ディアブロとヘイローとスカイリムのゲーム性を同じ鍋で煮詰めて、スターウォーズとスタートレックとマジックザギャザリングの世界観を香りづけとしてふりかけた超大作。あちこちで宣伝しまくっていたので、ゲームに興味が無くとも名前を知っている向きは多かろう。操作感は軽快だし、画面のクオリティは超絶的だ。制作側の愛と熱気も充分に感じられる。しかしながら、冒頭の要素の足し算にはなっておらず、結果としてそれぞれの劣化コピー感ばかりが強く感じられる仕上がりとなっている。
だが何より恐ろしいと思うのは、十年近くと5億ドルを制作に費やした超大作であるのに、リリース直後の48時間程度である程度まで評価が定まってしまい、いったん悪いふうに定まってしまえば後からの追加要素でそれを覆すのが極めて困難だということだ。エンターテイメントを食い散らかすわれわれ飽食のブタへ、天井知らずに高まっていくクオリティを維持しながら、本質的にはすでにどこかで語られてしまった物語をそうではないように提供する作り手側の恐怖は、いかばかりかと思うのだ。
いったいどうやって、彼らは作り続ける意志を保つのだろう。それは大河に落とす一滴のようなもので、きっと自分がやらなくても他の誰かが同じように、あるいはもっと上手くやってくれるのだ。他の誰かがではない、今ここにいる「自分」が作らねばならない、物語らなければならないと、どうすれば信じることができるのだろう。現在のnWoの停滞とはまさにその停滞である。いくつかの新たなアイデアから更新に着手しようとはした。だが、なまじ一般受けをねらって球を投げたばかりに、書く動機を失ってしまったのだ。私小説や日記をのぞいて、特定の人物が語らなければならない虚構が、いまの世界に存在するのだろうか。
……というのが最初の5時間くらいまでの、しかつめらしい感想。
それからさらに10時間ほどプレイして、先ほどストーリー部分をレベル18でクリアしたが、物語の展開がびっくりするほど理解できない。これほど理解できないのはFF13以来だが、実際のところファルシのルシをコクーンでパージをはるかに超えるレベルで理解できない。いつのまにか自分が発狂しているか、脳に重篤な障害を抱えているのではないかと疑うレベルで、本当に何も、何ひとつデスティニーという物語が理解できない。正気を確かめるためにいくつかのSF作品を見返したぐらい、己の認知崩壊を半ば信じかけるレベルで理解できない。でも、ゲームとしてはすごい面白い。プレイ時間に比例して面白くなる。なんだこれ。
「大変です! コーテックスにフレイヤーが侵入しています!」 え、なに? もう一回言ってくれる? 小鳥猊下であるッ!
質問:e3,TGSとありましたが、今期待しているゲームがあれば。
回答:E3やTGSが何を指すのかわからず検索したほどにはゲーム業界の事情に疎い俺様だが、もうBloodborne一択である。以前も話したように思うが、すべての携帯ゲーム機には今この瞬間、即座に爆発して欲しいし、破砕したそのガラスが蒙昧な似非愛好家どもの水晶体を苛烈に切り裂いて欲しいと真剣に願っている。先日発売されたらしい乱闘撲殺兄弟の最新作や、かつて愛した怪物殺戮者シリーズなどは、目先の小銭に目がくらむあまりプラットフォーム選択を明らかに失敗しており、もはや深刻な憎悪しか感じない。ロス在住の外タレである俺様が求めるのは、巨大モニターとサラウンドを兼ね備えたゲーム専用シアターに火を吹かせる正真正銘の次世代ゲームであり、携帯ゲームなどという尻毛に付着した糞の欠片を積極的に舐め取ろうとする貧乏人どもは、それこそ半島の電動玉はじきでもやっていればいいのである。君や私のような金満家たちは、そろそろ貧乏人からゲームを取り戻そうではないか。某有名美食家ふうに言うならば、「なんという汚らしい画面と音声だ! 必要もない連中がゲームをするからだ!! 馬鹿どもにゲームを与えるなっ!」の心意気である。それこそソフトやハードの価格を十倍にして、真の愛好家以外をふるいおとせばいいのだ。いつまでも貴様らの母親がゲームのことを「ファミコン」とか「ピコピコ」と表現するのは、正に貴様ら低収入の無業者どもがスマホや携帯ゲーム機を使用し続けるがゆえである。ゲームが本邦において文化として成熟できず、貶められ続けている原因は、正に貴様らであることを自覚せよ。
「あのケッチにケルがいるはずです!」 ごめん、もういいや。小鳥猊下でした。
うむ、私だ。何ッ、アースホールが閉経し申し上げただと!? 小鳥猊下であるッ!
なんかアイポンを大画面にしたら、突如イングレスがプレイできなくなった。なので営業中に生じたその隙間に、デスティニーの世界観のことをぼんやりと考えていた。設定集であるところのグリモアを読んでも読んでもわからないストーリーになんか既視感あるなー、なんだったかなーと考えていたら、諸君の期待を裏切って誠に申し訳ないがエヴァQではなく、桜玉吉「なぁゲームをやろうじゃないか!!」のアコンカグアの回だった。「漫画専門学校の生徒がつい描いてしまいそうな、ひとりよがり設定のファンタジー」という欄外の解説は、デスティニーの正体を過不足なく語り尽くしており、ようやく胸のつかえがとれた次第である。この回は傑作なので、諸君にもぜひ読んでみて欲しい。小鳥猊下だった。
デスティニーの内部告発みたいな文書を目にする。クリエイター側がこだわりのあまり制作に時間をかけすぎ、業を煮やした販売サイドが制作サイドからゲームを取り上げて、物語の枝葉をばっさり切った上でリリースのための突貫工事を行ったことをうかがわせる内容だった。クリエイターのこだわりが過ぎて作品を取り上げられるのってなんか本邦でも見たことあるなー、なんだったかなーと思っていたら、FF12とFF15だった。
またエヴァQの悪口になるけど、いっしょに見に行った家人が「優秀な人たちにたっぷりの時間とお金をあげてもうまくいかへんのやから、アニメを作るのって難しいんやねえ」みたいなことを話していたのを思い出した。まったくその通りである。海の上のピアニストという映画で主人公が「鍵盤の数が88という有限だから無限の音楽を奏でられるのであって、無限の鍵盤を持つピアノでは誰も音楽を奏でられない。それは神のピアノだ」って語る場面があるんだけど、最近はいろんなジャンルでこの神のピアノ問題を見るなあと思った。
あと、かぐや姫の物語が取り上げられなかったのは、さすが高畑監督だなと思った。
なんかデスティニーってさ、今のゲームの悪いところの象徴って感じ、すんだよね。ゲームは基本的に子どものもんだって気持ちがどこかにあって、その上で「大人も楽しめる」ってのが理想なんだよ。今のゲームってさ、子どもは無視して大人めがけて作ってて「大人しか楽しめない」ってのがすごい増えてる気がする。そりゃ、子どもって属性は時間とともに失われるテンポラリーなものだから、少子化の時代にそこ目がけて作っても先細るっていう理屈はわかんだよ。でもそれってやっぱ大人サイドの理屈じゃん。デスティニーって、5億ドル使って10年かけて作ったんだってさ。10年っていう制作スパンが、もう子どもって属性を無視してるよね。10年って赤ん坊が小学生になって、小学生が成人を迎えるような年月だよ。例えば神格化された初期のドラクエ三部作は、2年にも満たない年月で続けざまにリリースされて、まさにその時代の子どもが子どもの属性を失わないうちにシリーズの完結までを体験できたことが大きいと思うんだ。
ごめん、またエヴァの悪口言うけど、序の所信表明に若者のアニメ離れを食い止める、みたいな文言があって、その気宇にすごい感銘を受けたんだけど、それって正に子どもっていうテンポラリーな属性のうちに体験することの重要さを言ってると思ってたんだよね。でもそっからもう10年近く経とうとしてるわけ。序ではじめてアニメに感動した子どもは、もうエヴァという物語の完結を見ずに、この世界には存在しなくなってるわけ。もういい大人になってるぶんにはいくらでも待つけど、子どもは待てないんだよ。以前スカイウォードソードの感想でも似たようなこと書いて、そのあとゼルダの制作期間が5年は長すぎる、みたいな社長インタビューをネットで読んだんだけど、まさにこの失われる子どものことを言ってんじゃないかなあ。
初代ポケモンとか体験した世代だけど、あれも今日まで生きながらえているけれど、もうぜんぜん今の子どものものじゃない気がする。かつて子どもだっただれかが、自分の子どもに自分の子ども時代の感情を追体験させているっていう感じがすごくする。不純物が多く混ざってる気がする。日曜朝のライダーとかレンジャーとかプリキュアとかもそういう感じがすごいする。だから最近は、レベルファイブってすごいなあって思う。
10年くらい前にローグギャラクシーとかいうゲームがあって、グラフィックがきれいだけどストーリーが意味不明っていう、まさにレベルファイブ版のデスティニーなんだけど、これをプレイしたときは本気でブッ殺すぞって思った(今でも鮮明に思い出す「二つの塔で苦労も二倍だな!」)。実際にそこから一切レベルファイブの関わるゲームはプレイしていないんだけど、ローグギャラクシーの反省からか子ども向けの新規タイトルをずっとリリースし続けていて、ついに妖怪ウォッチを大ブレイクさせたのがすごいなって思う。就学前の子どもが「じばにゃん、じばにゃん」と言いながら走り回るのを見かけるにつけ、本当にひさしぶりに、子どもだけに向けたゲームが出てきたことを実感する。親が我が子のためにグッズを買いに走り、でも何がそんなに面白いのかはわかってない感じが、すごく子どもだけのものって気がする。
このブームを見て、やっぱりすべての物語には賞味期限があって、その中でも子どもに向けた物語だけが幾度も幾度も、趣向を変えて語られ続ける意味があるんだなと思った。かつてジュヴナイルと呼ばれた物語類型だけが、何度も何度も子どもたちに向けて新たに語り直される意義を持っているような気がする。バンジーには、たぶん無理だろうな。
『鈍感がクセになって、賞賛はウソばっか』
我が子を食らうサトゥルヌス(鏖殺)! きょうはアタシみんなにあやまらなくちゃならないことがあるの! 西の情弱エリア在住とか耕運機にまたがってフカシこいていたけど、よくよく調べてみたらピンドラが世界でいちばん早く放映される情強地域在住だったの! アタシのTLではピンドラのネタバレ禁止とかトラクターの上から見下してチョウシこいてたけど、いまから22話のネタバレ感想するね! ゴメンね! てへぺろ(シュヴァンクマイエル作品のリアルな舌で)!
今回は「ぼくたちはあらかじめ失われた子ども」とか「あれは美しい棺だった」とか、監督の自意識が漏れだしてるセリフを、キャラクターが与えられた自我を越えて話す場面がいくつもあったけど、アタシこういうのだぁい好き! 作り手が客観性を失うほどの情熱で作品に入れ込んでいることの証拠だから!
あと、ピクトグラムの警官が死体になった瞬間にリアルな描写に変じる場面の、監督の「ドヤァ!」が聞こえてくる感じがすごい好き! 書き割りに過ぎなかった他者が死によって実在感を取り戻す、このワンメッセージ、ワンシーンのために21話の演出を積み重ねてきたんだぜって表情が見えるようなの! この演出で監督が感じているだろう気持ちよさは、例えるなら21日後にオナニー解禁って感じかしら? きゃっ(羽生生純が描写した両手で酒焼けに紅潮した顔をおおう)!
何が言いたいかっていうと、他者にとって書き割りに過ぎない自分を想像して、日々無力感と無効力感に甘く痺れているアタシだけど(電気フグを装着した股間のアップ)、それを乗り越えて何か発信しようって気にさせる情熱を伝播する作品ってホントすごいわよねってことなの!
……そして、世界にとっての書き割りに過ぎないという事実を打破するには、現代社会ではほとんどの個人にとって自殺と他殺しか手段がないということだ。結局のところ、「死」だけが重要なのだ。自らに死を与えたものの芸術や、他者に死を与えたものの教義、それらが論理や科学の分析を超えた不可侵の意味をまとう様を見よ。この世界には何かがいる。超越的な何かが。それは断じてすでに名付けられた神などではない。そう、すべてが暴かれたこの場所では、ただ「死」だけが重要なのだ。
ドヤッ!
これでインタネトー上に光の猊下と闇の猊下が揃ったことになる。互いの存在を強く意識してはいるが、バベルの呪いから未だリプライには及んでおらぬ。もしそうなれば、光と闇の対消滅に、現世は無へと帰すだろうがな。それも世界の選択か。ラ・ヨダソウ・スティアーナ。
質問:ククク……ついにローマ法王が退位を決意したようだな……。しかし、不用意なツイッター参戦がその引き金となったことを看破した者は多くあるまい……。奴らにとって決して世間に漏れてはならぬ秘中の秘……すなわち、コンスタンティヌスの寄進状に裏書きされた、光と闇の両猊下の禁じられし融合による、実存世界の対消滅……!! 小癪なヴァチカンの都市結界による援護があったとは言え、ベネディクトの奴め、この光の猊下との精神念波を通じた千日戦争を、命冥加に凌ぎきりおったわ……!! 敵ながら天晴れな奴よのう……観念世界からの侵略を水際で防いだ、正に世の英雄というわけだ……。ククク……教皇選出のコンクラーベがこの千日戦争、すなわち日本語の「根比べ」を語源に持つと知る者は、もうシスティーナにも限られておろうがな……。(次第に小声で)しかし、あのヘテクロミアの枢機卿め……なるほど、面白い……きゃつが17世というわけか……!!(kotorigeikaさん)
回答:聞こえていますか? あなたの心に直接語りかけています。この類の妄想を三十代で保持し続けているとは、さぞやおつらい現実をお過ごしのことでしょう。しかし、あなたのそれは借り物の言葉と設定に満ちており、オリジナリティの欠片も見当たりません。この類の妄想は、素晴らしいフィクションへの昇華でマネタイズできる才能が無いのなら、早々に放棄してしまうのが賢明です。さもなくば、悲劇的な結末が待っていますよ。ねえ、聞いてるの? 直接心に語りかけてるんだから、耳ふさいだってムダよ?
いくど時計を見返しても、びっくりするほど針の進まない二時間半。そのうち一時間は、一言の台詞さえない。俺様の心がわずかにエレクチオンしたのは冒頭のスマウグ討伐シークエンスだけで、ファンタジー的想像力と美術が前三部作にてほとんど使い果たされていたことを確認した後は、3DアクションゲームのQTEを延々と見せられ続けてるような気分になった。
以前ヴィゴ・モーテンセンが、「旅の仲間ではちゃんとロケハンしてたのに、二作目からCGの比重がどんどん増えていった。監督は役者の演技を軽く見てると思う」みたいな批判をするのを見かけたが、まさにその言葉の通り、ピーター・ジャクソンの悪い側面が今作ではすべて出てしまっているように思う。要は、徹頭徹尾のポストプロダクション頼みが透けて見えるのだ。「役者どもは、しかめ面のアップだけ多めに撮影しとけ。あとは全部スタジオでなんとか見れるようにするから」みたいな現場の雰囲気、言えば人間の芝居には興味が無い感じ、つまり監督の本来の出自であるギーク臭がぷんぷん漂ってくる。特に象徴的なのが終盤、マーティン・フリーマンとイアン・マッケランが夕日を背にならんで腰かけるシーンであり、これは役者の演技や存在感をぜんぶポストプロダクションが塗りつぶしていて、本当にひどいとしか言いようがない仕上りだった。
タムリエルとかいうオリキャラ(おそらくエメラルドドラゴンへのオマージュ)とドワーフとのロマンスとか、スーパーマリオと化したレゴラスの母への執着とか、監督の混ぜこんだオリジナル要素はことごとく原作のエルフが持つ高潔さを台無しにしている。前三部作は偉大なるトールキンへ膝をついて作られている感じがひしひしと伝わってきたものだ。しかし、このホビット新三部作は、ピーター・ジャクソン本人が原作者になりかわってふんぞり返る様子しか見えてこない。こんな水増しの完結編を見せられるくらいなら、当初の予定通りの二部作で充分であった。虐げられてきたギークがいったん権威と化せば、かようにふんぷんたる臭気を垂れ流すようになるという事実を、諸君は他山の石とせよ。
わたしはいま、巨大化した曙さんの足裏と床のあいだにいます。わたしは自閉症なので、胸部を圧迫されることにつよい安堵をおぼえました。本棚と床の隙間からは、きのう轟沈したはずのまるゆさんがうらめしそうにわたしを見ています。魚雷で大破した頭蓋から、脳漿がまざってドロリとした赤い液体が床を流れてきました。まるゆさんの両目は樹木のうろのようで、わたしはひどくこわくなりました。ドロリとした赤い液体がわたしのほおにふれ、わたしは気を失いました。
目をさますと部屋は真っくらになっていて、曙さんもまるゆさんもいなくなっていました。身体を起こそうとすると、ほおがフローリングの床にはりついているのがわかりました。つけっぱなしのモニターが暗やみにちかちかと明滅しており、なにやらパン助のあげるようなあで声が聞こえてきます。えいと声をだすと、べりりと床からほおをひきはがしました。床はいちめん赤かったのですが、わたしの顔があった部分だけ木目が見えていました。ほおをさすりながらモニターへ目をやると、大小さまざまの女性が水面をアイススケートのようにすべっていました。奇形的なまでに大小さまざまで、股下すぐから両足を露出しているというところだけが共通していました。あと一センチ丈をつめればぜんいんのオソソが露出しそうなほどで、年来のガイノフォビアがまたぶりかえすような気がしました。画面からはイズミヤでかかってるみたいな音楽がずっと流れており、女性たちの会話は「パンぱカパン」「こコはユズレませン」などまったくかみあっておらず、ああ、彼女たちも自閉症なんだな、と思いました。
いつのまにかだれもいなかったわたしの部屋は人でいっぱいになっていました。さいしょはみんな気まずそうに黙っていたのですが、大御所ふうの漫画家のような見かけをした人影がすっくと立ち上がり、「カンコレヨキカナ!」と声を裏がえらせて絶叫しました。するとホッとしたような空気がまわりに流れて、「フツウニリョウサク」「オレハジュウブンタノシメタ」などのつぶやきが聞こえはじめました。画面に視線をもどすと棒立ちの黒い人物を女性たちがとりかこんで射撃の的にしており、どう目をすがめてもわたしには気のくるった出しものにしか見えず、染色体のすくない我が子をくちぐちにほめたたえる学芸会の保護者席に混じった子無しみたいな気持ちになりました。
すると、だんだん頭がグラグラしてきて、わたしはまた気をうしないました。目を覚ますと、わたしは巨大化した曙さんの足裏と床のあいだにいました。天井と本棚の隙間からは頭蓋を大破させたまるゆさんがニコニコとわたしを見下ろしています。わたしは自分の気がくるっていなかったことがわかり、胸部を圧迫される安堵とあいまって、眠るような心もちになりました。
故人を冒涜するCMで契約者を増やし続ける動画配信サービスに、パトレイバーの実写版が登録されているの発見する。昨年を通じて、実物大レイバーなどのケレン味あふれる宣伝を目にして気にはなっていたので、さっそく見てみた。ネクストジェネレーションと言いながら前作とまったく同じ造形の人物が配置されていたりとか、アニメの手法をそのまま引き写した演出やセリフ回しとか、楽屋落ちもいいところのシバシゲオとか、たぶん客観的に判断すれば褒められないほうの映像化だと思うんだけど、個人的にはすごい面白かった。
ひさしぶりのうる星やつらノリというか、パトレイバーを利用して監督が思考や私生活を垂れ流しにしてる感じが楽しい。たぶん企画を通したりカネを動かしたりできる地位にパトレイバーファンがいて、実物大レイバー作ってくんなきゃやらねーとか、配役と脚本に口出ししたら許さねーとか、俺がハマってる空手をちゃんとやんねーと出さねーとか、全編そんな感じでワガママ通しまくってるのが見えて微笑ましい気持になった。
かつて原案に関わった人たちが全員シャットアウトされているふうで、「いったい彼が何を考えているのかわからない」とかネットでこぼしてるのに、「ぼくが怒ると思ってるのか、だれも何も言ってこない」などと舞台挨拶で放言しているのも素晴らしい。スラムダンクをサッカー漫画と記述したヤオイ関連本がノーチェックで出版されていた晩年の栗本薫を思わせる狼藉ぶりで、外野からは「いいぞ、もっとやれ」とやんやの拍手喝采を送りたい気分である。
結局、本邦のご多分に漏れず私小説が大好きなので、何が語られているかではなく誰が語ったかが私にとって重要なんだなと改めて考えさせられた。ある種の人々にとっては、近所のオッサンが使ったチリ紙より、アイドルが使ったチリ紙の方に価値があり、彼は私にとってのオッサンアイドルなのです。私のフォロワーたちも、私の発言の中身を吟味しているというよりは、十数年前にテキストサイトで一年ほどハッスルしていた人物の消息が知りたいという気持ちが大きいのだろう。でも、企画を通したりカネを動かしたりできる地位についているキミは、もっと現世利益を誘導してくれてええんやで?
引き続き、パトレイバー見てる。全編が躁のテンションに満ち満ちていて、本当に好き勝手にやってる感がすごい面白い。しかつめらしく「このままでは特撮が死んでしまう」と語ってみせることより、特撮の棺おけとして博物館を建てることより、新たなファンを流入させる方法として実作ほど有効な手段は無いとひしひし感じる次第である。某Cunt-Qは新劇をさっさと終わらせて、実写でエヴァのネクストジェネレーションを撮った方がよっぽどその目的を達成できるのになあ、と思った。
突然Qみたく前世紀エヴァンゲリオンと化したり、若い層が何の思い入れもない怪獣映画の監督に名乗りをあげたり、自身が常に批判しているオタク的な性向の袋小路へと入りこんでいくのを見るにつけ、パトレイバーのこの力の抜け方はたいへんに心地よい。同時に、彼を嫌う人がいるのもわかる気がする。うる星やつら、パトレイバー、攻殻機動隊、いちど手をかければ、どんなオリジナルも己の作品として乗っ取ってしまうからだ。いったんやられてしまえば、どれだけ原作サイドがイメージを取り戻そうとしても、二次創作としてしかふるまえなくなってしまう。Cunt-Qが彼と違うところはオリジナルへの愛が強すぎて、原典をはるか越えた後も自らをコピーと自虐してしまうオタク気質だ。マモルさんの自己愛の十分の一があれば、いまごろ新エヴァは無事にハッピーエンドを迎えていたに違いない。
ええい、チクショウ、書いてて無性に腹が立ってきた! なんでエヴァを放り出してまで、またぞろゴジラなんてつまらない、ハリボテトカゲへの強い執着を表明してやがるんだ! Zガンダムの劇場版に感化されて新エヴァを始動したCunt-Qのことですから、きっと今回もパトレイバーに影響を受けてゴジラをやろうって決めたんですよね! そのへんの尻軽なミーハーさはアマチュア時代からの持ち味だと思いますが、このペースだとすべてやり切る前に寿命が尽きてしまいますよ! それとCunt-Qの奥さん、あなたの新聞連載のゆるキャラにスヌーピーのポテンシャルはありませんし、エヴァほどの思いで続きを待ち望んでるファンなんていませんよ! ワーキングマンの続きを描くか、さもなければそろそろダンナの世話だけに専心してください! 今のCunt-Qに必要なのは意識の高い食生活(有機野菜のスムージー!)や甘えさせてくれる女性(診断書なしの鬱で無期限有給!)じゃなくて、一発ブン殴ってくれる誰かですよ! いや、むしろマモルさんに殴ってもらえ!
(純粋なまなざしで)小鳥猊下はスケベってどういう意味? (ギラギラした目で)それは性欲が強いということだ! 小鳥猊下であるッ!
ええ、根がミーハーなので、やってますよ、ウィッチャー3。きっと、ゼノなんとかをこきおろすために本作へ言及するんだろうと気になって、つい出歯亀的にのぞきにきたんですよね。アハハ、そんな下品なことしませんよ! とりあえずの雑感だけ、お伝えしますね。最初のボスを倒すまでに感じていたのは、まるで「ソーサリー!」みたいだな、「魔法使いの丘」を冒険しているみたいだなということでした。ちょうど子供時分に漠然と頭のなかに抱いていたイメージが、目の前に具現化されるのを見るようでした。オープンワールドっていうと、物語より先に巨大な箱庭がドンとあって、バグも多いけど進行不能なものでなければだいたい許容されて、ゲーム性のバランス取りは最初から放棄されてて、気になるならファンサイドがMODで調整していいよって感じだったじゃないですか。でも、本作はオブリビオン時代のそういった丸投げから確実に進化している。同系統のゲームを研究対象として前提にしてるのが伝わってきて、スカイリムとドラゴンエイジがあったから、ウィッチャー3がこうなってるのがわかる。オープンワールド系ゲームは、成熟期にさしかかったのかもしれませんね。
あと、これは言っておきたいんですが、ローカライズがとても素晴らしい。元のゲームは面白いはずなのに、ローカライズに愛が無くて止めてしまうことって、結構ありませんか。やる気がまるで、“消えかかった光”のようになっちゃうんですよね。おっと、遠回しの批判がまた皆様を不快にさせてしまうでござるよ! 人気商売、小生、人気商売でござった!
で、ローカライズに言及するとハナから原語でやれよ、みたいにアオってくる方々がいますよね。実際わたしもアオる側の発言が多いように思いますが、正直なところを言いますね。元より対話の意志があったり、小金を持った客であったりする場合と、こちらを本気で殺してやろう、喰い物にしてやろうと相手が思っている場合では、言葉はその質を全く変えるでしょう。前者の状況なら外国語を用いてコミュニケーションを取れる人は少なくないように思いますが、後者の状況で負けない語学力を持つ方は実はそれほど多くありません。この意味でオープンワールドを真の体験として味わうには、母語によるローカライズが不可欠なのです。
声の配役とか、翻訳のニュアンスとか、モブの反応とか、膨大な労力を必要とするわずかの違いを埋めるのは、オリジナルへの愛以外にはありません。ゲームは気難しい目利きの旦那方を相手にする、言わば嗜好品の商売だと意識して欲しいですね。
ウィッチャー3、プレイ中。血まみれ男爵のクエストがひどく身につまされて、しばしコントローラーを置く。アル中のDV夫、繊細な偽善者、泥酔の末に妻を流産させながら、水子の霊へは涙を流す。我々はみんな赤ら顔の、酒を飲み過ぎた中年であり、自分を憐れむことさえ満足にできやしない。死にたくはないという理由で、後悔にまみれながら、ただ生きることを手放せない。
血まみれ男爵が首を吊った。虚構の人物が死ぬことにショックを受けるのは、どのくらいぶりだろう。グイン・サーガで言えばユラニア三醜女のルビニアとか、いつでも過剰な耽溺を抱えたキャラに愛をおぼえる。だれだって等分に、まわりが思うよりはずっと繊細にちがいない。受け入れがたい現実を前にしたとき、それを変えることではなく逃げることを選ぶ弱さに、共鳴してしまう。
サイドクエストのやめどきがわからず、ここ三日ほどノヴィグラドに滞在し続けている。それにしてもこの街、行ったはずのない城塞都市カーレを思い出させるなあ。
猫ウィッチャー(猫ピッチャー的な絵柄でアクスィーの印を結びながら)! 小鳥猊下であるッ!
ウィッチャー3をプレイしていて、JRPGが死のうが任天堂が変節しようが、もはやどうでもいい気分になってきた。三人の泥酔男が女物の服を着てかわやの猊下(猊下だ!)と対話する場面では久しぶりに声をあげて笑ったし、ケィアモルヘンで仲間たちとワイルドハントを迎え撃つ場面では久しぶりに鳥肌が立つほど気持ちが高ぶった。
ウィッチャー3、ようやくクリアする。ウィッチャーの娘が女帝として国を継ぐだろうエンディングだった。別れの場面における演出は細かな感情の機微に富んでおり、本邦のモデリングが指向する二次元美少女の立体化では到達できない高みに届いていた。本邦の「萌え」なる文化は、人の世にある男女間のあらゆる機微を、それがたとえ父娘であったとしてさえ、すべて性交レベルへと貶める。もしこれが某ゼノセックスでの演出だったなら、ウィッチャーの娘は握ったこぶしを顎の下でチューリップ状に開きながら顔面を不必要にカメラへ近づけ、陰茎が股ぐらに収まったときみたいな声で頬を染め、巨大な眼球に淫水の如き濡れた質感を浮かべたに違いない。いや、いや、そうだった、もう忘れるんだった。JRPGのことはすっかり忘れて、いい映画を鑑賞した後のような余韻をかって、いましばらくこの世界を放浪しよう。
エフージオ、ジョンストン掘りの裏側で金リンゴをかじりまくりながら、閻魔亭クリア。いったんファンガスの胞子を浴びれば使い回しの汎用モーションで、ストーリー的にもイマイチ印象の薄かったフィン・マックールでさえ、ホラ見ちがえた。惜しむらくは、あっさりとチュチュンを引けてしまったので、この良イベントに対して十分だと考える課金ができなかったことであろう。
人類の歴史がなぜ継続しているのかと問われれば、いまこの瞬間にも世界のどこかで名も無き人々が、すんでのところで人間の破滅を防ぎ続けているからである。そして破滅へと至らなかった事象は、だれの記憶にも残らず、どこにも記録されることはない。ちょうど小さな善意が、大きな悪意に先んじて日々のニュースを飾らないようにだ。本イベントにおける新所長の言動は、世界の破滅に対する我々の、無意識の善なるふるまいを代表していると言えるだろう。ファンガスがこの感じ方を共有しているのかは、わからない。ただ、共有しているように思えるというのが、私にとって非常に重要だ。
僕の優雅な年末におし入って来た、この奇妙な慈愛のようすがそれからどうなったかというと、実はまだ続いているのです。
「よい大人のnWo」なるサイトを年始の暇にあかせて読み返しているが、どれもこれも才気にあふれており、ひどくおもしろい。にもかかわらず、この人物はもう書いていないのだという。だれも彼に声をかけず、何よりだれも彼にカネを払わなかったことが原因である。私がエフ・ジー・オーにできるだけ課金しようと思うのは、そのうちのいくらがファンガスの懐に入るのかは知らないが、彼に書き続ける意志を失ってほしくないからである。痴人への愛という更新の登場人物が、次のように述懐している。
「私ね、舞台に上がる前は奇跡が起きるような気がするの。もし、この舞台をうまくやり終えたら、みんなが私に拍手をして、そうして次の日からは誰からも愛されるように、誰からも必要とされる私になれるんじゃないかって思うの」
とてもよくわかる感覚だ。そして、この気分をいつも裏切られ続けてきたことで彼女は摩耗してしまったのだろうな、と思う。昨年末に行った更新とその後の無視および無反応で、久しく忘れていたこの感覚を思い出した。だれかの目に少しでも留まるよう、最新の更新から気に入りのフレーズを紹介する。
『そうだ、ウガニク。いまのインターネットはすべて偽物の、まがい物だ。テキストが魔法として機能した神代のインターネットは1999年まで、それ以降はただの言葉の下水道じゃないか。』
『きみの汚い言葉は最高にきれいだった。ぼくの下劣な言葉は最高に美しかった。ぼくたちのテキストサイトには、確かなキュレーションがあった、審美眼があった。』
『それがどうだ。回線は馬鹿みたいに速く安くなったけれど、いまや恐ろしい分量の美しい言葉ばかりが下品に乱雑に、かつて美術館であり博物館であった場所の床へ足の踏み場もないほどに、ただ放置されている。』
『さあ、ウガニク。君のあとから来たまがい物どもを、ぜんぶ、ぜんぶ殺しつくしてくれ。』
新年の抱負は、「バズる」「炎上する」。小鳥猊下でした。
土間式麻雀(土を突き固めて作った玄関口において、蚕や牛のかたわらで行う麻雀の意)! 小鳥猊下であるッ!
何やら無料で四人対戦ができるとのことで、東風荘の閉鎖からこちら遠ざかっていたネット麻雀を再開してみた。何を隠そう、私は麻雀が弱い。雀歴は20年以上、阿佐田哲也や片山まさゆきや押川雲太朗の著作をすべて読破し、戦術などへの理解は深いはずだ。しかし、とにかく弱い。今日も今日とて「久しぶりに麻雀ってヤツをやってみるか」などとワニ蔵の顔でつぶやき、対局相手全員の手牌を読みながら、捨て牌の手出し・ツモ切りをすべて把握しつつ、真剣に打った。するとどうだろう、4連続ラスを引き、うち2回はトビ終了だった。内容はと言えば、12局連続ノー和了、数少ないアガリはすべて低目、勝負牌はことごとくドラを抱えた相手のペンチャン・カンチャン待ちにつかまる。
麻雀というのは本当に怖い遊びで、ドラ集めと絵合わせでなく、真剣に取り組めば取り組むほど、その人物の現在のカンや運などのパラメータをじつに正確に反映するようにできている。私が株やギャンブルの類を一切やらないのも、麻雀を通じて必ずトータルで負けることを知っているからである。
しかし、読書をしながらの片手間とか、酒を飲みながらの絵合わせとかになると、かなり勝ててしまうのである。私が物事に当たるとき、少し力を抜いて正面から組みにかからない理由も、ここにあると言えよう。