猫を起こさないように
年: <span>2011年</span>
年: 2011年

小鳥猊下慈愛のようす

 (白衣を着た小太り。どどめ色の頭髪。ハンドポケットに荒い呼吸音)年末慈愛……(つぶやきと同時に大量のビー玉が白衣の裾から床へとこぼれ落ち始める)

 毎年恒例、「小鳥猊下慈愛のようす」! nWo掲示板、mixi、twitterの三箇所での大々的な同時開催をここに宣言するものであるッ! 初めての諸君に説明しておこう! 「小鳥猊下慈愛のようす」とは、普段のすごい感じ悪い対応ぶりをやや緩和し、諸君からのあらゆるメッセージに全レスを約束する年末年始限定のファン感謝企画なのだ! 諸君はこの機会を最大限に利用して、更新の感想や愛の告白や萌え画像の寄贈などを行い、ネット界の珍獣・小鳥猊下との親睦を深めまくるがよいわ!

 あと、冒頭にて小生の白衣からこぼれ落ちたビー玉は、減少するアクセス数とフォロワー数、それに伴う同数の赦しを暗示しているッ! 貴様ら臆病な有象無象はこれを機会にnWoへアクセスし、慈愛に満ちた小鳥猊下をフォローしろ!

100,000年後の安全


100,000年後の安全


十年は人の暮らし、百年は時代の流れ 、千年は歴史の移り変わり。もしくは、一億と二千年経っても愛してる。百年を永らえた政策は無く、千年を存続した国家は無く、一万年を耐えた建造物は無く、十万年を生きた種はいない。ヒトの操作から完全に独立した廃棄物処理施設をつくる。なぜって十万年後には、いま我々がヒトと定義する存在は消滅しているだろうから。人類の滅亡が書生の諦念ではなく、プロジェクトの想定する必然として淡々と語られることに哲学的な眩暈を感じる。日本在住のヒトは、これこそを今年最後のマスト・ウォッチとせよ。

スカイリム


スカイリム


きょおホワイトランのさかばでカジートとアルゴニアンとけんかおしてしまった。カジートとアルゴニアンとぼくでけっこんだんぎおしていたらぼくがアエラがいいとゆったらカジートもアエラがいいとゆってアルゴニアンもアエラがいいとゆったからだ。ハチミツしゅでよっていたぼくわかっとなって「おまえたちわけものなんだからにんげんとわけっこんできない。トカゲとネコのしょじょまくおろうばのさいふみたいにビリビリにやぶいてろ」とゆったらカジートとアルゴニアンわまじぎれしてそれから3にんでそうぜつななぐりあいになった。とめにきたけいびへいのひとが20にんくらいまきぞえおくった。ブリーズホームにもどるとリディアが「ながいきしてくださいね、じゅうしさま」とゆいながらへやのくらいすみでパンをむしゃむしゃたべていた。「おかずもなしにパンだけたべておいしいの」とぼくがたずねると「なみだがじゅうぶんしおからいから、だいじょうぶですよ」とゆったきりリディアわしたおむいてしまった。そのよこがおおみるとぼくのむねわいたくなりました。なぜだろお。

エリックを探して


エリックを探して


『最も高貴な復讐は、赦すことだ』。 主人公の抱える苦しみや家族の課題がひどくリアルに描かれる一方で、その解決篇は釣りバカ日誌を思わせるいかにもフィクション然とした内容であり、強い違和感を覚えた。しかしながら、初老の郵便配達員を取り巻くどうしようもない現実をきれいさっぱり解消する方法など実際にあるはずもなく、この結末を虚構の効能として受容するのが正しい態度なのだろう。現実と虚構の継ぎ目をいかに自然に見せるかこそが、佳作と傑作を分けるのかもしれない。『バレエみたいだった。一瞬、自分のクソ人生がどこかに消えていた』。そう、素晴らしい文章を書けたとき、私も一瞬だけ自分のクソ人生を忘れることができる。しかし、素晴らしい文章とこのクソ人生との間には、何の関係も連絡もない。

ゼルダの伝説スカイウォードソード


ゼルダの伝説スカイウォードソード


すべての事象へ主体として積極的に関わり続けることで得られる濃密なゲーム内体験。シリーズを通じて、基本的にはただひとつ用意された正解を観察と道具の組み合わせで解決していくだけなのだが、それがこんなにも楽しい。しかし同時に脳裏をよぎるのは、はたして現在、この体験をどのくらいの人々が肯定的なものとしてとらえることができるのかという疑問である。ゲーム業界では2Dから3Dへの移行で一度大きなプレイヤーのふるい落としが行われた。また、昨今の携帯ゲー流行りはゲーム性の濃淡以前に2D回帰の側面が強いと考えている。ファミコンに原体験を持ち、3D移行の淘汰も乗り越えた30がらみの男以外の誰がこのゲームを手放しで喜んでいるのだろう。前作からすでに五年が経過した。たとえば小学校高学年で前作をプレイした新規層がいたとして、携帯電話を買い与えられ、据え置きゲームを卒業していておかしくない年齢だ。世界にふたつとない至高の工芸品を前にして、私に去来する感慨はこうだ。『おれたちは滅びていくのかもしれない』

メアリー&マックス


メアリー&マックス


映画の本質とは、歪んだ主観によって一方通行的に行われる誇張、脱落、歪曲である。全編にわたる均質なナレーションを通じて、時間軸のレールを踏み外さないまま、すべての事象はリニアーに進行してゆく。誇張せず、脱落せず、歪曲しない。原作の絵本などが別にあるのならば、その映像化としてはよくできていると言えるのかもしれない。しかし、これは映画ではない。

ミスターノーバディ


ミスターノーバディ


量子力学の観測問題を主題として可能性”未来”の”追”体験が、他ならぬ映画を視聴する我々の観測によってひとりの女性への思慕へと収斂するという構成は見事である。ネット上で感想をざっと確認したところ、不死世界での最後の死者という設定が生かされていないとの指摘が散見されたが、とんだモンモウ教徒どもである。不死者は時間を喪失しているがゆえに世界の観測者足りえず、最後の死者が息を引き取った瞬間に観測の主観を失った宇宙はビッグクランチへと時間を反転させる。全世界の見せ物だったはずの老人が、実のところ全世界を”見て”いたのである。人生の有限性には全宇宙的な命題が与えられているというこの結末は死を再定義すると同時に、逆説的な生命賛歌へと昇華されているのだ。せめてこれら2点を理解できなければ、この映画を視聴する意味はない。長々と講釈を述べたが、実のところ小生にとってSF作品としての評価は「ブレードランナー」や「ガタカ」を上回るものではなかった。SF的世界観の映像化が見たいのに、物語の大半が複数女性とのイチャラブ描写に費やされる。オチにはすごく感心したけど、そこに至る道程が長すぎたという印象。

ザ・ファイター


ザ・ファイター


ロッキーから連綿と続く「ボクシング映画に外れなし」の言葉通り、本作もまた傑作の部類に入る。そして予想通りというべきか、クリスチャン・ベールの狂気じみた役作りが根こそぎすべてを持っていく作品でもある。すでに視聴済みの諸君は、親による略取行為と強いられた共依存に対して、「家族の絆」という欺瞞に満ちたラベリングでの擁護を試みる本作を、私がきっと口汚く罵るだろうと考えていたに違いない。視聴を終えるまでは、確かにその気分はあった。しかしながら、エンドロールに登場した実在の兄弟を見た瞬間に、批判めいた気持ちはぜんぶ吹き飛んでしまった。この家族は、これでよかったのだと思う。

マクロスフロンティア劇場版


マクロスフロンティア劇場版


(天狗の面をつけた全裸の男が革張りの椅子にふんぞりかえって)何が「ぶっといミサイル」じゃ! チンポやろが! 何が「このバリア破って」じゃ! 処女膜やろが! 何が「小腸」じゃ! 子宮やろが! 何が「腸内細菌」じゃ! 精虫やろが! どれもこれも、あからさまにセックスを連想させようとしすぎなんじゃ! そのくせ、ちいともエロないんじゃ(萎えた陰茎のアップ)! ちいとも回春せんのじゃ(膨らんだ陰嚢のアップ)! どうなっとるんじゃい(天狗の鼻のアップ)! いますぐここに責任者を呼ばんかい!

輪るピングドラム


輪るピングドラム


誰かに届こう、わからせようという物語の、いかに醜く脆弱なことか。弱い物語は理解を得られた瞬間、消滅して意味を失う。理解されることが自己目的化したプログラムだからだ。強い物語は、不動の高みから人々を煽りたて、追い求めさせる 。そして作り手の胸の熾火に、触れるものすべては焼け落ちるのだ。西の情弱エリア在住のため、BDでの初視聴だが、第1話がすごすぎた。第2話以降も充分に群を抜いているのに、第1話があまりに研ぎ澄まされているため色褪せてみえるという凄まじさだ。棒高跳びの器具でハードル走をしなくてはならなくなった感じ。以後、情弱エリア在住の俺様の前では、ピングドラムのネタバレを禁止とする。