猫を起こさないように
時の澱
時の澱

大阪オフ始末書

 私はつねづね思ってきた。ホームページ所持者たちが現実に会合を行いその様子を報告としてアップするような場合、なぜあのような過剰に躁的な、過剰に荒唐無稽な、過剰に虚偽に満ちた――たとえば自宅からもってきたマシンガンで列席者を虐殺とか(銃刀法により厳しく民間への武器の流出を制限しているこの国においてホームページを作る程度の積極性をしか持たない彼ないし彼女がそのようなものを入手できる可能性は限りなくゼロに近いし、よしんばそれが本当のことであるにしても、大量殺人を行った彼ないし彼女が世界に名だたる我が国の警察の包囲の目を逃れ無事自宅にたどり着きパソコンを使ってのうのうとホームページを更新できるなど、まったく絵空事でしかない)、身長5メートルもあるような巨体の大男に(生物学的見地からもこのような骨格の直立歩行生物がこの惑星の重力下において発生できる確率を私は信じない)トイレで肛門を陵辱されたとか(ネット上において散見するホモセクシャリティについてはコンピュータ人口における男女比率の問題を想起させるが、実際のところこれは心理学的にみて肛門期に問題を有しておる青年が彼らの母親に本来の対象を持つ憎悪が女性一般に転移した結果の事象ではないかと推測する。これについては近々誌上に論文を発表するつもりだ)の記述がそれだ――ものになるのだろうか。その理由はどんな種類の真実にもためらわず目を向ける真摯さをわずかにでも持つ者には明白である。なぜならば、ホームページとは現実に存在する様々な負の要因の反作用として生まれてくるものだからである。つまりそれらは、彼ないし彼女の中で本来的に相容れないものとして処理されている自身の現実と自身の虚構がせめぎあう結果として生まれてくるひずみであると推定することができる。
 私は私の中にある妄想や、本当の自分はこうあって欲しいといった願望が、現実にこのようにある私という実存と切り離して考えることのできるものでは決してないことをすでに知っている。私のホームページがここにこうしてあるのも、私という惨めで不完全な人間がこの無慈悲な荒々しい現実の中で、個人の側からの何の入力も受けつけないように見える現実の中で、真に肉体的な意味で生きているからこそであることを私は実感しているのだ。だから私は現実を、起こったことをありのままに彫刻することを恐れない。それは私の連綿と続く意味のないように思える人生の先端において、その連続の結果として発生した事件であるからだ。私は一切の虚飾を廃し、事実のみを記そうと思う。 さて、では諸君にこのレポートのフォーマットについての理解を最初に与えたい。テレビに代表される様々のメディアが一秒の隙間もなく映像や音声を流し続ける現代に顕著な精神症に沈黙状態への脅迫的な忌避があげられるだろう。現代の対人関係において確かに存在するが、具体的な言及の難しいそれについて私は今回のレポートにおいて大胆に迫ろうと思う。以下私が”…”と表記した場合、それは現実的に5秒以内の沈黙が存在したことを意味する。以下私が”……”と表記した場合、それは現実的に6秒以上10秒以内の沈黙が存在したことを意味する。さて、では次の場合はどうだろうか。A「あ………」B「私は」。これは発話者Aの”あ”という母音の発声直後から発話者Bの発話まで10秒以上15秒以内の沈黙の時間が経過したことを意味している。これを理解されたい。
 用意はよろしいか? それでは始めよう。
  大阪駅中央口噴水前。
 A「………………」
 B「………………」
 A「………………」
 B「………………」
 A「あ……………」
 B「………………」
 A「あの…………」
 B「…はい?」
 A「あ、いや…」
 B「……×××さん、ですか?」
 A「はい! ぼくが、が(咳きこむ)、×××です」
 B「ぼく、××」
 A「…えっと……」
 B「………」
 A「…こちらの方は?」
 B「ぼく、のサイトのファンの女性です」
 C「どうも」
 A「あっ…………どうも」
 B「………………」
 A「………………」
 B「………………」
 A「………………」
 C「ふぁ(あくび)」
 A「あ。ど、どこか移動しましょうか」
 B「そうですね」
 A「…あ…どこにしましょう」
 B「ぼく、あんまり大阪知らないんですよ」
 A「あ、そうか、あ、そうか……えっと…」
 C「ふぁ(あくび)」
 A「じゃ、あの、適当な喫茶店でも、あの、行きましょう」
  大阪駅付近の喫茶店。
 A「………………」
 B「(鞄の口を開いて)これ、ぼくが持っ」
 店員「ご注文はおきまりですかぁ?」
 A「ええっと……(二人を見る)」
 C「(煙草を取り出しながら)ブレンド」
 A「あ……ぼくもそれで」
 B「……あの……ぼく、お金無い…」
 A「え…………」
 店員「…(しきりと靴底をコツコツいわせる)」
 C「ふぁ(あくび)」
 A「あ……ぼくが……あの…払います…」
 B「え…………ありがとうございます」
 A「……いや」
 C「ふぁ(あくび)」
 店員「…(無言で立ち去る)」
 A「………………」
 B「………………」
 A「………………」
 B「あ、おみやげ(鞄から取り出す)」
 A「あ、(中身を見て困ったような顔で)…ありがとう」
 B「いや、そんな」
 A「………………」
 B「………………」
 C「ふぁ(あくび)」
 店員「…(無言でコーヒーを置く)」
 A「…(救われた表情でコーヒーに手をのばす)」
 B「……熱ッ………」
 C「…(煙草に火をつける)」
 A「………………」
 B「………………」
 A「…(椅子から尻を持ち上げて聞こえないように放屁する)」
 B「………………」
 C「ふぁ(あくび)」
 A「(音を立ててカップをおいて)あの!」
 B「(びくりと身体をふるわせて)…なんでしょう?」
 A「あの、(異常な早口で)あなたのサイトはとても面白いと思う」
 B「……ごめん、ちょっと聞こえなかった」
 A「(真っ赤になって)あ、なんでも……」
 B「………………」
 A「………………」
 B「…(空になったカップにスプーンで砂糖を移す作業に没頭)」
 C「ふぁ(あくび)」
 A「あの!」
 B「(びくりと身体をふるわせて)…なんでしょう?」
 A「…出ませんか?」
 C「…(荷物を取り上げるとさっさと店をでる)」
 B「(泣きそうな顔で)あ……そうですね」
 A「(あわてて)出ましょう、出ましょう」
 店員「お客さん!」
 A「(びくりと身体をふるわせて)…なんですか?」
 店員「(不機嫌な様子で)お金」
 A「あれ、あ、(独り言のように)そうか……そうだよね」
 B「………………」
 C「…(店の外で煙草をふかしている)」
  観覧車下広場。
 A「……えっと。どうしましょう」
 B「……ぼく、大阪のこと知らないから……」
 A「あれ、あ、(独り言のように)そうか……そうだよね」
 B「………………」
 A「………………」
 C「ふぁ(あくび)」
 A「あ、あ! 歩きましょう!」
 B「……歩く……んですか?」
 A「(泣きそうな顔で)はい、歩くんです」
 B「………………」
 C「はぁ(ため息)」
 A「じゃ…………」
 B「………………」
  大阪駅周辺。
 A「………………」
 B「………………」
 A「………………」
 B「………………」
 C「…(煙草に火をつける)」
 A「………………」
 B「………………」
 A「………………」
 B「………………」
 C「ふぁ(あくび)」
 A「あ、あの!」
 B「(びくりと身体をふるわせて)…なんでしょう?」
 A「(早口で)××さんはどうしてサイトを作ろうと思ったんですか」
 B「……え……と……寂しかったから…」
 A「(困った顔で)あ、あ、奇遇だなぁ! ぼくも、も(咳きこむ)、そうなんです」
 C「…(煙草を取り出しながら顔を露骨にしかめる)」
 B「……へえ……」
 A「………………」
 B「………………」
 A「………あ……(独り言のように)大阪駅」
 C「…(舌打ちする)」
  大阪駅東口。
 A「……今日は……あの……会えて嬉しかったです」
 B「(びっくりした顔で)え、あ、もう…ですか?」
 A「(半笑いで)え、あ、まだ…ですか?」
 B「(うつむいて目をそらして)…ぼくも、嬉しかったです…」
 C「…最低(低くつぶやいて肩を怒らせながら雑踏の中に消える)」
 B「(泣きそうな顔で)あ、ああっ……」
 A「………………」
 B「………………」
 A「………………」
 B「………………」
 A「………………」
 B「………………」
 A「……あの、じゃ」
 B「(気の抜けた声で)…じゃ」
 A「(遠ざかる背中に)あの! ネットで!」
 B「…(振り返らず無言で立ち去る)」
 A「………………」
 4月25日の全できごと終了。

風雲! 変態ペニスマン

 スモッグが雲を形成する都会の曇天にのぼる広告用アドバルーン。それの見下ろす休日の電気街を足早に行きかう人々。かれらのうちの長身猫背に周辺部に汚れのこびりついたブ厚い眼鏡の青年が振り返り、長年コミュニケーションをまともに行わなかった者の持つ特有の生理的嫌悪感を誘う聞き取りにくいくぐもった声で、
 「ははは、HP? ヒューレットパッカードの略ですか?」
 突然まきおこる一陣の風。と、ともに現れた一人の大男の回転胴回し蹴りが青年の頸部を的確にとらえる。その威力に引きちぎられた首は唇の上にもはや顔の造作の一部となってしまっている皮肉なひきつれを残したまま焼けたアスファルトと平行に飛んで近くに停車していたゴミ収集車の後部に濡れた音をたてて着地する。残された身体は切断面から突き出た管やら神経やら肉そのものからとめどなく血を噴出しながら二三歩首を探すようによろよろと歩き、ちょうど向かいから来ていた思い詰めた表情の小太りの女性に衝突してひっくり返る。女性、数秒ののちに事態を把握し怪鳥のごとき悲鳴をあげながら腰をぬかし小便をもらして路上へとあとずさる。そこに大型ダンプが走り込んでくる。金属と肉のぶつかるにぶい音。大男、くりぬいた海水パンツから露出したいちもつを風にあわせてぶぅらぶら、少女漫画的な星の輝く瞳から涙をとめどなく流しながら無表情で、
 「HPちゅうたらおまえ、”へんたいペニスマン(Hentai Penisman)”のりゃくやないか! よぉおぼえとけ!」
 大男、振り返りもせずに走り去る。収集車のゴミを裁断する刃物が回転しはじめる。透明のゴミ袋の上に乗っていた眼鏡の青年の首は一寸刻み五分刻み、やぶれたゴミ袋から出る腐った汁とまみれて野菜炒め状のものへと形をかえていく。刃が眼鏡のフレームを噛んだのだろう高い音がまったく静かになってしまった休日の電気街に響きわたる。
 アパートの一室。壁一面にもはや地肌が見えないほどポスターが貼られており天井もその例外ではない。ベッドの上には大きな子どもほどもある枕が置かれており、枕カバーには素養のないものが見たらぎょっとなり後ずさるような身体的特徴を備えた幼児とも成人ともつかない女性の絵柄がプリントされていて、唇・胸元・足のつけ根のそれぞれに明らかに性質のよくないものとわかる染みがべっとりと広がっている。灯りのない部屋に唯一ぼんやりとまたたくモニター。それをのぞきこむ青年の顔は光源の具合かどこかのっぺりとして魚類じみて見える。ひっきりなしに続くクリック音。
 「ああッ! ジョセフィーヌちゃん(キャラクター名。生まれつき色素の少ない白子の美少女という設定。肉体的に虚弱であった生い立ちからか知性に優れ感情をめったに表に出さず世の中をはすにかまえて見ている。だが実は寂しがり屋で主人公にだけ心を開いた微笑みをみせる。男の精を定期的に経口摂取しなければ死に至る奇病の持ち主というエロゲー的御都合裏設定あり)が大ピンチだよ! …うへへ、ラヴ度(各女性キャラクターの持つパラメータの一つ。戦闘中に敵の攻撃からかばうなどのオプションで上昇し、MAX状態で愛の交歓シーンへと突入することが可能となる。余談だが、このゲームの宣伝コピーは『マックスでセックス!』だった)をあげるチャンスだぜ! よぉし、ヒットポイント回復の呪文ゼツリーンをジョセフィーヌへ…ん、なんだ…?」
 突然モニター中央にひずみが生じる。ジョセフィーヌのステータス画面に表示された顔グラフィックが次第に歪みはじめその歪みが頂点に達したときモニターの映像が暗転、まったく消滅する。次の瞬間、爆発音とともにモニターの画面が破裂し無数のガラス片をはじけさせる。壊れたモニターの中から一人の大男が身を乗り出して出現する。ことさらに顔を接近させていた青年の顔面はガラス片でずたずたに切り裂かれる。中でも特別大きく先のとがった破片が青年のとっさに閉じた瞼を貫通し網膜を破り水晶体にまで達する。両手で顔面を押さえながらごろごろと転げ回り二度とその恩恵にあずかることのない視覚に偏重して発展したおたく文化の粋である様々のアイテムをなぎ倒しながら獣のような悲鳴をあげる。大男、くりぬいた海水パンツから露出したいちもつを風にあわせてぶぅらぶら、少女漫画的な星の輝く瞳から涙をとめどなく流しながら無表情で、
 「HPちゅうたらおまえ、”へんたいペニスマン(Hentai Penisman)”のりゃくやないか! よぉおぼえとけ!」」
 大男、ポスターの貼りめぐらされた薄い壁にディズニー的な人型の穴を開けて隣の部屋へと移動する。隣の部屋に一人留守番していた小さな男の子、突然の闖入者に驚きその進路上に硬直して動けないでいる。大男、気にとめたふうもなく進み小さな男の子の頭の上からゆっくりと足をふりおろす。数分後、室内には少量の血にまみれた肉塊から四本の手足が垂直に突出した奇怪なオブジェがただ残される。
 照りつける真夏の陽光。興奮極まり手にしたビールを高々と頭上に振り上げ観客席に足を打ちならす人々。怒号がうねりとなってスタジアムの中央に底流する。グランドには、精神の尋常さを疑わせる絶えることのない笑顔で、異様に等身の高い選手たちが立っている。試合中であるというのに頻繁に体力を消費する目的であるとしか思えない大声で『…バサくん!』『ミ…キくん!』などと呼ばわりあっている。その日本的ホモセクシャリティの表出を見ながらぎりぎりと歯がみをして短く刈り込んだ金髪頭の青年が仲間に向かって大声を張り上げる。
 「いいか! 名門ハンブルグ・ファランクスが日本などというサッカー後進国の一チームに敗北するわけにはいかないんだ! わかって…アアッ!?」
 突然まきおこる一陣の風。太陽を背景にあらわれた現れた人影がまたたくまにボールをうばうと信じられないような速度で日本のゴールへ突進する。『12人目だ! 反則だ!』『かまいはしないさ! 誰であろうとグランドに立つ者は俺たちのライバルだ!』『よく言った、…バサ!』『おおっと、審判もこの反則を流しています! 試合の流れを重視するためのまさに名ジャッジでと言えましょう!』などという勢いにまかせた不合理なやりとりが現実時間を無視した劇中時間で瞬間的になされる。『顔面ブロックだ!』ラグビーでもないのに下半身に上半身で当たるマゾヒスティックなブロックをいがぐり頭の少年が試みるも、かれは永遠にブロックするための顔面を喪失することになる。赤く染まる芝生。眼前にくりひろげられる非日常に熱狂をましてゆく観客。打ちならされる足の音はもはや地鳴りである。口角泡とばし連呼される言葉は、『殺せ! 殺せ!』。『ワシが相手タイ!』キャラクター書き分けのために与えられたもはやどこの方言なのかわからない言葉を発話しながら巨漢がたちふさがる。大男のボールを保持してないほうの足がゆっくりとあがり前向きに突き出される。巨漢の腹に漫画的な五本の指がすべて数えられる向こうまで見通せる足形がぽっかりと空く。しばしの空白の後、その穴に臓物と血液が殺到し勢いよく噴出をはじめる。はじめて根拠のない自信に満ちた笑顔を失い泣きじゃくりながら流れ出る自らの臓物をかきあつめて元へ戻そうとする巨漢の背中をさらにふみつけにし、ゴールへの行進を再開する大男。もはやボールをうばう気概もなく泣きながら観客席へと逃げ込もうとする主人公格のふたり。熱狂した観客はしかしそれをゆるさない。ビール瓶で殴打され、小便をかけられ、二人はグランドへと押し戻される。キーパーが気丈にもゴールのまえから離れずにいるのはただ腰を抜かしているだけだ。キーパーの前に生まれる黒い影。見上げるその先には果たして例の大男が立っている。鼻水とよだれを垂らした白痴的な恩情哀願の笑顔はもはやそれまでの笑顔とは性質を異にしている。大男の振り上げた足がキーパーの顔面をとらえ、振りぬく。眼球や上顎の骨などキーパーの顔面だった破片がゴールネットにこびりつく。主人公格の二人、泣きに泣きながら互いに互いを大男のほうへと押しやり少しでも長く自分が助かろうとする。大男、悠然と近づき暴れまわる二人の後頭部にてのひらをあてがうと観客席直下の壁面へと押しつける。短い、風船のはぜるような音。
 そして壁面に残された無意識のアート。大男、くりぬいた海水パンツから露出したいちもつを風にあわせてぶぅらぶら、少女漫画的な星の輝く瞳から涙をとめどなく流しながら無表情で、
 「HPちゅうたらおまえ、”へんたいペニスマン(Hentai Penisman)”のりゃくやないか! よぉおぼえとけ!」
 大男、観客席によじのぼると熱狂しとびかかってくる観客たちを片ッ端から撲殺しながら歩み去る。グランドに残されたハンブルグ・ファランクスの面々。死屍累々たるスタジアムにチームの中の一人が発作的に笑いはじめる。伝播する狂気の波動。夕闇に浮かび上がるいくつかのシルエットと耳を聾せんばかりにふくれあがっていく奇声。

デ・ジ・ギャランドゥちゃん(1)

 デ・ジ・ギャランドゥちゃんは23歳辰年生まれ、巨大企業のエゴに日夜翻弄される関西在住のしがないサラリーマン。インターネットでうっかり自己実現してしまうようなそこつ者。でもね、愛の本当の意味はまだ知らないの。
 「どうして私のみぞおちから腹部を経過して下着の中へと消えていくどこの何とも指摘できぬ名状しがたい一連の体毛は、そこに軟着陸したハエの脚をからめとり二度と再び離陸させないほど絶望的に密集しているのでしょう。永遠のロリータキャラクターを売りにしている私は毎月数十回の剃毛を試みますが、そのたびにますますこの体毛群は繁茂し、複雑に密集していくような気がします。そろそろ永久脱毛を考えてみるべきなのでしょうか」
 「ねえ、デ・ジ・ギャランドゥちゃん」
 「誰かと思えば猫科の小動物を思わせるその可愛らしい名前とは裏腹の青黒い血管が縦横に走ったその表皮が婦女子を本能的な恐怖から致命的に遠ざける私の実存内の下位人格、最も下劣な部分の忠実な投影であるところの、タマではないですか」
 「名字はキンです。ところで、辞令を持ってきましたよ。本日付けで日本橋支店への異動が決まりました。一両日中にすべての身辺処理を完了し、現地での業務につくようにとのことです」
 「ええっ。こまったにゃぁ。猫語尾です。日本橋と言えば関西おたく族のメッカではないですか。そんな業界の思惑が無尽に交錯する激戦区に私のような愛らしいクリーチャーが突如出現するなんて、毎朝の出勤だけで数十回はいいように視姦されそうです」
 「まぁまぁ、そう言わないで。第一あなたはそういったおたく族向けのホームページを運営し、かれらの心の機微はまるであなたがかれら自身ででもあるかのように理解しているはずではないですか。上層部もきっとあなたのそういう資質を高く評価したのだと思いますよ」
 「待ってください。しかしそれは大きな誤解というものです。なぜなら私は自分の中の、世間に言わせると”おたく的な”としか形容できない心の動きの部分を言語によって正当化するためにあのホームページを制作したのです。それが偶然ネット上を夜な夜な徘徊する現実に居場所のないおたく諸君に一方通行的なほとんど誤解とすれすれの共感を得ただけであって、私の本来意図したものとはまったく違うと言わねばなりません。あれはまったく個人的なお遊びに過ぎないんです」
 「本質は問題ではないのですよ。深いところにある本質がどうであれ、表層に現象として浮かびあがってきたものがこの世の真実となるのです。デ・ジ・ギャランドゥちゃん、あなたはまだそういった現世のカラクリを良くは理解していないようだ。たとえあなたがどんな最悪の妄想を抱いた潜在的犯罪者であろうと、あなたが現実において大きく成功しないまでも日々正しく労働し、組織にとってニュートラルからプラスの位置に居、抱く妄想を顕在化させようと思わぬ限り、あなたはいつまでも新たな企業的負荷を与えられ続けるのですよ」
 「わかりました、わかりました。波打った部位によって幅の違う毛を表面に無作為にトッピングした脈打つ青筋をそれ以上わたしに近づけないで下さい。目に入るだけで妊娠しそうです」
 「すいません、興奮するとつい無意識的に様々の部位が隆起してしまうのです」
 「要するに、自身の異常さに自覚的な人間が社会人であり、自身の異常さに無自覚な人間がおたく族ということなのでしょうか」
 「うぅん、微妙にぼくの意味するところとは異なっているような気もしますが、ある点においてはそれは真であると言えるかも知れません」
 「わかりました。しかし加えてかれらおたく族はわたしのような可愛らしい婦女子から、その黙示録的な容貌が主な原因なのでしょうが、決定的に隔離されています。そこに根を持つ鬱積した異性への劣情をアニメやコンピュータゲームを代表とする平面に記述された婦女子の記号へと転移しているわけなのですが、空気穴の空いたプラスチック製のボックスをかぶせた極上の料理の眼前へ両手を縛られて座らされるようなそのもどかしさの中で、青竹が積雪の重圧をついにはねかえして元へと復元するように、まっとうな人間へと立ち返るかえるために自分の持つ欲望を犯罪的な方法で一気に放出してしまおうと試みたりしないのでしょうか。だとすれば、わたしはとても恐ろしくておたく族の中を歩くことなどできないです」
 「デ・ジ・ギャランドゥちゃん、あなたの間違いはおたく族の大きなお友だちのことを青竹というメタファーで捉えたところにあると思います。おたく族とは、人間の持つ生来の復元力を徹底的に封印ないし破砕されてしまった人間の群れのことを指すのです。あなたはそこで逆に安心できる。それは保障していい」
 「けれど、なぜおたく族は人間の持つ素晴らしい魂の復元力を喪失してしまっているのでしょうか。かれらの容貌のあまりの醜さがかれらを絶望させるのでしょうか。そうして、自らの絶望に気がつかないようにいっそう絶望を深めてしまうのでしょうか」
 「その考えは案外本質をついているのかも知れません。今までぼくたちがおたく族のことを語るとき、たとえば個人の生育史であるだとか、あまりに精神的な面にばかり目を向けすぎてしまっていた。しかし近年アトピーなどを代表とする心身症の問題が議論を提出したように、ぼくたちの心と体は簡単に分離して考えてしまえるものではないのかも知れない。おたく族になる要因として社会的に忌避される醜い容貌を条件として考えてみるのも面白い発想の転換ではないかと思う。もっとも、卵が先か鶏が先か、どちらかに偏向して断定してしまうのは慎重に避けなければならないけれど」
 「わかりました。わたし、日本橋支店に行きます」
 「わかってくれたようだね、デ・ジ・ギャランドゥちゃん」
 「ええ。日本橋支店ではみぞおちから腹部を経過して下着の中へと消えていくどこの何とも指摘できぬ名状しがたい一連の体毛を完璧に処理し、おたく族を狂喜させるような夏向けのへそ出しルックで出勤することにします。それが、この世にありながらこの世のどこにもいない、生まれてくることのできなかった亡霊たちへの唯一の供養だと思うから」
 「うん、それはとてもいい考えだと思うよ。親御さんもきっと今回のことを喜ばれる。おたく族の住処はある意味妙齢の娘さんにとってどこよりも安全な場所だからね」

媾合陛下

 こう-ごう【媾合】性交。交接。交合。(広辞苑第四版)
 「媾合陛下ご懐妊の報を受けてセッティングされた今日の記者会見、いったいどうなるんだろう」
 「あの媾合陛下のことだ、何事もなく会見が終わるとは思えないな」
 「みなさま、たいへん長らくお待たせしました。媾合陛下がお着きになりました」
 「申し訳ありません。行きつけの産婦人科で膣内と子宮口の触診を行っていたのですが、薄紫色に靄のかかった陰部の穴を医者が探り当ててじょうごを差し込むのにずいぶんと時間がかかりまして」
 「さすがは媾合陛下、やんごとなき理由ですな」
 「それでは順に質問をお受けしたいと思います。なにぶんこのようなお身体ですし、万一のことがないとも限りません。みなさまがいつも相手にされるような、母親のへその緒で自慰を覚えてよちよち歩きをする前におしゃぶりを下の口でくわえこんで処女膜を裂いたようなあばずれ女優たちへするのと同じようにはなさらず、各人が理性を持った一個の責任ある人格として品位あるご質問をどうか願います。なお、途中で媾合陛下のご気分がすぐれなくなったりした場合、質問の途中であっても会見を中断することがありますのでご了承下さい。では、逢坂スポーツさんから」
 「まずはご懐妊、おめでとうございます」
 「どうもありがとう」
 「さて、今回の媾合陛下の妊娠は自然妊娠であったと報道されましたが、自然妊娠とはいったいどういう意味でしょうか」
 「いかがいたしますか、媾合陛下」
 「お答えします。つまり体外受精などの人工的な手段を取らず、卵子が排出される週に男性器を女性器内部へ招聘し膣内深部に精子を放出させる作業を数ヶ月にわたって定期的に執り行った結果妊娠に至ったということです。蛇足ながら付け加えるなら、ゴム製の精子受けなどは一切使用しませんでした」
 「媾合陛下は現在の夫と29歳で結婚なさってから数年の間、周囲の無言の期待にもかかわらず、ずっと妊娠なさらないままでした。このことについては様々の口さがない噂や怪情報が飛び交いましたが、真相のほどはいかがなのでしょう」
 「いかがいたしますか、媾合陛下」
 「お答えします。数年の間私が妊娠しなかったのは、私の側というよりもむしろ夫の側に責任の所在があったということをこの会見の席で公にしておきたいと思います。最初に断っておきますが、それは主婦の方々の井戸端会議で邪推するような夫の精が薄かった、つまり彼が精薄だったということでは残念ながらありません。私には現在の夫と結婚する以前、様々の週刊誌に書き立てられたように、定期的に性交を行う程度に親密なつきあいのある男性がいました。その男性とは大学在学中からになりますから、そうですね、十年ほど交際が続いておりましたでしょうか」
 「では現在の夫の妻となるはるか以前に媾合陛下は清い乙女ではなくなっていたということですか」
 「いかがいたしますか、媾合陛下」
 「お答えします。私の子宮口と外界を隔てる文化的な意味を付加されることの頻繁な不可逆の薄膜を屹立した男性器でもって内部方向へ引き裂いたのは確かにその男性です。男性と女性の交錯するときに生まれる快楽を教えてくれたのもまたその男性です。私はこのような過去の経歴から性に対する少なからぬ経験を持っていたのですが、夫は私と出会うまで女性と経験をまったく持っていませんでした。訂正しましょう。少なくとも現実の女性とは交渉を持っていませんでした」
 「それはいったいどういう意味でしょう、媾合陛下」
 「いかがしますか、媾合陛下」
 「お答えします。話が前後するとみなさまの混乱を招くと思います。順を追って話しましょう。私の意味するところもその過程で自然と理解されるかと思います。現在の夫と結婚してからの数年は、絶望的な苦闘の年月だったと表現することができるでしょう。はじめ夫はことに際して男性器をまともに屹立させることすらできなかったのです。それは屈辱的な事実でした。私の戦いは、まずその事実を受け止めることからはじまったのです。他の誰でもない自らの夫が、妻たる私の肉体を見ても欲情できないという冷酷な事実を受け止めることから」
 「しかしこのたびご懐妊に至ったのは、最終的に成功に性交したということの証左ではないかと思うのですが、どうでしょう」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。その通りです。私はまず手や口で夫の男性器に刺激を与えることから始めました」
 「待って下さい。それは尺八と解釈してよろしいのですか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。そのように考えられてよろしいと思います。以前の男性との関係から女性器以外の部位を使って男性に男性性を達成させる技術を文字通り身をもって修得しておりましたので、屹立しない男性器にその技術を流用するのは当然の流れでした。しかし以前の男性を大いに悦ばせたこれらのやり方も、現在の夫の男性器にはほとんど効果を持たず、挿入が可能なほど硬化させるには及びませんでした」
 「その段階で夫が不能者であるとは考えなかったのですか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。当然その可能性は真っ先に考慮しました。ですが夫は私との性交に失敗すると決まって漫画かアニメーションでもって手淫を行っていました。妻たる私の目の前でそれはもう本当に気持ち良さそうに口の端からよだれを垂らして手淫を行っていました。妻にとってこれほどの屈辱があるでしょうか。嫉妬の対象が現実に存在すらしないのです。ただの現実の肉である私がどうしてそれに対抗できましょうか。夫が手淫によって放出したものを指の腹にすくいとって膣壁に塗りつけたりもしてみましたが、結局私の身体には何の変化も起こらないままでした」
 「要約すると、あなたの現在の夫は平面的な媒体に描かれた女性にしか興奮できない特異な体質の持ち主であるというわけですか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。現実にも性の対象はあったようですが、それはごくごく限られていました。現実のものとは思えないほど整った造作をした少女の裸体などがその例外に当たります。女性の女性性を切り売りする女性の助成で成立する商業ビデオを使っているのを見たこともあります。モニターを通じて二次元に変換するという行程が必要だったのかも知れません。そんなわけで私は妻として、女性としての満足を与えられないまま最初の二年間を過ごしました。水でもどる干し椎茸のような夫の代物を口に含んで湿しては吐き出し、吐き出しては含む虚しい作業を毎夜繰り返しながらです」
 「媾合陛下、もうその辺で」
 「続けます。決定的な転機が訪れたのはそう、一年ほど前のある晩のことでした。いつものように性交に成功しないまま夫が手淫を始めるのを私は麻痺した心でぼんやりと眺めていました。瞬間、私の中に天啓のような閃きが訪れました。考えるよりも先に私は動いていました。成人向けの漫画に鼻を埋めるようにして手淫に没頭する夫の生殖器を夫自身の手から奪うように口に含んだのです。するとみるみるうちに夫の生殖器は膨れ上がり硬度を増してゆきました。もっとも、その大きさについては私とおつきあいのあった以前の男性のものと比べるとエノキと松茸くらいの差があったのですが、それは関係ありませんのでおくとしましょう。夫は私へは一瞥もくれず、ただただ成人向けのしかし成人が一人も描かれていない漫画だけを食い入るように見つめながら、私の口腔内で果てました。これが夫が私との交わりにおいてした初めての射精でした」
 「媾合陛下、もうその辺で」
 「続けます。口腔内での射精を膣内での射精に置き換えるのはあっけないほど簡単でした。言ってみれば夫は私の生殖器を使って自慰をしているようなものです。最近は目にかけるバイザー状のモニターで成人向けのアニメーションを見ながら私の生殖器を使って自慰するのがお気に入りのようです。こうして、私たちの間の夫婦の問題は穏便な解決をみたのです。もっとも夫が雨に濡れた子犬のようにわずかに痙攣しただけで毎回果ててしまうので、夫が眠った後に私は自分で自分を慰めなければならなくなってしまったのですけれど」
 「媾合陛下、もうその辺で」
 「続けます。聞けば夫の家系にはこんなふうに現実の人間に興味を持てない人物が実際たくさんいたそうです。牛馬としか交わりたがらずに座敷牢に閉じこめられた女の話だってあるくらいです。現に夫の妹は商業ベースでない冊子に二次元の男性の肛門性愛を主なテーマとした作品を描き続けています。現実と隔離されたところで珍獣のように生かされている彼らにはそれも無理もないかも知れません。その性質が現代に固有の病巣と結びついたというだけの話だと私は思っています」
 「ときに媾合陛下はどのような母親になりたいと思われますか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。現代は母性の喪失した時代であると言うことができるでしょう。私は赤ン坊が腹を下したその始末を毛先ほどの躊躇もなく口と舌でするような、人間が集団を維持するために作り上げた方便であるところの矮小な知恵による社会規範に浸食されない獣の母性を持ちたいと思っています。同時に、カマキリの雌が交尾の最中に雄を頭から喰ってしまうような、親猫が生まれたばかりの目も開かない子猫たちのうちの特別に生きていくに不向きな虚弱なものを歯牙に捕らえて喰ってしまうような、そういった野生と人間の感覚を超越した不合理さを私の中に共存させなければならないと考えています。これが私の母親としての在り方です」
 「ときに媾合陛下は妊娠何ヶ月であられるのですか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。六ヶ月になります。もう少し早くお知らせするつもりだったのですけれど、母子にとって大切な時期を不特定の大衆という雑音にわずらわされたくなかったのです」
 「その割には媾合陛下の腹部に膨らみを感じないな。どういうことだろう」
 「媾合陛下、その口の端から垂れ下がっている血の付着したヒモ状のものはいったい何なのですか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。これは昼間食べたうどんです。ただのうどんの切れ端に過ぎません。それ以外の何物でも、げぇぇッぷ」
 「媾合陛下のおみ足つたいに流れて床に水たまりを作っているその液体はいったい何なのですか」
 「いかがしましょうか、媾合陛下」
 「ああ、気分がすぐれません。どうやらお昼を食べ過ぎたみたいです。ちょっと横になりたい気分がします」
 「みなさま、ご気分がよろしくないようなのではじめに断りましたように、媾合陛下がご退場なされます。今日の会見についての記事は掲載の前段階に一度こちらの委員会を通して頂きます。どうか各社ご理解のほどを願います」
 「ああ、気分がすぐれません。どうやら調子にのってお昼を食べ過ぎたみたいです。なぜって思いもかけず三つ子、げぇぇッぷ」

デ・ジ・ギャランドゥちゃん(2)

 デ・ジ・ギャランドゥちゃんは24歳辰年生まれ、巨大企業のエゴに日夜翻弄される関西在住のしがないサラリーマン。インターネットでうっかり自己実現してしまうようなそこつ者。でもね、愛の本当の意味はまだ知らないの。
 「日本橋支店に移ってきて、はや半年。おたくたちの生態には慣れたつもりだったんだけどにゃあ。心なしか力弱い猫語尾です」
 「どうしたの、デ・ジ・ギャランドゥちゃん。あなたはとても疲れているように見えます」
 「ウガンダ先輩。何でもないんです」
 「部下の心のメンテナンスも私の仕事のうちです。遠慮せずに、何があったか話してみてください」
 「はい、ありがとうございます。さっきのことなんですけど、お客様の一人が私のところにやってきて、何かを棒読みするような感情の無い調子で、『アンタのホームページ見たけど、全然おもしろくないよ』と異常な早口で吐き捨てるように言って、そのまま立ち去られたんです。本当に唐突で、それにあっという間のことで、私、もうなんだか怒るというよりもびっくりしてしまったんです」
 「うん。それは災難でしたね。でも、ここではよくあることです」
 「それに、すごく近づいてきたんです。思わずこっちが上半身をのけぞらせるくらいにです。吐いた息のにおいでお客様が今日何を食べたかわかるくらいにまで近づいてきました。早口でと言いましたけれど、本当はそんな生やさしい感じではありませんでした。同じ人間の発する言葉のはずなのに恐ろしく機械的な、人間が発話するときに必ず含まれる感情的な意味を欠如したまま出される音の連なりで、私はほとんど圧倒されてしまいました。それはもう、なんと言えばいいのでしょうか、言葉ではなくてただのノイズでした。何かの外国語を習いたての人がしゃべる言葉を、その言葉を母国語とする人が聞いたときの明らかな違和感とでもいうのでしょうか。おたく様、いえ、お客様の奇行にはもう慣れているつもりだったんですが、正直参りました。魂が疲弊した感じです。もっと表層的なことで言わせてもらうなら、初対面の人間にあそこまで不躾なことが普通言えるものでしょうか」
 「私たちがかれらを拒絶できるのは、かれらが法律に抵触する行為を行ったときと、かれらが金を払わなかったときだけです。それ以外の瞬間は、何があろうとかれらを受け入れなければなりません。それが私たちの鉄則ですよ、デ・ジ・ギャランドゥちゃん」
 「はい。今日の件は私が個人的に受けた衝撃として今後の参考とするにしても、かれらのその驚くような人と人との距離感を読みとる能力の欠如に加えて、私に深甚な疑問と懊悩を投げかける問題が実はまだあるのです。聞いてくださいますか」
 「もちろんです。それはいったい何なのですか」
 「それは、この店舗に配属されてからというもの、自分の取り扱っている商品に対する責任と市場の傾向の確認から、俗に表現されるところの『美少女ゲーム』をプレイする機会が頻繁になったのですが、どうしてかれらのするこれらのゲームは、女性の持つ処女性にあそこまで重大な意味を与え、固執するのかということなんです」
 「この業界に入ってすでに幾年も過ごしてきてしまった人間にとって、たいへん新鮮に感じられる素朴な質問ですね。閉じてしまった小さな集団の中に生まれた戒律というものは、それがどんなにより大きな集団の規範に照らしておかしなものであったとしても、皆がそこに慣らされてしまっているので、批判の対象にはならないものなのです。あなたの疑問はもっともですが、それは価値観の相違という理解で許容することはできないでしょうか。例えばイワシの頭を神様として毎日拝む老婆がいたとして、誰が彼女をそれだけの理由で自分たちの社会集団から排除しようとするでしょうか」
 「それは詭弁ではないかという気がします。文化の比較と、人間の生来の比較は同じ次元において行われてよいものなのでしょうか。あの、生意気を言ってすいません」
 「どうか気にしないでください。私はあなたとは対等の話し合いをしたいと思っているのですから。それで、あなたはどう考えるというのですか」
 「私の素人判断に過ぎませんが、もってまわった表現になって申し訳ありませんけれど、かれらはかれら自身の有するところの不滅のヴァージニティを、女性の持つそれに逆照射しているのではないでしょうか」
 「つまり、美少女ゲームに登場する女性の処女性は、各キャラが持つそれを、単調になりがちな性交の描写に起伏を与えるための小道具として単純に直截に表現しているのではなくて、美少女ゲームをプレイしているかれらの永久不滅の童貞を暗喩しているのだと、こう思うわけなんですね。なるほど、案外本質を突いているかもしれません」
 「しかし、これが真実であるとすれば、かれらはかれら自身のヴァージニティを旧時代的な女性の持つ受動性のうちに、一刻も早く陵辱されたいと願い続ける一方で、ほとんど現代のものとは思えないような男根主義的側面をも同時に持っているということになります」
 「話が見えなくなりました。なぜ、そう思うのですか」
 「これも私がここ数ヶ月に美少女ゲームを集中的にプレイしていて感じたことなのですが、美少女ゲームに通底するテーマといいますか、思想といいますか、願望といいますか、うぅん、そう、ある意識を発見したのです。それは、その、何と言いいますか」
 「歯切れが悪いですね。言いにくいことなんですか」
 「ええ、とても言いにくいことです。私の羞恥心で先輩のお時間をわずらわせてもいけませんから、端的に表現しますと、『一回チンポ入ればオレのもの』という意識なんです。ああ、言ってしまった。ここに至って、私はもはやこれらのゲーム群が何らかの現代的な意識でもって真摯に作られているとは思えなくなってしまいました。あまりにもなんというか、前時代的であり、もっと言うなら、蛮族的ではないですか」
 「しかしそれは現代の様々の倫理が薄めてきた男性性の本質であるとも言えますよ。現実の女性には目もくれず美少女ゲームに耽溺する青年たちの態度は、フェミニズムを代表とする現代の倫理観によって去勢されてしまったかれらの、女性存在に対する反乱であるとも読みとれるかもしれません」
 「反乱、ですか。しかし、反乱とはもっと劇的な変革のエネルギーを伴うものなのではないでしょうか。過去、ここまで消極的で、怠惰で、思想を持たず、社会の豊かさへ甘えに甘えきった反乱がいったいあったでしょうか」
 「あなたの憤りはもっともです。しかし私の意見は時代全体の風潮を少々乱暴に、包括的に言い表したに過ぎないものです。かれらのそれぞれが別個に持つ個人史の問題などをからめると、事態はもう少し個別性を持ってくると思います。何かを個別ではなく、俯瞰的に神の視点で理解しようとしたとき、憎悪は発生します。気をつけてください」
 「すいません、私が安易でした。怒りを表出することで、これを自分には直接関係の無い事象であると、一時的な問題として片づけてしまおうとしていました」
 「うん。ある事象を自分の問題にできないとき、人は怒るのでしょうね」
 「しかし、かれらの持つ男性性の圧殺と満たされない被愛欲求との混郁とが、今日の美少女ゲーム市場の隆盛を作り上げているのだとしたら、これを仕掛けた人物、あるいは企業は何という冷酷な残忍さを持っているのでしょうか」
 「デ・ジ・ギャランドゥちゃん、気をつけて下さい。あなたはまた無意識のうちに安易な場所へと結論を落とし込もうとしています。仕掛け人なんて、どこにもいないのです」
 「いないとはいったいどういうことですか、先輩。すべての結果には原因が存在するはずです」
 「わかりますか。ゲームの制作者は確かにいます。ですが、仕掛け人というのはいないのですよ。ゲームを制作する人々も、かれらの持つ病を同じく持っていたという意味で、元はかれらの一人に過ぎなかったのです。だからこそかれらの病、あるいは傷に感応することができ、それにぴったりと当てはまる作品を作り出すことができたのです。ですが、それは決してかれらを利用し、仕掛けようと思ってしたことではありません。かれらの病は『時代』という名前が上書きされた不治の病ですから、最初は小さなものだった市場を延々と底なしに拡大させる要因となり得たのです」
 「それでは、いったい誰が責任を負うというのですか」
 「現代という時代は――これは現実、抽象、形のあるなしにかかわらずあまねくすべての存在を含めての意味で言うのですが――『世界』に対して人間が最も影響力を持っている時代だと言うことができます。現実――例えば、原子力――と架空――例えばインターネット――の双方にわたって世界を丸ごと変革、あるいは崩壊させてしまう影響力をいまや人は持っている。そして、そのそれぞれに破滅的なパワーを内包している現象が単独で、あるいは相互に反応したときにいったい何が発生するかを言い当てることのできる人間はもはや誰一人としていないのです。それぞれの分野に専門家はいるにしても、肥大しすぎた人類のパワーを統括的に理解し、制御することのできる個人なり集団は、もうとっくの昔に存在できなくなってしまっているのです。だから、あなたの疑問にはこう答えるしかありません。”誰も責任を負うことはできない”」
 「私が思うに、美少女ゲームという現象とインターネットという現象の婚姻は極めて破滅的ではないでしょうか。それは潜伏期の致死的な病のように、私たちを内側から突き殺そうと牙を研いでいるのではないかと思えてなりません。先輩、私たちはいったいどうしたらいいのでしょう。何ができるのでしょう」
 「デ・ジ・ギャランドゥちゃん、私たちはどこで働いていますか。私たちの仕事は何ですか」
 「私は、(有)プルガサリ日本橋支店2F美少女ゲーム売場の一販売店員です。それ以上でも、それ以下でもありません」
 「私たちの誰もが世界を崩壊させる現象と関わりながら、私たちの誰もそれを御することができない。だったら、私たちは自分のことをやるべきです。デ・ジ・ギャランドゥちゃん、あなたは美少女ゲームを売りなさい。他の店舗よりも多くの美少女ゲームを売り、日本橋支店の業績を伸ばすことにだけに腐心なさい。そこに何の意味づけをするかは、あなた次第ですけれど」
 「わかりました、先輩。明日から私は美少女ゲームを、日本の出生率が全世界でダントツのワースト1になるくらいに、売って売って売りまくってやります。そうして手に入れた莫大な年棒制のサラリーで結婚資金を貯めて、きっとおたくじゃない年下の男を捕まえようと思います」
 「うん。少子化の極端に進んだ近い将来において、あなたの子どもは社会に厚遇されると思います。ご両親もきっと喜ばれることでしょう」

なぜなにnWo電話相談室(2)

 薄暗い室内。パイプ椅子に腰掛ける2つの人影。1人はぎょっとするほど低い身長で猪首、見えるのはほとんどシルエットだけであるのにひどく奇形な印象を与える。2人の前には折り畳み式の長机があり、花の生けられていない花瓶と黒電話が置かれている。部屋の反対側の隅に置かれたハンディカメラ。
 壁際のブラインドが開き、室内が明るくなる。
 「(やくざなやり方で高く結い上げた髪から櫛を引き抜き、ざんばらに振り回して)さァ、今週もこの時間がやってきたよ。ちょいとセットが簡素になっちまったが、まァ、それもこれもnWoがいよいよ本格化して、余計なコケ脅かしや客寄せの必要もなくなってきたってことさ(かけていた三角メガネをはずすと、将棋の駒でするような要領でパチリと机の上へ置く)」
 「(せむし、ねじ曲がった背骨を更に前倒しに曲げながら両手で腹を押さえて)うゥ、ひもじいよゥ。姉御、今夜もまたソーメンですかい」
 「馬鹿野郎ッ(せむしを平手で激しく打ちすえる)、カメラ回ってんだよ! 地上波から追ンだされたくらいで、ナニ情けない声出してんだい!」
 「(今度は両手で頭を押さえながら)うゥ、すまねえ、姉御。おれァ、腹が減って腹が減って」
 「(乱れた髪を手櫛でかきあげながら)この番組が売れりゃあ、肉でも何でも喰わしてやるよ。ちったぁプロ意識を持ちな。(と、机上の黒電話がけたたましく鳴り響き、受話器が漫画的に飛び跳ねる)電話だ。もしもし」
 「(小声で)あ、あの。nWo電話相談室さんでしょうか」
 「オヤ、聞いたことのある声だね」
 「あの、ぼく以前に一度そちらにお電話したことがあって、あの小鳥です、小さな鳥って書いて小鳥。あの、それで早速相談なんですけど、最近ぼく、なんかこう、すごく不安定なんです。部屋にひとりでいるときに、考えがまとまらなくて、あの、ぼんやりしてて、ほんとなんとなく側にあった電話料金の督促の封筒の裏に、先の丸まった鉛筆で、『この世の中にはおおぜいの人間がいる』って書きつけたら、急に大粒の涙がぽろぽろ出てきて止まらなくなって、でも他人に対して共感できるっていうか、そういうのじゃないんです。外に出て電車とか乗ったら、たくさんの人がいるのにほんといらいらして、心の中で『みんな死んじゃえ』とか思ったりするから」
 「(耐えかねたように机の上へ飛び乗って)ここはキチガイ病院じゃねえんだぞ、テメエ!」
 「(疲れた様子で腕組みしたまま動かず)私たちよりカウンセラーの方が君のお役に立てるんじゃないかい」
 「あ、ごめんなさい、最近あんまり人と話してなかったから、つい冗長になって、あの、いつもはこんな感じじゃないんですけど。あの、何を話すんだったかな。えと、前も言ったと思うんですけど、ぼく、ホームページ持ってるんです。最近は以前ほどは人も来なくなって、閑散とした感じなんですけど、あの、掲示板とかあって、メールとかあれから来ないんですけど、掲示板にはときどき誰かが、お世辞なんでしょうけど、はじめましてとか、面白かったですよ、とか書き込んでくれて、それがちょっとした心の助けだったりするんですけど」
 「(急に遮って)もういい、もういい。アタシもこいつも機械にうといから編集とかできないんだよ。ズバリ、君の掲示板を荒らしたのはこいつだ(合図とともにせむしが隣の部屋とのしきりを外す)」
 「(口に噛まされた猿ぐつわを解かれながら)…ッざけんな、ふざけんなよ、こんなことしてただで済むと思ってんのかよ! (せむし、無言で男の胸に取り出したナイフを突き立てる)ぎゃあッ!」
 「(気のない表情で)30分のコンテンツって決められててね。まァ、前戯の無いポルノビデオみたいなもんさね」
 「(嬉々として)あ、待って。ビデオ撮らなくちゃ、ビデオ。この日のためにDVDレコーダー買ったんだよ。アナクロでネット依存症の劣った生命が終わる瞬間を永久に劣らないデジタルの映像で保存できるように……あれ、逆巻さん、どのチャンネルでやってるんですか、あれ」
 「イヒヒ、肋骨と肋骨の間を擦過音を立てながら鉄の刃が滑り込んでいく感触。おっと、動くなよ。(男に口づけするかのように顔を近づけて)わかるかァ、いまどの臓器も傷つけないままナイフの刃がおまえの身体に収まってんだ。心臓の太い動脈の横に鉄の冷たさを感じるだろう。(せむし、ナイフを引き抜き、今度は男の腹部に突き立てる)ヒヒ、ビビッたろ? 今度は膵臓と肝臓の隙間にナイフ通してやったぜ? (涎を垂らしながら)イヒヒ、たまらねえ、命を冒涜するこの感覚、たまらねえぜ……いくら流行にしたって、連中の痩せた精神にゃこの贅沢はわからねえだろうぜ。価値を知ってるからこそ、それを傷つけることでたまらなくオッ立つんじゃねえか!」
 「ああ、もう、どうなってるの。逆巻さん、逆巻さんたら。(急に激しくテーブルを両拳で殴りつけて)無視するなよ、ぼくを無視するなよォ!」
 「(腹のナイフを気遣って細く呼吸しながら、弱く)やめろ、やめろよ、こんなことして、いったい、タダですむと思って、(せむし、身体の比率から考えても異様な大きさの分厚い手のひらで男の頬をしたたかに打ち付ける。男の口から血の飛沫とともに吹き出した奥歯の破片が、窓ガラスに高い音を立ててはねかえる)」
 「(異様なかぎろいを含んだ目で)虚構につかりすぎて、おまえら人が人を現実に壊せるって実感を失っちまってるんだ。仮の言葉、似非の暴力、馬鹿め、人間が発するもので架空のものなんざひとつもねェ! おれァ、学はねえがどのくらいの強さで殴ればオマエの頬骨と顎がグシャグシャに砕けてメシが食えなくなるかは身体で知ってんだよォ! メシ喰って自分が生きてるなんて意識したこともねえんだろが、なんか言ってみろよ、オラァ! 腹減って気が立ってんだよ!(せむし、男の襟首をつかんでゆさぶるが、男の口からは顎の骨が砕けたらしい証明の大量の鮮血が吹き出すだけである)」
 「(先ほどまでとはうってかわった明るい調子で)さて、ここで視聴者の皆様にクイズです。みなさまがご覧になっている、腹にナイフをつきたてられ、顔が変形するまで殴られているこの男、果たして今から24時間後に生きているでしょうか? うぅん、難しい問題ですね。このせむし、ガウル伊藤とはもう十年来のつきあいになるんですが、かれの気性の激しさといったら、スゴイんです! 先日も北海道で気がつかずにクマの死体を丸三日殴り続けていたほどですから! あら、ヒントを出しすぎちゃったかナ? 24時間後に男が生きていると思ったアナタは今画面に出ている電話番号の末尾にある×の部分で”1”を、死んでいると思ったアナタは”2”をダイアルしてください。(惨劇を背後に、目の前の宙空を右から左へと指でなぞりながら)電話番号は画面に出ているこちらですよ~、画面に、出て、い、る? (ビデオカメラのモニターを横目で確認する。間。熱狂の冷めた突然の異様な静かさで)なんで、テロップが出てないんだい」
 「(他に誰もいない部屋で気狂いの目でテレビを揺さぶりながら)どうなってんだよ、このボロテレビがァ! 見せろよォ、俺にあのペニスを上の口から出す残虐生け花を見せろよォォォォ!(口の端から気狂いの記号の泡を吹き出す)」
 「(気狂いの目でビデオカメラを揺さぶりながら)どうなってんだよ、このクソビデオカメラめ! あたしゃ、天下のハリケーン逆巻だよ! そのアタシに、恥、恥をかかせる気かい! 馬鹿に、機械までアタシを馬鹿にしやがって! あたしゃ、逆巻だよ、天下のハリケーン逆巻なんだよォォォォ!(口の端から気狂いの記号の泡を吹き出す)」
 「(血糊で汚れた全身に気づいたふうもなく)一寸刻み、五分刻み。キヒヒ。そォれ、いよいよ、おまえをおまえの大好きなデジタルとははるかに遠い単位に分断してやるぜ!(腹からナイフを引き抜き、大きく振り上げる)」
 「(バラバラに分解されたテレビの傍らに座り込んで)裏切られた思い出、反故にされた約束、この世は無だ。ハ・ハ・ハ、こんな瞬間にさえ虚構から言葉を借りないとしゃべれない自分を知っている。ハハ、アハハ、おかしいね。(無表情で滂沱と涙を流しながら)みんな、死んでしまえ」

背番号の無いエース

 少年野球団の子どもたちがトンボひとつ残して家路につき、人気の無くなった河川敷のグラウンドというものは、いつだってもの悲しい。だが、夕暮れの中、手折ったチューリップの茎をはみ、重なった花弁の重みでそれが真下へ垂れ下がるままに土手へ座り込んでいるそのシルエットは、間違いなく、ネロだった。
 11月の秋風が、ネロの焼きすぎた秋刀魚のような腋の臭いをわたしの鼻腔へ運ぶ。ネロの背中に、夕日が射す。
 「ネロ」
 わたしはそれへ、そっと声をかけた。言葉の意味というよりも、不意に鼓膜を振るわせた音に反応したという感じで、ネロは振り返った。黒とも茶ともつかぬ色のちぢれた髪の毛、薄くなった頭頂、突き出た頬骨、割れた顎、長い睫毛の下には地中海の青をした瞳がわずかに潤んでいた。それはまぎれもなくネロだった。秋も深まり、もう夕方の風は冬の気配を運んでいるというのに、薄手のくたびれた開襟シャツを着たネロの胸の谷間には、黒とも茶ともつかぬ色の胸毛が、どこか昆虫を思わせる様子で、さわさわと妖しくうごめいていた。
 わたしはネロのそばの地面を手で軽く払うと、腰を下ろした。抱えた膝越しに眺めるネロの姿は、その容姿にもかかわらずはかなげで、ひどく寄る辺無く見えた。
 「ネロは、さみしくないの?」
 一日に起こった出来事をネロに話して聞かせるのが、ここ一ヶ月のわたしの常だったが、ネロの悲しげな様子にわたしは初めてネロのことを尋ねてみたくなった。
 たとえネロがわたしの言葉を理解していないにしても。
 ネロがゆっくりとわたしのほうへ顔を向けた。地中海の青をした瞳が、夕焼けの赤にも侵されない青をしたまま、わたしをまっすぐに見つめた。
 「ネロはさみしくないの? オランダ人であることが」
 ネロが口を開いた。驚いたことに、わたしがネロの声を聞く、これが最初だった。
 「どうして君がぼくのことをオランダ人だと考えるのか、ずっと不思議に思ってきたものだった。そして、君はぼくにたくさんの自己投影を繰り返してきたものだった。それはちょうど友だちのいない小さな女の子がぬいぐるみに話しかけるようなものだった。それは君が自分のことを愛するために、ぼくという異邦人を媒介として利用していたにすぎない性質のものだった」
 「まさか…ネロ、あなたまさか」
 わたしはわずかに身をのけぞらせた。
 「個人の意識と自我とを形成する言語において自分とは一切の共通項を持たないだろうという推測によってだけ、君はぼくという本来なら相容れるはずのない異邦人を、限定つきの王様の秘密を打ち明ける穴として、許容することができたというわけだった。けれどそれは、友情や愛情とはほど遠いものだった」
 「ネロ、おお、ネロ」
 意味だけを追い、言語を記号として発話する初歩の外国語学習者のように、しかしそれには到底あわぬ流暢さと確かさを伴った口調でネロは続けた。
 「君の独白――それはいつも独白だったものだった。意味の双方向性が生まれなかった以上、それは独白というべきものだった――は、とても興味深いものだった。いや、君だけではなかったものだった。この夕闇の土手を訪れるたくさんの人間がぼくの横に座り、しばらくの沈黙のあと、決まって重大な告白を始めたものだった。それから、突然笑い出したり、突然怒ったり、突然泣き出したり、突然何度も繰り返し”ありがとう”を言ったりしたものだった。その感情たちはしかし、ぼくとは本当に完全に無縁なものであったものだった。ぼくは君たちがぼくの異形を見てまずちょっとうろたえ、次に君たち自身で作り上げた世界の解釈を決まって押しつけてくるのに、いつもひどく傷ついたものだった」
 ネロは沈んでいく夕陽に正対し、何にも侵されない地中海の青をした目を細めながら、じっとそれを見つめていた。
 「けれど、こんなふうにぼくの意味を世界へ伝えはじめたぼくを、ちょうどいまの君のように、誰もがぎょっとして、初めて出会った他人を眺めるみたいに遠巻きに眺めたものだった」
 ネロは悲しげに目を伏せた。
 「以前、とても好きなポルトガル人の作家がいたものだった。そして、ぼくはかれに会う機会を偶然得たものだった。けれど、会ってからこちらというもの、かれの書いたすべての作品は、ぼくにとって全く意味を変えてしまったものだった。意味の多様性を失い、あの不思議な魔力を失い、ひどく色あせて感じられたものだった。言葉という広義の解釈を可能にする記号が、生きた存在の与える情報によって解釈を極端に狭められてしまったからだと、ぼくは思ったものだった」
 わたしは両手をもみしぼった。わたしの中に今この瞬間に使うべき言葉が何も見つからなかったからだ。
 「その失望はわかりやすく言えば、ネットでそこそこのカウンターをかせぐホームページ制作者がオフ会の告知を掲示板でしたところ、一通の参加希望メールも届かなかったみたいなものなのかもしれなかった。その失望はわかりやすく言えば、ネットでそこそこのカウンターをかせぐホームページ制作者がオフ会の告知を掲示板でしたところ、一通の参加希望メールも届かなかったみたいなものなのかもしれなかった」
 ネロはなぜか、その部分を少し強く二回繰り返した。
 「彫刻が生き生きと動いてはいけない、なぜならそこに封じ込められた無限の動きの可能性を奪ってしまうから、と言った美術評論家がいたものだった。ぼくはここに来てから幾度となく、この言葉を噛みしめる機会を持ったものだった」
 「ダッチ、ダッチ、そこにダッチ!」
 険しい叫び声に振り向くと、土手の向こうから数人の警官が腰から警棒を引き抜きつつやってくるのが見えた。
 「ネロ、あなたはいったい…」
 「キリストの死を侮辱したために不死を得て、永遠の罪業をさまよいつづけることになったオランダ人がいたものだった」
 ネロはのろのろと立ち上がった。
 「だが、どうして君たちがぼくのことをオランダ人だと信じることができるのか、ぼくはずっと不思議に思ってきたものだった」
 そう言うとネロは、これまでの様子からは想像もつかなかったような凶暴な機敏さで、夕陽に背を向けて駆けだしていった。ネロと、それを追いかけていく警官たちを見送りながら、わたしはただ呆然と立ちつくすしかなかった。
 どのくらいそうしていたろう、かれらの後ろ姿が遠くに見えなくなって、ふと気がつくと足下にネロの開襟シャツが落ちていた。走り出す拍子に脱げ落ちたのだろうか。それは汗にまみれ、あちこち破れかけて、手に取ると涙が出た。顔を近づけると、ネロの焼きすぎた秋刀魚のような腋の臭いが、かすかに鼻腔に香った。
 そうしてネロは、わたしの前からいなくなった。
 永遠に。