猫を起こさないように
月: <span>2026年8月</span>
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ゲーム「原神・神に愛されぬ雪国」感想

 原神のスネージナヤ編、いつものごとく小だしの引きのばしかと思いきや、複数のマップとメインストーリーとサブシナリオとミニゲーム群がドカンとまとめて実装され、エサの皿に大量のフードが追加されつづけるのにおびえて、部屋のすみに直立するマーモットみたいになってる(ネットミームの混線)。なりふりかまわず、エーペックスやエンドフィールドやエルデンリングの要素をそのまんま丸パクリしておきながら、最後の調整が甘いために生ぬるいプレイフィールになっており、本家には遠くおよばないところも、原神らしいと言えば原神らしい。圧巻だったのは今回のメインストーリーで、「吹雪の夜の密室殺人」という古いミステリ類型を用いながら、真犯人である神との対峙という弩級のクライマックスをむかえたと思ったら、息をつくヒマもなくパイモンの誘拐とスネージナヤの軍事中枢へなぐりこみがはじまり、厳冬計画の詳細や女皇の真意、そしてパイモンの正体までもがすべて、なんの誤解もないよう赤裸々に提示され、ホヨバは原神という破格の物語をその人気の絶頂で、キッチリたたむつもりなのだということがビンビンに伝わってきて、予想外の展開に驚愕したのです。特に、「地球人類の科学文明の発展を、介入目的で見守る第三者の存在」というのは個人的に大好きな設定で、古くは幼年期の終わりやスタートレック・ファーストコンタクト、新しくは三体があり、「ファンタジーの見かけをしながら、世界の根幹はSF」であることをひさしぶりに思いだして、これこそ原神の面目躍如だと感じました。そして、滂沱の涙を流してブラヴォの拍手を送りながら、なにより強いのはパトリオティズムに由来する「くやしい」という感情だったのです。

 たとえば、バスタード!やスレイヤーズ!やベルセルクが、作者ひとりの人生をまかなえるぐらいの小金を持った時点で創作の初期動機を失い、それこそ数十年にわたって読み手を失望させつづける「終わらない物語」と化していったのに対して、原神はわずか5年ばかりの道程で、あらゆる設定を回収して積みあげた先に、いよいよ頂上の石であるベンベネトを置きにかかっている。ゲーム分野において、この「続きへの欲目を断ち切り、完膚なきまでに終わらせる」ことを達成できたのは、私の知るかぎりではランス10の他はなく、日本ファルコムの作品群がその悪しき対極に位置しておりますが、もうグチグチとくわしくは語りますまい。ホヨバの持つ凄みとは、おのれを「日本の2次元文化のコピー」であるとどこか自覚している点で、「コピーだからこそ、情熱も時間も金銭も惜しみなく注がなければならないし、なにより受け手であるファンに対して誠実でいなければならない」と強く信じていることが、作品の端々から伝わってくるのです。これは、いまや他を押しのけてオタク第一世代の頭目となったQアンノの「我々の作品は前世代のコピーにすぎないが、そこにおのれの人生を熱転写することで、オリジナルに接近できる」という創作手法と、国境を越えて奇しくも酷似していますが、これをある種の理念として、数千人の社員と共有することで、本邦の虚構作品に多く見られる「才能ある個人の意欲の終わりが、創作の終わり」という現実を克服したのは、中華の心性の根幹をなす「生き汚なさ」と、仙人や真君の概念に代表される「個を延伸した先に存在する超越」を、いまや組織として体現しているとさえ言えるかもしれません。

 最後に、虚構先進国だった場所で人生の大半を過ごした者として、敗北感からくやしまぎれに予言しておきますと、ズバリ、パイモンが原神のラスボスたる天理その人にちがいありません。今回のストーリーの結部で、脈絡なく「対天理武装を見たい」と彼女が言いだした瞬間、これまでのおぼろげな伏線が、はっきりとした輪郭をあたえられように感じました。ランス10において、いつでも世界を破壊できる魔王がかつての想い人との記憶だけをよすがに、寸前でそれを踏みとどまりつづけたように、天理と化したパイモンは、数千年の時間に比べれば、旅人・イコール・プレイヤーとのほんの短い「旅の記憶」を理由に、テイワットの破壊を完遂できなくなってしまうーーそれは、私たち原神ファンがともに過ごしてきた時間までをも称揚する、とても美しい結末のように思えてなりません。終わります。

映画「罪人たち」感想

 盆休みのヒマにあかせて、ずっと気になっていた罪人たちーー”ざいにん”ではなく、”つみびと”と読むーーをアマプラでレンタル購入して、ほおづえをつきながら見はじめたら、あまりのブッとんだおもしろさに気づけば前傾姿勢となり、全身の毛穴と肛門がカッぴらきました。「黒人ブルース歌手が主人公の、1930年代ミシシッピ州を舞台にしたミュージカル吸血鬼ホラー」というB級感あふれる建てつけからは想像だにできない、南米文学的なリアリズムの横溢した骨太の物語になっております。映画の冒頭において、「これは、一夜の夢である」ことを観客にしめしたあと、ブルースの実力者たちが梁山泊のごとく、各地からひとところへと集結するさまを描く手つきはみごとであり、浜辺の砂や紙のトランプで作る山のように、あらかじめ「破壊するために創造し、破滅をむかえるべく絶頂する」のに必要な過程であることを行間へと忍ばせながら、登場人物たちの来歴とパーソナリティについて、ていねいな積みあげが行われます。また、公民権運動にいたる前夜の人種隔離政策についても、緻密な考証にもとづいた舞台セットが組まれていて、その描写の正確さは学校の教材に使えるぐらいのクオリティになっています(女性の”ボタン”をどうなめるかの指導と実践があるため、じっさいは使えない)。そして、物語の中盤に製材所跡のダンスホールで演奏される、まさに”四ツ辻で悪魔に魂を売りわたした”ギター演奏とブルース歌唱は、言葉にのせた瞬間に雲散霧消してしまう、音楽の持つプリミティブなパワーを、「過去と現在と未来をひとつなぎにしながら、人間の境界を融溶させて個と世界を合一するもの」として、圧巻の映像で力強く朗々とうたいあげるのです。

 すべての障壁が天井の楽曲によって焼け落ちた結果として、吸血鬼の始祖とその眷属たちという”魔”を喚びよせてしまうのですが、彼らがミシシッピ・ブルースではなくアイリッシュ・フォークを愛好しているのは、音楽性にあずけた両者の実存の差違を対照して見せるしかけになっており、吸血鬼サイドの有する「感覚と知識と記憶をたがいに共有する集合体」という特徴は、まさに人類補完計画の実現した姿だと指摘できるでしょう。そこからは、「アメリカ南部における黒人音楽史」といったふうな前半の印象をガラリと変化させ、「招かれないと家に入れない」「心臓に木の杭を刺すと復活できない」「太陽光で焼け死ぬ」などのバンパイアにまつわる古い伝承をたくみにシナリオに落としこんだ、タランティーノ作品を彷彿とさせる人間と吸血鬼たちの血みどろの争いへと突入することとなるのです。さらに、夜の騒動がすべて終わったあとにやってくるクー・クラックス・クランの白人メンバーたちを、黒人の準主人公がスナイパー銃やマシンガンで鏖殺していくのは、無責任な極東アジアの黄色人種にとってさえスッと胸のすく思いがしたのですから、国家を奪われたブラック・ライブズはマーベルのブラックパンサーに深く共鳴したのと同じ痛快さを、腹の底から味わったにちがいありません。最後に、この映画をB級バイオレンスからはるか高い位置へと押しあげているのは、スタッフロール突入から終了のあいだに挿入された主人公のその後を描く一連のシークエンスだと指摘しておきましょう。

 時は移ろい、60年後のシカゴにおいて、円熟の老プレイヤーへと変貌した主人公は、彼のもとに訪れた吸血鬼の生き残りを、知らずファンとして楽屋に”招きいれて”しまいます。そして、死期が近づいていることを吸血鬼の嗅覚で看破されたにも関わらず、永遠の生命をあたえようという申し出を寸毫の迷いもなく、キメツの煉獄さんばりに毅然と拒否する。時空を超えて世界とつながる音楽の源泉が、個という絶望的なまでの孤独と、だれもがひとりで死んでいく事実に根ざすことを彼は悟っており、乞われて弾いたギターの音色に不死の者が思わず見せた優しいまなざしは、ほとんど取りかえせぬ憧景のように映りました。そして、「思いだすたび、半世紀以上の経ったいまでも体が恐怖に麻痺する」ような凄惨きわまるスローターハウスでの一晩を経験してさえ、本物のブルースを奏でる神の器として羽化したその日を「人生最高の一日だった」と誇らしく形容したのには、「表現することを運命づけられた者が、表現することへ無事にたどりつけた僥倖」への深い喜びがにじんでいて、たどりつかなかった者のほおには理由のわからぬ涙が流れるのです。そのやりとりを皮切りとして、走馬灯のように流れる回想シーンは、「みんな死んでしまったが、死ぬまではそれぞれの信念にしたがい、懸命に生きた」ことを痛いほどに伝えており、人生の意味を問うような脆弱さとは、はるかに遠い力強さを照射していました。エンドマークのむこうに置かれた少年の日の主人公によるソロは、本来の意味でのブルーノートになっていて、この物語のテーマを総括する目的で、歴史が黒人の魂にきざんだリズムを、より普遍的な形であらわそうと試みているように感じられました。

ゲーム「紅の砂漠」感想

 最近でこそ、DiabloIIR漬けの日々を送っていたものの、UltimaOnlineとかEverQuestとかFF11などに代表される、かつてのMMORPGに向けた郷愁というのは強くあって、都会で定年退職をむかえた男が出里の田舎で農業をはじめるように、いつかそこへ帰りたいという気持ちをいだき続けている。しかしながら、パーティメンバーの募集に1時間、狩り場への移動に1時間、そこからトイレにも立てない3時間におよぶ目まぐるしい連戦を、いまの気力と体力でこなせる自信はなく、少年時代に3メートルの段差をとび降りた直後、そのまま駆けだしたさいに耳元で鳴っていた風の音を思いだすときと同じで、復帰は実現しないものとなかばあきらめていたのです。小鳥猊下がする原神やエンドフィールドへの耽溺は、その代償行為なのではないかとのご指摘は当たっておりますが、更新の最突端までゲームを進めてしまうと、そこはストーリーとマップが時限で開放されるのを待つばかりの、いささか窮屈すぎる場所と化してしまうのは難点でした。世界を探索する行為も、地図が広がっていく順を持つことで、一定の指向性をあたえられてしまい、どこか野放図な自由度を欠いた「制作側の意図に管理された冒険であること」を意識せざるをえない瞬間があります。こういった内容を言語化できずにモヤモヤしていたところ、気になっていた紅の砂漠をなにげなくダウンロードしたら、ゲーム内容が漠然とした不満と不足に対する完全な回答になっていて、ビックリ仰天しました。ホヨバに代表される近年の擬似MMORPGは、課金ガチャと定期的な更新による遊戯要素の時限解放が大前提となっていますが、その比較的あたらしいパラダイムによって、知らぬまにゲームに対する価値観を上書きされていたことを、このたび痛感した次第です。

 開発に数年をかけた、メインストーリーとサブクエストと膨大なマップが最初から完全な形で実装されている、課金要素の無い買い切りゲームを1万円以下で販売するなんて、社長が脅迫症的な信念を持っているか、さもなくば気がくるっているかのいずれかとしか思えません。最初に感じたのは、おそらく3DO REALでプレイしたことのある、いまは名前も思いだせない昔の洋ゲーが持つ独特な手ざわりと同じ、なぜこれがそうなっているのかまったく説明のつかない、圧倒的な異文化でした。第7章まで進めたストーリーは、どこどこまでも脈絡なく意味不明で、「高熱のときに見る悪夢」というのが最も適切な比喩と言えるでしょう。システム面は、オブリビオンからエルデンリングーーウィッチャー3を濃く感じるーーまでのすべての3Dゲームにあった要素を節操なくほうりこんでいて、「カロリー摂取だけを目途とした、調味不在の闇鍋」としか表現できない仕上がりになっています。操作系もすべてのボタンを総動員するのは当たりまえで、さらに長押しと短押しと複数同時押しも駆使せねばならず、「左と右のスティックを同時に押しこんだまま、右だけ回転させる」のを要求されたときはイラだちのあまり、夜中にもかかわらず絶叫しそうになりました(加齢で性格が丸くなりましたね)。また、各地に用意されたノーヒントの謎解きを個人でクリアできる叡智は人類にあたえられていないため、往年のMMORPGよろしくインターネットの集合知をたよる以外の解法は存在しないと割りきる必要があります。そして、拠点拡充や傭兵派遣といったサブ要素ばかりか、肝心かなめのキャラの育成方法にさえ満足な説明がなく、数十時間も漫然とさわるうちに”気づく”しか方法がないのです(30時間を過ぎてから、銀行で投資ができるのを発見したので、まだ気づいていないゲーム内の要素は、おそらく無数にあると思われます)。

 ただ、これら1個1個が致命的に思える欠点をすべて呑みこんで、広大な世界を完全なる自由度で探索できることが、底抜けに楽しい。すでに最新とは言えないグラフィックボードなのに、最高画質で寸分のフレームレート落ちもなく、はるか遠景を見わたしながら、ロードゼロのシームレスで縦横無尽に移動できるのは、もはやオーパーツ的な超テクノロジーと言えるでしょう。「フォンテーヌの次はナタ、ナタの次はナド・クライ」ではなく、あなたは東西南北どこへ向かって足を踏みだしたっていいし、どこまでも延々と好き勝手に歩いていっていい。すなわち、戸籍も住所も持たない真の根無草の自由、世界の枠組みの埒外にいる狂人の自由をぞんぶんに、腹の底から体験することができるのです(仕事終わりにフラッと起動して、ただ野原を歩いているだけなのに、気がつけば日付が変わっていたこともありました)。紅の砂漠、人間関係のギスギスをゲーム内へと持ちこみ、時間を無限にコンシュームするMMORPGに、もどりたいけどもどりたくない層へとドンピシャリにお届けする、マッシブリー・シングルプレイヤー・オフライン・ロールプレイング・ゲームとなっておりますが、げっぷの出るほどあふれかえった、JRPGの設定と用語に強く依存する異世界転生ファンタジー群に食傷しており、この陰鬱なテキストを読み切ってなお、興味と関心が残った方にのみ、オススメです!

漫画「キャプテン翼・ワールドユース編」感想

 なんと、キャプテン翼のワールドユース編を読了。比較的あたらしいシリーズだと思っていたのに、じつはドーハの悲劇より前の時代の連載作品であり、中年期以降の時間感覚にあらためて恐怖をおぼえた次第である。ジャンプ本誌では、リアル・ジャパン・セブンの登場ぐらいまでを読んでいたことが今回わかったのだが、前作の終盤に連呼された、少年に向けた性愛がほんのり香るジェイ・ボーイズ・サッカーなるネーミングといい、あいかわらず全編にわたって独特のセンスがただよっている。そして、この世界における審判はまったくの無力であり、荒れる試合をいっさいコントロールできないため、相手の選手を物理的に痛めつけることが目的の南米式カンフーサッカーが横行し、有名なフレーズである「ボールはトモダチ」どころか、作中に体現されているのは「ボールはマーダー・ウェポン」であり、必殺シュートに接触すると人体はもれなく破壊されるのだった。協会の片桐さんが試合で片目を喪失しているのも、キャプテン翼のサッカー観を如実にあらわしており、おそらくスパイクの裏側で顔面をけずられたーーしかも、ノーファウルーー結果にちがいない。さらに、無印1話から登場し続けるダンプカーが選手とその家族を死傷させまくるのは、ほぼシュールなギャグレベルの反復になってしまっている(これほどまでに大型車が登場人物たちを苦しめるマンガは、他には野望の王国くらいのものだろう)。本邦がまだワールドカップ本戦出場をはたせなかった時代の作品ゆえに、見たくもない中国やサウジアラビアとの死闘を予選リーグで延々とくり広げたあげく、国際ジュニアユース編を焼きなおしたような展開になってしまったからだろう、決勝トーナメントの途中で打ち切りが決定したようで、セミファイナルはナレーションだけで”ごういん”にスッとばし、満を持して登場したロベルト本郷ひきいるブラジルユースとの頂上決戦も、後半ロスタイムで巻きぎみに終わってしまう。これにワリを食ったのは、さんざん読者の期待をアオッてきた世捨て人のサッカー王で、試合時間にして数分とわずか数ページを登場したのち、翼くんにアッサリと返り討ちにされるのだった(それにしても、世界の一流選手たちに絶大な影響をあたえた作品の続編を、ジャンプ編集部はよく打ち切りにできたものだなと感心していたら、当時の彼らは年齢的にまだ小中学生だったことに気づいた)。

 個人的な感覚を言えば、雷獣シュートやらナトゥレーザくんなどは、同人作家によるパチモンのようにしか思えない。なんとなれば、初代の連載終了後に発売されたファミコン版キャプテン翼2・スーパーストライカーにて、真のワールドユースにおける激闘を個人的に何周も”実体験”しているからである。翼くんしかガッツ消費のシュートを持たない弱小サンパウロFCを率いてリオカップを制覇し、続く全国高校サッカー選手権は退屈すぎて特に印象はなく、全員が必殺シュートを持つ全日本バーサスほぼ翼くん単騎チームのジャパンカップは極限の死闘となり、敗退をくり返すことで経験値をかせいでレベルを上げ、ついに初めての勝利を手にしたときの歓喜は、ジョホールバルもかくやというもので、いまでも忘れることはできない。そして、ワールドユースの予選を勝ちあがり、本戦でピエールくん、ナポレオンくん、ジノ・ヘルナンデスくん、ファン・ディアスくん、シュナイダーくん、ミューラーくんと戦いながら、伝説の選手とその必殺シュートについてのミステリーが、テクモシアター演出(忍者龍剣伝!)によって解き明かされていく興奮は、令和の最新ゲーム群が提供するそれに勝るとも劣らないものであった。ブラジルとの決勝戦において、ガッツを400も消費するサイクロンをゲルティスくんのダークイリュージョンでキャッチングされ、パスを受けたコインブラくんが他選手の3倍の速度をしたドリブルで自陣ゴールへとせまる絶望感は、じっさいに経験してみないとわからないだろう。いまでも、ブラジルのレジェンドはだれかと問われれば、ペレではなくジャイロと答えるし、翼くんの最強シュートはスカイダイブではなくサイクロンだと強く主張して、一歩もゆずらないほどである。私の中では、このファミコン版キャプテン翼2がたび重なるゼロからのプレイによって正史と化しているため、マンガ版のワールドユース編はできの悪い二次創作か、それこそ偽史としか思えないのであった。最後にこっそりと、「ビックリするほどあっていないから、これ以上は読まないほうがいい」とのアドバイスをいただいたアオアシを全巻読了したので、それに言及して終わりたいと思う。サッカーにおけるユース世代の育成をテーマとして、「すこし食い足りないが、ここで終わるのがもっともきれいだろう」という地点で幕を閉じており、事前の想像よりもはるかに読後感よくまとまっていて、非常に好感が持てたことをまずはお伝えしたい。それと同時に、おのれの過去の虚構体験から逆算したマイナスの予測をご高説として垂れるのは、以後、厳につつしまねばならぬと反省したのであった。

 ただ、ひとつだけひっかかったのは、バルサのエースであるCUNTーーやだなあ、カッコつけのために英語表記にしただけで、他意はいっさいないですよ!ーーをめぐる勝負の描き方で、「地域の紛争や欠損した家庭からの逃げ場としてサッカーにたどりついた者が持つ、失敗イコール地獄への逆もどりとなるがゆえの、人生と骨がらみになった強さ」に対抗しえたのが、片親で極貧の少年期を過ごしたAKUTZだけだったというのは、その後の主人公による決勝ゴールへといたる展開を加味してさえ、作り手の意図しない誤ったメッセージを発信してしまっているような気がする。現在、現役生活とGOAT論争の終わりを迎えつつある二人の大スター選手がいるが、かたや長身の筋肉質なイケメンであり、かたや中肉中背のオタク顔をした喪男であるという見かけの相違だけが、高校時代の学内ヒエラルキーのような、余計なイザコザを場外に引き起こしているような気がしてならない。それは、カースト上位に位置する生徒が視界に入れただけでイライラするキモオタを、教師にバレないよう取り巻き連を使って間接的にイジメる構図に酷似しており、騒動の規模がグローバルであろうとも、根っこの部分に横たわるのは、青春時代に万国共通のルッキズムだと指摘できるだろう。突然のリアル方向への脱線でなにが言いたいのかといえば、イケメンがアル中の父親に対する憎悪を自己愛へと反転させ、サッカーを立身の道具と決めて勝ち続けてきた結果、いよいよ年齢を重ねて、汲むべきエネルギーを枯渇させてガス欠となってきたのに対して、ブサメンのほうは両親への深い愛情と感謝の念をかくそうとしないだけでなく、なによりまだサッカーをプレイできることへの喜びに満ちあふれていて、いよいよ年齢を重ねて、常人には理解不能の領域へと突入しているということだ。現実のサッカー界において、まったくCLITRISやCUNTやAKUTZのようではない人物が軽やかに、いとも簡単そうにすべての栄冠を手に入れていくのは、人生の初源に憎悪を持つ小鳥猊下にとって、人類全体へと向けられた救済や福音であるように思えてならない。