猫を起こさないように
背番号の無いエース
背番号の無いエース

背番号の無いエース

 少年野球団の子どもたちがトンボひとつ残して家路につき、人気の無くなった河川敷のグラウンドというものは、いつだってもの悲しい。だが、夕暮れの中、手折ったチューリップの茎をはみ、重なった花弁の重みでそれが真下へ垂れ下がるままに土手へ座り込んでいるそのシルエットは、間違いなく、ネロだった。
 11月の秋風が、ネロの焼きすぎた秋刀魚のような腋の臭いをわたしの鼻腔へ運ぶ。ネロの背中に、夕日が射す。
 「ネロ」
 わたしはそれへ、そっと声をかけた。言葉の意味というよりも、不意に鼓膜を振るわせた音に反応したという感じで、ネロは振り返った。黒とも茶ともつかぬ色のちぢれた髪の毛、薄くなった頭頂、突き出た頬骨、割れた顎、長い睫毛の下には地中海の青をした瞳がわずかに潤んでいた。それはまぎれもなくネロだった。秋も深まり、もう夕方の風は冬の気配を運んでいるというのに、薄手のくたびれた開襟シャツを着たネロの胸の谷間には、黒とも茶ともつかぬ色の胸毛が、どこか昆虫を思わせる様子で、さわさわと妖しくうごめいていた。
 わたしはネロのそばの地面を手で軽く払うと、腰を下ろした。抱えた膝越しに眺めるネロの姿は、その容姿にもかかわらずはかなげで、ひどく寄る辺無く見えた。
 「ネロは、さみしくないの?」
 一日に起こった出来事をネロに話して聞かせるのが、ここ一ヶ月のわたしの常だったが、ネロの悲しげな様子にわたしは初めてネロのことを尋ねてみたくなった。
 たとえネロがわたしの言葉を理解していないにしても。
 ネロがゆっくりとわたしのほうへ顔を向けた。地中海の青をした瞳が、夕焼けの赤にも侵されない青をしたまま、わたしをまっすぐに見つめた。
 「ネロはさみしくないの? オランダ人であることが」
 ネロが口を開いた。驚いたことに、わたしがネロの声を聞く、これが最初だった。
 「どうして君がぼくのことをオランダ人だと考えるのか、ずっと不思議に思ってきたものだった。そして、君はぼくにたくさんの自己投影を繰り返してきたものだった。それはちょうど友だちのいない小さな女の子がぬいぐるみに話しかけるようなものだった。それは君が自分のことを愛するために、ぼくという異邦人を媒介として利用していたにすぎない性質のものだった」
 「まさか…ネロ、あなたまさか」
 わたしはわずかに身をのけぞらせた。
 「個人の意識と自我とを形成する言語において自分とは一切の共通項を持たないだろうという推測によってだけ、君はぼくという本来なら相容れるはずのない異邦人を、限定つきの王様の秘密を打ち明ける穴として、許容することができたというわけだった。けれどそれは、友情や愛情とはほど遠いものだった」
 「ネロ、おお、ネロ」
 意味だけを追い、言語を記号として発話する初歩の外国語学習者のように、しかしそれには到底あわぬ流暢さと確かさを伴った口調でネロは続けた。
 「君の独白――それはいつも独白だったものだった。意味の双方向性が生まれなかった以上、それは独白というべきものだった――は、とても興味深いものだった。いや、君だけではなかったものだった。この夕闇の土手を訪れるたくさんの人間がぼくの横に座り、しばらくの沈黙のあと、決まって重大な告白を始めたものだった。それから、突然笑い出したり、突然怒ったり、突然泣き出したり、突然何度も繰り返し”ありがとう”を言ったりしたものだった。その感情たちはしかし、ぼくとは本当に完全に無縁なものであったものだった。ぼくは君たちがぼくの異形を見てまずちょっとうろたえ、次に君たち自身で作り上げた世界の解釈を決まって押しつけてくるのに、いつもひどく傷ついたものだった」
 ネロは沈んでいく夕陽に正対し、何にも侵されない地中海の青をした目を細めながら、じっとそれを見つめていた。
 「けれど、こんなふうにぼくの意味を世界へ伝えはじめたぼくを、ちょうどいまの君のように、誰もがぎょっとして、初めて出会った他人を眺めるみたいに遠巻きに眺めたものだった」
 ネロは悲しげに目を伏せた。
 「以前、とても好きなポルトガル人の作家がいたものだった。そして、ぼくはかれに会う機会を偶然得たものだった。けれど、会ってからこちらというもの、かれの書いたすべての作品は、ぼくにとって全く意味を変えてしまったものだった。意味の多様性を失い、あの不思議な魔力を失い、ひどく色あせて感じられたものだった。言葉という広義の解釈を可能にする記号が、生きた存在の与える情報によって解釈を極端に狭められてしまったからだと、ぼくは思ったものだった」
 わたしは両手をもみしぼった。わたしの中に今この瞬間に使うべき言葉が何も見つからなかったからだ。
 「その失望はわかりやすく言えば、ネットでそこそこのカウンターをかせぐホームページ制作者がオフ会の告知を掲示板でしたところ、一通の参加希望メールも届かなかったみたいなものなのかもしれなかった。その失望はわかりやすく言えば、ネットでそこそこのカウンターをかせぐホームページ制作者がオフ会の告知を掲示板でしたところ、一通の参加希望メールも届かなかったみたいなものなのかもしれなかった」
 ネロはなぜか、その部分を少し強く二回繰り返した。
 「彫刻が生き生きと動いてはいけない、なぜならそこに封じ込められた無限の動きの可能性を奪ってしまうから、と言った美術評論家がいたものだった。ぼくはここに来てから幾度となく、この言葉を噛みしめる機会を持ったものだった」
 「ダッチ、ダッチ、そこにダッチ!」
 険しい叫び声に振り向くと、土手の向こうから数人の警官が腰から警棒を引き抜きつつやってくるのが見えた。
 「ネロ、あなたはいったい…」
 「キリストの死を侮辱したために不死を得て、永遠の罪業をさまよいつづけることになったオランダ人がいたものだった」
 ネロはのろのろと立ち上がった。
 「だが、どうして君たちがぼくのことをオランダ人だと信じることができるのか、ぼくはずっと不思議に思ってきたものだった」
 そう言うとネロは、これまでの様子からは想像もつかなかったような凶暴な機敏さで、夕陽に背を向けて駆けだしていった。ネロと、それを追いかけていく警官たちを見送りながら、わたしはただ呆然と立ちつくすしかなかった。
 どのくらいそうしていたろう、かれらの後ろ姿が遠くに見えなくなって、ふと気がつくと足下にネロの開襟シャツが落ちていた。走り出す拍子に脱げ落ちたのだろうか。それは汗にまみれ、あちこち破れかけて、手に取ると涙が出た。顔を近づけると、ネロの焼きすぎた秋刀魚のような腋の臭いが、かすかに鼻腔に香った。
 そうしてネロは、わたしの前からいなくなった。
 永遠に。