さで描かれた女が、こちらにむけて大きく股を開いている。肌色とは名ばかりの、のっぺりとした無機的な色で塗られたその女は、喪失した四肢のバランスから、奇妙な陋劣さを醸し出していた。
 女の絵は下手であればあるほど猥褻だ、と言ったのは誰だったろう。
 女の股間のちょうど中心部にピンクのひし形が、GIFアニメで形を変えながら、明滅を繰り返している。じっと見ていると平衡感覚が奪われ、奇妙に現実感の無い吐き気が襲ってくるような気がする。
 ぼくは自分のペニスが軽く勃起しているのに気がつき、眉をしかめた。
 「どいつもこいつもわかってねえ!」
 鼠が叫んだ。
 ぼくはマウスに手をのばし、ピンクのひし形をクリックした。”毒日記”と銘打たれた別のウィンドウがポップアップする。そこには不必要なまでの巨大なフォントで、『選挙に行かないヤツは死刑にするべきですよね!!!!!』と書かれていた。
 「最高にクールでデッドリーなサイトだってのによ!」
 デッドサイト以上の何者でもないガラクタを前に、鼠の声はほとんど悲鳴のようだった。
 ぼくは座っていた椅子をゆっくりと回転させ、鼠のほうへ向き直った。
 「ここで居心地の良さを感じることのできるような連中は、現実の現実らしく無さに飽いて、緻密かつ劇的に演出されたつくりごとの、ほとんど殴り合いめいた人間関係をこそ求めているんだ。これじゃ、無理もないさ。」
 ぼくは後ろ手に、モニターの表面を軽く小突いた。
 「真実であるかどうかは問題じゃない。ただ現実よりも現実らしい過剰な演技が必要なのさ。防御を考えず繰り出したこぶしの風圧に、裂けた玉袋から転がり出たてらてらと光る真っ赤な片玉へ、パラリと塩をまぶすような、想像するだに魂の一部が心底削り取られてしまうような、そんな人間関係をこそ、みんな見たいと思っているんだよ。」
 鼠の顔は、いまやほとんど紙のように蒼白だった。
 「誰もおまえの、商業的バックボーンという価値の証明を持たない、不思議と既視感を誘う創作や、完全におまえ自身の中だけに閉じた日々の繰り言に、時間を割きたいとは思わないのさ。リアリティのある、その一方で全く現実感の無い他者との関係性を、完璧に演出できなければ、それはもう、なんというか――失敗。」
 鼠は両手で顔を覆うと、悲痛なうめき声を上げた。
 「そんなことは、わかってるんだ。」
 丸めた鼠の背中が、細かくふるえていた。
 「わかってたけど、わかりたくなかったのに。それを、あんたは全部言葉にしちまうんだ。おれが薄々気づきながら目をそむけてきたことを言葉にして、あんたはおれをどこにも逃げられないようにするんだ。」
 鼠は、歯を食いしばって嗚咽を殺していた。
 鼠は、おたくだった。社会との深刻な関係性の断絶を周囲から、そして何より自分自身から隠蔽するために、投票日には殊更な大声で選挙についての攻撃的な発言をネットにアップロードするような種類の、重篤なおたくだった。
 「でも、さみしいじゃないかよ。あんまりさみしいじゃないかよ…。」
 ぼくも、以前は間違いなく鼠のようなおたくだった。自身の欠落した人間性の部分を完全に盲点の中に押し込めて、自分が何も見えていないことも見えないまま、幸福な無知に安住する哀れな一人のおたくだった。
 ぼくは、椅子を回転させると、再びモニターへと向き直った。
 キーを叩く音に、鼠が顔を上げた。鼠の目にはいま、かれがこれまで想像もしたこともないような、莫大な数字のカウンターが写っているはずだ。
 「あんた、まさか」
 「深夜ラジオの人気漫才コンビに、ハガキを書く要領でやるんだ。軽くて、無知で、非常識に。アナーキーで、けれど政治には一切ふれない。それがコツさ」
 肩越しに振り返り、ぼくは鼠にウインクした。