猫を起こさないように
月: <span>2020年1月</span>
月: 2020年1月

ゲーム「十三機兵防衛圏」感想

 十三機兵防衛圏、プレイしてる。たぶんいま、半分くらい。あんまり似てないのに、なんか久遠の絆のことを思い出す。ここまでの印象としては、「キツネ狩りにバズーカを持ち出す英国女王」。

 PCエンジン版のイースⅠ・Ⅱが大好きで、WIN版のエターナルを買ってガックリしたことを思い出した。あんまりガックリしたので、エミュー(ヒクイドリ目ヒクイドリ科の鳥類で、完全に合法な存在)を使ってPCエンジン版を再プレイしたら、なんかフィールドの音楽に違和感がある。データ上での違いはないはずなのに、再生環境の問題かなと思っていたら、曲の終わりと始まりのループ部分でCDの読み込み音が聞こえないことが原因だとわかった。テキストサイト運営者の高度な文章技術で再現するとこんな感じだ。(突然立ち上がり、白痴の表情で)ちゃーちゃーちゃー、ちゃーちゃーちゃー、ちゃちゃちゃちゃっ(きゅるきゅる)ちゃー、ちゃらららー、らーららーらー。おわかりいただけただろうか。この「きゅるきゅる」が無いことが無意識のうちに気になっていたわけで、よほどプレイフィールそのものが身体感覚にまで染みこんでいたと言えるだろう。

 他の例で言えば、これまたPCエンジン版の天外魔境Ⅱでフィールド音楽はCDから読んでるのに、戦闘中は内臓音源で読み込みをゼロにしてたのも身体が覚えてて、より快適になったはずのリメイク版におけるプレイフィールにひどいニセモノ感(戦闘毎にフィールド曲が巻き戻ったり)を禁じえなかったりした。当時のCD媒体のゲームは、戦闘の前後で1分ぐらいCDを読みに行ってたーーいま思い出した、コズミックファンタジーとかひどかったーーから、天外魔境Ⅱのテンポ感は私にとって超絶的な革命であり、身体の芯にまでコンマ秒単位でタイミングが刷り込まれてしまっていたせいだと思う。そういえば、序盤にある祭りのムービーで暗黒ランが出現する直前にCD読み込みが入って、それが不気味な静寂を表現する演出上の「間」になってたりとか、すごい好きだったなー。

 共通するのは、どちらのゲームも制作者の意図が隅々にまで行きわたっており、ほんの小さなレスポンスに至るまで、作り手の統御下に無いものがないという安心感だった。エヴァQとかスターウォーズにする私の評を見てもらってもわかると思うけれど、制作サイドと周辺状況みたいなのが、まずもって気になる性質なのである。その神経症の客がする指摘に対して、「おいおい、なに言ってんだ、あんたはトーシローのお客さんだろ? 裏がどうなってるかなんて、余計なことは考えなくていいんだよ! さあ、細かい部分は俺たちプロにぜんぶまかせといて、大船に乗った気持ちで楽しむことだけに集中しなよ!」と豪放に笑いながら断言してくれる感じは、この上ない快感だった。懐古趣味と言われれば返す言葉もない。しかし当時のゲームには、腕自慢・材料自慢で客を委縮させたりしない暖かな空気のような、その場を離れた後にしみじみと喜びを反芻するような、高級な料理店で食事をするときに受けるサービスのような、そんなプロフェッショナルの仕事が確かに存在していたと思う。

 長々と書いたが、十三機兵防衛圏をプレイしていて、ひさしぶりに良質なプロのサービスを感じることができて嬉しかったという話です。プレイフィール以外でも、十三人の主人公がしっかりと別々の個人として書き分けられているのには感心しました。ひとつ例を挙げると、過去の国防少年が未来へ飛ばされたときの反応が、語彙レベルだけでなく意識レベルでも齟齬なく表現されていたり、書き手の真摯さと苦労の深さが端々に感じられます。ここまでの自分語りに共感を覚えた向きは、女房を質に入れてーー誤解がないように付け加えると「女性の配偶者を私有物品として担保に預けることで金銭の貸し付けを受ける」という意味で使っているーーマストバイでしょう!

 さて、以降は制作者の目に届かないことを祈りつつ、自分のために書き留める日記のような内容になります。

 たぶんシナリオを書いている人物は、同年代なのだろうと思います。「ピコピコ少年」のような少年時代を過ごし、映画・小説・マンガ・ゲームなど、私と同じフィクションを通過してきているのでしょう。本作はそういった過去の体験が複雑に織り込まれたガウディの建築物のようになっていて、すべての要素がどこに出典を持つかが同じ世代には手に取るようにわかります。昭和から平成にかけての虚構を、制作者のフィルタを通じて一個の集大成へとまとめあげていくさまに、私などは感動すら覚えるのですが、はたして若い世代が同じ感想に至ることができるのか、正直わかりません。本作は高校生を主人公に据えたジュブナイルの見かけなのに、三十代後半から四十代にもっとも強く訴求する内容になっている気がします。ジュブナイル物の本来のターゲット層である十代後半から二十代がこのシナリオを読んで何を感じるか、もしかすると意味不明と思われないか、とても気になりました。

 そして、システム面で言えば「追想編」「崩壊編」「究明編」はひとつながりのゲーム進行の中にまとめられればよかったのにと思います。「究明編」はメニュー画面の図鑑要素に過ぎないし、ADVパートの「追想編」とSLGパートの「崩壊編」がバラバラに提示されているのには、過去の同種のゲームと比して、違和感があります。こうなった理由の一部として、時間が足りなかったことはあると思いますが、御社の強みであるところの「ドット絵風2D横スクロール」が、本作では「必ず使わなければならないモノ」として、枷になってしまっているのではないでしょうか。このシナリオを表現するのには、ビジュアルノベル方式のほうが内容的にもコスト的にもベターな気がするのです。

 いや、結果として出力されている中身は素晴らしいの一語に尽きるのですが、「英国女王がバズーカでするキツネ狩り」と表現したように、目的に対する手段のアンバランス感が否めません。アストロ球団的試合運びとでも言いましょうか、「全力で180キロを投げた絶対エースは右腕を骨折、しかもその球が打たれる」ような状況をグラウンドに見せられれば、観客席の女子マネージャーはただ両手で口元をおおって、涙を流すしかありません。

 さて、まだクリアには少し残していますが、パッケージ売りの大作ゲームが持つ、他の創作ジャンルに比した大きな利点を噛みしめています。それはエンディングまでがすでに作られており、プレイヤーの反応を見てそれが改変されたりする心配のないことです。福音戦士の新3部作とか、銀河戦争の続3部作みたいに、登っている途中のハシゴ(イコール伏線)へ他ならぬ作り手から足払いをかけられて、大転倒の大怪我をするのではないかと恐れる必要がないのは、本当にストレスフリーですね。制作者の大きなフトコロに抱かれて、ああでもないこうでもないと今後の展開を自由に想像できることは、なんて素晴らしいのでしょう!

 え、某潜入ゲームの第2作みたいなこともありますよ、だって? (少女が涙目で)そ、そんな怖いこと言わないでよッ!

 なんかサーティーン機兵が一周年みたいなので、感想を再アップしてみた。え、クリアしての評価はどうでしたかって? ファミコン時代からのアドベンチャーゲーム好きにとって、読後感は「メタルスレイダーグローリー」というより「ジーザス恐怖のバイオ・モンスター」でした。

雑文「ウガニクとの邂逅、あるいは『平成最後のテキストサイト100人オフ』について」

 マジでウガニクくるの? マジか! 秒でエントリーした。ちなみに、「教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書」での言及は、『日記・テキストサイト「猫を起こさないように(nWo)」開設。「虚構日記」はどう読まれるべきか。』でした。

 エイジ・ワン・カンパニーのミドル・マネジャーたる小生にとって、ちょうど象牙の社印をモンハンの如くストンプするビジー・シーズンにさしかかる頃であり、参加についてはクリアすべきビッグ・ハードルを残しているッ! がんばる。あと、萌え画像な。な?

 テキストサイト100人オフより、ほうほうの体で帰寧。生ウガニクと20年越しの邂逅を果たしたことを、まずはお伝えしておきます。

 @uganik ウ○○○先輩、土曜日はお疲れさまでした。いまは20年越しの憑き物が落ちたような、晴れ晴れとした気分です。それにつけても、○ガ○○先輩をさしおいてブシドーソウル?みたいな新参者の先行者にマイクを渡す行為は許せませんね! 思い出すだけで、猊下の怒りは有頂天です!

 @uganik そのこじらせた自意識、さすがです、○○○ク先輩! テキストサイト100人オフ、不敬な輩に対する「あとで呪殺リスト」は私もつけてました。もっとも、99人を越えたあたりで数えるのを止めましたがね……これはもう、オフレポをも辞さずでしょうか……

 質問:小鳥猊下のオフレポマダー!(チンチン

 回答:バカモノ! 欠けた茶碗を箸で叩く、もしくは下半身を露出するでないわ! オフレポはぼつぼつ書き進めており、すでに一万字を越えているが、少しも終わる気配がない。それもこれも、怒りのフラッシュバックで執筆中に高級万年筆の先端を圧し潰してしまうからだ。年内の上梓を目処とするがよい。

 小鳥猊下を名乗っていたサイト運営者だが、リアルイベントに参加すると眉目秀麗な容姿のせいだろうか、こういったプチ・ストーカーを招き入れてしまうからイヤなんだ。ああ、オフレポ? ドカチン・ワークの合間に毎日ポツポツと書き進め、ようよう二万五千字を越えたところだ。この感じだとおそらく三万字前後に収まるが、公開する場所もないし、公開したところで百人マイナス一人の敵を作るだけだろう。結局、自分がいちばん面白がるだけのテキストを公開したところで、だれも幸せにはならない。だが今、テキストサイトの更新を書いている実感だけはある。なぜそれをわざわざ公開するのかと問われれば、虚構日記だからとしか答えようがない。

 世界よ、これがオフレポだ。 #テキストサイト100人オフ

 ――ついに、nWoからテキストサイト100人オフ会のレポートが上梓されましたね。まさか旧サイトを復活させての公開とは思いもよりませんでした。

 ははは、本当は書くつもりは少しもなかったんだ。だが、参加者たちのレポートを読むうち、気の抜けたジジイのファックみたいな中身ばかりで、むらむらっときてね。イベント中心のなれあいじゃない、お前らにテキストで殴りあう昔ながらの、本物のオフレポを見せてやるぞって気持ちになったんだ。

 ――それにしても長いレポートです。文中リンクも異常に多い。

  さっき文字カウントしたら、32,000字を越えていたね。実のところ、あと20,000字くらいは密度をそのままに増やせるんだ。けれど更新を行うときの常で、書いていないときも脳のリソースの30%くらいがそれに占有された状態になる。いい加減、日々のドカチン・ワークに影響があるので、このあたりで見切った格好だ。数えてみたら、文中リンクも500箇所以上あった。

 ――少し多すぎませんか。

 オフレポは文中リンク多めで、とあったからね(笑)。あと、私のような古株と最近ネットを使い始めた連中とでは、色々な情報に対する前提条件が異なっている。その差異を是正する意味もあった。

 ――具体的には。 

 同じ単語でも辞書的な定義と、経験により獲得した意味への質感は違うということだ。

 ――難しいですね。 

 例えば、セックスという言葉ひとつとっても、君には同性とのアナルセックスだし、ぼくにとっては山羊との獣姦だろう。

 ――なるほど、猊下の感じる語彙への質感を、文中リンクを多用することで共有したかったと。

  その通り。あと、個人的に田中康夫フォロワーなので、「なんクリ」を現代的な手法で再構築したい気持ちもあった。

 ――ああ、芥川賞候補にもなった「なんとなく、クリトリス」ですね。

  クリスタル。クリスタルな。

 ――それにしても、物議をかもしそうな内容です。 

 文句があるなら、オフレポで殴りかえせばいいのさ。それが昔ながらの、テキストサイトの流儀ってやつだろ? もっとも、40字くらいじゃ皮一枚、傷つけられないだろうけどね(笑)。だが、九十九式の宮本には期待している。オフ会の直後、レポートを1,000字書いたがまだ公開しないとわざわざ宣言するような、昔気質のサイト運営者だ。もしかすると、彼なら私に敗北を教えてくれるかもしれない。敗北を知りたい。

 ――怒る人も出ませんか。

  むしろ、だれかが怒れば上出来なのさ。今後は、このオフレポに対する参加者の反応を注視したい。リツイート、いいね!、@ツイート、トゥゲッターへの追加、それらがこれまでと同じ温度とジャッジで行われるのか、それとも完全に黙殺されるのか。二十年間の経験から言えば三つのうち、最後のものが最も可能性としては高いだろうね。まあ、なんにしても一度は閉鎖したサイト、気楽なものさ。全部また、消せばいい。

 ――それにしてもウガニクです。本当に大丈夫なんですか? 許可とってるの?

  ははは、それこそ余計な心配というものだよ!  ウガニクは私だし、私はウガニクだ。ホラ、こうしてインタビューを受けている瞬間にも、君の後ろの本棚と壁の隙間から拳をふり上げて、私を鼓舞してくれている。「おい、小鳥! いいのか、こんなオフレポで大丈夫か? 俺ならもっと、歯向かう気持ちも失せるぐらいに、徹底的にブチ転がすぜ!」ってね!

 ――ありがとうございました。 (企画・制作:nWoエンタープライズ)

 おい、お前ら! あれだけキャッキャウフフ・ステイトで盛り上がってたのに、急にシーンとなるなよ! 俺が全裸で舞台にとびでた瞬間、毎回真顔でシーンとなるのやめろよ! 市井の小鳥猊下であるッ! 毎晩、酒飲みながら読み返して、ゲラゲラ・ステイトで大爆笑してるのに、「復活させてのレポートありがとうございます」やら「久しぶりに猊下の文が読めて良かったです」やら、無表情で話しかけてくるのやめろよ! 自分の同人誌を読み返すときもクライマックスでは毎回、オイオイ・ステイトで号泣するくらいなのに、なんでお前らは俺の文章を読みながら常に無感動でいられるんだよ! 綾波レイかよ! むしろ怖いわ! (入道雲パーマが両手を口元に当てて)一般人との感じ方のズレが、いまのコリツ・ステイトを作り出していることに少しも気づかないなんて……!! あと、オフレポを読み返すたびに文中リンク追加してて、私的リンク集みたいになってきました。リンク集と言えば、「日曜日には僕は行かない」も地味に改変してるので、貴様らもシミジミ・ステイトで懐古するがいいです。

 質問:オフレポ読みましたけど、ぜんぶ本当にあったことなんですか?

 回答:実際にあったかどうかは、全く問題ではありません。歴史とは、ある事象に関与した当事者がすべていなくなったあと、残されたモノから当事者以外のだれかが推測する何かのことです。小鳥猊下およびウガニク周辺に関するまともなオフレポが存在しない以上、これはやがて「事実になる」のです。

 「テキストサイト100人オフ」のオフレポ公開からちょうど一週間が経過したので、状況を振り返ってみようと思う。

  リツイート:2/88 いいね!:3/88  @ツイート:0/88  トゥゲッター追加:yes

 分母の88とは参加総数であり、実際の参加者以外から寄せられた反応はカウントしていない。ちなみにリツイートした2名は、直接に名指しをした九十九式の宮本と、私に性的魅力を感じているだろう兄貴の館の兄貴だった。私のオフレポより、体裁も文章も中身もはるかに充分ではないものが、より多くの反応を得ているこの不可解な現状をどう解釈するべきだろうか。私は長くテキストサイト系とは、文字通りテキストのクオリティがすべてを決するグループだと考えてきた。アクセス数(今ならフォロワー数)に判断を左右されず、だれが書いたものであろうと、そのテキストが良いものなら手放しの賞賛を惜しまない。管理人が持つテキスト審美眼への絶対的な信頼が、このグループをかたち作っているのだと。

 しかし、今回の結果が明らかにしたのは、当該の人物と過去に面識があったかどうか、そして実際のイベント等を共にしたかどうかが、テキストそのもののクオリティに優越するという動かしがたい事実である。マナコをクリックするとなまこのウィキが表示されたり、「なんでも言うこと聞きマス」に傑作ミュージカルナンバー“I can change”がリンクされていたり、まさにこれは、爆笑と感嘆のメリーゴーランドやないかー! 目の前にある至高のテキストに言及もせず、「ホニャララさんがつぶやいてたお店に来ちゃいましたー」とか、もう見てらんない。おまえらアホかと。馬鹿かと。テキストサイトってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。

 すなわち、今回行われたのは「テキストサイト100人オフ」ではなく、「リアルイベント出会い系100人オフ」であったことが確定的に明らかとなった。この「リアルイベント出会い系100人オフ」について、私からもう積極的には触れるまい。なぜなら、現存する最後のテキストサイト系管理者である私がこれ以上、より低いものへ対等にとりあえば、ウガニクを始祖ジュラとした過去の英霊たちの名へ、泥を塗ることになるからである。

 @uganik オフレポを通じてパイセンの権威と威光を再びインターネットに蘇らせようとしましたが、どうやら力およばなかったようです。すいません……

 小鳥猊下が現存する最後のテキストサイト系管理人であるという主張に対して、あなたは賛同しますか?(企画・制作 nWoエンタープライズ)

映画「運び屋」感想

 ニガー、ニグロ、ホワイトワールド、前回出演のグラン・トリノから変わらぬ差別用語連発のキャラづけで、他の俳優だったら問題だけど、クリント・イーストウッドに言わせるならしゃーねーなー、という周辺の雰囲気をひしひしと感じる。そしてこの映画は、トラヌプ支持層のプア・ホワイト・オールドたちが抱える、現代アメリカへの不満を慰撫するためだけに作られた物語である……とばかりは、今回は言えなかった。

 話は変わるが、この年末年始に多くのフォロワーを抱えるひとりの若いおたくに興味を持ち、こっそりとフォローした。片親に絶縁された天涯孤独の身で、自らの半生をあるときは自虐的に、あるときは狂騒的にネットへと記述する様に、かつての自分を重ねる部分もあったのかもしれない。己が精神の抱える一種の陥穽に気づいてはいるが、おたくであることを止めてしまえば、だれも捨てられたがゆえの尽きせぬ承認欲求を満たしてはくれず、何よりその芸へのおひねりがなければ食っていくことはできない。

 結局のところ、彼が苦悩する彼にとって唯一の問題も、私たち現代の棄民・ロスジェネ世代が抱える問題も、そしてアメリカの貧乏白人が抱える問題も、潤沢なカネを与えられさえすれば、すべてきれいさっぱりと解消してしまうのだ。苦悩にも、それへの救済にさえ、何の精神性も必要としないーーこの究極的な尊厳の欠落こそが、資本主義という名づけの収奪システムが体現する真の悪徳なのだ。

 「先生、銭のないところに平和はないズラ!! 銭のないところに愛もないズラ!! 銭のないところに教育も宗教もないズラ!! 銭のないところに健康もないズラ!! 幸せの青い鳥は、銭が運んでくるズラよ!!」

映画「最後のジェダイとスカイウォーカーの夜明けについて」

 映画「スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け」感想

 スターウォーズ9、ロッテン・トマトの感想とか読みながら、初回鑑賞の記憶を反芻してる。最後のジェダイは納得のいかなさから劇場で3回見たけど、スカイウォーカーの夜明けは公開中にあと1回見れば無事に成仏させることができそうな気がしてきた。海外の反応なんだけど、批評家筋には不評でファン層に好評なのは、8と真逆になっていて面白い。結局のところ、ファンはスターウォーズを見に来ているのであって、最新の映画を見にきているのではないということだ。もちろん、最後のジェダイは映画作品としても優秀どころではなく、海外の批評家たちは自らの見る目の無さと、王道外しの逆張りを喜ぶ中二病的感性を露呈しているのである(けれど、スカイウォーカーの夜明けの構成がダメという指摘はよくわかる)。

 さて、批評家たちと同じ感性をした、おそらくスターウォーズに何の思い入れもなかったキャスリーン・ケネディが、B級SF作品(loopy、だっけ?)しか撮ったことのない監督の中二病的な脚本をなぜか痛く気に入ってーースターウォーズの解体とディズニー化というアイデアを、アボリジニへの教化のような白人特有の傲慢さで気に入ったのだろうーー7でエイブラムスが提示した全体のロードマップを完全に放擲して、180度の方向転換を行う決断ーー「スターウォーズを、ブッ壊す!」ーーを下したのだ。そして制作された最後のジェダイに、旧来のファンたちは激怒する。内容の拙劣さには改めて触れるまでもないが、ファンたちは何より、原典への敬意をあまりにも欠いた態度に怒ったのである。その不遜はまるで、土着の信仰を象徴してきた古い祠を、教会を立てるためにブルドーザーで更地したようなもので、穏やかで扱いやすく見えていた原住民たちの突然の蜂起にキャスリーンは恐怖を感じたはずだ。この例えはおそらく、極めて問題の本質と近い場所にあるように思う。これまで従順だった原住民たちの気狂いじみた暴動に白人の君主はすっかり怯えてしまい、彼らの文化を尊重した統治のやり方へと舵を切ることを決め、名代のエイブラムスにすべて丸投げして本国へと逃げ帰ったーーこれが、9において再び180度の方向転換が行われたことの内幕であろう。かように最後のジェダイなる傲岸により、半世紀近くをかけて築き上げてきたスターウォーズという巨大IPはあやうく完全に、完膚なきまでに破壊し尽くされてしまうところだった。しかしながら、ここに至り、統治者が女性であることが幸いする。もしこれが男性のCEOだったなら、自分の正しさを証明するためだけに8の路線での続編制作を強行し、ディズニー幹部とスターウォーズ・ファンの屍で埋まった、ペンペン草も生えない荒野だけが残されただろうから。
 
 それにしても不思議なのは、8の方向性で9を作って欲しかったと嘆いている連中のことである。いったいどんな内容の続きを想定していたのか、どうか私に教えてはくれまいか。そのアイデアが充分に魅力的でない限り、君たちの意見に乗ることはできない。最後のジェダイはスターウォーズ・レジームの否定だけで成立していて、それは4のコピーだと揶揄された7の方法論と根っこの部分では何ら変わるところがない。すなわち、原典への深刻な執着であり、依存である。例えるなら、衣食住を頼りながら親を罵り、校則違反を誇りながら退学はせぬヤンキーと同じである。さらに言えば、お気に入りの例えなので何度も使って申し訳ないが、最後のジェダイは米軍のするサトウキビ畑への火炎放射の如くであり、続編へと繋がっていくような豊かな萌芽はどこにも存在しなかったことが問題なのだ。スカイウォーカーの夜明けの話をしたいのに、またライアン・ジョンソンの批判になってしまった。あのクソ野郎がいなければ、キャスリーン・ケネディを乗せた宇宙船・スターウォーズ号が銀河の中心で1ミリも前進せず1回転していなければ、シークエルはもっと穏便でバランス(フォース!)のいい3部作になったはずだったのに!

 強大な力ゆえにダークサイドへと落ち、シスのアプレンティスかシスその人として銀河に君臨するレイを8で描いておけば(あと、レン騎士団の裏切りとか)、9におけるカイロ・レンのライトサイドへの転向はさらにドラマチックで感動的なものになり、パルパティーンをひっぱり出さずとも二人の関係性だけで物語を完結させることができたはずなのだ。プリクエルがルーク・スカイウォーカーの英雄譚だったスターウォーズをダース・ベイダーの悲劇へと塗りかえたという批判を以前に紹介したことがあったが、この言でいえばディズニーによるシークエルはスターウォーズを「パルパティーン・サーガ」とでも呼ぶべき喜劇へと書きかえてしまった感がある。ジョージ・ルーカスによるシークエル初期構想は、ミディクロリアンに焦点を当てたものだったそうだ。おそらく、シスもジェダイも同じミディクロリアンから発しており、善と悪は人の観察が生じせしめる概念に過ぎず、ニーチェの如きその彼岸への旅路こそがルーカス版シークエルの結末だったのではないか。

 しかしながら、取り返しのつかぬ繰り言ばかりを反復しても仕方があるまい。クライアントの欲しかったものではなく、実際に撮影された映画の内容、すなわちエイブラムス監督の苦悩の軌跡について少し触れておく。まずはフォース・アポーツ、フォース・キュア、フォース・リザレクションなどと揶揄されている、フォースへ新たに搭載された機能群についてである。アポーツについては前任者が導入した絵ヅラ優先のトンデモを否定しないエイブラムスの優しさに満ちており、諸君は責めるならキャシーのイキり情夫をこそ責めて欲しい。そしてキュアはリザレクションへの大きな伏線であり、シスの秘儀とは異なった方法で愛する者を救うというのは、アナキンが強く求めながら、ついぞたどり着かなかった境地でもある。アナキンとベンの間に存在する違いとは何だろうか。それは「共に銀河を支配しよう、永遠に!」と真逆にあるもの、すなわち己の命さえ求めない利他である。その究極の無私をもって、ベンは最後の最後でジェダイとして霊体化することを許された。いま書きながら気づいたが、ベンはレイの腹部に手を当ててリザレクションを試みていた。これにより、スカイウォーカーを襲名するエンディング(3のそれと同じ絵ヅラの)を越えた先で、レイはベンのフォースによって処女懐胎していて、第1作目でアナキンの置かれた状況への円環を成すという読みさえ可能になっている! そして今度こそ、ダース・ベイダーの誕生というスターウォーズ・サーガの宿痾を解消し、憎悪と絶望の無い世界が立ち上がる(ライズ)のではないかという新たなる希望(ニュー・ホープ)をーー失礼、私はいつものように君たちを置き去りにし、自分だけを感動させる都合のいい妄想へと入り込みすぎてしまったようだ。

 ともあれ、エイブラムス監督、本当にお疲れ様でした。前任者の、唇の端からよだれを垂らした情動失禁(大切なものを壊す快感!)の痕跡をきれいにぬぐい去り、粉々にされた祠の破片をかき集め、じつに丁寧な仕事で元の形へと修復されました。愚痴りたいことも多いでしょうに、どのインタビューを見ても、悪態をつかず、誰かのせいにせず、先人へ敬意を払う姿勢を貫いており、誠実な人柄がしのばれます(エンディング間際でモブの女性同士をキスさせる「ディズニー仕草」をサラッと織り込んで、キャシーの顔を立てることも忘れないところとか)。貴方こそが、死にかけていた、あの古い物語の救世主です。でも、物語的な文脈が特にないのに、カイロ・レンのマスクをツギハギだらけに修復したところは、ライアン・ジョンソンへの当てつけっぽくて笑いました。

 そして、ファイナル・オーダーってネーミングはどうかと思いました。3で戸田奈津子がファースト・ギャラクティック・エンパイアを「第一銀河帝国」と訳出して、だれ視点からの第一やねんとファンから総ツッコミを食らっていましたが、それと同じ類の過ちを犯しています。この「ファイナル」は制作者視点からしかネーミングできないはずで、9の中でここだけ8のようにメタっぽくなってしまっています。個人的には、エヴァQ予告のファイナル・インパクトを思い出してムカつきました。劇中のだれ視点やったら、それがファイナルになるってわかんねん。

 あと、数百隻のスターデストロイヤーが待ち構えているのがわかっているのに、来るかどうかわからない援軍だけを頼みに(来なければ、死)たった十数隻で特攻し、「ごめん、やっぱりダメでした」って言うポー・ダメロンの無策っぷりには心の底から、「コイツ本当にダメロンだな」と思いました。これからは語尾に「なんとかロン」ってつけるようにすればーー「ごめんロン、やっぱ援軍はこなかったロン」ーー、上官にしたくない男ナンバー・ワン(nWo調べ)の、文字通り致命的に無能な彼でも、プリキュアみたいで許せる気持ちになるんじゃないでしょうか。あ、7のときから冗談みたいに言ってましたけど、もしかしてこのネーミングって、日本語市場へのメタな目配せなんですか? 援軍がきたとき(初回視聴なのに、なぜか来るのがわかってました! 私もフォース・センシティブなのかもしれません)の「armyじゃない、peopleだ」みたいな台詞はベタですけど、スターウォーズらしくてグッときました。なぜかいま思いつきましたけど、「ザ・ピープル・バーサス・ライアン・ジョンソン」ってドキュメンタリー映画の企画、どうでしょうか? 「バーサス・ディズニー」じゃ会議に通らないんで、少しマイルドな提案にしてみました!

 それと、シスの全天候型フォース・ライトニングって、乗組員と船体を傷つけずに航行能力だけ奪ってるし、EMP兵器みたいな扱いなの? あそこだけ、なんかマトリックスぽかった。

雑文「エヴァにまつわる騒動について」

 タラムイーンに流れてきたカントク(Cunt-Q)の記事を読んでたら、久しぶりにロイヤル宇宙軍のことを思い出したのね。私の中ではずっと、青白い書生風のウラナリといった風貌で、映画に関してはストイックの完璧主義、続編のブルーなんとかがいつまでも完成しないのも、それが理由だとばかり思ってた。例の会社の商売ッ気とか、オトナの汚い部分はぜんぶ、ダイエット本と不倫で有名になったあの人物が引き受けてて、あとは全員、清廉の純粋クリエイターばかりだと、勝手にイメージしてたわけ。もちろん、彼もその中に入ってたのよ、仕事を選ぶ、節操がある方のカントク、みたいな感じで。そしたらさあ、記事をきっかけに近況を知りたくなって、なんの気なしに名前をググッてみたら、もうビックリ仰天よ。ほとんどパラダイムシフトみたいな衝撃ってゆーの?

 ハット族のような巨漢が京都の寺に寝泊まりして(たぶん、酒を抜くため)ラクガキみたいな襖絵を書いたり、ドン・ペリニヨンとコラボしてゴミみたいなプロジェクション・マッピングを作って「ドンペリの味を表現した」みたいなこと言ってたり、会社名の威を借りたゲッスいゲッスいポジショニングーー私にとってはマイナス・ワードで「仕事はしない、責任は取らない、でも組織内の位置どりだけで他人の成果をかすめとる」ぐらいの意味で使ってるーーばっかしてんのよ。まあ、こういうの言いたくないんだけど、祖母がよく口にした「人品は顔に出る」って言葉をしみじみと思い出させてくれるのよ。そら、キャバクラとドンペリ三昧じゃ、続編も完成せんわな。こんなクリエイター気取りのゴロツキみたいのに何年も何十億もたかられてたら、そら鬱にもなるわ。「エヴァの呪縛」って言葉、劇中でよく使われてましたけど、こういう意味だったんですね。ようやくマリ・パイセンの「世間を知りニャさいッ!」という台詞に血が通いました。

 この事実を知ったあと、少しだけ(3秒くらい)カントクに同情しましたが、アルコール依存症を家族の病と呼ぶのと似た状態が、長く社内にあったんでしょうね。カントクが本気で問い詰めたら、「お前の才能を間近で見せつけられて、俺はいつも自分に絶望し続けてきたんだ! だから、俺はいつも酔っ払ってるんだ! ぜんぶお前のせいだ、お前が俺をこうさせたんだ! 俺は、お前になりたかったんだ!」とか、わんわん泣きじゃくりながら言いそうなところとか。うわ、すごい言いそう。

 それにしても、見れば見るほどすごいツラがまえ……毛はあるが愛嬌はないジャバ・ザ・ハットとでも表現しましょうか……うーむ、やっぱり人品は顔に出ますね。みなさんも気をつけましょう。

 E5出撃準備の傍らで、昨日読んだ記事についてツイッターの反応見てる。今回の騒動をエヴァQに当てはめてるのーーネルフ(キリッ)があの会社で、ヴィレ(笑)がカラーという筋立てーーを見かけて、あー、いよいよ昔のエヴァっぽくなってきたなー、と思った。こういうメタな読みを許容しない作り方で、カントクという個人から切り離したSF作品として改めてエヴァを完結させよう、ガンダムのように他のクリエイターが参画できる土台を準備しようとスタートしたはずなのに、その最初の志は今回の暴露記事をとどめとして、見るも無残に砕け散ってしまった。

 ラわーん、これじゃエヴァQじゃなくて、エヴァ旧だよう!

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」