「もう、もう、もーッ!!」
画面の奥から襞の入った洋装の少女が、頬を紅潮させて猛然とかけてくる。
そのまま諸兄の眺めるカメラへ額から激突し、もんどりうって倒れる。頭部をハンマーで強打された瀕死の猫のように、尻を高く突き出し、顔面を地面にすりつけて、ぐるぐると回転する。
やがて立ち上がると、青ざめた顔でカメラへ向き直る。
「(怒りに肩を震わせて)ゆ、ゆるさん……! いまのは痛かった……痛かったぞーッ!」
少女、頭突きを試みて再び猛然と駆け出す。
しかし、諸兄の眺めるカメラへ額から激突し、もんどりうって倒れる。頭部をハンマーで強打された瀕死の猫のように、尻を高く突き出し、顔面を地面にすりつけて、ぐるぐると回転する。
死んだような静寂の後、少女、自らのまきあげた埃の中から姿をみせる。
「(額を両手で押さえながら、涙声で)本当に、救いようのないおばかさんたちですね……教えてあげましょう、私のアクセス数は56万です。(突然のすごいかんしゃくで足を踏み鳴らして)もうッ! なのになんで誰もあたしをほめてくれないのよ! (ひと言ごとにますます激しく床を踏み鳴らしながら)大きらい――大きらい――大きらいだわ! (どしん、どしんと地団駄を踏みながら)よくもあたしのことを構成力に欠けて、読みにくい文章だなんて、言ったわね! よくも萌え不自由で、アクセス数貧乏だなんて、言ったわね! あんたたちみたいにおたくで、幼女趣味で、精子なしの人を見たことがないわ! これであんたたちが気を悪くして、アクセス数がもっと減ったって、あたしヘイチャラだわ! はかったみたいに更新の翌日から、それまで毎日1件はあったweb拍手をぴったりととめて、あんたたちはあたしの気持ちをもっとひどく害したんだもの! あたしの腹心の友といったら、もうだんぜん、スパムメールだけだわ! だからけっしてあんたたちなんか許してやらないから! 許すもんか! (袖のフリルでごしごしと目元をふいて)でも、あたしはかしこいネット孤児だから、どうやればみんなの期待を裏切らないかってことも、わかってるつもり……(両手を組み合わせ、薄幸そうな笑顔で)愛されるようにふるまわなくちゃ、だれも、ワンクリックでやっかいばらいできるネット孤児を愛してくれるわけなんてないもの……けど、覚えておいて。ウィンドウが閉じられるたび、ブラウザーの戻るボタンが押されるたび、あたしはひとり、死ぬんだってこと……うふふ、やれこわやれこわ! せいぜいネット弁慶と呼ばれないように、これからはあたしもかんしゃくを直さなくちゃ! だから、あたし、きょうは冷静におはなしできるようにって、お手紙かいてきたのよ……お兄ちゃんたち、聞いてくれる?(胸元から便箋をとりだすも、取り出す際に衣類の内側を計算された角度でカメラに誇示する)
『本当に、今回の無反応は身に染みました。最上のクオリティをお届けしたい一心で、他意はございませんでした。みなさまの求めるものと私が良いと感じるものは、もはや致命的にズレてしまっていることを痛感します。よって、自戒をこめた次回の(少女、突然手紙から顔をあげて爆笑する)更新からは次の七ヶ条をまもり、読みやすく、みなさまに愛されるnWoへと回帰いたす所存です。
わたくしこと、小鳥猊下は、
1.一文を短くします。動詞は修飾関係を含め、二語にとどめます。読点は一つまでにします。また、同文中に複数の主語を持ちません。
2.改行を増やします。できるだけ、句点ごとに改行します。
3.難解な漢語を用いません。ひらがなにひらくか、あるいは中学生レベルの語彙で理解できる平易な英語のカタカナ表記で言い換えます。
4.会話を増やして、地の文を減らします。また、マンガ的な擬音を挿入することで場面に臨場感を加えます。
5.新奇さを追求しません。ヒットする歌謡曲の条件である「どこかで聴いたような」を至上の目標とします。人名や地名の策定には、神話辞典などを用います。
6.万物に対して肯定的に考える姿勢を貫き、読み手を不安にさせません。否定的な意見や場面を挿入した場合も、後に肯定的なものへ必ず転換しますので、安心して最後までお読み下さい。
7.養育者へ常に感謝の意を表明し、攻撃することは二度といたしません。
以上、みなさまにおかれましては流感などに気をつけつつ、お時間に余裕のあるときだけ、鼻毛や臍の下を抜いても抜いても無沙汰がまぎれないようなときにだけ、当サイトを流し読みくださればと思います。かしこ。二伸。まったく、萌え画像ってやつはハードディスクにとって邪魔にならない存在ですね』
(襞の入った洋装の少女、便箋を胸にかきいだく)かわいそう! あたし、かわいそう……ッ! お、お父さんとお母さんを大切にッ! ファーザーアンドマザーをインポータントにぃぃぃィッ! あーんあん、あん」
少女、どしーん、という擬音を口にしながら床へ倒れこむと、大泣きに泣き出す。
しばらくして顔を上げ、ちらりとこちらを見る。まだカメラが回っていることを知ると、床に顔を伏せ、前にも増した大きな声で泣きわめく。
「(嬌声ともとれる抑揚で)あーんあん、あん。あーんあん、あん」
虚構日記 -時空の探求-
リライト版少女保護特区(5)
*はじめに
今回の更新は「五十六万ヒット御礼小鳥猊下基調講演」での声明を元に書かれた、「少女保護特区(5)」のリライトバージョンです。ご要望やご不快に思われる点がございましたら、ただちに改変いたしますので、遠慮なくおっしゃってください。
最後に、これまでみなさまの味わわれた心痛に対して、nWoスタッフ一同、心から謝罪いたします。本当に、申し訳ありませんでした。
「あ……」
さくら色のくちびるから吐息のような声をもらして、少女が目をあける。
ほおにはひとすじ、涙のあと。
どうやら、かなしい夢をみていたようだ。
ぼくは親指でやさしくほおをぬぐってやる。マシュマロのようなやわらかさが、おしかえしてきた。
さりげなく、はだけた両脚にスカートをおろしてやりながら、そっとたずねる。
「夢を見ていたの?」
ぼんやりとみひらかれた少女の瞳に、焦点がもどってくる。
「こわい夢をみていたの」
安堵の表情が、ふたつの泉に満たされてゆく。
「ヨくんがいなくなってしまう夢……あたし、ヨくんがいなくなったら、きっと胸がさけて死んでしまうわ」
ぼくはほほえみながら、少女のひたいをかるくこづく。
「そんなこと、口にするもんじゃないよ」
「だって、ほんとうにそう思ったんですもの」
少女は心外だ、とばかりに口をとがらせる。
「言葉にしたことは、本当になってしまうからね」
感じやすい瞳が、みるみるうちにうるんでゆく。
「あたし、もうぜったい言わないわ。だってほんとうにこわかったんですもの……」
しゅんとして、肩をおとす少女。
お灸がききすぎたかな、とぼくはすこし後悔する。
「だいじょうぶだよ、ムンドゥングゥ。ぼくはずっときみのそばにいるから」
「ほんと? ぜったいぜったい、ほんとうに?」
ムンドゥングゥが目をかがやかせる。
「ああ、ほんとうだよ。ぜったいぜったい、ほんとうだ」
この先、どうなってしまうかなんて、だれにもわからないけど――
いまの言葉だけは、ほんとうだ。
「ねえ、ヨくん」
安心したのか、ムンドゥングゥがあまえた声をだす。
「ひとつおねがいがあるの」
うわめづかいにみつめてくる少女に、ぼくはうろたえてしまう。
「ぎゅーってして、いい?」
だきつきたいとき、いつもこうやってきいてくるのだ。
なによりぼくの心臓のために、いつもははぐらかすんだけど――
「いいよ」
罪ほろぼしをしたいような気持ちになって、うなずく。
ムンドゥングゥはおそるおそる、といったようすでぼくの背中に両手をまわした。
最初は、天使のようにかるく。
それから、息がくるしくなるほどきつく。
「ち、ちょっと、苦しいよ、ムンドゥングゥ」
「だって、まだ夢がさめてなかったらどうしようと思って」
ムンドゥングゥが、ぼくのシャツにうずめた顔をあげる。
あんまりつよく顔をおしつけすぎたのか、ほおにボタンのあとがついている。
ぼくは思わず苦笑してしまう。
そこぬけの無邪気さに、なんだかまた、からかいたいような気持ちになる。
「もしかしたら、まだ夢の中にいるのかもしれないよ?」
「あら、それはないわ」
ムンドゥングゥはうけあってみせた。
「だって、ヨくんのにおいがするもの。夢の中ではにおいなんてしないでしょう?」
とつぜんのふいうちに、顔が熱くなっていくのがわかる。
「ムンドゥングゥ、ヨくん、晩ごはんができたわよ。冷めないうちに食べにいらっしゃい」
リビングから救いの声がかかる。
ぼくは顔を見られないように、たちあがった。
ムンドゥングゥは、すっと、手のひらをぼくにすべりこませてくる。
きっと愛らしいその顔には、いたずらな笑みが浮かんでいるのにちがいない。
ぼくの名前は予沈菜(ヨ・チャンジャ)。大陸うまれの日本人だ。
ワケあって、ムンドゥングゥの家にいそうろうをさせてもらっている。
グウーッ。
1ぱい目のごはんを食べたのにもかかわらず、ぼくのおなかが音をたてる。
くすくすと笑いだすムンドゥングゥ。
「育ちざかりですものね。好きなだけ食べていいのよ」
ためらうぼくの茶碗へ2はい目をよそってくれた美人は、ムンドゥングゥのお母さん。
ほとんどムンドゥングゥとかわらない年にみえる……と言ったらいいすぎだけど、すごくわかくみえるのはほんとうだ。
「そのとおり! 私がきみくらいのときは、どんぶりでかるく4はいは食べたものさ」
がっはっはっ、と豪快に笑いながらわりこんできたのが、ムンドゥングゥのお父さん。
あさ黒い健康そうな肌は、テニスのインストラクターをしているからだ。現役時代は、ずいぶんとならしたらしい。
ふたりともいそうろうのぼくに、ほんとうによくしてくれる。食卓ではなんとなくだまってしまうけど、それは気まずいってわけじゃない。幸せな家族の時間を、ぼくなんかが邪魔しちゃわるいような気になるからだ。
「む、どうした。すこしもごはんがへっていないじゃないか」
娘の茶碗をみとがめて、お父さんが心配そうに顔をちかづける。濃い眉毛のかたちがムンドゥングゥとそっくりで、ふきだしてしまう。
「うん、なんだか胸がいっぱいで、のどをとおらなくって」
「むかしから、この子は食がほそかったから」
手のひらをほおにあてるしぐさがかわいらしいお母さん。
「生まれたときもふつうよりちいさくって、小学校にあがるまでバナナをはんぶんしか食べられなかったのよ」
ぼくを見ながら、苦笑する。
たちまち、ムンドゥングゥがまっかになった。
「もう、お母さん! ヨくんの前でそんなこと言わないでよ!」
お父さんとお母さんが、ほう、と声をあげた。そしてふたりで顔をみあわせて、意味深な目くばせをする。
「あー、母さん。ヨくんの茶碗がもうあいているじゃないか。山もりにしてあげなさい、山もりに」
「はいはい」
お母さんがふくみ笑いを隠しながら、炊飯器をあける。
「あら、やだ」
両手をほおにあてるしぐさが、妙にかわいらしい。
「白いごはんがもうないわ」
「なんだ、もっと炊いておかなかったのかい?」
「ほら、うちはムンドゥングゥひとりでしょう? 十代の男の子がどのくらい食べるのか見当がつかなくって」
「そいつは困ったな」
心の底から困ったという表情で、腕組みをするお父さん。筋肉がもりあがっている。テニスのインストラクターというよりは、重量上げの選手みたいだ。
「いいわ、ヨくん、あたしのをあげる。だってきょうはもう食べられそうにないから」
茶碗をさしだすムンドゥングゥ。
「あげるって……半分も食べてないじゃないか。もうすこし食べなよ。のこったときに、もらってあげるからさ」
ぼくの言葉に、ふるふると首をふる。
「ううん、もうきょうはごはんがはいる場所がないの」
手のひらで胸をおさえながら、ほほえんだ。
「だって、しあわせで胸がいっぱいなんですもの」
なんのくもりもない、とびきりの笑顔。
ぼくはまたしてもふいをつかれ、ごはんをうけとってしまう。
「なんだ、しあわせで食べられないなら、この家じゃ、飢え死にするしかないぞ」
がっはっはっ、とお父さんが笑う。
「じゃあ、ムンドゥングゥがすこしでも食べてくれるように、おこづかいをへらしましょうか」
おっとりと、お母さんが加勢する。
「もうっ、またふたりでからかってるでしょ!」
にぎやかな家族のやりとりを聞きながら、ぼくはなんだかみちたりた気分でごはんを口にはこぶ。
あ。
これもやっぱり、間接キスになるのかな?
「ちょっと仕事をもちかえってるんだ。顧客のリストを明日までにしあげなくちゃならない。おそくなると思うから、母さんも先に寝てていいぞ」
早々に食事をきりあげると、エクセルは苦手なんだよと頭をかきながら、お父さんは二階のじぶんの部屋へひきあげてしまった。
テーブルにはムンドゥングゥの焼いたパウンドケーキが、半円だけのこっている。
ずず、と日本茶をすする。濃いめに煎れるのが、この家の流儀みたいだ。
どうやら、すこし食べすぎてしまったらしい。ときどきこみあげるおくびに、食べものがまじってる気がする。
からだはすっかり重いが、気分は上々だ。ソファに身をあずけながら、やくたいもないテレビ番組をながめるのも、これはこれでわるくない。
とくに、かわいい女の子といっしょならね。
ムンドゥングゥがぼくのおなかを枕がわりにして、横になっている。クジラがぐるぐるまわる音がするよ、とつぶやきながら、目はとろんとしている。
ときどき、かくっと首がおちて、いまにもねむりそうだ。ねむったムンドゥングゥをベッドにつれていくのが、最近ではぼくの日課のようになっている。
いとしさにたまらなくなって、そっと、ちいさな頭に手をおこうとしたそのとき――
ドーン。
天井から大きな音がした。
おどろいたムンドゥングゥが、猫のようにはねおきる。
ドーン。またひとつ。
そして、しずかになった。
顔をみあわせるぼくとムンドゥングゥ。
耳をすませると、ぎしぎしという音とともに、天井から細かなほこりが落ちてくるのがわかる。
「お父さんの部屋だわ」
言うがはやいか、ムンドゥングゥはかけだしていた。
お父さんのことが心配なんだろう。なんて親孝行な娘なんだ。
思わず感動して、うんうんとうなずいてしまう。
が。
ぼくは事態を思いだすとはっとして、あわててあとを追った。
「お父さん、あたしよ、ここを開けて!」
ちいさなこぶしをふりあげて、ムンドゥングゥが扉をたたく。
涙をいっぱいにためて、階段をあがってきたぼくにすがりついてくる。
「たいへん、お父さん、くるしそう。どうしよう」
扉に耳をあてると、たしかに苦しそうなうめき声がする。
ドアノブをまわそうとするが、内側からロックされているらしい。
「すこしはなれていて」
ドカッ。
ムンドゥングゥをさがらせると、扉にキックする。
足はじーんとしびれるが、びくともしない。
さらに大きく助走をつけ、2発目のキックをおみまいする。
ドカッ。
「は……づッ……」
全身の骨が軋み、砕ける音。
灼けるような塊が喉めがけて駆け上がる。
やはり、僕では無理なのか。失望より先に浮かぶのは、自嘲。
はは、最後の最後まで、ダメなヤツだ。いつだってオマエは途中で諦めちまう。
そして、途切れゆく意識の中で浮かぶのは――
儚げな、ムンドゥングゥの横顔。
右手を壁面に喰い込ませ、爪の剥げる痛みに我を踏み止まらせる。
ゴクリ。僕は味蕾を浸す熱した海水を飲み下した。
まだだ、まだだ。
いま、ここで倒れたら――
誰がムンドゥングゥを助けられるっていうんだ!
オマエはこんなものか! 弱い自分を叱咤する。
俺は知ってるぜ、オマエはこんな程度じゃないはずだろ?
力を出せ!
力を出せッ!!
枯れた井戸の底が割れ、奔流の如くエネルギーが吹き上がるイメージ。
精度を上げる視界。およそ、人の視力では有り得ない程の――
扉の木目に沿って、黄金の光線が走る。
僕はすでに、“それ”が粉々に爆ぜる未来を“知って”いた。
一度は砕けたはずの右足に、再びパワーが漲ってゆくのがわかる。
確信という名のボルテージは、いまや最高潮だ。
そして、3発目のキック。
ズボアァッ。
それは名称を同じうするだけの、全く別次元の技と化していた。
バリバリバリ。
音の壁を遥か置き去りにする速度。
金剛石を粉砕せしめる莫大な威力。
がつッ。
なんと、扉は健在。
だが、技の威力も減衰していない。
「当てがはずれたな! 悪いが、俺のキックの半減期は二万四千年だぜ!」
僕は頭の中だけで考え、実際言ったことにした。
その方が気分が盛り上がって、遥かにパワーが増す気がするからだ。
最初の衝撃波は堪らず水平方向へ逃げ、中規模な地震の如く家屋を揺籃せしめる。
やがて扉の硬度と技の威力が同等のエネルギー波として干渉し合い、傍目には完全な均衡を生じる。
だが、分子レベルの振動は静電気を生じさせ、それはやがて複数のボール・ライトニングと化して扉と僕を取り囲んだ。
正に、天然の要害。ここからは鼠一匹、逃げられない。
「小癪な童め!」
僕は自分で言って、扉が言ったことにした。
その方が気分が盛り上がって、遥かにパワーが増す気がするからだ。
僕はニヤリと嗤う。
「さて――もう暫くだけお付き合い願いますよ」
こうなりゃ、もう技は関係ない。相手さえ関係ない。
肉体と魂の全てを盆に乗せて、神サマに裁定してもらうだけだ。
俺と扉――
どっちが上?!
「うおおおおーッ!」
メリメリメリ、ズドーン!
予想に反して、ちょうつがいだけがふきとんだ。
廊下に女の子座りで雑誌を読んでいたムンドゥングゥが、顔をあげる。
「お父さん、しっかりして!」
倒れた扉をふみつけに、部屋へとびこんでゆく。あとを追うぼく。
「きゃあ!」
そこには、しんじられない光景――
お尻をまるだしにしたお父さんが、ベッドで茶髪の女の子にのしかかっていたのだ。
ちいさくふるえるムンドゥングゥを、まもるようにだきかかえる。
ぼくはふたりをキッとにらみつけた。
お父さんはおどろいた顔で、こまかく腰をうごかしている。
女の子はといえば、まだらに茶色くなった髪の毛に、よれよれの制服。まるで野良犬みたいだ。
お父さんのうごきにあわせて茶色い髪をばさばさとゆらしながら、めるめるとメールをしている。
「あなた、いったいこれはどういうことなの!」
げ、まずい。
うしろには、まっさおになったお母さんがママレモンの泡もおとさずに立っていた。
わなわなとふるえ、手にもったお皿がまっぷたつに割れる。
「ちかごろ、すっかりごぶさたと思ったら、こういうことだったのね! わたしをだましていたのね!」
「ち、ちがう、それは誤解だ」
さすがに、腰のうごきをとめるお父さん。
「誤解も六階もないわ。もう、りこんよ! りこんよ……」
エプロンに顔をうずめながら、お母さんは背をむける。
「待つんだ、グィネヴィア」
声のトーンが変わっている。
お母さんの肩がびくり、とふるえた。
「まだ、わたしをそう呼んでくれるのね、アーサー」
前をまるだしにしたまま、お父さんがベッドを降りる。
「どうかわかってほしい。わたしにとって、おまえは神聖すぎる誓いなんだ。あまりにも清らかで、わたしぐらいでは汚すことのかなわない。わたしの汚れを、おまえに注ぐなんて、おお、考えるだに恐ろしいことだ」
涙を流しながら、お母さんがひざまずく。
「ああ、ああ、あなた! 浅はかなわたしをゆるしてください! あなたの苦悩を知らず、毎晩を売女に注がせていたわたしの愚かさをゆるしてくださいますでしょうか? そして、お願いします、どうかわたしを抱いてください! わたしはあなたに高められこそすれ、汚されるだなんて思ったこともありませんわ!」
ふたりは熱烈に抱きしめあうと、みているぼくたちのほうが赤面するような口づけをかわした。
お父さん――いや、アーサーはグィネヴィアをかかえあげると、優しくベッドへ横たえた。
そう、まるでナイトがプリンセスにするように。
「ねえ、ふたりだけにしてあげましょう……」
ムンドゥングゥが微笑んだ。
なぜか、とてもさみしそうな微笑みだった。
「ほら、あなたもいっしょにいくのよ!」
そう言って、茶髪の女の子の手をひっぱる。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
伝説の王と王妃は、千余年の流浪を経て、いまお互いの正統な持ち主の元へと還ったのだ。
剣が必ず、収まる鞘を持つように。
ぼりぼりと茶色い髪をかきまわしながら、女の子がごちる。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
聞こえないふりをした。
夜の戸外は、夏だというのに冷気をふくんでいて、ほてった身体に心地いい。
かすかに聞こえるのは、アーサーとグィネヴィアのむつみ声だろうか。
「そんなに走るとあぶないよ」
はしゃぐムンドゥングゥに声をかける。
「だって、夜のおさんぽなんて、ほんとうにひさしぶりなんですもの!」
スカートに風をはらませて、くるくると回転する。
「わたし夜ってだいすきだなあ。だって、もうあしたがはじまってるみたいで、なんだかワクワクするの。ヨくんは、そんなふうに考えたことない?」
ぼくはちょっと考えて、
「ないなあ。明日がこなければいいっておもうことは、むかしよくあったけど」
「ふーん、フコウだったんだ」
「どうかな。いや、幸せだったことがなかったから、不幸だってわからなかっただけ」
「あたしもフコウってよくわからなかったけど、いまはちょっとわかるかな」
後ろに手をくんだムンドゥングゥが、小石をけりあげるしぐさをする。
そして、とてもちいさな声で、
「ヨ君がいなくなったら、あたしはフコウになると思う」
聞こえた。
「え、なんて言ったの?」
でも、ぼくはいじわるに聞き返してみる。
みるみるまっかになるムンドゥングゥ。
不自然に視線をうろうろさせてから、
「あ、公園だわ!」
言うがはやいか、駆け出してゆく。ぼくはあわてて追いかける。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
聞こえないふりをした。
公園の入り口で、ぼくは思わずたちどまる。
遠くからみるムンドゥングゥが、すごくきれいだったから。
茶髪の女の子がぼくの背中にぶつかってくる。ひじをつかって、邪険にふりはらう。
ムンドゥングゥは、ブランコのくさりに手をかけて、表情をゆるませる。
「ブランコって、ひさしぶり。ちょうど向こうに小学校があって、子どものころは帰りによく乗ったんだけど」
手についた赤さびに鼻をちかづける。
「そう、このにおい。鉄のにおい。なつかしい……ねえ、ちょっとすわっていかない?」
ふたりの女の子にはさまれて、ぼくは真ん中のブランコに腰かける。すこしきつい。
でも、ムンドゥングゥにはちょうどいいみたいだ。
「あたしってば、あんまり成長してないのね」
深夜の公園で、ブランコに腰かける3人。はた目には、いったいどんな関係にみえるのだろう。
遠くの外灯にはセミやかぶと虫がかんちがいをして、ぶんぶんととびまわっていた。
しばしの沈黙のあと、ムンドゥングゥが話しはじめる。
「あたし、ひとりっ子じゃない? お父さんとお母さんはとってもだいじにしてくれたけど、ずっとふたりのあいだには入れないような気がしてたなあ」
ぼくはなにも言わずに、さびしげな横顔をみまもる。
「学校の友だちでも、3人いるといつのまにか、なんかひとりあまっちゃうでしょ。あんな感じ。お父さんとお母さんが結婚して、あたしが生まれたんだから、あたりまえなんだけど、なんだかあたしだけ遅れてきたみたいに思ってた。――おたふく風邪で4月に1週間くらい休んだことがあって、クラスにもどったらみんな仲良くなっちゃってて。ぽつんとひとり座ってたら、お弁当のときとか呼んでくれるんだけど、みんなが楽しそうにしてるのを見てると、もう遅れたぶんはぜったいとりもどせないんだなあ、って――わかんないよね」
下を向いて、はにかんだように微笑む。
こんなに長く、ムンドゥングゥが自分のことを話すのをはじめてきいた気がする。
「わかるよ」
「ほんと?」
ぱっと顔を上げると、まるで花がさいたようだ。
「それとも、同情してる?」
「ぼくは4月に、水ぼうそうで休んだ」
鈴のようにころころと笑いだすムンドゥングゥ。よかった。
となりでは茶髪の女の子がくわえタバコで、カチカチとメールしている。
視線に気づいたのか、顔をあげると、
「ねー、あちし、まだおカネ……ぐほッ」
みぞおちに肘を突きこみ、吸いさしのタバコをとりあげる。これは間接キスじゃないな。
肺いっぱいに煙を吸いこむ。にがい。
「いけないんだ、不良みたいなことして」
あんまりきれいな告白に、ぼくは自分を汚したいような気持ちになったのだ。
アーサーの言葉が、よくわかる。
「わたしねえ」
ちいさくブランコをこぎながら、ムンドゥングゥがいう。
「ヨくんがいっしょにいてくれるとね、がんばろうって思えるの。もちろん、身長とか、胸がちいさいこととか、がんばってもダメなことはあるけど、がんばったら変えられるところは、がんばろうって」
ほっそりとした足がまげのばしされるたび、ブランコは大きくゆれうごく。
「だれかのことを考えたとき、ひとりのときよりも力がでるって、すごいことだよね」
ぼくをほんろうするように、声が前と後ろからきこえる。
それはぼくも同じだよ。
思ったけれど、声にはださなかった。なんだかこわいような気がしたから。
「あーっ!」
突然すっとんきょうな声をあげて、ブランコをとびおりるムンドゥングゥ。
声の大きさよりも、ころばずにひらりと着地したことへおどろくぼく。
「わたし、すっごいことに気がついちゃった!」
一筋の月光が、ムンドゥングゥの額から顔に流れる。
紅潮したほおは、夜の底でかがやく星のようだ。
ぼくはなんだか泣きたいような気持ちになって、やさしくたずねる。
「なにに、気がついたの?」
「あのね、お父さんとお母さんも、はじめは他人どうしだったんだよ!」
言いたいことがわからない。
ムンドゥングゥはおかまいなしで、興奮のきわみ、といったかんじで手をふりまわして力説する。
「だからね、家族って、他人どうしが作るものなんだよ。だからね、わたしたちが家族になっても、ぜんぜんふしぎじゃないんだよ! これって、すごい発見よね! カクメイテキだよね!」
ずきり。
痛ましいような想いが胸にささる。ムンドゥングゥは何もわかっていないのだ。
革命っていうのは、これまでにあるぜんぶを捨てること。たとえば、ぼくが大陸に捨ててきたぜんぶを、 ムンドゥングゥは知らない。
いずれこの世界の悪にであったとき、ムンドゥングゥの純粋さは手ひどく傷つけられてしまうのではないだろうか。あまりにも信じすぎるこの純粋さは、いつかムンドゥングゥを殺してはしまわないだろうか。
――だから、おまえがいるんだろ?
ぼくはおどろいて、あたりをみまわす。
――そのために、いたみ、くるしみ、よごれてきたんだ。
それは、天からふってきたような言葉だった。
なのに、ぼくの胸の真ん中へ、すとんと落ちた。
「こらっ! こんなおそくに子どもがなにやってんだい!」
ぼくたちは、いっせいにふりかえる。
公園の入り口で、むらさき色のパーマをかけたおばさんがぼくたちをにらみつけていた。
ピンクのネグリジェを着て、手にはなんと金属バットがにぎられている。
「たいへん!」
ムンドゥングゥが大きく目をみひらいて、両手を口にあてる。
「逃げましょう!」
言うがはやいか、駆けだしている。ぼくはあわてて追いかける。
ぼくの人生の先を素足でかけていく少女。
どちらがどちらをみちびいているのか。
もしもころんだら、そのときは優しく抱きしめてあげよう。
ぼくは少女のナイト。
このいのちは、すでにプリンセスへささげられている――
「このへんで民生委員やってるマスオカってんだけどね。アンタ、変わってるね。逃げないのかい?」
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
小鳥尻ゲイカ
――今日のゲストは、女優の小鳥尻ゲイカさんです。
小鳥尻(以下、尻):(仏頂面で)どもー。
――さっそくですが、今回なぜあのような更新をなさったのですか? そこに至る心理状況といいますか、経緯をお聞かせ願えますでしょうか?
尻:(そっぽを向いて)別に……。
――何か、昔からのファンへの裏切りだとか、そういう声も聞かれますが……
尻:(激昂して)ウルセエよ! うちあわせと内容がちがうじゃねえか! そのことには触れないんじゃなかったのかよ! オイ、カメラとめろ!
――落ち着いてください、生放送中ですから。ファンへの謝罪の言葉はないのですか?
尻:なま……(小声で)ちくしょう、いつもアタシをそうやって罠にハメやがんだ……(沈黙。ふるえる手で前髪をかきあげながら)オタどもの喜ぶようなものを書こうと思ったんだよ。奇抜な名前で精神遅滞のガキがする情緒たっぷりの世迷言や、神話の世界観を借用した奥行きのゾッとするような遠浅ぶりや、自動化された物語のする白痴的精神愛撫をオタどもにブチこんでやりたかったんだよ!(無理に笑い声をたてる)
――ごうごうたる非難を聞けば、その試みは少なくとも成功したとは言えないと思いますが?
尻:(びくり、と身体をふるわせて)も、萌えやら、ね、熱血やら、オマエらがオッ立つ要素はなんでも入ってんだろがよ! ぜんぶタダで読んどいて文句言うなんてよ、不法侵入の上で狼藉・乱暴しながら戸締りについて説教する強盗と変わらねえよ! ちがうかよ!
――(さえぎって)読者の方から一通のメッセージが届いていますので、読みあげさせていただきたいと思います。『私たちが変わってしまっても、貴方だけは変わらないでと、そう思うのは私たちのエゴなのでしょうか』。いかがですか? 真摯なファンの姿勢に、少しでも反省の気持ちは生まれませんか?
尻:ケッ、ソープに沈んだ昔のオンナにかけるブンケイの寝言じゃねえか。テメエが身請けしてやらねえから、生活のために仕方なくお客とってンだろ? それ、「ぼくには経済力がなく、そしてきみには処女膜がない」って意味でしょオ? ちがうのオ?(馬鹿笑いする)
画面の外でサングラスの男が「もっと挑発して」と書かれたカンペを掲げる。目の端でそれを見るインタビュアー。
――では、私の感想を述べさせてもらいますと、しかし重度の萌え不自由でしたね(笑)。
尻:(頭髪の薄い男があの単語を言われたように、顔面を硬直させる。何か言おうとして、泣き出す)ひっく、ひっく……ひどいじゃないの……わかっててアタシにそれを言うなんて……なにさ、かってにキレキャラみたいにあつかってさ……きょうだって、アタシがあばれだすのをみんなニヤニヤしながら待ってんでしょう? アタシ、女優なのよ……ネット界のおさわがせである前に、女優なの。でも、いまじゃ女優だからキレるのをゆるしてもらってるんじゃなくて、キレるから女優をやらせてもらってるみたい……こんなのって、ないわ……ないわよ……(両手に顔をうずめると、すすり泣く)」
インタビュアー、当惑してサングラスの男を見る。サングラスの男、身体の前で両腕をクロスさせながら、口パクで「つかえない」と言う。
――小鳥尻さん、ご自分で招いた結果です。泣いたってしょうがないでしょう。ほら、これ使って。
尻:ありがと……(ティッシュで鼻をかむ)バカだね、アタシ。オンナが泣くのって、サイテーだね。なんだか、ゆるしてくれって甘えてるみたいでさ……。
――落ち着かれましたか? みなさん、小鳥尻さんの言葉を待ってますよ。
尻:(前髪をかきあげる。鼻の頭が真っ赤である)あー、なんか、昔のこと思い出しちゃったわ。中学のときさ、ちょっとからかうと、ムキになってキモい反応するデブがクラスにいてさあ。イジメ、だったのかな、あれ。みんな、ソイツになら、なに言ってもいいってフンイキだったワケ。んでさ、国語の時間にウザいセンセーがさ、クラスの前で作文とか読ませんのよ。はは、ムナゲってあだ名だったわ、そういや。中身は忘れたけど、将来の夢とか希望とか、きっとそういう漠然と前向きなヤツ。みんなジブンの番が心配だからさ、まばらな拍手とか、ユルい冷やかしとかに終始すんの。もっと正直に意見を交換していいんだぞって、ムナゲがさ。公立だったし、ただ同じ地元だってだけで集まってる連中が、おたがいに深いとこまで通じるハナシなんて、そもそもできっこないじゃん。オカマバーにノンケをつれてってゲイの話をさせるって例えなら、だれだってムリだってわかんのにサ。でもまあ、ガッコってそういうトコだしね。でさ、毎時間、何人かずつ発表してってさ、ついにソイツの番になったワケ。ナニしゃべってたのかは忘れたけど、その日はみんなでしめしあわせてさ、黙って下向いてたの。クラス全員で。発表が終わっても顔あげずに、ただヒジでつつきあったり、クスクス笑ったり。そんで、これは一番うしろに座ってたアタシの役目だったんだけど、頃合いにとびきり大きなため息をついたわけ。ハーッ、って。そしたらさあ、ソイツ、いままでになかったくらい、ものスゴイ逆上しちゃってさあ。教卓を蹴りたおして、アタシのほうめがけて突進してくんの。さいわい、他の男子がとりおさえたけど、まえに座ってた女の子がひとり、倒れた教卓でおデコをケガしちゃってさ。結局、ソイツひとりだけ停学くらうことになるワケ。なんであんな怒ったんだろ。あれは、あと味わるかったわ……(内側へ沈み込むように、小声で)なんであんなに、怒ったんだろ……」
サングラスの男、空中をチョップする真似をしながら、口パクで「切って切って」と言う。インタビュアー、細かくうなずく。
――(わざとらしく腕時計に目を落としながら)えー、時間も残りわずかとなってきたようです。最後にファンへ一言だけ、お願いできますか?
尻:(聞こえていない様子で、ひとり言のように)アタシさあ、前にダンナに不倫されて殺すとこまでいっちゃう役やったことあんだけど、最近なんかそのことばっか考えるっていうか、すごいよくわかんだわ。内助の功ってえの? 影で支えてたダンナがさ、どんどん社会的に立派になってってさ、気がついたら築いた地位を利用して別の若いオンナつれてんの。当時は、なにこのうすっぺらなハナシって思ってたけど、いまは想像するだけで目の前が真っ赤になる感じがする。日の当たらない場所で耐えてきたアタシはどうなんのって。アンタは表の顔だけして生きてるけど、アタシがアンタの下着まで洗ってんだって。アタシがアンタの汚い部分をぜんぶ引き受けてきたから、いまのアンタのきれいな成功があるんだろって。だから、nWoの閉鎖が決まったりしたらアタシ――(臍を噛んで、三白眼で)きっと殺すと思うな……」
サングラスの男が台本を放り投げると、スタッフが撤収を始める。セットから順番に照明が落ち始める。インタビュアー、ソファへぐったりと身体を投げ出す。
――(興味を失った様子で)だいじょうぶですよ、たぶん、どうでも。
尻:(険のとれた表情で)あー、泣いて愚痴ったらスッキリした。なんだって出すとスッキリするのは、動物らしくてイイね。(立ち上がり)ゲイカ、次からはいつもどおりがんばります。みんな、心配かけてゴメンナサイ、てへっ(頭を下げ、舌を出す)。
――(失笑して)がんばるって、萌えを、ですか?
尻:(瞬間的に血涙が吹く)ブワッハッハーのハー!! けっきょく、アンタたちはアタシのこれが見たいだけなんだね!!
小鳥尻、インタビュアーの胸ぐらをつかむと、ともえ投げに投げ捨てる。テレビカメラは激突したインタビュアーごと倒壊し、画面は大音響とともに横倒しになる。サングラスの男、小さくガッツポーズをとると、スタッフに指示を出す。セットに照明がもどる。しらけた雰囲気から一変、にわかに活況を呈する現場。
お茶の間のテレビ画面。ガラスのテーブルにヒールで仁王立ちになり、何事かを宙空に向けて絶叫している小鳥尻ゲイカの口から、炎のCGエフェクトが発している。かぶせるように、怪獣の鳴き声。流れる血涙は、水色に塗りかえられている。BGMにはドリフのコントでオチに用いられる、例のスラップスティックな曲が流れている。大爆笑のお茶の間。
「ああ、よかった! メンタルヘルスみたいな告白を始めたときにはどうなるかと思ってドキドキしたけど、やっぱりゲイカ様ね! いつだって最後の最後には、私たちの期待どおりまとめてくれるわ!」
「(あからさまに戯画的な白人が流暢な日本語で、しかし英単語だけは極めて英語的な発音で)おっと、そこの君! そうそう、顔の造作に問題がないとは誰にも断言できない、ふくよかな脂肪の、そこの君のことだよ! もしかして、nWoがまた、死なない程度のヘルシー・リストカット、予定調和の大暴れで、従来の自閉路線に戻ったと安心してるんじゃないのかな? ノンノン、nWoの未来はいまだにたゆたっている……(雑木林が風になびくときのような擬音)。このウェブ2.0時代にいつまでも昔ながらのテキストサイト的運営じゃ、(そうでないことを確信する口調で)取り残されてしまうからね! 今回、nWoは来訪者のみんなへ向けたアンケートを実施することにしたよ! ホームページはインタラクティブ性が重要だからね、LDゲームのようなね! もちろんキミの匿名は完全に守られるので、「こんな下品なのが好きなんて、私ってやっぱりエッチなのかな?」と性に臆病な女性読者もひと安心だ! nWoの今後の方向性について、忌憚のない意見を聞かせてくれたまえ! なんの権威による裏づけもない、こんな場末の泡沫サイト、どっちに転んだところで人類は滅亡しないって寸法さ(腹を抱えて爆笑する)! (目尻の涙をぬぐいながら、真顔で)アンケート回答者が規定数に達しない場合は、ノーコンテスト。(暗い声で)そのときは、閉鎖します」
センサス at nWo概評
スーツに身を包んだ女性がヒールをカツカツいわせながら、舞台端の緞帳から現れる。同時に、舞台中央からマイクがせりあがる。
「アクセス数200/1日程度の弱小サイトで、アンケート回答数50を超えなければ閉鎖を行うと宣言した小鳥猊下。その無謀な挑戦も、同一人による複数回答というコロンブスの卵を得、ついに達成の朝を迎えた。胸をなでおろすnWoスタッフ一同、握りつぶされるIPアドレス一覧。気を良くした小鳥猊下はnWo社の次世代マーケティング部門にアンケート結果の分析を依頼する。500ページに及ぶ分厚の分析資料すべてを(顔を赤らめて)か、開陳することはおよそ150人の文盲を含んだ来訪者に対し、あまりに過大な要求にすぎはしまいか。苦悩する小鳥猊下は一晩のうちに分析結果を愉快な漫談形式に書き下ろし、臣下へ下賜することを決められた。おお、いと高き小鳥猊下、我々の膣に生まれた隙間がその御言葉で充填されんことを!」
一礼すると、ヒールをカツカツいわせながら舞台端の緞帳へ消える。
舞台の右端と左端からそれぞれ、ワンレンボディコンとしか表現できない時代錯誤の異装をした女性と、重たそうな布地の襞に埋もれた洋装の少女が、前傾姿勢で拍手をしながらマイクへとかけよってくる。
「どもー、小鳥尻ゲイカでーす」
「どもー、名も無き少女でーす」
「オイオイ、きみ。名も無き少女って、それごっつ言いづらいわ。インターネットの匿名掲示板とちゃうねんで、ここ。クオリティ・ホームページやねんで。本名はなんていうねん」
「あの、あたしのこと、コーデリアって呼んでくださらない?」
「ああ、あの表面にうねがある木綿地のことかいな」
「そら、コーデュロイやがな」
「ごめん、ごめん、ボケとったわ。オレゴン州ワシントン群の……」
「コーネリアスや」
「えっ、これもちがうんかいな。わかった、昔のファンタジーRPGにでてきた王様の名前やろ」
「ええ加減にしなさい」
洋装の少女、背中から金属バットを取り出し、小鳥尻ゲイカの後頭部を強打する。鈍い破砕音とともに白い液体と赤い液体と灰色の固体と眼球が四方へ噴射する。小鳥尻ゲイカ、顔面から舞台へ倒れこみ、尻を高くつきだした姿勢で痙攣をはじめる。洋装の少女の華麗なフォロースルー。2秒で直立の位置にハネ起きる小鳥尻ゲイカ。
「ちょ、じぶん、ツッコミが激しすぎるで。あやうく死ぬところや」
「なにゆうてんの。nWo構成体のウチらはしょせんテキストやから、死ぬのはお客さんの関心が尽きたときだけやがな」
「すっかり忘れとったわ。あんまり見事な筆致で描かれてるさかいなあ。それに、きょうの目的はアンケートの開示や。しょうもないつかみで死んだら、しゃれにもならへんで」
「せや。送られたコメントにふたりで返事してくんや。回答者は10代から30代。40代以上はひとりもおらへん。おたくの世代間断絶が浮き彫りになったかっこうやな。社会的立場は、文系仕事と理系仕事と学生がだいたい等分に入っとる。一方、20代と30代で読者の8割やから、こら計算があわんね。終わらない夏休みがまじっとるな。あと、読者の9割は男性が占めてるのが特徴や」
「あほぬかせ。内気で清楚な女性ほど、尻軽には投票でけへんのじゃ。潜在的にはもっとおるはずやで」
「ゆうとけ。送信日時の古い順に、まきでいくで。まずはこれや。『So it goes.』。うわぁ、異人さんや、ガイジンや。うち、食べられてまう、ご時勢的に」
「よっしゃ、あんたは下がっとき、年齢的に。不登校のなれの果てに海外留学へ逃避し、現地では学位も取らず主にアパートの内側で放蕩を繰り返した、英語に堪能なうちの出番やで。ユー・ファック・アナル・アフター・エレクト、オーケー? あとは塩まいたらしまいや」
「ああ、安心したわ。あんたがおってくれてほんまよかったわ」
「よしてや、そんな、親にもゆわれたことのない……」
「泣かんとって、うちが悪かったわ、泣かんとって」
「ごめんな、ほんまごめん。最近涙もろうなって、年のせいやねん」
「次いくで、しっかりしてや。『誰かが言っていましたが、詩人は救われてはいけないそうです。 たぶんぼくもあなたも、孤独と絶望とだけを道連れに生きていくしかないんでしょう。』。詩人やて。悪い気はせんなあ。自意識をくすぐるのがうまいで」
「この人、少女保護特区リライト版の方が好みって回答してはるねん」
「そんな追跡機能がアンケートに組み込まれてたんかいな。ちょっと見直したわ」
「ちゃうちゃう。アンケート結果のページで更新ボタンを押し続けて、コメントと回答者のつながりを目視確認していっただけや」
「うわー、じぶんそれちょっとひくわ。まるっきりストーカーか、そやなかったら引きこもりやん」
「もうひとり、職業欄にコピーライターて書いた人もリライト版が好きって回答してはるわ」
「なんや見透かされるみたいで、ちょっとドキッとするわ。通常版は“つこたらアカン言葉を選ぶ”更新のやり方で、リライト版は“つかう言葉を選ぶ”更新のやり方をしとるからね。スルドイわ」
「次いくな。『今後どうなってしまうか分かりませんが結末を迎えるまでnWoを見守らせて頂きたく思っております。 猊下、愛しております』」
「ゆうてるけど、みんなの関心が尽きたときが終わりどきやから、今後どうなるかはあんた次第やで」
「次。『ザ・ボイシズ・オブ・ア・ディレッタント・オタクが死ぬほど好きです。 いつか言いたいと思ってました。』」
「ギャグ漫画家は短命って話があるけど、ああゆうブラック系の更新は時間が経つとこっちへはねかえってくるねん。社会と思想と他人を無いようにコケしたら、残った我がを無いようにしない理由が見当たらなくなってまうからな」
「次。『確かにサイトの質と世間の評価(?)は不釣合いと思いますが、 何か変えたりする必要は無いんじゃないでしょうか? 私にはとてもとても面白いです。』」
「鬱のときは我がだけ見て更新できんねんけど、躁のときは気持ちが外むくから、誰かの承認なしにはいられんような感じになるねん」
「次。『萌え画像がんばります』」
「アンケートやっていちばんはげみになったんは、萌え画像を送る予定のある来訪者が5人もおったことやね。これから5枚も萌え画像が届くかと思うと、ワクワクで更新もでけへんわ」
「あんたそれ、矛盾しとんとちゃうか」
「次いけ、次」
「『すばらしい体験をいつもありがとうございます。』」
「どういたしまして。あなたこそ、いつもすばらしい孤独をありがとうございます」
「皮肉がきいとるな。『窮状なのか休場なのか分かりませんが、 私は大好きです。これからも楽しみにしてます。』」
「だれがうまいこと言えゆうた。“更新する、反応がない、落ち込む、更新しない、忘れる、更新する”がnWoの持ってる基本サイクルやからな。うちはわるないで」
「『持たざる者である私には祈ることしかできません。』。職業は、なしで回答してはったと思う」
「きみはとりあえず祈るだけでええわ。なんか積極的に動かれると、当局に押収されたパソコンからきみの愛好していたサイトとしてうちが発見されたりしそうや」
「くわばら、くわばら。『私はテキストサイトが好きなんです。 それをいちいち思い出すから、ここが好き。』」
「好きなのはあくまで“テキストサイト”としか読めないのが傷つくし、ムカつくわー」
「絶滅危惧種への哀れみやろね。『ふと思い出しては、読み返します。 過去に何度か掲示板へ書き込むべきかと思ったことはありましたが、 小鳥猊下の文章に受けた衝撃は簡単に言語化できるようなものではなく、 いい加減で空疎な賞賛の言葉など送りたくありませんでした。 ただ一言、私はnwo程文学的に見事な筆致でもって 「現代」「おたく」を真摯に捉えた文言を、ほかに知りません。』」
「まじめやな。うちもそう思う。そして、なのになぜ……という言葉が続くんや。ほんま、なんでやろ」
「『閉鎖?そんなバナナ・・・・いやいや洒落にならんやろ。』」
「あたりまえが、じつはあたりまえやないことに気づいてや。立っとるだけで人はカロリーを消費すんねんで」
「『小鳥猊下、愛しています。』」
「うちもやで。あんたが女性ならセックスしよう」
「しよう、しよう。『いつもありがとうございます。 『あの頃~の生き方をー、あなたはー忘れないで~』という ユーミンじみた勝手な思いを抱いています。 私にとってはたまに訪れて姿勢を正す場所といいますか。 “窮状”などと思わせてしまい申し訳ありません。 複数回答ができなかったので補足させてください。 パアマンの他には、 怪漢ブレイズ・小鳥の唄・ 生きながら萌えゲーに葬られ・高天原勃津矢 などが大好きです。 「こんな文章が書けたら!」と憧れてプリントアウトして 持ち歩いた時期もありますが、もう諦めました。』」
「怪漢ブレイズに一票も入ってへんかったから、ほっとしたわ。nWoみたいな文章かいても誰にも認められへんし、社会的な場ではいっこ役に立てへんから、あきらめて正解や」
「次。『長い間作品を書いていると好調不調の波が出てくる.それは仕方が無い. 「少女保護特区」は不調の作品であると思う. デキの悪い作品の評判が悪いからといって気落ちする必要はないのではと思う. 私はゲイカの作品を愛していますよ』」
「“輝く”って単語、英語で書いてみて。動詞ね」
「ふんふん」
「書けた?」
「書けたで」
「それをローマ字読みして」
「し……おっと、次いくわ。『がんばってください』」
「何を?」
「次。『ブログ形式に移行する前までの作品は全部2回以上は読んでいます。紙媒体に印刷したことはありませんが、ローカルには定期的に保存しています。今のnWoについて愚見を言わせていただけるのなら、タイトルの横に通し番号を付けるのはやめた方がいいのではないでしょうか。一見さんが(1)から読むのは敷居が高いと思います。あと、リライト版は勘弁して下さい。』」
「長いのが増えたから、通し番はしゃあないがな。いまさら新規読者が劇的に増えるとも思われへんし。劇的に増える方法があるなら、一考しまっせ」
「リライト版の方が時間かかってるんやけど……。『次の更新を楽しみに待ってます』」
「どうもどうも。萌え画像、楽しみに待ってます」
「次。『nWoが好きです。閉鎖して欲しくありません。 私を含めて、心を動かされたとしても、数行の感想も書くことのない人間が多いのではないでしょうか。甘い見返りが期待できないならばなおさらに。読み手として弱いのだと思います。』」
「こうゆう単純なうったえにぐっとくるねん。若い女性が書いてると想像して読むわ」
「nWo読者の9割は男性って統計があるで」
「あほか。内気で清楚な女性ほど、尻軽に投票できへんのじゃ。潜在的にはもっとおるはずや」
「矛盾しとるなあ。次。『届かない声を、いつでも上げています。』」
「届いてへん、届いてへん。罰としておまえは小鳥尻ゲイカ歓迎オフ会を主催せえ」
「首都圏で。次。『小鳥さんのテキストはおよそ目にする活字の中で一番好きです 読み手のレスポンスの無さに関しては、文章の完成度と崇高さが遠ざけているきらいがあるだけだと思っているので閉鎖しないでください 学生の頃から拝読していますが、ドープさを増して行く小鳥さんのテキストがどこへ収斂していくのか楽しみにしています』。職業、ベンチャーキャピタリストやて」
「カネやな。カネをもっとんのや。どこに収斂していくかなんて、そんな高尚なもんはおまへんのや。うちら、ネットの芸者商売やさかい、お客さんが呼んでくれればどこででも踊るし、こう踊れェゆうたら、そのまんま踊りますよってに。小鳥尻奴の欲しいのは、カネ、萌え画像、他者承認どすえ」
「めっちゃやらしいな、じぶん。ドープってなんやろね。次。『無理スンナよ』」
「してねえよ」
「身の丈にあったものを更新せえの意かもしれへんで。次。『小鳥さんは最高にカッコイイです。』」
「そっちの名前で呼んでくれる人もおらんようになったなあ。なんかなつかしいわ」
「『窮状なんですか?』」
「はい、それらはバナナです」
「あと少し。『わりと好きです。』」
「憎む、愛す、無視以外の選択肢があることが、すごい衝撃―」
「『他人の評価にそこまで固執するのが分からない。 芥川賞とればいいと思う、取りあえず。 ネームバリューで人が集まって、そしたらその中に本物の読者もいるのではないでしょうか。』」
「どうして父の間違った方の精子が母の卵子と結合したのか分からない。芥川賞の選考委員になってnWoを推薦すればいいと思う、取りあえず。それからプロ野球選手になって5年で二千本安打を達成すればいいと思う、取りあえず。ネームバリューで記者会見が開かれ、そしたらその中でnWoの宣伝もできるのではないでしょうか」
「どう、どう。『パアマンに衝撃を受けて以来ちょくちょく覗いてます。』」
「生きながら萌えゲーに葬られをおさえて、パアマンが一番人気なのよねー。ホームページとそれを更新する人物という枠組みに、更新されているキャラクターが接触を果たすという、シミュレーテッド・リアリティの走りみたいな展開がウケたのかもねー。世界、神、人間。次は?」
「ううん、これでおしまい」
「あら、そう。おしまい」
「オチはないの?」
「ない。考えてきたの、出オチ的につかっちゃった」
舞台に下りる沈黙。それが不自然なほど長くなる前に、襞のついた洋装の少女が、「きみとはやっとれんわ」と金切り声で絶叫する。二人、頭をさげると、観客席におりてくる。カメラの向けられた客席は閑散としており、人はまばらである。水筒の日本茶でせんべいを湿らせて食す老婆や、スポーツ紙を顔にかけて大いびきの中年男性や、接吻とペッティングを繰り返す男女や、思いつめた表情の書生風銀ぶち眼鏡。二人、何かのサービスなのだろうか、身につけた衣類の一部を客席に向けて放りなげるが、誰も拾おうとしない。客席の背後にある両開きから二人が出て行ったあと、思いつめた書生風の青年が衣類を拾いあげ、大急ぎでリュックに詰める。
「あそこで真っ白になるなんて、あそこで真っ白になるなんて」
両手に顔をうめてぐずぐずにすすり泣く大柄のボディコン女性。
「しょうがないわよ、できの悪い日もあるわよ」
大柄のボディコン女性を支えるようにして隣を歩く小柄な洋装の少女。二人のささやき合いは、しかし清掃員が濡れたモップをロビーの床へ叩きつける音にかき消される。
「だいじょうぶよ、芸の不安定さがあなたの売りでしょ」
二人が後にした建物には裸の女性の図画がいくつか大きく掲示されており、入り口にいるもぎりの男性は生来のものだろう、茫洋とした独特の表情を浮かべている。小柄な少女はなぐさめ続けるが、大柄な女性はいっこうに泣きやまない。
「ポルノ映画館で世界を革命したって、誰も認めてくれないのよ。私たちはこの世にいないも同然なのよ」
小柄な少女、大柄な女性の背中をさすりながら言う。
「あたしがいるじゃない、誰がいなくたって、あたしがいるじゃない」
真っ赤に泣きはらした目をむいて、大柄な女性、絶叫する。
「もう聞きあきたわ! あんたがいたって、私は寂しいままじゃないの!」
途方に暮れた表情で立ち尽くす小柄な少女。
「消えないのよ、その寂しさは消えないの。私たちは壊れてるから、その寂しさは消えないのよ……」
激情の冷めた大柄な女性は、小柄な少女を強く抱きしめ、小柄な少女はその抱擁へ一筋の涙を与え、やがて手に手をとりあった二人は「だいじょうぶ、きっと今頃は萌え画像が届いているはず。だからまだ、だいじょうぶ」と励ましあいながら、場末のネオンの中へ消えていく。
痴人への愛(1)
「またひとつ消えたわ」
コーデリアは菜につかう包丁の手をとめると、聞こえぬよう小さなため息をついた。今夜は荒れそうだ。
エプロンで手をぬぐい、右ひざを抱えたまま無表情で涙を流す女性の脇へ、そっと近づく。
視線の先には、Not foundと書かれたノートパソコンの画面がある。
「ずいぶんと前から更新なんてなかったじゃないの」
非難にひびかぬよう注意してささやきながら、コーデリアはその肩を抱き寄せた。子どものように胸元へと倒れこんでくる。
「消えたのよ」
いつものことだ。どんな言葉をかけようと、彼女が救われることはない。
コーデリアは黙って、白いものが混じりはじめた長い髪を手櫛にさすってやる。うながされるように、小鳥尻は短い嗚咽をもらした。
芸名・小鳥尻ゲイカ、本名・小島桂子。数年前に一世を風靡した芸人である。
しかし、巻きスカートをマントの如くはぎとりながら、肌色タイツの股間に接着した亀の子タワシを見せる芸を覚えている者は多くあるまい。タワシを右手ですりながら言う、「ワタシのタワシ気持ちいーで」は流行語大賞にもノミネートされた。だが、この健忘症的な世の中で一年に満たぬ期間のテレビ出演は、人々の記憶力に対して充分に長いとは言えない。
当時、コーデリアは小鳥尻の芸を客席から眺める一視聴者に過ぎなかった。熱狂はあったのだ、と思う。彼女が出演する番組のスタジオ観覧を申し込み、外れたときはテレビ局の外で待ちかまえた。他にも無数に芸人はいたのだし、そのうちの誰に同じ熱狂をささげても不思議ではなかったはずなのに。
司会者が、時事問題などのコメントを小鳥尻に求める。彼女は腕を組んで考えるふりをしたあと、奇声をあげてスカートをはぎとる。「ワタシのタワシ気持ちいーで」を連呼しながら司会者に体当たりをし、観覧席にダイブする。どの辺りに飛び込むかは事前にスタッフから指示があって、観覧者たちは悲鳴をあげながら避けることになっている。床に叩きつけられた小鳥尻が大げさに痛がり転がりまわるのをもって、一連の芸は幕となる。
あのときのことは、いっしょに観覧席へ座っていた友人が後々まで繰り返し話したものだ。もっとも、携帯電話を捨ててからこちら、すでに何年も音信はない。
「あんた、よけようとしないんだもん。それどころか、両手を広げて受けとめようとしたでしょ」
痩せぎすの小娘にすぎなかったコーデリアは、ダイブを受け止めきれず、そのまま小鳥尻の下敷きになって左手を骨折し、腰骨にはヒビが入った。
サングラスにトレンチコートの小鳥尻が、その長身を丸めるようにして病室の入り口に立っていたのを今でも鮮やかに思い出すことができる。小さな花束をぶっきらぼうに片手で突き出すのには、思わず笑ってしまった。
それが、世間でいうところのなれそめというやつである。
コーデリアはレズビアンではない。男とか女とかではなく、小鳥尻だからなのだ。しかし、両親も友人も、理解はしなかった。
この、台所つきの六畳間に越してきて、どのくらい経つのだろう。幸福は夢のように過ぎる。あっというまに過ぎる。苦しみの長さはすでにコーデリアの時間感覚を麻痺させていた。
「みんな私を置いて、行ってしまうのよ」
この台詞も毎度のお決まりのこと。コーデリアの中ではほとんど様式化してしまっている。しかし、それへ返答をするときは常に新しい創造を求められるのである。
声をかけようとして、小鳥尻の目じりに刻まれた皺が、前よりも深くよじれるのを見て、コーデリアは全身に鳥肌を生じた。その沈黙は、しかし小鳥尻の精神にとって有効に働いたようである。
「コーデリア、あなただけ。私には、あなただけ」
小鳥尻の手がエプロンの上からコーデリアの薄い胸をまさぐる。性的な昂揚を求めているわけではない。ただ、肉を感じることで寂しさを消したいのだろう。
ノートパソコンに映るのは、芸人たちのホームページのひとつである。最近はブログというのだろうか。所属する芸能プロが作成し、人気のあるうちはそれなりにファンとの交流の場に成りえる。しかし、落ち目になるほど更新の頻度は間遠となり、やがて自然消滅的な閉鎖へと至るのだ。
ひと握りを除けば、長く続けられる業界ではない。才能と時の合致を得た彼らは、やがて自分の番組を持ち、そのメジャー級の選抜の中でさらなる競争に身をやつしていく。膨大な分母から、総当りのリーグ戦を経て、真の勝者となるのはほんのわずかである。
そして、勝つ見込みの薄いこの業界へ早々に見切りをつけ、全く別の分野に才覚を見出す者も少なくない。だから、芸人のホームページが消えるのは、彼らが現実の中へ居場所を見出したということの裏返しにすぎない。確実なのは、いつまでも残される連中はひとからげに例外なく、何らかの点で欠けている、劣っているということである。
小鳥尻の芸を他の者たちと分かつ要素があるとすれば、それは思考の奇形性であり行動の奇形性である。深まらず、拘泥しないことが流動性を担保する。人生という変化に対処するとき、それは偉大な戦略である。だが、奇形性ゆえに小鳥尻は小鳥尻であり、奇形性ゆえにその芸が真の意味で大衆に受け入れられることはない。簡単に言えば、下ネタでは天下をとれないのである。
しかし、それでも――コーデリアは思う。
王様に対する道化師のように、既存の枠組みをゆさぶることで可視化するという特権を与えられた社会装置が、本来の芸人ではなかったのか。この国の芸人たちはほとんど例外なく、すべて体制の側にいる。彼らの目指す最終的な到達は政治家であるのだから、無理からぬことかもしれない。
この一点においてだけ、小鳥尻は間違いなく芸人である。コーデリアが彼女に引かれた理由もそこにある。
一汁一菜の質素な昼食を終えると、小鳥尻はもそもそと寝巻きを脱ぎはじめる。一張羅のスーツに着替えるのを手伝いながら、コーデリアは彼女の豊満な胸にいまなお残る、横に並んだ細いソーセージのような青黒い色素の沈着を痛ましい思いで眺めた。“風船爆弾”の痕跡である。
“タワシ”が飽きられはじめ、テレビへの出演依頼も減りはじめた頃、小鳥尻が必死に考え出した新しい芸だ。それは、「風船爆弾、風船爆弾」と連呼する相方が、彼女の豊満な胸をパンチングボールよろしく、拳で殴打するというもの。関西の男性芸人からヒントを得たという。最初は上着を脱ぐだけだったのが次第に過激化し、ついにはブラジャーまで外して行うようになった。その相方というのが、何を隠そう退院後のコーデリアである。
詳しい経緯を語っても仕様があるまい。あらゆるメディアからフェードアウトしてゆくという窮地にいた小鳥尻は、国営放送でこの“風船爆弾”をやらかした。生放送中に、生乳でやらかしたのである。謝罪の記者会見で、平身低頭する事務所の社長を尻目に一言の謝罪も発さないばかりか、コーデリアを含む関係者全員が頭を下げる中、小鳥尻はひとり傲然と胸をそびやかした。社会正義に悪酔いした記者があげる社会性を逸脱した怒号に、事務所のスタッフが無理矢理に小鳥尻の頭を長机へ押さえつけ、ようやく謝罪の形を作った。だが、隣にいたコーデリアには、頭を押さえつけられ鼻血を流しながら、にらみつけるように真上へ視線を向ける小鳥尻が見えた。この瞬間、小娘らしい恋の憧れが、大人の愛情へと変わったのだ。
玄関先でブーツに足を突っ込みながら、今日はお客さんに呼ばれてるから遅くなる、と小鳥尻が無表情でぼそぼそ言う。舞台の上のハイテンションどころではない、普段の小鳥尻はほとんどしゃべらないし、感情を露にすることさえまれである。コーデリアはできるだけ明るく返事をするよう努めると、アパートの出口までついてゆき、長身の背中が曲がり角の向こうへ見えなくなるまで立ちつくしていた。
部屋に戻り、玄関の扉が閉まる音を背後に聞く。小鳥尻はいない。当たり前だ。この部屋は、もはやコーデリアにとって何の意味も持たない場所になっていた。小鳥尻がいるからこそ、この空虚な住処がかろうじての避難所として成立する。六畳間をうろうろと周回すると、コーデリアは小鳥尻のいた場所へ呆然と座り込んだ。
私たちふたりが破滅しない方法はなにか。最近、コーデリアが考えるのはそのことばかりである。
週に一度もないような、場末のスナックへの営業ぐらいでは、とうてい食いつないでいけるはずがなかった。コーデリアは相当にいかがわしいアルバイトへ手を染めたこともあるが、小鳥尻が部屋にいる間は磁力のように離れられなかったので、食うに充分な稼ぎを安定して得ることはできなかった。
昨日はついに、母が積み立ててくれていた学資貯金を切り崩した。小鳥尻はそのことを知らない。生活保護のことを相談したときの狂乱を思い出して、恐ろしかったからである。
小鳥尻はただ自分であることをやめられず、他人の夢の残骸に埋もれたコーデリアは身動きさえ取れずに貴重な若い時間を空費してゆく。地獄。そう呼べる場所があるなら、まさにコーデリアの住所はそこであった。だが、角を生やし赤い肌をした官吏たちは空想にすぎない。人はただ、己の意志において地獄に己を閉じ込めるのである。
少女保護特区(6)
当局の提供する簡易宿坊に腰を下ろすと、予は背嚢からラップトップ式のパソコンを取り出す。ビデオカメラと双璧を成す、予の配下において最も重要な子飼いである。予の少女との別離がもたらした衝撃から回復しつつあった予は、たとえ無償の提供を受けたとしても感謝ではなく批評が真っ先に来訪するあの豪胆さが身内に戻りつつあるのを感じていた。起動を待つ間、予はあてがわれた部屋の価値を値踏みするべく視線を走らせる。床には布団というよりはむしろムシロが引かれ、排泄物を垂れ流す穴は板囲いがしてあるだけだ。その質素さに比べて、数本の鉄棒が重力方向へ平行に走る戸口だけは奇妙に装飾的である。鉄棒を通り抜けて、予のノートパソコンから伸びたケーブルが廊下を這っている。ネットワークへ接続できる環境の提供を論理的かつ強力な身振り手振りで主張する予に屈する形で、大便のごとくに巻かれたそれがうやうやしく投げ与えられたのである。その先端はいまや予の希望を適えるべく管理官の舌打ちを乗せて、通路の奥へと消えている。
ブラウザを立ち上げると、予はブックマークのひとつをクリックする。少年と少女が生気の無い目で視線を宙空へと彷徨わせる足元に「青少年育成特区」と装飾的な字体で記された、例の見慣れたロゴマークが出現する。画面の下部から回転しながら現れ、中央に一定時間静止してから上部へ消えていくのだが、スキップする方法はない。おそらくは、取り出した煙草に火をつけさせるためだろう。官庁がするこの心にくい時間的配慮を、予はひどく気にいっている。肺腑が吸い込んだ煙で満ちると、予の呼吸は何千分の一秒か完全に停止する。全身の血管を毒が駆け巡り、予の自尊心に死という等価の重りを与え、予はほとんど敬虔な気持ちになる。もはやただの物質と化した煙を鼻から勢いよく噴出しながら、画面に焦点を合わせないまま、予はマウスを数センチ滑らせる。エッチ・ロリコン板のバナー上にカーソルが到達するのと、予が人差し指を痙攣させるのは同時だった。そして次の瞬間、予の内側にあった至高の安逸は完全に消滅したのである。
さて、性的な暗喩が他の暗喩を圧してあまりに素早く脳内へ醸成される諸兄のために、いまの場面を少々補足する必要があると予は考える。予が閲覧しているのは、AvengerLicenseを持つ者たちの動向をランキング形式で記録する官庁の広報用ボードである。正式名称は”The Hardcore Ladder of Liberty for Girls’ Survival Convention”だが、その頭文字を取って俗にH-L-o-Li-Con板、あるいは単にL-o-Li板と呼ばれる。後者の場合、中間の母音を脱落させ、ろりーた、と発音するようだ。暴力という観点から許可証所持者の危険度を客観的に測り、台風や津波等の災害警報のように民間人へ注意を喚起するため設置されたのだが、もはやその本来の理念を念頭にアクセスする者はいない。少女たちの顔写真に出歯亀的関心を持つか、少女同士の対決を対象にした非公式の賭博を行うか、許可証所持者の係累に連なるか、次に殺害する同胞を求めるかが利用目的の大半である。予は無論、このボードを最新の状態に維持するための情報提供者の一人であり、いずれにも該当しないことを付け加えておく。
次にロリ板の特徴である。基本的にすべての許可証所持者が登録されており、少女同士の接触の際に闘争が生じた場合、その結果は可及的速やかにランキングへ反映されることになっている。上位者が下位者に勝利した場合はSポイントと呼ばれる点数が上位者に加算される。頭文字Sの意味については殺戮とか殺害とか殺傷とか諸説あるが、はっきりとしない。下位者が上位者に勝利した場合はお互いの順位が入れ替わり、死亡者の氏名は暗転表示されてランキングの最下位に回される。もはや半分以上の氏名が灰色に沈んでいるが、その総数は日々増え続けている。命の軽重を視覚化するこのランキングには美人コンテストに向けられるのと同質の感情的な非難が集中する。しかし、予はロリ板を心の底から愛した。望むと望まざるに関わらず、生命の価値に序列は存在する。その真実への社会的検閲を極めて局所的にではあるが無化するこの板は、予にとっての福音である。
一位から以下二十名は拳闘風に表現するならば上位ランカーとされる。下位者からの挑戦を多く受けるも彼女たちの敗北は稀である。マッチメイカー不在ゆえに上位ランカー同士の闘争がほとんど発生しないため、その構成員はほぼ固定されている。スポーツとは違い、何の名誉も伴わないランキングである。力の拮抗した者同士の闘争には死のリスク以外が存在せず、必然的に争いは回避されるのであろう。だが、自然淘汰が発生しないという意味合いで、上位二十名のランキングは現状を正確に反映できない恐れがある。そこで、より多くの実戦に生き残っている事実を客観的に示す、先ほどのSポイントが登場するのである。加えて、予を嚆矢とする少女観察員が全国に遍在し随時の情報提供を行う。当局はそれらを集約して、諮問機関である少女審議委員会、略して少審へ上位ランカーの正当性について検証を依頼するのである。上位二十名の少女たちは殺傷力、持久力、敏捷性、成長性、処女性から成る五つの観点を五段階で評価される。最後に挙げた項目、処女性が何を評価しているのかについては、ロリ板において長く議論の対象とされてきた。なぜなら法律上、許可証所持者は全員、言及するまでもなく処女のはずだからである。現在では、該当少女の精神や容姿を判定しているのではないかという推測が多数を占める。また、評価システムそのものに対する疑念も多い。少審の五段階評価を仮に二十五点満点へ換算した場合、点数の寡多と順位が連動しないという指摘は、メジャーな議論の一つである。例えばランキング二位の老利政子は順にDCEEAであり、総得点はわずか十二点にしかならない。これは、上位ランカーの中で下から三番目に低い数字である。各項目が異なった係数を与えられているという見方もあるが、未だ大統一理論の完成は遠いようである。
話を戻そう。予が受けた衝撃は、予の少女の名前を仁科望美、老利政子から始まる上位ランカーの中に発見したことへ由来したのである。実際の闘争を除けば、少審による上位ランカーの格付けは「その必要が生じた際、適宜」という会則に則り行われるが、その頻度は最短で四ヶ月、最長で二年半とまちまちである。格付けと格付けの谷間の期間はシーズンと呼ばれ、現在は特区法制定から十六回の格付けを経て、17thシーズンに該当するはずだった。しかし、今回のアクセスは予に18thシーズンの到来を告げたのである。予の少女の順位は十九位、評価は順にCDBBBである。予はただちに予の少女の敏捷性と処女性を一段階高めることを具申する陳情書をしたためにかかる。あの野良少女が、もしや上位ランカーだったのではないか。予の少女が迎えるだろう終わりのない闘争の日々への不安が、予の心へにわかに積乱雲の如く佇立するのであった。先に述べたように、上位ランカー同士の争いは極めて稀であるが、下位者から受ける挑戦は激増する。過去、二十位入り直後の一週間で名前を暗転表示させた少女がおり、少審への抗議が殺到したこともある。殺戮ではなく審議によるランクインであったからだ。少審の構成員が非公表であることも相まって、ランキングの恣意性については常に批判が耐えない。
その少女の二の舞となる心配は無いと信じたいが、実際のところ両親の死が予の少女の暴力に何らかの影響を及ぼした可能性を予は否定できない。予の少女に向けられた外部評価の不当な部分をくつがえしておくことは、しかし当面の挑戦者たちを牽制する役には立とう。陳情書を裏付ける情報として、予の少女の闘争をあますところなく記録・編集した動画をアップロードせんと、予は全国の少女観察員たちが共同で管理するサーバーへアクセスする。煙草一本分の時間を経て無事にファイルが転送されたことを確認するため、予の少女の躍動をネット上で眺めるうち、予は奇妙な感情が身内にわきおこるのを感じた。このような陳列がひどい冒涜にあたるのではないかという、理屈に合わぬ思いである。予は予の行う社会正義を信じていたし、手に入れた情報を他者と共有することで生まれる新たな発見や思想を喜んでもいた。予は宗教家ではない。だが、無神論を言うほど人間を超えた何かを信じていないわけではない。デジタルではない部分を持つ神は電子回線を通るときに劣化しないのだろうか。予の側にある神聖さへの畏敬は果たしてこの方法で共有できるのだろうか。突然の内なる問いかけに予はとまどった。予の少女の動画を閲覧することがなぜこのような疑問を生じさせるのか全く分からぬまま、予はアップロードしたファイルを衝動的に削除する。サーバーはすでに自動的なバックアップを行っているはずで、予の少女の動画はそれを撮影したときの予の感情とは切り離されてやはり誰かに届くだろう。だが、予の想いを伴った動画は削除されたのだ。その不合理な安堵感に、予は不快を禁じざるを得ない。電子メールによる陳情書を送信するとき、ファイル名を含むURLを消さなかったのは予の予に対する腹いせである。ノートパソコンの電源を落とした予は、入り口の装飾的な鉄棒に手をかけて前後に強く揺さぶった。耳障りな音が廊下へ響き渡り、やがて眠そうな目を擦りながら管理官が現れる。予が宿坊からの退室を願いでると、午後九時以降の入退室は規則により禁じられている旨を言いかけるが、ケーブルをめぐるやりとりを思い出し論理的かつ確信に満ちた予を論破することが難しいと悟ったのに違いない。予から放たれる無形の圧力に屈する形で、管理官はしぶしぶと鍵束を取り出した。特例なので見つからぬよう裏口から出て欲しいと申し出るのを超然と退け、予は表玄関から外界へと堂々の帰還を果たしたのである。
予の少女の居場所を割り出す追跡行が異例の短期間で終結をみたことで、二人の間に横たわる強い絆への確信を予は新たにした。予の少女が所持する携帯電話にはGPS機能が備わっており、子飼いのノートパソコンがする獅子奮迅の活躍のおかげで、現在位置を市内のホテルへと特定できたのである。諸兄もご存知のように予の面体はあまりに高貴であり、加えて身にまとうオーラとも呼ぶべき不可視の何かが凡百の人民をして常に過たず、この人であると指ささせる要因となっている。ビデオカメラを筆頭として一筋縄ではいかぬ、歪さこそが才能に直結する歴戦の子飼いたちを統率するのにその、予の持つ生来のカリスマ性は極めて重要な役目を果たしていると言えよう。しかしながら、ホテルのロビーなどを通過しようとするとき、品よく裁縫された制服に野生と暴力を去勢された憐れな兵士である警備員が、志願兵として雇用の可能性を尋ねるために違いない、予を呼び止めようとすることが頻繁にあった。予の手下は精鋭を以てよしとする。直立の威嚇行為に塩を得る彼らは、予の向かう闘争を前にすればすくんで身動きもとれまい。それをわざわざ口頭で伝える無神経さも予の高貴な精神にははばかられたので、ロビーが客室応対の電話を取り上げ、警備員が交代の引き継ぎに詰め所へ戻る一瞬の間隙をぬって、予は全軍に突撃を命じる。予と兵士たちはエスカレーターを二段とばしに駆け上がり、中二階からエレベーターへ滑り込むことに成功した。電光石火の奇襲作戦を成功させ、兵士たちは意気を強める。予の指揮ぶりを褒め称える万呼が頭蓋に鳴り響く。並の将ならば破顔してそれに応えるところだろうが、エスカレーターの中に人がいたこともあって、予はただ鷹揚にうなずくにとどめた。敵陣にあっては天災のごとき大勝利にも気を緩めぬ様子を見て、子飼いの勇将たちは予の大きな器を感じとったようである。兵士たちが予への崇拝を闘魂へと変えて静かに、しかし烈々と燃えたたせるのがわかった。結果、予は最小を用いて最大を得たのである。
最上階から順に各階をしらみつぶしにする腹づもりであったが、二人の絆のおかげであろう、予の少女が滞在する階は容易に同定できた。空気中へかすかに混じる血の匂いは、少女殺人に立ち会うこと頻繁な予にとって、もはや馴染みと言ってよいものである。匂いに導かれるまま、予は向かいあって立ちならぶ扉の谷を進軍する。この階に降りたった瞬間から、状況を察知した全軍は予の命令に先んじてすでに臨戦態勢にあり、それに応じて行軍は極めて慎重なものとなっていた。じりじりするようなその速度の中、回廊の対称性が持つ無個性の印象は予に終わりのないループを連想させる。五感を刺激する情報の乏しさに時間への意識が麻痺しはじめた頃、斥候の任に当たっていたビデオカメラがそのズーム機能によりわずかに開いた扉を発見し、伝令を寄越してくる。予は前線へと急行する。
薄闇の濃厚さが訴えかけるような感覚は、実際に少女殺人へ立ち会ったことのある者にしかわかるまい。予は口中で唾が固まっていくのを意識しながら、人が通れるほどまで隙間を押し開く。はたしてそこには、頭頂から縦方向へ二つに開かれた白人男性のさらす人体の不思議が、部屋の奥から漏れる間接照明の光に照らされていた。鮮やかなその断面が、日本刀での斬撃によることは疑いがない。陳情書に記述する格好の材料として、予はズームしたビデオカメラの視界をゆっくりとなめさせる。空間的に不安定なはずの性器までもが測ったように同じ容積の二つになっており、予は様々の意味で縮みあがらざるをえない。白人男性の右手に名刺大の紙片が握られているのに気づいたビデオカメラは、さらに視界を拡大する。最大の望遠を用いてようやく視認できたその紙片にはヘルス・エンジェルと大書きされ、0120で始まる電話番号が記載されていた。白人男性にとって配達されてきた死は、まったくの意想外であったことが推察される。遺体から点々と続く血の跡がバスルームへと消えているのを確認し、予は様々の意味でふくらまざるをえない。しかし、浴槽にはすでに使用された形跡があり、予は様々の意味でしぼまざるをえない。浴槽の底と濡れたバスタオルはわずかに桃色へ染まっている。予はそれらへ口づけたい欲求を、白人男性の遺体を思い浮かべることで防がねばならなかった。バスルームを出ると、周囲に漂っていた濃密な血の匂いがほとんど感じられなくなっているのに気づく。嗅覚が鈍化したのであろう。あとは遺体の方へ視線を向けないようにすれば、この客室は完全に清潔な空間と信じることができる。我が身が痛まない限り、この世で地獄が長続きしないことを予は知っている。
大きなベッドの中央に、小さなふくらみがあった。そこに予の少女が寝息を立てている。永遠のように思われた別離はその実、わずか数時間のことに過ぎなかった。予は書き物机から椅子を引き寄せ、ベッドの傍らに腰かける。神ならぬ人の身が作り出した殺戮する天使は、小さな頭を枕にうずめ黒髪を放射状に周囲へ投げている。喉まで引き上げられた薄手のキルティングにすっぽりと包まれ、予はそこにあるのが予の少女の生首なのではないかという錯覚を抱く。青く見えるほどに白い肌へわずかに隆起する赤は、ベッドの上にある唯一の色彩的要素であった。やがて、予の少女の呼吸が浅くなる。おそらく、予という闖入者の存在に気がついたのだろう。予の少女が寝具の下に日本刀を隠し持っているのだとすれば、予は完全にその間合いにいる。予の少女は予を傷つけぬという自信は、もはや過去のものになっていた。立ち上がろうと足の筋肉を硬直させた瞬間に、予の少女は予を切り捨てることができる。
実のところ、この瞬間まで予は予の真意を測りかねていた。予の意識はあまりに深遠であり、時に自分が何を知っているのかを知らぬことさえあった。つまり、予は予の少女に殺されるためにここへ来たのである。いまや予の少女の中で予と両親は渾然と同化していた。予の少女が幼い頃から求め続けた抱擁を、両親と同じく予が拒絶したからである。予が殺されることは、予の少女を解放するだろう。そして、予の少女が解放されることで初めて、予は現世のあらゆる欺瞞を超えてこの狂おしい恋慕を完成させることができる。惜しむらくは、予の少女を抱きしめる瞬間に予の実存が肉体を喪失していることか。予と両親を失った予の少女はその暴力の根拠を揺らがせ、やがて青少年育成特区から発した多くの狩られる存在へと堕ちていくだろう。そこまで考えて、予はこの行動に自棄の感情が含まれていることを否定できなくなる。予は予の少女への恋慕ではなく単に理性でもって、時間差の形で心中を作ろうとしているのやも知れぬ。もはや瞬きすらできず、予は予の少女の端整な横顔へ視線を釘付けにしたまま、ただ呼吸のリズムを合わせるしかない。この、他殺を模した自殺がサクリファイスではない事実を発見したことで、予の明晰な頭脳は極めて稀な、思考停止に近い混乱を生じたのだった。
両耳の間に心臓を移植したかの如き騒擾を裂いて、予の頭蓋に鈴の音が鳴りひびく。気配の方へ視線を送れば、ベッドの足元には和装の少女が立っている。いつからそこにいたのか、予は予の想念へあまりに深く没入しており、その侵入を気がつけなかった。失態である。直線に切りそろえられた襟元と額の黒髪に、瞳は瘡蓋のような赤茶色をし、蝋で固めたような顔にはおよそ人が持つ感情の一切は認められない。
――老利政子である。少女審議委員会から派遣された。
外見とはそぐわぬ、年ふりた声だった。他人に対する強制力を疑わぬ、予と同じ、命令する側の声である。応じるように寝具が裂け、内側から抜き身が跳ね上がる。だが、その必殺の斬撃に対して和装の少女が行った動作は左足をゆっくりと手前に引くだけであった。ベッドを二つに割った日本刀の威力は、いとも簡単にいなされたのである。羽化した蝶のように、予の少女は斬撃の余勢を駆って回転しながら床へ降り立つ。そして窓を背にすると、鞘へ戻した刀を腰だめに構えた。
――老利政子は闘争を求めない。だが、求められた闘争を拒絶するほど愚かではない。
応じるように予の少女が抜刀し、老利政子がゆっくりと一歩下がる。切っ先は細い首があった空間をむなしく通過した。予期した切断の手ごたえを得られなかったためか、制御を失った刀身は流れて背後の窓ガラスを粉砕する。少女殺人に立ち会うこと頻繁な予の経験則からして、一方がまだ獲物を見せていないにも関わらず、どちらが殺される側にいるのかはもはや明白であった。我が身を守るように日本刀をかざした予の少女の両目は大きく見開かれ、追い詰められた猫科の肉食獣のようである。老利政子が一歩を踏み出す。見えない力に弾かれたように、予の少女は背後の窓から夜空に身を躍らせる。一足飛びに距離を詰め、和装の少女が宙を舞う。
駆け寄った窓の外には、頭上で日本刀を高速回転させて滑空する予の少女と、居並ぶビルの屋上を人外の跳躍で八艘飛びに追いかける老利政子の姿あった。予はクローゼットから予備のシーツを引きずり出し両手両足の指で四隅を挟むと、むささび飛びに追跡を開始する。だが、超人ではない予の身体はほとんど重力だけの落下と同じ速度で、ホテルへ隣接するビル屋上へと近づいていく。もちろん、この程度の危地は自室での二十年に渡る思索の生活においてすでに想定済みである。冷静にシーツを放棄すると予は、爪先、膝、腰、肩、側頭、頭頂の順に接地および回転し、落下の衝撃をすべて受け流すことに成功する。なぜか右腕が上がらなくなったが、一時的なことだろう。子飼いのビデオカメラは左手で構えれば全く問題がない。階段を駆け下りて街路に立てば、はるか前方のビルへ上空から二つの影がもつれあうように降下してゆくのが見えた。予は大音声で最強行軍を号令する。
――少女審議委員会の至上目的は、第二の仁科望美を作らぬことである。本日、新たな上位ランカーとの接見を果たしたが、老利政子は安心をした。
息を切らせて階段を駆け上がり、屋上へと続く鉄扉に手をかけた予が聞いたのは、命令する権利を疑わない者だけが発することのできるあの強い声であった。こちらに注意を引きつけるため、予はわずかに浮かせた扉を蹴り開ける。けたたましい音に、二人の少女がこちらへ視線を向ける。予の少女は片膝をつき、日本刀に身をもたせてかろうじて上体を維持している。制服のあちこちが裂け、そこから流血も生々しい傷がのぞいている。老利政子は目を細めると、食餌を発見した有鱗目のように予を見る。
――もっとも、不確定要素が残されていないわけではない。老利政子はこの芽をあらかじめ摘んでおくこともできる。
応じるように、もはや力尽きるふうであった予の少女が刀を振り上げて、背中へと切りかかる。老利政子は身じろぎひとつしない。抜き身は誰もいない虚空をないで、斬撃の勢いのまま予の少女は予の足元へと転がりこんでくる。
――しかしながら、確実性を欠く予断に基づいた殺戮は、老利政子と仁科望美の区別を難しくする。老利政子は何より矜持のため、この機会を見送ることとする。
和装の少女はほんの軽い屈伸で、屋上の貯水槽へと移動した。伏したまま肩で荒い息をする予の少女に、もはや立ち上がる力は残されていないようである。満月を背景にした和装の少女は、予が予の少女に捧げていなければ心惑わされたであろう、人外の美を放っていた。わずかに腰を落とした老利政子を中心にして大気が渦を巻き、来たる躍動への予感が辺りを充満する。しかし、予には確認しておくべき事柄があった。無論、予とてわずかの推測を手がかりにした問いかけであり、まさか真実がそのまま得られると考えていたわけではない。
――いかにも、老利政子の保護者は老利数寄衛門である。だが、このことは決して他言せぬがよろしかろう。少女審議委員会の構成員には公安警察の出身者も多い。もし約束を守れぬ場合、今後の行動に極めて重篤な制約を受けると理解するがよい。
つまり、老利政子の率直な返答は、この段階において予と予の少女が少審にとって全く問題ではなかったことの証明である。さらに質問を重ねようと予が口を開いた瞬間、貯水槽から和装の少女が消滅する。視認不可能な速度の跳躍で上空へと自らを射出したのだ。予が抱え起こしたとき、失血によるものかショックによるものか、予の少女はすでに意識を失っていた。予は右腕をかばいながら予の少女を背中にかつぐが、ほとんど子どものように軽い。鞘に収めるべく拾い上げた日本刀は反してひどく重く、優に持ち主の体重以上はあるかと思われた。少女殺人者の持つ特権に潜む業の深さを垣間見るようである。老利政子が去ったにも関わらず、予と予の少女は依然として重大な危機の中にあった。無数に刻まれた傷がどの程度深いのかもわからず、近隣の医療施設へはあまりに長大な主観距離が横たわっている。なぜなら、市内を徘徊する他の少女殺人者たちにとって、重傷を負った上位ランカーは自らのステータスを一息に高めてくれる格好の獲物だからである。
両親の死から始まった予の少女の長い夜は、未だに終わりを見せようとはしなかった。
少女保護特区(7)
すべては他人事のように感じられて、映画やテレビの向こうのように感じられて、たまらなくイヤだった。
頬にかかった熱湯に、思わず悲鳴をあげそうになる。指をすべらせればぬるりとした感触がして、手のひらは真っ赤に染まった。噴出する液体はすぐに勢いを失い、床に広がりながらやがて制靴を浸した。
駆けつけた警官にパスケースの許可証を見せる。反応は劇的だった。青ざめた顔で一歩下がり、半分ほどの年齢の小娘に最敬礼で応じた。無表情を装ったまま、大きく目を見開いて下からのぞきこむ。何かを問うそぶりで、わずかに歯の間から舌先を押しだすと、たちまち真っ赤になって顔から汗をふいた。その狼狽ぶりを忘れない。
立ち去る背中へ、血のように粘る好奇と欲情が向けられるのがわかった。後悔と、そしてたぶん悲しみを、すぐに軽蔑で塗りつぶす。
あの瞬間にこそ、私は誕生したのだ。喜びと祝福に満ちた、しかし望まない生の瞬間のようではなく、確かにこの意志を介在させた、人間世界と人間存在にとってのある災厄として。
大気に満ちた霧雨が十字架をけぶらせ、遠近感をなくしていた。
教会の入り口で傘をたたむと、コートの表面は水滴をふきつけたように濡れている。重い扉を引いて一歩ふみいれた途端、オルガンの音が足元からせりあがるような質感を伴って鼓膜を揺らし、平衡感覚にゆらぎを生じさせた。
館内は完全な祝祭の空間を形成している。内なる高貴な精神性にだけ信仰を捧げるこの身でさえ、眼前の明白な秩序をあえて乱そうとは思わぬ。
祭壇へと続く通路が、整然とならぶ木製のベンチをふたつに割っており、そこに少女殺人者への断罪の光景が広がっていた。黒いワンピースを身にまとった喪主は、蝟集する親族たちから隔てられて、ひとり座っている。
可視化された正常と異常の狭間を進み、コートを脱ぎながら喪主の隣へ、人ふたり分を空けて腰かける。性質の良くない興味と侮蔑のいりまじった意識が、物好きな、あるいは邪な下心をもった若い後見人へと注がれるのがわかる。古くから慣れ親しんだその感覚に、もはや何の痛痒も感じない。喪主へと向けられる悪意を少しでも軽減できるのならと、意識して胸をそらした。
うつむいて膝の両手へと視線を落とす横顔は、漆の光沢を持つ黒髪で御簾のようにさえぎられ、表情をうかがえない。いつのまにかオルガンの演奏は止み、神父か牧師か、初老の男性が聖書を朗読する声が響いている。耶蘇の宗派はさっぱりわからぬ。しかし、喪主にとって唯一だった神を葬送するのに、これ以上ふさわしい儀式はないだろう。
――なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
自我が永遠に存続することを寿ぐくだりは、いつ聞いても恐怖に身震いがするほどだ。生命の最初期に与えられた望まぬ呪いと、呪いゆえの不完全な意識を清算する術は、あらかじめ奪われている。幾度も幾度も檻の内側へと復活し、世界と己の破滅を等価のごとく秤にかけ続ける永遠。
生々しい幻視に首を振る。教会の内部は、現世的な枠組みを弱める装置として機能するゆえか。だがそれでは、通路の向こうから曖昧な敵意を向ける人々の説明がつかぬ。
説教を終えた初老の男性にうながされ、喪主が献花へと立ち上がる。半歩下がって続く。隣あって並べられた棺からのぞく顔は、穏やかな表情に復元されていた。あの夜の光景が脳裏へフラッシュバックし、ご尊父とご母堂の表情が一瞬、凄惨なものへと変わる。片方だけとなった眼球が恨むようにこちらを見るのも、頭蓋の内側にのみ投射された映像である。
強く閉じた瞼を開けば、やはり横たわるのはふたつの穏やかな顔でしかない。表層と深層の間に横たわる、欺瞞に満ちた隔絶の淵。しかしそれは、多くの精神にとって有効である。死者だけが静かに、現世の喧騒を拒絶している。ようやく訪れたこの至上の安楽を、はたして死者は手放したいと考えるだろうか。死んだ人々のよみがえりを言うことが、誰にとって必要なのだろう。
低く流れる奏楽の下に、小さなさざめきがある。壇上から何度かうながされるが、誰も喪主に続こうとはしない。ある種の憤りにかられ振り返ると、親族たちの座席から小さな男の子が飛び出して、喪主の足元へと駆け寄ってくるのが見えた。母親らしき人物が金切り声をあげて制止するが、彼の瞳には恐れよりも憧憬があふれている。
――おねえちゃん、人を殺したことがあるんだって?
喪主はとまどったように両手を胸元へと引き寄せた。わずかに視線をさまよわせた後、まっすぐと見つめ返す。
――ええ。
――何人くらい殺したの?
少年はあくまで無邪気だ。記憶をさぐるように、喪主はかるく目をつむった。
――二十八人よ。
――へえ、ぼくのクラスより多いんだ。すごいや。
――でも、もう数えないわ。
――どうして?
屈託のない問いかけに、全身から汗がふく。無意識のうちに、両手を背中に回す。
――数えられないの。
――ぼく、百まで数えられるよ!
喪主の口元へ、かすかに微笑が浮かぶ。棺に納められた百合のように静かなやり取りの裏で、母親の懇願はもはや悲鳴と化した。
両手を頭のうしろへ組むと、何度も喪主をふりかえりながら席へと戻る。とたん、母親が音を立てて平手を打つ。黒を基調とした少女の美に心を残していた男の子は、たまらずバランスを崩してしまう。椅子の背もたれに強くこめかみをぶつけ、ずるずると床へくずれおちる。失神したのだろう。ぐったりとした身体を抱きあげて、母親が泣きだす。取り巻く周囲の人々は今度こそあからさまに、喪主へと敵意のこもった視線を向ける。
感情に翻弄され、自ら作り出した劇場で演じる人々こそが、よみがえりである。神になりかわり、祝福を与えよう。お前たちは、永遠を生き続けるがいい。
立ちつくす喪主の細い肩へ軽く手をのせると、わずかに身を震わせるのがわかった。一瞬の間をおいてこちらを見上げた両目には完全な抑制があり、感じたと思った悲しみの波動はすでに消えていた。いや、悲しみは残っていた。いつのまにか胸の深奥へ伝播した悲しみは、いまや痛みで喉元をしめつけている。この関係をこそ、望んだはずではなかったのか。
喪主とともに死と不死の境界をたどって、元のように腰をおろす。親族たちはようやくのろのろと立ち上がり、少女殺人者とその後見人とを大きく迂回して棺へ向かう。それはまるで、障害物に最短距離をさまたげられた蟻の行軍を俯瞰するような滑稽さだった。もちろん、笑いはしない。この偏狭な世界観が誰かにとっての蟻の行軍でないと、断言はできないからだ。見上げると、ステンドグラスを透過する輝きが、雨天にも関わらず目を細めなくてはならないほどまぶしい。光には人の感覚を麻痺させる何かの力があるようだ――
握りしめる柔らかな手のひらから、ぬくもりが失われていくのがわかる。ひとつの公立病院とひとつのクリニックが受け入れを拒絶した。少女殺人者であることが理由だったのかどうかは、わからない。すでにいくつかの影が、予と予の少女を遠巻きに観察している。反撃の恐れが完全にないことを、この上ない慎重さで確認しようとしているのだ。上位ランカー相手の警戒は、臆病のそしりを受けるものではない。だから、次に訪れた私立病院が治療を提供してくれていなかったら予の戸籍は消滅し、予の少女の氏名はランキング上で暗転していたに違いない。
先の医療機関に比して、驚くような慇懃さと厚遇で迎え入れられ、匿名の入院に個室まで供与される。予はただちに解決すべき重要な案件を抱えていたが、予の少女を預けたままの外出さえ心安らかに行うことができた。しかし、好意が過大である場合の含意は、やはり過大な見返りであることを処世術として予期せねばならない。
強引に設定した整形外科医との面談で、予の少女の玉肌に傷を残さぬよう予が所持する高解像度写真を例示しながら復帰すべき現状を申し述べているところ、今後の治療計画について院長が相談を求めている旨を、背後から近寄ってきた看護師にそっと耳元へ告げられる。渡りに舟とは、まさにこのことである。眼前の不快な表情をした医師の態度が激変する未来を予言視した予は、知性の程度が互いに遠い場合は特に非生産的な対話をたちまち打ち切った。そうして予から知性の離れた者へもっとも有効に機能する鼻薬を手に入れるべく、揚々と院長室へと向かったのである。
丁寧な口調で予の味わった艱難をねぎらいながら時代がかった人払いを命じると、院長はごく自然な動作で扉に鍵をかける。予の洞察力はこれから訪れるだろう政治的なかけひきへの即応性を予の内側へ構築した。まずは先制点を獲得したことで、予は意気を強める。それにしても、相当な老齢である。垂れ下がった顔の皺が柔和な微笑みのような印象を作り出しており、声の調子は対する者の警戒を解かせるのに充分なほど穏やかで確信に満ちている。ブラインドが調節され、床が陽に満ちる。予に対面の椅子をすすめながら、院長は窓を背に座った。反射する陽光に目を細めねばならず、その表情は陰となって判別しにくい。いま思えば、意図された舞台装置であったのかも知れぬ。
――お連れの方は順調に回復しておられます。あと一週間もすれば寛解するでしょう。医は仁術と申します。しかし退院なさる前に、治療のお代について話を通しておく必要があると考えまして。現世のよしなしごとが心わずらわせるのは、好む好まざるへ関わらず避けられぬものです。
穏やかに言葉がつむがれると、黒い空洞が見え隠れする。歯茎にのぞく白いものはまばらで、粘膜の色合いは灰色に近い。相手というよりは陽光に幻惑されたせいだろう、治療費に足るだけの持ち合わせのない旨を傲然と告げる予の声はくぐもった。
――然り然り。医は仁術と申します。少女殺人者とその随伴へ求める対価は心得ておるつもりです。血刀に刃物傷のお二人が当院をくぐられるのを見ましたとき、野戦病院の昔を思い出して久しぶりに心おどったことは確かですからな!
院長が両手を広げると、ブラインドから差し込む光線が弦のようにはじかれ、予の視界を明滅させる。黒い穴からは擦れた音が断続的に漏れている。笑っているのやもしれぬ。
――医は仁術と申します。しかし、ある戦争状態に対して「世界は平和であるべきだ」と批評を行うことに、はたして意味がありましょうか。当事者だけが述べることを許される言葉は多いはずですが、誰もが等価に世界の不幸へ関与できるとお考えの向きも、最近ではかなりおられるようで。心の闇だとか組織の闇だとかそういった名づけは、第三者にとって見えないゆえに暗いというだけのことでしょう。物体の表面へそそぐ光線の有無が、物体そのものの性質を変えることがありましょうや。当院は宿坊や家庭ではございません。まして我々が保護者の代理であろうはずはない。いらだたしいのですよ。
周縁から円心へ回転するような物言いに相手の意図をはかりかね、生来の剛毅が生む率直さから予は真意をただす。院長のたるんだ目蓋が持ち上がると、両目は老木のうろを思わせる虚無を湛えていた。
――院内で、一件の少女殺人が発生することを望んでおります。
予の心へ空白が生まれる。この申し出は、何ら意想外ではないことに気づいたからだ。青少年育成特区というシステムの中で唯一の不確定は、少女の心である。遠隔的にであれ、それを操作できる目算を持てるならば、すべての殺人は合法となるだろう。だが、病院側が手に入れる利益が事の後に訪れる現世的な大騒ぎを差し引いて、なお正であるとは考えにくい。
――確かに、治療費だけでは充分な対価とは申せませんな。ただ生を長らえるだけで、現世のしがらみは身体の奥底へ澱のように沈んで参ります。その身動きのとれなさはわずらわしいものですが、ときに大きな助けともなりえます。いずれの公的機関にせよ、私の一筆や口ぞえは、あなたが少女殺人者の傍らで拒絶し続ける社会的な価値を多く含んでいると言えましょうな。
返ってきた答えは予の問いかけを正しく理解した内容ではなかったが、院長自身が差し引きを正ととらえていることだけは了解できた。渇いた口腔を唾で湿してから、予は勘違いを指摘する。黒い穴から間歇的に擦過音が漏れる。
――さきほど申し上げたではありませんか、野戦病院を思い出して興奮したと! 殺したことのない者は信用できませんからな! 命を奪う者と奪われる者、この当事者の感覚だけが命の真実です。こういう話をできる友人も、年々少なくなりまして。孫などを抱くともういけませんな。あの切り立った崖、世界の最突端から落下の恐れがない場所まで転進してしまうのです。あなたが磐石の何かとして想定し対抗するこの社会は、傷の上に形成された瘡蓋のような、ほんの一時的なものにすぎません。私はあなたのお立場に同情し、共感をさえ覚えているのですよ。私はわずかだけ瘡蓋の端を引き剥がして、予期される出血から傷が癒えていないことを確認したいだけなのです。医は仁術と申します。しかし、少なくとも私の心が痛まぬ命が存在し、この個人的な妄執を満たすのに心が痛まぬほうの命を供物として、かつ当院の実利にも貢献できるというのなら、どこに与えられた好機を看過する選択がありましょうや!
光が下からやってくるこの空間は、惑星の表皮に進化を続けた結果の現実認識を不安定にさせ、揺さぶる効果があるようだ。平衡感覚はゆらぎ、数日前に行われた予の少女の後見人をめぐるやり取りが脳裏にリフレインする。
――親族の方々は、軒並み拒否の姿勢ですね。あのモンスターは、もう二十七人も殺していますから、無理もありませんわ。お話をうかがいましたが、未成年被後見人が貴方を選んだという点が極めて疑わしいですな。最近では“少女殺人者の人権を守る会”なんていうネット発の、本末転倒な団体もありまして。事件が起こるとすぐに、いくつか連絡が来るんですわ。つまり、推薦名簿に候補者はあふれておりまして、両親の遺書もなく、被後見人からの請求も証明できない以上、家裁があなたを優先的に選任する理由はどこにもない。妙な下心を持った連中も多いんでしょうが、少なくとも社会的立場はしっかりしていますしね。まあ、逆に不利なぐらいですよ、あなたは……
枕を腰に当てて、霧のような雨にけぶる窓の外を見ている。気づいているはずだが、ふりむこうとはしない。長い髪の流れる小さな背中へ、医師とのやりとりや、今日あったことや、とりとめのない日常の気づきを報告する。返事はないが、確かに話を聞いている気配はあった。治療代の話はできなかった。沈黙がおり、それが充分に長くなると退室の合図だ。去り際に、未成年後見人の話をする。受け入れる気がないならこの場で断ってほしいと伝える。黒髪がわずかにゆれたようにみえたが、沈黙がやぶられることはなかった。扉を閉める最後の瞬間まで、隙間からのぞく後ろ姿は窓の外を見ていた。
廊下で何人かの患者たちとすれちがう。いったんは拒絶したはずのものたちが、再び周囲をとりまき、その包囲を縮めていくのがわかる。山に老婆を遺棄して帰宅すると老婆が笑って出迎えてくれるような、循環する恐怖。階段を下りると、待合いは人でごったがえしていた。なんとなく出かける気をなくして、空いている長椅子へ腰かける。左には赤ん坊の背中をさする母親がおり、右には杖に額を乗せて荒い息の下で祈るような格好の老人がいる。真ん中にいるのは、いったい誰なのだろう。山頂のほこらに老婆をおさめて扉を閉めたときの気持ちを思い出す。重荷がなくなったことが足取りを軽くした帰りの山道での気持ちを思い出す。だが、帰宅して土間から仏壇の老婆を見たときの気持ちは、はたして恐怖だったか。人間世界で最も古い職業は娼婦である。ならば、最も古い虚構は、死者のよみがえりではないのか。
相部屋のベッドから、天井を見上げる。腸炎で絶食中とのふれこみで、治療を終えるまで間借りできることになっている。カーテンの向こうに人の気配がし、車輪のきしる音は部屋の外へと移動する。足元の非常灯だけが照らす廊下で、点滴を引きながら人影はトイレへと消えた。まちがいない。足早に追いかける。個室へ入ろうとするところを後ろから回した左腕で顎ごと便器へ押さえつけ、喉元にあてた刃物を一気に引く。背後の扉を片足で押さえながら、大便用の水流で物音を消す。持ち上げた片手を便座にかけたのが、示された唯一の抵抗だった。内側からの施錠を確認し、目に見える血をぬぐったトイレットペーパーを流すと、懸垂の要領で個室の外へと出る。洗面台で両手と刃物をすすいで顔を上げると、鏡の人物には血の飛沫がそばかすのように散っている。乱暴に顔を洗う。トイレを出た両足は自然、個室へと向かっていた。細心の注意を払ってわずかに隙間を開くと、身体をすべりこませる。ベッドのふくらみは規則正しく上下しており、それを眺めるうちに両足が震えはじめて、そのまま床へ座り込む。両膝を引き寄せると顔を埋める。小学生のとき以来だった。
あまりにもあっけない。あまりの脆弱さが、もはやせんのない疑念を生む。いったい、これに値するような罪だったのか。得体の知れない人影が乱舞する。その顔はこれまでに出会った誰のようでもある。全身を伝う汗に目を覚ますと、窓の外は明るくなりはじめている。院内はまだ静寂を保っているようだった。いぶかるのをうながして荷物をまとめ、時間外受付で退院の手続きを済ませると、面会者出入口へと向かう。驚いたことにすでにタクシーが停車しており、院長室へと招きいれた看護師がその脇に控えていた。
――これを渡せとおおせつかっております。
差し出された封筒には、カードと便箋が二枚入っている。金釘文字で、こう書いてあった。
「おふたりが出立した後に、報道各社へ連絡を行うよう申し伝えてあります。私の感謝を伝えるためにハイヤーをとも考えましたが、素性を思えばやはり目立つやり方を避けるのが賢明でしょう。
ご首尾、お見事でした。命を奪う者と奪われる者、この当事者の感覚だけが命の真実です。瘡蓋の端が持ち上がるのは、見えましたでしょうか。
どうぞ良い旅を、ご同類!」
二度ばかり目を通すと、看護師に便箋を返す。提示された正体の知れない感情を咀嚼できず、受け取るという形を作ることに抵抗があったからだ。少なくとも午後になっての報道を確認するまでは、その真意をはかりかねた。
――本日未明、市内の私立病院で、病院長が何者かに喉を切られて死亡しているのが発見されました。入院者リストに少女殺人者の名前があり、警察は関連を調べています。
斎場で、聖別された水が棺にふりかけられるのを見る。奇妙な眺めだ。耶蘇教の埋葬は、すべて土葬なのだと思っていた。地中に収められる棺に遺族が一握りずつ土をかける場面を思い出したからだが、それらはすべて映画の中の光景ばかりだったと気づく。
火葬の完了を待つ間、親族のつどう控え室に喪主と後見人の居場所はない。施設の周囲をぐるり歩いても、時間は停止したように動かない。互いに語ることをなくしたふたりが、どちらからともなく見上げる煙突に黒煙はのぼらない。いまや、飾りなのだそうだ。
炎は制御の下に無煙化され、肉を焼く臭気は周到に除去される。飛散しない自意識、管理された死。聖書の一節が思い浮かぶ。はたしてこれは、それと同じものだろうか。
――我はよみがえりなり、命なり。我を信ずる者は死すとも生きん。また、生きて我を信ずる者はとこしえに死なざるべし。
左手に日本刀をさげ、黒いワンピースに身をつつんだ細い姿態。その表情に差す翳りは超越者の憂悶であったことが、いまならばわかる。
確かに、二十八人と言った。この少女殺人者は、誰も寄せつけぬほど強くなるだろう。
枯痔馬酷男(2)
「(蹴りあけられた扉が蝶番ごと吹き飛ぶ)広報部は何やってやがんだァ! (手にした雑誌を床に叩きつける)『銃と軍艦+尻と胸の谷間+小児的誇大妄想+三文芝居=MGS(まったりゴックン!銭湯闖入、の略)』だと……こういうのを事前に検閲するために開発費を削って大枚はたいてんだろが! このレビュアーの代わりに生まれてきたことを後悔させてやるぜ! 担当者ァ、一歩前に出ろ!」
「(整然と並んだモニターの前で脅えきったスタッフの中から、ベースボールキャップのせむし男が足を引き引き前へ出る)へへ、ゲームの外でも軍隊式ですかい。枯痔馬監督のご威光に照らされちゃ、誰も逆らえやしませんや。ここはひとつ、監督の(強調して)男らしい度量と器の大きさを、スタッフたちに見せてやっちゃあくれませんか」
「(厳しい表情が小鼻の膨らみからわずかに崩れる)おお、周陽! わが友、わが理解者、そして枯痔馬を継ぐ者! 聞かせてくれ、音曲にも似たおまえのシナリオを! おまえに比べればこの世の言葉はすべてささくれだち、ボクの繊細な心にはあまりにつらすぎる……(しなを作りながら両手で自身を抱きしめる)」
「(右半分と左半分で奇妙に印象の違う顔の造作を歪めて)監督に乞われて断れる人間は、ここには一人もおりませんや」
「(哀願の表情で)おお、言わないでくれ! 才能という名前の地獄が形成する王者の孤独を何よりも理解するおまえだというのに、そんな皮肉を言わないでくれ! 周陽、ボクは友としておまえと話をしているのだよ」
「(曲がった口元が痙攣する)ならば、お聞かせしやしょう! スネエクが彼の運営する銭湯掲示板を十年来荒らし続けたその仇敵と現実に遭遇する場面でございやす」
「(目を潤ませて)近所の銭湯で会釈だけを交わす常連が、愛好家としての心のつながりを信じていた相手が荒らし本人だったという、あの名場面のことだね」
「そう、こんな切ねえ場面を仮構できる監督の才気に、拙が打たれたあの場面でごぜえやす」
「同時に、おまえが文章による虚構力をまざまざとボクに見せつけ、枯痔馬の名を受け継ぐにふさわしいことを証明したあの場面だよ」
「(ベースボールキャップのつばに手をかける)まったく恐れおおいことでして」
「(フリルのついた両袖を広げて)周陽、おまえが恐れる必要があるのは、おまえを破滅させるかもしれないその才能だけだよ! さあ、聞かせてくれ。砂漠で水に飢えた人間のように、ボクはおまえのシナリオに飢えているのだから!」
「では……(咳払いとともにロンパリとなる黒目)“スネエクの眼球には浴槽の外(アウトサイド、のルビ)で腰掛ける中年男が写された。スネエクの内(インサイド、のルビ)では、光と陰で構成された中年男の倒立像が網膜の光受容体を刺激・活性化し、視神経という名付けの電脳回路を通過する。その過程で分解された画素(ピクセル、のルビ)は外側膝状体(ニューロン集団、のルビ)を経由して、脳の後方に位置する一次視覚皮質に転送された。同時に、同じ情報が脳幹の上丘を経由して頭頂葉を中心とする皮質野にも転送されている。一次視覚皮質には網膜の感覚(SENSE、のルビ)と点対応を成す視覚地図が広がっていた。右眼球から転送された画素は左側視覚皮質に、左眼球から転送された画素は右側視覚皮質に紐付けられ、ナノ秒をさらに分解する単位でマッピングされてゆく。その情報は分類の後に編集され、中年男の輪郭という視像を明確に捉えるための縁(エッジ、のルビ)が強調される一方で、背景に広がるペンキ絵や番頭が腰紐に挟んだ扇子(SENSE、のルビ)については曖昧化が行われた。編集を終えた情報は劣化せずに、色彩や奥行きなど視覚風景のさまざまな属性に特化した三十ほどの視覚野へと中継される。眼前の中年男が持つ語義的な属性と情動的な属性の検索(サーチ、のルビ)作業と同じくして、側頭葉の高次領域は対象への意味論を展開する。活性化した視覚野たちはやがて不可解のデカルト的統合を果たし、現実空間の中にひとつの像(ヴィジョン、のルビ)を形成した。スネエクに呪詛の言葉を迸らせたのは、その認識だった。『わあ、あなたがあらしだったなんて、すごいびっくりした。もう、おどかさないでよ』”……(黒目の位置が元に戻る)以上でごぜえやす」
「(レースのハンカチに顔を埋めて)この現実の手触り感ったら……リアルだよ、たまらなくリアルだ」
「(ベースボールキャップのつばに手をかける)監督は光で、拙は陰でございやす。光が強ければ強いほど、その陰は濃くなるって寸法で」
「(小鼻を膨らませて)ふふふ、陰影があるからこそ事象は立体的な奥行きを得るのさ。おまえを得た今、MGS新作の成功は約束されたようなもの。宿敵・ホーリー遊児も何を血迷ったのかG.W(ゲームウォッチの略)の世界へ後退し、もはや物の数ではない。しかし、ひとつだけ大きな不安材料が残されている」
「枯痔馬監督の有する巨大な才能に不安を抱かせるとは……それはいったい、なんでございやす?」
「(弱々しい微笑を浮かべて)トリプルミリオンを意識するときに避けて通れない一般大衆の愚劣さが好むもの――つまり恋愛感情だよ。しかも、三次元の女性との色恋沙汰だ。おおッ(しなを作りながら両手で自身を抱きしめる)、なんとおぞましい……!!!」
「(唇の端を歪める)心配いりやせん。その案件についてはすでにシナリオへ織り込み済み、解決済みでさ」
「(目を潤ませて)周陽、おまえはなんて頼りになるんだろう! これでボクは銃火器と軍艦の描写にだけ専念できるというもの……ただ、ボクの芸術作品に現実の女の臭いがするというのは耐え難いことだ。おまえを疑うわけじゃないが、その点はちゃんとクリアできているんだろうな」
「キキキ、ぬかりはございやせん。主人公と恋人は遠距離恋愛中という設定でございやす。パソコンとインターネットを使って愛をはぐくんでおりやす」
「(目を細めて)ほう、膣が陰茎から遠いというだけですでに好ましいな」
「互いを隔てるのは距離だけではございやせん。東京とサンパウロ、長大な時差がございやす。朝の出勤前に互いのビデオメールを確認しあうという間柄でして」
「女に貴重な趣味の時間を占有されないというわけか! ますますいいじゃないか! しかし、同じ地球上にいるには違いない。黄砂よろしく、大気を伝って女の臭気や分子がボクのところへやってくるんじゃないのか。アニメ風情とは格が違うんだ。発売日も迫ってきている。女を宇宙に打ち上げるロケハンを行うほどの予算は残っていないぞ」
「キキキ、仕上げをごろうじろ。ある日、女は出勤途中に橋の欄干から足をすべらせて死にやす。彼女の両親から受けた知らせに呆然となる主人公は、自室のパソコンにビデオメールが届いているのを確認するのでごぜえやす。震える手でマウスをクリックし、そして泣きやす。すでにこの世にはいない女が二次元で優しく微笑むのを見て、モニターを抱き抱えてオイオイ泣くのでごぜえやす」
「(うっとりとした表情で)完璧だ……三次元の女へ愛情を向けるのにこれ以上の譲歩は考えられないくらい、完璧な譲歩だ。おまえは本当に揺れる男心の機微をわかっているな。“死んだ処女だけが美しい女”とはよく言ったものだ」
「含蓄の深い言葉でごぜえやす。いったい、どこの国の大文豪から引用なさったんで」
「(親指で自身を指しながら、マッチョな表情で)このボクからさ!」
「道理で。(ベースボールキャップのつばに手をかける)大文豪というくだりだけは、間違っちゃおりませんでしたか」
「(破裂せんばかりに小鼻を膨らませて)なんて機知に富んだ男だ! おまえの応答には退屈させられるということがない。それに引きかえ……」
「(大声で叫びながら部屋に駆け込んでくる)てえへんだ、てえへんだ!」
「(不快げに眉をひそめて)何事だ、賢和。この世界の枯痔馬のセクシータイムを直接わずらわせなければならないほどの重大事だというんだろうな」
「(両腕を不規則にばたばたと動かしながら)バグでヤンス! ゲームの進行に深刻な影響を及ぼす規模のバグが、同時に三つも出たんでヤンスよ!」
「(手のひらに拳を打ちつける)クソッ、この時期にか! プログラム陣は全員、生まれてきたことを後悔させてやる! 詳細を報告しろ!」
「BB(主人公の無賃入浴を阻止するために雇われた四姉妹、ボイン番頭の略。度重なる無賃入浴は、やがて町の銭湯の廃業へとつながってゆく)たちのリーダー、鎌田キリ子の乳揺れが異様でヤンス! まるで重力を無視して、上下左右に揺れまくるでヤンスよ!」
「(賢和の頬に拳をめりこませる)ボクは断じてインポテンツじゃないッ!」
「(両手足を大の字に広げて壁に叩きつけられる)ぐはぁッ!」
「騎乗位の視点から眺めた乳の動きを並列化したコアの演算機能で数値解析し、三次元的にシミュレーションを行ったんだよ! 乳首にモーションキャプチャーのマーカーを貼り付けるなんておぞましいことをボクにさせる気なの! 本物が見たいならソープに行けよ! ボクはボクの頭にある美しい光景だけが見たいんだよ! 汚い現実は見たくないんだよ!」
「(口の端から血をぬぐいながら)は、早とちりでヤンした。でも、次のは間違いないでヤンス」
「(ウェットティッシュで執拗に拳をぬぐいながら)言ってみろ」
「(満面の笑みで)もう死ぬと言って倒れた登場人物が40分以上しゃべり続けていて、一向に死ぬ気配がないでヤンス! しかも似たような話と台詞を繰り返すばかりで、これはプログラムが無限ループに陥ってるに違いないでヤンスよ!」
「(賢和の頬に肘鉄をめりこませる)この毛唐の手先めがッ!」
「(両手足を卍状に広げて壁に叩きつけられる)ぐはぁッ!」
「(繰り出した肘の先端を震わせて)同一モチーフの再登場はテーマを強調するための常套だろうが! そして繰り返しはプレイヤーどもの知性への疑義の提示と同義で、一方的な奴らからの批判に対抗する意図があるんだよ! 何より死の間際の長広舌は日本芸能のおハコだろうが! 欧米に侵された感性でボクのシャシンを判断するんじゃないよ!」
「(普段は動かない方向に曲がった関節を元へ戻しながら)は、早とちりでヤンした。でも、次のは間違いないでヤンス」
「(ウェットティッシュで執拗に肘をぬぐいながら)言ってみろ」
「(得意げに)異様に演技の下手な声優がひとり混じっているのを見つけたでヤンスよ! その拙さに思わずコントローラーから手を離して耳をふさいじまうので、ゲームの進行が不可能でヤンス!」
「(賢和の頬にハイキックをめりこませる)そりゃ、ボクのことだ!」
「(両手足をカギ十字状に広げて壁に叩きつけられる)ぐはぁッ!」
「大好きな輪島崩子(わじまぽんこ)ちゃんが、ボクの童貞告白に『私もはじめてなの』と処女膜の健在を宣言する! そのやりとりを私的利用のためサラウンド録音するという、物語の内的必然性を体現した極めて重要な場面じゃないか!」
「(通常稼動する範囲を越えて回転した頚椎を元へ戻しながら)これまた監督の深遠すぎる意図を汲みそこねた早とちりというわけでヤンス」
「(ウェットティッシュで足の甲を執拗にぬぐいながら)おい、賢和。ボクとポン子ちゃんの苗字を声に出して読んでみろ」
「(脅えた表情で)こ、枯痔馬。わ、輪島。これでいいでヤンスか」
「(うっとりとした表情で)コジマにワジマ……2文字もいっしょじゃないか。ボクはここに宇宙的な運命を感じるよ。ああ、かわいそうなポン子ちゃん! 神の悪戯がこれほど引かれあうボクとポン子ちゃんの精神的な結合を許さない……あの愛らしい声がこともあろうに女の肉で包まれているなんて、こんな悲劇ってあるものか! だからボクはポン子ちゃんに正しい容れ物を用意してあげるんだ。最新の映像技術を使ってね(手のひらを組み合わせて遠い目をする。が、途端に険しい顔となる)……いつまで見てやがんだ! さっさとデバッグ作業に戻りやがれ!(賢和の尻を蹴りあげる)」
「(両手の肘から先を力なくぶらつかせながら)し、失礼いたしましたァ!」
「(遠ざかる茶色に染まった尻を見ながら)周陽、おまえはボクを裏切るなよ」
「(ベースボールキャップのつばに手をかける)へへ、それは監督の胸先三寸次第で」
「(唇を噛みながら宙空をにらみつけて)ホーリー遊児め、なぜ今更G.Wなんだ。わざわざボクにハンデをつけようっていうのか。G.Wでこの表現力に適うと、本気で考えているのか」
枯痔馬酷男(3)
静まり返った深夜の雑居ビルに一室だけ点る灯り。文字の本来が持つ伝達という意図を無視した乱雑さで“シナリオ会議”と極太マッキーで書かれた紙片の掲示される扉の向こうには、複数の男たちが額を寄せ合ってうめいている。上座に位置する男、露出した頭皮へわずかばかり残った下生えを凄まじい勢いでかき回している。
「(血走った目で)矛盾はねえか、矛盾はねえかァ! MGSの完結編となるこの作品、わずかばかりの不整合や語り残しさえ、二度と語りなおせないという意味で致命的な瑕疵となりうる。広げた風呂敷の裏で実は何も考えていなかったと、(実際にそうすれば見えるかのように宙空をにらんで)奴らに格好の批判の口実を与えるなど、断じてあってはならないのだ。(積まれた原稿用紙へ十センチまで視線を近づけて)矛盾はねえか、矛盾はねえかァ!」
「(関節を感じさせない動きで両肘から先をぶらぶらさせながら)見つけたでヤンスよ! 廃業した銭湯の湯船で殺されていた豚醜女(ぴっぐ・ぶす、と読む)の死因でヤンス! 入り口にはインサイドとアウトサイドから板が打ちつけられ、あらゆる侵入経路は完全に封鎖されていたにも関わらず、日本刀は被害者の手が届かない背中から胸部へ突き抜けているでヤンス!」
「(額に浮かんだ無数の血管に両手の爪を突きたてて)ぐぬぅ、ぐぬぬぅ! (突如椅子を蹴たてて立ち上り、両手を前傾姿勢から後ろ向きに伸ばすと、異様な熱をはらんだ目で宙空を凝視する)」
「で、出た、酔狂のポーズでヤンス! 周陽、よく見ておくでヤンス! あのポーズが出たとき、枯痔馬監督に解決できないシナリオ上の問題点は無くなるんでヤンス!」
「(額に一滴、汗のしずくが流れ落ちる)噂には聞いていやした……まさか、この目で拝見できるとは……」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 豚醜女を殺害した犯人は入り口をアウトサイドから閉鎖した後、大気散布型のナノマシンを使って死体を遠隔操作し、被害者自身にインサイドから木材を打ちつけさせたのだ!」
「(スーパーのチラシの裏を見ながら)MGSの年表を眺めていたのでごぜえやすが、THE・醜女(ざ・ぶす、と読む)の懐妊時期とスネエクのED(勃起不全、のルビ)が始まった時期が整合しやせん」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 体内循環型のナノマシンがスネエクの海綿を充填し、一時的にEDの回復を見たのだ!」
「(両肘から先をぶらぶらさせながら)見つけたでヤンスよ! このムービーで鎌田キリ子の膣口が重力方向ではなく水平方向に開いているでヤンスよ!」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 生体置換型のナノマシンが、鎌田キリ子の遺伝情報を根本から書き換えたのだ!」
「(両肘から先をぶらぶらさせながら)アッ! この場面、太陽が西から昇っているように見えるでヤンス!」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 大気散布型と生体置換型の混合タイプのナノマシンが、スネエクの大脳辺縁系を侵し、主観カメラに影響を与えたのだ!」
「(スーパーのチラシの裏を見ながら)MGS年表を眺めていたのでごぜえやすが、二人ばかり年齢が二百歳を越えておりやす」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
「(両肘から先をぶらぶらさせながら)じゃあ、お湯の上を走っても沈まない妊婦の挿話は」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
「(スタッフらしい男が入室しながら)すいません、昨晩から腹を下してて、どうも便が水っぽくて」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
「(スタッフらしい男が退室しながら)監督、レンタルビデオの延滞料とられそうなんで、申し訳ないですが今日はこれで失礼します」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
「(額に流れる汗のしずくをぬぐいながら)恐ろしいばかりの才気、そしてそれを上回る執念……拙が唯一持ち得ないものは、自分以外の一切を度外視したこの妥協の無さ……」
「(空々しい拍手とともに)みなさん、夜遅くまでお勤めご苦労様です」
「(全員が一斉に戸口を見る)誰だッ!」
「(登頂を経由して大雪山の角度になでつけられた頭髪の隙間から、雪の反射光を思わせる不可思議の輝きを発しながら)誰だとはお言葉ですな。場末の雑居ビルという哀れな舞台装置とこの大人物とのギャップが、それを言わせたのかもしれませんね(戸口の暗がりから電球の傘の下へ歩み出る)」
「(犬歯を剥き出しにして)ぐぬぅ……ホーリー遊児……ッ! いったい何をしに……!」
「(かきあげすぎないよう細心の注意を払って大雪山に手櫛を入れながら)陣中見舞い、ですよ。同業者としてね。さて、これは非常につまらないものですが(机の上に、提げてきたポリ袋を投げ出す。重く湿った音が響く)」
「(癇の強い叫び声で)賢和ッ!」
「(回転レシーブの要領で顔面から床へ這いつくばり)ハイィッ! 何でございましょうかぁッ!」
「(顎をしゃくって)早速ホーリー先生のご好意をお確かめしろ」
「こういう役目が回ってくるという予感がしていたでヤンス……(足の指を使っておそるおそるポリ袋の口を開く)ヒイイィィッ!(尻餅をつき、失禁する。ポリ袋の中からは、頭蓋を丸く切り取られ、脳味噌を露出した馬の生首が転がり出る)」
「中国では悪い身体の部位を食べることで養生をすると言いますから。(両手を広げて)枯痔馬監督の患部にぴったりの差し入れをと熟考いたした結果でして!」
「(チック症状が見え隠れし始めるも、つとめて慇懃に)シナリオ仕事で原稿用紙に向かうと、どうも(強調して)目が弱ってきていけません。ホーリー先生のご好意だけはありがたく頂戴するとしましょう」
「(青ざめて立ち尽くすスタッフを見回すと、含み笑いを拳で押さえながら)『神は笑うことを恐れる観衆を前に演じる喜劇役者だ』とはよく言ったものですな」
「(ベースボールキャップをとり、胸に当てる)ご高名は拙のような低きにも届いてきておりやす。さすが、ホーリー遊児、含蓄の深え言葉で。いったいどなたからの引用でございやす?」
「(色つき眼鏡のつるに中指を当てて)ヴォルテールですよ。金言集は実に役立ちます。私は作家ではなく、ただのゲーム製作者なのでね」
「(顔面の右半分をチックに侵食されながら)周陽ッ! おまえが敬意を示すべき相手は誰だッ!」
「(悲しそうな顔になり)なんと心の狭い言い様か。だとすれば、枯痔馬酷男が退行してしまったという噂は、やはり本当だったということですか。前回の貴方は、本当にいいところまで来ていたのに! (遠い目をしながら)そう、ブレイクスルーに肉薄さえしていた。(机の上に広げられた原稿用紙やチラシの山を見て)しかし、今の貴方は己の脳髄のみで設定の辻褄を合わせるのに必死だ。熱情と奇跡と世界との融和が奏でる自動律が、作り手の意図を超えたところですべてを整合する」
「(顔面全体のチックに震える声で)賢和、ホーリー先生はひどく酔っておいでのようだから、丁重に外までお送りしろ」
「(聞こえないかのように続ける)制約がゲームを作る。46文字の平仮名と19文字の片仮名が無限の世界を作ったあの日を、私は決して忘れない。それとも、貴方は忘れてしまったのですか? 他のメディアを剽窃するのではなく、与えられた媒体に安住するのではなく、自らの治める王国を自らの手で探し出したいという燃える渇望。その熱気に満ちた初源がゲームという新たな地平を生んだのです。技術の限界を知恵で超越するという、世界と人間とのメタファーにも通ずる苦闘がゲームを鍛えたのです。私たちは私たちだけの王国を築き上げた。次世代の旗手として貴方には王国の城壁を堅持して欲しかったのです。私が今になってG.Wに回帰しようとするのも貴方を最右翼とする――認めましょう――次の人々に、流浪の民の上へ響いたThy Kingdom comeの喜びと祝福を再び思い出させたいからなのです。卑近な制約を知恵で超克する、これが日々の営みの本質です。制約の存在しない場所で自己を解放したところで、どれだけ高く跳躍しても雲に手が届くことは決してないのを知るのと同じ絶望をしか生みません。大容量メディアを前にした貴方は、おそらくその絶望に気がついたはずだ」
「(無言。いつのまにかチックは消えている)」
「(肩をすくめる)話すつもりのなかったことまで話してしまった。それだけ、私は貴方に思い入れがあったということでしょう。しかし、もう貴方に会いたいと思うこともありますまい。何より、トラ喰え最新作の作業にする没頭が貴方を忘れさせるでしょう(踵をかえすと、たちまちに立ち去る)」
「(ホーリーがいなくなり、沈黙が降りる。それを破るように、渇いた笑いが周囲へひびく)は・は・は・は……あっさりと認めやがった……この枯痔馬さまが次世代を担う旗手だと、認めやがった」
「(ベースボールキャップのつばに手をかけて)どうやら、そのようでごぜえやす」
「(ひどく不安そうな口調で)制約だって? ばかばかしい! 俺は今回、BD(ビッグ・ディルドー、の略)の容量をすべて使い切ったんだぞ……この事実こそが、与えられた制約を乗り越えた客観的な証拠じゃないか! 莫大な物量が質に転換する分水嶺を越えて、そうだ、俺は俺だけの新たな王国を築くことに成功したんだ。そうさ……俺はMGSの最新作でゲームを超えたんだ……(消え入りそうな声で)俺は、ホーリー遊児に勝ったのだ……」
「(両肘をだらりと垂れ下げて)周陽、ホーリー遊児と話をすると、枯痔馬監督はいつもおかしくなっちまうでヤンス。前回は事務所を解散すると言い出して……また見捨てられないか不安でヤンス」
「(ベースボールキャップのつばを引いて深くかぶり、独り言のように)ホーリー遊児に敵対し、その存在を頑なに否定しながら、彼の提示した方法論とパラダイムに則って自作を評価している……これは、そろそろ潮時かもしれやせんね」
少女保護特区(8)
これはいつの記憶だろう。
薄闇のむこうに、ロウソクの炎がゆらめいている。両親は誕生日を祝う歌を英語で歌い、兄はおどけて床を転がりまわる。うながされて息を吸いこむが、頬がこわばったようになって、どうにも吹きかけることができない。兄の目が一瞬、真剣なものを宿す。テーブルに身を乗り出すと、唾を飛ばさんばかりの勢いで、兄はケーキのロウソクを吹き消した。母が兄の無作法を叱るうち、父が笑いはじめ、兄は上目づかいに私を見ながら頭をかく。電気が点くと、危うい瞬間はまるで嘘のように消えた。
どうして私の頬はこわばったのだろう。幸福な家族の一場面が、私によって完成されることを拒んだのか。私はいつも外側に立って、幸福の像が小さな球の中で、まるでロウソクの炎のようにゆらめくのを見ていた。
優しい人たちだったと思う。私といっしょに、幸福を手に入れようとしていた。いや、それはあらかじめあったのだ。幸福は所与のもの、不幸だけがこの世に新しい。人にできる努力は、与えられたものを壊さないようにすること。そこに関わる人たちすべての同意を前提としなければ、たちまち崩れてしまうような、もろいもの。いったん失われれば、神の御業を人の身で再生することは不可能なのだ。小さな私はただそれを壊さないように身を固くし、やがて埒外から眺めるようになった。
何が悪かったかといえば、私の中にはあらかじめ与えられた幸福がなかったこと。だからといって、私に権利があったとは思わない。ただお互いを尊重し、別々のように生きることができればと望んでいた。死ぬことは論外だった。異物である私と、あの人たちの幸福は不可分なほど一体化していたから。
私が望んだのは消滅。この世界のすべての記憶から抜け出し、何の痕跡も残さずにいなくなりたい。
許可証の入ったパスケースを食卓に置いたときの気持ちは、おそらく悲しみだった。ただ内気だと信じられていた私のうちあけ話に、集まった人たちは目を輝かせていた。まるで、これまでの長い誤解とすれちがいが、今こそすべて解かれると信じるかのように。私が求めたのは、この小さな球からの離脱。ここにある幸福をそのままに、私だけがいなくなる。だとすれば、期待は正しくむかえられるはずだった。私が求めたのは法外な対価ではなく、ただ埒外にいる権利だけだったのだから。
沈黙が降りる。幼い頃から、私とこの人たちが境界線の上にいるときにいつも響いた、身体になじんだ静寂だ。おどけた兄が軽口を言いながら、許可証に手を伸ばす。兄はほんの少しだけ、両親よりも私に近い場所にいるような気がしていた。決して自分のことを語らず、道化を演じつづけてくれた。ただ、私が遠くへ行かないように。
慣れ親しんだ悲しみは、このとき私を突き抜けて、沸騰した怒りへと転じた。食卓へ、血に濡れた短刀を突き立てる。兄の人差し指がちょうどそこにあった。絶叫が響く。そして、私たち家族の時間は永久に停止した。
絶叫は、今でも頭蓋の中に響き続けている。
主に予の頭蓋の中に響くファンファーレとともに、より強い少女の殺害を企図する列島縦断の旅は幕を開けた。北加伊道では短刀を口に四足で襲いくる少女殺人者のこめかみへすれ違いに抜きつけ斬殺し、青森県ではねぷたを引き裂いて奇襲する少女殺人者をラッセラッセと浴衣姿で斬殺し、岩手県ではワカメに足をとられながらも南部鉄器で防護を固める少女殺人者を初太刀で斬殺し、仙台県では冷凍サンマを高速で射出する少女殺人者のホタテから水月へ切り込み斬殺し、秋田県では人喰いウグイス二羽を使役する刈目衣装の愛らしい少女殺人者の顔面へ柄当てして撲殺し、山形県ではグラスに割り入れた生卵を飲み干した予があべスあべスと坂道を駆け上がり、若松県では合気柔術を駆使する少女殺人者に苦戦するも超々至近距離からの抜刀で斬殺し、茨城県では爆砕した畑の畝からセリとミツバを煙幕に襲い来る老齢の少女殺人者を二人の従者ごと心眼で斬殺し、栃木県では鬼怒川温泉に傷を癒す予の少女へてばたきしてランク上昇を告げにいぐ予のとうみぎがちゃぶれかけ、群馬県ではだるま状少女殺人者の正中線最下部内奥に鎮座した近代こけしへ刀を止められるもそのまま強引に斬殺し、埼玉県では美豆良に埴輪状の胴回りをした登校中の一般学生風少女殺人者三人を三方切りに斬殺し、千葉県では沖のクジラに手を振りながらフード付の灰色ジャージ上下で予が浜辺をランニングし、東京都では電脳街に違和感なく溶けこむも撮影に及ぼうとする濡れ雑巾の臭気放つ小太り青年たちを予が追い払い、神奈川県では白人男性の外見をした少女殺人者を疾走するタクシーの屋根から金網越しに斬殺し、水原県では投擲した複数枚のフリスビーを足場に迫る犬状の耳をした少女殺人者を空中戦の末に斬殺し、相川県では周囲にかがり火を焚いた能舞台で金銀能面の少女殺人者姉妹を演武の如き極遅の面打ちで斬殺し、新川県では早稲の香の中でチンドン屋に扮するきときと少女殺人者の不意打ちを激突の一刀で斬殺し、金沢県では少女殺人者に霞ヶ池へと引きずりこまれるも予が水面へ投じた加賀友禅を足場に斬殺し、足羽県ではハープの音階を物理衝撃波として操る少女殺人者に衣類を裂かれるも予の期待空しく斬殺し、山梨県では青木ヶ原樹海の遊歩道付近で少女殺人者が首を吊って虫の息なのを発見して斬殺し、長野県では体操服にブルマーを着用した少女殺人者がその健康な足技を披露するも高まる世論に降参して斬殺し、岐阜県では赤いマスカレードマスクを装着した少女殺人者が忍者衣装で襲い来るのを檜ごと両断して斬殺し、安倍県では野宿の深更を焼き討ちされるも延焼を防ぐため草木へと繰り出した剣撃が匍匐前進の少女殺人者を偶然に斬殺し、愛知県では少女殺人者から先端に味噌を塗りつけたういろうを頬へ押し付けられ苦戦するも金太・マスカット・ナイフで切り斬殺し、三重県では真珠を射出するガトリング砲を装着したフォーミュラカーに搭乗する少女殺人者のヘルメットを面打ちでラッコ割りに斬殺し、滋賀県では琵琶湖から飛び出した雑食性の少女殺人者を飯の詰まった桶めがけ腹開きに内臓処理しながら斬殺し、京都府では祇園祭宵山巡行の死闘で実に十四基の山鉾を中大破しながらも牛頭全裸の少女殺人者を秘剣・大文字切りで斬殺し、大阪府では電脳街に違和感なく溶けこむも撮影に及ぼうとする濡れ雑巾の臭気放つ小太り青年たちを予が追い払い、兵庫県では白鷺城の天守閣へ追い詰めたスーツ姿の男装麗人少女殺人者が突如歌い出すのを背後から斬殺し、和歌山県では紀州備長炭を頭上に紐でくくりつけた少女殺人者が炊事を開始するところを苦もなく斬殺し、鳥取県ではブロンズの肌理をした百二十人の少女殺人者を一昼夜におよぶ死闘の果てに砂丘の底へと斬殺し、島根県では宍道湖周辺で七人の少女殺人者から奇襲を受け水際へ押し込まれるも相撲の足腰で体を残して七方切りに斬殺し、岡山県ではグラスに割り入れた生卵を飲み干した予が高病原性トリインフルエンザに感染し予の少女から看病を受け、広島県では歯軋りのひどい少女殺人者を平和記念公園でみね打ちしてから水没した鳥居まで電車で移動の後に斬殺し、山口県では宇部市小野地区の茶畑を横目にしながらフード付の灰色ジャージ上下で予がランニングし、名東県では襦袢・裾除け・手甲に網笠の少女殺人者が連から三味線を振りあげるのをヤットサヤットサと斬殺し、香川県では有名チェーン店の従業員少女殺人者に背後からコシの強い麺で喉を締め上げられるも所詮はうどんなので斬殺し、愛媛県ではなもしなもしと迫る着物姿の少女殺人者が二階から飛び降りて腰を抜かしたところを斬殺し、高知県では百キロ級の土佐闘犬にまたがる少女殺人者が興奮した飼い犬に逆襲されて死にかかるのを介錯の形で斬殺し、福岡県では便座より噴射する液体を浴びしとどに濡れるも左斜め後ろより迫る少女殺人者の水月を刺し貫いて斬殺し、佐賀県では玄海原子力発電所の3号機から4号機へ跳びうつる際にプルサーマル少女殺人者がキセノンオーバーライドで出力低下するところを斬殺し、長崎県ではアイパッチの海賊少女殺人者を平和祈念像の前からフロントネックロックで対馬海流上に引きずり出してから斬殺し、熊本県では五人を殺害した少女殺人者を「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」と唱えつつ裏腹に斬殺し、大分県ではひとり山肌に槌を打つ僧衣の少女殺人者のトンネルを背後から掘削しつつ恩讐の彼方に斬殺し、宮崎県では基礎体温による避妊法を連想させる元アイドル似の少女殺人者を人工の波うち寄せる閑散としたドーム内で斬殺し、鹿児島県では言葉だけでは表せない海苔巻きむすびの如き顔面の軍服少女殺人者をごめんなったもんしと斬殺し、沖縄県ではフード付の灰色ジャージ上下の予が子犬を足元にまとわりつかせながら首里城正殿めがけて階段を駆け上り達成の歓喜に諸手を挙げて振り向けば予の少女が繰り出される御殿手をかいくぐりつつ少女殺人者をちょうど斬殺するところだった。
マフラーの下から白い息を長く吐くとわずかに身を沈め、身長の三倍はあろうかという門扉を助走なしで跳び越した。途端、赤いランプが回転し、警報が鳴りひびく。詰め所から警棒を振りかざし襲いくる警備員を瞬く間に大地へ切り伏せると、雨樋を利用した三角跳びで予の少女は三階の窓を蹴破り、施設内へ侵入を果たした。割れた硝子がリノリウムに跳ねる音が止むと、非常灯のみに照らされた廊下には完全な静寂が訪れた。
列島の縦断は、予の少女をロリ板ランキング三位へと浮上させる。しかし、戦いは未だ終わりを見ず、まさに永遠へと続いていくようだった。一人殺しても、その間にまた次の少女が許可証を握っている。それは、たった一人で人類全体を殺害しようという天文学的な試みだったのだ。補給は断たれない。戦いの際に真っ先に叩くべき敵の輜重は無尽蔵のみならず、男を知らぬ少女にすればほとんど不可視でさえあった。だから、予の少女がここへたどりつくのは、もはや時間の問題でしかなかったと言える。幸いにして予は生まれながらにして自身の精神が持つ不可侵の貴族性にどこかで気づいていたし、その事実が単純に生育過程で経なければならない教育機関での時間を難しくしたとは言え、これまでの生涯を――あるいは、己が生きてある力を疑ったことは微塵も無かった。判断の基準は常に精神の内奥へとすえられていたからだ。しかし、例えば幼少期に得た養育者からの虐待が、現在の自分の上に依存とか、自己否定とか、不安感とか、自殺願望などを深刻に残していると悟ったとき、その原因となる人物と対話を試みようとすることは全く意味のない空転だろうか。予の少女の行為を馬鹿げた妄想だとか論理性に欠けるとか、非難の言葉はいくらでもあるに違いない。だが、世に満ちた、生命の与奪を伴わないがゆえに可能な99%の評論を乗り越えるには、1%の情熱あるいは狂気だけが原動力となり得るのである。その前進が新たな地平を押しあげれば常識を拡充した勇気として語られ、失敗すれば世界の埒外でする愚劣な人間の消費、すなわち狂気として地に落とされる。ただどちらも、ひとつの動機より発した結末の側面を違えたものであることは、覚えておかねばならぬ。予の少女にとってはおそらく、得られる結果というよりも対話という行為そのものが必要だったのだ。遺伝という名付けの消極的で薄弱な根拠をしか持てなかった両親はすでに互いの始末をつけ、他界している。予の少女を真にこの世界へ産みだした誰かが、この奈良県立政策科学研究所にいるはずなのだ。
自らの呼吸音に苛立ちながら門扉をよじのぼり階段を駆けあがった予は、予の少女へと合流を果たす。膝に手をかけ肩で息をする予を一瞥し、スカートの埃を軽くはらうと、予の少女はゆっくりと右手を柄にかけた。奥の暗闇に、猛獣よりもなお危険な何かが息を潜めている。予は気配を殺しつつ伝令を発し、予の子飼いに斥候目的の暗視機能を解放させるよう命じる。耳障りなほど大きく響く作動音へ呼応したかのように、消失点の彼方から輝く金属片が床すれすれに飛来し、子飼いを通じた予の視界へ急速に拡大する。たちまち時間の観念が吹き飛び、己の正体を知らぬがゆえに泣き通しだった子ども時代の場面が驚くほどの鮮明さで、整然とした時系列に脳裏へ再生され始めた。もしや、これが走馬灯というものであろうか。中学時代を迎えてから自室のみで繰り返されるようになった現実の光景は、予の内側に展開されていた哲学的スペクタクルを伴わない物理的な事実の羅列だったので、そのあまりの変化の無さに予は思わず早送りボタンを探したりした。
鋭い金属音が、予を走馬灯から現世へと引き戻す。リノリウムの床に突き刺さった短刀が、未だ余勢を残して蠕動している。予の少女の抜刀が、予を殺すはずのそれを鼻先で叩き落したのである。予の子飼いが提供したスロー再生で顛末を確認した予は、文字通り一髪差での攻防に全身の毛が太くなり、太くなった分だけ縮むのを感じた。
――誤算だった。
廊下の暗闇を滲ませるように出現する和装の少女は、怪談の一場面を思わせる眺めである。だが、予に訪れた震えは、むしろ彼我の戦闘力が拮抗している事実に由来するものだった。予の少女は何者も寄せつけぬほどに強くなったはずだ。しかし、眼前の少女――老利政子をはたして殺せるかどうか、予は確信できない。予の少女は恐ろしい早業で抜き身を鞘へと返す。予の迷いを断ち切るかのような鍔鳴りは、澄んだ残響を伴って静寂にしばしの色を与える。
――いや、正確には私の中にあった破滅を求める性向が、あえてこの誤算を看過したと言うべきか。もはや、眼前の少女殺人者が老利政子と同じほど強いことに何の疑いもない。互いの生死が定まるのに刹那も必要あるまい。勝敗のわからぬ戦いを戦うのは、二度目である。自棄に近いこの感情は、実に心地よい。特に、老利政子にとっては。
語られる内容とは裏腹に、老利政子の口調にほとんど抑揚の変化は感じられない。それが、生き人形のような人外の不気味さを醸成していた。
――この奥に、予の保護者と特区法を生んだ頭脳がある。もし私が殺されれば、老利政子はようやく敵に出会い、そして死んだと伝えて欲しい。
己の死さえも陶酔を超越したところで計算に入っている。予の持つ生来の貴族性は、老利政子の示した高い精神性への場違いな共振に揺れた。時の経過と共に積もりゆく生の余剰に価値を見ないがゆえに、いつでもすべてを捨てて死の零地点へと帰ることができる。これが処女性Aランクの所以か。瞬間、ロリ板が奥行きを伴って立体化し、予は屹立する思想の中身にぞっとさせられる。
――もし眼前の少女殺人者が殺されれば、老利政子は誰に何を伝えればよいのか。
予の少女は一瞬だけ予のほうをうかがうと、静かに首を振った。
――そうか、実にうらやましいことだ。
言い終わらぬうち、老利政子は予の少女の前にいた。予の子飼いのスロー再生さえ、コマ送りの残滓をしかとらえぬ。日本刀三尺三寸を封じる九寸五分の間合い。しかし、翻る短刀より先に雁金抜きからの右袈裟が放たれている。若松県での死闘で見せた、超々至近距離からの抜刀である。鎖骨と肋骨を砕かれ、複数の動脈を切断された老利政子は、一瞬にして絶命した。噴出する血液と倒れこむ身体を、予の少女は半身でかわす。濡れたモップを床に叩きつけるような音が響いた。予の心に湧き上がるのは、畏敬である。本来、生命の喪失はひとつの哲学の終焉と同義なのだ。死が弛緩させた筋肉は老利政子の表情から険を奪い、その顔はほとんど笑っているようにさえ見えた。日本刀が音を上げて空を切り、血の飛沫が壁を汚す。続く鍔鳴りは、仏壇の鳴物の如く弔意を示して響いたように思った。
研究所の中枢へ近づくにつれた激しい抵抗を予想していたが、もはや拍子抜けするほどに人の気配はない。もっとも、ランキング二位の老利政子を退けたいま、予の少女を止める手立てが他にあるとは思わない。猫足立ちに先を歩く予の少女がふと立ち止まる。廊下の突き当たり、わずか開いた扉の隙間からかすかな物音が聞こえてくる。予の少女は完全に気配を消して一足に歩み寄ると、回避に充分な距離をもって鋭くドアノブへ柄当てする。扉はしかし、ただ軋みを上げて開くのみであった。
室内の光景は、まず予の内奥にかすかな不快感を生じさせた。続いて、その理由が既視感ゆえであることに気づく。だが、それが病室にも似た部屋の外装へ向けられたものか、片隅のベッドに横たわる老人へ向けられたものかは、判然としなかった。
――君たちがついに、君たちの旅のひとつ目の窮極であるここへ足を踏み入れたということは、あれは死んだのだな。
生きているのが不思議なほど小さく皺がれ、弱々しく震えている。傍らの機械から数本のチューブが伸び、老人をベッドへと拘束していた。
――老利数寄衛門と言う。ずっと会いたいと思っていたが、いまはこれほどにも君たちの顔を見るのがつらい。なぜなら、あれを殺さなければ誰もこの部屋へたどり着けないことを知っているからだ。誰かの死を悼むには、私は年をとりすぎていると思っていた。若い死、老いた死――何より私たちの世代には、生命に意味付けをできないほど、死が多すぎたから。ともあれ、私を始末する前にしばらく時間が欲しい。勝者は敗者からすべてを聞く権利がある。
濁り震える呼吸音に、ほとんどかき消されてしまいそうな弱々しい声だった。しかし、それゆえに呪縛となる。圧倒的に蹂躙できると理解したときに生じる躊躇は、逆説的な人間の証明か。予と予の少女はあらゆる行動が眼前の老人を殺し得るという事実に、完全に制止させられた。
――青少年育成特区は民主政の生んだ鬼子だ。あまりに多くの意思がその成立に寄与したがゆえに、誰も確たる意図を同定できないほどに複雑化し、肥大化してしまった。私が語る内容さえ、青少年育成特区の持つひとつの側面に過ぎない。同じだけ深く関わりながら、私と全く別の見解を持つ者もいるだろう。
言葉を切ると、老人は部屋の奥を見る。視線の先には、どっしりとした両開きの扉があった。どうやら、ここが研究所の最奥ではないようだ。
――老人がする童女への歪んだ情愛が、青少年育成特区を成立させたと揶揄される。醜聞としては、よく出来た部類の報道だ。私があれを愛したのは事実だからな。だが、最初の少女は老利政子ではない。仁科望美だ。
ロリ板のトップに君臨し続ける少女殺人者の名である。それを口にするとき、老人は消え入りそうな声をさらに低めた。だが、充分ではなかったらしい。予と予の少女は何か人外の意識がこの場所をとらえ、まざまざと注視するのを感じた。
――ランキングは官僚的な形式だ。飾りに過ぎない。事実、仁科望美は過去に一度だってその座を明け渡しはしなかったのだから。最初の少女は、特区法成立以前から究極の治外法権として存在し続けてきた。法に縛られぬ埒外の実在を国家が許容することはできない。特区法とそれに付随するシステムは、すべて仁科望美を法の内側へと規定するための方便だ。書面やモニターの上ならば、膨大な文言と無意味な細則の積み重ねで、まるで仁科望美が青少年育成特区の一部であるかのように錯覚することができるだろう。しかし、あの少女だけは別なのだ。破格なのだ。一日数トンの動植物を摂取し、年間で二億トンの二酸化炭素を排出する怪物。集落ごと仁科望美の食餌と化した例さえある。その知能は狡猾極まり、日中は深山へ身を潜め、己を傷つける可能性を持つ大型兵器の前へは決して姿を現さぬ。個人が携行できる規模の銃器では、硬質化した肌をわずかも傷つけられない。極めて単純な物理的能力によって、最初の少女は法を超えている。
予は甲殻類の心を持った少女が、両目を細める様を思い出していた。
――青少年育成特区の終焉を望むならば、仁科望美を殺すがいい。老利政子を殺した君には、権利と可能性がある。もっともそれは、未だ試みられていないという程度の意味合いに過ぎないにせよだ。君を規定しているすべては、仁科望美に付随した人間世界からの余剰だ。もし、目的を完遂することができれば、君は仁科望美に成り代わり、新たな王として君臨するという選択肢もある。もっとも、いずれを選ぶにせよ私には関係のないできごとだがね。
老人は息を吐いた。細く、長く。室内は充分に暖かかったが、なぜかその息は白く見えた。
――いまの私にあるのは、君に対する憎しみだけだ。心の底から君を憎んでいる。血のつながりこそなかったとはいえ、あれはかけがえのない私の娘だったのだからな。できうることならばこの手で君を殺したいという気持ちだけが、最後に残った私の持ち物だ。しかし、少女殺人者を相手に老いさらばえた身体にこの復讐を完遂する力は無い。だが、あれの係累やあれを愛した者たちの誰かがいつかその宿願を果たすかも知れぬ。この希望を抱けば、私は死ぬことができる。覚えておくといい。君が殺してきたすべての少女殺人者の背後には、私がいたのだ。憎悪の種子はかように広く多く蒔かれ、そのどれひとつも萌芽しないなどということはありえぬ。仁科望美と同化する以外の道が、君に残されていることを祈るよ。
注意していなければ見過ごしてしまうほどかすかに、老人は微笑んだ。
――さあ、私を殺し、君たちに残った最大のひとつを消しにゆけ。しかし、そのひとつは人類の憎悪を人類ごと抹消するという、大いなる救済を孕んだひとつであったことを覚えておいてくれ。仁科望美は強大だが、それでもなお人類が殺し得る。あの少女が全世界を殺害できるほど強くなれたならば、歴史の宿痾とも言うべき親から子、子から他者へと連鎖する憎悪の連なりを断ち切り、人類は新たな再生へと進むことができたものを。いや、これは過大な妄想と言うべきか。
語り終えたことを示すように、老人は目をつむる。予の少女はうながされるように、のろのろと柄へ手をかける。だが、そこで動かなくなった。待てど訪れぬ死に、歳月に薄くなった目蓋が再び開かれる。
――この光景を目にするのは幾度目だろう。人の心とは不思議なものだな。多くの同胞たちを呵責なく殺し続けてきた誰かが、ひとつの無力を前に立往生するのだから。
言うなり、老人は機械につながる管をまとめて引き抜いた。赤・黒・黄の体液がチューブを逆流して噴出し、皺がれた身体が痙攣する。
――うむ、快なり。
ほどなく老人の両目は、生命を持つ者が宿す輝きを失った。予の少女の手が、放心したかのように柄から滑り落ちた。これまで殺してきた多くは、予の少女にとって単独の死に過ぎなかった。だが、二つの死が編んだ質感は、思いもかけぬ衝撃を与えたようである。なぐさめに肩を抱こうとする予の指先は、かつての拒絶を思い出し震える。布越しの感触は、その場で斬り捨てられたとて後悔せぬほどの甘美な柔らかさだった。しかし、わずかの抵抗さえ示さず、予の少女は俯いたまま睫毛を震わせるばかりである。はかなげな横顔が訴えるのは、殺戮を続けることへの倦怠か。だが、ここですべてを頓挫させるわけにはゆかぬ。途中で降りるには、意味なく殺しすぎた。予が指先へかすかに力をこめると予の少女は頭を軽く振って、おぼつかぬ足取りで一歩をふみだした。他に進むべき方向はない。引き返す道は、すでに少女たちの遺体で埋まってしまっているのだから。
研究所の最奥へと続く扉は、厳重なセキュリティとは無縁の無防備さで、あっさりと侵入者を受け入れた。薄暗い部屋の中央には、楕円形の会議机が配置してある。異様なのは、すべての席に人形が置かれていることだ。和人形、磁器人形を初めとして、予の卓抜した知識でさえ出自を特定できないほど、多種多様である。それらは一様に眼前のラップトップ式パソコンを注視するようで、画面からの照り返しが与える不気味な陰影は、無機物であるはずのものどもを有機物のように見せていた。
――いいぞ、いいぞ。老利政子はずっと死に体だったからな。流動性が担保されるのは、実に結構なことだ。
こちらに背を向けた白衣の男が、わずかに常軌を逸脱した激しさで頭上に手のひらを打ち鳴らしている。奥の壁面にはモニターがびっしりと並び、和装の少女が斬殺される瞬間が幾度も繰り返し流れていた。予の少女は、その悪趣味に顔をそむける。白衣の男は椅子ごと振り返ると、愉快そうに予の少女を眺めた。
――ついにたどり着いたか。ぼくのことを知るはずもないだろうが、ぼくにとって君たちはずっと特A級の観察対象だった。まるで、憧れていたアイドルに初めてに会うときの少年みたいな気持ちだよ。それにしても、あの日本列島殺人行脚は大ヒットだったね。あやうく公僕の立場を忘れて、大手旅行社と鉄道会社へタイアップ企画を持ち込むところさ。
雑草のように無秩序な髪は白いものが多く混じっている。軽薄で軽躁的な話しぶりとは裏腹に神経な視線を銀縁眼鏡で覆い、内臓の虚弱を疑わせるほど頬は痩け、皮膚と同じ色をした唇は酷薄な印象を予に与えた。相反する印象が集積した外見は、老人のようでもあり青年のようでもある。
――ようこそ、少女審議委員会へ。委員長の五嶋啓吾だ。政策研究所の所長も兼務している。そして、ここに居並ぶのは、当委員会の錚々たる構成メンバーのみなさん方だ。会議に欠席する場合、あらかじめ代理人として人形を立てるよう決まっている。ご覧の通り、実在の名士なんてのはこういう輩ばかりさ。少審は委員長の諮問機関に過ぎず、決裁権は委員長であるぼくが握っているから、会議の運営はもはや他に類を見ないほど円滑だ。
言いながら突然、手近の椅子を人形ごと床に蹴り倒す。磁気人形の頭髪が剥がれ、黒い空洞がのぞく。ひび割れて対象性を失った顔面は、ひどく既視感を刺激した。
――そして、罷免も任命もぼくの思いのまま。いつだって、ひとり分の席は空いている。必要なのは、永久に自我の形を変質させる一種の諦念だけだ。何も放棄せずに、何かが手に入るわけはないからね。
異様な光を帯びた視線が予へと向けられた。瞳に込められた熱量次第で、年齢についての印象が全く変わる。だが、予の経歴に対する遠まわしの揶揄も予をひるませるには至らなかった。これまでの人生に後悔はあるか。いや、ない。予は毅然と胸をそらしたのである。
――君が少審にあげる動画や報告書は、実に興味深い。委員へ推挙したいくらいだ。魅力的な申し出とは思わないか。君の反社会的な本質をそのままに、君は確たる社会的な地位を得る。これがどれほど度外れた大逆転の可能性か、君ならばわかるはずだ。
浮かされたような口調に釣りこまれそうになり、予は主導権を取り戻すべく老利数寄衛門の死を告げた。社会的地位は少女殺人者にとって何ら盾にならぬことを、五嶋啓吾に思い出させるためである。傍らに立つ少女殺人者は、居ながらにして脅迫と同じ効果を持っている。ただ、予の少女が今日の死に倦んでいることだけは、悟られてはならぬ。
――見ていたよ。残ったのは恋着した童女の行末を見たいという妄執だけで、実際あの老人は長い間ずっと死に続けていた。よくもった、と言うべきだろうな。ただ、青少年育成特区の設立に寄与したという一点でだけ、歴史に名を残す資格はある。政治屋にしてはまあまあ話せる人だったけど、いつだって容れ物を作ることが前提から目的へすりかわってしまう。何を納めるかはどうでもよかったんだろうね。フレームはなくても、実体はある。抽象概念だけが、この世の底とつながっている。老利数寄衛門との議論は平行線だったね。何を見せたいと思うかが政治だとすれば、青少年育成特区は世の人々に何を見せたかったのか。
わずかに細めた目の下に皮がたるみ、その顔はたちまち時を刻んだ。年老いた分だけ口調の帯びるトーンに憂鬱さが加わり、人格の置換さえ疑わせる変容である。もっとも、青少年育成特区導入からの歳月を考えれば、設立に関わったというこの男が見かけほど若いはずはない。
――全体主義的な風合いに対するカウンターとして消極的に採用された民主政は、対立項への嫌悪ゆえに真逆の極端へと暴走していった。均質化と個性化は常にせめぎあい続けなければならず、どちらかへ完全に着地することこそ避けねばならなかったはずなのに。結果はご覧の通り、行き過ぎた個人主義が価値を拡散させてしまった。価値とは「何を是とするか」という命題に対する回答、すなわち善の様相を意味する。善は自由の名の下に組織、あるいは人間と同じ数にまで際限なく分割されていく。一方で、悪は変わらないままその版図を維持し続ける。悪は法により規定されるが、善は法により規定されないことを考えるといい。善が悪に勝利できなくなったのは、道理じゃないか。最初期段階で青少年育成特区が目指した理念とは、目指すべき社会システムの可視化にあった。個々人の戦争状態は恒常的に存在し続けるべきだ。不可視であるがゆえに、穏やかな天秤の例えで結論を次代へ先送りにする破滅への保留を廃し、少女殺人者たちは現状が常に戦争であるという事実を人々の前へ顕在化させる。さらに、青少年育成特区は舞台の主役である少女たちを抽象化した。ネットやテレビや新聞や、手の届かない場で繰り返される虚像には実在を薄める効果がある。哲学書や思想書の文言なら涙が浮かぶほど身に沁みるが、隣人や親族の小言は許容できないほど苛立たしいからね。形が無く、ほどよく遠いということが啓蒙には重要なんだ。……まあ、ここまでは建前だね。この国の政治に統計データは必要ない。つまり、小説を書くように政策を書けば、あとは人気投票次第で自動的に事が運ぶのさ。実のところね、ぼくはただ、少女が、大好きなだけなんだ。
異様な光に目を輝かせながら、五嶋啓吾は爬虫類を思わせる長い舌で色の無い唇を湿した。大きく開かれた目が顔全体の皮膚を持ち上げ、劇的な若返りの印象を容貌へ与える。嗅ぎ取った臭いに全身は粟を生じ、想起した同族嫌悪という言葉に予は首を振った。
――ただの一瞥で男どもを蹂躙する少女たちが、陰惨な陵辱の末に社会の枠組みへと規定されてゆく過程にぼくは切歯扼腕してきた。青少年育成特区は、フェミニズムなんてメじゃない、国家の庇護の下に少女たちが他を圧倒し君臨し、暴力で世界をほしいままにするシステムだ。少女たちの神聖を守るためには、社会からの同調圧力を退けねばならぬ。万が一にも誰かの手に入ってしまうような可能性があってはならぬ。現世の誰からも触れられないよう少女たちの存在をエンターテイメント化し、つまりいったん実在から実存へと引き上げることで一時化し、外的・抽象的・遠隔的消費が可能な状態を作り出すことにこそ、青少年育成特区の真の目的がある。消費され尽くすということは、関心を完全に喪失することだからね。その先に少女たちは、路傍に苔むし、打ち捨てられた道祖神の持つ、何人もその由を遡れないがゆえの不可解の聖性を獲得することができる。
じっと話を聞いていた予の少女は、そこで何かを言おうしたのか、わずかに唇をひらく。先ほどまでの虚脱の様子は消えており、予は傍らから漲る圧を感じる。しかし、五嶋啓吾はかぶせるように言葉を続けた。
――ぼくを狂っていると思うか。いや、正常と異常は時空において相対的だなんて、つまらない指摘はたくさんだ。自然とは異なった環境に置かれて壁に頭蓋を骨折させるマウスの発狂が固着したものが、人の持つ知性なのだろう。だから、カウンセリング的な、心理学的な救済に神を感じて心乱される。本当はただ発狂しているだけにすぎないのに。環境への適応が知性を作り出したのなら、皮肉にもそれは神の不在をそのまま証明しているじゃないか。いまや君たちは余人からの入力を受けつけず、外部からの刺激に殺す以外の応答を必要としなくなった。ぼくたちは一方的に君たちへ祈りを捧げ、愛と欲望を投影し、次の少女の到来を望むがために、君たちがただ消えてゆくのを傍観し、やがて完全に忘却する。君たちをこの世のものとも思われないよう神秘的に、蠱惑的にするために「殺し」を与えたが、言葉まで奪った覚えはない。君たちには、それを保持し続ける自由もあった。けど、殺人の享楽をさまよううちに、言葉を放棄したんだ。言葉は「殺さない」ためにあるものだからね。
予の少女は、つまらなさそうに前髪へ手櫛を入れる。五嶋啓吾が一瞬、ひるんだように視線をそらす。続く一声はわずかにかすれていた。
――さあ、ぼくの話はここまでだ。仁科望美のところへ向かうといい。君が人がましく話すのを聞きたくはない。もっとも、少女殺人者に何かを強制できるとは思っていない。ぼくの存在と言葉を無化する手段は、すでに与えられている。
予と予の少女への興味を失ったかのように、白衣の男は再び壁面のモニター群へと向き直った。しかし予は、肘掛からのぞく指先がかすかに震えているのを見逃さなかった。無頼と狂気を装った一世一代の大芝居は、ただ助かりたいがゆえだったのか。誰かに向ける最も冷酷な感情は失望である。はたして気がついているのか。いぶかった予が、端整な横顔をのぞきこんだ瞬間――
一閃、予の少女は白衣の男を椅子ごと切り伏せた。