数年に一度、むしょうにウィザードリィがプレイしたくなることがあって、ざっと調べてみたんですけど、このシリーズって完全に廃れちゃったんですねえ。Steamでさえ、コズミックフォージ以降しか販売していない。まあ、スペック的な制約がゲームの枠組みを作っていたという性質があり、新規層の流入が期待できないので先細るしかないというのはわかりますが、ここまでとは思っていませんでした。
同シリーズでいちばん繰り返しプレイしたのはファミコン版の2(攻略に善悪の2パーティ必要なヤツ)で、キャンプの音楽を聞くと社宅で過ごす日曜の午後に漂っていた空気が、いまでも胸中によみがえってきます。いちばん好きなのはゲームボーイ版の外伝2で、出色の仕上がりのイマジネーションズ・ガイドブックなる攻略本が世界観を補強していて、幾度も読み返しながらプレイしたことを思い出しました。リメイクされないかなーと思い続けて、はや30年(30年!)近くが経過しましたが、その日はどうやら訪れそうにありません。
(ウマ娘の)イベントとレースをすべてスキップして育成を周回する傍らで、アマプラの「無職転生」をぜんぶ見る。評判どおりアニメの出来がいいし、長めに尺を使ったストーリーの転がし方がいいし、何より丁寧にファンタジー世界として舞台を描写しているのがいい。ただ、これらの要素が良いだけに、「転生」って要素いるの?と思ってしまった。現代人の自我でツッコミながらじゃないと受容できないほどハイファンタジーが廃れてしまったのか、はたまた「前世の主人公」と同じ立場の人物を視聴者に想定しているのか、どっちなんだろう。後者だとすれば、すでに現実では手遅れになった自分をファンタジー世界内で心身ともに「育て直している」という視点が否応に入ってきてしまう。そうなると、正しい生育史と社会状況さえあれば自分はうまくやれたというファンタジー、つまり「環境で魂はたわまない」というファンタジーが二重に入ってきて、すごく成長譚としての受け止め方を濁らせる感じがある。実は原作がこの点に意識的で、続くシリーズで「転生」という設定が話の根幹に関わってきて、何らかの形で正しく解消されるなら何も言うことはありませんけど。
ツイッターで好評を見かけたから視聴しましたけど、タイトルは完全に内容と乖離していますよね。魅力的なファンタジー作品なのに、転生にまつわる要素がリーチすべき層への参入障壁になってる気がします。あと「性の問題を正面から扱ってる!」みたいな評も見ましたが、「そうかあ?」って感じです。
テキトーにしゃべりますけど、日本のファンタジーはドラクエ由来で一人称、西洋のファンタジーは歴史由来で三人称だからじゃないですかね。ハイファンタジーにはNHK大河ドラマ的な視聴の仕方が求められるのに受け手にその準備が無いか、そもそも想定される観客には届いてないっていう。
訃報にふれた第一声は、「ば、馬鹿ッ! 本当に死ぬヤツがあるかッ!」でした(関西弁だったけど)。私にとってのベルセルクは、スペースシャトル(様の宇宙船)だったかなー。ノロノロつたない導入部からグングン作画力と演出力が加速し、「蝕」と重なったそのピークの爆発力で重力をふりきって成層圏まで一気に垂直上昇、「ロストチルドレン」で機体が平行に戻ったあとは衛星軌道に乗って、遠くでゆっくりと時間をかけて同じところをグルグル回っている、そんなイメージです。
ドクター・マシリトが作者との対談で、「僕が担当なら蝕のシーンはぜったいに描かせない。若いうちにあれを描いてしまったら、作家として終わる」みたいなことを語ってて、本当に慧眼だったなーと改めて思わされました。ドラクエで例えると、レベル50ぐらいまでの到達とラスボスの打倒をバランスのいいテンポと長さで語るのが、良い少年漫画の基本系だと思うんですよね。昔の作品ならダイの大冒険あたり、最近の作品なら鬼滅の刃がそれに当たるでしょう。ベルセルクって、過去編というかなり早い段階で「蝕」を出してしまい、つまり一足飛びにレベル99へ到達してしまい、運営5年目のアプリゲーぐらいの煮詰まり方から現代編を語らなければならなくなってしまった。これに対する作者の回答は、「物語の失速を、画面の密度を際限なく高めていくことで相殺する」であり、運営10年目のMMORPGみたいに「レベル上限をさわれないので、装備数値の小幅な更新で成長を演出する」のと同じ袋小路に入りこんだ感がありました。少年漫画の歴史は長くないーー老舗のジャンプさえ50年ほどーーがゆえに、これまで顕在化してこなかった「連載の長期化と作者の寿命」という問題が、主に高齢化する読者側の不安として近年は浮上してきており、今回はそれが現実のものとなってしまいました。
いち時代を築く作品というのは、作者がそれを受け止めるだけの充分な研鑽と才能の器を持っていることを大前提としながら、やはり「選ばれて与えられ、語ることを許される」特別な物語だと思うのです。それを語ることは古代のシャーマンがする神おろしのトランスであり、生命を燃やして歌い踊ることで日常を越えた何かの存在を、我々凡夫にもわかるよう伝えてくれるのです。そして同時に、神の依り代となった者は神が身内を満たしているうちに、与えられた物語を語り終える義務があるとも思うのです。長すぎる物語の語り手が、この義務を果たしたケースを私は寡聞にして聞いたことがありません。道半ばに生命を燃やし尽くして倒れるか、もう身内の神は失せているのに、神が共にあるふりをして踊っているかのどちらかしかない。古い世代の例えで言うなら、ベルセルクはまずデビルマンとしていったん短く苛烈に終わるべきだったのに、どの時点からかバイオレンスジャックへと語り方が移行してしまった(脇道であるギガントマキアの世界も、連載が続けばおそらく枝葉として統合されていったと思います)。
少し話がそれますけど、こないだチェンソーマンをぜんぶ読んだんです。まー、これがものすごい速度の漫画でした。本当ならだれもついていけないような速さなのに、読者側の漫画リテラシーというか、フィクション受容能力が昔に比べて格段に上がっているので、作品側が読み手の読解へじかに融合してくるような形で行間を補完させて、わずか11巻という短さであの規模の話を強引に語り切る終わり方をしていて、少年漫画の文化的成熟を前提にした全く新しい作品が出てきたなと思いました。これだけ短いのに、チェンソーマンがハンバーガー屋に客で来るギャグみたいな小噺も混ぜてあって、従来の文脈から登場したのではない、異質の凄みを感じました。「速すぎて短すぎるのにちょうどいい長さ」って、ほんと良い少年漫画の定義を真正面からブッ壊すようなイレギュラーだと思います。
え、紆余曲折あったけど、ちゃんと物語を終わらせたシンエヴァはえらいですね、だって? バカ、シンエヴァなんかをベルセルクといっしょにするなよ! たしかに狂戦士の甲冑はあからさまにエヴァ初号機のイメージをパクッてたけど、あれはテレビ版19話までの影響で、新劇はぜんぜん関係ないだろ! 完結まで25年もあったけど実働は5年ぐらいのものだろうし、神おろしの巫女が見事に舞台を務めて去ったあとの神社で、境内を掃いていただけの下男のオッサンが脱ぎ捨てられた巫女服をひろって身に着けて、キショク悪いアンコウ踊りをクネクネ踊っていただけだろ! だれかのレビューを読んでからしか作品の評価ができない貧相な感性を振り回すの、もういい加減にしろよ!
まあでも、初老をこえたら前触れなく死ぬことはふつうにありますね。最近、私が(nWoなりに)頻繁にツイートをしているのは、現世からカネをかすめとるために90%以上の時間、自我を消滅させて生きているため、私の内側にある何が外で起きても変わらない本質をどこかへ残しておきたいという欲求がさせているのでしょう。そしてその欲求は、「ある日、突然に死ぬ」ということが思春期の甘い妄想ではなく、中年の生々しい現実として実感されてきたからです。頭の中にしかない、「こういう文章で感情を表現しておきたい」というモヤモヤしたものが吐き出されないまま死んだら、地縛霊にでもなりそうな気さえします。
いまの夢は半世紀ほど経って、テキストサイトムラの住人たちがことごとく死に絶えてから、最後のひとりとして小鳥猊下の権威を高めるためだけに、あることないこと語りまくってやることです。アンタたち、せいぜい長生きしなさいよ! アタシより先に死んだりなんかしたら、アンタたちの悪口をふきまくってやるんだから!(アスカ? いいえ、ダイワスカーレットです。なぜかアスカは、私の中からいなくなってしまったので……)
質問:「ば、馬鹿ッ! 本当に死ぬヤツがあるかッ!」ここ、どんな関西弁だったんですか?
回答:「アホか、なに死んどんねん!」です。関西弁、あったかいナリ……。
先のツイート群でちょろっと紹介したマシリトとウラケンの対談ですけど、ベルセルクのファンを自認するなら読んでおいた方がいいですよ。これ、ウラケンから対談を申し入れたんですけど、「大好きな『北斗の拳』を手がけた名物編集者から話を聞きたい」「新しい代表取締役から『ベルセルク』がどう処遇されるか探りたい」「だれも意見をしなくなった自作品の客観的な評価が知りたい」の3つの欲望がないまぜになった、玄妙極まる空気感が行間からビンビン伝わってくるのです。社長とチョクで面識を持つことで、懐に入りこむ意図もあったと思うんですけど、マシリトは白泉社の大看板としての商品価値を微塵も忖度せず、漫画作品としてのベルセルクをド正面から唐竹割でまっぷたつに切り捨て、「とっとと終わらせて、次の作品を書くべき」とまで言い放つのが痛快きわまりない。数少ないホンモノの「深海魚」であるマシリトの凄みと、蝕という一発芸だけで30年におよぶ連載を無批判に許してもらっていることをどこか後ろめたく思う「殿様(PDF)」の怯懦が対比され、思わず口元がほころんでしまうバツグンの読み味なのです。これを読んだあと、もしかするとベルセルクが絵画作品から漫画作品へと回帰するのではないかと一瞬だけ期待しましたが、まあ気のせいでしたねー。
きのう紹介したマシリトとの対談を読み返したんだけど、まー強烈ですね。「なんで蝕なんか描いたの?」「漫画家として寿命が伸びると思ったので」「僕と出会っていれば(蝕を描かなければ)もっと寿命が伸びたのに!」ってやりとり、すごくないですか? つまり商品価値は認めるものの、漫画家として「お前はもう死んでいる」と正面から宣告してるようなもんじゃないですか! 白泉社の会長になってからのインタビューでも、キャスカ復活のことをふられて、「読んでないし、興味ない。ベルセルクは蝕で終わってるから」みたいなそっけない返答をしてて、ウラケンとの対談がオブラートに包んだ会話(あれで!)だったことがわかります。カイチョー、自社の商品でっせ! あんさん、どこまで自分に正直だんねん!
でもまあ、ほとんどのファンが薄々は感じていたことですよね。いま「惜しまれて去るレジェンド」みたいな空気ありますけど、私を含めて13巻までを思春期に体験した者たちの思い出補正が強くて、漫画としての客観的な評価はマシリトが正しいのかもしれません。
ベルセルク20巻くらいまで読んでる家人にウラケンの訃報を伝えたら、第一声が「だれ? 俳優?」でした。漫画家であることと同作の未完を伝えたら、「え、まだ終わってなかったん?」でした。うーん、温度差。小鳥猊下です。
訃報に寄せたみなさんの嘆きとか読んでるんですけど、「死ぬまでに頭の中にあるものを描ききれるかわからない」という作者の言葉を真に受けてる人がけっこう多いのに驚きます。あれ、映画監督が最高傑作はどれか聞かれて、「次の作品だ」と答えるのと同じリップサービスだと思いますよ。あと、グイン・サーガ方式で別の書き手に続きをゆだねる案も見かけましたけど、カイチョーが許さないんじゃないかなあ。
「ベルセルクは20年前に終わっています。どうしてもファンタジー作品を掲載したいというなら、次のベルセルクを探すか育てるかしてください。41巻は欠番になっている話を巻末に収録して、最終巻として発売します。私からは以上」くらいの感じでシンパの編集者たちを封殺してそう。知らんけど。
「もっと言うと、背景はいらないです」。ここ20年のベルセルク全否定! チ、チビシーッ! 小鳥猊下であるッ!
あのインタビュー再読してて感じたんですけど、自分よりも辛辣なことを言ってくれる人がいると、自分が言わなくてもよくなるっていうか、それこそちょっと擁護側にまわったりしていい人ぶれるっていうか、すごく気持ちが楽になりますね! 私の「:呪」も、そんな感じで広まったのだろうことが、なんとなくわかりました。
なんかアニメ雑誌のライターみたいなアカウントにエア言及されてるっぽいツイートを見つけてしまう。「青年の自虐芸で売っていたテキストサイトの管理人がもういい年齢だろうのに昔と同じノリで活動してて痛々しい。人生ってなんだろうって思う」みたいな内容で、あれ、もしかしてコイツ、オレのこと言ってない? どう読み返しても周囲を見回しても、該当者が自分ひとりしかいない気がするなー。その一連のツイート、「その点、みじめになる前に自分から消えた本田透(なつかしい!)はえらかった」みたいに締めくくってあって、なんかすごいモヤモヤするっていうか、端的に言ってムカついた。まあ、せっかくの機会だし、まだ見ぬ別人物の可能性もゼロではないので、こっちもエアっぽくダラダラ所感を述べることとしましょう。
「90%以上の時間、別の自我を演じて社会生活している」って話を以前しましたけど、ふだんの私は眉目秀麗品行方正明朗会計であり、世間様の求めに100%かなう、どこに出しても恥ずかしくない「昭和中期のコスプレ」のようなカタブツなのです。小鳥猊下から出てくる言葉の群れは、出す場所は無いが出さずにはいられない衝動とでも言いましょうか、古い例えで申し訳ないのですが、現役の判事が書いていたとウワサの「家畜人ヤプー」と同じ性質のものなのです。つまり、私のツイッターに記述されているのは、加工される前の「ナマの衝動」であり、現実には一滴も漏らされない廃液と言えるでしょう。少し話はそれますが、理系のバリキャリっぽい女性が10年以上にわたって「しっこ」とか「うんこ」みたいな発言しかしないーーときどき高度な数学の話をサラッとツイートしてドキッとさせられるーーアカウントがあるんですけど、その人物が現実で抱えているであろう責任の大きさや実社会での功績などを想像すると、ちょっと胃が痛くなる感じがあります。まあ、長い話を短く言えば、「ネットで固いこと言うヤツほど、現実がユルめでちゃんとできてないんじゃねえの?」ってことです。ツイートの中身がアホみたいなアカウントほど、中の人はリアル沼正三で、高い内圧を抜く目的でツイッターやってる感じがするんですよね。
まあ、私はそこまでの域ではありませんけれど、小鳥猊下としてツイートするときにいつもイメージしてるのは、オタクの沼正三が書く「ベスト・オブ・ドッキリチャンネル」(あるいは「貧乏サヴァラン」)でしょうか。これ、晩年の森茉莉によるエッセイ集で、ときどき読み返すんですけど、いつもメチャクチャに絶望してるかメチャクチャに怒ってて、全編にわたってハチャメチャに面白い。「爬虫類みたいなタモリがテレビの画面に出てくるとゾーッとしてチャンネルを変えちゃう」みたいなことが平気で書いてあって、初めて読んだとき「ここまで正直に感じたことを書いていいんだ!」と目からウロコが落ちたのを覚えています。いまちょっとパラパラと読み返してて気づきましたけど、ほうぼうに話が飛ぶところとか、文体も内容も完全に影響下ですね。前にも言ったような気がするけど、ギャグ漫画家でデビューした人(唐突に話が飛んだ!)って、かなり高い確率で後期作品がド真面目のシリアスになる傾向があって、両親が体現する「常識」なるものへの反発から始まったはずの創作活動が、ままその重力圏を突破できず引き返してしまうのは、世間に顔向けできる内容で他ならぬ「両親に認められたい」という欲求が芽生えるからだと思うんですよね。
ようやく話が冒頭に戻りますが、このライターもはぐれ者のはみだし者として、ローンウルフの自己定義から始まった稼業を「真面目にコツコツ、世間に頭を下げて、イヤなことも厭わず」続けて生き残っていくうち、マジョリティ側に自意識を融合させていったのだろうと想像するのです。私に言わせれば、そんな場所にたどりつくくらいなら最初から公務員か銀行員でもやってろって話ですが、「いい加減で、がんばらず、まっとうでない」ように見えるヤツに対してどこか非難めいた視点を持ってて、長年にわたって自分がさらされ続けてきた両親からのそれと半ば同化しているように見えます。たぶん、本人も自覚してないと思うんですけど、「いつまでフラフラと浮き草家業をやっとるつもりだ! とっとと身を固めて親を安心させようと思わんのか、バカモン!」みたいな昭和のステテコ雷オヤジの叱責を内在化させてて、反発したけれど否定はできないでいる、その絶対の律法へ従わないふるまいへ、当該のツイート群は個人的な不快感を表明しているように感じられました。「オレはこんなにも我慢(シンエヴァへの悪口とか?)して真面目にやってるのに、コイツはいつまでもいつまでも匿名で好き勝手な放言ばっかりしやがって! もっと正しく人生をやれ! 人生ってのはな、もっと真剣なもんなんだよ!(そうかあ?)」という無意識のやっかみと声にならない説教が、面識もない相手をロウ・ライフ(アット・リースト・ロウワー・ザン・ミー)へとカテゴライズしようとする心の動きになったのではないでしょうか。知らんけど。
私なんかは、我慢せずに言いたいこと言えばいいのにとか思ってしまうわけですが、ここまで書いてきてピンときたんですけど、もしかするとこのライターは何かの拍子に「:呪」を読んでしまい、語られている内容が気に食わない、あるいはうらやましいーー立場上、作品に文句をつけるわけにはいかないーーから、どうしようもなく人格攻撃的なエアリプへと転じたのではないでしょうか(そうとでも考えなければ、からまれる理由がない)。だとすれば、これほど悲しいことはありません。つくづく、シンエヴァというのは罪な作品ですね。ファンの間に分断をしか生まず、人間関係をギスギスさせ、おおっぴらに意見を交換することさえ、ついには公式に封じられてしまったのですから! シン・ゴジラが監督の正のポテンシャルを最大限に発揮した傑作とするなら、シンエヴァは監督の負のポテンシャルを最大限に発揮した駄作で、この2作品はまさに究極の陰陽をなしてますね。結論として導かれたのは、「ぜんぶ、シンエヴァのせい」。おあとがよろしいようで。
ありそうでなかった、美大受験漫画。しかも、大阪芸術大学や武蔵野美術大学みたいなシリツとちゃいまっせ、泣く子も黙るコクリツ様の東京藝術大学や! タイトルだけ見て、なぜか音楽漫画とカン違い(たぶん、ブルージャイアントのせい)してて、最近まで手に取っていませんでした。既存画家の贋作ディーラーを取り上げたりとか、作品ではなく芸大での学生生活を描いたりとか、最終回でハチミツを塗ったパンでクローバーを挟んだものを食わせたり(ネオンジェネシスばりの強引な伏線回収で、何より不味そう。犬の小便かかってそう)とかに「逃げて」ないんです。ガチで正面から、美大受験の作品制作にフォーカスしてるんです。なぜこのテーマがこれまで実現しなかったかと言えば、音楽漫画なら読者の経験におんぶだっこで、「この漫画、ページから音楽が聞こえる!」とかなんとか適当なことを言ってもらえますが、他ならぬ絵で実作品を描いて説得力ーー「たしかにこれは、東京藝大に現役合格する油絵だ!」ーーを持たせなくてはならず、いっさいのごまかしがきかないからでしょう。これまでの同系統の作品が、絵そのものは見せなかったり台詞だけで処理したりして、かわし手を使って読者の評価を避けてきた要素へ、正面から画力で組みに行っているのには「ブラヴォ!」の一言です。
そして、描かれている物語がまた素晴らしい。「複数の人生の全長版が別々の場所に存在していて、それらのどこを切り取って並べれば書き手の伝えたいメッセージがいちばん伝わるか」という手法で作られており、美術に魅入られた人々が抱える本物の葛藤や人生の航跡にグイグイと引き込まれます。あと、女性の書き手に多いと思いますが、作者がキャラクターたちへ「適度に」優しいのも、物語にポジティブな印象を与えています。本作の主人公も闇堕ちみたいな方向へ進む分岐がいくつもあるんですけど、さりげなく作者が介助していって、彼にとって正しい人生のレールへと戻してくれる。この「愛」の量が作品の質を決めると思っていて(この語尾、大キライ)、これが増えすぎて「溺愛」になると、死ぬべきキャラが死ぬべき瞬間に死ねず、物語の停滞を招いてしまう。後期のグイン・サーガとベルセルクがまさにそうでしたね。イシドロがコルカスみたいになったり、シールケがキャスカみたいになったりするかもという読み手の緊張感は絶無でした(もしかすると、ブルーピリオドは現代劇で生き死にの問題にならないので、このくびきから逃れているのかもしれません)。
シンエヴァ(またなの!)のストーリーテリングは本作の真逆で、「描きたい場面」と「言わせたい台詞」のために、キャラの自我をミートチョップでバラバラにしてから縫い合わせてて、死体を操演線であやつる死霊魔術みたいなものでした。ケンスケから釣竿を渡そうと声をかけられて、シンジがちょっと間をおいてから「そんなのできないよ」みたいな台詞を言う場面がありましたけど、ぜんぜん芝居がつながってるように聞こえなくて、初見のときになんだか異様な感じを覚えたんですよね。自我のミートチョップの例えから、声優の台詞を別撮りにするのは、素材として切り貼りの容易な音声データを作るためなんだといま気づきました。声優どうしでかけあいとかさせると、台詞と台詞に関係性が生じて芝居を分離できないから、コラージュの死霊術師にとって使い勝手が悪くなっちゃう。監督にとって最後のアニメ制作が、まさにネクロマンシーの秘術となってしまったことは、いつまでもいつまでも残念です。
話をブルーピリオドに戻します。いま大学生編の文化祭のところを読んでますけど、学生生活の描写はあくまで箸休めで、ガチの作品作りとその苦悩にまた戻ってきてほしい。群像劇で長編化せず、主人公の苦悩へだけフォーカスしたまま、多くとも20巻くらいで終わってほしい。教授会が定刻通りに始まったことはなく(音楽学部は定刻10分前には全員そろうらしい)、卒業生の半数以上が就職せず行方不明になるという、一般人が畏敬の念を抱き、妄想をたくましくする東京藝大の魔性を見せてほしい。また勝手なことを放言しましたが、「これが終わるまでは生きる」リストへ、ひさしぶりに新たな作品が加わったことは事実です。でも、才能ある友人の悩みには、「もう大学生なんだから、家を出て下宿しろよ。それで解決する問題だろ」って、オジサン少し思っちゃうな。
例の南極に行くヤツ、最後まで見ちゃった。さかまき、とどろき、ほえるマイナス感情を吐き出すけど、たぶん一般的な視点とはだいぶズレてると思うので、この作品が好きな人はミュートしたほうがいいかも。
古参のテキストサイト管理人ーーまあ、nWoより3日も新参ですがーーが影響を受けて実際に南極まで行った(すげえ!)という話を見かけて、たしか昨年の今頃に試聴を開始したんですけど、南極へ上陸する手前くらいのところでなぜか辛くなってきて、見るのを中断していたんです。先日、いつまでも避けていてはいけないと、一年越しで「エイヤ!」と気合いを入れて最後まで見ました。結論から短く言えば、理系の正しさで文系のよこしまさを打擲する物語でした。少し話はそれますが、「理系と同じ真理に、いつかテキストでたどりつく!」などと息まいて続けてきた私のサイト運営も、結局はその真逆を証明し続ける結果となっています。先日からんできたライターのように、「足を使い、汗をかいて、顔をつなぎ、相手に寄り添い、我欲をおさえ、個性を滅し、愛想笑いを常に絶やさない」ことでようやく現金化できるというのがテキスト書きの本質であり、「インドの少年が数式を書きつけた紙きれ一枚をイギリスの大学へ送り付けて招聘される」ようなことはぜったいに起こらない、人間関係の中にしか価値が存在しないのが文系仕事なのです。本作(「よりもい」と略すらしい)には、ワードとエクセルとパワポと四則計算ぐらいでこなせる仕事を、ベターな人材がたまたま周囲にいない、あるいはベターな人材はいるけれど周囲からの長年の愛着(信頼、とは言わない)があるから任せてもらっている、典型的な文系仕事に従事する人間の横ツラを、理系の研究者が真理の公式が刻まれたクサリ鉄球で殴打し、頬骨とアゴが砕けて「ブ」「ン」「ケ」「イ」と書かれた前歯と奥歯が粉々になりながら口腔から飛びでて、砕けた頬骨と逆方向へスッとんでいくのを、超スローモーションで見せられてるような気持ちにさせられました。
貴方はこの作品の登場人物のうちのだれなのかと聞かれたならば、陸上部に所属していた主人公のひとりが学校をやめる原因となった、生放送の直前に前髪の形ばかりを気にしている、あの女子だと答えるでしょう。主人公のひとりの前では「タイムの速い人が大会に出るべきだよ!」とそそのかし、先輩の前では「アタシ、空気読めって言ったんスけどね、へへ」とおべっかを使うーーこんなの、人間関係のポジショニングとマウントだけで生きる典型的な文系カメレオン人間の処世術(相手が言ってほしいことを探る)に過ぎず、悪意にすら満たない何かじゃないですか! それを、主人公のひとりは面と向かって言われたわけでもないのに、立ち聞きしただけで部活どころか学校までやめてしまい、その無菌室のピュアさが正しい生きづらさとして同情的な視点で描かれるのです。前髪少女はその過去の行状を人非人の罪として生放送で延々と罵倒され、その間ずっとカメラは主人公サイドの四人を映し続け、彼女がどのような表情でこれを聞いたのかはいっさいわからず、一言の弁明すらさせてもらえない。私はこのできごとのあと、前髪少女がSNSで大炎上し、自殺にでも追い込まれるのではないかと本気で心配しました。学校という場所は、最大公約数の範囲に収まる個人のために作られていて、文系と体育会系がいつでも幅をきかせ、理系とオタクにとっては居心地の悪い場所なのでしょう(公立のトップ校なら、すべてのパラメータを振り切った超人がいると思いますが、大多数にとっては能力値の上限から逆算した濃淡で否応に決まる属性です)。特に本邦での学校は、最大公約数の内側に収まるようにイレギュラーたちを「教育する」ための場所ですから、いづらさを感じるのは当然のことと言えます。以前、「桐島、部活やめるってよ」の感想に、「傑作だけど、最後の最後で映画オタクが体育会系に復讐を果たした快感が伝わってくるのが、唯一の瑕疵である」みたいなことを書きましたけど、この作品、最初からけっこうなフルスロットルで理系マイノリティが殺意を伴って文系マジョリティを刺しに来てる感じーー南極に上陸してからさらに加速するーーがあって、最後まで見たいま、それが試聴を中断させた理由だったんだなーと思いました。最近になって自覚したのですが、独身の人が家庭を持つ人に抱くだろう複雑な感情を、文系の私は理系のだれかに対して抱いており、ふれられると弱いその部分へじかにギリギリと爪を立ててくるような内容を無意識に避けていたことが、今回の試聴を通じてわかりました。
あと気になったのは最終回で、主人公のひとりの死んだ母親がノートPCの送信箱へ残したメールを、母親の友人が数年越しに送るという展開があり、視聴者はどちらの場面も見ているので状況を理解できますが、メールを受け取った側が一瞬の混乱も見せずそれを受け入れたのには強い違和感というか、作り手の快感で虚構が破れているように感じました(タイムスタンプすらないメッセージとして、死んだ「お母さん」から送られているのに!)。それとエンドロール後に、主人公のひとりへ陰湿なイジメを行っていた人物が北極から写真を送ってきたのを見て、「えー、なんでー!」と嬉しそうに叫んで物語は幕となるのですが、このやりとりにはみなさんが「尊死」と表現するのとは真逆の、ほとんど心筋梗塞に近い状態で胸を押さえて死にかけました。これは、文系の人間関係・政治力クソ野郎は公衆の面前で公開処刑にして、それが理由のSNS炎上で自殺しようと知ったこっちゃないが、過去を悔い改めてオレたちと同じ至高のステージに上ってくるのなら、ゆるしてやらないこともないという、理系様から大上段に授けられるメッセージに他ならないのです! この満々として放たれる優越感情には、心底ゾーッとさせられました。しかしながら文系はそれ以上にクソだし、もうこれは美術、そう、ビジツをやるしかない。ビジュえもーん、東京藝大に現役で受かる道具を出してよー! (竹ヒゴでゲイ太の手の甲をピシリと打擲しながら)受験数学がカビの生えた古典に過ぎないように、受験絵画など美術と呼べる代物ではないッ! ラわーん、もう現実はコリゴリだよう(山奥の炭焼き小屋へと遁走する)! 「鬼滅の刃」本編へと続く(続かない)。
質問:宇宙よりも遠い場所ファンですが、今まで読んだことの無い視点の感想で興味深く拝読しました。
少しだけ訂正させて頂くと、作中で言及がある通り中継前ですので前髪少女が炎上する事はなかったかと
それで物語への評価は変わらないと思いますが、お感じになったツラさが少しでも緩和されれば幸いです。
回答:ファンの方の目に届いてしまい、申し訳ありません。基本的に、登場人物たちへ寄り添った優しい視点で物語が進んでいくのに、ある種の人々に対しては非常に冷淡であるというか、「仲間以外はどうなったっていいし、傷ついたら傷つけ返してかまわない」という裏腹な切り捨て方が気になったのです。そのわずかな瑕疵を文系・理系というカテゴリに分類しつつ拡大して、おもしろおかしく読ませることを主眼に書かれたテキストですので、どうかあしからず。
うーん、私の文章の欠点は「面白すぎる」ところですね。それも、何かを腐すときにそれが最大化してしまうという。前も言いましたけど、サルまんの新聞4コマ編で、「お魚くわえたドラ猫を全裸のサザエさんが包丁を持って追いかけ、衆人環視の中で『やだ、ハダカ』と気づいた直後、トラックにはねられる(ドカッという擬音)」みたいな4コマ漫画が、「面白すぎるからダメ」と評されていて、衝動的に手加減なしの「面白すぎる」文章を公開してしまったとき、いつもこれを思い出します。「よりもい」の感想も、自分で読み返してゲラゲラ笑ってるんですけど、これを真顔で読んで批判や非難として受け止める方もおられるようで、もっと「テキスト自体が持つ面白さ」に目を向けてほしいものです。
質問:だいぶん歪んどりますね。
回答:いまさらそんなこと言われても……理系?
「よりもい」、根強いファンが多い作品だということがなんとなくわかってきて、「吐いたツバ飲まんとけよ」じゃないですが、自分の発言が少し怖くなってきました。でもまあ、どうひっくり返しても評価は変わらないわけで、黙っておくか黙っておかないかの違いしかないのです(そしてご存知のように、私はぜんぶしゃべってしまう)。「これまで苦しかったのは、間違った人間関係(文系)の中にいたからだよ! ようこそ、正しい人間関係(理系)へ!」というメッセージは作品全体を通じてどうしても感じてしまうし、前髪少女からいっさいの救済を剥奪した瞬間には、「あー、そういうことする? こらもう、キミとは戦争やな」と思ってしまったことは、事実として変えられません。
その点、ブルーピリオドは文系クソ人間のリアルが描けていて、とてもよかったです。「相手が聞きたいと思ってる言葉を探って、相手を自分より少しだけ面白くして、これ以外のコミュニケーションなんてもうわかんねえ」という人物が、そのやり方ですべてうまく隠しおおせてると思ってるのを、周囲の友人たちは「アイツ、本音を言わねえよな」と感じてーーまあ、ここが少しファンタジーなんですけどーーいて、やがて美術を通じて本当の自分に気づくんだけど、本当の自分さえ薄っぺらいことに何度も何度も気づき続けるみたいな青春の蹉跌を、作者が作中のだれも裁かないまま、真摯に描いている(いや、10巻までの段階で才能ある友人の母親は裁いているので、今後どう扱うかは気になる)。
「よりもい」に潜む価値観の薄気味悪さというのは、ブルーピリオドで例えると「オレは努力して本当の仲間もいるから東京藝大に合格したが、オマエは性格が悪くて偽者の仲間しかいないからイラスト専門学校」なんですよ(もちろん、ブルーピリオドにはそんな視点はいっさいありません)。「他者の過ちに正面から正論ブチかまして、反論を許さず封殺して公衆の面前に恥ずかしめる」という底意地の悪い「気持ちよさ」を、いくら演出で感動的に見せようとしたって、その前提を冷静に眺めれば、「同僚が心療内科で鬱状態(鬱病じゃないよ、鬱状態だよ)の診断書をもらってきたから、とりあえず業務に配慮が必要」と同レベルの話でしかありません。もっと言えば、神としての作り手が正しくないと信じるだれかに、もしかすると過去の自分が置かれた状況を仮託して、二次元を用いて復讐をはたしているとしか思えず、「この監督、性格悪いなー」と感じてしまいました。ファンのみなさん、言い過ぎをすいません。
あと、「けいおん!」の主人公のアホみたいなしゃべり方って、あちこちに伝染してるなー、と思いました。
女子高生が4人で南極へ行くアニメにモヤモヤして、なんか大人の実写ドラマでこの感情にカウンターを当てたいと、ネトフリのユー・アイをグリグリ回してたら、シャーロック(カマキリ俳優が演じるヤツ)の第4シーズンが配信されていたことにいまさら気づきました。んで、3話まとめて見たんですけど、吼えろペンだかで冗談みたいに語られていた「最終回でコケるのが名作の条件なんだよ!!!」を見事に体現しており、終盤の超展開にはもうビックリしました。素直に2話までの内容を3話に引き伸ばして終わっておけばいいものを、最終話で突然モリアーティではなくホームズの妹をボスキャラに設定(「羊たちの沈黙だと思え」っていう看守のセリフ、人物造形の努力を放棄してて、ひどすぎませんか?)して、孤島の閉鎖空間で何やらジグソウがするみたいなデスゲームが始まったのには、どう反応したらいいものやら困りました。これが映画館だったら、隣の観客の表情をチラ見していたと思います。あと、メアリー・スーっていうの? この原作未登場のオリキャラの格を上げるために、ホームズとマイクロフトの知能が急激に、それこそ全シリーズ内でいちばん下がって、「彼女は賢すぎる」とか言い出すのも最悪でした(ワトソンはずっとアホだからオーケ)。そして、とうてい1話では収まりきるはずのない兄妹家族の因縁を、「じつは妹も深く傷ついていたのです(ゲーッ!)」みたいな雑さで処理してサクッと救っちゃったりなんかしちゃったりなんかしちゃったりしてー(ホームズから広川太一郎を連想)、エンディングはつげ義春の「李さん一家」最後のコマみたいなナレーションーー「この奇妙な探偵とその相棒がいまどうしているかというと、じつはまだロンドンにいるのです」ーーとともに、事務所から駆け出してくるホームズとワトソンをスローモーションからの静止画で映して幕みたいなテキトーきわまる演出で、センスの良さにほれて4シーズン見てきた身にとっては、最後の最後でとんでもない肩すかしを食らった気分になりました。まさに、「100話の週間連載で最終話だけがつまらない。でもいいじゃないですか、99話までは毎回楽しませてくれたんだから、最後くらいつまらなくたって」を地で行く仕上がりでした。脚本家はカズ・シマモトのファンなのかしら(たぶん違う)。
ゴジラSP、最終話まで見終わった。感想としては、「ワンクール13話のアニメで最終話だけがつまらない。でもいいじゃないですか、12話までは毎回楽しませてくれたんだから、最後くらいつまらなくたって」。あれだけ両手がもげるくらいの大絶賛を毎週くりかえしていた理系クラスタの方々がモニョってるというか、トーンダウンしてる理由がわかりました。家人にすすめず、ひとりで視聴して正解だったと胸をなでおろしております。「監督の仕事に必要なのは、OKかNGを出すだけ」「アングルさえ決まれば映画になる」で大失敗したシンエヴァになぞらえて本作を評するならば、「科学と数学の専門用語と古典からの引用を並べておけばSFになる」「ゴジラ作品に必要なのは、歴代シリーズとジェットジャガーへの愛だけ」となりましょうか。観客席で皆が固唾をのんで見守る中、ラスト10分、原理不明のまま巨大化したジェットジャガーがゴジラの顔面にプロレスばりのトーキックを食らわせた瞬間、ゴジラクラスタは席から立ちあがっての大喝采、理系クラスタは背もたれに深く身を沈みこませての大落胆、はたで見てる非ゴジラファンの文系としては、この上ない愉悦のショウタイムでした。特撮モノとしてはキレイにオチたけど、サイファイとしては飛翔しませんでしたね。ネビュラ賞は難しいかもしれません(日本SF大賞ならヨユー)。そして、ずっとラインだけのやりとりだった男女が、物語の最後の最後で顔を合わせるんですけど、駆け寄るでも肉声を交わすでもなく、距離を置いて黙ったままニヤッと口の端を歪めるの、最高に理系って感じがしました。他人の不幸は蜜の味ではないですが、よりもいで咽頭に詰まったままだった溜飲が大いに下がったことは認めざるをえません。あと、シンエヴァ公開直前と直後の私の反応も、こんなふうに楽しまれていたんだろうなーと思いました。
ゴジラSP、1話と13話を見返したけど、すげーわ。物語の全長を100%とすると、96%くらいまでハードSFを擬態し続けて、最後の最後で「サイファイだと思った? キャハハ、ざーんねん、トクサツでしたー! ジェットジャガーだいすきー!」とか叫びながら、白衣の腺病質のみぞおちに鉄板入りの革靴でナガブチキックねじこんでくる感じ。この展開が正のカタルシスになるか負のカタルシスになるかは、完全に視聴する側の属性に依るという作りになってて、どこまで意図的かはわからないけど、すげーわ。