クリア前
ディアブロ4、原神への課金にすべきか悩みつつも、早期アクセス版を購入してレベル35へ到達。ハクスラの正当な評価は99%以上の時間を過ごすことになる最高レベル・最高難度のエンドゲームを体験せずには不可能であるため、ここから記述する内容は「感想未満の印象」ぐらいで受けとめてください。おそらく、本作は3の愛好家にはネガティブに、2の愛好家にはポジティブに受け止められることとなるように思います。ちょうど私が真・女神転生3を2までとまるでベツモノだと感じて離れ、その反動で4とFINALを先祖がえりとして高く評価したのと同じ心の動きが生じるだろうと予想しておきましょう。3のパチンコみたいなエフェクトは鳴りをひそめ、全体的に薄暗くて陰鬱な、地味とさえ言えるレベルに演出が抑制されているのは、2までのディアブロ・ワールドの正しい解釈だと感じました。
本作はオープンワールドをうたっていますが、移動や視点の自由さになんら拡張がないため、「3の全ACTマップをつないだ上で面積を大幅に広げて、シームレスにしたもの」が実状に近いような気がします(パス・オブ・イグザイルやグリムドーンと比べて特別なにか新しい感じはしません)。そして、ジャンルの創始者が苦しむ「クォータービューの呪い」は未だに健在で、「どれだけ3Dモデルを精彩に作りこんでも、プレイ中に見るのはオッサンの背中と頭頂部だけ」問題を解消する革新的なアイデアは見られませんでした。さらに、グラフィックを作りこんだゆえの処理落ちを避けるためかーーティアキンの手法を見ならうべきところでしょうーーかなりキャラに寄ったデフォルト視点を引いた位置へ変更することができず、「オープンワールドなのに、カメラの問題で広がりを感じられない」という自己矛盾を抱えてしまっています。また、中世キリスト教世界をベースとした神と悪魔にまつわる西洋人の内面は、原神などアジアのそれを通過した現在、あらためて読むと非常に画一的で薄っぺらく感じられ、「なぜ、こんなものをありがたがっていたんだろう」という気分にはさせられました(これが西洋の物語全般に当てはまる指摘ではなく、シナリオのクオリティが原因であることを祈ります)。
なんだか腐しているばかり(いつもの)になってきましたが、リザレクテッドを経由したからでしょうか、前作との大きな違いとして、ハクスラの金字塔である2への敬意を端々に感じられることは、かつてのファンにとって単純に嬉しい限りです。3の制作者インタビューで、前作を「古臭い」と断じて新作を称揚しようとする内容を読んでしまい、行き場のない怒りにふるえたことを昨日のように思い出します。オリジナルを作った人間がだれもいない状態からの巨大IPリブートに、不安と気負いが大きかったゆえだろうと想像はしますが、「熱心なファンを厄介者と断じて排斥する態度」は、揮発しないヘイトの蓄積へとつながるがゆえに、クリエイター諸氏は厳に戒めるべきものでしょう(シンのエヴァとかね!)。
いろいろと言いましたが、ディアブロ4、中年期以降の傷んだ身体で黙々と半日ブッとおしで遊べるくらい「手ざわり」の良い、軽快なゲームであることだけは間違いありません。え、タイムラインをにぎわせた「45歳で人体の保証期間が切れる話」のこと、どう思いますかだって? そうですね、我が人生の先達から得たありがたい金言をここで諸君らと共有しておきましょうーー「(中年期を過ぎると)酒飲みとデブは、確実に弱っていくね」。震源地となったアカウントが時折アップする食事の風景と、「飲食店の水がジョッキでサーブされると嬉しい」などの発言から推理すれば、トリセツを無視した人体の使用方法が原因であることは明らかですね(ウイスキーの入ったスキットルのフタをふるえる手でつかみながら)。
最後にディアブロ4へ話を戻しますと、この規模にまでゲーム部分を膨らませておきながら、従来通り1年を4シーズンに分割してラダーリセットかけるって、ちょっと本気で言ってます? もうブンケイの大学生か、ゲーム配信で生活費が入ってくる層しかまともに遊べないのでは? 「現実の、時間経過による蓄積のしなさ」から逃げるためにゲームをしている身にとって、この過酷な仕様はあまりにもつらい……レベル上限を999にして、5年に1回リセットくらいで手を打ちません?
クリア後
ディアブロ4、メインストーリーをクリアして、ナイトメアで各地のサブクエストを潰しつつ、名声値をかせいでいる。アーリーアクセスで開始しながら、平日は1時間、休日は少し多めにプレイしても、まだレベル60前後にしかならないし、新たなクエストの発生はいっこうに止まる気配がない。オープンワールドの自由度とゲームバランスを両立させるため、プレイヤーのレベルに応じて敵全体の強さが同時に上がるシステムは、ハクスラのゲーム性と水油であることもわかってきた。社会人がする趣味程度の触り方では、7月に予定されているラダーのファーストシーズンまでに、カンストであるレベル100へ到達することは、とうてい間にあわないペースで、ここまで大学生やゲーム配信者ーーもしくはリタイア後の老人ーーめがけた作りになっているとは、思わなかった。
ジャンルをMMORPGへと拡張したのに本質の部分はMORPGのままで、同じキャラをじっくり育成したい欲望は無視され、一定期間が経過した後は新たな仕組みの導入で、長時間を費やしたキャラを無価値化されてしまう。また、かなり手軽にスキルポイントをいちから振り直せるため、「レベル100までの経験値をかせぐ」イコール「すべてのスキルポイントを入手する」ことが最終目標として顕在化してしまい、本シリーズの魅力である「自分だけのキャラを育成する喜び」ーー後戻りできないゆえの試行錯誤ーーが消失してしまったように感じている。「雑にポイントをふっていき、バージョンとトレンドに合わせて都度リスペック」というのは、ハクスラのゲーム性の小さくない部分を歪めていると思えてならない。全体的に「プレイするゲームをディアブロ4のみに定め、人生の時間をすべてそこに注ぎこめる、生活費の心配がない人物」にとってのみ面白さが最大化する作品だということがわかってきたので、ファイナルファンタジー16が発売されたこともあり、モチベーションはだいぶ失われてきている。
シナリオはけっこう好きな部類で、「まだ神と悪魔で疲労してんの?」と思わないでもないが、遠藤周作から輸入した「神の沈黙」をテーマにからめて深みーーほんの少しだけーーを出すことに成功している(まあ、ライターが触れたのはスコセッシ版の映画だろう。個人的には、篠田版の邦画を薦めておく)。幕間のムービーはどれもよくできていて、1の1.2倍、2の0.9倍、3の1200倍はよかった。何より、不倫人妻感のムンムンに横溢したリリスが、とてもとてもエロい。リリスのエロさに駆動される形でメインストーリー部分を追いかけたといっても、もはや過言ではない(頼むから、過言だといってほしい)。唐突に終わる。1時間後ぐらいに、ファイナルファンタジー16製品版の所感を述べる。
崩壊スターレイル、最新イベント「パンクロード精神」を最後まで読む。正直なところ、ログボ取得とデイリー消化の、所謂「ボイド・ターム」が続いていたため、ほとんど視界から消えかけていたのですが、心のファイヤーが再び着火されたことをお伝えしておきます。いやー、やっぱり億単位のユーザーを相手にする会社はちがいますねえ! いまの自分が奪われたらもっともダメージのあるものが何かと問われれば、やっぱりあちこちに課金したゲームのアカウントなので解決編に納得感があるし、何よりこのシナリオにはアホがひとりも登場しないのがいい。原神もそうですけど、膨大な数のプレイヤーにはあらゆる属性の人間が含まれるわけで、そのだれひとりをも軽んじないシナリオというのは、もはや世界を相手にするメーカーにとっては、必須とも言える要件なわけです。不興を買った1名が毎月数千万ドルを課金するアラブの王族だって可能性も、冗談ではなくあるわけですからね! また、新たな固有名詞によって明かされる世界観がほんの氷山の一角に過ぎず、まさに宇宙レベルの広がりを想像させてくれるライティングもすばらしい。どこぞの死ネヴァーー*おおっと、ミスタイプ!*ーーみたいに、世界はベニヤ板の書き割りでキャラは還暦オヤジが裏声のゴッコ遊びで演じわけてるような、ペラッペラの情けない土人サイファイとは格の違いを感じますね! 崩スタ、原神ほどはプレイあたりのカロリーが高くないーーある程度まで進めたあとは、週日10分週末1時間くらいでOKーーので、ぜひ体験しておくことをオススメします。
ついでにディアブロ4の近況報告もしておきますと、サブシナリオで各地をウロウロしているだけでレベル40台も半ばに近づき、そろそろメインストーリーを進めようかと着手したら、レベルと装備は充分なはずなのに、節目節目のボス戦でなかなか勝てない。説明しておくと、手持ちのポーションが何個かあって、ボスの5目盛りほどのライフゲージを1目盛り削るたびに、新たなポーションが2つ落ちる仕様なのね。そして、ボスはプレイヤーのライフを半分以上フッとばす必殺攻撃をときどき放ってきて、ボス戦以外ではほぼ使わない新アクションならぬ死にアクションのダッシューー無敵時間もないのに長めのクールタイムはある、なんとなくの思いつきで入れたポンコツーーでぜんぶ回避する必要があんの。あのさあ、ディアブロにアクション要素なんてビタイチいらねーんだよ! 反射神経の衰えたアルコール・ソークト脳なミドルエイジでも、コツコツ装備を集めればやがてどんな難敵にも余裕をもって勝てるっていう爽快感が、ハクスラ最大の売りじゃねーか! なんで偉大なジャンルの創始者がその面白さの本質を理解せずに、わざわざゲームの間口を狭めにいってんだよ! 大味なマウス操作でボスの攻撃の狭い隙間をぬっての回避なんて、できるわけねーだろうがよ! ここだけゲーム性がファミコン時代のアクションか、昔のイース・シリーズみたいになってんだよ! オレがなりきりたいのはバーバリアンであって、アドル・クリスティンじゃねーんだよ! ボス戦だけまんま3のクソさを継承してて、「ディアブロ2に似てる」なんて言ったオレがバカみてーじゃねえか! 「キチンと成長させれば、どんな強敵にも余裕をもって勝てる」っていう、ホヨバのバランス調整を見習えよ! いちばんカネを余らせてる世代の親指5本ブッチャーに不快なゲーム体験を与えて、いったいどうしようってんだよ! Buriza-Do社のエイジ・ハラスメント、最低や!
あと、ディアブロ4のオトモに話題の江戸前エルフを再生したけど、昭和生まれの独居オタクをねらいうちにしたレトロなキャラデザと内容で、メチャクチャおもしれえじゃねーか! 生まれ落ちた性別を捨てて不老不死となり、世話をしてくれる美少女たちを衰えた性欲から孫子に向ける視線で愛で、スのままの自分をいっさい変えずに近隣住民と地域社会へ受け入れられるーーまさに初老オタクにとってのトリプル数え役満、男性版ハーレクイン・ロマンスな盛り盛りの願望充足器ぶりには、画面の前で思わず「すげえ!」と感嘆の声がほとばしりでちまったほどだぜ! 願望充足器で思い出したけど、オイ、目をそらしてんじゃねーぞ! オマエのことを言ってんだよ、FGOサンよ! 全サーバントの中でもっとも絆レベルの低い薄情な盾女(箱男の文化的対偶)の宝具を、見えないところでしれっと強化してるんじゃあないぞ! ここまで何年も何年も、さんざんっぱら引っ張りに引っ張っておいて、昔からのファンであればあるほど絆レベル上限解放にあわせて、第2部終章あたりでシナリオと連動した宝具強化をするんだろうと、ジリジリしながら待ってたはずなんだよ! 「いつまでも宝具スキップの実装を許さない、ファンガスの意固地なまでのスタボーンネス」にしても、その偏執狂的なまでのこだわりがシナリオのクオリティにつながってることをみんなわかってるからこそ、生あたたかい微笑で見守ってきたんじゃねーか! 建て増しと耐震補強でなんとか持たせている古臭いアプリを皆が見離さずにいる理由として、「ストーリーテリングにおける手抜きの無さ」の他に何があるってんだよ! よりにもよってその、いちばん裏切っちゃならねえファンの信頼の部分を裏切りやがって! 怒りすぎて血管の強度が心配になってきたのでこのくらいにしておくが、後付けでもかまわないから納得のいく行間の補完をしろよ……しろよ!(まあ、本当に怖いのは「ファンガスが事故や大病で、いま現場のジャッジをできない状態にある」ことなんですが、関係者のみなさん、大丈夫ですよね?)
是枝監督の熱心なフォロワーであるため、カンヌ脚本賞の怪物を劇場で見る。事前情報をほぼ入れていない、作り手にとって理想的な観客であり、タイトルに受けた印象から起因するミスリードに、最後までふりまわされまくりました。「いったい、だれが怪物なのか?」という問いかけに始まり、モンスターペアレントの序盤から酒鬼薔薇事件を彷彿とさせる中盤を過ぎ、「じつは怪物は、どこにもいなかった」という終盤へと至って、脚本家の意図どおり巴投げによる完璧な一本負けを綺麗に食らった次第です。しかしながら、「生まれ変わりはない」ことをハラ落ちさせた上で、「行き止まりだと思っていた場所」へ向けて少年たちが歓声をあげながら駆けだすラストシーンはあまりにできすぎていて、どこか虚構然としているようには感じました。この作品の中で明確に作り手から断罪されているのは、「クラスのいじめっ子たち」「ゴシップ誌の記者とカメラマン」「主人公の友人のシングルファーザー」であり、特に父親は「同性愛者の息子を認められない、旧来的な偏見に満ちあふれたマスキュリニティ」として描かれており、「大人たちの言語化されない思惑を先んじて感じとる、現代における『炭鉱のカナリア』としての子どもたちが引き起こした一連の事件は、この社会があらゆる多様性へ真に包摂的であれば、生じなかった悲劇なのです! そう、『怪物』とは私たち一人ひとりが無意識のうちに抱いている偏見と同義の通念であり、狭小な人生観そのものなのです!」という、是枝作品の常である「かそけき演出にこめられた、ドぎつい社会派メッセージ」を受けとらざるを得ませんでした。
脚本賞の是非については、ジュン・ハマムラの解説にだいぶ混乱させられましたが、主人公の相手が少女であればヰタ・セクスアリスの感傷に過ぎなかっただろう本筋を、そこに少年を配置することで是枝作品の持つ社会批判へと完全に昇華させた点は、じつにみごとな手腕だと言えるでしょう。内容的には、脚本賞というよりむしろ構成賞とでも命名すべきものーー校長先生の最後の台詞とか、ちょっとあざとすぎて、やりすぎだと感じましたーーでしたが、子どもの未来を光の中へと解放しながら終わる結部は、大人たちの真相ーー「校長の事故経緯」「担任教師の顛末」「虐待父の真情」などーーを完全に観客の想像力に預けて物語の収まりから枠外へとブン投げたのには、「脚本賞なのに、そこを拾わんのかい!」といきどおる気持ちにはなりました。あと、主役の男の子の容姿が少年時代の柳楽優弥にクリソツーー表情の作り方まで!ーーで、あらためてペドロリ方面における是枝監督のブレなさを実感させられて、背筋がゾッと薄ら寒くなったのでした。もし、我が子を芸能界デビューさせたいと考える親御さんがいるなら、まずはじめに「誰も知らない」を視聴してください。お子さんの容姿が作中の子どものだれかに似ているとしたら、是枝組のオーディションには極めて高い確率でパスできると思われます。以上、一般人にはまったく必要のない、芸能界チート・テクニックをご紹介しました。
それと、エンドロールで初めて知りましたけれど、本作の楽曲は坂本龍一が提供していたのですね。個人的には、「体制は常に盤石かつ強靭で、一瞬の無視も悪徳の栄えへつながる」との妄念を強く抱き続けて、若い頃のおイタ(テロ行為)へ真摯に向きあうことをせず正当化の果て思想化し、いくつになっても身勝手な放言ばかりで、ついには社会へ何の責任も果たさず消えていきつつある部族の一員という印象を持っていましたので、是枝作品の放つメッセージーー中身とは言わないーーとの親和性は高かったのかなと思いました。トーン・デフの身なれば、彼の音楽を語る立ち場にはありませんが、「過剰な音の集積」から始まった作曲遍歴が、そのレイトワークにおいて音を削ぎ落としに削ぎ落とした「雨だれ」のようなピアノへと変じていたことに、外野としてある種の感慨は抱きました。この世代の態度へ向けた反発から冷笑系オタクになってしまった我々を、物事への批判を嫌う若い人たちはさぞかし嫌悪していることでしょうが、私がいままさに進行形で感じているように突然ある日、それは無形の圧力ごとウソのように消えてなくなります。だとすれば「怪物」とは、死によって時代とともに変遷する他者の内面のことなのかもしれません……ドヤッ!
ファイナルファンタジー16のデモ版をダウンロードし、最後までプレイ。デモ版とは言いながら、冒頭から2時間ほどをたっぷりと遊ばせ、さらにはオマケとして序盤のクライマックス・バトルまで含まれており、近年のJRPGに顕著な「過去タイトルの威光を借りて、初動だけを最大化させて売り逃げ」をねらったのではない、制作サイドの確かな自信がうかがえます。ここからは、本シリーズの全作をプレイしており、2から15ーー14は除く、理由は後述ーーはほぼ発売日のリアルタイムで手に取ってきた人物の感想になります。ファミコン時代の体験から、「ゲームは匿名性をまとうべきで、作り手の名前が悪めだちしてはならない」という持論の持ち主なので、14のプロデューサーでもある本作の制作責任者にはまったく良い印象を抱いていませんでした。なんとなれば、シリーズ中もっとも愛してると言っていい11を、新生とやらに予算をブンどって実質的な更新停止へと追いこんだ人物だからです。なので、このデモ版にしても期待値はゼロ以下の状態から、どうやってクソミソにけなしてやろうかと手ぐすねをひいていたことは、ご理解いただけるでしょう。
オープニングを終えて、操作の初ッ端からカメラが合わず、左右に少し振っただけで腸が蠕動して偏頭痛の気配を感じる始末で、あやうく評価以前にコントローラーを置きかけましたが、描画を「パフォーマンス重視」に切り替えてカメラ速度を調整し、なんとかプレイを続行できるレベルに落ち着きました。岩山ばかりのロケーションには「まともな背景を作れないからだろうな!」と毒づき、イケメンが脈絡なく落石に潰されるのを指さして爆笑し、イケオジの「まだ任務は終わってないぞ!」の激励には「オイオイ、始まってもいねーよ!」と思わずツッコミます。唐突なブラックアウトから過去編が始まったのには、「古今東西、回想が面白かったためしはねえからな!」とブツクサ文句を言いながらプレイを続けたのですが、次第に受ける印象は変化していきました。かつてのように最先端とまでは言えないものの、ロード・オブ・ザ・リング以降のファンタジー海外ドラマを思わせる中世ヨーロッパの世界がキチンとグラフィックで表現されており、特に屋内の暗さと屋外の明るさの対比にはハッとさせられるものがありました。キャラも13のようなアニメ調ではなく、美形ばかりではありながら、実写に近づける方向でデザインされているのも好印象です。
最初のクエストであるゴブリン退治を進めているとき、身内に懐かしい感覚が蘇ってくるのを感じました。それは、12ぐらいまでは確かにあった、国民的大作RPGが提供する広大な処女雪に最初の一歩を踏み入れるときの、なんとも言えないワクワク感です。奇矯な造語とハレンチな服装の女主人公でオリジナル作品の悪い見本となった13、数年にわたる紆余曲折の末に経営判断で瓦礫の寄せ集めへ無理矢理ナンバリグした15と比べて、本作ははるかに「ファイナルファンタジーしている」と言えるでしょう(竜騎士の登場シーンなんて、思わず泣き笑いみたいになりました)。もっともその中身は、西洋文明に憧れた東洋人の子どもの考える「大人のファイナルファンタジー」ではあるのですが、「ホストたちがキャデラックを転がしながら、カー・オーディオでスタンド・バイ・ミーを流す」みたいな気のくるった妄想キメラよりは、何百倍もマシなものではあります。
召喚獣戦の後、旧エヴァの影響を色濃くただよわせるムービーを見ながら不思議な高揚感に包まれ、ただちに”BUY NOW”を押下しました。最近では中華RPGへ湯水の如き賛辞と課金を施しながらも、やはりドラクエとエフエフには「当世で一番」であってほしいという気持ちが、どこかに残っていたのでしょう。デモ版で切り出された部位が、ゲーム全体で最上のものだったという可能性もなくはないですが、いまはかつての少年の日々のように、発売日を指折り数えて待ちたいと思います。
連載開始当初より話題であり続けている「僕ヤバ」ですが、更新日にタイムラインが沸騰するのを横目にしながら、ずっと単行本で追いかけてきました。先日、アニメ版の最新話(12話)を見て、本作について思うところをまとめておこうという気になった次第です。もっと言えば、この令和版かぼちゃワインーー「ノミの夫婦」という共通点だけでしゃべってる感ーーがいまから述べる観点で語られるのを、ついぞ見かけたことがなかったからでもあります。本作の主人公は、中学受験に失敗したことで自尊感情を手ひどく毀損された「親の期待に応えられなかった子ども」、より正確に表現するなら「親の期待に応えられなかったと”思いこんでいる”子ども」として描かれています。特に男子にとって受験の失敗というのは、どのレベルのものであれ、人生へ大きく影を落とすものです。折れた自尊心をだれにもケアされなかった結果、曲がったまま接骨されてしまった心の状態が、オタク的心性の一形態だとも言えるでしょう。具体的な名称を挙げると誤解を招きそうなのでボカしますが、SNSなどで学歴に朗らかでいられるのは、「スペックと努力量の相関を意識できないほど、水のように優秀なT大卒やK大卒」や、あっても「自分には才能がなく、努力しかできなかったとうそぶくH大卒」ぐらいまでがせいぜいでしょう。そんな「上澄み内の上下」の埒外がこの世の表面積の大半を占めていて、ほとんどの葛藤は言語化されないまま個人の内側にくすぶっており、そこへ光を当てるのが優れたフィクションの役割だと信じています。
本筋から少々それますが、かつては「たくさん生まれて何人かは大人になれず、長じれば肉体ベースの職能で共同体を支えるのが当たり前で、時折あらわれる特別に頭脳優秀な個体が『おらが村の英雄』として都会の大学へ進み、『末は博士か大臣か』の期待を一身に受ける」のが子どもという存在でしたが、いまや共同体と呼べるものが核家族サイズにまで縮小した結果、両親のまなざしは最初から「博士か大臣の期待」で始まるがゆえに、多くの子どもにとって人生は「自他を失望させるスパイラル」として、下降してゆく性質を持つようになってしまったのです。医学部受験で多浪を強要するような「教育虐待」を特濃とする無限のグラデーションが各家庭で固有に存在し、失敗した(と感じる)子どもの眼前へその濃淡は可視化されます。言葉にはならない親の期待を汲みとって中学受験を「自ら」志願した子どもが、人生においておそらく初めてのーーそして、本来的に不要なーー挫折を経験する。親はそのことを責めはせず、子どもは親に心配をかけまいと「なんでもなかった」かのようにふるまう(理数系の科目が壊滅的にできなかった身にとって、受験に失敗した事実を「大したできごとではなかった」と己に信じこませる過程で生じる精神の歪みというのは、まったく他人事のようには思えません)。より近い位置にいる兄妹だけが、薄々そんな心の状態に気づいているけれど、声をかけることまではできないでいるーーまさに「地獄への道は善意で舗装されて」おり、その道はやがて秋葉原や西大寺にまでつながっていくのです。
近年のジュブナイルにしてはめずらしく、たがいの両親が作中に登場するのも、「中学受験の失敗」という裏テーマを丁寧にあつかう意志があるからだと感じています(作者の実体験が反映されているのかは、気になる)。この意味で、対置されるヒロインが「学歴とは関係ない場所で輝こうとする存在」であることも、重要な要素だと言えるでしょう。本作は良質なラブコメである以上に、「真ッ二つに折れてしまった自尊感情を、善良な他者との出会いによって正しく骨接ぎされ、まっすぐな心へとたちかえる物語」として読み解くことができるのです。「ヒロインの設定や行動が、盛りすぎでやりすぎ」との批判には、「そこまでの存在がいなければ、親の期待を裏切った子どもの、深く周到に隠蔽された傷を探りあて、癒すことはできなかった」と返答するほかありません。それは同時に、ほとんどの傷ついた子どもにとって、救済はフィクションの中でしか与えられないのだという意味でもあり、あらためて愕然とした気持ちにさせられます。原作では、たがいに想いを告白する段階を終えましたが、どのように物語を閉じようとしているのかは、私の常としてとても気になります。作品テーマを正しく昇華するには、「親の意志である中学受験」での挫折を「己の決断である高校受験」において、主人公がどう乗り越えるかを描く必要があるでしょう。「受験のリベンジ」と「恋愛の成就」が両天秤には「ならない」ことによって、本作が凡百のラブコメでは届かない、現代社会における暗い一隅を照らす光となることを、心から願っています。
デモ版
開始10時間
ファイナルファンタジー16製品版、主人公が本当の自分を受け入れる(笑)ところまで進める。PS5専売のおかげで大画面に耐えるほどグラフィックがいいし、デモ版でステレオかと残念に思っていたサウンドがサラウンドで鳴っているのは驚きでした。アクションは軽快かつ派手な上に、ボス戦を含めた難易度も全体的に低めで、反射神経の衰えた中年美少女であるにも関わらず、ここまで一度の全滅さえなく、アルコールを入れながらのプレイでも大丈夫そうなのは、個人的に好印象です。ゲーム部分の手触りは正直なところ、エルダー・スクロールズで言うならオブリビオン、ゴッド・オブ・ウォーで言うなら3、アンチャーテッドで言うなら2って感じで、一本道のマップとムービーが交互に繰り返され、自由度はそれほど高くありません。しかしながら、召喚獣戦が出色のオリジナリティで、ハイテンポのグレゴリオ聖歌みたいな男声合唱が流れる中での大怪獣バトルは、シンプルにテンションがブチあがります。さて、ここまでを絶賛しておきながら、ストーリーに触れる段になると急ブレーキを踏まざるをえないのも、また事実です。
ビジュアル優先で、キャラの感情と言動に一貫性がないのは、当シリーズのお約束として看過しましょう。もっとも気になるのは女性の描き方、もっと言えば「母なるものへの嫌悪」を強く感じるところです。本作では、魔法を使える人間が被差別民として描かれるーー「ベアラー」という単語が語尾下がりでなく語尾上がりで発音されるところに、我々の英語下手の正体がある気がするーーのですが、その表現の仕方がひどい。漫画家が批判者の容姿を不細工にする感じとでも言いましょうか、差別側をとにかく悪魔的に描くのです。とあるクエストなどは、「そろそろ説明だけじゃなくて、差別の具体的な感じをプレイヤーに伝えておきたいな……そうだ! 産み落としたばかりの新生児を母親が『おぞましい』と役人に処分してもらう話を入れよう! そのときの兄の台詞はこうだ、『今度はもっとちゃんとした弟をちょうだい』! (手の甲で垂れ流れるヨダレをぬぐいながら)ククク……残酷だ、この上なく残酷な世界の実相だよ……!!」とか言いながら書いてる感じで、それまでの好印象とゲームへの熱を一気に氷点下へ冷却するレベルにまで達しており、正直この場面を読んだ直後にもうプレイするのを止めようかと思ったほどでした。
FF14のときにも感じましたが、この制作者はあまりに思考が軽いというか、デリカシーが著しく欠如しているように思います。弟を溺愛し兄を冷遇する主人公の母親の描き方も極端だし、幼少期のプライベートな体験を反映しているのではないかと疑うレベルです。これが原神なら、ストーリーテリングで特定の人々を不快にさせるようなヘマは、絶対にしませんよ。両者へ感じる差異について、フォロワーの減少を覚悟で率直に思ったままを書けば、原神が「両親を敬う国立理系博士たちによる対話」で作られているのに対して、FF16は「両親の離婚した私立文系学士による独断暴走」で作られていると表現できるでしょう。ちょうど主人公たちの旅の最終目的は「”マザー”クリスタルを、ブッこわーす!」であることが判明したところですが、生命や魂のあつかいが雑で「世界観そのものが不快」ーーFF14でも同じことを言った気がしますーーって、かなり致命的じゃないですか? もちろんクリアまではプレイするつもりですが、現段階の印象がくつがえるかは、はなはだ疑問です。
思い返せば、最初のクエストが「舶来のラム酒」を「鍛冶屋ブラックソーン」に渡すという内容で、思考の無さとセンスの欠如をフルスロットルでぶつけられるイヤな予感は、残念ながら当たっていたと言えるでしょう。「ラム酒」は百歩ゆずって認めるとして、すべて地続きの世界で「舶来」ってどういう意味で使ってんの? どうせ、「スミスじゃ安直だからソーンにしよう、なんかカッコいいし」って、安直に決めたんでしょ? 形容詞1つと固有名詞1つで世界観の崩壊寸前まで持っていけるセンスは、逆トールキンとでも表現すべきもので、ファンタジー世界を構築するには致命的な非才に、FF14に覚えた不快感は正しいものだったなとあらためて思いました。あと、「機会を反故にする」とか、日本語もところどころ間違ってるし、あーもう! ホンマにイライラするわ!
13年後の5年後
雑文「PAPER MOONとFINAL FANTAZY(近況報告2023.6.26)」
デビルタイタン後
ファイナルファンタジー16、就寝前の30分でプレイを継続中。グラフィックに関しては、屋内外の明暗差とか、植生にこだわったフィールドとか、布の材質までわかる衣類とか、よくできている部分は本当に多いんですよ。エヴァっぽい召喚獣戦も、大画面のサラウンドを条件として、大迫力の仕上がりになっています。それなのになぜ、こんなにも強く残念な感じが全体にただよっているのでしょうか。シナリオの無神経さはすでにクソミソにお伝えしましたので、今日はゲーム部分のダメさについて触れていきましょう。
「スタイリッシュにもふるまえる」戦闘は、大剣使いにも関わらず主人公の攻撃力が異常に低く、1体を倒すのに誇張ではなく100回も斬りつけなくてはならず、ベルセルクのような「重たい一撃で敵を粉砕する」快感は絶無です。リミットブレイクなる必殺技も、攻撃力をそのままに動きの速度だけが上昇する仕組みになっていて、その様子はまさに以前どこかで表現した「ストロー級のアジア人がヘビー級の黒人に向かって行う飛燕の連撃」であり、演出の派手さも相まって、思わず変な笑いがこぼれてしまうほどです。ボス戦はこれに加えて、「地面に大技の予告エフェクトが出る」のを範囲外へ回避するステップが加わりますが、「アイスピックを高速で突きたてて氷を削る」みたいにして1000回も斬りつける作業は、基本的に変わりません。
フィールド部分の話をすれば、主人公はジャンプが苦手で、わずかな段差さえ常に迂回することになり、チョコボのダッシュも必死に足を動かしている割にはスピード感に欠け、店に売っている品物は数千から数万ギルするのに、意味深に光っている探索物の正体は2ギルか3ギルなのです。ここまで書いてきて気づいたんですけど、本作の正体って「オンラインゲームしか作ったことのない人物が、初めて手をつけたオフラインゲーム」なんじゃないですかねえ。1アタックの攻撃力がいちじるしく低いのも、床に長々と回避エフェクトが表示されるのも、回線のラグから逆算された仕様に思えるし、キャラの行動範囲とリソース獲得への強い制限は説明するまでもないでしょう。
思えば、ニンテンドーの主力ゲーム群がすばらしいのは、2Ⅾにせよ3Ⅾにせよ、プレイヤーの分身たる「マリオのアクション」や「リンクのできること」をまず「気持ちよさ」の観点から作りこみ、それを前提としてゲーム部分を構築している感覚が常にあるところでしょう。他方で、本作を含む近年のファイナルファンタジーは、「イケメンの主人公と美麗なフィールドを作成しました。さて、どうやってこれを遊ばせましょう?」という手順で作られてるように見えるんですよね。前者が「作る料理を決めてから材料を仕入れる料理人」なら、後者は「高級食材を購入してから何を作るか考えるグルマン」だと指摘できるでしょう。ニンテンドーの好ましさを例えると、「安い赤身しか手に入らなかったから、いい醤油を使ってヅケにしよう。ご飯は釜で炊いて、せめてワサビはすりたてで提供しよう」といったふうに、熟練の料理人によるジャッジがあるところなんですよね。
一方でファイナルファンタジー16は、「最高級の大トロを仕入れてきやしたぜ、旦那!」「うーん、いまオレは麻婆豆腐の気分なんだ……ひらめいた!」「オッ、まさか!」「そのまさかさ!」「うへえ、大トロをマーボーの具材に使うなんて、聞いたこともねえ! こいつァ、豪気だ!」「(小鼻をふくらませて)フフフ、真のクリエイティブは、だれも想像しないような地平にこそある……」といった、自称グルメの成金が内輪ウケに大金を使ってる感じであり、客である私の感想は「まっず!」なわけです。それにしてもこの怪作に、いったいどのくらいの人とカネと時間を費やしたんでしょうか(ググる)……(ギョロ目で)はあぁちいぃねえぇんん!? この間に台頭した半島や大陸の制作会社のきらびやかな活躍を見れば、本邦のゲーム業界が負けるべくして負けたことがよくわかりますね……。
バハムート後
ファイナルファンタジー16、ド迫力のバハムート戦をクリア。兄弟召喚獣での共闘に始まり、宇宙へ舞台を移してのグレンラガンを彷彿とさせる大立ち回り、メガからゼタへと至るフレアのインフレーションなど、QTE的とは言いながら、そこに介入して勝敗を決することのできる喜びに酔いしれました。他のすべての要素は脇に置くとして、召喚獣戦だけは100インチ以上のスクリーンと7チャンネル以上のサラウンドを前提に、ぜひ体験することをオススメします。しかしながら、その昂揚の極みは直後のムービーシーンで氷点下を突き抜けて、絶対零度にまで冷却されてしまったことも、また事実です。繰り返しますが、本作の主人公サイドはどいつもこいつも「犯罪歴の無い半天狗」であり、そもそもだれかと対話をしたり説得したりしようとする意志はなく、クリスタルを破壊したあとに自然が回復するような描写もないものだから、隠れ家の一味全員が故人の妄言を疑わないマルセイーーやだなあ、バターサンドのことですよ!ーー集団にしか見えません。それ以外のあらゆる登場人物も「狂気じみた差別者」ーーしかも、昭和前期の地域・血脈へ向けられたレベルーーとしてしか描かれないため、プレイ中に不快な気分が途絶えることはありません。
バハムート打倒後のムービーを見たとき、私に訪れた慨嘆はこうですーーどうして我々は、こんなにも親を憎むようになってしまったんだろう! ひとりの母親に息子たちを化け物と呼ばせ、錯乱の果てに頸動脈をみずから掻き切っての自死を選ばせるーー原神を経てしまったいま、これは本当に異常な作劇だと感じます。「平手を打って自殺を止め、隠れ家に連れ帰る」、そこまでは無理でも、せめて「崩落した瓦礫の下敷きとなり、事故死する」ぐらいにとどめる判断をしないのは、あまりにもデリカシーに欠けていませんか。あるいは以前に指摘したように、制作者の抱く「母なるものへの憎悪」が深すぎるせいなのかもしれません(思考が浅いだけの可能性も充分にあるーー「うーん、和解ルートもありっちゃありだけど、尺の問題もあるし、ここで処理しとくかー」ーーのが、本作の怖いところです)。タイムラインに「PS5を持っていないのは、ゲーム業界を志す者にとって致命的。Steamがあるって言うけど、いつFF16をプレイするつもりなの?」みたいな関係者の話が流れてきましたが、こんなゲームをプレイしても世界と戦えないことだけは断言できます。
いますべきなのは、大陸の為政者へ向けた敵愾心をオーバーラップさせるのを止めて、オリジナルを作れない剽窃ベースの程度が低い文化と侮るのを止めて、なぜ原神がここまでの規模で世界的にヒットしたのか、どうして居ならぶ本邦のゲーム制作会社たちはこれを生むことができなかったのか、見ないふりをせず、丁寧に真摯に虚心に坦懐に、その理由を分析することです。「母親が目の前で自殺するのを止めない子ども」の話が、いったい世界中のどの文化圏で肯定的に受け止められるのか、答えを持っているというのならぜひ教えていただきたいものです。アニメにせよゲームにせよ、スーパーアニメーターやスーパープログラマーが大ヒット一発でフワッとディレクターへと昇格し、シナリオのライティングまでぜんぶ任されてしまう「構造的問題」をどうにかしないと、本当にもう先はありませんよ。両業界をあげて、専門のシナリオライターをしっかり育成することが急務であると、老婆心ながら忠告しておきます。
クリア後(FINAL DIS-CLIVE)
ファイナルファンタジー16、発売日から2週間をかけてようやくクリア。最終戦のフィニッシュブローが「くたばれ!」と叫びながらラスボスの横ツラにグーパンをいれるQTEーーこんなにも加担したくないQTEは生まれて初めてーーだったのには、999999のダメージ表示を前に、乾いた笑いが出ました。シンエヴァのときにも書きましたが、かつて大卒高偏差値のサロンだったオタク文化は、いまや「中卒ヤンキーたちがうんこ座りするトー横」に変じてしまったことを、あらためて実感させられた次第です。それから、冗談ぬきで30分近く延々と続くエンドロールをながめながら、口を糊するための仕事にすぎないとは言え、こんなにも「意味不明の設定」「支離滅裂な言動」「浅薄で稚拙な人間観」にあふれたヨタ話を、よくぞ完成までこぎつけたものだと、ディレクターとシナリオライター「以外の」すべてのスタッフをねぎらう気持ちになりました。
制作者インタビューを読んでいて思いましたけど、この人物って「ゲーム畑の外から就任した経営陣」に向けたプレゼンが、メチャクチャうまいんでしょうねー。生涯で一度もゲームになんか触ったことのない取締役たちも、召喚獣戦とか盛り上がるシーンだけをつなぎあわせて見せられたら、大ヒットで制作費を回収できるような気になっちゃったんでしょうねー。その華々しいプレゼンの裏で、初めてのオフラインRPG制作にまったく手ごたえを感じられず、「やっべー、これマジでシリーズ最終作になっちまうかもなー」などと考えてしまい、ラスボスに「最終幻想」と言わせてみたり、初代FFオープニングの「そして・・・・ たんきゅうのたびははじまった」を裏返した台詞でゲームを閉じたりしたんでしょうねー。もし今後、ファイナルファンタジー17が作られるとしたら、6までの初期メンバーを呼び戻してほしいし、それが無理なら11をオフライン版でHDリメイクするのがあらたな死に金を生まない経営戦略だと、ゲームに微塵も興味のない首脳陣へと進言しておきましょう。
最後に、語り忘れていたミドなるキャラクターへ焦点を当てて終わります。このキャラ、ファンタジー世界なのに女子大生という気のくるった設定で、シドの娘を名乗らせるくせに母親の存在や幼少期の様子など、のちの登場のための伏線らしい伏線はいっさいなく、それこそ虚空から突然、13年後の5年後にアジトへ出現するのです。彼女のする奇矯な言動の数々は、あきらかに何らかの発達特性を示すもので、男性ならば「空気を読めない」や「対人能力が欠如している」などの評価から、組織内で孤立するだろうレベルに達しています。作品中でこのキャラが皆から好意的に受け止められているのは、これを「エキセントリックな魅力」として受容する、男性側の性的なまなざしで作品世界の根幹が構築されているからでしょう。本作において、しつこく、しつこく、しつこぉくーー「もうええて!」とリアルで思わず叫んだほどーー繰り返される「人が人として生きられる世界」というフレーズも、昭和の人権活動家が部落差別を語るときの「人」とまったく同じ色がついているし、以前に「世界観が不快」とお伝えしましたが、「世界を語る作り手の視線がキモチワルイ」と言い換えて、この怪作へたむけるファイナルディスクライブ(FINAL DIS-CLIVE)とさせていただきます……ドヤッ!
ファイナルファンタジー16を進めながら、ディアブロ4にも触り、原神と崩スタのデイリーを消化する中で、FGOの最新章を数日に分けて読む。困ったときの物語フォーマットとしてたびたび登場する「聖杯戦争」ですが、無印フェイトへ何の思い入れもない身にとって、「またかよ」とウンザリする気分はありました。手塚治虫のスターシステムと神話や歴史の人物を紐づけてのバトルロイヤルは、物語のビルドアップをスッとばせる発明だったとは思いますが、いい加減20年近くが経過し、そろそろ賞味期限を考える時期ではないでしょうか。テキストそのものはさすがに読ませるクオリティだし、インドの新キャラたちは充分に魅力的だとも感じますが、既存作品からの使い回しに没入をさまたげられます。メドゥーサのセイバーとか、過去作や派生作まで追いかけているファンにとっては、大興奮の大歓声なのかもしれませんが、「語り終えられた関係性に依存するコア層へのサービスであり、本質的には不要の再話」としか思えません。アルターエゴについての説明も、「オレの最強設定集」をくだくだ読みあげるのを聞かされてる感じで、ちっとも頭に入ってきません。この点に関する今後の期待は、フォーリナーの説明をほのめかしにとどめず、版元にキチッと許可をとって、クトゥルフ神話にからめながらガッツリやってくれることですね。
文句ばかりならべましたが、物語の最後において、ある人物が自身の罪悪感の正体について吐露する場面には、大きく心を動かされました。例えるなら、強盗殺人犯に対して「家の扉を開けてしまった」事実をずっと反芻し続ける子どもの話で、人生において「しなかったこと」は後悔になり、「してしまったこと」は罪悪感になるのを、あらためて確認する思いになります。彼女の告白を聞きながら、「長く生きていれば、それはだれもが抱く感情だよ」と心の中で語りかけていたら、まったく同じ内容の選択肢が画面へ現れたことに、ふいをつかれて泣いてしまいました。ほとんどの人間が世界にとっての主人公ではなく、ただのモブとして人生を終えるーーその事実に優しく寄り添う視点を持っているかどうかが、すべての物語にとって重要なのだと思います。奏章Ⅰ「ペーパームーン」(川原由美子!)は、この一点において、私にとって忘れられない物語となりました。一方、ファイナルファンタジー16のストーリーテリングはこれの真逆になっていて、優れた部分も多くあるのに、デリカシーのなさがすべてを台無しにしていくのです。
いまは「13年後の5年後」の世界で、鉄道オタクの住処みたいな名前の国へ潜入してマザークリスタルを破壊したところですが、主人公と被差別民たちが終始、鬼滅の刃で言うところの半天狗みたいな被害者ヅラをふりかざし続けるのに、ゲンナリしています。体制側を差別的で酷薄な悪鬼として描くのは、全共闘に敗れてエンタメ業界に潜りこんだ方々が、フィクションに託して革命思想を拡散してきたのを、外形だけを見て無批判に継承してしまっているように感じられます。現段階での率直な評価を述べれば、グラフィックA、アクションB、ゲーム性とストーリーがFといったところでしょうか。見かけを作りこまれたマップなのに、探索など戦闘以外の遊びの要素が絶無であり、ただ「通過するための場所」にしかなっていないことは、大きな問題でしょう。その戦闘にしたところで、ボタン連打と必殺技の繰り返しに過ぎず、育成や収集の要素もかなり薄いことがわかってきました。これらすべてがあいまって、「13年後の5年後」からのゲーム進行は、画面の豪華さに比しておそろしく単調なものになっていて、その退屈さに耐えきれなくなって、プレイ中にも関わらずしばしばスマホへと手が伸びてしまうほどです。主人公サイドの言動と感情は、いよいよ支離滅裂さを極めており、7・8・13・14・15あたりの持つ「ダメなファイナルファンタジーっぽさ」だけは、全面に出てきたことをお伝えしておきます。「とりあえずクリアはする」と宣言しましたが、プレイ時間は日に日に短くなってきており、このまま何も変化が生じないとすれば、それさえ厳しいかもしれません。
長く積んであったフレンチ・ディスパッチをようやく見る。この監督の作品は「よくわからんなー」とか言いながらぜんぶ見てるので、もしかするとすごく好きなのかもしれません。もはや追随というより模倣をゆるさぬウェス・アンダーソン節ーーパクッた瞬間にそれとわかってしまう唯一無二の作家性ーーは健在で、特徴的な色彩設定と長回しの構図、そして独特のカメラワークは指摘するまでもなく、本作では2つの画面サイズ、モノクロとフルカラーを自在に行き来する演出が冴えに冴えています。特に画面サイズの演出は、前作グランド・ブダペスト・ホテルでは、過去と現在を分ける表現として明確なルールがあったように思うのですが、本作においては「オレがカッコいいと思ったほうを使う」ぐらいの感じで、4:3の余白部分をサブモニターとして使ったり、もうやりたい放題です。
絵作りに関しては、私ぐらいが評価できる範疇を超えていますので、物語の構成について触れていきますと、本作は「映画未満のアイデアからなる3つの短編」より成り立っています(自転車乗りの話は、舞台紹介の第0話なので数に含めません)。「バラバラのままで提供するわけにはいかないから、信頼のボブ・マーレイでマルッと包んじまうか!」みたいな発想で、雑誌社の設定が後づけされたのかもしれません。第1話が120点、第2話が80点、第3話が60点といった感じでクオリティにバラつきがあり、おまけに話の内容が相互に関連しないものだから、「牛肉とラム肉と魚をパイ生地(マーレイ)で包んで焼いてみた」みたいな、とっちらかった読み味になっています。私は「30年間、一行も書かない記者」が、一見バラバラに見える3つの話を一貫した視点でまとめあげる解決編を期待していたものですから、「ノー・クライング」にからめた良い話ふうのラストシーンはなんだかとってつけたようで、少しガッカリしました。ベニチオ・デル・トロ扮する囚人の画家を追った第1話がメチャクチャよかったので、これに作品全体へ向けた期待値をハネ上げられてしまった側面はあると思います。
女子高生ならぬ「ベニチオの無駄づかい」で有名なのは最後のジェダイですが、ライアン・ジョンソンよ、大トロでマーボーを作る者よ、次世代のハン・ソロ、新たなボバ・フェットとなりえたキャラクターを、あそこまで無残な印象を残さない造形にした己の非才について、ウェス・アンダーソンの奇才を前に膝を折り、あらためて懺悔するがいい! そして金輪際、スターウォーズには関わらぬことだ! 脱線した話を元に戻しますと、本作の提供するユーモアというかエスプリは、「仏語を第二言語とする英語ネイティブ」にしか理解できないものが多く含まれている気がしました。膨大な設定が高速で提示される導入部分を含めて、訓練を怠ってサビついた耳には6割ほどしか聞き取れなかったので、いつかまた英語キャプション付きで再視聴したいと思います。あと、ティモシー・シャラメが「筋肉をごめんなさい」とか言いながら、あいかわらずナヨッとしてエロい上半身をさらすのには、笑いました。
「オカンがな、さいきん映画みたんやけど、タイトルが思いだされへんゆうねん」
「ほうほう、ほんなら、どんな内容かボクにゆうてみ」
「オカンがゆうにはな、主人公が車から落ちる話やったらしいねん」
「そんなもん、さいきん公開された映画で主人公が車から落ちる話ゆうたら、怪物に決まりやないか! 男と女でつくるフツウの家族の話を母親から聞いてたら、おホモだちのヨリくんからケイタイに着信があって、主人公は衝動的に助手席からとびおりてまうのよ。そら、怪物で決まりや、まちがいない!」
「でもな、オカンがゆうにはな、主人公はずっと車から落ちそうやねんけど、最後は落ちへんゆうねん」
「だったら、怪物とちゃうかー」
「オカンがゆうにはな、その車ゆうのがトゥクトゥクやったらしいねん」
「そら、インディ・ジョーンズと運命のダイヤルやないか! インディは三輪タクシーの運転中、ナチの残党とかにおそわれて、首ねっこつかまれたりなぐられたり撃たれたりするけど、壁とか障害物にぶつかる寸前で腹筋したりエビ反りしたり回転したりして、ぜーんぶかわして運転席にもどってくるのよ。インディが乗り物から落ちることだけは、ぜったいにないのよ。こらもう、インディ・ジョーンズで決まりや、まちがいない!」
「でもな、オカンがゆうにはな、主人公はゲイやってゆうねん」
「ほな、インディ・ジョーンズちゃうやないか! インディはゴリゴリのヘテロで奥さんも息子もいるのよ。インディがゲイなんてことは、シリーズ作品のどれを見てもありえないのよ」
「オトンがゆうにはな、スーパーマリオブラザーズちゃうかゆうねん」
「うそこくな、ファック野郎。だが、ワンチャンあるかもだ。もうええわ、ありがとうございました」
インディ・ジョーンズ「と」運命のダイヤル、愛マックスで見る。事前情報をいっさい入れずにいたら、冒頭でディズニーとルーカスフィルムのロゴが現れ、イヤな予感は一気に最高潮へとたかまりました。結論から言いますと、本作にはスターウォーズ・シークエルの反省が充分に生かされており、最後のジェダイのようなひどい有様とはなりませんでした。まず、1969年を舞台とするストーリーを語るのに、2023年の倫理観を持ちこまなかったのは、最良の判断だったと賞賛すべきでしょう。公衆の面前で酒を飲みまくり、屋内でタバコをふかしまくり、顔面をグーで音高く殴打し、黒人女を躊躇なく射殺し、悪党のナチスは皆殺しにし、同性愛者はひとりも登場しないーーもう清々しいばかりの割り切りぶりです。場面転換の際の編集やアクションパートの尺など、ヘタクソだったりバランスの悪かったりする面は多々ありますが、全体としてスピルバーグが撮影・編集したと言われても不自然には感じないレベルでの、模倣と擬態が行われています。
さらに特筆すべきは、ディズニーがSNSを通じた市場調査を徹底的に行なった結晶である、足元さえおぼつかない80歳のハリソン・フォードに代わって物語を駆動する役割を与えられた、フィービー・ウォーラー扮する「おもしれー女」a.k.a.エレナ・ショーの存在です。詐称、捏造、淫蕩、詐欺、虚言、飲酒、暴力、喫煙、友人を亡くして意気消沈のインディを前にゲラゲラと悪魔のように哄笑しながら自らの手柄をまくしたてる天然のサイコパス、生まれながらのdamn thief、「この人物であわよくば続編を」の色気さえ廃した最高のアンチ・ヒロインであり、ここまでマイナスに突き抜けさせないと、SNS優位の時代においては好感度なるものが上昇に転じないのは、心胆を寒からしめる事態であると言えましょう。ストーリーの最後に奇想天外の大オチを持ってくるのは当シリーズの伝統ですが、前作では宇宙人とUFOの実在をビジュアルで提示してしまい、旧3部作のファンに総スカンを食ったのは記憶に新しいーーえ、もう15年前なの? マジで?ーーところですが、本作における大オチもそれに負けず劣らず荒唐無稽なのに、インディ・ジョーンズというキャラクターの造詣から逆算した中身であり、思わず彼の心情につりこまれて涙ぐんでしまうような、感動的なものとなっています。そして、インディと古くからの観客とのシンクロニシティによるその感動を、「おもしれー女」が暴力的に蹂躙していくところまでがセットになってて、「ディズニー、ふっきれてんなあ」と、逆に感心させられました。
個人的には、冒頭の列車と序盤のカーチェイスをもっと短くした上で、例の場所から帰還するシークエンスを追加して、上映時間を2時間前後に収めれば完璧な続編になったと思いますが、世界的なブロックバスター(古い表現)には星の数ほど批判が向けられるのが宿命なのだと言えましょう。初代インディ・ジョーンズの登場が決定的なものとした「考古学アドベンチャー」というジャンルに対して、その偉大な先達の後継者となるべく、古くはハムナプトラやナショナルトレジャー、最近では実写版アンチャーテッドなど、様々な追随の試みがなされてきました。しかし、グーグル社のカメラが全地表から全海底までを覆いつくし、ダイバーシティの御旗の下に打倒すべき悪は地上から消滅し、「どこを冒険して、何と戦うのか」を設定するのが極めて困難な現代において、そのいずれもがいまや頓挫を余儀なくされています。本作において、半世紀も前のずっとシンプルな世界でインディ・ジョーンズが活躍するのを、最新の映像であるにも関わらず、郷愁にも似た気持ちでなつかしく眺めながら、どこか一抹のさみしさを禁じえませんでした。
最後に、いま行われている戦争の終結から10年ほどの冷却期間を経たのち、新たに戦うべき「絶対悪」を得た次世代のインディ・ジョーンズが再び銀幕(古い表現)へと登場するだろうことを予言しておきます。それまでは、ネットフリックスなどによるマスターキートンの実写ドラマ化で、我々の「考古学アドベンチャー」への渇きが満たされることを、半ば本気で期待しております。