猫を起こさないように
月: <span>2011年1月</span>
月: 2011年1月

ベスト・キッド


ベスト・キッド


おれ、おたく業界のトレンドに明るいからさぁ、知ってるぜ、こういうのなんて言うか。男の娘、ってんだろ? ジャッキー・チェンがジェイデン・スミスの上半身を撫で回すのを見て、興奮したりすんだろ? 「ぼくのドレに触るな、このブサイク女ァァァァ!」って、すごい形相で絶叫してたよな? わかってるよ、わかってる、おれ、おたく業界のトレンドに明るいからさぁ。でも、あれ、カラテ? カラテなの?

MMGF!(2)

会議が建設的であるための条件はいくつかあるが、構成員の全員が共通の利益を代表していることは、そのうちでも大きなもののひとつだろう。利益を獲得できないことが大きな不利益、あるいは組織の存続に関わるような場合はなおよろしい。そして、会議時間は明確に区切られてあるべきだ。会議の長さを水増しするのは、だいたいにおいて感情的な側面なのだから、それが入りこむ余地をあらかじめ織りこんではいけない。
だから、どう転んでも、この会議は建設的にはなりようがないのであった。
定例の学科長会議は月に一度、全学的に休講の上で、朝から行われる。
名称こそ学科長会議だが、その構成員は原則としてプロテジェを指導できる資格を持つ者、すなわちメンター以上とされた。終了時間は特に定められておらず、アジェンダの記載事項がひと通り報告・審議しつくされるまで続く。
また、ペルガナ市国の行政庁、通称ブラウン・ハットの政策決定に関する諮問委員会を兼ねているため、議題の内容は学園運営や学術報告の範囲に留まらない。資料が前日までに提示されることはきわめてまれであり、原案すら存在しない審議事項も少なくない。人の叡智というよりはむしろ忍耐力を試される場であり、市国唯一の学府とは思えぬ混沌をはらんだ会議である。
すでに開始から四時間は経過していようか。もはや会議の流れについていく気力を失って、ぼくはぼんやりと室内をながめる。
出席者全員が対面するよう、長方形に配置されたテーブル。
学園長やブラウン・ハットの長官を始めとした首脳陣の座る一辺が、慣例的に上座である。そこから遠ざかるほど人物の持つ権威は弱まると考えてよい。
ぼくとキブは学園長から最も遠い場所に、なかよく座っていた。首脳陣と学科長以外の座席は特に定められておらず、なんとなくいつもとなりあって座る。
史学科長、つまりキブの直接的な上司に当たる人物の「第三百四十五次ペルガナ史跡発掘中間報告書」が、(恐ろしいことに)ただそのままレジュメ通り読みあげられるの聞きながら、ぼくは窓の外へ目を向けた。あいもかわらず、とびきりの晴天である。会議室の内側から見る空が、いつもよりずっと青く見えるのはどういう物理現象だろう。
ぼくのななめ前方(より権威に近い)で、きつい目をした痩身の男が、指先にまで神経が通っているように、するどく挙手をした。目には燃えるような意志の力がみなぎっている。苦手なタイプだ。
「議長、発言を許可ください」
「報告が進行中ですが、メンター・スリッド」
議長が許可を与えたと思ったのか、スリッドは決然と立ちあがった。またか、という感じで顔を見合わせる列席者たち。
「史学科長殿は、我々に発掘品の品目を順番に聞く義務があるとお考えか。あるいは、ペルガナ市国の学府に籍を置く我々の誰かが、この資料に書かれた文字を読めぬと疑われているのか。議題は山積している。前回の会議でも申し上げた通り、議長は議題の優先順位をあらかじめ決定し、迅速な議事進行に努めるべきである」
「うちのボスにゆうてもしゃーないがな」
スリッドから目をそらしたまま、キブが小声でつぶやく。
すかさず、学園長から近い位置に座っていた筋肉質の男がぬっと手をあげる。岩のごとく節くれだち、親指が五本ならんでいるような手。体技科長だ。
「いまの発言は、学科の思想的独立性に対する深刻な疑義の提示と考えられる。発言の撤回と、議事録からの削除を願いたい」
気の弱い人が聞いたら、それだけで卒倒しそうな胴間声だ。
「異議なし」
「異議なーし」
間髪をいれず、体技科のメンターたちが唱和する。上背も横幅もぼくの倍くらいあるんじゃないか。
市国警備隊を兼任する体技科は、要するに兵隊さんだ。他国の侵略から学園のみならずペルガナ市国全域を防衛するために、青少年の健全な育成と肉体改造に日々はげんでいる。だが、「遺跡に眠る巨大人型兵器の謎」といったジュブナイルによる消極的イメージ外交の結果なのか、ここ百年でペルガナ市国が外的侵攻を受けたという記録はない。なのに、演習と称して捕獲した魔物と素手で格闘したりするのだ。
彼らがヒグマだとすれば、スリッドは気性の荒いニワトリにすぎない。
「学園長は会議内に恫喝のまかりとおるこの現状をどのようにお考えか!」
だが、痩身を反らせ、猛然といどみかかる。
この間、報告の腰をおられた史学科長は、レジュメの束を手にもったまま、怒りによるものか、はたまた老人性の何かによるものか、ぷるぷるとふるえ続けていた。
スリッドの発言が武と文を分離することの有用性へおよびはじめた頃、会議室の扉がノックされる。
「失礼します」
聞く者をふりむかせる、凛とした声。スウだ。
「メンター・ユウドに解決をお願いする案件が発生しました」
ぼくは助かったとばかりに立ちあがり、早足になって内心を悟られぬようゆっくりと出口へ向かう。スウの顔が、このときほど愛らしく見えたことはない。
「あの、いちおう手順ですから」
穏やかに、諭すような声。おっと、忘れるところだった。ぼくは咳払いをひとつして、ゆるんだ表情を引き締しめるとふりかえる。
「中座を許可下さい。案件を処理次第、直ちに議場へ復帰いたします」
白髭の学園長がうなずき、うらめしそうなキブの視線を尻目に、ぼくは完全に解放されたのだった。

廊下へ出て、うつむき気味の数時間に曲がった背中をのばすと、ぽきぽき骨が鳴る。
もう歳かなあ。さほど広くない会議室でのひといきれは、よっぽど空気をよどませていたんだろう。ただ息を吸いこむことがいやに心地いい。こういうとき、幸せとは不幸のない状態をさすのだな、としみじみ思う。
「メンター・ユウド」
とがめるような声にぼくは首をすくめる。少し覚悟をしてふりかえって、笑ってしまった。スウが、飼い主に額をたたかれた犬のような、情けない顔をしている。
「マアナかい」
「マアナです」
わずか一週間ほど保護者をつとめただけなのに、ぼくたちふたりの呼吸はもうぴったりだ。おもむろにスウが制服の袖をまくり、ぼくの鼓動を少し速める。二の腕には、きれいに歯型がついていた。
「噛みぐせがなおらないなあ」
自分で言っておきながら、ほとんどペットに対する口調だな。
「散歩につれていくために服を着せようとしたら、暴れだして……」
「そりゃあ、まあ、いやがるよなあ」
例えば、よろいかぶとの常時着用が義務づけられた文明圏に生活する事態におちいれば、最初はぼくでも抵抗を示すにちがいない。
「でも、女の子に裸で外を歩かせるわけにはいきません」
言いながら、なんだか変なことを話しているなという困った表情になるのが面白い。
「それで、むりやり押さえつけたら噛みついて、逃げ出しました」
「つまり現在、裸の少女が学園内を徘徊しているということだね」
「しかも噛みつきます」
スウが強調する。今日が会議日でよかった。学園内に残っているのは、一部のまじめなドミトリ組だけだろう。だいたいが町で遊び歩いているはずである。
ぼくとスウが話しているのは、遺跡から連れ帰った女の子のことだ。
人形のように整った顔立ちに気おくれがしたのは、最初の眠りから覚めるまで。いまでは遠い昔のことに思える。食事は手づかみする、服はやぶいて脱ぐ、夜中に起きて暴れだす、気にくわないと噛みつく、怒るとつばをはく、おまけにトイレ……いや、これは言うまい。
とにかく、見た目から想像する中身との落差が壮絶なのである。狼か何か、人類ではない生き物に育てられた野人が、マアナなのだ。この名前は、彼女が怒ったときに叫ぶ声がそんなふうに聞こえたので、とりあえず呼んでいるうち、ぼくたちの間で定着してしまった。
「メンター・ユウド、ちょっとマアナは私の手には負えません」
ここ一週間、満足に眠れていないスウは、育児疲れとしか形容できないものを表情に漂わせている。
「ぼくの子どもだと思って、落ちつき先が決まるまでもう少したのむよ」
我ながら、ずるいやり方だよなあ。頼りすぎていることは自覚している。けど、他に方法を思いつかない。キブに預けることも考えたけど、下手すると腑分けとかされそうだ。水晶から産出したものは人じゃなくてインクルージョンだと言い張ってるからな。
しばらく歩いて、スウがついてきていないことに気づく。ふりかえると、完全に固まっている。
「おーい、どうしたんだい」
スウの目の前で手のひらをふってみせる。
「な、なんでもありません。それより、マアナを見つけないと」
顔を真っ赤にしたスウが足早に追いこしていく。
あれ。何か悪いこと、言ったかな。年齢的にも思春期だしな。
若者の心を忘れてしまった大人の苦悩をかみしめながら、ぼくはずんずんと遠ざかる赤い馬の尻尾を追いかけた。
学園は新棟と旧棟に分かれていて、それぞれ木造と石造りである。教室やドミトリなどプロテジェが中心にかかわる施設は新棟に、研究棟や会議室などメンターが中心にかかわる施設は旧棟に集中している。
スウを追いかけて新棟を通りぬけるとき、ドミトリの玄関でそうじをしている女の子がぼくに会釈をしてくれる。寮長だ。思わずぼくも頭を下げる。
ドミトリには長くお世話になった。より正確には、まだお世話になっている。他国からの留学組に提供される学生寮で、年齢の若いものは相部屋からはじまり、成長に従って個室が与えられる。入居の規約は、じつにこと細かい。しかし、退居に冠する条項はただひとつ「プロテジェの身分を喪失したとき」だけ。広義に解釈すれば、学科長以外は指導を受ける上位者が常にいるわけで、プロテジェと定義できないこともない。ペルガナ学園の良いところは、現存するルールの適用については厳密なのに、ルールがおのずから持つ抜け道をふさぎにはかからないおおらかさにある。メンターとプロテジェは謙虚なぼくにとって対立概念ではなく、いまだに若者たちにまぎれて、ドミトリの一室を占拠しているのだった。
つい先日、世代交代が行われた。規則に違反したならば、体技科所属のプロテジェであっても腕力で屈服させた旧・寮長だったが、別れの場面では信じられないくらいにおいおい泣いた。花束を用意したのが、まずかったのかもしれない。涙と鼻水の洪水に聞きとりは極めて困難だったが、「たくさん殴ったが、若者の将来を思ってのことだった。娘が後を継ぐから、安心してほしい。私に似て気立てのよい子だ」という内容をお話しになられた。絶妙に空気を読むドミトリ組たちは、微妙な表情で顔を見あわせる。そのとき、居合わせた全員が、丸太のようなものすごい猛女を想像していた。
予想に反して、やってきたのは小柄な眼鏡の女の子である。しかも、かつての猛女との共通点は、目が二つあり鼻が一つあり口が一つあることだけ。動転したプロテジェたちはドミトリの長老へ、この裏にある国家的な陰謀は何かと意見を求めにきたが、「ううむ、隔世遺伝」と唸るのが精一杯であった。とりあえずいまのところ黒幕は存在しないようである。もちろん、経過観察を怠ってはならない。
「寮長、このへんで子どもを見かけませんでしたか」
我ながら、不自然な質問だ。ドミトリは六歳から入寮できるのだから、朝から晩まで見かけてるに決まってる。寮長にはマアナのことを伏せているから、やましさが歯に分厚い絹をかぶせたのかもしれない。
「さっき、そちらのプロテジェさんと楽しそうにじゃれあっている女の子なら見ましたわ。金髪の」
スウが妙な表情を浮かべている。それはちょうど二の腕に噛みつかれている場面のはずだ。世の中を善意でとらえれば、じゃれあっているという表現になるのかもしれない。
寮長の丸眼鏡が陽光を反射し、視線が読めなくなる。
「何日か前からいらっしゃいますわね」
ばれてる。
「ぼくの姪っ子なんです」
完全に自然なタイミングで嘘が出る自分は、いつしか汚れた大人になってしまっていたのだな。
もちろん、すまし顔でうなづく隣のプロテジェも共犯だ。
「ごきょうだいがいらっしゃったとは、初耳ですわ」
人差し指を頬にあてて、小首をかしげる。愛らしさと恐怖が結婚したようなすさまじさに、ぼくは背中へ汗がにじむのを感じた。どこまで知ってるんだろう、この人は。
スウがうろたえたようにこっちを見、ぼくの嘘の完全な傍証となった。こら、こっち見ちゃダメだろ。
嘘が次の嘘を生むダイナミズムは、いつ味わっても胃が痛む。しかし、どう言葉をつぐべきか考えるぼくに助け舟が出された。
「もちろん、書面さえ出していただければ、規則的には何の問題もありませんわ」
完璧に抑制された、隙のない微笑み。
詮索しすぎないが、職分の範囲で言うべきことは言う。若いのにしっかりしてんだよな、この娘。
「必ず」
真面目くさってうなづくと、両手を胸にひきよせて動揺のショウ・アンド・テル教材と化して視線を泳がせるスウの腕をつかみ、足早にその場を離れる。たちまち赤くなるのは強くつかみすぎたせいか。腕のぶんの血流が、顔にあがったのだろう。
新棟をぐるっと回っても、マアナは見つからない。
「いないなあ」
「いないですねえ」
まだ、頬に赤みが残っている。
「もういちど旧棟を探してみようか」
「賛成です」
ぼくたちは再び、ならんで歩き出した。
旧棟はペルガナ市国でも数少ない、二階より上がある建物のひとつだ。石造りとひとくちに言っても、レンガを積み重ねたようなものとはわけがちがう。ぼくも最初に聞いたときは信じられなかったけど、いっさいの接ぎ目がないそうだ。おそろしく巨大な一枚岩から切り出されたかのように、すべてひとつながりでできている。古代の建物に手を加えずそのまま現代へ流用するのは、ペルガナ市国のお家芸である。横着ここに極まれりという感じだが、中にいるものたちを厳粛な気持ちにさせる効果はあるようだ。心を澄ませば、個人ではない連続が時間を越える大きなひとつを創りだしたことに気づくのだから。
しかし、ぼくの感慨をさえぎったのは、もっと矮小な何かだ。地面へ無造作に脱ぎ捨てられた靴下。つまみあげてみると、手のひらも入りそうにないほど小さい。

「マアナのかな」
「あそこにもありますよ」
スウが指差した先に、もう片方があった。どうやら、容疑者はすぐ近くに潜伏しているみたいだな。旧棟を回りこんで、中庭に出る。
等間隔に樹が植えられていて、建物に切り取られた空が四角いという面白さ。人工と自然の調和という言葉がぴったりのこの場所を、ぼくはたいそう気に入っている。
だが、平和を体現するはずの空間に漂う空気は、いまや不穏に満たされているのだった。無残にも胸元で引き裂かれたワンピースが枝に引っかかり、下ばきが植え込みに投げ捨てられているせいだ。公共の場にある女児の下ばきがこんなにも心さわがせるものだとは知らなかった。真っ赤になったスウがとんでゆき、おおあわてで証拠物件を回収する。
「ドミトリから新しいの、持ってきますね」
胸元に衣類をかかえたスウが小走りにかけてゆく。ああいう生活感が妙ににあうなあ。よいお嫁さんになることだろう。
棟に沿ってならぶ緑に囲まれた正方形の中央には、ひときわ大きな樹木が生えている。この位置は学園設立の当初、あらゆる周縁から等距離にあったそうだ。もっともそれは設立された最初期にまでさかのぼればのこと。新棟を含めた建て増しに次ぐ建て増しで、いまやここは辺境である。
空からハミングが聞こえる。小鳥のさえずりとは違う。これは、グラン・ラングだ。歌っているのが誰かは、もうわかっている。
はるか昔にこの世界から消えた言葉のネイティブ・スピーカー、遺跡の少女・マアナの母語はグラン・ラングである。
この衝撃がぼくにとってどれほどだったか、とうてい語りつくせない。この子ひとりの存在で、これまでグラン・ラングの研究に費やされてきた莫大な時間をかるがると一足跳びにできる。それは、微に入り細に入りすぎてもはや誰も全体像を見渡せなくなったこの分野全体を統御し、かつまとめて底上げするようなものすごい可能性だ。
そしてこれはスウやシャイや他のプロテジェたちには内緒だけど、コミュニケーションを試みたぼくのグラン・ラングはマアナにまったく通じなかった。この衝撃がぼくにとってどれほどだったかも、やはりとうてい語りつくせないのであった。若手の研究者たちの間では一頭地を抜いた存在であると密かに自負していたぼくは、高くなっていた鼻をぽっきりとへし折られたのだ。実地検証を年長のプロテジェに言い続けてきたことがさかさまになって、はねかえってきた形である。もう一生涯、机上の空論という言葉は使うまい。
重なりあった枝葉の隙間から陽光がさして、風が吹くたびに違う輝きを見せる。大きくさしのばされた枝に、裸の女の子が座っていた。
「おーい、あぶないから降りておいで」
マアナは一瞬だけこちらを見て、すぐにハミングを再開した。「私が可愛いってことは知っているわ」とでも言いたげである。実際、噛みついたり暴れたりしないときのマアナは、とびきり造作の整った女の子だ。それをわかっていて、相手が本気では怒れないと確信しているふうにさえ思える。
将来、どれほど多くの男たちがこの毒牙の犠牲になるのだろうか。保護者としては、いまのうちにこの芽をつんでおかなくてはいけない。意を決して息を吸い込むと、背後に人の気配がした。
「いつまで駄々をこねているのだッ!」
つんざく怒号が響きわたり、ぼくとマアナは首の半ばまでを肩にうめてふりかえる。
怖いほうのお姉さんが戻ってきていた。
早足で近づくと、そのまま地面と平行に滑空するような前蹴りで、樹木に革靴をねじこんだ。樹齢幾百年を思わせる太い幹である。それが、びっくりするほど大きく揺れて、大量の葉っぱと数匹の昆虫とひとりの女の子がバラバラと落ちてくる。
ぼくはあわててマアナの落下地点に手をさしのべる。ナイスキャッチ。
「この一週間の歯がゆいことといったらない。そいつは、機嫌をとればとるだけ増長する生き物だ」
腕組みしたお姉さんが、眉を片方だけあげてにらみつけている。マアナは完全にふるえあがり、両腕と両足でぼくの首と腰をがっちりホールドする。ぼくは安心させるために背中をなでてやるが、温かかった。遺跡で受け止めたときは、氷で冷やした魚のようだったのに。
「まあまあ、ふつうの子どもじゃないんだから、少しは大目に見てやらないと」
父母の役割が逆転している気がする。
「それを親バカというのだッ!」
少し観点がズレているのが面白いが、笑ったりすると上半身と下半身が別々になってしまうので、口元をヘの字にゆがめるにとどめることにした。
スウはマアナの鼻先へひとさし指をつきつける。たちまち悲鳴をあげ(たぶん、グラン・ラングで)、両腕と両足はますます強くぼくの首と腰をしめつける。かなり苦しい。
「おまえはユウドの温情に生かしてもらっているのだから、ユウドの言うことはなんでも黙って聞け。いいな?」
この三白眼で迫られては、遺跡の魔物だって逆らえない。少なくとも、ぼくには無理だ。グラン・ラングを母語とするマアナは、わからないはずの言葉にぶんぶんと首を縦にふった。人の理性というよりは、動物の本能が内容を察知させたのだろう。やっぱり、教育は気迫だよな。
その日の午後、新しい服を着せられたマアナは、スカートをばたばたしたり全身をぼりぼりかいたり襟首に両手をつっこんでひっぱったりしていた。けれど、部屋の戸口でスウがずっと匕首を切ったり戻したりしていたので、ついに寝床に入るまで露出の癖を敢行することはなかった。
また一歩、人間に近づいたのである。
当面の問題を解決したぼくは仕方がなく会議室へもどったが、なんと体技科とスリッドの論争はいまだに続いていたのだった。
「よかったやん。クライマックスには間におうたで」
キブが目線を資料に落としたまま、席についたぼくを肘でつついた。
その日の学科長会議は、日付が変わるまで続いた。一日の三分の二ほどを会議していた計算である。しかし、アジェンダは半分も消費されておらず、臨時学科長会議招集の日付が議事録の末尾に記載されて散会となった。
会議室を出たぼくとキブは、真面目くさった顔でしばらく並んで歩いてから、旧棟を離れたところで抱きあい背中を叩いて、お互いの忍耐をたたえあった。
ドミトリの自室に戻ると、二人の女の子が毛布にくるまってベッドを占領している。そばまで椅子を引き寄せて、腰を下ろす。座るときにかけ声がもれるのは、もう若くない証拠だな。窓からの月あかりに照らされた二つの愛らしい寝顔に、しばし心癒される。
マアナのことは早急に解決すべき案件だ。発掘品をリストアップした史学科の目録には「人型土偶」として記載してあるから、公的な処理は終わっているといえば終わっている。老齢の学科長に代わり、報告書の作成は実質キブがすべて代行しているからこそできたことだ。何より、これは過去になかったケースである。報告書の様式なんてものも、存在しようがない。
当然、研究者としての倫理を遵守しようとするなら、マアナの存在はすぐにでも公開するべきだ。グラン・ラングの母語話者というのも、実はぼくひとりの思いこみだってこともありえる。祖に極めて近いことに疑いはないが、派生した別の系に連なる言語ではないと断言する材料を、ぼくは持ち合わせていないからだ。真の客観性は、大勢の主観が集まらないと生まれない。
しかし一方で、マアナは小さな女の子だ。大勢の興味の中に投げこんでから、その大勢のひとりとして接することができるだろうか。正直、これまでのぼくに研究以外の優先事項はなかった。研究の業績が人類へ残すだろうものの大きさに比べれば、人がふつう生活で作り出すものには、何の興味もわかなかった。
けれど、それはたぶん、自分を守るためのポーズだったのだ。誤解を恐れずに言うなら、マアナといるときにぼくが感じているのは、おそらく父性である。娘を研究の具に差しだして省みない、マッド・リサーチャーの思いきりがぼくになかったことは確かだ。
そして、残ったひとつ。最大のひとつ。
ぼくの晴れない疑念は、こう表現できる。
もしかしてマアナは、ぼくたちがいま見ているような姿からは、遠いのではないか。
マアナと唇を重ねたあの瞬間にぼくが見た光景を、言葉にしてわかってもらえるか自信がない。
常人ならば、魂が収まる座となるべき場所に、無辺大の広がりを持つ上下のない空間があった。人の魂を器に入った水だと例えるなら、マアナのそれは天と地をひとつにして満たされる虚空。その莫大な感覚に、ぼくの心はもっていかれかけた。永遠を直視して、なお正常でいられる人間がいるはずがない。
砕ける砂のように、意識が漂白されてゆくその瞬間。首のつけ根に衝撃を感じ、視界は反転して黒く変わる。気絶したのだ。あとからキブに教えてもらったが、スウが刀の柄を思いきりねじこんだのだった。ひどいやり方だが、結果としてスウはぼくの恩人である。しかし、感謝を述べるぼくへの返答はにべもない。
「かわせたはずだ。邪念があったんだろうが」
一言もない。赤い唇が迫ってくるとき、逡巡があったのは確かだ。
生産性に限って言えば疑問符のつく会議で綿のようになった頭では、一週間考えて見つからなかった解決策を発見できるはずもなかった。隣室のプロテジェに部屋の片隅と寝具を借りようと立ち上がって、ぼくはかすかな胸さわぎを覚える。ちゃんと順序立てて説明できるようなものではない。
「付与」と「維持」を専門とするぼくは、現状の把握に対してとても敏感である。一般人とは、はかりの精度が違うのだ。現実に対して付け足された余剰を把握できなければ、それを維持することもできない。付け足した分は管理されなければならないし、管理しないならば元のように取りのぞく必要がある。難しい言い方になるが、人為が管理されないまま自然の中に残されると、必ず悪い結果を招くのである。
ぼくの胸さわぎは、つい数分前までの現実といまの現実とは等価でないと感じたことが原因である。おそらく、学園内に何か異物がまぎれこんだのだろう。
そういえば、以前もこんなことがあった。遺跡の魔物が敷地内に迷い込んだのである。いつも暗い場所にいる魔物は夜行性(正確な表現ではないけど)なので、陽が落ちた地上を遺跡の続きと勘違いして出てきてしまうことがある。普段は人を襲うことはないが、遺跡の中にいると思いこんでいる魔物にとっては、こっちが侵入者だ。
深夜にも関わらず、ぼくの通報へまっさきにかけつけたのは、体技科長だった。相手は直立した狼みたいなヤツで、ずんぐりした体技科長の倍ほどもあった。薄闇に光る両手足の爪は、ひとつひとつが刃物のように尖っている。ぼくはすっかり動転して、人を呼びに走ろうとしたが、
「間に合あわねェよ」
体技科長が低くつぶやくのと魔物がとびかかるのは、ほぼ同時だった。
その後の光景は忘れもしない。なんと、あっというまにぶちのめしてしまったのである。
しかも、素手で。
魔物が、まるで子犬のような悲鳴をあげて地面に崩れるのを、ぼくは確かに見た。
「俺っちはこいつを住処に戻してくらァ。おめえさんは早く寝ちまいな。明日も講義があるだろがよ」
容積でいうなら三倍はありそうな巨躯を軽々と抱え上げ、体技科長は悠然と歩み去っていった。
だが、今回の違和感はそのときとはちがう。魔物ではないとすれば、いったい何だろう。スウが目を開き、ベッドから身体を起こす。毛布の下に刀を抱いている。
「何か入ったな」
まったく眠っていなかったように、はっきりとした声だ。スウがそう感じるのなら、間違いないだろう。
「ちょっと見てこようと思うんだけど」
語尾をにごすのはずるいやり方だと思う。しかし、メンターとしてプロテジェに危険を強要する発言ははばかられた。もしかすると男としての矜持なんていう、前時代的な錯誤が働いたかもしれない。
「ついていこう。自称・頭脳派のメンターをひとりで行かせるわけにはいかんからな」
スウは気づかないふりだ。拒絶したって、ついてくるに決まってる。実に情けないことだが、過去、スウの助力なしにはどうにもならなかった事件がいくつかあった。名実ともに、彼女はぼくの保護者なのである。
夜の旧棟は人気がなく、しんと静まりかえっている。ついさっきまで大勢のメンターたちが喧々諤々、議論を交わしていたのが嘘のようだ。
もともと何かがあったところから何かが無くなると、ある種の虚が生みだされる。それは、ただの不在よりもいっそう濃い喪失だ。お祭りなんかで、集まった大勢がいなくなるときの寂しさが独特なのは、そういったわけである。
「付与」と「維持」を専門とするメンターは、誰へともなく頭の中でそんな講義を行う。隣を歩くスウはたいへん緊張した面持ちで、ぼくの話を聞いてくれそうになかったから。
曲がり角や階段を通るたび、スウがぼくを見て、ぼくはスウにうなづく。ぼくは異物に対する人間感知器のようなもので、スウは己が察知したことを確認するためにぼくをつかうのだ。
やがて、スウが立ち止まる。
「ここの上ではないかと思うが」
スウが誰かに意見を求めるのは、極めてめずらしいことだ。何を参照することもできない一瞬に、真空のような自力で判断を下すことが、スウの強さの拠っている理由だから。そこには、一種の威厳とさえ言える何かがある。一貫した行動が作り出す暗黙の威厳。他人に向けられるとき、それは重大な信頼だ。ぼくが体技科長に感じるものも同質である。
ぼくは目をつぶると、神経を集中する。ちょうど頭上に、意識の透過を妨げる何かがある。本来、この学園にはなかった紙魚のような異質だ。
「いるね」
ぼくの答えは簡潔だ。スウが求めるものを理解しているから。
「一歩だけさがって、ついてきてくれるか」
右手を軽く束におき、つま先立ちにやや前傾した姿勢で階段に足をかける。スウからは肌に痛いような気配が発散している。
完全な臨戦態勢だ。
ぼくはうなづき、ちょうど一歩分の距離をあけて後ろをついてゆく。こうなったスウに言葉は不要だ。言葉は遅すぎて、一語たりともその行動を追いこせない。
すべては一瞬で始まり、一瞬で終わるはずだ。
旧棟の廊下は部屋の面積に対して、ずいぶんと広いスペースが与えられている。それはつまり、古代人の公共への感覚をそのまま反映していると言える。扉に区切られた空間よりも、誰もが行き来する場所の方が重要だったのである。しかし、その崇高な遺志をあざ笑うかのごとく、いまや物置や展示場と化している一画も少なくない。
最初、芸術学科が陳列するオブジェと見分けがつかなかったのは、あまりに人が持つ固有の気配と遠かったからだろう。フードを目深にかぶり、床に届くほどのマントで全身を覆っていたにも関わらず、その見かけは確かに人だった。
ぼくたちへ向けられた音声は、確かに言語と定義できる規則性を持っていた。
不安を生じさせるほど大きな抑揚。
対話を前提としない高圧的な連続。
聞きとりの困難なその音階を文字に写すとすれば、こうなるだろうか。
「ウイハフ・アヒュウ・トゥシイ・ジクエイ・フザット・クオブエ・キャンビ・ナジイフ・イアポテ・ロウワズ・ンシャル・ディテク・スレット・テッドアラ・フォドォンチャ・ウンドジス・イルド・リイジョン」
グラン・ラングとの類似性は見出せる。しかし、世界に現存するすべての言語は祖から派生したいずれかの系に連なるクレオール語(劣化ゆえだ)と言えるため、何も発見していないに等しい。
フードがはねのけられる。
青い眼、尖った耳、深く刻まれた皺。風のない屋内でたなびく赤い髪。人のようであり人のようでないその造作は、ペルガナ市国の人々をひどく誇張して描いているともとれる。わきあがる不快感はそのせいか。
その魂は、沸騰する岩を思わせる濁った輝きを放っていた。すでに付与が施された痕跡がある。維持は必要ない。なぜなら、魂は永久に変更を上書きされているから。
生命を縮め身体能力だけを向上させる類の冒涜。
暴力が知恵の儚さを摘むことを是とする世界観。
ぼくは全身を嫌悪感が包むのを抑えきれない。なぜって、それはずっと自分自身に向けてきた批判と同じものだったから。軽々とぼくの葛藤を飛びこえて、生命の有り様がデザインされるのを目の当たりにする衝撃。
これは、人間存在の戯画だ。
そしてあれはぼくでもある。
だが、不思議な既視感を伴った――
自失を縫うように、爆発的にマントがひらめく。
月光の照り返しをしか視認できないそれは、床面すれすれを滑空し、伸び上がるように真下からぼくへ迫る。
鼻先に冷たいものを感じたと思った瞬間――
鈍い金属音が爆ぜる。
柄の無い短刀が床に突き刺さり、震える。
「思索はあとにしろ」
抜刀をすませたスウが、ぼくと敵との軸線上に歩を進める。
半月状に開いた口腔には、乱杭のように大作りな黄色い歯が並んでいる。
見開かれた眼が訴えるのは、驚愕のようでも喜悦のようでもある。
マントをからませて両腕を広げた姿は、さながら猛禽を思わせる。その内側へ、夜の闇を言うには不自然な黒い空間が広がっていた。
応じるように、スウが身をかがめる。獲物を前にした肉食獣のようだ。
飛翔。違う。疾走。
その速度は人外の。
スウが駆け出す。
確実な死へ。
赤子のような信頼。
ぼくが何とかすると疑わない。
間に合うか。
青い光輝。清澄なる人間の証明。つかまえた。
砂時計が重力を無視するイメージ。
ふたつの人影が交錯する。
スウと同調する視界。没入の深度を調整できず、客観性がふきとんだのだ。
短刀をつかんだ腕が鞭のようにしなって、首筋をねらう。
上体を沈ませたのは回避のためだけではない。
攻防一体。
同時に放たれた袈裟切りが胸元を薙ぐ。
だが、浅い。まだ、動いている。短刀が振りあげられる。
斬撃の勢いをそのまま殺さぬ、独楽のごとき急激な回転。
そして間髪を入れず、低い体勢から逆袈裟に斬りあげる。
体を入れかえるほどの躊躇ない踏みこみは、完全に対象を静止させた。
スウから視界を取りもどしたぼくは、思わずその場にへたりこむ。遅れてやってきた極度の緊張と弛緩が、どっと通り抜けていったのだ。あぶないところだった。あと少し判断が遅れていたら、切り伏せられているのは逆だったろう。
ゆっくりと刀を鞘に納めながら、スウが戻ってくる。太い眉を寄せたその顔は、なんだかすごく不機嫌そうだ。
「毎回思うことだけど」
ぼくは肩で息をしているのを悟られぬよう、軽口に紛らわせてしまおうとする。
「もう少しブリーフィングの時間が欲しいね」
不機嫌な表情を少しもゆるめぬまま、スウはぬっとぼくの目の前に右足を突きだした。親しき仲にも礼儀あり、メンターに対するプロテジェのあるべき姿を説こうとすると、
「靴がやぶけてしまった」
見れば、つま先に穴のあいた靴底から親指をぴこぴこと動かしている。さっきの回転で、摩擦に耐えられず擦り切れたんだろう。ぼくは思わず吹きだしてしまう。
「笑いごとではない。少し本気をだすとこうなるからイヤなんだ」
スウは頬をふくらませて不服そうだ。裏を返せば、それほどきわどい勝負だったということ。ほんの紙一重で死を切り抜けたことを、スウは気づかせまいとしているのだ。
ぼくは真顔でスウを見る。
「新しい革靴をプレゼントするよ。今度は、破れないのを」
スウは一瞬、元のような表情になったが、すぐに顔をそむけて、
「当然だな」
かわいくない。
「立てるか?」
手をさしのべてくる。かわいい。
「メンター・ユウドには、いつものように実地検分をお願いしなくてはな」
いつものように、という部分に皮肉がこめられている気がする。
「実地検分こそがメンターの仕事だよ」
ひとまわりほども小さい手のひらを握り返す。どこにあれだけの力が秘められているのか、いつもぼくは不思議に思う。
床に盛り上がるフードとマントは、生命の残滓すら感じさせない。それはただの物体だ。何よりあれだけ深く斬りこまれ、一滴の流血すらないのだ。
少し難しい、専門的な話になる。ぼくの見る魂とは、肉体を制御する中枢、機甲学科ふうに言えば駆動系である。駆動系=魂は長く人にしか存在しないと思われてきた。例えば昆虫に駆動系はない。昆虫の魂は、高揚しないのである。しかし、昆虫が生命活動そのものには支障を持つわけではない。ここから考えて、魂の実在が肉体の制御にだけ関わるものでないことは、明らかだ。
ある海洋生物に魂が発見されたとき、言語を統御する言語系が予言された。両者を結ぶ共通項は、環境への単純反射ではない意志伝達を行うところにある。言語を持つことが特定の実在を他の実在から切り離して特別にする証拠であり、グラン・ラングの深奥に迫る大きな問題提起だった。だが、言語という枠内で思考する我々が、その外側から己の枠組を知覚する方法があるのか。ときに言語系は、永遠のファンタジーと揶揄されるゆえんである。無論、ぼくはこの観点からのアプローチをあきらめていない。
魂を知覚でき、かつ言語を持つこの物体は、間違いなく人であるための最低要件を満たしている。異形ではあるにせよだ。ぼくはしゃがみこんで、フードの表面に軽く触れる。途端、煤のような黒い飛沫が舞い上がった。羽虫を思わせる音を立てて宙空を漂うと、やがて完全に消滅する。床に残されたフードとマントは、もはや人の形を失っていた。
「検分は終わっていたのか?」
スウが若干の侮蔑をふくんだ(ように聞こえる)声でぼくに問う。
「もちろんさ」
ぼくとて、毎回をだしぬかれているわけではない。スウに向けてかざした小瓶の中では、煤が生きているかのように旋回している。
「これを史学科か生物学科で調査してもらえば――」
言葉を途中で切ったのは、持ち前の弱気ゆえではない。新たな気配を感じたからである。それはスウも同じだった。背筋を伸ばし、まるで石壁を透視できるかのように遠くを見る。
「ドミトリの方だ」「ドミトリだな」
検証の回数こそ少ないが、ぼくとスウの意見が一致したときの精度はほぼ100%だ。マアナことが脳裏をよぎった。もしかすると、こっちが陽動だったのか。
ふたりは同時に駆けだす。階段を跳びおり、中庭を走りぬける。スウがときどき振り返りながら「もっと早く」と言いたげな視線を投げてくる。
加齢による基礎体力の低下がうらめしい。置いていってくれ、とも言えない。さきほどと同じ力量の相手だとすれば、どちらが欠けても退けることは困難だ。
全速力で新棟の前を駆け抜けると、ドミトリの玄関にふたつの人影がある。
うごめく赤い髪と尖った両耳。
対峙するのは、丸眼鏡の寮長。
横たわるのは、絶望的な距離。
注意をそむけるために大声をあげるいとまもあらばこそ、赤毛の怪人は可憐なる我らが寮長へと飛びかかった。
ぼくの数歩先を走るスウの刀が、むなしく空を薙ぐ。
鈍い破裂音。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
怪人の後頭部へ、足の甲を巻きつけるような上段蹴りがヒットしたのである。
続いて、くずおれるその水月へ、超々至近距離からの正拳突きが、文字通り背中へと突き抜けた。
羽虫の音をたてて黒い気体と化す怪人の向こうに姿を現したのは――
寮長だった。
「あら、おかえりなさい。門限後の外出に関する規則、ご存知ですよね?」

ファイト・クラブ


ファイト・クラブ


フィンチャー作品は大好きなのに、なぜか今までファイト・クラブだけ見てませんでした。実は数年前、「高天原勃津矢って、タイラー・ダーデンがモデルですよね」と言われて、かえって見づらくなったのです。今回、初めて視聴しましたが、プログラマー系とかクリエイター系の職業についている人や、映画を見るとブログに評論めいた感想を書かずにはいられない人や、運動なんか全くしないけどプロレスや格闘技やグラップラー刃牙は好きみたいな人がすごい褒めそうな、ある種の男根至上主義、痩せ男のマッチョ願望を具現化したような内容に、鏡に写った自分を長く見るような感じでムズムズしました。積極的な発信をする文系層を狙い撃ちにしていて、ネットでは激賞の評が多く見られるのに、一般的にはいまいちマイナー感があるのは、それが理由なんでしょうね。世間的な評価が定まらないうちに見ればよかった。ムズムズする。

ソルト


ソルト


二転三転するシナリオはすごい面白いんだけど、イヴリン・ソルトがジェイソン・ボーンにしか見えなくて困った。続編を匂わせる引きもすごいボーン・シリーズっぽい。でも、出生秘話も終わったし、風呂敷も最大に広げたし、続くほど駄作になっていきそう。中共を転覆させるくらいしか、もう残ってないよなあ。でも、アジア人が敵だと画面が貧弱になるんだよなあ。

MMGF!(1)

ペルガナ市国は半島の先端、ペルガナ史跡群と呼ばれる古代遺跡を覆うように成立した国家である。「鋤を入れれば遺跡に当たる」と言われ、古代遺跡をそのまま住居とする一帯も見られる。観光と学術研究がペルガナ市国の主産業であり、ふんだんに与えられた過去の遺産が国民の気質を穏やかにしている。
悪く言えば進取に欠け、国家プロジェクトであるはずの発掘と研究も一向に進みはしない。
なので、気持ちのいい晴れの日に、ショウ・アンド・テルと称して史跡群に連れ出したぼくのプロテジェが、歴史的な発見をしてしまうことも、実のところまれではない。
暖かい陽光に背中をあぶらせながら古代の生活へ思いを馳せているところへ、不吉な影が差す。
顔を上げると、一千年の空想もふっとぶ仏頂面の少女がにらみつけていた。
「メンター・ユウド」
小さな造作の顔なのに眉だけが太く、それが釣りあがるととても怖い。
動揺を見せまいと、ぼくはゆっくり膝の埃をはらって立ちあがる。
「何か問題でもあったのかな、スウ・プロテジェ」
動揺を見せないことはメンターにとって、いちばん重要な資質だと思う。けど、ぼくの声は少し裏返っていた。このプロテジェのことは、我がクラスを取りまとめるモニターとして信頼している。しかしながら、そのまじめ極まる仕事ぶりがぼくのいい加減なところを非難しているようで、ときどき苦手なのだ。
ぼくの無為へ何か批判を加えでもするように、スウは片方の眉を上げる。
けれど、彼女の発言はモニターとしての分を外さないものだった。まじめなんだよな。
「年少組がまた何か見つけたようですので、メンターの実地検分をお願いします」
また、というところに力がこめられる。やっぱり暗に非難されているのかもしれない。確かにここのところ、教室で講義をした覚えがないから。
「了解した。案内してくれるかな、スウ・プロテジェ」
「こちらです、メンター」
鷹揚に立ち上がると、後ろに手を組んで後をついてゆく。
スウはぼくよりも頭半分ほど背が高いので、横に並ばないように注意しなくてはいけない。もっとも、彼女がとくべつ高いというより、ぼくが低いんだ。狭い遺跡の入り口を這い入るには便利だけれど、威厳を保つには不便だ。
歩調に合わせ、一本にくくったスウの赤い髪の毛が馬の尻尾のように揺れる。
まるで時計の振り子みたいに規則正しく左右に揺れるので、ぼくは眠気を思い出す。
それにしてもいい天気だ。適度に暖かくて、昼寝にはもってこいの。
ぼくは空を見上げる。
ペルガナ市国の条例は、一般住居を平屋建てにすることを定めている。人口に比して土地がふんだんにあることと、何より古代の建築物との調和を乱さないためである。
だから、空がおそろしく広いのだ。
天球、という言葉がぴったりで、あらゆる方向へほとんど際限なく広がっているように見える。
ここで研究職に就くもののご多分に漏れず、ぼくも元々は留学組だ。初めてこの土地に着いたときの感動は、いまでも鮮明に思いだすことができる。
黒い森を越え、木製のやぐらを尻目にし、街道の果ての果てで乗合馬車を降りたとき、あまりの膨大な空間に圧倒され、思わずその場にへたりこんでしまった。
緑の丘々の稜線は天球の湾曲に沿うように、その奥に横たわる真っ青な海は水平線を無限に広げている。
ぼくは常々、自分のことを感情的というよりは、理性的な人間だと思っている。しかし恥ずかしながら、最初の呆然とした気持ちから醒めたぼくは、そのとき少し涙ぐんでいた。
でもそれは、この土地を訪れる者のうち、とびきり珍しい反応というわけではないらしかった。乗合馬車の御者がそばへやって来て、口ひげと皺の中の笑顔から座りこむぼくに片手を差し出す。
そして、こう言ったのだ。
「ようこそ、故郷へ」
なま白い手を握り返した赤銅色の力強さに、もう予感がしていた。
ぼくはきっと、この国で一生を終えることになるにちがいない。
どすっ。突然のやわらかい感触。
「どうかしましたか、メンター・ユウド」
どうやらぼくは思い出に浸りすぎていたらしい。
立ち止まるスウに気づかず、背中にぶつかっていたのだ。失態である。
「ごめん、ちょっと考えごとをしていたんだ」
ぼくが深遠で高尚な思考をめぐらせていたと、このモニターが誤解してくれることを祈った。
だが、ちらりと目をやった彼女の頬が紅潮しているのは、どうやらぼくの試みが失敗に終わったことの証明らしい。怒っているのにちがいない。
怒ったスウ・プロテジェは、とても怖い。
ぼくはあわてて気をそらそうとする。
「あそこがそうかな」
指さした先には、ぼくのプロテジェたちが集まって何やらワイワイと騒いでいた。
ペルガナ市国の教育システムは、ぼくの生まれたところとはだいぶ違っている。いちばん特徴的なのは、あらゆる年齢の子どもがひとつのクラスにいることだろう。ちなみに、ぼくの受け持ちクラスには、六歳から二十歳までが同居している。
あまり期待をせずに歩み寄る。経験則(膨大な)から判断すれば、校外実習の際にプロテジェが当たりを見つける確率は、千にひとつくらいだ。手をさしいれたら、兎の巣穴だったこともある。ぼくは噛まれた。スウは噛まれなかった。研究の足しになるような遺物が見つかればいいんだけど。
ペルガナ史跡群から発見される道具、武器、生活用品、住居に至るまでがすべてひとつの共通した言語によって統御されているのは周知のことだ。
人類が世界の各地へと広がってゆく前に用いられていた、大統一(グラン・)言語(ラング)だとされている。ぼくたちが日常で使う言葉とは異なり、発した瞬間に現実へ物理的な干渉を行う。
単語や文法の概念もいちおうは存在するが、例えばひとつの単語の意味を担保する音声の幅は、ぼくたちの認識からすれば無限に近いほどの諧調がある。
文法にしても同一の単語が音声の違いによって品詞をたがえたり、おまけに構文が存在しないものだから、理論通りに運用することは極めて難しい。むしろ音楽に近いと表現したほうがいいくらいだ。
事実、古代人の交響曲だと考えられていた半刻近くにおよぶ音声記録が、ひとつの名詞を修飾する関係詞節の羅列に過ぎないことが判明したこともあった。その日、ぼくは寝こんだ。とかく、グラン・ラングはぼくたちの日常感覚を超越する。
だから、「神様のことば」なんて称されたりもする。信心深くないペルガナ市国の住民の言うことだから、揶揄も相当にふくまれている。だが、それは案外、遠くない例えなのかもしれない。ぼくにしたところで、学園に奉職してからたっぷり十年はグラン・ラングを専門に研究しているのに、まだその端緒についた気さえしない。
グラン・ラングの研究者にのん気な性格の人物が多いのも、うなずける。あくせく動いたところで、それは無限を前にすればゼロと同じだからだ。一生涯のうちにすべてが解明されることは、まずありえない。手の届く範囲だけをしっかりとやって、時が来れば次の世代にバトンを渡す。人間ができるもっとも偉大なことは、永遠を前にこうべを垂れる謙虚さだと知っているのだ。だから、ぼくのサボリも人間の本質へ迫る哲学的な内容を多分にふくんでいると考えてほしい。
どうやらプロテジェたちは、岩と岩の間に隠れた亀裂をのぞきこんでいるらしい。身体を横にすれば通れそうだ。
「見つけたのはだれかな」
声をかけると、みんないっせいにふりむく。
おもはゆい。大勢を前にメンター然としてふるまうことが苦手だったりする。
「ぼくです!」
最年少、六歳のシャイがいきおいよく手をあげる。信頼とあこがれしかない、子犬のような目でぼくを見つめてくる。
ぼくは他人から信頼されることがつらい。いつか自分の中の悪い部分が、それを裏切る気がするからだ。
正直であることは美徳だと思う。けど、正直にふるまうことができるのは、己の本性が善良であることに疑いのない人間だけだ。
ともあれ、少なくともこの瞬間、ぼくはメンターとしてプロテジェたちの前に立っており、それを演じる義務がある。
ぼくはシャイの頭に手をおいて、くしゃくしゃとかきまわす。
「よくやった。これはペルガナ市国の歴史の中で、もっとも偉大な発見のひとつになるにちがいないよ」
スウの視線を感じる。その顔には「前も同じことを言いましたよ」と書いてある。
けれど、賢い彼女はプロテジェたちの前でぼくに恥をかかせたりはしない。
言ってみれば、これはぼくの決め台詞だ。とかくメンターは衆人環視の中でコメントを求められがちである。だが同時に、繰り返しの日々に生きるメンターが対応するべき状況もさほど多くはない。場面に応じたいくつかの決め台詞を持っていれば、動揺による権威の失墜を避けられる。
しかしその定型文も、シャイ少年と一部のプロテジェたちには大きな感銘を引き起こしたようである。集団を前に重要なのは、異なった解釈の余地がある言葉を使わないこと。
ぼくは他人の視線を意識すると、動きが速くなる傾向があるようだ。状況を早く終わらせたいからだろう。はしっこい小男ほど、権威と遠いものはない。
後ろに手を組み、ことさらに悠然とプロテジェたちが取り囲む亀裂をのぞきこんでみせる。どうやら、地下道の天井に開いた亀裂らしい。
ぼくがひと言を発すると、壁が発光を始める。心の中でくちぶえを吹く。まだ生きている遺跡だ。取り囲むプロテジェたちが、おー、と声をあげる。おもはゆい。ぼくはただ、グラン・ラングで「光」と言っただけだ。
けど、プロテジェたちが驚くのも無理はないかな。ただの単語でさえ、メンターなのに使えない人、多いんだから。文節単位以上のグラン・ラングを発話することを施術と表現するが、意味のある文章を構成すること自体が並大抵ではない。
ペルガナ史跡群の遺跡は、壁面そのものが照明になっていることが多い。しかし、ここまで完全に機能しているものはめずらしい。地下道はわずかに湾曲しながら、奥へと続いている。
ふつう、どこかで埋まったり、途切れたりしているものだけれど……。
「刀を持ってくるんでしたね」
いつのまにかスウが隣に来て、亀裂をのぞきこんでいる。小さな顔が、ぼくのすぐそばにあった。若さゆえの無防備さに、心音のトーンが変化するのを感じる。できるだけ不自然にならないようにゆっくりと身をもぎはなすと、できるだけ明確になるよう言葉を選びながら、プロテジェたちに宣言する。
「この遺跡は第一級のものであり、ただちに調査を開始するべきと判断します。年少組はこのまま帰宅しなさい。年長組は学園へ戻り、事務へ調査チームの編成を依頼します。その後は帰宅してよろしい。予備調査のための斥候部隊はメンター・ユウドと――」
シャイが目を輝かせて跳びあがりかけるのに、
「志願します」
間髪を入れず、スウが手をあげる。冷静だ。そして、的確だ。
「よろしい。年長組は遭難等、万一の事態のために、メンター・ユウドとスウ・プロテジェが先行していることを同時に伝えてください。では、解散します」
プロテジェたちは三々五々、与えられた指示を持ってこの場を離れていく。シャイがうらめしそうに何度もこちらを振り返ったが、もどってくることはなかった。
「さて――」
スウが切り出す。にっこりと微笑んだ彼女は、猫のような好奇心でいっぱいだ。
「はじめましょうか、メンター」
二人きりのとき、彼女のほうが主導権を握っているような気がするのは、ぼくの気のせいだろう。きっと、劣等感がそう感じさせるんだろうな。
「少し高さがある。ぼくが先行しよう」
短くグラン・ラングを発すると、ぼくとスウの周囲を風がとりまく。
亀裂に手をかけて内側へとびこむと、ぼくの身体は重力を知らないようにゆっくりと下降してゆく。靴底で床の強度を確かめ、通路の前後を確認する。
「大丈夫みたいだ。おいで」
スウは亀裂に身体を押しこむのに四苦八苦している。凹凸がありすぎるんだよな。
やがて落下傘のようにスカートを広げながら、放射状に床のほこりを舞わせて着地する。
「もしかして、見えました?」
「いまのところ、魔物はいないみたいだね」
ぼくはスウの質問にとぼけた返事をかえす。
「それは何よりです」
スカートについたほこりをはらいながら、スウが言う。顔が紅潮しているのは、やっぱり怒ってるんだろうな。
地下遺跡の中に生態系を持つ生き物全般を、ペルガナ市国では単に魔物と総称する。言語学者は多いが、生物学者は少ないからだろう。
地上へ出てくることはほとんどなく、人に危害を加えることもまれである。過去の被害報告は遺跡の調査隊に限定されており、魔物にとっては要するにぼくたちのほうが侵入者なのだ。
壁が発光しているとはいえ、それは光ごけ程度のもので、かろうじて視界を約束してくれるだけだ。本は読めないだろう。ときどき、通路の奥からうなり声のようなものが響く。それが風鳴りなのか、何か生き物によるものなのか、わからなかった。
「やっぱり刀、持ってくるんでしたね」
すぐ後ろを歩くスウが、心細そうに言う。
「それより、荒事にならないことを祈ろうよ」
実際、魔物の一匹や二匹、腺病質のメンターひとりでも簡単に撃退できるだろう。でも、そういう筋肉質の発言をしないのがぼくのスタイルなのだ。
グラン・ラングを殺傷に用いることができるのは、研究者ならば誰でも知っている。けれど、殺傷を目的とした論文は受理されないことも学会における暗黙の了解になっている。もちろん、方便に過ぎない。心意気、みたいなものだ。刃物は、野菜も切れれば人も切れる。すべての研究は裏腹に、真逆の側面を抱えている。大事なのは、どちらをより多く見たいか、ということだ。
通路は右に曲がりながらわずかに傾斜し、地の底へとつづいているかのようだ。歩けど歩けど、どこかに到着する気配はない。
古代遺跡には大きく分けて、私的な住居と公共施設とがある。当たり前のことだ。当たり前のことだが、数千年を経て、古代の人々もやはりぼくたちと同じ人間だったのだなあ、という感慨をいつもおさえることができない。しかし、この遺跡が何の目的で建設されたものなのか、これまでの経験との類似点を見つけだすことがいまだにできないでいた。
進むにつれて天井が低くなり、圧迫感をもって頭上にのしかかってくる。閉所恐怖症にはつらいだろうな、これは。あるいは、背の高い青年男子には、かな。
ほどなくして、スウが立ち止まった。
「予備調査の役割は、もう十分に果たせたと思われますが」
せめてこの遺跡が建設された目的がわからないと戻れないよ――そう言おうとして振り返る。低い天井へ前かがみになったスウの太い眉が、情けなく垂れ下がっている。ぼくはなんだか愉快になって、思わずメンターらしくないからかいをする。
「なあんだ、怖いのかい」
たちまち薄明かりの中でもわかるほど、スウは真っ赤になった。
「いえ、別に」
ぷい、とぼくから視線をそらす。ふだんとは違って、抑制の裏がすけて見えるのがおもしろい。逆襲の機会を逃さじとまわりこんで、視線をつかまえる。
「やっぱり怖いんだ」
「こわくなんかないです!」
めずらしく、感情的に声をあらげるスウ。見れば、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。しまった、調子にのりすぎたか。
この娘はモニターとして、他のプロテジェたちのみならず、ぼくの保護者をも自認しているようなフシがある。優等生は、演じようとしている役割を否定されることにいちばん傷つくのだ。
ぼくはあわててメンターへと退却した。
「すまない、スウ・プロテジェ。いまのは撤回する」
スウの感情から肩書きを利用して逃げたのだ。ずるいやり方だ。
しかし、スウはぼくの作戦には気づかないようだ。いや、賢い彼女のことだから、気づかないふりをしているのか。
「いいえ、私のほうこそ、自制心を失いました。ゆるしてくださいますか」
厳しい表情のスウ。ゆるしてもらうのはこっちなのだが、ぼくは立場を悪用して主客をひっくりかえした。ゆっくりうなずくと、見ているこちらの胸が痛むほど、スウは表情をゆるませる。
「ひ、ひとつ言わせていただきたいのは」
なぜか、スウはひどく言葉をどもらせた。喉の動きでつばを飲みこむのがわかる。
「私はメンターといっしょならば、何も怖いことはありません」
声がふるえている。ここまで動揺したスウを見るのははじめてだ。遺跡の中には、悪い病気が閉じこめられていることもあるという。その影響かもしれない。早く調査を終わらせなくちゃな。
安心させようとして、ぼくはできるだけの笑顔で両手をあげてみせた。
「さあ、調査の続きをしよう。きっともう、長くはかからないよ」
先へ進もうとするが、スウは両手を組みあわせたまま固まっている。
しまった、笑顔が不自然だったか。しょうがない。できるだけやさしくと努めながら、譲歩を提示する。
「君がどうしてもイヤなら、学園から本隊がやってくるまで調査は中断しようか」
スウの口元がなぜかへの字に曲がり、幾度も目をしばたかせる。
「いえ、続けましょう。きっと長くはかかりませんから」
大股にぼくを追いこすと、肩をいからせるようにしてずんずんと奥へ歩いてゆく。
メンターの習い性かもしれないが、人の感情を己の利に誘導しようとするのは、ぼくの悪癖と言える。どうやら、スウを完全に怒らせてしまったらしい。
あぶないよ、と声をかけるが、ふりむきもしない。
ぼくは、悄然とついてゆくしかない。ああ、二人きりでよかった。つま先をながめながら少女のあとをついてゆく小男に、不審者以外の名前をつけることは相当に骨の折れる作業だろうから。
どすっ。突然のやわらかい感触。
気がつけば、ぼくはまたスウの背中にぶつかっていた。
「メンター、見てください」
状況に負けて思わずあやまってしまいそうになるのを、その声色が止めた。
通路は、その突き当たりで広大な空間へと変じていたのである。
おそらく、この広間の外側を巻くようにして、ぼくとスウは下ってきたのだろう。
床は土でむきだしになっていて、壁面はまぶしいほどに発光している。薄闇になれた目には、少々きびしいくらいだ。
広間の中心には、形も大きさもふぞろいの透明な円柱が、不規則に林立している。ぼくはくちぶえをふいた。
「こりゃ、当たりだ。シャイ少年の名前が教本に載るかもな」
きょとんとした顔でスウがたずねてくる。
「どうして当たりだってわかるんですか」
好奇に見ひらかれたスウの瞳がすこし赤くなっているのが気になったが、ぼくは大仰にため息をついてみせた。
「学力優秀なきみがこの光景から答えを見つけ出せないのだとしたら、ぼくのクラスにぼくの講義を理解しているプロテジェは、ひとりもいないだろうね」
優位であることが明らかな場面で皮肉っぽくなるのは、ぼくの悪い癖その二だ。
「講義中、資料じゃなくて、何か別のものを見ていたんじゃないのかい」
この言葉に、スウはたちまち真っ赤になった。クラスを預かるモニターとしての矜持が、このような遠まわしの侮辱に耐えられないのだろう。
「いえ、わかります。ちゃんとメンターのお話は聴いていましたから。古代人の公共施設に特徴的なものは、玻璃です」
祖母に育てられたというスウは、ときどき妙に古い語彙を使う。学園の外部理事だったよな、お祖母ちゃん。血統だな。
ぼくはスウのあとを引き取った。
「その方法は失われ、ぼくたちは粗悪なコピーを使うばかりだが、水晶は古代人にとってエネルギーを蓄積し増幅する一種の装置だったと考えられている。一般的に、遺跡のいちばん深いところに水晶はすえられ、全体へとエネルギーを供給する。数ある鉱物の中で、特に水晶が選ばれる理由は――」
「グラン・ラングとの親和性が高いからです」
じろりと視線をやると、あわててつけくわえる。
講義の中でならば、スウはぼくにとって極めて御しやすい相手と言えるのだった。
「教科書的には満点だけれど、意味がわかって言ってるかい?」
スウがぶんぶんと首をふる。範囲を定めた暗記ではいつもクラスいちばんなんだよな、この娘。
「グラン・ラングは現実へ干渉する。とはいえ、あくまで一過性の現象を引き起こすにすぎない。グラン・ラングの効果を固着させ、好きなときに取りだすことができるのが、水晶の特徴なんだ。エネルギーの蓄積や増幅も、その一環に過ぎない」
「なんでもできるんですか」
「理論上はそうみたいだね。グラン・ラングで記述された情報を集積するサーキットだから。古代人は紙を使わなかったそうだ」
「どうやって勉強したんでしょうね」
首をかたむけて腕組みするスウ。どうやら調子がくるっているのはぼくだけではないらしい。
「いま何の話をしているっけ」
「水晶ですね……ああ」
ぽん、と手をうつスウ。じろり、とにらみつけるぼく。
「これが口頭諮問なら落第点をつけているところだよ。紙の情報は少なくとも物理的には力を持たないし、量も非常に限定されている。質にしたところで、ぼくたちの日常語とグラン・ラングとの間には比較できないほどのへだたりがある。ぼくたちだって、膨大な情報の塊からできていると言えないこともない。もし、グラン・ラングのすべてが解明されるようなことがあって、無限の情報を蓄積できる水晶がどこかに存在するとすれば、生命をゼロから作り出すことも可能と主張する論文を読んだこともあるよ」
もっとも、ありえない仮定をふたつ組みあわせたその論文は、研究というよりは小説、というお決まりの非難でどこからも相手にされなかったみたいだけれど。
「おーい、生きとるかー」
いくつかの足音とともに、妙な抑揚の声が聞こえる。
どやどやと広間に闖入してきた白衣のプロテジェたちをかきわけて、声の主が近寄ってくる。黒髪に黒い上着、黒い巻きスカートのその女性は、肌の色も真っ黒だ。羽織っている白衣以外は、すべて黒いという徹底ぶりである。
「あいかわらず夜のように暗いね、キブ」
「アンタの性格ほどではないな、ユウド」
このやりとりはお決まりである。
だが、物忘れのように毎回、キブは大きな胸をゆらして豪快に笑う。こぼれた歯がすばらしく白く見える。これだけ黒ければ陰影も消えて、身体の起伏もわからなくなりそうなものだけれど、なんというか、こう、非常に肉感的な女性なのだ。
「おう、水晶林があるやん。こら、有望かもしらんな」
白衣の上からでもわかる大きなお尻をふりながら、キブは水晶のほうへとかけてゆく。
キブは史学科のメンターで、ぼくたち言語学科の人間とは切っても切れない関係にある。グラン・ラングには文字が存在しない。なので、遺跡で発見される遺物(レガシー)がなければ研究はおぼつかなく、グラン・ラングの知識がなければ、レガシーを精査することはできない。レガシーの中には、個人を特定するための起動ワードが封印されていることも少なくないのだ。
だから、史学科と言語学科の研究活動は、非常に相補的だったりする。公的・私的の区別なく、懇親を深める機会は多い。スウが研究員たちに取り巻かれているのが見える。なぜか、スウは史学科の男性研究員たちに人気があるのだった。
その様子を見ていると、妙に胸のあたりがざわざわする。まあ、容姿も端麗で、応用力に欠けるきらいはあるにせよ、聡明な少女だ。とりまき連ができるのはふしぎなことではない。
「ちょっと、こっち来てくれへんか」
袖をひっぱるキブ。水晶林までぼくを連れてゆくと、声を低くして耳うちする。
スウが顔をあげてこちらを見ているのが気になった。
「調査隊までひっぱってきてアレなんやけどな、この遺跡、お手つきや」
ぼくは全身が脱力するのを感じる。
「確かなのかい」
「まちがいないわ。見てみ」
キブが親指で示した先には、切り株のようになった水晶があった。視線をあげると、ところどころに同様の切り口が見られる。
「インクルージョンはすべて持ち出されてるみたいやな」
インクルージョンは史学科と言語学科に共有される隠語、一種の専門用語である。簡単に言うと、中身の入ったバケツのようなもの。中身はグラン・ラングの音声データであったり、レガシーであったり、抽象・具象さまざまだ。
そして、グラン・ラングを吹き込む技術が現代に継承されていない以上、空の水晶はただの鉱物にすぎない。
「はずれかあ」
嘆息して天をあおぐ。
「せめて、アルマのひとつくらいはと思ったんだけどなあ」
攻撃に特化したグラン・ラングが吹き込まれたレガシーを、特にアルマと呼ぶ。必ずしも武器の形をしているとは限らないが、とにかく多く産出する。古代人は、きっと戦争が大好きだったのだ。
「直接、研究室へ来てくれたらよかったんやけど、アンタのとこのプロテジェが事務を通してしもたからな。レポート出さなあかんで。あと、うちの連中へするペイのことも忘れんとってや。なんも成果があがらんかったら、内規ではアンタの自腹になるさかいにな……って、聞いとんのかいな、ユウド」
実際、ぼくは半分も聞いていなかった。
天井から巨大な水晶が、つららのようにぶらさがっているのに気づいたからだ。
薄紅色をしたその水晶の先端に、何かが入っている。
異変に気づいたキブが、ぼくの視線の先を追う。
「うひゃあ、ローズ・クォーツや! それに、見てみい、あの大きさ! あんなデカいの見たことないわ」
抽象・具象にかかわらず、内包するものの性質によって水晶は色を変えることがある。しかし、これはちょっと群を抜いている。
「なあ、先っぽに入ってるの、人に見えないか」
キブは手のひらを水平にかざしながら、目を細める。
「ちょっと透明度が低い水晶やから、はっきりとはわからへんけど……言われてみたらそんな気がせえへんこともないな」
「ふたりでこそこそと何をしておるのだ」
高圧的な低い声をかけられ、ぼくとキブは同時にふりむいた。
スウが腕組みをして立っている。制服の袖は肩口までまくられ、スカートは先ほどの半分ほどの長さにたくしあげられていた。
服装よりも表情だ。太い眉と両目は吊りあがり、唇の片側は挑戦的に歪んでいる。
ぼくはスウの腰に視線を送る。
そこに――
刀をはいていた。
ぼくはごくり、と唾を飲みこむ。かろうじてしぼりだした声は、みごとにかすれていた。
「それは、異装だよ」
「ふん、最近のメンターは学則も暗記していないとみえる」
スウは胸元にこぶしを引き寄せると、大仰にふりひらく。
「プロテジェ各人の特質を引き出すことに寄与すると客観的に判断される場合、学園の制服はその変形を認めるものとする!」
わあ、その条項、「客観的に判断する」のがだれかわかんないんだよなあ。やっぱり、「受け持ちのメンターが」と読むべきなんだろうなあ。
スウの背後で、上気した顔の研究員たちが、歓声をあげる。何しにきたんだ、あいつら。もうしわけなさそうな顔でキブがささやく。
「ウチはいちおう、止めたんやで」
刃物を持つとこの娘は、性格がおだやかではなくなるのだ。
うん、ほんのちょっとだけ。
「あれだな」
腕を組んだまま、小さなおとがいでスウはローズ・クォーツをさす。元々の造作が変わらないせいか、ひどく凶悪な印象を受ける。もっとも、背後の研究員たちがぼくに同意しないことは、尋ねるまでもない。
「人が入っているな」
「本当かい?」
ぼくは驚いて、思わず聞き返してしまう。失態である。
「プロテジェの言を信じようとしない点は、愚かなメンターの常として聞き流すとして、私の能力に対する疑義が呈されたのは看過できぬな」
スウの目が細められる。おそろしい三白眼だ。
来るぞ、例のやつだ。
「我が視力の透徹なるは星をもとらえッ!」
両手を広げると、スウは右足を大きく一歩ふみだす。
キブが悲鳴をあげて背後へまわりこみ、研究員たちが「うおおーっ」と歓声をあげ、ぼくは背中から両腕をつかまれて立ちつくす即席の人間盾と化す。
「我が拳の精強なるは金剛石をも粉砕するッ!」
ふみこんだ右足を支点に回転しながら左足を引き寄せ、両手を高くあげながら見得をきる。
「我が知恵の深甚なるは世界の深奥へ至り――」
首をふりまわしながらさらに見得をきる。赤いポニーテールが少し遅れてついてくる。
「そして、我が剣技の精妙なるは全ての物質の形状をあまねく規定するッ!」
右手が束にかかり、匕首の切られる音がする。
「我が剣の意思にそむくものは己を非存在と心得よ!」
気がつくと、ぼくの鼻先に剣先の冷たい感触がある。見えなかった。
血はでていない。でていないが、数分後に鼻だけもげるような技をすでにしかけられたのかもしれない。いや、もしかすればうしろのキブが血ぬれの遺体となって地面に転がっている可能性すらある。刀をはいたスウに関して、ぼくはすべての希望的観測をゼロにして向きあおうと決めているのだった。
もはや謙虚のショウ・アンド・テル教材と化したぼくは、降参のあかしに手のひらを見せて、「わかりましたわかりました」としゃがれた声でくりかえした。
「少なくともユウド、貴様には実際に証明しておく必要がある」
スウは傲然のショウ・アンド・テル教材のごとく胸をそびやかし、ぼくの鼻先からローズ・クォーツへと剣先を移す。
「とりだしてやろう」
本当かい、と言いかけて口をつぐみ、ぼくはあやういところで命びろいをする。
キブがぼくの右肩にあごをのせてのぞきこみ、様子をうかがっている。どうやら、まっぷたつにはなっていなかったらしい。まだ。
「ただ、アレが人である可能性を残す以上、わずかでも中身を傷つけてしまうことは避けたい。わかるな?」
ぼくとキブはつりこまれて、もはやメンターとしての威厳もどこへやら、がくがくと首を縦にふった。尖ったアゴが、肩に痛い。
「危険をゼロに近づけるためには、私の身体能力を若干高める必要があろう。そこで貴様の出番というわけだ、ユウド」
口の端をゆがめるようにして笑う。わるい子になってしまった。
だが、スウが言うからには、その見立ては正しい。
以前、史学科研究員たちの悪ふざけ(きっと、特殊な性癖を満たすためだ)で、スウはさまざまの硬度を持つ素材を試し切りするハメになった。切れないものは当然なかった。自然石にはりつけた濡れ紙を両断したり、濡れ紙を両断せずに自然石を両断したり、度肝をぬかれる見世物だった。グラン・ラングと同じように、ほとんど物理法則に干渉しているとしか考えられなかった。どうやったのかを尋ねると、「通すか切るかの違いだけだ。貴様には見えないのか」とだけ答えた。ある研究員が、自分のうしろにおいた木材を切断してみてくれ、と申し出たときはしかし、鉄拳で答えた。「遊びで用いていいものと、そうでないものの違いもわからんのか。愚か者め」
傲岸不遜だが、大言壮語ではない。刀をはいていようといまいと、根っこの部分では人に対する愛情がある。
ぼくはうなずく。
「よし、やろう。君のことを誰よりも信頼しているからね」
スウは一瞬もとのような顔になったが、すぐに背中を向けてローズ・クォーツと向かいあう。
「言葉にする必要がないことは、言葉にせぬのが賢明だ。そして女!」
「はいッ!」
キブが直立する。
「ユウドから離れておけ。集中の妨げになるといかんからな」
キブはぼくの肩をぽんぽんと二回たたくと、研究員たちのほうへと下がっていった。
「倍は必要ない。さあ、やれ」
ほっそりとしたスウの身体に意識を集中させる。もちろん、やましい意味ではない。伸びた足と膝裏のくぼみは悩ましいにせよ、仕事と私的な趣味を混同しないのが大人というものだ。
グラン・ラングの研究分野はいくつかの大きなカテゴリに分けることができる。それぞれがさらに子や孫にあたる分派を持っており、いまや相当度に細分化されている。本来ならば、すべての分野を横断的かつ学際的にとらえなければいけないだろう。だが、いかんせん、母体があまりにも無辺大に広がりすぎているのである。それぞれを組み合わせたときの有機的な動きというよりは、各パーツの持つ意味へ個別に当たっているのが現状だ。
ぼくが専門にしているのは、「付与」と「維持」である。付与者(エンチャンター)にして維持者(アップキーパー)というわけだ。研究分野の選択は、どうも研究者の性格と大きく関与している気がしてならない。専門による性格占い、というわけではないが、少なくともぼくの親しい研究者仲間で両者の不一致を感じることはない。人であれ、物であれ、自分以外に干渉するのが「付与」と「維持」のグラン・ラングが持つ特徴である。性格占いの結果は、野次馬とおせっかいだ。
この分野に関して、じつはけっこう決定的な論文を書いたことがある。研究全体の方向性そのものを変えてしまうような。慣例ではあるにせよ、うちのボスとの連名で発表されたので、周囲の評価がぼくに対して高いとは言いがたい。けど、内心ではこの「付与」と「維持」の実質的な第一人者であると自負している。
論文内で便宜上、魂と名づけたものへ直接干渉することで、人の身体能力を一時的に高めることができる。これが、「魂の高揚」と表現するぼくの発見。ちょうど、自律的に燃焼するロウソクの炎を外部からの操作によって、一瞬だけ激しく燃えたたせるイメージだ。ロウソクの比喩は二重になっていて、やりすぎると疲労を通りこして寿命そのものを縮めてしまいかねない。
この発見の後、丸二日寝こんだ。研究者の倫理として、まず己を実験台にしたからだ。自分のエネルギーを自分に供給すると、暴発をまねくという貴重な体験である。あくまで「付与」は、外的な現象であるべきという教訓だ。
集中を極限まで高める。
視界の明度は暗灰色へ。
事物の輪郭は、闇色へ。
スウの内側に清浄な青い光輝の塊が浮かぶ。
網膜を焼くその美しい輝き――
これこそが、魂と名づけられた内なる燃えあがりである。
ぼくは低く言葉をつなぎはじめる。細心の注意をもって、音をつなぎ、抑揚をつなぎ、意味をつなぐ。ひとつ発音をまちがえてさえ、グラン・ラングは全く異なる解釈へと変じてしまう。
剥きだしの魂を前に、生殺与奪はぼくの上にある。
それが、スウの信頼のかたち。
青い炎が燃えあがり、光を増す。やがて純白の輝きへと変じ、両目を射る。
スウが視界から消滅する。
跳躍したのだ。ローズ・クォーツを頂点とする軌跡を描いて、着地する。
ぼくは反響する鍔鳴りで、かろうじて抜刀があったことを知った。
奇跡の一瞬は終わり、広間には静寂の音が残された。
振り返ったスウの額には、髪の毛が一筋、汗ではりついている。
「よくやった。成功だ」
その言葉を待っていたかのように、頭上でローズ・クォーツが破裂する。外部からの衝撃というよりは、内圧で吹き飛んだように見えた。赤い水晶の破片は、壁面からの発光に照らされて、さまざまな色を発しながら、雨の如くぼくたちへ降りそそぐ。キブと研究員たちは一大スペクタクルに歓声をあげたが、ぼくの目は別のものをとらえていた。
水晶の破片にまぎれて、人が降りてくる。降りてくる、と表現したのは、まるで羽毛のようにゆっくりとした落下だったからだ。
ぼくは息をのむ。全身をおおうまでに豊かな髪の毛は黄金のように輝き、のぞく肌は乳のように白い。永遠とも思える時間のあと、一糸まとわぬその人影は、ぼくの両腕の中へおさまった。
人間の子どもだ。ぼくは目をみはる。
そして女の子だ。ぼくは目をそらす。
小さな、氷のように冷たい手のひらが頬にふれる。魚のように濡れている。
その瞳は、燃える魂ように青く。
その唇は薔薇水晶のように赤い。
この世のものではない美を前に自失するぼくの首へ、冷たい両腕がまわされる。
深く、長い吐息のあと――
渇した旅人が泉へじかに口をつけるように、薔薇水晶の唇はぼくの唇を狂おしく吸いあげたのだった。

MMGF!(0)

「いま三十代ぐらいで、
 戦争でもないのに周りでバタバタ人が死んで、
 気づけば友人や仲間は誰ひとりいなくなって、
 寂しさより先に自分の番が来るのを怯えてて、
 世界に大義なんてものはなくて、
 人生に目的なんてものはなくて、
 生命に意味なんてものはなくて、
 痛めつけられた猫が車の下で傷に舌を這わせるときみたいな、
 ほんの小さな平穏と安堵だけがただ続けばいいと願っている、
 そんな君に向けた、萌え萌え学園ファンタジー」
 プロローグ
 我が敵は頭上にあり。
 血と汗は足元に滴りて、豪奢な模様をなす。
 我が脚は腰を貫き、尻でようやく釣り合えり。
 我れ、反り返るは古代人の弓の如し。
 すさまじいプレッシャーが、両腕を通して全身を伝わるのがわかる。
 魂を高揚させていなければ、おそらく最初の衝撃だけで潰れてしまっていたに違いない。
 まるで、轍に轢かれる蟷螂のように。
 またひとり、崩れ落ちる。倒れたあとも、手のひらは頭上へと向けられている。
 両手にあるプレッシャーがわずかに勢いを増す。
 背骨がきしむ音が聞こえる。
 灼けるような塊が腹部から喉へめがけて、駆けあがってくる。
 ここまでか。
 いや、まだだ、まだだ。
 味らいをひたす熱した海水を、無理矢理のみくだす。
 ここで倒れれば、すべてが終わる。
 一千年前、小さな集落から始まった寄る辺ない人々の歴史は、終焉をむかえる。
 いや、まだだ、まだだ。それは、いつか必ずやってくるのだろう。
 だが、いまではない。
 折れそうになる膝に力をこめる。
 ずっと、自分だけのために死ぬと思っていた。
 だから、もしここで命はてるのだとしても――
 誰かのために死ねることが、うれしい。
 またひとり、崩れ落ちる。
 遠くで、何かが砕ける音が聞こえる。
 吸い上げられるように全身から力が抜け、急速に地面が接近する。
 次瞬、視界は暗転し、耳の中にわずかなノイズだけを残す。

シュレック・フォーエバー・アフター


シュレック・フォーエバー・アフター


“No. You rescued me.” ホヤの幼生は脳を持つが、着床する岩場を見つけるとそれは消滅するという。脳の本来とは、移動がもたらす環境の変化に対応するための装置に過ぎず、生きる上で究極的な優先度は高くないらしい。ゆえに変化を求める脳にとって、誰かが側にいるとか、身の危険が無いとか、継続的な状態に対する幸福の感受性を維持するのは極めて難しい。無くしてから気がつくというフィクションが古来より普遍性を持つのは、必要が無くとも脳を維持しなければならない私たちに共通する生物学的な悲哀と直結している。確かに、アンチディズニーとして始まった1作目以外はただの蛇足だという指摘は正しい。確かに、3Dが導入されたことによって増えたカットが全体を冗長にしていることも事実だろう。だが、私は最後の台詞に涙が出た。すべて、この一言へたどりつくために必要な紆余曲折だったのだと私は信じる。でも、村人たちの幸福を笑顔で踏みにじるシーンにカーペンターズが流れたのには笑った。そういえば、カーペンターズって、映像で言えばディズニーだよな。