猫を起こさないように
虚皇日記 -深淵の追求-
虚皇日記 -深淵の追求-

小鳥の唄(18)

 階段状の観客席が六角形に取り囲み、すり鉢状になっている底で全裸の男が少女の遺体に腰掛け、両手に顔をうずめている。
 男、気配を感じて顔を上げると、そこには少女が立っている。彼が腰掛けにしている少女とは似つかぬ容姿なのだが、おそろしく似通った雰囲気を感じさせる。
 男、再び両手で顔をおおう。
 「いつになったらぼくは君たちから解放されるんだろう。いつまで君たちはぼくに執着し続けるんだろう」
 「答えは自明なのに、口にされた言葉を改めて聞かないと納得できないのね」
 少女、老婆のような深く長いため息をつく。
 「ずっとよ。私は、私たちはあなたの無意識から生まれてくるのだから、ずっとよ。あなたが死ぬまで、ずっと」
 男、老人のようなしゃがれた声でつぶやく。
 「それは、それは。本当に、修辞的ですらない、地獄のような恋慕だな」
 少女、口元に冷笑を浮かべる。
 「あなたにしては気の利いた言葉だけど、何かからの引用かしら」
 男、笑顔のように口元を歪めて顔を上げる。
 「ずいぶんと無意味な質問をするもんだ。ぼくたちの言葉はすべて、引用からできている。巨大な歴史が順繰りに言葉をしらみつぶしにしていった結果、ぼくたちの言葉はすべて引用になってしまった。歴史がその処女野を蹂躙しつくした言葉を、ただむなしい引用として、中年夫婦の諦観と希薄さでぼくたちは発話する――」
 男、ゆっくりと立ち上がると通路の奥へと去っていこうとする。
 少女、一瞬、何かの感情をこらえるかのように口を引き結ぶと、それをすべて呑み込んで、大声を出す。
 「ねえ!」
 男、振り返る。その瞳は灰色に彩色されており、虚ろである。
 「なんだい」
 少女、消え入りそうな声で問う。
 「これで、終わりなの?」
 男、悪魔のように哄笑する。
 「ハ、ハ、ハ。これもやはりエヴァンゲリオンからの引用なんだがね……『わかるもんか』」

少女保護特区(4)

 神の摂理とは人の摂理である。人の本質を否定するもの、そこへ疑問符を投げるものが悪と呼ばれてきた。しかし、人の存続を許さぬものが人より生まれ出づるのなら、それはいったい何と呼ばれるべきだろうか。
 汚れた熊の人形を地面に引きずり、夜の街路へ身長を数倍する影を残しながら、一人の女児が歩いている。少女と形容するには、まだいくぶん幼い。街灯の投げる円錐の中へ立ち入ると、女児は立ち止まる。その顔は遠目にわかるほどの青痣を残し、鼻血の跡が両頬へ隈取りのように茶色く凝固している。爪のない素足は泥にまみれ、人形の破れた表面からは中身の綿が飛び出している。女児はほとんど自失しているようだったが、電球へ衝突を繰り返す一匹の蛾を見上げるうち、その瞳は次第に正気を宿し始める。口元がへの字に曲がり、表情は大きく歪む。しかし、にじむ涙がこぼれぬうちに手の甲でぬぐってしまうと、女児は再び歩き始める。
 建て売りの住居が建ち並ぶ夜の住宅街は、どこまで歩いても表情を変えず、まるで終わりのない迷路のようだ。幾度も道を折れるが、どこかにたどり着く様子はない。爪のない素足が運ぶ一歩先だけを見つめていた女児は、何かの気配にうながされて顔を上げる。視線の先にあるのは、向かい合う住宅の狭間に長々と身を横たえた巨大な黒い固まりである。近くに街灯は無く、家々は雨戸を閉め切り、雲間からのぞく月明かりだけが照らす夜の底に、夜の黒より深い黒がその輪郭を際だたせている。かすかに上下する曲線は、それが生きていることを伝えている。二本の筋が曲線の囲む内側に生じ、やがて二つの球形へと転じる。大人たちよりもはるかに鮮烈で曖昧な女児の心に去来するのは、両親が手を振り上げるときの恐ろしい表情と――私を叱るときだけ二人は仲が良いのだと、いつも思う――図書館にある外国の絵本に描かれた、モノクロの深い森である。女児の両親はおそらく、自分たちが娘にしてきたことすべてを忘れたふうに、突きつけられるマイクの列を前に泣くだろう。記者会見で泣き、誰もいないリビングでさえ観客を意識して泣き、そして一定期間は娘のために心を痛めて泣いたのだという事実に、すっかり赦されてしまうに違いない。女児が抱いていた、数年の後には顕在化しただろう漠然としたある気分、自己抑制の外で行われる不条理への負の感情はついに言語化されないまま――この世界のどこにも残されないまま、消滅することになる。
 言語を持たぬ者が力によって圧殺されることだけが、絶望と形容するに足る。千年の視座を持つ予は、鼓膜へわずかに振動を残すだけの時の泡沫には何ら痛手を受けることは無かったし、何より自身を言語化する以前に死を与えられることはなかった。無論、言語化した結果を十全の形で凡人に受容させることは極めて困難である。言語化しきれなかった、あるいは言語化したものを受け止めきれなかった余分は、身体の奥深くへ蜂の一刺しのように残り、その規模の小ささゆえに誰にも原因として指摘されることなく、ついには発症へと至る。しかし、大人たちは破局を回避する準備期間を十分に長く与えられているがゆえに、彼らが直面する事態は絶望というより危機と表現されるべきである。人類はいわばこの、精神の危機と幾千年に渡って格闘し続けてきている。然るべき観察と実行を怠りさえしなければ、救済への道はほとんどマニュアル化されていると断言してよい。だからこそ、鳥や動物や樹々や大地や、声を持たぬ子どもがこの世から消滅することだけが真に絶望と呼べるのである。
 夜の街路に対峙したのは、誰も気づかぬ社会の毒素を蓄積させて真っ先に死ぬ存在とそれを吸い込むことで肥大化してゆく存在との象徴であり、両者は対極にして同一であった。
 熊の人形がアスファルトの上に落ちる。続いて、女児の右手が熊の上に落ちる。女児と熊の手はしっかりとつなぎあわされたままだ。人形が見上げる先に、両脚をつなぐ腰骨の中央から白い棒状の何かをわずか屹立させたオブジェがある。奇怪なその外観は、極めて前衛的な芸術作品と呼べないこともない。女児が最後に見たのは黄色い乱杭歯と、濡れた赤の奥に広がる黒い虚無だった。
 辺りに濃密な鉄錆の匂いがたちこめる。咀嚼音と液体のはねる音が夜の街路に響き、息を潜めたような静寂が惨劇を取り巻く。黒い固まりは皮膜に包まれた液体のようにゆっくりと、縦に長く変形する。濁った重低音が長く鳴り満足げな吐息が続くと、大気は腐乱した肉の臭気に満たされた。
 雲が去り、月は地を照らす。
 一糸まとわぬ巨大な女が、指に付着した液体を舐めている。家々の屋根を真上から睥睨する全長をもってして、それはなお女だった。膝にまで達する両腕を除けば、身体を描く曲線は未だ性徴を際だたせず、ほとんど少女にさえ見える。だが、全身を覆う肌は奇蹄目犀科に属するほ乳類のように硬質化している。
 認可番号AA00001――仁科望美。青少年育成特区最初の少女殺人者。
 彼女は同じ性別のものを好んで食餌とする。若い雌へ潜在的に抱く生物学的優劣に根ざした脅威が、顕在化した死との狭間に名状し難い何かを受胎させ、我々にとっては未知のその衝動が同類たちを殺戮の対象として選択させるのであろう。異様に長く発達した前腕で獲物の両足をすばやく押さえつけ、丸かじりに頭部へ食らいつく。そして、柔らかな腹部から背骨の周囲に付着した肉ごと上半身をこそげとるのである。奇しくも先ほどの獲物のように幼かった頃、彼女が愛好した棒付きアイスを食べるときと同じやり方だった。芸術を意図してというより、過って子宮や精巣を食ってしまわぬためである。それらを食餌とすることは、初潮の訪れを早めてしまうと彼女は強く信じている。実のところ仁科望美の最初の血と澱は、十数年の歳月を経て未だ彼女の体内に万力のような筋肉で閉じこめられているに過ぎない。しかしこの不条理に外部との連絡や整合性を求めることは、全く意味が無い。信念とは、時にこのような形をとるものである。
 予は仁科望美の両目を正面からのぞきこんでなお命を残すという僥倖を得た、数少ない一人である。その両目は頭蓋の眼窩に張り付いた目蓋のせいで、常に眼球本来の球形で見開かれている。金縛りのようなあの数瞬、一秒を数百に分解したその時間は、彼女の身体能力を考慮するならば予を数回は殺すのに十分な長さだった。最初に感じたのは、喉元に溜まった嘔吐である。予に向けられた表情は、確かに微笑みであったと記憶する。もはや唇と呼べぬほど削れた肉の内側へ常にのぞく乱杭歯には、彼女が咀嚼した人体の滓がこびりついているのが見えた。いまなお、彼女の精神は我々の延長線上にあるのだという理解が予に吐き気をもよおさせた。予と同じ経験をするものは、例え明確に言語化できぬにせよ、同じ感慨を抱くはずである。彼女は、蝦や蟹のような甲殻類の感性を世界に対して構築していた。そして、一個の人間が世界に対して甲殻類のような感性を構築し得るという深淵が、見る者の心胆を寒からしめるのである。仁科望美は依然として、人間なのだ。
 いつ彼女がその闇を心に抱いたのか、当局の記録は何も伝えない。役所努めの父親と教員の母親と二つ年上の兄と過ごした十四年間は、決して波乱に富んでいるとは言えない。しかし、少女が最初の合法的な殺人を犯したその日、平穏は終わりを迎えた。一家は、少女殺人者を身内に持ってしまった場合の典型的な転落を歩んでいる。迫害、転居、離散。予が追うことができたのは、そこまでだ。無数にある家々の内側で本当は何が起きているのかを知ることは、部外者へほとんど禁じられている。仁科望美の生家を訪れたが、取りつぶされて更地になっていた。漫画のような土管の上で、二人の子どもが背中合わせに携帯ゲームで遊んでいる。予は眩しさに目を細める。陽光は世界を漂白し、すべては色を失う。
 伸ばした腕の先が見えないほどの闇の中で、ただ草いきれのみが山中にあることを予に告げている。夜の底に訪れる覚醒と続く混乱を、予は樹上から見てとった。仁科望美は腹の減っていない際に、獲物を生きたままねぐらへと連れ帰り、空腹が理性を凌駕するまでその恐怖を弄ぶことがあった。法を超えれば、法の庇護を失う。法を超えた者同士の間にあるのは、生き残った方がその正当性を主張できるという、戦争以前の純然たる暴力だけだ。特区法の理念は少女を異性から完全に隔離したが、少女を少女自身という脅威から保護することはかなわなかったのである。切りそろえられた前髪に顔の半ばまでを隠した少女は、後ろ手に折りたたみ式ナイフを取り出す。刃は仁科望美の爪の先ほども無く、人の崇高と滑稽がそこへ同時に表現されるかのようである。猫が毛玉を弄ぶ仕草の軽い平手で、少女を引き倒しては立ち上がらせる。獣は嬲らない。仁科望美がある種の遊戯として行為を楽しんでいることは傍目に明らかであり、この陰惨な宴の中にあってそれが逆に彼女の人間を証明していると言えた。巨大な掌をかいくぐり、少女は怪物のふくらはぎへナイフを突き立てることに成功する。だが、刃は柄を支点にして直角に折れ曲がっただけである。仁科望美は、あくびに似た動作をした。口腔からはき出される音波が樹々を激しくゆらす。少女はたまらずナイフを取り落とし、両手で外耳を覆った。ゆっくりと持ち上げられた巨大な右手が親指と人差し指の輪を形作る。丸太のような人差し指が恐るべき速度ではじき出され、少女の顎先を通過する。小さな顔が重力方向にぐるりと一回転すると、元通りの位置に静止した。口から蟹を思わせる泡が赤く吹き、少女は糸の切れたように倒れ伏す。仁科望美は立ち上がることのできなくなった獲物の腹部へ足をかけ、羽毛のようにそっと体重をのせる。たちまち少女は二つの肉に分かたれ、人であることをやめた。
 仁科望美が立ち去ってから、優に二時間は樹上で待機したろう。好奇はしきりと予を促したが、予の生来である用心が行動を妨げたのである。生きているものと死んでいるものは、どうしてこんなにも違うのか。少女の口からは、何か赤黒いものが飛び出していた。目深に垂れた前髪がその両目を隠していたことは、予にとって幸いだった。死体と暗闇を共にする恐怖は極めて根源的であったが、何より一種の使命感に促され、予はそれの首からぶらさげられていたAvenger Licenseを接収せしめる。当局へ連絡する義務を果たすために携帯電話を取り出すが、電波状況は圏外を告げる。ふと気がつけば、いつの間にか固く閉ざされた鉄扉が眼前にそびえていた。視線を上げると、そこに仁科望美がいる。鉄扉と見えていたものは、女性の巨大な秘所であった。予は彼女の両目をのぞきこみ、彼女は予の両目をのぞきこんだ。その首が傾き、暗闇に浮かぶ二つの円形が半円に細められる。この怪物はすべてを了解していたのである。髪の毛が太くなり、予は爆発的に駆けだした。木々の枝が予を傷つけるのにも構わず、夜の山中をほとんど転がるように走る。仁科望美は予のすぐ背後まで迫り、口腔から荒々しく押し出される呼気が大気を揺らすあらゆる瞬間に、予の生命を刺し貫くかと思われた。地面にアスファルトの固さを感じたとき、予の足はようやく動きを止める。遠くからヘッドライトが迫ってくるのが見え、その接近にあわせるように背後にあった気配は次第に消滅した。予の威武をもって逃げおおせたとは言わない。ただ、食欲と嗜虐を満たされた後に諧謔を与えられ、彼女の精神はその晩、完全に満足していたに過ぎないのである。
 動物たちの行動は特定の環境に対して特化しているものである。人間たちの行動は特殊化を指向する一定期間を過ぎると、普遍化へと向かう。世界の宗教を見ても顕著であるが、特定の環境や状況を前提としない行動、思考様式へ傾倒してゆくのである。生存を追求する上ではなはだ有効ではない全体性への指向が人間存在の本質に組み込まれており、それが人間を他の動物たちと峻別する唯一の要素であるのかも知れぬ。善にして全なる場所へ向け、背中から落下してゆく。ゆえに来し方は眼前へ遠ざかり、行く先は見えない。落ちるにつれて種々の執着や魂の輪郭が溶解してゆく放埒に包まれて、誰かの魂を傷つけ汚さなければ他の数十億から私を私と名指しすることはできない。仁科望美はいつもするように、左胸へ爪を立てた。私という名前の孤絶へ永遠に留まり続けるため、彼女が魂の所在と信じる左の乳房の上に強く爪を立てた。しかし、長い繰り返しの果てに堅くなった皮膚には、わずかも爪を食い込ませることはできなかった。この怪物は安息を得たいのか。安息とは全であり、彼女の願いは個である。両者は遠く矛盾し、何よりすでに殺しすぎている。孤絶が溶解することに気がつけないまま死ぬことが、地獄へ落ちるということだ。
 膝を抱えてうずくまっていた仁科望美が顔を上げる。生存に特化した野生動物の本能のみが可能な、五感を超えた鋭敏さで自身の存続に対する脅威を感じ取ったのである。この破格の怪物を脅かす何かが地上へいったい存在し得るというのか。法から庇護されると同時に、単純に物理的な影響力で法そのものをさえ凌駕する最初の少女。彼女に対抗することが可能な実存を人類の叡智が仮定できるとするならばそれは、これまで地上に存在しなかった何かがこの瞬間、新たに生まれ出たことを意味している。
 夜空へ向けて低くうなり声を上げていた仁科望美が、腰を深く落とした。まるで大地そのものと交接したがっているかのようだ。大腿筋がよじれ鋼鉄の如く硬化し、恐るべき力がそこへ漲ってゆく。仁科望美の足下はすり鉢状にへこみ、彼女の周囲だけ重力の仕技はその法則を変える。大気はゆっくりと渦を巻きはじめ、すり鉢の中心へ向けて収束してゆく。
 次瞬、仁科望美の身体が消失する。山の稜線を形成する木々の間から恐ろしい数の鳥たちがいっせいに飛び立ち、近くの地震観測所は人が体感できるほどの揺れを記録した。逃げまどう鳥たちの群れを突き切り、黒い固まりが宙空を渡る。その巨躯が黄色い満月を横切る瞬間、この世を照らすすべての光は遮られ、ただ漆黒の闇が支配した。
 予の少女と仁科望美との邂逅は、青少年育成特区が成立する基盤そのものへ決定的な影響を及ぼすことになるのだが、それはまだ少し先の話である。

少女保護特区(5)

 抱えた両膝に顔を伏せて永く微睡むようだった予の少女が、不意に顔を上げる。ただちに視界の上部から赤いRECの文字は消滅し、ノイズの多く混じった薄青い少女の像は部屋の隅にある現実として予の認識にとらえなおされた。予の少女はゆっくりと、予の立つ部屋の戸口へと顔を向ける。しかしそれはどうやら予が恐れたような、予の盗撮に対する消極的な疑義の申し立てではなかった。背を伸ばし、予を通り越した遠くの虚空へ視線を投げる様子は、猫科の動物を思わせる。隣室より予の少女のご母堂が夕餉の支度を告げ、その張り詰めた空気は早々に破られた。予の少女は小さく眉を寄せ、起きぬけに忘れてしまった夢を虚しくさぐるような、遠ざかるある感覚を惜しむような素振りを見せる。かすかに首を振ると、胸元に抱えた刀を畳に突いて立ち上がり、まるで予がそこにいないかのように眼前を通り過ぎる。大気の流動に残された香りを求めて、予は鼻腔を膨らませる。少女の余韻はまるで魂を緩ませるかのごとくであるが、先ほどより大きいご母堂の声が予の没入を阻害した。予を一秒の何分の一か麻痺させた陶酔を振り払うと、再びビデオカメラを目線に構えて、予は食卓へと進発する。
 隣に座る予の少女を強く意識しながら、予は二杯目を突き出すときの角度と速度を綿密に計算する。そのシミュレーションを予の身体は完璧にトレースしたが、やんぬるかな、おかわりを言う声はくぐもった。しかしそのわずかの失態もあまりの完全さゆえ、ときに冷たさすら感じさせてしまうだろう予の神性に、暖かい人間性を滲ませるという肯定的な材料となったことは疑いがない。それにしても、悪い米を使うものだ。予は口中の澱粉を、苦い薬を飲むように嚥下しながら考える。加えて古い借家のフローリングは床暖房すら伴わず、顔の火照りと裏腹に底冷えがし、予は食卓の下で両足を揉みあわせる。予は無償で雨露をしのぐ場所を与えられながら、心の底でその良否について批評を抱くことができるほどの無頼である。
 今朝方に近隣で発生した少女殺人からの保護を求めた予の要請は、無数のたらい回しの末、予の執念に屈する形で当局に認められた。少女殺人の発生した地区の住人は、事後二週間、その近隣に住居を持たない人物を保護する義務があることは、特区法にも明記されている。法制化されているが誰も利用したことがないという旨の言葉を数十回ほど聞き流し、姑の執拗さで突き返される十数枚の公文書を書き直した結果の居候であるから、予の少女が生活する様を間近で活写できるという僥倖以外の不便は、甘んじて受けるべきであろう。
 二杯目を受け取るとき、ご母堂と予の指がわずかに触れた。ご母堂は鼻の頭に皺を寄せると、台拭きで人差し指を執拗にぬぐう。予は予の少女と離れがたく結びついてしまっているというのに、罪なことである。同じ遺伝子が、むなしい懸想を錯覚させるのやも知れぬ。ご母堂の隣におられるご尊父は、新聞を防壁のように食卓へ張りめぐらせ、ときどき共有の惣菜へ箸を伸ばすとき以外は、誰とも視線を交じえようとしない。悪い米から立ち上る濡れた雑巾のような臭いの湯気越しに、予はご尊父とご母堂を観察する。ここにいるのは、罰する者と罰される者の夫婦である。二人は幼少期の自分とそれぞれの親とに同化し、人知れぬ片田舎のこの地でかつての悲劇の再演を行っている。負の意味で、お互いはお互いを必要としており、文字通り運命的に結びついてしまっている。そして傷がゆえの結合を不可欠な愛情と錯覚し、手に手を取って破滅へと螺旋状に墜落しているのである。予の少女は、子どもにとって最も近しい者たちが破滅を望み、そしてそれを止める手段を与えられていないことに、腕を揉みしぼり続けてきたのだろう。予の少女が合法的殺人という圧倒的な力を求めたことは、この家庭において日々味わい続けてきた遠回しの無力に対抗する側面があったことは否めない。しかし、両親のする破滅のダンスは精神的なものであり、かつ本人たちがそれを意識化できないがゆえに普段は隠蔽されている。つまり予の少女が求めた力は、その当初の理由から離れた場所でしか発揮を許されず、ゆえに無力感は解消を得ない。本来の対象から転移した感情は強められ、過激化する。解消を求めて噴出する感情が、対象を誤るがゆえに解消せず、空を拳で打つような苛立ちが怒りを増幅するのである。予の少女がこの短期間のうちに、青少年育成特区においてその暴力の度合いという意味で極めて重大な要因になりつつあるのは、まさにこの家庭的背景が関係していると予は考える。そして同時に、その暴力が依拠する部分の病的な脆さに危惧を覚えるのである。
 無論、予の少女が抱く病――それは予の実在にも同じ和音でもって通底するものである――を保護しようとすることは、予の少女がその病質ゆえに、主体的にではなく不可避の受動性でもって予に依存する可能性を残すことでもあり、予の少女を偏愛する我が自意識の陥穽と指摘されることは理解する。しかし、忘れてはならないのは、予の少女はすでに少女殺人者なのである。予の少女が精神的な弱さを克服するということは、肉体的な強さを喪失するということと同義だ。予の少女がいまの暴力を失えば、たちまちその生命を失うことになる。ここに至り、予は諸兄の陥穽論をひらりと飛び越えた三段論法で、正当性の向こう岸へ典雅に着地する華麗さを見せるのである。
 金切り声で我に返ると、予は実際に予の席から食卓とご母堂を跳び越して、フローリングの床へ着地するところであった。予の少女の視線を意識しつつ背筋を張って席へ戻ると、予は鷹揚に食事を再開する。いまここに思考の肉体性が証明されたことを宣言したとして、ご母堂の機嫌は直るまい。こんなとき、わずか一週間ほどの滞在であるにもかかわらず、ご尊父と予はほとんど双生児のような有様で食卓を挟み、ご母堂に訪れた一時の激情が去るまでの間、視線を新聞と虚空に彷徨わせるのである。ただ、予の少女の口元が少しゆるんだように見えたことは、この椿事における唯一の収穫であったと言えよう。もちろん、すべての娘は父の残像を求めるという予の魅力を否定する諸兄の言辞には積極的に耳をふさぐとしてだが。それにしても、全く気に障る金切り声である。現代の貴種流離譚、高貴すぎる精神性ゆえに誰かと思想や日々の言葉を同じくすることのできない予が、あえてこの侮辱的な居候関係を受け入れるのも、すべては喪失をあらかじめ約束された予の少女の強さが、崩壊へ向かうことをわずかでも先送りにせんがためである。
 全員の食事が終わらぬうち、ご尊父は早々と二階の自室に引き上げてしまう。新聞をたたむ際、わずかに交差した予の視線とご尊父の一瞥が互いへの共感に満ちたものであったことを予は確信する。しかし、食卓に下りた沈黙は懸想への確信を充分に裏付けるほど濃密なものであり、ご尊父に対する無作為の裏切りに、予はほとんど胸の潰れる思いをする。先ほどのご母堂の激情も、懸想を悟られたくないがゆえに表面上を本心と正反対の感情で過剰に装飾するというあの、永久凍土をカタカナ読みした名づけの精神病質によるものに違いない。乙女と確実に乙女ではない二人が予に行うだろう告白の重圧を軽減するため、予はまずこの沈黙を予のユーモアでもって破らねばならぬと感じる。それが、男子に生まれた義務のひとつだからだ。しかし、確かに発したと思った言葉は予の喉の入口に留まり、外的にはくぐもった呻きが大気を揺らしたのみであった。予を羞恥で悶絶させるはずのその呻きは、しかし大きめの家鳴りに掻き消される。予は再び予の内側へと退却し、今回の戦術を戦略的視座から再検証するべく引きこもった。状況は楽観的どころではなく、手始めに予は斥候として、考えられる最善のタイミングで空の茶碗を突き出す。予への恋慕を押し隠すためのご母堂の、露骨な舌打ちが追い討ちをかける。斥候が無事に帰還を果たすか、全く予断を許さなかった。
 だが、予の苦境は思わぬ形で解消をみるのである。天井がわずかにきしみ、湯気を立てる予の三杯目に埃をちらす。それに先んじた重い音を予は聞き逃さなかった。予の少女は食卓にたてかけてあった刀をつかむや否や、真後ろへ蜻蛉を切る。かすかにのぞいた陣幕の内側が、確かに予の視界にあったのかを巻き戻すビデオカメラはなく、予の左手には三杯目が、予の右手には里芋を突き刺した箸が握られていた。予は両手を眼前に並べると、激しく叱責する。「諸君は予の精鋭として、長い苦しみに耐えてきた。それが今度の体たらくは何か。輜重に眼を奪われるあまり、最良の勝利の瞬間からは眼をそらしたのだ。君たちの心の中で、廉恥と劣情が勝つか、空腹が勝つか、それをできるだけ早く知りたいと思う」。予がまくしたてると、驚くべき変化が起こった。左手はたちまちビデオカメラをつかみ、右手は里芋ごと箸を放棄したのである。我が意を得た予は莞爾と微笑み、予の少女を激写せんと雄々しく進発を宣言する。一方で中座を申し出る声はくぐもったが、ご母堂は予の緊迫した様子に圧倒され、眉間と鼻の頭にある皺をますます深く寄せるにとどまった。
 最強行軍で駆けに駆け、やがて予は予の少女の尻、ではなく殿と接触を果たす。無論、誤解をしてほしくないのだが、物理的にという意味ではない。眼前に立ちはだかる段差を攻略しあぐねているのかと思いきや、予の少女は階段の中腹へ鞘を突くと棒高跳びの要領で刀身を支点に跳躍し、その体を縦方向へ大きく回転させる。予の精鋭たちは二度の失態を許さぬとばかりビデオカメラを神速にて掲げるも、大気が垂直に伸びた予の少女の両足へぴったりと陣幕の布を張りつかせる映像を残したのみであった。二階廊下への着地と同時に、予の少女は回転の余勢を駆って抜刀し、続く動作で突き当たりの扉を袈裟に斬り下げ、同じ速度で逆袈裟に斬り上げた。鍔音に続く完全な静止から一瞬の間をおいて、木製の扉は四枚の二等辺三角形となって部屋の内側へと吹き飛ぶ。
 木屑の舞い落ちるその先には果たして、両手足の関節を人間の本来とは逆方向へ折り曲げた異形がご尊父を四つに組み敷いていた。窓がわずかに開いており、ここからの侵入が先ほどの家鳴りを生じさせた原因かも知れぬ。異形の首がくるりと回転し、ほとんど浪曲師の嗄れ声でノイズのような音を立てる。笑っているのだ。防衛のための殺人が自己目的化し、そこへの耽溺が理性を消滅させる。やがて係累との関係を失い、野良化した少女のうちの一人だろう。むき出しになったご尊父の下半身と野良少女の下半身は接触しており、寄生蜂の産卵管が幼虫に差し込まれている図を予に想起させたが、現実はその正反対である。
 鋭敏な感性を持つ予は気づかざるを得なかったのだが、ご尊父のパソコンにこの異界の点景として、言うもおぞましい婦女の図画が表示されているのがわかった。天然色の頭髪に包まれたその頭蓋は変形し、巨大に発達した眼窩が組み敷かれたご尊父を見下ろしている。予の少女がそれを見なかったことを祈る。これこそが、家族の団欒に優先したご尊父の秘密なのであった。野良少女とモニター上の図画は、その異形性において類似点を見出せないこともない。つまり、眼前に繰り広げられる陰惨のまぐわいがご尊父にとって決して合意ではないという断言は、困難なのである。騒ぎを聞きつけたのだろうご母堂が足音荒くやって来、予は状況を説明する困難さに肝を冷やす。しかし、ご尊父の部屋を覗き込むと、無表情のまま回れ右で階下へ去っていく。
 野良少女へ側面から対峙する予の少女は、圧倒的に有利な地形的条件を得ているとみてよいだろう。ときに十メートルを超える先を切断する予の少女の抜刀であれば、野良少女がまばたきをする瞬間にその首を落とすことができる。しかし、ご尊父を巻き込むことを心配しているのか、低い姿勢で右手を柄に置いたまま、予の少女は動かないでいる。部屋の中にはある種の均衡が醸成されており、誰も動くことはできないはずだった。予の頬から伝い落ちた汗がビデオカメラのレンズを流れ画面を滲ませる先を、しかし、上下ひとつながりの薄物をまとったご母堂が横切る。予の少女の肩がわずかに震えるのが見えた。薄物の上からでも視認できる乳暈の濃さは位置によって、経年の使用と純粋な加齢から、それらが重力に敗北しつつあることを教えてくれる。しかし、予の背筋と予の少女の心胆を寒からしめたのは、乳暈の色合いではない。ご母堂が右足にだけピンヒールをはいていることが、予と予の少女を慄然とさせたのである。
 誰もが虚を突かれ、ご母堂の存在をこの場面に意味ある何かとして当てはめることができないでいる。ご母堂はよどみない動きでパソコンが置いてある机によじのぼると、仁王立ちに野良少女とご尊父の媾合を見下ろした。制止する暇もあらばこそ、完全な無表情からの跳躍と、両足をそろえた落下の次の瞬間、ピンヒールの高さはすべてご尊父の右のこめかみへと消える。濁った音とともに、マヨネーズ状の何かが噴出するのが見える。ご母堂の鬼気に飛びのいた野良少女の首が、予の少女の抜刀によって切断される。生首は血流を推進剤に回転しながら宙空を進み、天井にぶつかってからご尊父の傍へと落下する。爆発的な動きの後に訪れた再びの静寂を破ったのは、鍔音に続くご母堂の笑い声である。
 予は固まってしまった右腕を意識しながら、無理矢理とビデオカメラを下ろす。予の視界はもはや少女殺人の終わった現世を映しているはずであったが、哄笑を続けるご母堂の肩越しから向こうに、奇怪な生物が立ち上がるのが見えた。それの側頭部からは角のような物体が生えている。右目は釣り上げられた深海魚のように突出し、生気のない左目は暗闇の中でなお燃えるように赤い。それの両手が背後からご母堂の首にかかる。たちまち哄笑は途絶え、ご母堂の口腔に舌が盛り上がる。予の少女がそれの両手首を斬り落とすのと、何かが折れる鈍い音が聞こえるのはほとんど同時だったように思う。それは――両手首を切断されたご尊父は膝から床へ落ちると、上体を前のめりに傾ける。意識という制御を失った怪力に頚骨を砕かれて絶命したご母堂は、もはや支えるものの無い頭蓋の重みで後頭部方向へと倒れる。二人の身体はその途上で交錯し、予の眼に“人”という字のシルエットを残した。
 ご母堂は自分の知らない女性と寝るかつての父を見つけ、ご尊父は愛ではなく性で支配するかつての母を見つけ、その混濁した互いの意識の裡に、この世界で最も正統な復讐を果たしたのである。 母を求めた男と父を求めた女はお互いの幻想と差し違え、誰もが現世で手に入れるはずのない究極の達成を得た。二人は己の死と同時に全く過不足の無い精算を果たしたのである。彼らは天国にも昇らず、地獄にも堕ちるまい。それらは造物主イコール両親へ向けられた感情の真実さへの欺瞞、あるいは罰を象徴する名前に過ぎないからである。幸いなるかな、二人の魂は完全にこの世界から消滅することができるだろう。
 音も無く回転する車載用電火表示板の赤さに照らされて、予の少女は闇に沈み、そしてまた現れる。その様子は予の少女の持つ一種の二面性、脆い内面を実体として衆目にさらすようである。そのむき出しの痛ましさは、直視に耐えぬ。今回の事件は予の通報を伴わなければ、二件の少女殺人と一件の通常殺人として処理されたはずであった。しかし、少女殺人に遭遇すること頻繁な予が県警にする説明は陪審員を前にした辣腕弁護士の如くであり、予のビデオカメラを用いた検証が駄目押しとなって、発生したのは一件の少女殺人と二件の通常殺人であったことが証明される。野良少女の死後に、予がビデオカメラの撮影を中断したことは幸いであった。ご尊父は予の少女の斬撃で両手首を失う前、すでに致命傷を得ていたと思われるが、あの場面の映像を前にそれを県警に納得させることは難しかったろう。ただ、法的処理の段階において少女殺人はこの世には存在しないように振舞うので、予の説明は予の少女から父殺しの衝撃を取り除いてやりたいという、極めて心情的な側面から発していたことは否めない。
 落下してくる白球をどちらが捕球するかで争う外野手と内野手のように、霊柩車と救急車を挟んで睨みあう救急隊員と妙齢の女性たち。両者を呼んでする県警の指示により、三つの遺体は公平にそれぞれへと分配された。霊柩車のブレードが野良少女の遺体を粉砕する一方で、三つ以上の部分に分かれた予の少女の両親は担架に乗せられ、ほとんどうやうやしく救急車の内部へと搬入される。霊柩車の持つ冷厳な即物性に比して、死体を搬送する救急車というものは、法の便宜的な側面をことさらに強調し、生と死の間にあるマージンを象徴する。その緩衝地帯は生の側にとってのみ必要とされ、死の側に立つ者は全く頓着しない領域である。霊柩車から見下ろす妙齢の女性たちは、その事実を経験として知っているようでもある。
 事情聴取を終えて歩み寄る予に、予の少女は顔を上げる。その瞳はつやで黒く濡れており、予の呼吸を停止させんばかりであった。正対する予にしかわからぬほどのわずかな逡巡の後、予の少女は予の両腕の間に身を投げる。ほとんど骨格を感じさせない柔らかな肢体を得て、予の全身へ雷鳴に似た衝撃が走った。親と子の関係を象徴的に語りなおすのが宗教であるとするならば、人類の最初期に塗りつけられたその汚辱が、予の少女を予に執着させる。神という名の呪いに端を発する歪んだ執着が、愛という名付けで巧妙な偽装を行う。正体を知りさえしなければ、それを楽しめるのだろう。しかし予は、予の自己欺瞞を許すことができない。魂を不可逆に改変するという意味で、知ることは呪いである。いまでもときどきこの瞬間を夢に見る。もしかすれば、抱きすくめればよかったのだろうか。それが、正解だったのか。
 抱きしめる代わりに予はその細い両肩をつかむと、予の少女を引き離した。布一枚の向こうにあるしなやかさを通して、予の少女の傷の形がありありと見える。ぴったりとそこへ嵌まれば、予は本当の意味で予の少女を手に入れることができたのかも知れぬ。永遠を依存する一つの病になれたのかも知れぬ。それが幸福の一形態ではないと、誰に断言できるだろうか。予はただ、人間に対して誠実であろうとしただけである。
 しかし予の少女は、予が最も重大な瞬間に裏切ったと感じたはずだ。予の少女の瞳は干上がるように渇き、みるみるうちに表情が消えてゆくのがわかった。予は立ち尽くし、声をかけることもできない。永遠のようにうつむいた予の少女は、やがて完璧に抑制された微笑を浮かべると、軽く膝を曲げて会釈をする。助手席へ誘導しようとする救急隊員の制止を振り切って、予の少女はかつて両親だった残骸の傍らへ腰かけた。扉が閉められる瞬間まで、予の少女が顔を上げることはなかった。
 救急車が走り去るのを見送ると、予は少女殺人からの保護を盾にして、霊柩車へと乗り込んだ。妙齢の女性たちは露骨な嫌悪を向けたが、予の主張する権利は特区法によりその履行を強烈に裏書きされている。居候先を失った予は、当面の生活費を稼ぐ必要があった。少女殺人の記録はどんなものであれ、当局に高値で売りさばくことができる。しかし何より、この場所を早く離れてしまいたかった。
 どうか覚えておいてほしい。言葉があるということは、現実がないということだ。予が語りはじめたことは同時に、予の少女の不在証明となることを。

五十六万ヒット御礼小鳥猊下基調講演

 「もう、もう、もーッ!!」
 画面の奥から襞の入った洋装の少女が、頬を紅潮させて猛然とかけてくる。
 そのまま諸兄の眺めるカメラへ額から激突し、もんどりうって倒れる。頭部をハンマーで強打された瀕死の猫のように、尻を高く突き出し、顔面を地面にすりつけて、ぐるぐると回転する。
 やがて立ち上がると、青ざめた顔でカメラへ向き直る。
 「(怒りに肩を震わせて)ゆ、ゆるさん……! いまのは痛かった……痛かったぞーッ!」
 少女、頭突きを試みて再び猛然と駆け出す。
 しかし、諸兄の眺めるカメラへ額から激突し、もんどりうって倒れる。頭部をハンマーで強打された瀕死の猫のように、尻を高く突き出し、顔面を地面にすりつけて、ぐるぐると回転する。
 死んだような静寂の後、少女、自らのまきあげた埃の中から姿をみせる。
 「(額を両手で押さえながら、涙声で)本当に、救いようのないおばかさんたちですね……教えてあげましょう、私のアクセス数は56万です。(突然のすごいかんしゃくで足を踏み鳴らして)もうッ! なのになんで誰もあたしをほめてくれないのよ! (ひと言ごとにますます激しく床を踏み鳴らしながら)大きらい――大きらい――大きらいだわ! (どしん、どしんと地団駄を踏みながら)よくもあたしのことを構成力に欠けて、読みにくい文章だなんて、言ったわね! よくも萌え不自由で、アクセス数貧乏だなんて、言ったわね! あんたたちみたいにおたくで、幼女趣味で、精子なしの人を見たことがないわ! これであんたたちが気を悪くして、アクセス数がもっと減ったって、あたしヘイチャラだわ! はかったみたいに更新の翌日から、それまで毎日1件はあったweb拍手をぴったりととめて、あんたたちはあたしの気持ちをもっとひどく害したんだもの! あたしの腹心の友といったら、もうだんぜん、スパムメールだけだわ! だからけっしてあんたたちなんか許してやらないから! 許すもんか! (袖のフリルでごしごしと目元をふいて)でも、あたしはかしこいネット孤児だから、どうやればみんなの期待を裏切らないかってことも、わかってるつもり……(両手を組み合わせ、薄幸そうな笑顔で)愛されるようにふるまわなくちゃ、だれも、ワンクリックでやっかいばらいできるネット孤児を愛してくれるわけなんてないもの……けど、覚えておいて。ウィンドウが閉じられるたび、ブラウザーの戻るボタンが押されるたび、あたしはひとり、死ぬんだってこと……うふふ、やれこわやれこわ! せいぜいネット弁慶と呼ばれないように、これからはあたしもかんしゃくを直さなくちゃ! だから、あたし、きょうは冷静におはなしできるようにって、お手紙かいてきたのよ……お兄ちゃんたち、聞いてくれる?(胸元から便箋をとりだすも、取り出す際に衣類の内側を計算された角度でカメラに誇示する)
  『本当に、今回の無反応は身に染みました。最上のクオリティをお届けしたい一心で、他意はございませんでした。みなさまの求めるものと私が良いと感じるものは、もはや致命的にズレてしまっていることを痛感します。よって、自戒をこめた次回の(少女、突然手紙から顔をあげて爆笑する)更新からは次の七ヶ条をまもり、読みやすく、みなさまに愛されるnWoへと回帰いたす所存です。
 わたくしこと、小鳥猊下は、
 1.一文を短くします。動詞は修飾関係を含め、二語にとどめます。読点は一つまでにします。また、同文中に複数の主語を持ちません。
 2.改行を増やします。できるだけ、句点ごとに改行します。
 3.難解な漢語を用いません。ひらがなにひらくか、あるいは中学生レベルの語彙で理解できる平易な英語のカタカナ表記で言い換えます。
 4.会話を増やして、地の文を減らします。また、マンガ的な擬音を挿入することで場面に臨場感を加えます。
 5.新奇さを追求しません。ヒットする歌謡曲の条件である「どこかで聴いたような」を至上の目標とします。人名や地名の策定には、神話辞典などを用います。
 6.万物に対して肯定的に考える姿勢を貫き、読み手を不安にさせません。否定的な意見や場面を挿入した場合も、後に肯定的なものへ必ず転換しますので、安心して最後までお読み下さい。
 7.養育者へ常に感謝の意を表明し、攻撃することは二度といたしません。
 以上、みなさまにおかれましては流感などに気をつけつつ、お時間に余裕のあるときだけ、鼻毛や臍の下を抜いても抜いても無沙汰がまぎれないようなときにだけ、当サイトを流し読みくださればと思います。かしこ。二伸。まったく、萌え画像ってやつはハードディスクにとって邪魔にならない存在ですね』
  (襞の入った洋装の少女、便箋を胸にかきいだく)かわいそう! あたし、かわいそう……ッ! お、お父さんとお母さんを大切にッ! ファーザーアンドマザーをインポータントにぃぃぃィッ! あーんあん、あん」
 少女、どしーん、という擬音を口にしながら床へ倒れこむと、大泣きに泣き出す。
 しばらくして顔を上げ、ちらりとこちらを見る。まだカメラが回っていることを知ると、床に顔を伏せ、前にも増した大きな声で泣きわめく。
 「(嬌声ともとれる抑揚で)あーんあん、あん。あーんあん、あん」

リライト版少女保護特区(5)

*はじめに
 今回の更新は「五十六万ヒット御礼小鳥猊下基調講演」での声明を元に書かれた、「少女保護特区(5)」のリライトバージョンです。ご要望やご不快に思われる点がございましたら、ただちに改変いたしますので、遠慮なくおっしゃってください。
 最後に、これまでみなさまの味わわれた心痛に対して、nWoスタッフ一同、心から謝罪いたします。本当に、申し訳ありませんでした。
「あ……」
 さくら色のくちびるから吐息のような声をもらして、少女が目をあける。
 ほおにはひとすじ、涙のあと。
 どうやら、かなしい夢をみていたようだ。
 ぼくは親指でやさしくほおをぬぐってやる。マシュマロのようなやわらかさが、おしかえしてきた。
 さりげなく、はだけた両脚にスカートをおろしてやりながら、そっとたずねる。
「夢を見ていたの?」
 ぼんやりとみひらかれた少女の瞳に、焦点がもどってくる。
「こわい夢をみていたの」
 安堵の表情が、ふたつの泉に満たされてゆく。
「ヨくんがいなくなってしまう夢……あたし、ヨくんがいなくなったら、きっと胸がさけて死んでしまうわ」
 ぼくはほほえみながら、少女のひたいをかるくこづく。
「そんなこと、口にするもんじゃないよ」
「だって、ほんとうにそう思ったんですもの」
 少女は心外だ、とばかりに口をとがらせる。
「言葉にしたことは、本当になってしまうからね」
 感じやすい瞳が、みるみるうちにうるんでゆく。
「あたし、もうぜったい言わないわ。だってほんとうにこわかったんですもの……」
 しゅんとして、肩をおとす少女。
 お灸がききすぎたかな、とぼくはすこし後悔する。
「だいじょうぶだよ、ムンドゥングゥ。ぼくはずっときみのそばにいるから」
「ほんと? ぜったいぜったい、ほんとうに?」
 ムンドゥングゥが目をかがやかせる。
「ああ、ほんとうだよ。ぜったいぜったい、ほんとうだ」
 この先、どうなってしまうかなんて、だれにもわからないけど――
 いまの言葉だけは、ほんとうだ。
「ねえ、ヨくん」
 安心したのか、ムンドゥングゥがあまえた声をだす。
「ひとつおねがいがあるの」
 うわめづかいにみつめてくる少女に、ぼくはうろたえてしまう。
「ぎゅーってして、いい?」
 だきつきたいとき、いつもこうやってきいてくるのだ。
 なによりぼくの心臓のために、いつもははぐらかすんだけど――
「いいよ」
 罪ほろぼしをしたいような気持ちになって、うなずく。
 ムンドゥングゥはおそるおそる、といったようすでぼくの背中に両手をまわした。
 最初は、天使のようにかるく。
 それから、息がくるしくなるほどきつく。
「ち、ちょっと、苦しいよ、ムンドゥングゥ」
「だって、まだ夢がさめてなかったらどうしようと思って」
 ムンドゥングゥが、ぼくのシャツにうずめた顔をあげる。
 あんまりつよく顔をおしつけすぎたのか、ほおにボタンのあとがついている。
 ぼくは思わず苦笑してしまう。
 そこぬけの無邪気さに、なんだかまた、からかいたいような気持ちになる。
「もしかしたら、まだ夢の中にいるのかもしれないよ?」
「あら、それはないわ」
 ムンドゥングゥはうけあってみせた。
「だって、ヨくんのにおいがするもの。夢の中ではにおいなんてしないでしょう?」
 とつぜんのふいうちに、顔が熱くなっていくのがわかる。
「ムンドゥングゥ、ヨくん、晩ごはんができたわよ。冷めないうちに食べにいらっしゃい」
 リビングから救いの声がかかる。
 ぼくは顔を見られないように、たちあがった。
 ムンドゥングゥは、すっと、手のひらをぼくにすべりこませてくる。
 きっと愛らしいその顔には、いたずらな笑みが浮かんでいるのにちがいない。
 ぼくの名前は予沈菜(ヨ・チャンジャ)。大陸うまれの日本人だ。
 ワケあって、ムンドゥングゥの家にいそうろうをさせてもらっている。
 グウーッ。
 1ぱい目のごはんを食べたのにもかかわらず、ぼくのおなかが音をたてる。
 くすくすと笑いだすムンドゥングゥ。
「育ちざかりですものね。好きなだけ食べていいのよ」
 ためらうぼくの茶碗へ2はい目をよそってくれた美人は、ムンドゥングゥのお母さん。
 ほとんどムンドゥングゥとかわらない年にみえる……と言ったらいいすぎだけど、すごくわかくみえるのはほんとうだ。
「そのとおり! 私がきみくらいのときは、どんぶりでかるく4はいは食べたものさ」
 がっはっはっ、と豪快に笑いながらわりこんできたのが、ムンドゥングゥのお父さん。
 あさ黒い健康そうな肌は、テニスのインストラクターをしているからだ。現役時代は、ずいぶんとならしたらしい。
 ふたりともいそうろうのぼくに、ほんとうによくしてくれる。食卓ではなんとなくだまってしまうけど、それは気まずいってわけじゃない。幸せな家族の時間を、ぼくなんかが邪魔しちゃわるいような気になるからだ。
「む、どうした。すこしもごはんがへっていないじゃないか」
 娘の茶碗をみとがめて、お父さんが心配そうに顔をちかづける。濃い眉毛のかたちがムンドゥングゥとそっくりで、ふきだしてしまう。
「うん、なんだか胸がいっぱいで、のどをとおらなくって」
「むかしから、この子は食がほそかったから」
 手のひらをほおにあてるしぐさがかわいらしいお母さん。
「生まれたときもふつうよりちいさくって、小学校にあがるまでバナナをはんぶんしか食べられなかったのよ」
 ぼくを見ながら、苦笑する。
 たちまち、ムンドゥングゥがまっかになった。
「もう、お母さん! ヨくんの前でそんなこと言わないでよ!」
 お父さんとお母さんが、ほう、と声をあげた。そしてふたりで顔をみあわせて、意味深な目くばせをする。
「あー、母さん。ヨくんの茶碗がもうあいているじゃないか。山もりにしてあげなさい、山もりに」
「はいはい」
 お母さんがふくみ笑いを隠しながら、炊飯器をあける。
「あら、やだ」
 両手をほおにあてるしぐさが、妙にかわいらしい。
「白いごはんがもうないわ」
「なんだ、もっと炊いておかなかったのかい?」
「ほら、うちはムンドゥングゥひとりでしょう? 十代の男の子がどのくらい食べるのか見当がつかなくって」
「そいつは困ったな」
 心の底から困ったという表情で、腕組みをするお父さん。筋肉がもりあがっている。テニスのインストラクターというよりは、重量上げの選手みたいだ。
「いいわ、ヨくん、あたしのをあげる。だってきょうはもう食べられそうにないから」
 茶碗をさしだすムンドゥングゥ。
「あげるって……半分も食べてないじゃないか。もうすこし食べなよ。のこったときに、もらってあげるからさ」
 ぼくの言葉に、ふるふると首をふる。
「ううん、もうきょうはごはんがはいる場所がないの」
 手のひらで胸をおさえながら、ほほえんだ。
「だって、しあわせで胸がいっぱいなんですもの」
 なんのくもりもない、とびきりの笑顔。
 ぼくはまたしてもふいをつかれ、ごはんをうけとってしまう。
「なんだ、しあわせで食べられないなら、この家じゃ、飢え死にするしかないぞ」
 がっはっはっ、とお父さんが笑う。
「じゃあ、ムンドゥングゥがすこしでも食べてくれるように、おこづかいをへらしましょうか」
 おっとりと、お母さんが加勢する。
「もうっ、またふたりでからかってるでしょ!」
 にぎやかな家族のやりとりを聞きながら、ぼくはなんだかみちたりた気分でごはんを口にはこぶ。
 あ。
 これもやっぱり、間接キスになるのかな?
「ちょっと仕事をもちかえってるんだ。顧客のリストを明日までにしあげなくちゃならない。おそくなると思うから、母さんも先に寝てていいぞ」
 早々に食事をきりあげると、エクセルは苦手なんだよと頭をかきながら、お父さんは二階のじぶんの部屋へひきあげてしまった。
 テーブルにはムンドゥングゥの焼いたパウンドケーキが、半円だけのこっている。
 ずず、と日本茶をすする。濃いめに煎れるのが、この家の流儀みたいだ。
 どうやら、すこし食べすぎてしまったらしい。ときどきこみあげるおくびに、食べものがまじってる気がする。
 からだはすっかり重いが、気分は上々だ。ソファに身をあずけながら、やくたいもないテレビ番組をながめるのも、これはこれでわるくない。
 とくに、かわいい女の子といっしょならね。
 ムンドゥングゥがぼくのおなかを枕がわりにして、横になっている。クジラがぐるぐるまわる音がするよ、とつぶやきながら、目はとろんとしている。
 ときどき、かくっと首がおちて、いまにもねむりそうだ。ねむったムンドゥングゥをベッドにつれていくのが、最近ではぼくの日課のようになっている。
 いとしさにたまらなくなって、そっと、ちいさな頭に手をおこうとしたそのとき――
 ドーン。
 天井から大きな音がした。
 おどろいたムンドゥングゥが、猫のようにはねおきる。
 ドーン。またひとつ。
 そして、しずかになった。
 顔をみあわせるぼくとムンドゥングゥ。
 耳をすませると、ぎしぎしという音とともに、天井から細かなほこりが落ちてくるのがわかる。
「お父さんの部屋だわ」
 言うがはやいか、ムンドゥングゥはかけだしていた。
 お父さんのことが心配なんだろう。なんて親孝行な娘なんだ。
 思わず感動して、うんうんとうなずいてしまう。
 が。
 ぼくは事態を思いだすとはっとして、あわててあとを追った。
「お父さん、あたしよ、ここを開けて!」
 ちいさなこぶしをふりあげて、ムンドゥングゥが扉をたたく。
 涙をいっぱいにためて、階段をあがってきたぼくにすがりついてくる。
「たいへん、お父さん、くるしそう。どうしよう」
 扉に耳をあてると、たしかに苦しそうなうめき声がする。
 ドアノブをまわそうとするが、内側からロックされているらしい。
「すこしはなれていて」
 ドカッ。
 ムンドゥングゥをさがらせると、扉にキックする。
 足はじーんとしびれるが、びくともしない。
 さらに大きく助走をつけ、2発目のキックをおみまいする。
 ドカッ。
「は……づッ……」
 全身の骨が軋み、砕ける音。
 灼けるような塊が喉めがけて駆け上がる。
 やはり、僕では無理なのか。失望より先に浮かぶのは、自嘲。
 はは、最後の最後まで、ダメなヤツだ。いつだってオマエは途中で諦めちまう。
 そして、途切れゆく意識の中で浮かぶのは――
 儚げな、ムンドゥングゥの横顔。
 右手を壁面に喰い込ませ、爪の剥げる痛みに我を踏み止まらせる。
 ゴクリ。僕は味蕾を浸す熱した海水を飲み下した。
 まだだ、まだだ。
 いま、ここで倒れたら――
 誰がムンドゥングゥを助けられるっていうんだ!
 オマエはこんなものか! 弱い自分を叱咤する。
 俺は知ってるぜ、オマエはこんな程度じゃないはずだろ?
 力を出せ!
 力を出せッ!!
 枯れた井戸の底が割れ、奔流の如くエネルギーが吹き上がるイメージ。
 精度を上げる視界。およそ、人の視力では有り得ない程の――
 扉の木目に沿って、黄金の光線が走る。
 僕はすでに、“それ”が粉々に爆ぜる未来を“知って”いた。
 一度は砕けたはずの右足に、再びパワーが漲ってゆくのがわかる。
 確信という名のボルテージは、いまや最高潮だ。
 そして、3発目のキック。
 ズボアァッ。
 それは名称を同じうするだけの、全く別次元の技と化していた。
 バリバリバリ。
 音の壁を遥か置き去りにする速度。
 金剛石を粉砕せしめる莫大な威力。
 がつッ。
 なんと、扉は健在。
 だが、技の威力も減衰していない。
「当てがはずれたな! 悪いが、俺のキックの半減期は二万四千年だぜ!」
 僕は頭の中だけで考え、実際言ったことにした。
 その方が気分が盛り上がって、遥かにパワーが増す気がするからだ。
 最初の衝撃波は堪らず水平方向へ逃げ、中規模な地震の如く家屋を揺籃せしめる。
 やがて扉の硬度と技の威力が同等のエネルギー波として干渉し合い、傍目には完全な均衡を生じる。
 だが、分子レベルの振動は静電気を生じさせ、それはやがて複数のボール・ライトニングと化して扉と僕を取り囲んだ。
 正に、天然の要害。ここからは鼠一匹、逃げられない。
「小癪な童め!」
 僕は自分で言って、扉が言ったことにした。
 その方が気分が盛り上がって、遥かにパワーが増す気がするからだ。
 僕はニヤリと嗤う。
「さて――もう暫くだけお付き合い願いますよ」
 こうなりゃ、もう技は関係ない。相手さえ関係ない。
 肉体と魂の全てを盆に乗せて、神サマに裁定してもらうだけだ。
 俺と扉――
 どっちが上?!
「うおおおおーッ!」
 メリメリメリ、ズドーン!
 予想に反して、ちょうつがいだけがふきとんだ。
 廊下に女の子座りで雑誌を読んでいたムンドゥングゥが、顔をあげる。
「お父さん、しっかりして!」
 倒れた扉をふみつけに、部屋へとびこんでゆく。あとを追うぼく。
「きゃあ!」
 そこには、しんじられない光景――
 お尻をまるだしにしたお父さんが、ベッドで茶髪の女の子にのしかかっていたのだ。
 ちいさくふるえるムンドゥングゥを、まもるようにだきかかえる。
 ぼくはふたりをキッとにらみつけた。
 お父さんはおどろいた顔で、こまかく腰をうごかしている。
 女の子はといえば、まだらに茶色くなった髪の毛に、よれよれの制服。まるで野良犬みたいだ。
 お父さんのうごきにあわせて茶色い髪をばさばさとゆらしながら、めるめるとメールをしている。
「あなた、いったいこれはどういうことなの!」
 げ、まずい。
 うしろには、まっさおになったお母さんがママレモンの泡もおとさずに立っていた。
 わなわなとふるえ、手にもったお皿がまっぷたつに割れる。
「ちかごろ、すっかりごぶさたと思ったら、こういうことだったのね! わたしをだましていたのね!」
「ち、ちがう、それは誤解だ」
 さすがに、腰のうごきをとめるお父さん。
「誤解も六階もないわ。もう、りこんよ! りこんよ……」
 エプロンに顔をうずめながら、お母さんは背をむける。
「待つんだ、グィネヴィア」
 声のトーンが変わっている。
 お母さんの肩がびくり、とふるえた。
「まだ、わたしをそう呼んでくれるのね、アーサー」
 前をまるだしにしたまま、お父さんがベッドを降りる。
「どうかわかってほしい。わたしにとって、おまえは神聖すぎる誓いなんだ。あまりにも清らかで、わたしぐらいでは汚すことのかなわない。わたしの汚れを、おまえに注ぐなんて、おお、考えるだに恐ろしいことだ」
 涙を流しながら、お母さんがひざまずく。
「ああ、ああ、あなた! 浅はかなわたしをゆるしてください! あなたの苦悩を知らず、毎晩を売女に注がせていたわたしの愚かさをゆるしてくださいますでしょうか? そして、お願いします、どうかわたしを抱いてください! わたしはあなたに高められこそすれ、汚されるだなんて思ったこともありませんわ!」
 ふたりは熱烈に抱きしめあうと、みているぼくたちのほうが赤面するような口づけをかわした。
 お父さん――いや、アーサーはグィネヴィアをかかえあげると、優しくベッドへ横たえた。
 そう、まるでナイトがプリンセスにするように。
「ねえ、ふたりだけにしてあげましょう……」
 ムンドゥングゥが微笑んだ。
 なぜか、とてもさみしそうな微笑みだった。
「ほら、あなたもいっしょにいくのよ!」
 そう言って、茶髪の女の子の手をひっぱる。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
 伝説の王と王妃は、千余年の流浪を経て、いまお互いの正統な持ち主の元へと還ったのだ。
 剣が必ず、収まる鞘を持つように。
 ぼりぼりと茶色い髪をかきまわしながら、女の子がごちる。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
 聞こえないふりをした。
 夜の戸外は、夏だというのに冷気をふくんでいて、ほてった身体に心地いい。
 かすかに聞こえるのは、アーサーとグィネヴィアのむつみ声だろうか。
「そんなに走るとあぶないよ」
 はしゃぐムンドゥングゥに声をかける。
「だって、夜のおさんぽなんて、ほんとうにひさしぶりなんですもの!」
 スカートに風をはらませて、くるくると回転する。
「わたし夜ってだいすきだなあ。だって、もうあしたがはじまってるみたいで、なんだかワクワクするの。ヨくんは、そんなふうに考えたことない?」
 ぼくはちょっと考えて、
「ないなあ。明日がこなければいいっておもうことは、むかしよくあったけど」
「ふーん、フコウだったんだ」
「どうかな。いや、幸せだったことがなかったから、不幸だってわからなかっただけ」
「あたしもフコウってよくわからなかったけど、いまはちょっとわかるかな」
 後ろに手をくんだムンドゥングゥが、小石をけりあげるしぐさをする。
 そして、とてもちいさな声で、
「ヨ君がいなくなったら、あたしはフコウになると思う」
 聞こえた。
「え、なんて言ったの?」
 でも、ぼくはいじわるに聞き返してみる。
 みるみるまっかになるムンドゥングゥ。
 不自然に視線をうろうろさせてから、
「あ、公園だわ!」
 言うがはやいか、駆け出してゆく。ぼくはあわてて追いかける。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
 聞こえないふりをした。
 公園の入り口で、ぼくは思わずたちどまる。
 遠くからみるムンドゥングゥが、すごくきれいだったから。
 茶髪の女の子がぼくの背中にぶつかってくる。ひじをつかって、邪険にふりはらう。
 ムンドゥングゥは、ブランコのくさりに手をかけて、表情をゆるませる。
「ブランコって、ひさしぶり。ちょうど向こうに小学校があって、子どものころは帰りによく乗ったんだけど」
 手についた赤さびに鼻をちかづける。
「そう、このにおい。鉄のにおい。なつかしい……ねえ、ちょっとすわっていかない?」
 ふたりの女の子にはさまれて、ぼくは真ん中のブランコに腰かける。すこしきつい。
 でも、ムンドゥングゥにはちょうどいいみたいだ。
「あたしってば、あんまり成長してないのね」
 深夜の公園で、ブランコに腰かける3人。はた目には、いったいどんな関係にみえるのだろう。
 遠くの外灯にはセミやかぶと虫がかんちがいをして、ぶんぶんととびまわっていた。
 しばしの沈黙のあと、ムンドゥングゥが話しはじめる。
「あたし、ひとりっ子じゃない? お父さんとお母さんはとってもだいじにしてくれたけど、ずっとふたりのあいだには入れないような気がしてたなあ」
 ぼくはなにも言わずに、さびしげな横顔をみまもる。
「学校の友だちでも、3人いるといつのまにか、なんかひとりあまっちゃうでしょ。あんな感じ。お父さんとお母さんが結婚して、あたしが生まれたんだから、あたりまえなんだけど、なんだかあたしだけ遅れてきたみたいに思ってた。――おたふく風邪で4月に1週間くらい休んだことがあって、クラスにもどったらみんな仲良くなっちゃってて。ぽつんとひとり座ってたら、お弁当のときとか呼んでくれるんだけど、みんなが楽しそうにしてるのを見てると、もう遅れたぶんはぜったいとりもどせないんだなあ、って――わかんないよね」
 下を向いて、はにかんだように微笑む。
 こんなに長く、ムンドゥングゥが自分のことを話すのをはじめてきいた気がする。
「わかるよ」
「ほんと?」
 ぱっと顔を上げると、まるで花がさいたようだ。
「それとも、同情してる?」
「ぼくは4月に、水ぼうそうで休んだ」
 鈴のようにころころと笑いだすムンドゥングゥ。よかった。
 となりでは茶髪の女の子がくわえタバコで、カチカチとメールしている。
 視線に気づいたのか、顔をあげると、
「ねー、あちし、まだおカネ……ぐほッ」
 みぞおちに肘を突きこみ、吸いさしのタバコをとりあげる。これは間接キスじゃないな。
 肺いっぱいに煙を吸いこむ。にがい。
「いけないんだ、不良みたいなことして」
 あんまりきれいな告白に、ぼくは自分を汚したいような気持ちになったのだ。
 アーサーの言葉が、よくわかる。
「わたしねえ」
 ちいさくブランコをこぎながら、ムンドゥングゥがいう。
「ヨくんがいっしょにいてくれるとね、がんばろうって思えるの。もちろん、身長とか、胸がちいさいこととか、がんばってもダメなことはあるけど、がんばったら変えられるところは、がんばろうって」
 ほっそりとした足がまげのばしされるたび、ブランコは大きくゆれうごく。
「だれかのことを考えたとき、ひとりのときよりも力がでるって、すごいことだよね」
 ぼくをほんろうするように、声が前と後ろからきこえる。
 それはぼくも同じだよ。
 思ったけれど、声にはださなかった。なんだかこわいような気がしたから。
「あーっ!」
 突然すっとんきょうな声をあげて、ブランコをとびおりるムンドゥングゥ。
 声の大きさよりも、ころばずにひらりと着地したことへおどろくぼく。
「わたし、すっごいことに気がついちゃった!」
 一筋の月光が、ムンドゥングゥの額から顔に流れる。
 紅潮したほおは、夜の底でかがやく星のようだ。
 ぼくはなんだか泣きたいような気持ちになって、やさしくたずねる。
「なにに、気がついたの?」
「あのね、お父さんとお母さんも、はじめは他人どうしだったんだよ!」
 言いたいことがわからない。
 ムンドゥングゥはおかまいなしで、興奮のきわみ、といったかんじで手をふりまわして力説する。
「だからね、家族って、他人どうしが作るものなんだよ。だからね、わたしたちが家族になっても、ぜんぜんふしぎじゃないんだよ! これって、すごい発見よね! カクメイテキだよね!」
 ずきり。
 痛ましいような想いが胸にささる。ムンドゥングゥは何もわかっていないのだ。
 革命っていうのは、これまでにあるぜんぶを捨てること。たとえば、ぼくが大陸に捨ててきたぜんぶを、 ムンドゥングゥは知らない。
 いずれこの世界の悪にであったとき、ムンドゥングゥの純粋さは手ひどく傷つけられてしまうのではないだろうか。あまりにも信じすぎるこの純粋さは、いつかムンドゥングゥを殺してはしまわないだろうか。
 ――だから、おまえがいるんだろ?
 ぼくはおどろいて、あたりをみまわす。
 ――そのために、いたみ、くるしみ、よごれてきたんだ。
 それは、天からふってきたような言葉だった。
 なのに、ぼくの胸の真ん中へ、すとんと落ちた。
「こらっ! こんなおそくに子どもがなにやってんだい!」
 ぼくたちは、いっせいにふりかえる。
 公園の入り口で、むらさき色のパーマをかけたおばさんがぼくたちをにらみつけていた。
 ピンクのネグリジェを着て、手にはなんと金属バットがにぎられている。
「たいへん!」
 ムンドゥングゥが大きく目をみひらいて、両手を口にあてる。
「逃げましょう!」
 言うがはやいか、駆けだしている。ぼくはあわてて追いかける。
 ぼくの人生の先を素足でかけていく少女。
 どちらがどちらをみちびいているのか。
 もしもころんだら、そのときは優しく抱きしめてあげよう。
 ぼくは少女のナイト。
 このいのちは、すでにプリンセスへささげられている――
「このへんで民生委員やってるマスオカってんだけどね。アンタ、変わってるね。逃げないのかい?」
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」

小鳥尻ゲイカ

――今日のゲストは、女優の小鳥尻ゲイカさんです。
 小鳥尻(以下、尻):(仏頂面で)どもー。
――さっそくですが、今回なぜあのような更新をなさったのですか? そこに至る心理状況といいますか、経緯をお聞かせ願えますでしょうか?
 尻:(そっぽを向いて)別に……。
――何か、昔からのファンへの裏切りだとか、そういう声も聞かれますが……
 尻:(激昂して)ウルセエよ! うちあわせと内容がちがうじゃねえか! そのことには触れないんじゃなかったのかよ! オイ、カメラとめろ!
――落ち着いてください、生放送中ですから。ファンへの謝罪の言葉はないのですか?
 尻:なま……(小声で)ちくしょう、いつもアタシをそうやって罠にハメやがんだ……(沈黙。ふるえる手で前髪をかきあげながら)オタどもの喜ぶようなものを書こうと思ったんだよ。奇抜な名前で精神遅滞のガキがする情緒たっぷりの世迷言や、神話の世界観を借用した奥行きのゾッとするような遠浅ぶりや、自動化された物語のする白痴的精神愛撫をオタどもにブチこんでやりたかったんだよ!(無理に笑い声をたてる)
――ごうごうたる非難を聞けば、その試みは少なくとも成功したとは言えないと思いますが?
 尻:(びくり、と身体をふるわせて)も、萌えやら、ね、熱血やら、オマエらがオッ立つ要素はなんでも入ってんだろがよ! ぜんぶタダで読んどいて文句言うなんてよ、不法侵入の上で狼藉・乱暴しながら戸締りについて説教する強盗と変わらねえよ! ちがうかよ!
――(さえぎって)読者の方から一通のメッセージが届いていますので、読みあげさせていただきたいと思います。『私たちが変わってしまっても、貴方だけは変わらないでと、そう思うのは私たちのエゴなのでしょうか』。いかがですか? 真摯なファンの姿勢に、少しでも反省の気持ちは生まれませんか?
 尻:ケッ、ソープに沈んだ昔のオンナにかけるブンケイの寝言じゃねえか。テメエが身請けしてやらねえから、生活のために仕方なくお客とってンだろ? それ、「ぼくには経済力がなく、そしてきみには処女膜がない」って意味でしょオ? ちがうのオ?(馬鹿笑いする)
 画面の外でサングラスの男が「もっと挑発して」と書かれたカンペを掲げる。目の端でそれを見るインタビュアー。
――では、私の感想を述べさせてもらいますと、しかし重度の萌え不自由でしたね(笑)。
 尻:(頭髪の薄い男があの単語を言われたように、顔面を硬直させる。何か言おうとして、泣き出す)ひっく、ひっく……ひどいじゃないの……わかっててアタシにそれを言うなんて……なにさ、かってにキレキャラみたいにあつかってさ……きょうだって、アタシがあばれだすのをみんなニヤニヤしながら待ってんでしょう? アタシ、女優なのよ……ネット界のおさわがせである前に、女優なの。でも、いまじゃ女優だからキレるのをゆるしてもらってるんじゃなくて、キレるから女優をやらせてもらってるみたい……こんなのって、ないわ……ないわよ……(両手に顔をうずめると、すすり泣く)」
 インタビュアー、当惑してサングラスの男を見る。サングラスの男、身体の前で両腕をクロスさせながら、口パクで「つかえない」と言う。
――小鳥尻さん、ご自分で招いた結果です。泣いたってしょうがないでしょう。ほら、これ使って。
 尻:ありがと……(ティッシュで鼻をかむ)バカだね、アタシ。オンナが泣くのって、サイテーだね。なんだか、ゆるしてくれって甘えてるみたいでさ……。
――落ち着かれましたか? みなさん、小鳥尻さんの言葉を待ってますよ。
 尻:(前髪をかきあげる。鼻の頭が真っ赤である)あー、なんか、昔のこと思い出しちゃったわ。中学のときさ、ちょっとからかうと、ムキになってキモい反応するデブがクラスにいてさあ。イジメ、だったのかな、あれ。みんな、ソイツになら、なに言ってもいいってフンイキだったワケ。んでさ、国語の時間にウザいセンセーがさ、クラスの前で作文とか読ませんのよ。はは、ムナゲってあだ名だったわ、そういや。中身は忘れたけど、将来の夢とか希望とか、きっとそういう漠然と前向きなヤツ。みんなジブンの番が心配だからさ、まばらな拍手とか、ユルい冷やかしとかに終始すんの。もっと正直に意見を交換していいんだぞって、ムナゲがさ。公立だったし、ただ同じ地元だってだけで集まってる連中が、おたがいに深いとこまで通じるハナシなんて、そもそもできっこないじゃん。オカマバーにノンケをつれてってゲイの話をさせるって例えなら、だれだってムリだってわかんのにサ。でもまあ、ガッコってそういうトコだしね。でさ、毎時間、何人かずつ発表してってさ、ついにソイツの番になったワケ。ナニしゃべってたのかは忘れたけど、その日はみんなでしめしあわせてさ、黙って下向いてたの。クラス全員で。発表が終わっても顔あげずに、ただヒジでつつきあったり、クスクス笑ったり。そんで、これは一番うしろに座ってたアタシの役目だったんだけど、頃合いにとびきり大きなため息をついたわけ。ハーッ、って。そしたらさあ、ソイツ、いままでになかったくらい、ものスゴイ逆上しちゃってさあ。教卓を蹴りたおして、アタシのほうめがけて突進してくんの。さいわい、他の男子がとりおさえたけど、まえに座ってた女の子がひとり、倒れた教卓でおデコをケガしちゃってさ。結局、ソイツひとりだけ停学くらうことになるワケ。なんであんな怒ったんだろ。あれは、あと味わるかったわ……(内側へ沈み込むように、小声で)なんであんなに、怒ったんだろ……」
 サングラスの男、空中をチョップする真似をしながら、口パクで「切って切って」と言う。インタビュアー、細かくうなずく。
――(わざとらしく腕時計に目を落としながら)えー、時間も残りわずかとなってきたようです。最後にファンへ一言だけ、お願いできますか?
 尻:(聞こえていない様子で、ひとり言のように)アタシさあ、前にダンナに不倫されて殺すとこまでいっちゃう役やったことあんだけど、最近なんかそのことばっか考えるっていうか、すごいよくわかんだわ。内助の功ってえの? 影で支えてたダンナがさ、どんどん社会的に立派になってってさ、気がついたら築いた地位を利用して別の若いオンナつれてんの。当時は、なにこのうすっぺらなハナシって思ってたけど、いまは想像するだけで目の前が真っ赤になる感じがする。日の当たらない場所で耐えてきたアタシはどうなんのって。アンタは表の顔だけして生きてるけど、アタシがアンタの下着まで洗ってんだって。アタシがアンタの汚い部分をぜんぶ引き受けてきたから、いまのアンタのきれいな成功があるんだろって。だから、nWoの閉鎖が決まったりしたらアタシ――(臍を噛んで、三白眼で)きっと殺すと思うな……」
 サングラスの男が台本を放り投げると、スタッフが撤収を始める。セットから順番に照明が落ち始める。インタビュアー、ソファへぐったりと身体を投げ出す。
――(興味を失った様子で)だいじょうぶですよ、たぶん、どうでも。
 尻:(険のとれた表情で)あー、泣いて愚痴ったらスッキリした。なんだって出すとスッキリするのは、動物らしくてイイね。(立ち上がり)ゲイカ、次からはいつもどおりがんばります。みんな、心配かけてゴメンナサイ、てへっ(頭を下げ、舌を出す)。
――(失笑して)がんばるって、萌えを、ですか?
 尻:(瞬間的に血涙が吹く)ブワッハッハーのハー!! けっきょく、アンタたちはアタシのこれが見たいだけなんだね!!
 小鳥尻、インタビュアーの胸ぐらをつかむと、ともえ投げに投げ捨てる。テレビカメラは激突したインタビュアーごと倒壊し、画面は大音響とともに横倒しになる。サングラスの男、小さくガッツポーズをとると、スタッフに指示を出す。セットに照明がもどる。しらけた雰囲気から一変、にわかに活況を呈する現場。
 お茶の間のテレビ画面。ガラスのテーブルにヒールで仁王立ちになり、何事かを宙空に向けて絶叫している小鳥尻ゲイカの口から、炎のCGエフェクトが発している。かぶせるように、怪獣の鳴き声。流れる血涙は、水色に塗りかえられている。BGMにはドリフのコントでオチに用いられる、例のスラップスティックな曲が流れている。大爆笑のお茶の間。
 「ああ、よかった! メンタルヘルスみたいな告白を始めたときにはどうなるかと思ってドキドキしたけど、やっぱりゲイカ様ね! いつだって最後の最後には、私たちの期待どおりまとめてくれるわ!」
 「(あからさまに戯画的な白人が流暢な日本語で、しかし英単語だけは極めて英語的な発音で)おっと、そこの君! そうそう、顔の造作に問題がないとは誰にも断言できない、ふくよかな脂肪の、そこの君のことだよ! もしかして、nWoがまた、死なない程度のヘルシー・リストカット、予定調和の大暴れで、従来の自閉路線に戻ったと安心してるんじゃないのかな? ノンノン、nWoの未来はいまだにたゆたっている……(雑木林が風になびくときのような擬音)。このウェブ2.0時代にいつまでも昔ながらのテキストサイト的運営じゃ、(そうでないことを確信する口調で)取り残されてしまうからね! 今回、nWoは来訪者のみんなへ向けたアンケートを実施することにしたよ! ホームページはインタラクティブ性が重要だからね、LDゲームのようなね! もちろんキミの匿名は完全に守られるので、「こんな下品なのが好きなんて、私ってやっぱりエッチなのかな?」と性に臆病な女性読者もひと安心だ! nWoの今後の方向性について、忌憚のない意見を聞かせてくれたまえ! なんの権威による裏づけもない、こんな場末の泡沫サイト、どっちに転んだところで人類は滅亡しないって寸法さ(腹を抱えて爆笑する)! (目尻の涙をぬぐいながら、真顔で)アンケート回答者が規定数に達しない場合は、ノーコンテスト。(暗い声で)そのときは、閉鎖します」

センサス at nWo概評


 スーツに身を包んだ女性がヒールをカツカツいわせながら、舞台端の緞帳から現れる。同時に、舞台中央からマイクがせりあがる。
「アクセス数200/1日程度の弱小サイトで、アンケート回答数50を超えなければ閉鎖を行うと宣言した小鳥猊下。その無謀な挑戦も、同一人による複数回答というコロンブスの卵を得、ついに達成の朝を迎えた。胸をなでおろすnWoスタッフ一同、握りつぶされるIPアドレス一覧。気を良くした小鳥猊下はnWo社の次世代マーケティング部門にアンケート結果の分析を依頼する。500ページに及ぶ分厚の分析資料すべてを(顔を赤らめて)か、開陳することはおよそ150人の文盲を含んだ来訪者に対し、あまりに過大な要求にすぎはしまいか。苦悩する小鳥猊下は一晩のうちに分析結果を愉快な漫談形式に書き下ろし、臣下へ下賜することを決められた。おお、いと高き小鳥猊下、我々の膣に生まれた隙間がその御言葉で充填されんことを!」
 一礼すると、ヒールをカツカツいわせながら舞台端の緞帳へ消える。
 舞台の右端と左端からそれぞれ、ワンレンボディコンとしか表現できない時代錯誤の異装をした女性と、重たそうな布地の襞に埋もれた洋装の少女が、前傾姿勢で拍手をしながらマイクへとかけよってくる。
「どもー、小鳥尻ゲイカでーす」
「どもー、名も無き少女でーす」
「オイオイ、きみ。名も無き少女って、それごっつ言いづらいわ。インターネットの匿名掲示板とちゃうねんで、ここ。クオリティ・ホームページやねんで。本名はなんていうねん」
「あの、あたしのこと、コーデリアって呼んでくださらない?」
「ああ、あの表面にうねがある木綿地のことかいな」
「そら、コーデュロイやがな」
「ごめん、ごめん、ボケとったわ。オレゴン州ワシントン群の……」
「コーネリアスや」
「えっ、これもちがうんかいな。わかった、昔のファンタジーRPGにでてきた王様の名前やろ」
「ええ加減にしなさい」
 洋装の少女、背中から金属バットを取り出し、小鳥尻ゲイカの後頭部を強打する。鈍い破砕音とともに白い液体と赤い液体と灰色の固体と眼球が四方へ噴射する。小鳥尻ゲイカ、顔面から舞台へ倒れこみ、尻を高くつきだした姿勢で痙攣をはじめる。洋装の少女の華麗なフォロースルー。2秒で直立の位置にハネ起きる小鳥尻ゲイカ。
「ちょ、じぶん、ツッコミが激しすぎるで。あやうく死ぬところや」
「なにゆうてんの。nWo構成体のウチらはしょせんテキストやから、死ぬのはお客さんの関心が尽きたときだけやがな」
「すっかり忘れとったわ。あんまり見事な筆致で描かれてるさかいなあ。それに、きょうの目的はアンケートの開示や。しょうもないつかみで死んだら、しゃれにもならへんで」
「せや。送られたコメントにふたりで返事してくんや。回答者は10代から30代。40代以上はひとりもおらへん。おたくの世代間断絶が浮き彫りになったかっこうやな。社会的立場は、文系仕事と理系仕事と学生がだいたい等分に入っとる。一方、20代と30代で読者の8割やから、こら計算があわんね。終わらない夏休みがまじっとるな。あと、読者の9割は男性が占めてるのが特徴や」
「あほぬかせ。内気で清楚な女性ほど、尻軽には投票でけへんのじゃ。潜在的にはもっとおるはずやで」
「ゆうとけ。送信日時の古い順に、まきでいくで。まずはこれや。『So it goes.』。うわぁ、異人さんや、ガイジンや。うち、食べられてまう、ご時勢的に」
「よっしゃ、あんたは下がっとき、年齢的に。不登校のなれの果てに海外留学へ逃避し、現地では学位も取らず主にアパートの内側で放蕩を繰り返した、英語に堪能なうちの出番やで。ユー・ファック・アナル・アフター・エレクト、オーケー? あとは塩まいたらしまいや」
「ああ、安心したわ。あんたがおってくれてほんまよかったわ」
「よしてや、そんな、親にもゆわれたことのない……」
「泣かんとって、うちが悪かったわ、泣かんとって」
「ごめんな、ほんまごめん。最近涙もろうなって、年のせいやねん」
「次いくで、しっかりしてや。『誰かが言っていましたが、詩人は救われてはいけないそうです。 たぶんぼくもあなたも、孤独と絶望とだけを道連れに生きていくしかないんでしょう。』。詩人やて。悪い気はせんなあ。自意識をくすぐるのがうまいで」
「この人、少女保護特区リライト版の方が好みって回答してはるねん」
「そんな追跡機能がアンケートに組み込まれてたんかいな。ちょっと見直したわ」
「ちゃうちゃう。アンケート結果のページで更新ボタンを押し続けて、コメントと回答者のつながりを目視確認していっただけや」
「うわー、じぶんそれちょっとひくわ。まるっきりストーカーか、そやなかったら引きこもりやん」
「もうひとり、職業欄にコピーライターて書いた人もリライト版が好きって回答してはるわ」
「なんや見透かされるみたいで、ちょっとドキッとするわ。通常版は“つこたらアカン言葉を選ぶ”更新のやり方で、リライト版は“つかう言葉を選ぶ”更新のやり方をしとるからね。スルドイわ」
「次いくな。『今後どうなってしまうか分かりませんが結末を迎えるまでnWoを見守らせて頂きたく思っております。 猊下、愛しております』」
「ゆうてるけど、みんなの関心が尽きたときが終わりどきやから、今後どうなるかはあんた次第やで」
「次。『ザ・ボイシズ・オブ・ア・ディレッタント・オタクが死ぬほど好きです。 いつか言いたいと思ってました。』」
「ギャグ漫画家は短命って話があるけど、ああゆうブラック系の更新は時間が経つとこっちへはねかえってくるねん。社会と思想と他人を無いようにコケしたら、残った我がを無いようにしない理由が見当たらなくなってまうからな」
「次。『確かにサイトの質と世間の評価(?)は不釣合いと思いますが、 何か変えたりする必要は無いんじゃないでしょうか? 私にはとてもとても面白いです。』」
「鬱のときは我がだけ見て更新できんねんけど、躁のときは気持ちが外むくから、誰かの承認なしにはいられんような感じになるねん」
「次。『萌え画像がんばります』」
「アンケートやっていちばんはげみになったんは、萌え画像を送る予定のある来訪者が5人もおったことやね。これから5枚も萌え画像が届くかと思うと、ワクワクで更新もでけへんわ」
「あんたそれ、矛盾しとんとちゃうか」
「次いけ、次」
「『すばらしい体験をいつもありがとうございます。』」
「どういたしまして。あなたこそ、いつもすばらしい孤独をありがとうございます」
「皮肉がきいとるな。『窮状なのか休場なのか分かりませんが、 私は大好きです。これからも楽しみにしてます。』」
「だれがうまいこと言えゆうた。“更新する、反応がない、落ち込む、更新しない、忘れる、更新する”がnWoの持ってる基本サイクルやからな。うちはわるないで」
「『持たざる者である私には祈ることしかできません。』。職業は、なしで回答してはったと思う」
「きみはとりあえず祈るだけでええわ。なんか積極的に動かれると、当局に押収されたパソコンからきみの愛好していたサイトとしてうちが発見されたりしそうや」
「くわばら、くわばら。『私はテキストサイトが好きなんです。 それをいちいち思い出すから、ここが好き。』」
「好きなのはあくまで“テキストサイト”としか読めないのが傷つくし、ムカつくわー」
「絶滅危惧種への哀れみやろね。『ふと思い出しては、読み返します。 過去に何度か掲示板へ書き込むべきかと思ったことはありましたが、 小鳥猊下の文章に受けた衝撃は簡単に言語化できるようなものではなく、 いい加減で空疎な賞賛の言葉など送りたくありませんでした。 ただ一言、私はnwo程文学的に見事な筆致でもって 「現代」「おたく」を真摯に捉えた文言を、ほかに知りません。』」
「まじめやな。うちもそう思う。そして、なのになぜ……という言葉が続くんや。ほんま、なんでやろ」
「『閉鎖?そんなバナナ・・・・いやいや洒落にならんやろ。』」
「あたりまえが、じつはあたりまえやないことに気づいてや。立っとるだけで人はカロリーを消費すんねんで」
「『小鳥猊下、愛しています。』」
「うちもやで。あんたが女性ならセックスしよう」
「しよう、しよう。『いつもありがとうございます。 『あの頃~の生き方をー、あなたはー忘れないで~』という ユーミンじみた勝手な思いを抱いています。 私にとってはたまに訪れて姿勢を正す場所といいますか。 “窮状”などと思わせてしまい申し訳ありません。 複数回答ができなかったので補足させてください。 パアマンの他には、 怪漢ブレイズ・小鳥の唄・ 生きながら萌えゲーに葬られ・高天原勃津矢 などが大好きです。 「こんな文章が書けたら!」と憧れてプリントアウトして 持ち歩いた時期もありますが、もう諦めました。』」
「怪漢ブレイズに一票も入ってへんかったから、ほっとしたわ。nWoみたいな文章かいても誰にも認められへんし、社会的な場ではいっこ役に立てへんから、あきらめて正解や」
「次。『長い間作品を書いていると好調不調の波が出てくる.それは仕方が無い. 「少女保護特区」は不調の作品であると思う. デキの悪い作品の評判が悪いからといって気落ちする必要はないのではと思う. 私はゲイカの作品を愛していますよ』」
「“輝く”って単語、英語で書いてみて。動詞ね」
「ふんふん」
「書けた?」
「書けたで」
「それをローマ字読みして」
「し……おっと、次いくわ。『がんばってください』」
「何を?」
「次。『ブログ形式に移行する前までの作品は全部2回以上は読んでいます。紙媒体に印刷したことはありませんが、ローカルには定期的に保存しています。今のnWoについて愚見を言わせていただけるのなら、タイトルの横に通し番号を付けるのはやめた方がいいのではないでしょうか。一見さんが(1)から読むのは敷居が高いと思います。あと、リライト版は勘弁して下さい。』」
「長いのが増えたから、通し番はしゃあないがな。いまさら新規読者が劇的に増えるとも思われへんし。劇的に増える方法があるなら、一考しまっせ」
「リライト版の方が時間かかってるんやけど……。『次の更新を楽しみに待ってます』」
「どうもどうも。萌え画像、楽しみに待ってます」
「次。『nWoが好きです。閉鎖して欲しくありません。 私を含めて、心を動かされたとしても、数行の感想も書くことのない人間が多いのではないでしょうか。甘い見返りが期待できないならばなおさらに。読み手として弱いのだと思います。』」
「こうゆう単純なうったえにぐっとくるねん。若い女性が書いてると想像して読むわ」
「nWo読者の9割は男性って統計があるで」
「あほか。内気で清楚な女性ほど、尻軽に投票できへんのじゃ。潜在的にはもっとおるはずや」
「矛盾しとるなあ。次。『届かない声を、いつでも上げています。』」
「届いてへん、届いてへん。罰としておまえは小鳥尻ゲイカ歓迎オフ会を主催せえ」
「首都圏で。次。『小鳥さんのテキストはおよそ目にする活字の中で一番好きです 読み手のレスポンスの無さに関しては、文章の完成度と崇高さが遠ざけているきらいがあるだけだと思っているので閉鎖しないでください 学生の頃から拝読していますが、ドープさを増して行く小鳥さんのテキストがどこへ収斂していくのか楽しみにしています』。職業、ベンチャーキャピタリストやて」
「カネやな。カネをもっとんのや。どこに収斂していくかなんて、そんな高尚なもんはおまへんのや。うちら、ネットの芸者商売やさかい、お客さんが呼んでくれればどこででも踊るし、こう踊れェゆうたら、そのまんま踊りますよってに。小鳥尻奴の欲しいのは、カネ、萌え画像、他者承認どすえ」
「めっちゃやらしいな、じぶん。ドープってなんやろね。次。『無理スンナよ』」
「してねえよ」
「身の丈にあったものを更新せえの意かもしれへんで。次。『小鳥さんは最高にカッコイイです。』」
「そっちの名前で呼んでくれる人もおらんようになったなあ。なんかなつかしいわ」
「『窮状なんですか?』」
「はい、それらはバナナです」
「あと少し。『わりと好きです。』」
「憎む、愛す、無視以外の選択肢があることが、すごい衝撃―」
「『他人の評価にそこまで固執するのが分からない。  芥川賞とればいいと思う、取りあえず。  ネームバリューで人が集まって、そしたらその中に本物の読者もいるのではないでしょうか。』」
「どうして父の間違った方の精子が母の卵子と結合したのか分からない。芥川賞の選考委員になってnWoを推薦すればいいと思う、取りあえず。それからプロ野球選手になって5年で二千本安打を達成すればいいと思う、取りあえず。ネームバリューで記者会見が開かれ、そしたらその中でnWoの宣伝もできるのではないでしょうか」
「どう、どう。『パアマンに衝撃を受けて以来ちょくちょく覗いてます。』」
「生きながら萌えゲーに葬られをおさえて、パアマンが一番人気なのよねー。ホームページとそれを更新する人物という枠組みに、更新されているキャラクターが接触を果たすという、シミュレーテッド・リアリティの走りみたいな展開がウケたのかもねー。世界、神、人間。次は?」
「ううん、これでおしまい」
「あら、そう。おしまい」
「オチはないの?」
「ない。考えてきたの、出オチ的につかっちゃった」
 舞台に下りる沈黙。それが不自然なほど長くなる前に、襞のついた洋装の少女が、「きみとはやっとれんわ」と金切り声で絶叫する。二人、頭をさげると、観客席におりてくる。カメラの向けられた客席は閑散としており、人はまばらである。水筒の日本茶でせんべいを湿らせて食す老婆や、スポーツ紙を顔にかけて大いびきの中年男性や、接吻とペッティングを繰り返す男女や、思いつめた表情の書生風銀ぶち眼鏡。二人、何かのサービスなのだろうか、身につけた衣類の一部を客席に向けて放りなげるが、誰も拾おうとしない。客席の背後にある両開きから二人が出て行ったあと、思いつめた書生風の青年が衣類を拾いあげ、大急ぎでリュックに詰める。
「あそこで真っ白になるなんて、あそこで真っ白になるなんて」
 両手に顔をうめてぐずぐずにすすり泣く大柄のボディコン女性。
「しょうがないわよ、できの悪い日もあるわよ」
 大柄のボディコン女性を支えるようにして隣を歩く小柄な洋装の少女。二人のささやき合いは、しかし清掃員が濡れたモップをロビーの床へ叩きつける音にかき消される。
「だいじょうぶよ、芸の不安定さがあなたの売りでしょ」
 二人が後にした建物には裸の女性の図画がいくつか大きく掲示されており、入り口にいるもぎりの男性は生来のものだろう、茫洋とした独特の表情を浮かべている。小柄な少女はなぐさめ続けるが、大柄な女性はいっこうに泣きやまない。
「ポルノ映画館で世界を革命したって、誰も認めてくれないのよ。私たちはこの世にいないも同然なのよ」
 小柄な少女、大柄な女性の背中をさすりながら言う。
「あたしがいるじゃない、誰がいなくたって、あたしがいるじゃない」
 真っ赤に泣きはらした目をむいて、大柄な女性、絶叫する。
「もう聞きあきたわ! あんたがいたって、私は寂しいままじゃないの!」
 途方に暮れた表情で立ち尽くす小柄な少女。
「消えないのよ、その寂しさは消えないの。私たちは壊れてるから、その寂しさは消えないのよ……」
 激情の冷めた大柄な女性は、小柄な少女を強く抱きしめ、小柄な少女はその抱擁へ一筋の涙を与え、やがて手に手をとりあった二人は「だいじょうぶ、きっと今頃は萌え画像が届いているはず。だからまだ、だいじょうぶ」と励ましあいながら、場末のネオンの中へ消えていく。

(協力:nWo次世代マーケティング部)

痴人への愛(1)

「またひとつ消えたわ」
 コーデリアは菜につかう包丁の手をとめると、聞こえぬよう小さなため息をついた。今夜は荒れそうだ。
 エプロンで手をぬぐい、右ひざを抱えたまま無表情で涙を流す女性の脇へ、そっと近づく。
 視線の先には、Not foundと書かれたノートパソコンの画面がある。
「ずいぶんと前から更新なんてなかったじゃないの」
 非難にひびかぬよう注意してささやきながら、コーデリアはその肩を抱き寄せた。子どものように胸元へと倒れこんでくる。
「消えたのよ」
 いつものことだ。どんな言葉をかけようと、彼女が救われることはない。
 コーデリアは黙って、白いものが混じりはじめた長い髪を手櫛にさすってやる。うながされるように、小鳥尻は短い嗚咽をもらした。
 芸名・小鳥尻ゲイカ、本名・小島桂子。数年前に一世を風靡した芸人である。
 しかし、巻きスカートをマントの如くはぎとりながら、肌色タイツの股間に接着した亀の子タワシを見せる芸を覚えている者は多くあるまい。タワシを右手ですりながら言う、「ワタシのタワシ気持ちいーで」は流行語大賞にもノミネートされた。だが、この健忘症的な世の中で一年に満たぬ期間のテレビ出演は、人々の記憶力に対して充分に長いとは言えない。
 当時、コーデリアは小鳥尻の芸を客席から眺める一視聴者に過ぎなかった。熱狂はあったのだ、と思う。彼女が出演する番組のスタジオ観覧を申し込み、外れたときはテレビ局の外で待ちかまえた。他にも無数に芸人はいたのだし、そのうちの誰に同じ熱狂をささげても不思議ではなかったはずなのに。
 司会者が、時事問題などのコメントを小鳥尻に求める。彼女は腕を組んで考えるふりをしたあと、奇声をあげてスカートをはぎとる。「ワタシのタワシ気持ちいーで」を連呼しながら司会者に体当たりをし、観覧席にダイブする。どの辺りに飛び込むかは事前にスタッフから指示があって、観覧者たちは悲鳴をあげながら避けることになっている。床に叩きつけられた小鳥尻が大げさに痛がり転がりまわるのをもって、一連の芸は幕となる。
 あのときのことは、いっしょに観覧席へ座っていた友人が後々まで繰り返し話したものだ。もっとも、携帯電話を捨ててからこちら、すでに何年も音信はない。
「あんた、よけようとしないんだもん。それどころか、両手を広げて受けとめようとしたでしょ」
 痩せぎすの小娘にすぎなかったコーデリアは、ダイブを受け止めきれず、そのまま小鳥尻の下敷きになって左手を骨折し、腰骨にはヒビが入った。
 サングラスにトレンチコートの小鳥尻が、その長身を丸めるようにして病室の入り口に立っていたのを今でも鮮やかに思い出すことができる。小さな花束をぶっきらぼうに片手で突き出すのには、思わず笑ってしまった。
 それが、世間でいうところのなれそめというやつである。
 コーデリアはレズビアンではない。男とか女とかではなく、小鳥尻だからなのだ。しかし、両親も友人も、理解はしなかった。
 この、台所つきの六畳間に越してきて、どのくらい経つのだろう。幸福は夢のように過ぎる。あっというまに過ぎる。苦しみの長さはすでにコーデリアの時間感覚を麻痺させていた。
「みんな私を置いて、行ってしまうのよ」
 この台詞も毎度のお決まりのこと。コーデリアの中ではほとんど様式化してしまっている。しかし、それへ返答をするときは常に新しい創造を求められるのである。
 声をかけようとして、小鳥尻の目じりに刻まれた皺が、前よりも深くよじれるのを見て、コーデリアは全身に鳥肌を生じた。その沈黙は、しかし小鳥尻の精神にとって有効に働いたようである。
「コーデリア、あなただけ。私には、あなただけ」
 小鳥尻の手がエプロンの上からコーデリアの薄い胸をまさぐる。性的な昂揚を求めているわけではない。ただ、肉を感じることで寂しさを消したいのだろう。
 ノートパソコンに映るのは、芸人たちのホームページのひとつである。最近はブログというのだろうか。所属する芸能プロが作成し、人気のあるうちはそれなりにファンとの交流の場に成りえる。しかし、落ち目になるほど更新の頻度は間遠となり、やがて自然消滅的な閉鎖へと至るのだ。
 ひと握りを除けば、長く続けられる業界ではない。才能と時の合致を得た彼らは、やがて自分の番組を持ち、そのメジャー級の選抜の中でさらなる競争に身をやつしていく。膨大な分母から、総当りのリーグ戦を経て、真の勝者となるのはほんのわずかである。
 そして、勝つ見込みの薄いこの業界へ早々に見切りをつけ、全く別の分野に才覚を見出す者も少なくない。だから、芸人のホームページが消えるのは、彼らが現実の中へ居場所を見出したということの裏返しにすぎない。確実なのは、いつまでも残される連中はひとからげに例外なく、何らかの点で欠けている、劣っているということである。
 小鳥尻の芸を他の者たちと分かつ要素があるとすれば、それは思考の奇形性であり行動の奇形性である。深まらず、拘泥しないことが流動性を担保する。人生という変化に対処するとき、それは偉大な戦略である。だが、奇形性ゆえに小鳥尻は小鳥尻であり、奇形性ゆえにその芸が真の意味で大衆に受け入れられることはない。簡単に言えば、下ネタでは天下をとれないのである。
 しかし、それでも――コーデリアは思う。
 王様に対する道化師のように、既存の枠組みをゆさぶることで可視化するという特権を与えられた社会装置が、本来の芸人ではなかったのか。この国の芸人たちはほとんど例外なく、すべて体制の側にいる。彼らの目指す最終的な到達は政治家であるのだから、無理からぬことかもしれない。
 この一点においてだけ、小鳥尻は間違いなく芸人である。コーデリアが彼女に引かれた理由もそこにある。
 一汁一菜の質素な昼食を終えると、小鳥尻はもそもそと寝巻きを脱ぎはじめる。一張羅のスーツに着替えるのを手伝いながら、コーデリアは彼女の豊満な胸にいまなお残る、横に並んだ細いソーセージのような青黒い色素の沈着を痛ましい思いで眺めた。“風船爆弾”の痕跡である。
 “タワシ”が飽きられはじめ、テレビへの出演依頼も減りはじめた頃、小鳥尻が必死に考え出した新しい芸だ。それは、「風船爆弾、風船爆弾」と連呼する相方が、彼女の豊満な胸をパンチングボールよろしく、拳で殴打するというもの。関西の男性芸人からヒントを得たという。最初は上着を脱ぐだけだったのが次第に過激化し、ついにはブラジャーまで外して行うようになった。その相方というのが、何を隠そう退院後のコーデリアである。
 詳しい経緯を語っても仕様があるまい。あらゆるメディアからフェードアウトしてゆくという窮地にいた小鳥尻は、国営放送でこの“風船爆弾”をやらかした。生放送中に、生乳でやらかしたのである。謝罪の記者会見で、平身低頭する事務所の社長を尻目に一言の謝罪も発さないばかりか、コーデリアを含む関係者全員が頭を下げる中、小鳥尻はひとり傲然と胸をそびやかした。社会正義に悪酔いした記者があげる社会性を逸脱した怒号に、事務所のスタッフが無理矢理に小鳥尻の頭を長机へ押さえつけ、ようやく謝罪の形を作った。だが、隣にいたコーデリアには、頭を押さえつけられ鼻血を流しながら、にらみつけるように真上へ視線を向ける小鳥尻が見えた。この瞬間、小娘らしい恋の憧れが、大人の愛情へと変わったのだ。
 玄関先でブーツに足を突っ込みながら、今日はお客さんに呼ばれてるから遅くなる、と小鳥尻が無表情でぼそぼそ言う。舞台の上のハイテンションどころではない、普段の小鳥尻はほとんどしゃべらないし、感情を露にすることさえまれである。コーデリアはできるだけ明るく返事をするよう努めると、アパートの出口までついてゆき、長身の背中が曲がり角の向こうへ見えなくなるまで立ちつくしていた。
 部屋に戻り、玄関の扉が閉まる音を背後に聞く。小鳥尻はいない。当たり前だ。この部屋は、もはやコーデリアにとって何の意味も持たない場所になっていた。小鳥尻がいるからこそ、この空虚な住処がかろうじての避難所として成立する。六畳間をうろうろと周回すると、コーデリアは小鳥尻のいた場所へ呆然と座り込んだ。
 私たちふたりが破滅しない方法はなにか。最近、コーデリアが考えるのはそのことばかりである。
 週に一度もないような、場末のスナックへの営業ぐらいでは、とうてい食いつないでいけるはずがなかった。コーデリアは相当にいかがわしいアルバイトへ手を染めたこともあるが、小鳥尻が部屋にいる間は磁力のように離れられなかったので、食うに充分な稼ぎを安定して得ることはできなかった。
 昨日はついに、母が積み立ててくれていた学資貯金を切り崩した。小鳥尻はそのことを知らない。生活保護のことを相談したときの狂乱を思い出して、恐ろしかったからである。
 小鳥尻はただ自分であることをやめられず、他人の夢の残骸に埋もれたコーデリアは身動きさえ取れずに貴重な若い時間を空費してゆく。地獄。そう呼べる場所があるなら、まさにコーデリアの住所はそこであった。だが、角を生やし赤い肌をした官吏たちは空想にすぎない。人はただ、己の意志において地獄に己を閉じ込めるのである。

少女保護特区(6)

 当局の提供する簡易宿坊に腰を下ろすと、予は背嚢からラップトップ式のパソコンを取り出す。ビデオカメラと双璧を成す、予の配下において最も重要な子飼いである。予の少女との別離がもたらした衝撃から回復しつつあった予は、たとえ無償の提供を受けたとしても感謝ではなく批評が真っ先に来訪するあの豪胆さが身内に戻りつつあるのを感じていた。起動を待つ間、予はあてがわれた部屋の価値を値踏みするべく視線を走らせる。床には布団というよりはむしろムシロが引かれ、排泄物を垂れ流す穴は板囲いがしてあるだけだ。その質素さに比べて、数本の鉄棒が重力方向へ平行に走る戸口だけは奇妙に装飾的である。鉄棒を通り抜けて、予のノートパソコンから伸びたケーブルが廊下を這っている。ネットワークへ接続できる環境の提供を論理的かつ強力な身振り手振りで主張する予に屈する形で、大便のごとくに巻かれたそれがうやうやしく投げ与えられたのである。その先端はいまや予の希望を適えるべく管理官の舌打ちを乗せて、通路の奥へと消えている。
 ブラウザを立ち上げると、予はブックマークのひとつをクリックする。少年と少女が生気の無い目で視線を宙空へと彷徨わせる足元に「青少年育成特区」と装飾的な字体で記された、例の見慣れたロゴマークが出現する。画面の下部から回転しながら現れ、中央に一定時間静止してから上部へ消えていくのだが、スキップする方法はない。おそらくは、取り出した煙草に火をつけさせるためだろう。官庁がするこの心にくい時間的配慮を、予はひどく気にいっている。肺腑が吸い込んだ煙で満ちると、予の呼吸は何千分の一秒か完全に停止する。全身の血管を毒が駆け巡り、予の自尊心に死という等価の重りを与え、予はほとんど敬虔な気持ちになる。もはやただの物質と化した煙を鼻から勢いよく噴出しながら、画面に焦点を合わせないまま、予はマウスを数センチ滑らせる。エッチ・ロリコン板のバナー上にカーソルが到達するのと、予が人差し指を痙攣させるのは同時だった。そして次の瞬間、予の内側にあった至高の安逸は完全に消滅したのである。
 さて、性的な暗喩が他の暗喩を圧してあまりに素早く脳内へ醸成される諸兄のために、いまの場面を少々補足する必要があると予は考える。予が閲覧しているのは、AvengerLicenseを持つ者たちの動向をランキング形式で記録する官庁の広報用ボードである。正式名称は”The Hardcore Ladder of Liberty for Girls’ Survival Convention”だが、その頭文字を取って俗にH-L-o-Li-Con板、あるいは単にL-o-Li板と呼ばれる。後者の場合、中間の母音を脱落させ、ろりーた、と発音するようだ。暴力という観点から許可証所持者の危険度を客観的に測り、台風や津波等の災害警報のように民間人へ注意を喚起するため設置されたのだが、もはやその本来の理念を念頭にアクセスする者はいない。少女たちの顔写真に出歯亀的関心を持つか、少女同士の対決を対象にした非公式の賭博を行うか、許可証所持者の係累に連なるか、次に殺害する同胞を求めるかが利用目的の大半である。予は無論、このボードを最新の状態に維持するための情報提供者の一人であり、いずれにも該当しないことを付け加えておく。
 次にロリ板の特徴である。基本的にすべての許可証所持者が登録されており、少女同士の接触の際に闘争が生じた場合、その結果は可及的速やかにランキングへ反映されることになっている。上位者が下位者に勝利した場合はSポイントと呼ばれる点数が上位者に加算される。頭文字Sの意味については殺戮とか殺害とか殺傷とか諸説あるが、はっきりとしない。下位者が上位者に勝利した場合はお互いの順位が入れ替わり、死亡者の氏名は暗転表示されてランキングの最下位に回される。もはや半分以上の氏名が灰色に沈んでいるが、その総数は日々増え続けている。命の軽重を視覚化するこのランキングには美人コンテストに向けられるのと同質の感情的な非難が集中する。しかし、予はロリ板を心の底から愛した。望むと望まざるに関わらず、生命の価値に序列は存在する。その真実への社会的検閲を極めて局所的にではあるが無化するこの板は、予にとっての福音である。
 一位から以下二十名は拳闘風に表現するならば上位ランカーとされる。下位者からの挑戦を多く受けるも彼女たちの敗北は稀である。マッチメイカー不在ゆえに上位ランカー同士の闘争がほとんど発生しないため、その構成員はほぼ固定されている。スポーツとは違い、何の名誉も伴わないランキングである。力の拮抗した者同士の闘争には死のリスク以外が存在せず、必然的に争いは回避されるのであろう。だが、自然淘汰が発生しないという意味合いで、上位二十名のランキングは現状を正確に反映できない恐れがある。そこで、より多くの実戦に生き残っている事実を客観的に示す、先ほどのSポイントが登場するのである。加えて、予を嚆矢とする少女観察員が全国に遍在し随時の情報提供を行う。当局はそれらを集約して、諮問機関である少女審議委員会、略して少審へ上位ランカーの正当性について検証を依頼するのである。上位二十名の少女たちは殺傷力、持久力、敏捷性、成長性、処女性から成る五つの観点を五段階で評価される。最後に挙げた項目、処女性が何を評価しているのかについては、ロリ板において長く議論の対象とされてきた。なぜなら法律上、許可証所持者は全員、言及するまでもなく処女のはずだからである。現在では、該当少女の精神や容姿を判定しているのではないかという推測が多数を占める。また、評価システムそのものに対する疑念も多い。少審の五段階評価を仮に二十五点満点へ換算した場合、点数の寡多と順位が連動しないという指摘は、メジャーな議論の一つである。例えばランキング二位の老利政子は順にDCEEAであり、総得点はわずか十二点にしかならない。これは、上位ランカーの中で下から三番目に低い数字である。各項目が異なった係数を与えられているという見方もあるが、未だ大統一理論の完成は遠いようである。
 話を戻そう。予が受けた衝撃は、予の少女の名前を仁科望美、老利政子から始まる上位ランカーの中に発見したことへ由来したのである。実際の闘争を除けば、少審による上位ランカーの格付けは「その必要が生じた際、適宜」という会則に則り行われるが、その頻度は最短で四ヶ月、最長で二年半とまちまちである。格付けと格付けの谷間の期間はシーズンと呼ばれ、現在は特区法制定から十六回の格付けを経て、17thシーズンに該当するはずだった。しかし、今回のアクセスは予に18thシーズンの到来を告げたのである。予の少女の順位は十九位、評価は順にCDBBBである。予はただちに予の少女の敏捷性と処女性を一段階高めることを具申する陳情書をしたためにかかる。あの野良少女が、もしや上位ランカーだったのではないか。予の少女が迎えるだろう終わりのない闘争の日々への不安が、予の心へにわかに積乱雲の如く佇立するのであった。先に述べたように、上位ランカー同士の争いは極めて稀であるが、下位者から受ける挑戦は激増する。過去、二十位入り直後の一週間で名前を暗転表示させた少女がおり、少審への抗議が殺到したこともある。殺戮ではなく審議によるランクインであったからだ。少審の構成員が非公表であることも相まって、ランキングの恣意性については常に批判が耐えない。
 その少女の二の舞となる心配は無いと信じたいが、実際のところ両親の死が予の少女の暴力に何らかの影響を及ぼした可能性を予は否定できない。予の少女に向けられた外部評価の不当な部分をくつがえしておくことは、しかし当面の挑戦者たちを牽制する役には立とう。陳情書を裏付ける情報として、予の少女の闘争をあますところなく記録・編集した動画をアップロードせんと、予は全国の少女観察員たちが共同で管理するサーバーへアクセスする。煙草一本分の時間を経て無事にファイルが転送されたことを確認するため、予の少女の躍動をネット上で眺めるうち、予は奇妙な感情が身内にわきおこるのを感じた。このような陳列がひどい冒涜にあたるのではないかという、理屈に合わぬ思いである。予は予の行う社会正義を信じていたし、手に入れた情報を他者と共有することで生まれる新たな発見や思想を喜んでもいた。予は宗教家ではない。だが、無神論を言うほど人間を超えた何かを信じていないわけではない。デジタルではない部分を持つ神は電子回線を通るときに劣化しないのだろうか。予の側にある神聖さへの畏敬は果たしてこの方法で共有できるのだろうか。突然の内なる問いかけに予はとまどった。予の少女の動画を閲覧することがなぜこのような疑問を生じさせるのか全く分からぬまま、予はアップロードしたファイルを衝動的に削除する。サーバーはすでに自動的なバックアップを行っているはずで、予の少女の動画はそれを撮影したときの予の感情とは切り離されてやはり誰かに届くだろう。だが、予の想いを伴った動画は削除されたのだ。その不合理な安堵感に、予は不快を禁じざるを得ない。電子メールによる陳情書を送信するとき、ファイル名を含むURLを消さなかったのは予の予に対する腹いせである。ノートパソコンの電源を落とした予は、入り口の装飾的な鉄棒に手をかけて前後に強く揺さぶった。耳障りな音が廊下へ響き渡り、やがて眠そうな目を擦りながら管理官が現れる。予が宿坊からの退室を願いでると、午後九時以降の入退室は規則により禁じられている旨を言いかけるが、ケーブルをめぐるやりとりを思い出し論理的かつ確信に満ちた予を論破することが難しいと悟ったのに違いない。予から放たれる無形の圧力に屈する形で、管理官はしぶしぶと鍵束を取り出した。特例なので見つからぬよう裏口から出て欲しいと申し出るのを超然と退け、予は表玄関から外界へと堂々の帰還を果たしたのである。
 予の少女の居場所を割り出す追跡行が異例の短期間で終結をみたことで、二人の間に横たわる強い絆への確信を予は新たにした。予の少女が所持する携帯電話にはGPS機能が備わっており、子飼いのノートパソコンがする獅子奮迅の活躍のおかげで、現在位置を市内のホテルへと特定できたのである。諸兄もご存知のように予の面体はあまりに高貴であり、加えて身にまとうオーラとも呼ぶべき不可視の何かが凡百の人民をして常に過たず、この人であると指ささせる要因となっている。ビデオカメラを筆頭として一筋縄ではいかぬ、歪さこそが才能に直結する歴戦の子飼いたちを統率するのにその、予の持つ生来のカリスマ性は極めて重要な役目を果たしていると言えよう。しかしながら、ホテルのロビーなどを通過しようとするとき、品よく裁縫された制服に野生と暴力を去勢された憐れな兵士である警備員が、志願兵として雇用の可能性を尋ねるために違いない、予を呼び止めようとすることが頻繁にあった。予の手下は精鋭を以てよしとする。直立の威嚇行為に塩を得る彼らは、予の向かう闘争を前にすればすくんで身動きもとれまい。それをわざわざ口頭で伝える無神経さも予の高貴な精神にははばかられたので、ロビーが客室応対の電話を取り上げ、警備員が交代の引き継ぎに詰め所へ戻る一瞬の間隙をぬって、予は全軍に突撃を命じる。予と兵士たちはエスカレーターを二段とばしに駆け上がり、中二階からエレベーターへ滑り込むことに成功した。電光石火の奇襲作戦を成功させ、兵士たちは意気を強める。予の指揮ぶりを褒め称える万呼が頭蓋に鳴り響く。並の将ならば破顔してそれに応えるところだろうが、エスカレーターの中に人がいたこともあって、予はただ鷹揚にうなずくにとどめた。敵陣にあっては天災のごとき大勝利にも気を緩めぬ様子を見て、子飼いの勇将たちは予の大きな器を感じとったようである。兵士たちが予への崇拝を闘魂へと変えて静かに、しかし烈々と燃えたたせるのがわかった。結果、予は最小を用いて最大を得たのである。
 最上階から順に各階をしらみつぶしにする腹づもりであったが、二人の絆のおかげであろう、予の少女が滞在する階は容易に同定できた。空気中へかすかに混じる血の匂いは、少女殺人に立ち会うこと頻繁な予にとって、もはや馴染みと言ってよいものである。匂いに導かれるまま、予は向かいあって立ちならぶ扉の谷を進軍する。この階に降りたった瞬間から、状況を察知した全軍は予の命令に先んじてすでに臨戦態勢にあり、それに応じて行軍は極めて慎重なものとなっていた。じりじりするようなその速度の中、回廊の対称性が持つ無個性の印象は予に終わりのないループを連想させる。五感を刺激する情報の乏しさに時間への意識が麻痺しはじめた頃、斥候の任に当たっていたビデオカメラがそのズーム機能によりわずかに開いた扉を発見し、伝令を寄越してくる。予は前線へと急行する。
 薄闇の濃厚さが訴えかけるような感覚は、実際に少女殺人へ立ち会ったことのある者にしかわかるまい。予は口中で唾が固まっていくのを意識しながら、人が通れるほどまで隙間を押し開く。はたしてそこには、頭頂から縦方向へ二つに開かれた白人男性のさらす人体の不思議が、部屋の奥から漏れる間接照明の光に照らされていた。鮮やかなその断面が、日本刀での斬撃によることは疑いがない。陳情書に記述する格好の材料として、予はズームしたビデオカメラの視界をゆっくりとなめさせる。空間的に不安定なはずの性器までもが測ったように同じ容積の二つになっており、予は様々の意味で縮みあがらざるをえない。白人男性の右手に名刺大の紙片が握られているのに気づいたビデオカメラは、さらに視界を拡大する。最大の望遠を用いてようやく視認できたその紙片にはヘルス・エンジェルと大書きされ、0120で始まる電話番号が記載されていた。白人男性にとって配達されてきた死は、まったくの意想外であったことが推察される。遺体から点々と続く血の跡がバスルームへと消えているのを確認し、予は様々の意味でふくらまざるをえない。しかし、浴槽にはすでに使用された形跡があり、予は様々の意味でしぼまざるをえない。浴槽の底と濡れたバスタオルはわずかに桃色へ染まっている。予はそれらへ口づけたい欲求を、白人男性の遺体を思い浮かべることで防がねばならなかった。バスルームを出ると、周囲に漂っていた濃密な血の匂いがほとんど感じられなくなっているのに気づく。嗅覚が鈍化したのであろう。あとは遺体の方へ視線を向けないようにすれば、この客室は完全に清潔な空間と信じることができる。我が身が痛まない限り、この世で地獄が長続きしないことを予は知っている。
 大きなベッドの中央に、小さなふくらみがあった。そこに予の少女が寝息を立てている。永遠のように思われた別離はその実、わずか数時間のことに過ぎなかった。予は書き物机から椅子を引き寄せ、ベッドの傍らに腰かける。神ならぬ人の身が作り出した殺戮する天使は、小さな頭を枕にうずめ黒髪を放射状に周囲へ投げている。喉まで引き上げられた薄手のキルティングにすっぽりと包まれ、予はそこにあるのが予の少女の生首なのではないかという錯覚を抱く。青く見えるほどに白い肌へわずかに隆起する赤は、ベッドの上にある唯一の色彩的要素であった。やがて、予の少女の呼吸が浅くなる。おそらく、予という闖入者の存在に気がついたのだろう。予の少女が寝具の下に日本刀を隠し持っているのだとすれば、予は完全にその間合いにいる。予の少女は予を傷つけぬという自信は、もはや過去のものになっていた。立ち上がろうと足の筋肉を硬直させた瞬間に、予の少女は予を切り捨てることができる。
 実のところ、この瞬間まで予は予の真意を測りかねていた。予の意識はあまりに深遠であり、時に自分が何を知っているのかを知らぬことさえあった。つまり、予は予の少女に殺されるためにここへ来たのである。いまや予の少女の中で予と両親は渾然と同化していた。予の少女が幼い頃から求め続けた抱擁を、両親と同じく予が拒絶したからである。予が殺されることは、予の少女を解放するだろう。そして、予の少女が解放されることで初めて、予は現世のあらゆる欺瞞を超えてこの狂おしい恋慕を完成させることができる。惜しむらくは、予の少女を抱きしめる瞬間に予の実存が肉体を喪失していることか。予と両親を失った予の少女はその暴力の根拠を揺らがせ、やがて青少年育成特区から発した多くの狩られる存在へと堕ちていくだろう。そこまで考えて、予はこの行動に自棄の感情が含まれていることを否定できなくなる。予は予の少女への恋慕ではなく単に理性でもって、時間差の形で心中を作ろうとしているのやも知れぬ。もはや瞬きすらできず、予は予の少女の端整な横顔へ視線を釘付けにしたまま、ただ呼吸のリズムを合わせるしかない。この、他殺を模した自殺がサクリファイスではない事実を発見したことで、予の明晰な頭脳は極めて稀な、思考停止に近い混乱を生じたのだった。
 両耳の間に心臓を移植したかの如き騒擾を裂いて、予の頭蓋に鈴の音が鳴りひびく。気配の方へ視線を送れば、ベッドの足元には和装の少女が立っている。いつからそこにいたのか、予は予の想念へあまりに深く没入しており、その侵入を気がつけなかった。失態である。直線に切りそろえられた襟元と額の黒髪に、瞳は瘡蓋のような赤茶色をし、蝋で固めたような顔にはおよそ人が持つ感情の一切は認められない。
 ――老利政子である。少女審議委員会から派遣された。
 外見とはそぐわぬ、年ふりた声だった。他人に対する強制力を疑わぬ、予と同じ、命令する側の声である。応じるように寝具が裂け、内側から抜き身が跳ね上がる。だが、その必殺の斬撃に対して和装の少女が行った動作は左足をゆっくりと手前に引くだけであった。ベッドを二つに割った日本刀の威力は、いとも簡単にいなされたのである。羽化した蝶のように、予の少女は斬撃の余勢を駆って回転しながら床へ降り立つ。そして窓を背にすると、鞘へ戻した刀を腰だめに構えた。
 ――老利政子は闘争を求めない。だが、求められた闘争を拒絶するほど愚かではない。
 応じるように予の少女が抜刀し、老利政子がゆっくりと一歩下がる。切っ先は細い首があった空間をむなしく通過した。予期した切断の手ごたえを得られなかったためか、制御を失った刀身は流れて背後の窓ガラスを粉砕する。少女殺人に立ち会うこと頻繁な予の経験則からして、一方がまだ獲物を見せていないにも関わらず、どちらが殺される側にいるのかはもはや明白であった。我が身を守るように日本刀をかざした予の少女の両目は大きく見開かれ、追い詰められた猫科の肉食獣のようである。老利政子が一歩を踏み出す。見えない力に弾かれたように、予の少女は背後の窓から夜空に身を躍らせる。一足飛びに距離を詰め、和装の少女が宙を舞う。
 駆け寄った窓の外には、頭上で日本刀を高速回転させて滑空する予の少女と、居並ぶビルの屋上を人外の跳躍で八艘飛びに追いかける老利政子の姿あった。予はクローゼットから予備のシーツを引きずり出し両手両足の指で四隅を挟むと、むささび飛びに追跡を開始する。だが、超人ではない予の身体はほとんど重力だけの落下と同じ速度で、ホテルへ隣接するビル屋上へと近づいていく。もちろん、この程度の危地は自室での二十年に渡る思索の生活においてすでに想定済みである。冷静にシーツを放棄すると予は、爪先、膝、腰、肩、側頭、頭頂の順に接地および回転し、落下の衝撃をすべて受け流すことに成功する。なぜか右腕が上がらなくなったが、一時的なことだろう。子飼いのビデオカメラは左手で構えれば全く問題がない。階段を駆け下りて街路に立てば、はるか前方のビルへ上空から二つの影がもつれあうように降下してゆくのが見えた。予は大音声で最強行軍を号令する。
 ――少女審議委員会の至上目的は、第二の仁科望美を作らぬことである。本日、新たな上位ランカーとの接見を果たしたが、老利政子は安心をした。
 息を切らせて階段を駆け上がり、屋上へと続く鉄扉に手をかけた予が聞いたのは、命令する権利を疑わない者だけが発することのできるあの強い声であった。こちらに注意を引きつけるため、予はわずかに浮かせた扉を蹴り開ける。けたたましい音に、二人の少女がこちらへ視線を向ける。予の少女は片膝をつき、日本刀に身をもたせてかろうじて上体を維持している。制服のあちこちが裂け、そこから流血も生々しい傷がのぞいている。老利政子は目を細めると、食餌を発見した有鱗目のように予を見る。
 ――もっとも、不確定要素が残されていないわけではない。老利政子はこの芽をあらかじめ摘んでおくこともできる。
 応じるように、もはや力尽きるふうであった予の少女が刀を振り上げて、背中へと切りかかる。老利政子は身じろぎひとつしない。抜き身は誰もいない虚空をないで、斬撃の勢いのまま予の少女は予の足元へと転がりこんでくる。
 ――しかしながら、確実性を欠く予断に基づいた殺戮は、老利政子と仁科望美の区別を難しくする。老利政子は何より矜持のため、この機会を見送ることとする。
 和装の少女はほんの軽い屈伸で、屋上の貯水槽へと移動した。伏したまま肩で荒い息をする予の少女に、もはや立ち上がる力は残されていないようである。満月を背景にした和装の少女は、予が予の少女に捧げていなければ心惑わされたであろう、人外の美を放っていた。わずかに腰を落とした老利政子を中心にして大気が渦を巻き、来たる躍動への予感が辺りを充満する。しかし、予には確認しておくべき事柄があった。無論、予とてわずかの推測を手がかりにした問いかけであり、まさか真実がそのまま得られると考えていたわけではない。
 ――いかにも、老利政子の保護者は老利数寄衛門である。だが、このことは決して他言せぬがよろしかろう。少女審議委員会の構成員には公安警察の出身者も多い。もし約束を守れぬ場合、今後の行動に極めて重篤な制約を受けると理解するがよい。
 つまり、老利政子の率直な返答は、この段階において予と予の少女が少審にとって全く問題ではなかったことの証明である。さらに質問を重ねようと予が口を開いた瞬間、貯水槽から和装の少女が消滅する。視認不可能な速度の跳躍で上空へと自らを射出したのだ。予が抱え起こしたとき、失血によるものかショックによるものか、予の少女はすでに意識を失っていた。予は右腕をかばいながら予の少女を背中にかつぐが、ほとんど子どものように軽い。鞘に収めるべく拾い上げた日本刀は反してひどく重く、優に持ち主の体重以上はあるかと思われた。少女殺人者の持つ特権に潜む業の深さを垣間見るようである。老利政子が去ったにも関わらず、予と予の少女は依然として重大な危機の中にあった。無数に刻まれた傷がどの程度深いのかもわからず、近隣の医療施設へはあまりに長大な主観距離が横たわっている。なぜなら、市内を徘徊する他の少女殺人者たちにとって、重傷を負った上位ランカーは自らのステータスを一息に高めてくれる格好の獲物だからである。
 両親の死から始まった予の少女の長い夜は、未だに終わりを見せようとはしなかった。

少女保護特区(7)

 すべては他人事のように感じられて、映画やテレビの向こうのように感じられて、たまらなくイヤだった。
 頬にかかった熱湯に、思わず悲鳴をあげそうになる。指をすべらせればぬるりとした感触がして、手のひらは真っ赤に染まった。噴出する液体はすぐに勢いを失い、床に広がりながらやがて制靴を浸した。
 駆けつけた警官にパスケースの許可証を見せる。反応は劇的だった。青ざめた顔で一歩下がり、半分ほどの年齢の小娘に最敬礼で応じた。無表情を装ったまま、大きく目を見開いて下からのぞきこむ。何かを問うそぶりで、わずかに歯の間から舌先を押しだすと、たちまち真っ赤になって顔から汗をふいた。その狼狽ぶりを忘れない。
 立ち去る背中へ、血のように粘る好奇と欲情が向けられるのがわかった。後悔と、そしてたぶん悲しみを、すぐに軽蔑で塗りつぶす。
 あの瞬間にこそ、私は誕生したのだ。喜びと祝福に満ちた、しかし望まない生の瞬間のようではなく、確かにこの意志を介在させた、人間世界と人間存在にとってのある災厄として。
 大気に満ちた霧雨が十字架をけぶらせ、遠近感をなくしていた。
 教会の入り口で傘をたたむと、コートの表面は水滴をふきつけたように濡れている。重い扉を引いて一歩ふみいれた途端、オルガンの音が足元からせりあがるような質感を伴って鼓膜を揺らし、平衡感覚にゆらぎを生じさせた。
 館内は完全な祝祭の空間を形成している。内なる高貴な精神性にだけ信仰を捧げるこの身でさえ、眼前の明白な秩序をあえて乱そうとは思わぬ。
 祭壇へと続く通路が、整然とならぶ木製のベンチをふたつに割っており、そこに少女殺人者への断罪の光景が広がっていた。黒いワンピースを身にまとった喪主は、蝟集する親族たちから隔てられて、ひとり座っている。
 可視化された正常と異常の狭間を進み、コートを脱ぎながら喪主の隣へ、人ふたり分を空けて腰かける。性質の良くない興味と侮蔑のいりまじった意識が、物好きな、あるいは邪な下心をもった若い後見人へと注がれるのがわかる。古くから慣れ親しんだその感覚に、もはや何の痛痒も感じない。喪主へと向けられる悪意を少しでも軽減できるのならと、意識して胸をそらした。
 うつむいて膝の両手へと視線を落とす横顔は、漆の光沢を持つ黒髪で御簾のようにさえぎられ、表情をうかがえない。いつのまにかオルガンの演奏は止み、神父か牧師か、初老の男性が聖書を朗読する声が響いている。耶蘇の宗派はさっぱりわからぬ。しかし、喪主にとって唯一だった神を葬送するのに、これ以上ふさわしい儀式はないだろう。
 ――なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
 自我が永遠に存続することを寿ぐくだりは、いつ聞いても恐怖に身震いがするほどだ。生命の最初期に与えられた望まぬ呪いと、呪いゆえの不完全な意識を清算する術は、あらかじめ奪われている。幾度も幾度も檻の内側へと復活し、世界と己の破滅を等価のごとく秤にかけ続ける永遠。
 生々しい幻視に首を振る。教会の内部は、現世的な枠組みを弱める装置として機能するゆえか。だがそれでは、通路の向こうから曖昧な敵意を向ける人々の説明がつかぬ。
 説教を終えた初老の男性にうながされ、喪主が献花へと立ち上がる。半歩下がって続く。隣あって並べられた棺からのぞく顔は、穏やかな表情に復元されていた。あの夜の光景が脳裏へフラッシュバックし、ご尊父とご母堂の表情が一瞬、凄惨なものへと変わる。片方だけとなった眼球が恨むようにこちらを見るのも、頭蓋の内側にのみ投射された映像である。
 強く閉じた瞼を開けば、やはり横たわるのはふたつの穏やかな顔でしかない。表層と深層の間に横たわる、欺瞞に満ちた隔絶の淵。しかしそれは、多くの精神にとって有効である。死者だけが静かに、現世の喧騒を拒絶している。ようやく訪れたこの至上の安楽を、はたして死者は手放したいと考えるだろうか。死んだ人々のよみがえりを言うことが、誰にとって必要なのだろう。
 低く流れる奏楽の下に、小さなさざめきがある。壇上から何度かうながされるが、誰も喪主に続こうとはしない。ある種の憤りにかられ振り返ると、親族たちの座席から小さな男の子が飛び出して、喪主の足元へと駆け寄ってくるのが見えた。母親らしき人物が金切り声をあげて制止するが、彼の瞳には恐れよりも憧憬があふれている。
 ――おねえちゃん、人を殺したことがあるんだって?
 喪主はとまどったように両手を胸元へと引き寄せた。わずかに視線をさまよわせた後、まっすぐと見つめ返す。
 ――ええ。
 ――何人くらい殺したの?
 少年はあくまで無邪気だ。記憶をさぐるように、喪主はかるく目をつむった。
 ――二十八人よ。
 ――へえ、ぼくのクラスより多いんだ。すごいや。
 ――でも、もう数えないわ。
 ――どうして?
 屈託のない問いかけに、全身から汗がふく。無意識のうちに、両手を背中に回す。
 ――数えられないの。
 ――ぼく、百まで数えられるよ!
 喪主の口元へ、かすかに微笑が浮かぶ。棺に納められた百合のように静かなやり取りの裏で、母親の懇願はもはや悲鳴と化した。
 両手を頭のうしろへ組むと、何度も喪主をふりかえりながら席へと戻る。とたん、母親が音を立てて平手を打つ。黒を基調とした少女の美に心を残していた男の子は、たまらずバランスを崩してしまう。椅子の背もたれに強くこめかみをぶつけ、ずるずると床へくずれおちる。失神したのだろう。ぐったりとした身体を抱きあげて、母親が泣きだす。取り巻く周囲の人々は今度こそあからさまに、喪主へと敵意のこもった視線を向ける。
 感情に翻弄され、自ら作り出した劇場で演じる人々こそが、よみがえりである。神になりかわり、祝福を与えよう。お前たちは、永遠を生き続けるがいい。
 立ちつくす喪主の細い肩へ軽く手をのせると、わずかに身を震わせるのがわかった。一瞬の間をおいてこちらを見上げた両目には完全な抑制があり、感じたと思った悲しみの波動はすでに消えていた。いや、悲しみは残っていた。いつのまにか胸の深奥へ伝播した悲しみは、いまや痛みで喉元をしめつけている。この関係をこそ、望んだはずではなかったのか。
 喪主とともに死と不死の境界をたどって、元のように腰をおろす。親族たちはようやくのろのろと立ち上がり、少女殺人者とその後見人とを大きく迂回して棺へ向かう。それはまるで、障害物に最短距離をさまたげられた蟻の行軍を俯瞰するような滑稽さだった。もちろん、笑いはしない。この偏狭な世界観が誰かにとっての蟻の行軍でないと、断言はできないからだ。見上げると、ステンドグラスを透過する輝きが、雨天にも関わらず目を細めなくてはならないほどまぶしい。光には人の感覚を麻痺させる何かの力があるようだ――
 握りしめる柔らかな手のひらから、ぬくもりが失われていくのがわかる。ひとつの公立病院とひとつのクリニックが受け入れを拒絶した。少女殺人者であることが理由だったのかどうかは、わからない。すでにいくつかの影が、予と予の少女を遠巻きに観察している。反撃の恐れが完全にないことを、この上ない慎重さで確認しようとしているのだ。上位ランカー相手の警戒は、臆病のそしりを受けるものではない。だから、次に訪れた私立病院が治療を提供してくれていなかったら予の戸籍は消滅し、予の少女の氏名はランキング上で暗転していたに違いない。
 先の医療機関に比して、驚くような慇懃さと厚遇で迎え入れられ、匿名の入院に個室まで供与される。予はただちに解決すべき重要な案件を抱えていたが、予の少女を預けたままの外出さえ心安らかに行うことができた。しかし、好意が過大である場合の含意は、やはり過大な見返りであることを処世術として予期せねばならない。
 強引に設定した整形外科医との面談で、予の少女の玉肌に傷を残さぬよう予が所持する高解像度写真を例示しながら復帰すべき現状を申し述べているところ、今後の治療計画について院長が相談を求めている旨を、背後から近寄ってきた看護師にそっと耳元へ告げられる。渡りに舟とは、まさにこのことである。眼前の不快な表情をした医師の態度が激変する未来を予言視した予は、知性の程度が互いに遠い場合は特に非生産的な対話をたちまち打ち切った。そうして予から知性の離れた者へもっとも有効に機能する鼻薬を手に入れるべく、揚々と院長室へと向かったのである。
 丁寧な口調で予の味わった艱難をねぎらいながら時代がかった人払いを命じると、院長はごく自然な動作で扉に鍵をかける。予の洞察力はこれから訪れるだろう政治的なかけひきへの即応性を予の内側へ構築した。まずは先制点を獲得したことで、予は意気を強める。それにしても、相当な老齢である。垂れ下がった顔の皺が柔和な微笑みのような印象を作り出しており、声の調子は対する者の警戒を解かせるのに充分なほど穏やかで確信に満ちている。ブラインドが調節され、床が陽に満ちる。予に対面の椅子をすすめながら、院長は窓を背に座った。反射する陽光に目を細めねばならず、その表情は陰となって判別しにくい。いま思えば、意図された舞台装置であったのかも知れぬ。
 ――お連れの方は順調に回復しておられます。あと一週間もすれば寛解するでしょう。医は仁術と申します。しかし退院なさる前に、治療のお代について話を通しておく必要があると考えまして。現世のよしなしごとが心わずらわせるのは、好む好まざるへ関わらず避けられぬものです。
 穏やかに言葉がつむがれると、黒い空洞が見え隠れする。歯茎にのぞく白いものはまばらで、粘膜の色合いは灰色に近い。相手というよりは陽光に幻惑されたせいだろう、治療費に足るだけの持ち合わせのない旨を傲然と告げる予の声はくぐもった。
 ――然り然り。医は仁術と申します。少女殺人者とその随伴へ求める対価は心得ておるつもりです。血刀に刃物傷のお二人が当院をくぐられるのを見ましたとき、野戦病院の昔を思い出して久しぶりに心おどったことは確かですからな!
 院長が両手を広げると、ブラインドから差し込む光線が弦のようにはじかれ、予の視界を明滅させる。黒い穴からは擦れた音が断続的に漏れている。笑っているのやもしれぬ。
 ――医は仁術と申します。しかし、ある戦争状態に対して「世界は平和であるべきだ」と批評を行うことに、はたして意味がありましょうか。当事者だけが述べることを許される言葉は多いはずですが、誰もが等価に世界の不幸へ関与できるとお考えの向きも、最近ではかなりおられるようで。心の闇だとか組織の闇だとかそういった名づけは、第三者にとって見えないゆえに暗いというだけのことでしょう。物体の表面へそそぐ光線の有無が、物体そのものの性質を変えることがありましょうや。当院は宿坊や家庭ではございません。まして我々が保護者の代理であろうはずはない。いらだたしいのですよ。
 周縁から円心へ回転するような物言いに相手の意図をはかりかね、生来の剛毅が生む率直さから予は真意をただす。院長のたるんだ目蓋が持ち上がると、両目は老木のうろを思わせる虚無を湛えていた。
 ――院内で、一件の少女殺人が発生することを望んでおります。
 予の心へ空白が生まれる。この申し出は、何ら意想外ではないことに気づいたからだ。青少年育成特区というシステムの中で唯一の不確定は、少女の心である。遠隔的にであれ、それを操作できる目算を持てるならば、すべての殺人は合法となるだろう。だが、病院側が手に入れる利益が事の後に訪れる現世的な大騒ぎを差し引いて、なお正であるとは考えにくい。
 ――確かに、治療費だけでは充分な対価とは申せませんな。ただ生を長らえるだけで、現世のしがらみは身体の奥底へ澱のように沈んで参ります。その身動きのとれなさはわずらわしいものですが、ときに大きな助けともなりえます。いずれの公的機関にせよ、私の一筆や口ぞえは、あなたが少女殺人者の傍らで拒絶し続ける社会的な価値を多く含んでいると言えましょうな。
 返ってきた答えは予の問いかけを正しく理解した内容ではなかったが、院長自身が差し引きを正ととらえていることだけは了解できた。渇いた口腔を唾で湿してから、予は勘違いを指摘する。黒い穴から間歇的に擦過音が漏れる。
 ――さきほど申し上げたではありませんか、野戦病院を思い出して興奮したと! 殺したことのない者は信用できませんからな! 命を奪う者と奪われる者、この当事者の感覚だけが命の真実です。こういう話をできる友人も、年々少なくなりまして。孫などを抱くともういけませんな。あの切り立った崖、世界の最突端から落下の恐れがない場所まで転進してしまうのです。あなたが磐石の何かとして想定し対抗するこの社会は、傷の上に形成された瘡蓋のような、ほんの一時的なものにすぎません。私はあなたのお立場に同情し、共感をさえ覚えているのですよ。私はわずかだけ瘡蓋の端を引き剥がして、予期される出血から傷が癒えていないことを確認したいだけなのです。医は仁術と申します。しかし、少なくとも私の心が痛まぬ命が存在し、この個人的な妄執を満たすのに心が痛まぬほうの命を供物として、かつ当院の実利にも貢献できるというのなら、どこに与えられた好機を看過する選択がありましょうや!
 光が下からやってくるこの空間は、惑星の表皮に進化を続けた結果の現実認識を不安定にさせ、揺さぶる効果があるようだ。平衡感覚はゆらぎ、数日前に行われた予の少女の後見人をめぐるやり取りが脳裏にリフレインする。
 ――親族の方々は、軒並み拒否の姿勢ですね。あのモンスターは、もう二十七人も殺していますから、無理もありませんわ。お話をうかがいましたが、未成年被後見人が貴方を選んだという点が極めて疑わしいですな。最近では“少女殺人者の人権を守る会”なんていうネット発の、本末転倒な団体もありまして。事件が起こるとすぐに、いくつか連絡が来るんですわ。つまり、推薦名簿に候補者はあふれておりまして、両親の遺書もなく、被後見人からの請求も証明できない以上、家裁があなたを優先的に選任する理由はどこにもない。妙な下心を持った連中も多いんでしょうが、少なくとも社会的立場はしっかりしていますしね。まあ、逆に不利なぐらいですよ、あなたは……
 枕を腰に当てて、霧のような雨にけぶる窓の外を見ている。気づいているはずだが、ふりむこうとはしない。長い髪の流れる小さな背中へ、医師とのやりとりや、今日あったことや、とりとめのない日常の気づきを報告する。返事はないが、確かに話を聞いている気配はあった。治療代の話はできなかった。沈黙がおり、それが充分に長くなると退室の合図だ。去り際に、未成年後見人の話をする。受け入れる気がないならこの場で断ってほしいと伝える。黒髪がわずかにゆれたようにみえたが、沈黙がやぶられることはなかった。扉を閉める最後の瞬間まで、隙間からのぞく後ろ姿は窓の外を見ていた。
 廊下で何人かの患者たちとすれちがう。いったんは拒絶したはずのものたちが、再び周囲をとりまき、その包囲を縮めていくのがわかる。山に老婆を遺棄して帰宅すると老婆が笑って出迎えてくれるような、循環する恐怖。階段を下りると、待合いは人でごったがえしていた。なんとなく出かける気をなくして、空いている長椅子へ腰かける。左には赤ん坊の背中をさする母親がおり、右には杖に額を乗せて荒い息の下で祈るような格好の老人がいる。真ん中にいるのは、いったい誰なのだろう。山頂のほこらに老婆をおさめて扉を閉めたときの気持ちを思い出す。重荷がなくなったことが足取りを軽くした帰りの山道での気持ちを思い出す。だが、帰宅して土間から仏壇の老婆を見たときの気持ちは、はたして恐怖だったか。人間世界で最も古い職業は娼婦である。ならば、最も古い虚構は、死者のよみがえりではないのか。
 相部屋のベッドから、天井を見上げる。腸炎で絶食中とのふれこみで、治療を終えるまで間借りできることになっている。カーテンの向こうに人の気配がし、車輪のきしる音は部屋の外へと移動する。足元の非常灯だけが照らす廊下で、点滴を引きながら人影はトイレへと消えた。まちがいない。足早に追いかける。個室へ入ろうとするところを後ろから回した左腕で顎ごと便器へ押さえつけ、喉元にあてた刃物を一気に引く。背後の扉を片足で押さえながら、大便用の水流で物音を消す。持ち上げた片手を便座にかけたのが、示された唯一の抵抗だった。内側からの施錠を確認し、目に見える血をぬぐったトイレットペーパーを流すと、懸垂の要領で個室の外へと出る。洗面台で両手と刃物をすすいで顔を上げると、鏡の人物には血の飛沫がそばかすのように散っている。乱暴に顔を洗う。トイレを出た両足は自然、個室へと向かっていた。細心の注意を払ってわずかに隙間を開くと、身体をすべりこませる。ベッドのふくらみは規則正しく上下しており、それを眺めるうちに両足が震えはじめて、そのまま床へ座り込む。両膝を引き寄せると顔を埋める。小学生のとき以来だった。
 あまりにもあっけない。あまりの脆弱さが、もはやせんのない疑念を生む。いったい、これに値するような罪だったのか。得体の知れない人影が乱舞する。その顔はこれまでに出会った誰のようでもある。全身を伝う汗に目を覚ますと、窓の外は明るくなりはじめている。院内はまだ静寂を保っているようだった。いぶかるのをうながして荷物をまとめ、時間外受付で退院の手続きを済ませると、面会者出入口へと向かう。驚いたことにすでにタクシーが停車しており、院長室へと招きいれた看護師がその脇に控えていた。
 ――これを渡せとおおせつかっております。
 差し出された封筒には、カードと便箋が二枚入っている。金釘文字で、こう書いてあった。
 「おふたりが出立した後に、報道各社へ連絡を行うよう申し伝えてあります。私の感謝を伝えるためにハイヤーをとも考えましたが、素性を思えばやはり目立つやり方を避けるのが賢明でしょう。
 ご首尾、お見事でした。命を奪う者と奪われる者、この当事者の感覚だけが命の真実です。瘡蓋の端が持ち上がるのは、見えましたでしょうか。
 どうぞ良い旅を、ご同類!」
 二度ばかり目を通すと、看護師に便箋を返す。提示された正体の知れない感情を咀嚼できず、受け取るという形を作ることに抵抗があったからだ。少なくとも午後になっての報道を確認するまでは、その真意をはかりかねた。
 ――本日未明、市内の私立病院で、病院長が何者かに喉を切られて死亡しているのが発見されました。入院者リストに少女殺人者の名前があり、警察は関連を調べています。
 斎場で、聖別された水が棺にふりかけられるのを見る。奇妙な眺めだ。耶蘇教の埋葬は、すべて土葬なのだと思っていた。地中に収められる棺に遺族が一握りずつ土をかける場面を思い出したからだが、それらはすべて映画の中の光景ばかりだったと気づく。
 火葬の完了を待つ間、親族のつどう控え室に喪主と後見人の居場所はない。施設の周囲をぐるり歩いても、時間は停止したように動かない。互いに語ることをなくしたふたりが、どちらからともなく見上げる煙突に黒煙はのぼらない。いまや、飾りなのだそうだ。
 炎は制御の下に無煙化され、肉を焼く臭気は周到に除去される。飛散しない自意識、管理された死。聖書の一節が思い浮かぶ。はたしてこれは、それと同じものだろうか。
 ――我はよみがえりなり、命なり。我を信ずる者は死すとも生きん。また、生きて我を信ずる者はとこしえに死なざるべし。
 左手に日本刀をさげ、黒いワンピースに身をつつんだ細い姿態。その表情に差す翳りは超越者の憂悶であったことが、いまならばわかる。
 確かに、二十八人と言った。この少女殺人者は、誰も寄せつけぬほど強くなるだろう。