猫を起こさないように
映画「ディスクロージャー・デイ」感想
映画「ディスクロージャー・デイ」感想

映画「ディスクロージャー・デイ」感想

 話題のディスクロージャー・デイをIMAXで見る。全米公開から遅れること数ヶ月、「アニメ作品を優先する大衆の白痴化」だとか、「本邦で進行する深刻な洋画ばなれの象徴」だとか、眉根をよせた文化的な言説が横行しましたが、今回にかぎって言えば、配給会社の担当が正気の判断をしただけのことでした。そもそも、地球外生命体の実在を公表されたところで、「既存の信仰をおびやかされたことによる、実存をゆるがす大パニック」が起きるのは、西洋キリスト教世界のみで、極東アジアに住まう無宗教な名誉白人たちの日常は、小ゆるぎもしないでしょう。準主役の尼僧くずれが、修道院長に神の愛に対する疑問を投げかけたとき、それへの回答が”on earth”だったのには、「一休さんのトンチかよ! そもそも聖書の成立した当時、その単語はただ大地を意味するだけで、地球なんて概念はなかっただろうがよ!」と、心の中で激しくツッコんでしまいました。以前、他の作品への感想にも書きましたが、宇宙のすみずみにまでキリスト教的な世界観が適用されるのは、傍観者にすぎない東洋人にさえ息苦しくてならないのですから、西洋社会における非キリスト者の実感はいかばかりかと思うのです。映像的には「激突!」「未知との遭遇」「E.T.」「レイダース」「A.I.」「ザ・フェイブルマンズ」あたりの焼きなおしになっていて、あらたな想像力を感じられる場面は、残念ながらほぼありません。

 作中時間の大半を占める追跡劇にしても、同じことのくりかえしで移動そのものにほぼ意味はなく、「長年の執着である、カーチェイスとトレインクラッシュを撮影したい」という欲望だけで成立しているものです。ガソリンスタンドでの給油パニックや、コンビニの棚から商品が払底する様子など、”世界崩壊の危機”とやらが物語の背景としてうっすら出入りするのに、ストーリーの本筋とまったく関連しようとせず、なんと最後まで明示的には語られません。地方局からの発信によってディスクローズされる”真実”も、リトルグレイ型宇宙人やアダムスキー型UFOなど、オカルト雑誌「ムー」に掲載されていたような中身ばかりで、話の大オチが地球で生活するラージグレイだったのには、思わず失笑が漏れました。おまけに、”それ”が地球人類にむかって語りかけた言葉の内容について、深刻げな”Listen.”の問いかけから、観客の想像にすべてをブン投げて、尻切れトンボのままエンドロールへと突入してしまうのでした。スピルバーグちゃんさあ、これって「未知との遭遇」から1ミリも進歩してないじゃん! 宇宙人の存在が開示されたことによって、西洋社会とキリスト教がどんなふうに変容していくのかを、いまこそ描かなきゃダメだろ! この映画のラストはただのはじまりで、過去作で同じセットアップをさんざんやってきたじゃん! あれだけ期待を高めておきながら、映像がきれいになっただけの完全なる自己模倣を見せられるなんて、思いもしなかったわ!

 本作の視聴中、ゆいいつワクワクしたのは、三十路のお天気お姉さんが”バベルの塔”崩壊以前の言語能力を獲得したあとのシークエンスで、昆虫の翅のきしりにも似た音声を口腔から発するシーンには、これからの展開を想像して背筋をゾクゾクさせられましたが、まさかあそこがこの映画の最高潮だったとは、想像だにしていませんでした。そして、スピルバーグ自身が一大クライマックスだと信じているだろう、地方局から全国ネットへとスクープ映像が伝播してゆき、リビング、オフィス、バス、電車、街頭、そして戦場で、すべての人間がしわぶきひとつたてずにニュースへと見入るのは、耄碌した映画監督のきわまった脳内妄想になっていて、インターネットの存在しなかった時代におけるテレビメディアの絶大なるパワーへの盲信と、映画芸術がすべての大衆にとって至高の娯楽だった時代への郷愁に満ち満ちております。もうしわけに、スマートフォンも登場するにはするのですが、SNSの存在をまるでガン無視した、双方向性のないテレビ受像機としてあつかわれており、ひどい虚構臭と加齢臭を同時に感じました。全体として見ても、余剰的なシーンやセリフが多くあり、そのひとつひとつが現代の感覚に照らしてわずかばかり長いため、令和のドーパミン・キッズたちはとても通しで見ていられないでしょう。ディスクロージャー・デイ、昔からのスピルバーグ・ファンか、80年代から90年代にかけての洋画が持っていた、理外の魅力と不可思議のパワーを追体験したい中高年層にのみ、かろうじてオススメできる作品にしあがっております。