猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

アニメ「まどか☆マギカ」感想

 質問:欝展開の魔法少女ものが最終回をむかえました。猊下はあの結末をどのように見られたか教えてください

 回答:この質問はわけがわからないよ。よりによってアンチ・ギークスの大家たるぼくに、君たちにとって大切な作品への意見を求めるだなんて、よっぽど悪し様にののしられたいとしか思えないじゃないか。いや、君たちおたくは条理に盲目であれる存在だ。君たちおたくがどれだけの不条理を成し遂げたとしても、驚くには値しない。もしかすると、破滅こそが君の願いなのかもしれないね。その願い、かなえてあげるよ!

 15年前にエポックを作った福音ロボットアニメのことは君たちも覚えていると思う。劇場公開されたそのアニメの結末だけど、3つの異なる救済観をめぐっての対立だという見方ができるんだ。それぞれの勢力がどのように救われたがっているか、ということだね。この例にならって、まずは救済観という視点から読み解いていくよ。

 君たちの国の仏教には、小乗と大乗という考え方がある。小乗は個人の悟りを至上と考え、大乗は衆生の救済を至上と考えるんだ。お地蔵さまは知ってるね。あれが君たちに最も身近な大乗だよ。お地蔵さまは、仏になって浄土へ行くこともできたのに、君たちの苦しみすべてが無くなるまで現世に留まることを選んだ人なんだ。衆生のすべてが救われれば、己も衆生であるがゆえに自身も救われるという誓いになっていることがポイントさ。つまり大乗は、利他は利己へつながるという、この世の善の本質を解いているんだ。どれだけ輪廻を繰り返しても小乗ではかなわなかった救いを、大乗へのパラダイムシフトが可能にする。2つの救済観をめぐる象徴的な結末だったと言えるね。

 さて、次に考えないといけないのは、救済の有資格者がなぜ他の誰でもない、その人物だったのかという点だ。ここには、物語の主人公であったという以上の蓋然性が求められる。じゃないと、救済は絵空事に終わってしまうからね。仏陀が王族の地位を捨てて出家したのは有名な話だけど、救済の有資格者たるには、まず物質的に満たされることが要件だ。その生が一度も満ちたことが無ければ、低い欲得への渇望を断ち切ることは、君たち人間には不可能だからね。

 おや、もしかして君たちはいま、貧しい大工の息子のことを考えているのかい。やれやれ、本当にあげ足とりの好きな連中だね、君たちおたくは! 以前にも話をしたことがあるけど、ぼくはある仮説を持ってるんだ。あの大工の息子は人類史上で初めて、養育者との葛藤に人生を支配されなかった人物なんじゃないかっていうね。従属や利用ではない親子関係を得るのは現代でさえ簡単な仕事ではないけれど、当時の社会状況を考えれば、それは文字通りひとつの奇跡だ。貧しい大工の息子による人々の救済は、その精神が愛に満たされていたがゆえに可能となったんだ。

 さあ、君たちにもそろそろ論旨のゴールが見えてきたかな。無作為に抽出した市井の人でさえ、過去の王族に匹敵する物質的豊かさを享受するこの国で、養育者からの精神的な略取をまぬがれている誰か。そう、人類の歴史に照らせば、その人物は二重の意味で人々を救済する資格を持っているということさ。もっとも、豊かさについては舞台装置からの類推に過ぎないし、この作品には大人がひとりも登場しないから、実際の養育者との関係性については説明が省略されているけどね。

 さあ、ぼくからはこれでぜんぶだよ。でもこんなのは、人気作品に引き寄せての自分語りをより多くの人間に聞かせたいだけの、文系の寝言に過ぎないね。もうさんざん、どこかで似たようなことが語られてるんじゃないのかな。なるほど、君たちにとっては誰が言ったか、誰に言わせたかが重要なんだね。けどそれって、もうただの政治じゃないか。君たちと民主主義はじつに親和性が低いね。民主主義の本来は、個我の染まらなさの中でなんとか共通の結論を得るための方便なのに、君たちときたら徒党を組むことこそが目的になっている。

 君たち日本人は、本当にわけがわからないよ。

よい大人のツイッター講座 第五回(+α)

過去の講座はこちら。

第一回 / 第二回 / 第三回 / 第四回

第五回

 (解像度の低い画面。遠くからサイレンの音。綿の飛び出たカウチに浅く腰掛けた段ボール鼻の外人、至近距離からカメラをのぞきこんで)ハロー、ハロー! (画面外を見て、何かを確認しながら)写ってる? 写ってるかな?

 (咳払いして)やあ、ぼくの名前はトゥレット。みんなをより良いツイートに導く、当ツイッター講座の伝道師だ。もうだれもぼくのことも、ぼくの番組のことも覚えてないかな? 半年テレビに出ないだけで消えた芸人あつかいされる、新陳代謝の早いこの業界だ、無理もないさ! でも、それほど悲観もしていないんだ。インターネットを使えば、テレビと同じようにぼくもぼくの声をみんなに届けることができる。ユーチューバーっていうんだろ? いまでは日銭を稼ぐばかりの港湾労働者のぼくでも、ためになる動画をアップするだけで人気者になれて、どういう仕組みかわからないけど、(瞳の奥に凄惨なかぎろい)お金までもらえるっていうじゃないか! だからさ、二ヶ月ばかり飲みにいくのを我慢して、こうして中古のパソコンとネットカメラを買ってきたってわけさ! おかげで体調もすこぶるいい!

 (突然、女性の金切り声。続いて、激しく壁を叩く音)うるせえ、ババア! てめえの商売の邪魔なんざしてねえよ! そもそもてめえみたいなメンスあがりのビッチ、だれも買いにきやしねえよ! (カメラに気づき、咳払いをして)ご、ゴホン! つまりこれは……そう、汝の隣人を愛せよ、という教訓だ! では、気をとりなおして……

 まだ君はこんなふうに考えているのかい? 「アイビーリーグ出身のぼくなのに、ツイッターではペニスがついてるだけでバカとして発見されちまう!」「本当に賢い人たちはツイッターにもフェイスブックにも手を出さず、ゲーティッドコミュニティでストックオプションの豊かな老後を送っているはずさ!」「結局、セルフィーで撮影したプレイメイトまがいのソフトコアポルノをアップしたり、ワパニーズ向けのファンフィクション・ハードコアポルノをFBIの目を盗んでアップする奴らに、みんな群がっているだけじゃないか!」

 オー、イエス、アイ・ストロングリー・アグリー・ウィズ・ユー! バット、ルック・アット・ザ・ブライト・サイド・オブ・ツイッター! ナイスバディの美女でもない、エロカートゥーンさえ描けないぼくたちが一発逆転をねらえるのもまたここ、ツイッターなのさ! 失うものなんて何もない、ぼくといっしょにツイート技術を学びさえすれば、きょういまこの瞬間からラヴィアンローズ、キミにはただ手に入れ続けるだけの人生が待っているんだ! (カウチの背後からごそごそとフリップを取り出して)では、今日の教材はこれだ!

 『誰でも等分に周囲が思うよりはずっと繊細に違いない。けれど、受け入れ難い現実を前にした時、その改変ではなく逃避を選択する弱さに共感を覚える。』

 オーノー! これじゃイエス復活できない! ナザレで塩漬けになっちゃう! このままじゃ、イエス復活できないよぉぉぉ! きちゃう、サルベーション・アーミーきちゃうぅぅぅ! (金切り声、壁ドン)うるせえ、ババア! そんなに気にいらねえなら、ストリートに出てろよ! 歯抜けフェラーティオウのペニーでペニーを稼いできやがれ! (カメラに気づき、咳払いをして)ご、ゴホン!

 ジャパニーズは三つのキャラクターを備えたランゲージで、それぞれが異なった性質を持っていることは知っているね。初歩的な話だけれど、漢字キャラクターとひらがなキャラクターの持つ硬軟の差異を感じとることは、じつはとても重要だ。あ、いま鼻で笑ったね? そういうキミが初めて書いたノベルのヒロインはティーンであるにも関わらず、全部ひらがなでしゃべっていたじゃないか! ことほどかように、漢字とひらがなのバランスは難しいのさ! ひらがなを入れすぎると知性の液状化をまねいて――ちょうどキミのヒロインのようにね!――しまうし、漢字を入れすぎるとゴツゴツして読みづらい。漢字とひらがなはちょうどソバ粉と水の関係と同じで、重要なことはみんな知っていても、それを感じとるには訓練がいる。漢字とひらがなのバランスについては、自分の好みはどうか、読み手がだれか、そして流行りは何か、考えるべき要素は無数にあって、ひとつの正解はない。でも、普段からこれを意識するだけでだいぶちがってくるよ。では実際に、このツイートのいくつかの漢字をひらがなに開いてみよう。

 『だれでも等分に周囲が思うよりはずっと繊細にちがいない。けれど、受け入れがたい現実を前にしたとき、その改変ではなく逃避を選択する弱さに共感を覚える。』

 ほら、だいぶ印象がやわらなくなっただろ? ティップスとして、ふたつ以上の読みを持つ漢字で、読みの出現頻度がほぼ同じなら、必ず読ませたい方へ開こう。このツイートで言えば、時っていう漢字はジとトキの両方に読めるから、トキへと開こう。え、文節の最後だからジと読んだりする心配はないって?

 ブラッディ・アス・ホール! ホモセクシャルかよ! 人間の脳はふたつの読みをいったん思い浮かべてから、瞬時にどっちかを選択してるんだよ! 開くと開かないとでは、文章を読み下していく速度がコンマ一秒ほど変わってくるだろ! コンマ一秒あれば地上最強の生物なら二三回は殺せるだろ! 乳幼児以前の、当たり前の配慮だろ! 書き手がどれだけ論理的に時間を重ねたって、読み手が読まないことを決めるのはいつだって一瞬で感覚的なんだよ! 時間あまりのブラッディ・ニート野郎の感覚で、ツイッター上のヒリヒリするような時間の奪い合いを考えてんじゃないよ! おまえのブラッディ・ツイートなんて、だれも読みゃしないよ! コストコのチラシの裏にエロカートゥーンの練習でもしてろよ!

 漢字とひらがなの関係について、もうひとつ指摘しておこう。それは、漢語の使い過ぎはよくないということだ。多すぎる漢語は、知性への自信の無さを読み手に明らかにしてしまうんだ。たとえば「中二病がひどい」と書けばすむところを「重篤な厨弐症状の深刻な罹患の証左」なんて書くのがそれで、あまりに読み手に対して警戒しすぎている。馬鹿だと思われたくないあまり、理解されることを恐れている。理解されなければ、馬鹿にされることもないからね。そう、漢語はときに防御的になりすぎる。漢語をひらがなまじりの表現へパラフレーズすることで、読み手への信頼を表明しよう。大丈夫、理解させることで読み手は必ずキミのツイートの共犯者になってくれる。

 『だれでも等分にまわりが思うよりはずっと繊細にちがいない。けれど、受け入れがたい現実を前にしたとき、それを変えることではなく逃げることを選ぶ弱さに共感を覚える。』

 うん、グッとよくなった。読み手に対する構えが消えて、とてもオープン・マインディッドなツイートになってきた。え、「等分」を「同じくらい」に変えたらどうですかって? ハハハ、キミの頭の両サイドについてるのは、チャイニーズ・ダンプリングか何かなのかい?

 文章の冒頭からそんなに漢語を開いてどうするんだよ! まるでただの白痴じゃないか! そこまでやったら、アホの売春婦がサバ缶を片手にストリートで股を開いているみたいに見えるのがわからないのかよ! 神父からクリミナルまで、シックス・ビリオンの一方的な衆人環視を意識できないようならツイッターなんざやめちまえよ! アズ・スーン・アズ・ポシブル! 

 では、そろそろ読点を入れていくとしよう。イングリッシュのカンマとはちがってジャパニーズの読点は、単純に読みあげたときのリズムを調整するためにある。基本的にはどこに入れたって、あるいは入れなくたってかまやしない。つまり、書き手のセンスがもっとも求められるのが読点の扱いなんだ。このツイートには二箇所、読点を追加する余地がある。さあ、考えて入れてごらん。

 そうだね、「等分に」のうしろにひとつ、入れるべきだね。この節が「ずっと」以下にかかっていることがよく伝わる。それに、繊細と言われて気分の悪い人間は少ないだろうから、読点でタメを作って書き手の意図を強調するに越したことはない。ついでに「だれでも」を「だれだって」に変えておこう。「だれでも」は客観的すぎて突き放した感じにひびくけど、「だれだって」なら書き手が自分自身をそこに含めていることを伝えられる。

 次に、「弱さに」の後に読点を入れよう。なに、「変えることではなく」の後ろの方が分節の切れ目になっていていいじゃないですかって? ハハハ、キミの顔の正面にふたつあるのは ピーピング用のノットホールズなのかい?

 読点は読ませたいリズムを誘導するためにつけるって言ったばかりだろ! 文章が読み手の頭の中で音読されたときのことを想像しなきゃダメだろ! 「弱さに」までを一息で呵成に読みあげたあと、そこに共感を覚えてしまうことを異常だと思われないかという一瞬のためらいが、この読点には含まれてるんじゃないか! 外国語話者みたいな感覚で日本語をしゃべるなよ! トゥー・イージーのはずだろ! だれもユーのブラッディ・ツイートなんかブラッディ・リツイートしないよ! もうツイッターやめちまえよ! ユー・ファック! ファック・ユア・アンクル!

 『だれだって等分に、まわりが思うよりはずっと繊細にちがいない。けれど、受け入れがたい現実を前にしたとき、それを変えることではなく逃げることを選ぶ弱さに、共感を覚える。』

 どうだろう? これを完成品としてツイートしても、だれにも文句は言われないはずだ。でもそれはキミが、ファイブ・ディジッツのフォロワーを有するインフルエンサーになった後の話だ。スパム業者まみれのスリー・ディジッツ・フォロワーしかいないキミには、まだやるべきことがある。きょうはツイートの最上級技術をキミにプレゼントしよう。

 「共感を覚える」、あまりに使い古された言葉だね。いいかい、言葉は使われれば使われるほど摩耗する。このフレーズはニュース番組の原稿のように、あまりに自動的に使われすぎて、字面とは裏腹にもはや何の共感も呼び覚まさない。より摩耗度の低い言葉を探して、パラフレーズしよう。

 最後に、「けれど」を取り除こう。うん、キミの不安はわかる。接続詞を省略することは、ディスコースマーカーの役割を読み手にゆだねることで、書き手にとってすごく勇気がいることだ。けれど、それは時間を越えた意味選択の広がりを読み手にゆだねることにつながるんだ。読み手を信頼しよう。だれかを信頼することで、キミの文章は初めて普遍性と、もしかすると不朽の翼を手に入れることができる。

 『だれだって等分に、まわりが思うよりはずっと繊細にちがいない。受け入れがたい現実を前にしたとき、それを変えることではなく逃げることを選ぶ弱さに、共鳴してしまう。』

 フーム、たかがヒューマンワークにこれを言うのは神の御業への冒涜に響くかもしれない。でも、言う。これは、完璧なツイートだ。じつのところ、ツイートの技術なんてむずかしいものではなくて、もしかするとそれはすべて、盲目のだれかが見えないはずのだれかに身をあずけるような、無上の信頼なのかもしれな(語尾をかき消すような金切り声、壁を叩く音)。

 ババア、いっつも俺の邪魔ばっかりしやがって、ブチころがすぞ! 外で会うときゃ挨拶もしねえくせに、壁越しで見えねえからって調子にのってんじゃねえ! てめえなんざ、とっととチャーチにでも行って救世軍のゲロみてえな粥で溺れくたばっちまえ!(壁越しにくぐもった罵倒。鼻段ボール、猛然と立ち上がる。倒れるカメラ。静寂。騒擾。悲鳴。静寂)

おわり(制作・著作 NMO)

(おまけ・ドラクエ7編)

 トゥレットの3分間ツイート・クッキング(流れ出す例の軽妙な音楽)! ヘイ、イッツミー! ほんの短い時間で君のダメなツイートをキラキラツイートに変身させるよ! 今日のダメツイートはこちら!

『家族を持ってはじめて気づくキーファの屑さ(挨拶)!』

 ぶるぶるぶる、ディスガスティング! こいつはゾッとするね! まずは「家族を持って」を「大人になって」に変えよう! え、「子を成して」はどうですか、だって?

 カット・ユア・オウン・ブラッディ・スロート! ツイッターもやってゲームもするようなのに、まともな人間がいるわけないだろ! 自前の家族を持つだけでも十分に無理ゲーな連中なのに、さらにハードルを上げてどうするんだよ! このツイートの目的は読み手にキーファへの優越感を与えて、上から目線の笑いを笑わせることだろ! 誰だって年齢だけは自動的に重ねるんだし、「大人になった」って表現はどんなダメ人間にもオールマイティに使えるだろ! 最初からツイートの間口を狭めてどうするんだよ! 簡単なことだろ!

『大人になってはじめて気づくキーファの屑さ(挨拶)!』

 次に「屑」という漢字をカタカナに開こう。え、どっちでも意味は同じじゃないですか、だって?

 ユー・マザーファッキング・サノバビッチ! このキーファという男は、青い血の一粒種にも関わらず河原芸人との情欲に溺れた屑、歴史の流れの中に己を相対化できない痴呆めいた屑、数百年を耐えた国家を存続させる責任から逃避して賎民との交雑を選んだ真正の屑じゃないか! ありのままに漢字で書いたら、あまりに重すぎて笑えなくなるだろ! 漢字とひらがなとカタカナのうち、いちばん単語を軽くできるキャラクターで表記しなきゃどうしようもないだろ! 少しは頭を使えよ!

『大人になってはじめて気づくキーファのクズさ(挨拶)!』

 うーん、まだ少し重たい感じがするね。ここは「さ」を「っぷり」に変えよう。「飲みっぷり」「食べっぷり」の響きが示すように、「っぷり」はどんなマイナスの意味を持った単語でもいったん肯定した上で、さらに軽くする効果まであるマジックワードなんだ。セイ・マジックワード! 英語圏で親が子に求めるプリーズと同じような機能さ。「すごいデブですね」って言われたら死にたくなるけど、「すごいデブっぷりですね」って言われたら、なんだかちょっとほめられたような気になるだろ? 簡単なのさ!

『大人になってはじめて気づくキーファのクズっぷり(挨拶)!』

 ほら、たった3分間であのダメツイートが微笑みをさそう素敵ツイートに変わっただろ? いつでもどこでも誰にでも、ほんと簡単にできるんだ! オップス、イッツ・タイム・トゥ・ゴー! バッハハーイ(流れだす例の軽妙な音楽)!

映画「スターウォーズ8 最後のジェダイ」感想

 よくスターウォーズってさ、「銀河を股にかけた親子喧嘩」って揶揄されるけど、ジェダイもシスもさ、どこまで行っても血筋の問題だってのが、作品にある種の深みを与えてたと思うんだよね。なぜって、ルーカス自身も明言してるように、スターウォーズは神話の文法に沿ってるからだよ。

 プリクエル、嫌いな人も多いみたいだけど、俺は大好きなの。ルーク・スカイウォーカーの物語が、ダース・ベイダーの物語に塗り替えられたという批判は正しくて、子は親になることで初めて、かつて暴君にしか見えなかった親の、裏側にあった悲哀を理解できるんだよね。指摘するとキリがないけど、右腕を切られたアナキンがルークの右腕を切り落としたり、親の知恵ではなく傷こそが子に継がれるというメタファーがすごく切実に迫ってくるの。

 ルーカスのインタビューにもあるけど、否定しようともがきつづけた父親・イコール・権威を、スターウォーズというファンダメンタルを築き上げたことによって自分が体現してしまっていたという悲しみを表現する「シスの復讐」は、彼のフィルモグラフィーを完結させる上で最後のマスター・ピースなわけ。カウンセリングの個室ではなく、文字通り全世界のスクリーン上で極めて私的なトラウマの表現をエンターテイメントに昇華できたという点で、ルーカスは人類史上唯一無二のクリエイターだと思うのよ。キリストでさえ、それはかなわなかったんだからさ。

 話を戻すけど、血筋まみれのヨーロッパから逃げ出した人々の作った「新世界」だからこそ、ブラッドラインの孕む何かに、おそらく後ろめたさから無意識の神秘性を与えてしまい、それがスターウォーズを超大なエスタブリッシュメントに押し上げる不可欠のエッセンスとして機能したと思うんだよね。カイロ・レンがレイに言う「おまえはこのストーリーに必要にない」という台詞は、スターウォーズが過去6作に渡って血統の物語であり続けたことを――前作のフォースの覚醒でさえそれは否定していない――観客へメタ的に読み取らせることを意識した制作側からのメッセージだ。

 一般人に過ぎない存在がスカイウォーカー家のフォースを凌駕したことは、スターウォーズ的世界観の明確な否定につながる。作品外からメタ的に読ませる小技の連続は、スターウォーズのような大作にふさわしいとは思えず、ファンの期待に逆張りするライアン・ジョンソンの小物ぶりばかりを際立たせる。そうなれば、亡くなったキャリー・フィッシャーが死亡フラグをことごとくへし折って、あまつさえフォースの使役にまで目覚めて2時間30分を生き延びたのすら、もはや現実を逆手にとったメタ的なギャグにしか見えなくなってしまう。

 作品舞台にしても両陣営の艦橋とカジノと島くらいで、スペオペ的な広がりは絶無であり、作品世界の狭さに息苦しさすら覚える。さらにエンディングでは馬屋の少年がジェダイの片鱗を見せ、8以降、フォースの使役は血筋に寄らないことを執拗に上書きしていく。これらは紛れもないディズニーの刻印であり、さんざん指摘されていると思うが、ヒューマノイド内の政治的正しさに腐心するあまりエイリアンたちへの目配りが絶無で、ほとんどそれはレイシズムの域にまで達している。チビの天童よしみや紫髪のライリー先生を描写することばかりに尺を割いて、アクバー提督をナレーションの一行で殺せば、ファンも署名活動に至ろうというもの。

 次回作において、旧来のファンが作品へ向けた歪んだ妄念を、同じく顔の造作の歪んだアダム・ドライバーが肩代わりして、ディズニー的絶対ヒロインのデイジー・リドリーにやすやすと斬り殺されることで、これまでのファンが愛したスターウォーズは血筋ごと、この世から完全に抹殺されるのだろう。デイジー・リドリーは作品中で血脈の特権を否定しながら、皮肉にもディズニーという巨大資本から特権を与えられてしまった。デイジーはディズニーがカメラを向けることを選んだシンデレラだから、修行も必要ないし、右腕を切り落とされることもない。なぜなら、ヒロインとして選ばれたからである。ディズニーがそれをやりたいと言うなら、やるがいい。

 しかし、最後のジェダイであるところのレイが、メイス・ウィンドウをはじめとした綺羅星の如き過去のジェダイたちと比べて絶望的に魅力的ではないことは、やはり大きな問題ではあろう。怒り眉を吊り上げる演技しかできない、寝屋ではサイレンの如き嬌声を上るばかりの何の面白みもないファックをしそうな、抱きたくない女優ぶっちぎりのナンバーワン――おっと、男性タレントには許されるこのランキング、女性様方にはご法度でござったかな? メンゴメンゴ! 酔っぱらいの戯言でござる!――スタローン級の大根役者であるデイジー・リドリーは、前作では感じなかったが、血筋の問題から解き放たれた今となっては、あまりに清潔に脱臭され過ぎ、あまりにもディズニー的正統派ヒロインであり過ぎる。その不平等な世界観は、キャリー・フィッシャーとマーク・ハミルが10キロを越える減量を強いられたのに対して、前作から明らかに増量してふくよかになったデイジー・リドリーが、何のダイエットも求められないまま撮影されていることからも、容易にうかがえるだろう。

 実際、ハン・ソロが死に、ルークが死に、レイア姫がリアルで死に、作品を牽引できる旧キャラクターはもはやチューバッカくらいしか残っていないのに、このていたらくである。さらに、血筋という旧来のスターウォーズ的レジームを否定するメッセージを発しながら、感動的な場面やクライマックスはすべて旧作からの借り物であるというところも、本作の問題点であろう。スターウォーズ級の大作ならば、当然公開された後にネットでの反響はすべてチェックした上で次回作へ反映しているだろうし、レイがダース・シディアスやらダース・プレイガスの血筋というプロットも当初はあったはずである。シリーズものゆえの予定調和をことごとく無視するならば、もはや作品の舞台がSW世界である意味はなくなるし、何の血筋でもないヒロインに対しては、エヴァQの時の如く「ポッと出の新キャラごときが、減量失敗してるくせに、俺たちのルークさんへ意見してんじゃねえよ!」という罵倒しか残らない。

 そんな人非人の俺様もスタッフロールの”In our memory of loving princess”の下りには、さすがに涙腺を刺激された。しかし、結局それは旧作までの、ルーカスとキャリーの手柄に帰するもので、一瞬でも感動したことで逆にライアン・ジョンソンへの怒りはいや増す結果となった。映像の快楽を指摘する向きには、ジャンクフードの皮をかぶった高級料理が、高級料理の皮をかぶったジャンクフードに変じたと伝えて、ダラダラとした、この犬のような話を終える。戌年だけにな!

  最後のジェダイ、2回目を視聴してきた。ツッタイーに廃棄した酔っぱらいの放言を反省し、肯定的意見と否定的意見を等分にリサーチした上でのニュートラルな視聴を心がけ、成人の日にあやかって赤青メガネで飛び出すヤツみたいなのに大枚をはたいた。結果として、「笑ってはいけないカジノ惑星24時 with 天童よしみ」がまったく不要なシークエンスであることだけは確定的に明らかとなった。

 しかし、マーク・ハミルとキャリー・フィッシャーの俳優人生に焦点を当てたメタ的な視聴法によって2回目の視聴を意義深く、感動的に終えることができたので、諸賢にそれを開陳しようと思う。与えられた低予算をさらに特撮へ割いたサイエンス・フィクションに、ギャラの安さだけが理由で呼ばれた新人俳優の二人が、予期せぬ形でシンデレラボーイ/ガールとして祭り上げられ、その後は肥大化してゆくスターウォーズのタイトルに人生を呪縛され、その重力から逃れようとずっともがき続けてきた。本シリーズを足がかりとしてスターダムを駆け上がったハリソン・フォードとは裏腹に、二人は好むと好まざるとに関わらず、そのアイデンティティをスターウォーズに規定され続けてきたのである。

 しかし最後のジェダイにおいて、マーク・ハミルとキャリー・フィッシャーは初めて、スターウォーズのタイトルに正面から拮抗し、ついには凌駕してのけた。二人の人生と俳優としての力が、40年の永きを経て、このビッグタイトルにまさったのである。前作から少しも話の進まない冗漫な、絵ヅラ優先の典型的イディオット・プロットであるところの本作は、マーク・ハミルと、奇しくも本作が遺作となってしまったキャリー・フィッシャーへ、最大にして最後の舞台を与えたという一点においてのみ、他のすべての欠点を度外視して肯定され得る。

 我ながら底意地の悪い興味ではあるが、果たしてカイロ・レンとレイの俳優がスターウォーズという巨大な重力に対して、今後どのように人生を規定されていくかという点を個人的に見守っていきたい。現段階の観測として、アダム・ドライバーはハリソン・フォードと同じく、軽々とスターウォーズを踏み台にしていけるだろう。しかし、デイジー・リドリーはどうだろうか。本人の発言からもすでにある種の不安が垣間見えるし、意地の悪いインタビュアーが40年後に本作のキャリー・フィッシャーと同じようなオファーを受けたらどうするかという質問をしていたが、そんな質問を許してしまうこと自体が周囲の見方を如実に表している。

 まあ、辺境の惑星へ捨てられていた割にお肌もツヤツヤしており、唇の血色もよく、身体の肉付きも健康的、ワキや鼠径部に至るまでのムダ毛処理も完璧だろうと思わせる眉毛の手入れなど、このファッキン・ディズニー・プリンセスには、同情の余地なんてないのである。最低のビロウ・トークをもって、最後のジェダイ2回目視聴後の感想を終える。 

 最後のジェダイ追記。本作を視聴して新シリーズへの熱がだいぶ冷めた理由としては、前作で提示された伏線と思しきものをすべて無視した上で、今回の作劇が成された点にあります。ふつう三部作なんだから、最後までプロットが組んであって、若干の軌道修正はあるにせよ、想定された結末に向けて物語を編んでいくんだろうと思うじゃないですか、ふつう。でも今回のやり方は、例の週間少年漫画誌と同じで、良く言えば読者人気とアンケートを見ながらのライブ方式、悪く言えば先を決めない行き当たりばったりで、伏線から今後の展開を想像する楽しみが受け手から全く奪われてしまっています。推理小説の解決編で、作中に全く登場しなかった人物が犯人だったと考えてみてください。能動的な物語の受け止めを禁ずるような、極めてコントローリングなディズニーの姿勢を感じざるを得ません。こうなってしまえば、次回作で今回の内容をまったく踏まえなかったとしても(レイがルークの娘だったとか!)何の不思議もありません。

 だからもう私は、ディズニーがお仕着せる受け身の観客にただ徹して、スターウォーズについては前もって何も考えないようにしたいと思います。いま気がつきましたけど、ハンターハンターの面白さって伏線をきっちり張った上で、読者のあらゆる予想の埒外からそれを回収するところにありますね。キャスリーン・ケネディ・パイセンにも、この誠実な創作姿勢をぜひ見習って欲しいですね!

 あとオマエ、ライリー先生って誰ですか、だと? バカヤロウ!  nWoオールタイムベストに必ず入るところの(忘れてた)良質ジュヴナイル、「遠い空の向こうに」へ登場する、ホジキン病に倒れたMissライリーのことに決まっておろうが! ジュラシックなんとかゆうパチモンに言及する、したり顔のニワカ映画ファンどもめ! オクトーバー・スカイは1999年の作品だが、おい、ローラ・ダーンてめえ、この頃から演技の進歩がまったくねえじゃねーか! このパープル・ブラッディ・ビッチが、てめえの役割をアクバー提督さんにゆずりやがれ!

ゲーム「FGO第2部第4章」感想

 fgo第2部4章、私の観測範囲では無音に近い。nWoの更新もそうだが、あまりに完成度が高いものは、ときに圧倒的な沈黙を招くことがある。忘れた頃にやってくるこのハイクオリティの本編こそが、ゲーム部分では惰性のエー・ピー消化と化したエフジーオーを続ける唯一と言っていい理由だ。

 今回は登場するすべての人物に血肉が通っており、歴史上の有名軍師におたくのガワをかけてネットスラングをしゃべらせるだけの、中身の無い昆虫みたいな突貫工事のキャラ立てとは天と地ほどの違いである。もしかすると、「不自然なほどすべてのキャラが書き手から平等に愛されている感」に瑕疵を感じる向きもあろうが、私は諸手を上げての全肯定である。

 この4章、第2部の他と比べてあまりにレベルが違いすぎて、例えるなら「100m走で9秒台をマークしたと思ったら、優勝者のタイムは2秒だった」ぐらいの感じさえある。この違いがわからない君には、特段エフジーオーをプレイする理由はなかろう。確かに手クセっぽいところはあるし、「強大な敵への対処は、いつも屁理屈を屁理屈で上書きするトンチ合戦と化す」や「ただの人間でも体術や拳法を極めれば、魔獣や英霊をも凌駕できる」といった「あー、ハイハイ、またコレね」と言いたくなる展開を食傷とみなす向きもあるかもしれない。でも、好き! 好き! 大好き! これらの要素はいわば贔屓の定食屋を贔屓にする理由、焼きすぎる魚のコゲや、少しだけ辛すぎる漬物と同じ性質のものだからだ。

 緻密なストーリー構成を、過不足の無い文章と挑戦的な修辞表現が編み上げていく。終盤の展開に至っては、二転三転、四転五転と、読み手の予想をハイペースに裏切り続ける。しかしその裏切りは、確かな技術に支えられているがゆえに、裏切らんを目的とした凡百の物語とは異なった快楽を与えてくれる。そして、ブラヴォと言うべきだろう、彼の物語に通底する人間賛歌の美しい音階が確かに響いている、聞こえてくる。

 われわれ凡人が凡人のまま世界の救済に寄与できること、凡人が世界の残酷さに切り取ったわずかな時間の積み重なりが、時に愛されただれかに人類を存続させる究極の仕事をさせるということ。歴史に名を刻む英雄はひとりでは立たず、永久に名も知られぬ無数の人々がその背中を支えているのだ。基礎研究とノーベル賞は悪い例えだが、それは私たちの世界の実相を喝破していると言えるだろう。

 以前も述べた気がするが、惜しむらくはこの高い普遍性が、スマホアプリで体験するフィクションという新奇性ゆえに、彼のメッセージを受け取るべき本邦の多くの人間には不可視だという事実である。私が思い描くある種の人々は、その外殻だけで拒絶をするし、仮に目を通すに至ったところで、この物語を理解するための多すぎる前提に阻まれて、内包する高い普遍性には到達できないに違いない。

 「不出来を罪と断ずる神の輪廻」--このモチーフだけを見ても、書き手が現代という病理に対して、正面から真摯に向きあおうとしていることがわかる。第2部4章の前には、諸君の言う「虚無期間」が2週間ほどあった。イベントの実装を年単位で計画する人気スマホゲーにはあるまじき、不自然の空白である。これは、なぜだろうか。もしかすると6月1日を境として、第2部4章の公開を遅らせることを決める何かの衝撃が書き手にあり、そこから急遽、相当量の加筆や書き直しが行われたのではないかと推測する。

 ある種の人々にとっては荒唐無稽の、現実から最もかけ離れたジャンルであるにも関わらず、第2部4章は確かに時代と照射しあっており、「いま書かれなければならない」という衝動と切迫性を強く感じる。これは裏を返せば「いま読まれなければならない」という意志でもあり、この傲慢さに至ることのできる数少ないクリエイターを私は愛する。

 「世界の悲惨を前にして、芸術は無力か」という古い問いを思い出す。引きこもりが、空を見上げたっていい--彼の物語は、いつも優しさに満ちている。あらゆる一隅を照らすその暖かなまなざしが、もしかすると世界に知られない場所で、ほんとうにだれかを救ったかもしれない。

 え、この不確かな時代と四つ相撲で格闘する書き手を教えてくれませんか、やっぱ芥川賞候補者たちですかね、だと? キミね、バカも休み休みおっしゃい。そんなの、fgo第2部4章と、ランス10を読みなさいよ。

 あと、nWoも読みなさいよ。

映画「シンエヴァ」特報2.5感想

 特報2.5見る。いや、目に入ってしまう。ハーッ(深いため息)、あのさあ、最後のふりがな付きテロップ、あれなんなん? ほうほう、小学生の新規層を獲得するため? ハハハハ、そっかー、なるほどなー、気づかなかったわー……(突如激昂し、掌で机を一撃する)まともな親がこんな異常で不健全な作品を子どもに見せるわけねえだろ! ユアストーリーのほうがまだ心の傷が浅くて済むわ!

 さんざんQの文句言ってきて、これだけは触れるまいとずっと我慢してボカしてきたけど、もう本当にアッタマきたから言わせてもらう! 聞きたくないヤツは耳ふさいどけ! オマエさあ、震災で未来が絶たれた絶望をリアルに表現するために、二人の間に子どもができなかったことをエヴァQの演出に織りこんだだろ? それだけはよ、人としてやっちゃいけなかったんじゃねえか? 眼窩から血の涙を流す妻の顔を無言で眺めるゲンドウとか、血と肉に爆散する肥えた妊婦体型のリリスとか、リリスから出てきた使徒(イコール胎児)の首をはねたりとかさあ! テメエにとって大切なだれかの尊厳を踏みにじってまで、たいそうな「ご気分」とやらをフィルムに「定着」させる大義なんて存在するはずがあるかよ!

 オイ、結婚してから数年間子どもを授からなかった女性が正月にダンナの実家へ帰省した際、箸袋の「××子」という名前から「子」だけ消されていたみたいな嫁イジメの話を思い出しちまったじゃねーか、けったくそわりい! Qをはじめて見たとき、このイジメの話をはじめて聞いたときと同じくらいゾッとして、もっとも秘すべき夫婦のできごとさえ満天下へ無邪気に(そう、表情だけは深刻に、無邪気に)晒し上げられるなんて、クリエイターのヨメにだけはなるまいと固く誓ったわ!

 あのさあ、アンタ、シン・エヴァをよ、家族と被災者を生贄に捧げてまで完成させた、あの倫理無視・道徳遺棄の大失敗作、エヴァQの続きとして作ることにもう決めたんだろ? そんなら、小学生に向けたひらがな付きテロップなんて一切いらねえし、腹を据えて覚悟を決めろよ! 自らの恥部をさらけだし、家族の恥部をさらけだし、震災から9年が経過したいまの「気分」に正面から向き合えよ! 旧エヴァみたいな、そういう人肉の量り売りみたいな、アングラ単館上映フィルムの作り方をするって、決めたんだろうがよ! それが、子ども向けの冒険活劇漫画映画だァ? いまさらクソみてーな逃げ口上をうって、日和ってんじゃねえよ! 本当に商売抜きでいまを生きる子どもたちの困難さに向きあいたいなら、そのためだけの完全新作を立ち上げればいいじゃねーか!

 そういや、旧劇場版の最後に見たくもねえラブ・アンド・ポップのCMをブチこんできやがったことをいまさら思い出したぜ! 何がシン・ウルトラマンだよ! すでに腰が引けてんじゃねーかよ! またエヴァをプロダクトとして完結させることから逃げるのかよ! いい加減そろそろ大人になって、世間を知りニャさいッ! 今回の冒頭10分公開以降、お得意の広告手法でSNSの反応をリサーチしたら、もうエヴァの現状がどんなもんか、よーくわかったろうがよ! かつて旗振りの急先鋒だった高学歴の知識人や著名人は軒並み沈黙(笑)を守り、出てくる意見は冷めた批判や無関心ばかりで、期待感を示している少数はパチンコから合流した(コード・トリプルセブン!)低学歴・低所得のヤンキーばかり! Qのせいで序破からの客は全員いなくなって、もうどこにも新規なんて増えてねーんだよ! 閑散とした会場には旧エヴァが好きだったから、この作品の最期を看取ろうという層しかもはや残ってねーんだよ! 昔みたいには声もでないヨボヨボのロックスターの、ジジイの腰振りを見にきてるジジイばかりなんだよ! その点で言やあ、シンカイさんのほうがまだ誠実に作品に向き合ってるじゃねえかよ! アンタが適当にしゃべらせた破のシンジ君の「セカイがどうなったっていい」発言に対して、映画丸々一本つかってアンサーしてきたじゃねえかよ! しかもすでに百億かせいで、エヴァ・リブートよりはるかに売れてんだよ!

 なに、天気の子の終盤で雷が落ちたトラックの挙動がおかしくないですか、どんな物理法則で前輪が浮いたんですか、あと落雷から爆発までしばらく間があるのもよくわからないです、だと? バカモノ! あれはシンカイさんが旧エヴァ劇場版でネルフ職員の「南の、ハブステーションです」という台詞の直後に、トラックの正面から砲弾が二発撃ち込まれ、時間差で爆発したシーンのカッコよさにウレションし、オマージュし、トレースしたからに決まっておろうが! シンカイ・ワールドの物理法則はエヴァンゲリオン・ワールドに準拠し、さらにエヴァンゲリオン・ワールドの物理法則は、トクサツ・ワールドの物理法則に従う! つまりシンカイ・ワールドの背景美術がハイパー・リアルなのにところどころ物理法則がおかしいのは、エヴァ好きが昂じすぎて結果として、トクサツ・ワールドから動きを孫引きしてしまっているからだ! ピアノの一音ごとに背景が切り替わる演出は旧エヴァ劇場版の実写パートから引っ張ってきていたり、女子のパイオツのサイズに関したビロウ(尾籠)・トークと思春期ポエム以外は、シンカイ・サンにとって映画はぜんぶエヴァンゲリオンなんだよ!

 怒りすぎて何を言っているか自分でもわからなくなってきたが、シン・エヴァではもうこれ以上、矛盾した情報を小出しに撒いて、視聴者を混乱させることでバズらせる(バズってない)宣伝手法を使うのをやめてくれ! 何があっても来年6月までは生き延びて、必ず初日に見に行くから、品よくおとなしくしていてくれ! シン・ゴジラのときに興行はバクチと言っていたが、エヴァの大看板に対して小手先の広報は必要ないどころか、むしろ邪魔になってると言わせてくれ!

 頼む、どんなキッタネー最期を迎えても、必ず看取るって約束するから!

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

映画「シンエヴァ」冒頭10分感想

 シン・エヴァの冒頭公開を見て、自分でも驚くほどにガックリきている今の心情をここに残しておきたい。

 エヴァ新劇場版、序と破までは明快にエンタメ活劇路線だったし、カントクと作品の間に適切な距離感があった。新しく会社を立ち上げ、エヴァという大看板を意識的に利用して、アニメ製作の社会的位置をきちんと確立することを主眼に動いているように見えた。タイアップを含めたマネタイズをきっちり行い、スタッフにはスキルに応じた金銭的還元を怠らず、公開後は全記録全集でいかに創造したかの舞台裏を後から来た人たちが理解できるよう丁寧に残して、持続可能な文化プラットフォームとして日本のアニメを未来へ繋げていこうという確かな意志が感じられた。個人的には、カントクの公人としての性格が前面に押し出されている感じがしたわけ。登場する大人たちも旧作よりはずっと成長していて、それぞれが次世代への責任を果たそうと動いていたし、作品の内外にわたるそういった成熟のおかげで、見ていて大きな安心感があった。

 それが、Qでガラッと変わってしまった。序破のエンタメ活劇から純文私小説路線に切り替わり、カントクと作品の距離がゼロになって、旧作のように彼の情動がモロに前面へ押し出されるようになった。サードインパクト後の世界設定が嘘くさく空回りしているのに、「男と女」「セックス」「石女」などのモチーフだけが妙にリアルで生々しくて、両者のバランスが非常に悪いがゆえに、ひたすら不安感だけを掻き立てる作品となってしまった。意識的かどうかはわからないが、Qではカントクの私人としての性格が前面に押し出されている。

 公開後、自信をもって送り出した作品に対する批判的な受け止められ方にカントクは苛立っているように見えたし、Qについてだけ全記録全集が発売されていないことはこの推測を裏付ける。Qにおける大きな変節は、東日本大震災に影響された(御大が被災地にカントクを連れていきさえしなければ! 彼は眼前に広がる光景に「衝撃を受けなければならない」し、自分はそれに「作品をもって応えなければならない」と真面目に考えたのだと想像する)ゆえだと私は確信している。

 もしかすると、シン・ゴジラの大成功によってその呪いは解かれたのではないかと、どこかで期待していたのだ。しかし、公開された10分余の冒頭は、あえて言う、失敗作だったQの続きとなっていて、魅力のない新キャラと舞台設定を画面密度と情報量(空疎な造語が主な)で無理矢理に押し切ろう、マイナスから物量でメーターを振り切ることで前作ごとプラスに転換しようとあがいているとの印象をしか受けなかった。正直、序破の段階では「迫りくる滅亡を前に、小異を捨てて大同へ団結する人類」みたいな展開を期待していたのだ。今度こそ自らが生み出したセカイ系を打ち破り、相容れない他者と協調しながら世界の存続を目指す--シン・ゴジラでは、それができていたのに! そもそも、協調すべき他者としての人類はQ世界では死に果ててしまっており、もうどこにもいないのだった。

 「科学技術ではギリギリ届かない空隙を、人の知恵と努力で補って勝つ」という、かろうじて我々の現実の枠内に収まる(ように思えた)制約から来ていたエヴァの醍醐味は、重力制御なんてもの(古代人のオーバーテクノロジー!)が出てきた時点で、作品世界のルールの底が破れて、雲散霧消してしまった。依拠する現実を失い、次元跳躍、時間遡行、死者蘇生、何が出てきてもおかしくないこの状況は、自由を突き詰めた先の狂気に達していて、シン・エヴァの何を楽しめばいいのか私にはわからなくなってしまった(少し気持ちが動いたのは、パリの街が復元したところと、USBの裏表を間違えたところだった)。

 じゃあ、公開されたら見ないのかと聞かれれば、初日のできるだけ早い回に見に行くだろう。内容に関わらず、三回は見るだろう。若い諸君からの「イヤなら見なきゃいいじゃん(笑)」の軽口が聞こえるようだが、二十年以上(二十年以上!)を人生と並走した作品の完結編である。二十年以上を連れ添うDV夫について「別れればいいじゃん(笑)」のご忠告に従ったとして、DV夫と過ごした二十年が人生から消えることはないし、平穏な日常に現れた彼はヨリを戻そうと、また昼間から超絶技巧のセックスで迫ってくるのだ。

 あと、エヴァQと最後のジェダイは、連作なのに張られた伏線には特に意味が無いことを示し、シリーズの持つ暗黙のお約束(不可欠な)を壊した点で、非常に似通った性質を持つ作品だな、と思った。どちらも「別にそれをやること自体は否定しないけど、わざわざ固定ファンのついたシリーズでやらなくてもいいんじゃねえの? あれか、新作だとそのアイデアじゃ客がつかないからか」という気分にさせられる。ライアン・ジョンソンはポッと出のお調子者だからまだ許せた(許せない)が、カントクはエヴァの創始者その人なのだからいっそう罪が深い。

 それと、素朴な疑問なんだけど、どんどん敵役でエヴァもどき人造使徒(あるいは使徒もどき人造エヴァ)が出てくるけど、あれ、誰が作ってるの? ネルフってもうおじさんとおじいさんの二人しかいない組織(副司令が黒幕の電源プラグを手ずから抜きに行かなければならないほどの人手不足)なのに、ねえ、誰が作ってるの?

 え、AVANT2あるの? マジで? これはやはり、破の続きバージョンも用意されて……(以下、ループ)

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

ゲーム「ランス10」感想

 男の子ならだれでも、ドラクエやエフエフ(ファイファン派は死ね)やメガテンに影響を受けて、びっしりと俺設定の世界観を書きこんだ大学ノートを実家の押入れに眠らせているものだ。そして大人になってから読み返して悶絶し、セロテープの跡やらで全体的に黄色く汚れたそれを夜中にコンロで焼却するものなのだ。

 ちなみに、知り合いの場末の皇族がファミコン版キャプテン翼2に大ハマりし、びっしりとオリキャラとその必殺技を書き込んだノートを手元に用意している。表紙にはキャプつばのロゴを雑誌(ファミコン通信)から切り抜いたものがベタベタと貼り付けてあり、その下になぜか英語で「イントゥ・ザ・ワールド!」と書かれている。1ページ目を開けば狼に育てられたという設定の双子、アマラくんとカマラくんのステータスが鉛筆の汚い字で書かれており、必殺シュートの名前はウルフ……エンッ(鼻血を吹きながら後頭部方向に倒れる)!

 ことほど左様に、ピコピコa.k.a.ファミリーコンピュータは罪深い。ランスシリーズのはじまりは、ドラクエに影響を受けたそんな大学ノートの殴り書きと、自分のモテ体質に自覚的なアドル・クリスティンが悪意でヒロインをコマしまくったら面白かろうぐらいの、居酒屋のワイ談から始まったのに違いない。それがどうだ。30年近い時を経て、このシリーズ最新作は情動のタイムマシンとしてプレイ中ずっと、名成り功遂げた、普段はエロゲーの存在がこの世にあることを知らないようなツラで生きている、感情の磨耗したオッサンを感動の涙で泣かせ続けている。すべての社会性のヨロイを剥がれ、まるでピュアな中高生に戻ったかのように、翌日の仕事を斟酌しない徹夜でのプレイを文字通り泣きながら強いられ続けているのだ。

 ちなみに、泣きのツボを最も強く押されたのは、魔界と人間界の間にある砦の、副隊長の話である。諸君のうちにもいるだろう、先細りの業界の撤退戦で責任を預けられただれか。「貧乏くじだ」とボヤきながらも、責務を投げ出さない彼の姿に己を重ねた向きも多かろう。

 かくの如く、膨大なシナリオ群が走馬灯もかくやと、過去の情動の追体験を促し続ける。そして、ふと気づく。こんなも気高い感動を呼び起こしているのが、決して日の当たる場所へと出ることのないエロゲーなのだという、目眩のするような事実に。ファミコンへのアーリーアダプターたちの少なくない数が、その鋭敏な嗅覚と先見性から、いまや高い社会的地位を持ち、世に幾ばくかの影響力を有する人物になっているに違いない(そうでない者は犯罪者になってほんのいっとき耳目を集めたか、世間の無視の中で孤独に死んだ)。そしていま生き残った彼らは、私と同じようにランス10をプレイしながら、日常では周囲の誰ともこの叫び出したいような感動を共有できないことに、そして自分があまりに遠くに来てしまったことに、ほとんど絶望と近似値の深い感慨を得ているはずなのだ。

 ブスは足蹴にして唾を吐きかけ、美人はすぐさま押し倒してレイプ、そして彼は世界の王に選ばれて、ついには人類を救済する――こんな異常者の(そしてすべての男性が持つ)妄想を心の底から楽しんでいることを、妻が、娘が(息子はオーケ)、隣人が、同僚が、部下が知ったなら、どのような迫害の末の社会的抹殺が待ちかまえていることだろう!

 だが、それでも私は、どんな文学賞さえメじゃない、どんな権威ある承認をもらった作品よりも、この物語が大好きなのだと声を大にして言いたい! パラリンピアンがオリンピアンをガチの真っ向勝負で凌駕してしまった不認定の記録、非公式の歴史、それがランス10なのだ! 現在、スマホゲー業界を席巻しているエフジーオーも元はと言えばエロゲー出身で、更に言えばおそらく中高生の大学ノートから始まった何かである。しかしあちらは早々とエロを切り離し、切り離して本体に影響の無い、良性の腫瘍くらいのエロだったわけだが、より洗練された何かに形を変えてしまった。

 もしソシャゲ化されたら俺様がエフジーオー以上に課金するだろうランスシリーズは、本体と悪性腫瘍が完全に癒着してしまっており、切除は本体の死につながる。つまり、エロゲーというジャンルにおいてしか、成立し得ない物語なのである。エフジーオーを鞘に収まった刀剣と例えるならば、ランス10は破傷風必至の赤錆を浮かべた釘バットである。刀剣ならば美術品としての価値もあろう、剣術の流派もできよう、しかし、釘バットは怒れる若いヤンキーの手を離れてしまえば、どこにもたどりつかない。ただ対象となった一人を傷つけ、いつまでも消えない傷痕を残し、死ぬまでの時間を長く苦しませるだけである。私もたぶん、最初は釘バットでよかった。しかしnWoもその番外編であるMMGF!も、釘バットを完遂できず途上に中絶を遂げた。それはたぶん、いつか刀剣に憧れてしまったからだ。30年もの長い時間を経たにも関わらず、釘バットであることを完遂したランス最終作に、心からの拍手と敬礼を送りたい。

 ランスシリーズの制作者も人生の晩年に差しかかる頃なのだと思う。だから、誠実に続編への未練をすべて断ち切って、物語を終わらせた。某潜入ゲームのようにプロダクトとしての醜悪をさらすことを好まず、作者が死ねば続きもありえない、つまりアートとして作品を完結させたのだ。若い君にプレイしてくれ、とは言わない。ただ、ほんの半世紀ほどをしか生き延びなかった、その半世紀を共に生きなかった者には決してわからない感情が確かにあったのだという事実をただ、君に知っていて欲しい。

 スレイヤーズ!が世界の謎を解明しなかった恨みは以前にどこかで述べた気がするが、少なくとも完結はした。バスタード!とベルセルクとガラスの仮面と王家の紋章とグインサーガと日本ファルコムは、ランスシリーズの爪の垢でも煎じて飲めばいいと思った。おい! 特におまえ、グインサーガ! あとがきで主人公の子供たちによるグイン後伝とかぬかしてたくせに、本編も完成させずに死にやがって! ランス10の2部を見習えってんだ! おかげでカメロンはあっさり死ぬわ、アルド・ナリスは復活するわでたいへんなんだからな!

 あと盛大なネタバレだが、第二部において孫子の代のセックスを「描かない」と決めたことへある種の共感を覚えたのは、最後に伝えておきたい。倫理観と表現すると強すぎるこの上品な忌避感は、まっとうな大人のそれに違いなく、シリーズと共に年齢を重ねた制作側と遊び手側の成熟を称えている気がした。

 いつでも世界を破壊できる力を持ちながら、一人の女性に向けた恋慕だけが、その衝動を抑えるよすがとなる。彼の苦しみと葛藤はいかばかりだったろう。そして、15年越しに初めて伝えられた「好きだ」という想いを、私たちは30年越しで目にする。ここまでやらなければ、すれっからしのおたくどもは、愛を信じることができない。

「ああ、世界丸ごと好きになるといい」 「なんで?」 「良いことがあるから」

忘備録「Fallout3が大好きな話」

 フォールアウト3が大好きだって話、したことあったっけ? 無人島に3つだけゲームを持ち込んでいいぞって言われたら、「女神転生II(FC版)」「Diablo2」「Fallout3」(英語表記のほうがしっくりくるな)を挙げるぐらい好き。

 どれだけ金持ちになっても、どれだけ社会的地位が上がっても、死ぬまで決して達成されないだろう夢が、私にはある。それは、「人類が滅びた後の街を一人きりで散策する」ことだ。TDL(トーキョー・ディズニー・ランド)には露ほどの興味もないが、TWL(トーキョー・ウエイスト・ランド)が実在すれば間違いなく年パスを買うに違いない。

 世界中の国々を旅行した人でも、自分の住む小さな町の、すべての家々を、すべての部屋を、くまなく見たことはないだろう。たぶん、ファミコン版の女神転生IIに植えつけられた、この人には言えない欲求ーー経緯はどうあれ、人類をできるだけ長く継続させる側にベットして、日々を過ごす身にとってはーーを大人になってはじめて、わずかにでも満たしてくれたのが、Fallout3だった。ニューベガスでもなく、その続編でもなく、Fallout3だけが私にとって特別なのだ。なぜここまでこのゲームに強く引かれるのか、ずっと言語化できないでいた。

 つい最近、SteamのセールでFallout4が2,000円強(FGOのガチャ1回分にも満たない!)で売られており、PS4版を途中で投げ出していたこともあって、色々MODをつっこんでプレイを始めた。二十時間ほど遊んですっかり疲弊している自分に気がつき、なぜPS4版をプレイしなくなったかを思い出した。

 Fallout4の、何が私を疲れさせたのか。異様に密度の高いロケーション、次から次へと起こるクエスト、拠点の構築と防衛に資源の確保と管理、そして何より、出会う人出会う人、だれもが世界の再生と人間の復興を希望していることーーそれらが私を疲れさせたのだ。グラフィックやアクション性、物量の部分では前作をはるかに上回っているが、Fallout4はあまりにもあらゆる瞬間をゲームとして遊ばせようとしすぎ、「滅びた世界の散策」という要素が背景に追いやられてしまっている。

 ここに至り、私がFallout3の何に引かれ続けてきたのかが、わかった。Fallout4が明確にゲームであるのに対して、Fallout3は夢と記憶の物語なのだ。シェルターの扉が開き、はじめての陽光にホワイトアウトする視界から、広がる廃墟へと焦点が戻っていった瞬間の衝撃を忘れない。ああ、みんな知らないふりで嘘をついていたんだ、やっぱり世界はとうの昔に滅びていたんじゃないか、というあの深い”安堵”。

 そして、ロケーションがわずかに点在するばかりの広い世界を、ただひたすらに歩く。おのれの足を使う以外、移動手段は存在しない。あまりに多くの時間を一人きりで過ごすので、たまに出会うレイダーやミュータントにさえ安らぎを覚えるくらいだ。フィールドは瓦礫に寸断されていて、地下鉄がそれぞれをつなぐ。建物の内装は多くが似たりよったりで、長い旅の果てにたどりついた未知の場所で不思議な既視感を抱く。

 キャピタル・ウエイストランドでの体験すべてが、思い出せそうで思い出せない夢か、いつかあった遠い記憶のできごとのようだ。夢は映像を失ったあとも切なくもどかしい感情だけをうつつに残し、忘れることができなかった断片からコピー・アンド・ペーストで復元された記憶は、頭の中でいつまでもいびつな輝きを放ち続ける。Fallout3は、「己の死を終点とした未来に至るまで、一度も経験することのない過去の記憶」として、今でも私の中に輝き続けている。

 さて、ここまで書いてきれいに終わればいいのだが、私にとってインタッネトーはエッセイ置き場ではなく個人的な日記帳である。Fallout4、ゲーム内でさえ他人のために我が身を粉にして働き続ける勤勉な自分に嫌気がさしてきた頃、2つのMODを新たに導入した。

 1つ目は、各拠点の運営をいわばシムシティ(あるいはポピュラス)化するもの。都市計画と資源を与えれば、住人たちは勝手に町を築き、生産を行い、防衛まで自分でする。これにより、私は再び一個の放浪者として解放された。

 2つ目は、オーバーオールの金髪少女をコンパニオンとして追加するもの。愛らしい外見(setscale 0.9推奨)で、独立した骨格と動きを持っており、「え?」とか「ほっといて!」とか、作中のNPCから抽出したいくつかの台詞をしゃべるだけ。シナリオからは完全に離れた存在で、ロマンスもなし。周囲は彼女をいないもののように扱い、渡した武器を使ってもなぜか弾薬が減らない。

 小学生の時分、神戸の近くに住んでいた。港が近いせいか、外国人家庭の多い地域だった。学校がはけたあと、裏山に作った秘密基地で遊んでいると、しばしば金髪碧眼の子どもたちがやってきて、ときに小競り合いになった。あるとき、私たちの投げた石があたって、彼らの一人が額から血を吹いた。事後の顛末も含めて他のすべては曖昧なのに、その瞬間の、白い肌に流れた血の赤さだけを鮮烈に覚えている。

 もしかすると、目の前にいる愛らしいオーバーオールの少女は、知らず殺してしまったあのときの白人なのではないか。人造人間たちとの激しい銃撃戦のあとに周囲を見渡すと、薄暗い室内で廃材の隙間から差す陽光が、スツールに腰掛ける少女をしんと照らしている。やがてゆっくりと振り返りながら、少女は肩越しに焦点の合わない視線をよこす。瞳に浮かんでいるのは、怒りか悲しみか、あるいは私への恨みなのか。その姿に私は、存在するはずのない遠い記憶を幻視する。夏の陽射しに立ち尽くす、金髪の少女と、やせぎすの少年と。

 しかし、シムシティMODの無粋な発展報告ウィンドウが、否応に私を現実へと立ち返らせた。かぶりをふると、ケロッグの追跡行を再開する。曖昧な気配が変わらず、背中を追ってくるのを感じながら。彼女は、いつか私を殺したいのだろうか。

 Fallout4をFallout3化するMOD、a.k.a.「Charlotte -simple companion-」、謎の管弦楽団・ペドフィルの首席指揮者も認める太鼓判ですぞ!

ジョーカー


ジョーカー


正直、ヒース・レジャーのジョーカーを究極と考えているので、見る気はなかったんです。ダークナイト・ライジング(ライジズ)の感想でも言いましたけど、児童虐待とか幼少期のトラウマから、長じて社会に復讐するみたいなのって、ありきたりじゃないですか。行動原理の理解できなさ、まさにジョークによって社会を混乱に陥れる存在としての悪の誕生を、実社会を生きる一個の人間からどうやって描くんだって話ですよ。でもね、スチルのホアキン・フェニックスの表情がデ・ニーロとかニコルソンの怪演を彷彿とさせたところと、彼がなんとリバー・フェニックスの弟だってことを知って、MOD導入失敗のヒマにあかせて期待ゼロで見に行ったわけですよ。そしたら、照明が消えるまでは半笑いだったアニメ絵のゴスロリ美少女が、130分後には皺の一本一本まで丹念に描かれた劇画調の中年男性に変貌して、滂沱の涙を流したスタンディング・オベーションを送っていたわけですよ。関西の片田舎の映画館だから、周囲は迷惑そうにその中年男性を見てましたがね。ロバート・デ・ニーロを主人公と対峙する司会者役に配していることからもわかるように、本作が現代版タクシー・ドライバーを意識して作られていることは、確定的に明らかでしょう(キング・オブ・コメディ? 未見です)。DCコミックのジョーカーという大看板を隠れ蓑にして監督が本当に描こうとしているのは、いま現在、進行しているのに、だれからも不可視である危機への警鐘であり、純粋な社会批判なのです。それを証拠に、本作はゴッサムシティを舞台にしなくても、バットマンに至る前日譚の要素を抜いても、充分にストーリーが成立するし、単館上映から口コミで劇場数が増えていくような類の、極めてマイナーな作りになっているわけです。ジョーカーというキャラクターは、それ抜きに描かれた場合あまりに現代社会の有り様と政治に対する露骨な批判と捉えられてしまうため、監督の意図するところの隠れ蓑として使われたという感じさえ受けます。さもなければ表現することをゆるされないような、本邦に生活していては想像できないような、息苦しいポリティカル・コレクトネスのムードが米国にあるのではないかと想像するのです。有名作品のリメイクさえ、主人公がブラック・パーソンに置き換えられる昨今、かの国においてストレート・ホワイト・アンド・プアは、いずれの社会・政治・文化状況からも顧みられない存在なのだろうということをひしひしと感じさせられます。そして素晴らしいのは、今回のジョーカーは自身では何も決断しないという点です。テレビに出演するまで、いや、拳銃をデ・ニーロに向ける直前まで、彼は衆人環視の中での自死(なんという甘美な妄想!)だけを願っていたのですから! ただ周囲の状況に流されていく中で、あらゆるテンションが高まった先の結節点となり、社会擾乱のアイコンとして白痴のまま、彼は押し上げられるのです。これはまさに、時代の要請が民衆に英雄を選ばせるプロセスと同じであり、社会という意志なき意志による否応な選択を見事に表現しています。メディアやSNSによる無責任な伝播ーーその瞬間を埋めるためだけに偽りの狂騒を煽り、翌日には消えてしまうような激情で偽りの情報を拡散するーーが、ついに究極の悪を世に顕現させるというのは、じつに示唆に富んでいると言えるでしょう。昨今のデモを予見するかのような、マスクをかぶっての暴動とか、脚本段階では意図しなかった現実とのリンクの仕方(エヴァンゲリオン!)も名作の条件を満たしています。しかし何より、この脚本を説得力のあるものとして成立させているのは、他ならぬ役者の力でありましょう。ホアキン・フェニックスの身体のしぼり方は、マシニストのときのクリスチャン・ベールを思わせ(バットマンつながりだ!)、たたずまいのみで台詞以上の多くを見る者に伝えます。脚本的には、生放送中にジョーカーから3人の殺人をうちあけられた司会者が即座にそれを事実として信じたり、冷静に考えるとおかしな部分もいくつかあるのですが、細かい瑕疵をすべてホアキン・フェニックスの演技が説得力に変えていくのです。あの場面では、反逆者としてのデ・ニーロが権威者としてのデ・ニーロを射殺するみたいなメタな読み方もできて楽しいし、さまざまな視点を許容するのは良い作品の条件と言えましょう。アンチ・ヒーローの肯定と受け取られないよう、最後に精神病患者の妄想だったのではないかという解釈を(わざと)コミカルに用意したり、本作の訴える尖ったメッセージへの非難をなんとかかわそうという作り手の苦心がうかがえます。万引き家族もそうでしたが、弱者の犯罪行為に対して観客の感情を同情や共感へ誘導することで、現在の社会体制やマツリゴトが間違っていると気づかせる手法は、為政者にとって操作しようがない(なぜかテリーに映らないトーキョーのウォーター・ディザスター!)という点で非常に厄介でしょう。どんなに能力を欠いた凡庸な人であったとしても、どんなに病弱で生産に寄与しない人であったとしても、それぞれ「ハッピー」に生活を送ることのできる場所を与えるのが人々の集合体の本来であり、「ハッピー」でない人をどこまで我慢させることができるかが教育の正体(少なくとも本邦の)と言えます。
しかしながら、個々の我慢は一時的なマージンに過ぎません。この映画のラストのような暴発に至らせない「我慢のさせ方」のさじ加減がマツリゴトの本質的な妙技であり、暴発がマツリゴトを動かす状況が続くことはやがて社会の革命へとたどりつくでしょう。我々がいま、その端緒にいないことを祈ります。……って、高天原勃津矢が言ってました!

アイスボーン


アイスボーン


アイスボーン、とりあえずエンディングまでクリア。ここまでの感想だが、本作のハンターはとにかく強すぎる。攻撃操作を右レバーで行なっていた時分からの大剣使いとして言わせてもらえば、「抜刀納刀による機動力」「真溜めによる爆発力」「クラッチによる対空迎撃」に加え、限定的だが気絶攻撃まで追加され、全方位的に隙が無さすぎてモンスターが気の毒になるくらいだ。無印のときに見つけた海外の感想「このゲームはリアルな動物虐待だ」が笑えないぐらいのタコ殴りっぷりである。おかげさまで、これまでのところコントローラーはひとつも破壊されていない。個人的には、アルコールを入れながらプレイできる、このくらいのユルさがちょうどいい。今後はきっと、王とか極とかが追加され、ストレスフルな環境へと変じていくのだろうが、いまは弱い敵相手のミー・ストロング、達人ゴッコを楽しみたいと思う。あと、無印からずいぶん経っているのですっかり忘れていたが、このシリーズ、シナリオというか文芸がとにかくひどい。ゲーム部分の完成度の高さに比してあまりに拙劣なので、ライターが社長の親戚みたいな強いコネの存在を疑うばかりである。特にイビルジョーをもじって腐される例の嬢の人物造形は、二択で間違ったほうを選び続けたような悲惨さに達している。食いしん坊で好奇心旺盛、天真爛漫でおっちょこちょい、抜けてるように見えるけど本当はしっかり者、若さを重視せず年上の女性にもきちんと敬意を払うーー老若男女、だれからも好かれるキャラを目指した結果、好印象を与えようという意図が交通渋滞を起こしており、全方位的に嫌われる歪なキメラと化してしまっている。調べると女性ライターであり、「男ってみんな、よく食べる頭カラッポの若い娘が好きよね。でも、この子は本当は賢くって芯があって、年配の職業夫人をキチンと敬えるのよ。あと、育ちがいいから達筆なの」みたいな昭和感あふれる、ねっとりとしたワイン片手の解説が聴こえてきそうだ(幻聴です)。ゲームはアートである前にプロダクトなのだから、個人の感性によるライティングに預けず、ピクサーみたいに複数のライターによる合議制にした方がいいんじゃないかなあと思った。どれとは言わないけど、最近の劇場アニメにもそれを強く感じます。閑話休題。本作のゲーム部分とシナリオ部分のアンバランスさを現実の何かに例えるなら、「プレイメイトのボディに昆虫の知能を備えたトロフィーワイフ」だと言えるだろう。同時代の雄・エフジーオーは正にこの真逆の欠点を苦しんでおり、世界のままならなさの縮図を見る気分にさせられる。