猫を起こさないように
虚皇日記 -深淵の追求-
虚皇日記 -深淵の追求-

甲虫の牢獄(6)

 「強い依存心を持った人間はひとりでいるときにしか、本当の自分自身であることはできない」
 静寂を破るように、夜の倉庫街に街灯を背にした高天原が言った。
 ぼくは眺めていたつま先から、はじかれるように顔を上げる。
 高天原は街灯の作り出す光の輪から外れるようにして立っていたので、その表情をうかがうことはできなかった。
 いまの言葉は、ぼくに向けられていたものだったのだろうか。なぜか心臓が早鐘を打つ。
 「気にしなくていい。君の仕事には満足している。私の言葉は批評と同時に、常に独白を含んでいるからね。君がいま驚いたように、私自身もいつも自分の発した言葉に驚いている。偶然に紡ぎだしたはずの言葉が多くの真実を含んでしまうことに、驚くんだ。私はね、新聞の素人俳壇の欄を読むのが好きだ。私を嫌っていたはずの人々が、ふとした偶然で私と同じ真実に到達しているのを見られるから。言葉だけは、誰の上にも平等なんだろう。言葉が外からやってくるとすれば、私や君のような人間に才能や、知性は存在しないということになる。どうもがっかりするね」
 高天原がふっと笑ったような気がした。
 「ただ、必ず添えてある偉い先生の講評は御免だ。解釈すると神秘を無くして陳腐になる。解釈しないと誰も理解できない。つまるところ知性は、人と人との伝達を主な目的として進化したんだろう。もどかしいところだ」
 高天原の話は結論から始まり、その結論を言葉で崩してゆく。
 ぼくは誘惑されまいとそんなふうに分析をするが、いつもむなしい。プロ競技者の修練や技術を観客席で理解したところで、その人物に互したり打ち負かしたりすることに対しては、何ひとつ関係が無いのと同じだ。
 高天原が腕時計に目を落とす。そして、もう幾度目だろう、遠くの暗がりに視線をやる。
 何を待っているのだろう。なぜここへついて来なければならなかったのか、ぼくは全く知らされていない。
 「……まだ時間があるようだ。少し私自身のことを話そうか。君も、少しは君の人生を狂わせた人間のこと知っておいたほうがいいかもしれない」
 高天原は冗談のように言った。
 だが、ぼくが人生に正しいと言うことができた瞬間など、ありはしなかった。けれど高天原といるとき、ぼくは人生が正しいと感じることができる。
 ぼくのそんな思いには気づかないふうで、高天原は淡々とした調子で話し始めた。
 「十年前、私は雇われのシナリオ書きだった。ちょうどいまの君のような感じかもしれないな。自分が”選ばれている”という自負は常にあった。なんといっても、私の知性は二人分だったからね。けれど、それが妄想なのか真実なのかを見分けるための現実的な要素は、まだどこにもなかった。ただひたすらに鬱屈していた。わずかの仕事が自分の小さな居場所を生み、生み出されたその小さな居場所が、時間の経過とともにその形のまま安定してゆくことに、鬱屈していたんだろうと思う」
 ぼくは、うろたえた。全身に熱い汗が吹き、冷えた。なぜ自分がうろたえているのか、わからなかった。高天原と二人きりで、彼の個人的な話を聞くことにうろたえたのだろうか。
 いや、違う。高天原の口にした鬱屈が、ぼくが受け止めることを拒絶してきた鬱屈と同じだったからだ。
 「当時、その鬱屈をはらすために最も熱中した遊びは、同業の知人を彼らの両親や養育者と和解させることだった。……こういう業界に飛び込むことを肯定的に考えてくれる親はまあ、ひいき目にみて多くはないだろう。断絶なのか、離反なのか、とにかく自分の生育に関わった人間との葛藤を抱えている例は、少なくはなかった」
 顔に血が上ってゆくのがわかる。
 高天原はきっとぼくに当てつけようとしているのではない。ぼくの人生が別の場所で、別の誰かによって、ほとんどその趣向を変えずに繰り返されていたとしても、それは全く不思議ではない。ぼくは自分の苦悩の凡庸さを理解しているつもりだ。
 けれど、ぼくの顔は真っ赤に染まった。恥ずかしさだったのか、自尊心ゆえだったのか、ともかく周囲の暗さから、高天原には気づかれていないのが救いだった。
 「何が最初のきっかけだったのかは忘れた。少し抽象的な言い方かもしれないが、私は彼らが発している臭みをかぎ取ることができた。いろいろな家族の形があった。私がそこへ出向いたこともあったし、言葉だけで用が足りる場合もあった。一番簡単だったのは両親か養育者がすでに他界している、もしくは最初からいないか、いないも同然の知人を”癒す”ときだったよ」
 高天原は曲げた人差し指を唇に当てて低く笑い声を立てながら、”癒す”という言葉をことさらに粘るように発音した。
 「私が理解したのは、心の中にしか無い情報は、簡単に上書きすることができるということ、そして人間の記憶はそういう情報だけで組み立てられているということだった。彼らの抱えている憎悪には、例え表面上そう見えたとしても、間違いなく裏返しの部分に、これまでの関係において起こったことをねじまげてまでの理想化を狂うように求める、わななく愛情があった。私がやったのは、斜面の手前にあるボールに軽く触れることだけだった。彼らは数年来、十数年来の憎悪を翻心してむせるような、ほとんど赤面するような愛情のプールへと次々に飛び込んでいった。乾ききった心に生じた無数の亀裂をとろけるような愛の蜜が湿してふさいでゆくさまを、癒しのドラマを、誰もが心から演じていた。その三文芝居のような崇高でなさに、私の鬱屈は深まるばかりだったよ」
 高天原は肩をすくめてみせる。
 「発信に向かおうと受信であろうと、この業界に関わりを持つ者は一分の例外もなく、養育者との情動面での関係性を欠落した者であろうと私は考えていた。軽蔑や思い上がりからの決めつけと思うかもしれない。だが、私ほどの深刻さをもって自身の生業がその果てに何を生みだしてゆくのかを知ろうとした人間がいないことだけは断言できる。私は、自分自身の仕事を肯定したかったのかもしれない。しかし結果は話した通り、私の推論を裏付けるものばかりだった。この業界を取り巻くものは作り出すことであろうと消費することであろうと、全く個人的な愛情と理解の代償行為に過ぎないということを私は確認することができた……あのときの自分の心理について、いまになってときどき考えることがある」
 高天原はそこで黙った。
 静寂の中、遠くから聞こえるのは、波音かもしれない。だとすれば、海が近いのだろうか。ぼくは高天原の車にただ乗せられてきただけで、ここがどこなのかもわからない。高天原がぼくをどこに運ぶのか、ぼくにはずっとわからないでいる。
 少し考えるような間をおいて、高天原は続けた。
 「つまり私は、もっと深くから汲むべきだと思っていたんだろう。個という名前の世界の果てを越えた瞬間に接続するあの場所から汲み上げたものだけが、発信するに足るものだとずっと考えていた。それが傲慢であることは、いまは多少わかる。歳を重ねるにつれて、そこへ接続できる機会も少なくなってしまったからね。だが当時は、自分の魂の表層にだけある傷口をかきむしり、そこから飛び散ったかさぶたの滓をかき集めて、体液をそのつなぎにして差し出すようなやり口に、嫌悪感を抱いていた。それは、もしかすると自己嫌悪に近いものだったのかも知れないにせよ――」
 波音は聞こえなくなった。街灯にむらがる虫の羽音が奇妙に意識されはじめたからかもしれない。人間の意識は複数の事象を同時にとらえることはできない。現実の一部へ意識的にフックをかけることでしか、濁流のようなこの場所で自分へ意識をつなぎとめることはできない。人間は、元より世界を本当の形では理解できないように作られている。
 しかし、高天原ならば。高天原なら、もしかすると――
 「さて、面白いのはこの先なんだ。私の介入する和解の儀式を終えると、彼らはほとんど例外なく書けなくなった。それは感動と滑稽が等分に入り混じった、人生の本質のような不思議な有りさまだった。自分が全く普遍性の薄い個人的な絶望からしか汲んでこなかったことを知り、両親や養育者との対決姿勢にだけ人生の基準があった彼らが、書けなくなった自分を至極あっさりと赦して、そしてこの業界から去っていくんだ。原因となった私に涙を流して、礼まで述べて! 個人的な絶望や癒しなどで、世界をわずらわせてはならない。ましてやそれで口を糊しようなど、全くの本末転倒じゃないか」
 高天原は街灯がアスファルトの上に作り出す光の輪の中に、まるでそこがスポットライトの中心ででもあるかのように踏み出した。
 暗闇に沈んでいた彼の姿があらわになる。
 サングラスをはめていない両目が、ぼくをのぞきこむ。色素の薄い瞳。
 高天原がぼくを見るとき、彼の目がいつもぼくを吸い寄せる。喜怒哀楽ではない万もの表情を、高天原は目だけで作り出す。このときも高天原は喜怒哀楽のどれでもない表情を浮かべて、ぼくをまっすぐに見た。
 「君がそういう種類の人間じゃないことを信じているよ」
 高天原に出会ってから初めて――疑念と表現すると明確にすぎるだろう、得体の知れないおののきのようなものがぼくの全身を突き上げた。
 それはつまり、言葉にすればこういうことだったのだろう。『高天原は、いったいぼくに何を求めているのか?』
 ぼくの恐れに気づかぬ様子で、高天原は言う。
 「覚えておいてくれ。私たちが相手にするおたくは、心の奥底から廃屋の雨漏りのように染み出してくる何か異常な想念に人生の最初の段階をとらわれていて、それが個性や才能であるかのように錯覚している連中だ。踏みにじられた尊厳の補償を求めるあまり、真っ先に放棄するべき人間性への侮辱の周囲をぐるぐると回り続けている。おたくは本質的に自殺と他殺を内側に抱えている。その衝動を自分と他人にとって物理的危害では無いものに昇華させる過程こそが、個性や才能と呼ばれるものだ。おたくとは自身の抱える内的衝動を、意識的には昇華できない人々のことだ。おたくたちは養育者に打たれた鞭の分、自分を打つか他人を打つかする。この打つ打たれるという二つの行為は正反対どころではなく、むしろ同じものだ。つまり母親にペニスを突っ込みたいと思うからそれを書き、父親にペニスを突っ込まれたいと思うからそれを書く倒錯が、おたくの正体だと言える。私がおたくを軽蔑するのはその倫理的な低劣さは全く関係がなくて、彼らが何ひとつとして自分の持ち物を昇華する過程を踏んでいないことに起因している」
 パチッという音とともに、焼けこげた羽虫がゆっくり墜落してゆくのが見える。街灯の光が明るいからといって、不用意に近づきすぎたのだ。
 「自分より弱い人間を刃物で刺す行為と、猥褻を書く行為は酷似しているように思う。ペニスを挿入するのとナイフを突き刺す行為の間に、実のところ違いはないんだ。最終的にどちらを選択するかは、現実への期待値がどこまで高いかが分水嶺になるのだろう。時代、という範疇を口にするとあまりに大がかりで、むしろ真摯な回答から逃げているような気さえするが、内在する病裡と病裡の現象化がひねった輪のように回転しているのが私には見える。私たちの足下を同じ濁った水が浸している。ある者は自らの才能で私たちを捨ててここから飛び去り、ある者は父親か母親の性器を詳細に記述し、ある者は少女か両親を殺す。水の浸っていない小高いところにいる者たちはほんの少数だし、その小高い場所でさえ、もうじき水は浸してゆくだろう。世界理解という至上目的は、知性による手段の増加によって際限なく複雑化してゆき、堆積してゆく知性そのものによって私たちの手の届かぬ地中へとうずめられてしまった。もはや人は本来の目的を喪失した無用物の知性では繋がることはかなわず、ただ病裡によってのみ一様化している。喉元へ水位が高まってゆくのを誰も避けようがなく、そしてそれを押しとどめる力もこの手にはない。ただ私が言えるのは――」
 高天原の薄い唇の間から、真っ白な呼気が押し出されている。
 ぼくは急に周囲の気温が下がったような気がして、コートの襟を寄せる。
 ひどく寒い。
 短く息を吸い込むと、高天原は小さくつぶやいた。
 「癒されたり赦されたりするくらいなら、死んだほうがマシだ」
 ぼくが聞いたと思った言葉は、遠くの暗がりから染み出すように現れたトラックの走行音にかき消された。車は高天原とぼくの横を通り過ぎてから減速し、街灯を避けるように数十メートル先の暗がりに停車した。後ろの荷台から何か大きなものが投げおろされ、続いて乾いた金属音がした。
 高天原が駆け出すと同時に、トラックは再び速度を上げて走り去った。
 ぼくが追いつくと、高天原は暗闇を見つめて立ちつくしていた。
 ポケットから懐中電灯を取り出して、ぼくは高天原の見つめる暗闇を照らした。
 はたしてそこには、木箱と先端の曲がった金属の棒のようなものが転がされていた。
 高天原は金属の棒を拾い上げ、木箱の蓋に打たれた釘を黙々と取り去ってゆく。
 雄弁の後には恐ろしく長く思える沈黙が降りた。
 やがて高天原は棒を放り投げると、顎を持ち上げてぼくに促す。ぼくはほとんど脅えながら、ゆっくりと木箱の蓋を開けた。
 中には大量のおがくずが詰められおり、その隙間から粘土のような質感をした物体がいくつものぞいていた。
 ぼくは途方に暮れて、振り返る。変わらず、高天原はそこに立っている。
 しかし、表情こそ崩さないが、その目は内心の押さえ切れぬ激情に輝いていた。
 高天原はおがくずに手を埋めると塊のひとつを取りだして、言った。
 「見ろ。これが人類の絶望の産物の一つであり、そしていまの我々の希望の依り代だ」

甲虫の牢獄(7)

 影が長くなり、振り返った室内の空気は茜色に染まっている。ここに来るまで空気に色があるなんて、知りもしなかった。
 高天原が卓袱台の上で丹念にぼくのノートを繰っている。ぼくは怖いような気がして、彼がそうするのを見ないよう縁側に腰掛けて外を眺めていた。庭に自生する植物の葉に、蝉の幼虫がうごめいている。
 ふと視線をあげた先に、灰色のワゴン車が停車するのが見えた。小太りの男が頭頂部に手をやりながら、わずかに跳ねるような足取りで道を下ってくる。彼はいつものように土間へと入っては行かずに、そのまま縁側へ歩み寄ってくると、ぼくの隣に座った。こういう際にかける言葉を知らず、ぼくは目を見ないまま首をわずかに上下させて会釈の真似事をした。
 小太りの男は肩越しに振り返って高天原の姿を確認すると、胸元から煙草を取りだして火をつけた。この家の中で、煙草を吸う唯一の人物だった。
 「どこまで彼を理解してここにいるのかは、知らない」
 細く煙を吹き出しながら、小太りの男は呟いた。それはほとんど独白に近いようなトーンだったので、ぼくは相づちをうったものかどうか逡巡する。
 「高天原の動機とは、自らが存在するために生まれいづることを許されなかった者への贖罪であり――」
 しかし、ぼくの迷いなどお構いなしに言葉は続けられた。
 「普遍へと至る唯一無二の方策であるはずの自らの絶望が、彼の所属するジャンルの馬鹿げた包括性、あるいは倫理無視の内側に一切の過不足無く受け止められてしまうという苛立ちである。つまり、本質的にrebellionが不可能であるという苛立ち」
 吸い差しを庭に向けてはじくと、ぼくの返答を待たないまま小太りの男は立ち上がり、土間へと消えていった。
 ぼくはその背中を見送ると、再び室内を振り返る。
 室内の空気と同じ色に染まる高天原の横顔。このまま彼が読み終わらなければいい。
 しかし、やがて最後のページに到達した高天原はノートを閉じ、顔を上げた。ぼくは言われたわけでもないのに彼の前へと歩いていき、正座をする。
 高天原はサングラスを外して、ぼくの目を正面から見た。
 それはまるで、ここにいるぼくではなくて、これまでぼくが通り過ぎてきた人生のすべての瞬間をすべて眺めているようだった。いままで、誰もぼくをそんなふうに見たことはなかった。ぼくの上に訪れる誰かの関心は、路傍の石への興味に過ぎなかった。誰からも省みられないようにふるまうことこそが、ぼくの自己定義だった。
 高天原は、しばらくそうやってぼくを見つめてから、ふっとため息をついた。
 永遠に思える沈黙の後で切り出された言葉は、ぼくをすっかり動転させるに充分なものだった。
 「君を連れてきたのは、失敗だったかもしれない」
 みぞおちに重たい塊が生まれた。墜落するような感覚が膝を走った。
 高天原を失望させてしまった、と思った。何を選ぶこともできなかったぼくは、期待させなければ失望させることもないだろうと考えてきた。そんな無意識の防衛が、高天原の期待を裏切ってしまったのか。
 高天原は、ほとんど悲しそうにさえ見えた。
 「君を見ていると、決心がにぶる。人は誰かを前にしてしまうと、憎しみだけを続けることはできないんだろう。どんなに憎んでいても、いつかは愛が誕生して、誕生した愛は永遠に続いていく。人の中には再生する力がある。例えば大切な人を傷つけ殺す悪鬼への憎しみさえ、いつか愛に変わっていってしまうのではないかと私は恐れてきた。私の生を決定しているのは、そんな破格の愛情なのではないか。私はずっと、誰も赦したくないと思っているのに。私は私のために、君をそっとしておいた方がよかったのかもしれない」
 ぼくは本当に心からの誠実さで、高天原の求めるものに応えようとした。
 だが、それはかなわなかった。喉元に痛みが溜まるのを感じる。
 「君の書いたこのシナリオに、私はひどく感銘を受けている。予想以上のものだ」
 言葉の意味が浸透するための空白。
 関節をつなぎとめている何かが一度に消失するような脱力。
 このときぼくは、高天原が伝えようとしているものの中身を理解しようともせずに、自分の勘違いが覆されたことにただ安堵を感じていた。
 「君の世界は、とてもきれいだ。それは君だけの中で、一切が完結している。永遠の保留のきれいさだ。私は割り切れないものをどれだけ忘却せず、黒か白かの厳格なパターンに当てはめもせず心に保持することができるかが、世界をはかるものさしになると思ってきたが、それは私が現実を常に確定させたい人間だったからなんだろう。何ひとつとして確定したもののない君のこの話を読んで、私は自分をはじめて外側から客観的に眺めることができた。不思議なことだ。……君の書く”波紋”という考え方、実は私にはとてもよくわかる」
 高天原は、ぼくがノートに書いた言葉を口にした。
 水面に広がる波紋は弱い力だが、水面に浮かぶものたちは例外なくその影響の下にある。ぼくに日常を反復させる、目に見えないあの力のことだ。
 「この世界全体を支配している何かは確かにあって、それは神と呼ぶほどには意志がなく、私たちを圧倒はしない。自由意志というのは、思考のための方便だとずっと思ってきた。私たちの生は、あらかじめ何かに規定されてしまっているのだから。”波紋”という言葉は、心を澄まさなければ感じないですむほどのその弱い違和感を指すのに、とてもしっくりくる。ただ思うのは――」
 高天原は、ぼくの目をのぞきこんだ。
 「君は実のところ完全に充足していて、何を足し引きする必要もないんだろう。君は幼児のように無垢で、乙女のように処女で、そして天使のように拒絶している。私はこのきれいなものを壊してまで、自分の仕事をするべきなんだろうか」
 高天原はそこまで言うと、少し黙った。
 その言葉の意味するところはわからなかった。ぼくは、きっとぼくのシナリオがまずいので手を入れるべきかどうか迷っているのだろう、と考えた。高天原は、ぼくに何かを伝えようとしていたのに。
 「私は多少なりとも、君の世代に責任を感じていたつもりだった。歴史上の偉人と同じレベルの微細に至る感受性と思考回路を与えられ、私たちの内省の無いそろばん勘定に異常な性癖を開拓され、この世で一番貴重な魂を持った人買いの仲間たちが、永遠に向けて立ち往生をしている様子に、だよ」
 言いながら、高天原の目の底に怒りのようなものが浮かぶ。
 「君が”汚れた世界”と表現している場所は、本当は少しも汚れてなどはいない。君たちが、あまりに清潔すぎるだけなんだ。食肉目的の無菌室の豚のように、世界という残酷さの前に一方的な被害者として饗される運命なんだよ、君たちは!」
 高天原が卓袱台を手のひらで一撃する。ぼくは突然の激情にふるえあがった。
 だが、見たと思った高天原の怒りは、次の瞬間には消えてしまっていた。
 指でまぶたを押さえながら、高天原が言う。
 「……すまない。憎まなければ、私は動けなくなってしまうような気がする」
 ぼくは意味もわからないまま、あなたが謝る必要はない、といったふうなことをもごもごと答えた。
 「私が荷担しなければ、まだ何かが違ったのかもしれないと思い続けてきた。たくさんの人間を最上の技巧で、本人たちがそれと気がつかないままに不倶にしてきた。二度と復帰のかなわない場所へ陥れてきた。この世で一番重い罪、情状酌量の余地がない罪は、赤ん坊を殺すことだと思う。未来を殺すから、という意味ではないよ。赤ん坊たちの中にある、世界に対する無条件の、無上の信頼を裏切るからだ。私がやってきた仕事は、たぶん同じことだった。でもそれは、私があえて目を向けなかったところで、こんな小さなきれいものに結実していた」
 高天原は、庭に目をやった。
 「果たして、君たちは変わることができるんだろうか。心を枉げられて、君たちはなお生きてゆくことを選択するだろうか。君たちの世界はきれいだ。閉じているからこそ、君たちの世界はきれいだ。しかしそれが無理矢理に外へと開かざるを得なくなったとき、君たちの世界はまだきれいでいられるだろうか。私はもしかしたら、それが知りたいだけなのかもしれない」
 高天原の声は、ほとんどつぶやきのようだった。
 「私はこの世で最も卑劣な人間だ。私はいつだって、無邪気な扇動者どころではなかった。私は自分の意図が誰かの人格の上へどういう結果を結ぶか常に正確に把握していていながら、自分を制約することは一切無かった。私の罪は誰よりも重い。だから、誰からの同情の余地も、理解の余地もないようにすべてを運ばなくてはならない」
 サングラスをはめると、高天原はゆっくりと立ち上がる。
 「私はもう一度、憎むことから始めよう」

美少女への黙祷(1)

 それは言わば、おたくたちの火葬だった。
 生きながら炎に焼かれ、地面を転げ回るおたくたち。
 やがて、おたくたちに向けて放水が始まった。放水をする者の表情に人を助ける崇高さはなくて、ただ隠しがたい嫌悪がうかがえる。それは火を消すというより、彼らを自分たちの方へ近づけないためのようにも見えた。
 炎が消え、路上にくぐもったうめき声だけが残される。人々はただ遠巻きに見つめるだけで、あるいはお互いの顔を見合わすだけで、誰も近づこうとはしない。
 焼けこげた衣類の残骸をひきずりながら、おたくたちの一人がよろめきながら立ち上がった。炎に焼かれながらも手放さなかったエロゲーの美少女が描かれたビニル製の手さげ袋は、熱で変形してしまっている。美少女の巨大な瞳は溶けて黒い眼窩となり、その頭蓋は異様なデッサンを更に大きく誇張するように歪み、口元に貼りつくその微笑は戯画的なまでに変形し、周りを囲む者たちを嘲弄している。
 赤黒くただれた皮膚をつらせて、哀願にも見える表情で、そのおたくは一歩を踏み出す。
 画面の外から、女性が悲鳴を上げるのが聞こえた。
 無理もない。普段は秘し隠している、人間とは違う悪魔的な本質をそのおたくは白日の下にさらしているのだから。
 何をもっておたくを定義するのか?
 それは内側から発した、自己定義の問いなのだ。
 おたくを定義しようと試みる者は、すべておたくなのである。
 その異常な精神性は、おたくたちの外観をあなたたちとは違うものにしていて、あなたは見ればすぐにそれとわかる。あなたがおたくを見ておたくとわからないならば、あなたがおたくなのだ。牛は牛であることに疑問を感じ、苦悩しているのかもしれないが、人間から見れば、彼らは牛だというに過ぎない。言葉は一切必要ない。
 取り巻く人々の群れから、一本のペットボトルがよろめき歩くおたくに向かって投げつけられる。よけることもできず、それをまともに顔面に受けたおたくはもんどりうって倒れこみ、動かなくなる。
 あの事件の直後、ネットをかけめぐったホームビデオによるこの映像は多くの議論を巻き起こしたが、それはぼくに言わせればおたく同士の言葉の交換と、形を変えた自己擁護に過ぎなかった。
 高天原を紹介する司会者の声とそれに対するコメンテーターたちの反応に、わずかに軽蔑の調子が含まれているような気がしてならない。ブラウン管に浮かぶ高天原の姿はいつもの絶対性から遠く、ひどく薄っぺらに見え、周囲を取り巻く負の感情に浸食させないだけの圧力を感じなかった。
 「今日ここに呼ばれた理由はよくわかっています。欠席裁判を行わないため、あるいは安価の国選弁護人として、私はここに座らされているのでしょう」
 加えて、高天原の話す言葉がスピーカーを通じることであまりに客観的に聞こえすぎてしまったので、ぼくは不安になってテレビを取り囲む男たちの表情を横目でちらりと確認した。彼らはいつもと同じような熱を帯びた視線で高天原を見ている。だとすれば、すべてはぼくの感じ方の問題であるのだろう。
 昨日と今日は同じ日なのに、ぼくだけがいつも安定しない。あの日々の繰り返しのうちに、ぼくは自分の感じ方を世界へのものさしとして利用するのを放棄した。ぼくの中を満たす曖昧さは、現実を包むことはできても、測ることはできない。
 だから、高天原はきっといつものように完全なのだ。
 昨日、プログラム上の不具合がのぞかれ、高天原のエロゲー”甲虫の牢獄”は完成した。
 ぼくの書いたシナリオはアイデアはそのままに、高天原の手よって大幅に改稿された。それでもぼくは満足だった。ぼくがずっと感じてきたことが、高天原の手によって完全な形に昇華されたのだから。ぼくは自分自身が高められたような気さえしていたのだ。
 高天原は全員を呼び集めると、いつものように話し始めた。
 「この一年間、私のわがままを受け入れる形での共同生活に耐えてくれて、本当に感謝している。君たちに家族のような関係を持ってもらうことが、私のねらいだった。それはきっと、直接的な形ではないかもしれないが、このゲームの持つ雰囲気になんらかの影響を与えているはずだ。実は、君たちのうちのひとりでもいやだと言えば、私はこの制作形態を断念するつもりだった。それもこれも、君たちが金銭上の契約関係を越えた何かを私に感じてくれたからだろうと、嬉しく思っている」
 高天原は、”甲虫の牢獄”のプログラムが入った円盤を眼前へ掲げた。
 「これからこのデータは小型ハードディスクへと無数にコピーされ、日本全国へと発送されることだろう。しかし、これは象徴にすぎない。私の革命は、この中には無い」
 拍手がまばらに起こった。かすかなざわめきが続く。ぼくの後ろに立っていた男たちが、小型ハードディスクを配布メディアに使うことについての疑義を小声で囁きあっているのが聞こえた。高天原の発言に対し、誰かが直接ではないにせよ疑いを露わにする。それは異常なことのようにぼくには感じられた。そこにいた誰もが高天原の意図をはかりかねていたのだ。
 高天原は部屋の隅にひっそりと控えていた小太りの男に円盤を手渡した。はげ上がった頭頂部に手をやりながら、男は部屋を出てゆく。本質的にrebellionが不可能である苛立ち。彼はあの言葉で何を意味していたのだろう。
 「最後に、君たちに言っておきたいことがある」
 ざわめきは消え、しんとした静寂が落ちた。
 それはおそらく期待、だったのだろう。いよいよ、高天原はぼくたちに最後の言葉を言う。その言葉によって、ぼくたちの生は新たな段階へと革命されるのに違いない。
 しかし、高天原は軽く下唇を噛んだまま、何かをためらっているように見えた。
 不自然な沈黙の後にようやく発された言葉は、ぼくたちを失望させるに足るものだった。
 「一週間以内に、ここを出ていって欲しい。この家の賃貸の契約が今月末で切れることになっている。それから、これまでの製作期間中と同じように、今後もこのゲームの制作に関わったことは口外しないようにしてくれると助かる。強制はできないが、少なくとも発売から一ヶ月、つまり」
 誰もが困惑していた。高天原がまるで対等に、ぼくたちをどこへも誘導しないようにしゃべっているからだ。ぼくは自分の動悸が早まるのがわかった。
 「このゲームの正当な評価が下されるまで、じっと見守って欲しいということだ。革命前夜の密告で、すべてが水泡に帰した例は、歴史上いくらでもあるからね」
 高天原らしい警句に、ようやく安堵の笑い声が上がり、軽口が飛ぶ。
 「発売日までの間、私は自ら広報活動に出ようと思っている。作品が私の手を離れて世に出る最後の瞬間、私は自分の能力への強い信頼に関わらず、この世で一番気の弱い人間になってしまうんだよ」
 何人かが協力させてほしいと申し出たが、高天原は片手をあげて笑顔でそれを制した。
 それから、奇妙にきっぱりとした調子で、こう告げた。
 「私と君たちは、今日ここでお別れだ」
 その晩遅く、ぼくは寝つけずに起き出した。台所で水を飲んでいると、かすかに誰かの話し声が聞こえた気がした。
 土間をのぞき込むと、ボストンバッグをかたわらに腰掛ける高天原の姿があった。話している相手は、どうやら元山宵子らしい。高天原が厚みのある封筒を元山宵子に手渡しながら、何ごとか言う。ぼくのいる位置から、その内容は聞こえない。交わされた契約はわからない。元山宵子は、小さくうなずいたように見えた。高天原はバッグを手にすると、玄関から音もなく出ていった。
 その場に立ちつくして、高天原の後ろ姿をいつまでも見送るようだった元山宵子は、やがてゆっくりと振り向いた。開け放たれた引き戸から土間へと差し込む月明かりを映して、元山宵子の両目はまるで意志疎通の不可能な動物のように輝いている。そこに立っているのが本人であることを疑う要素は全く無かったにも関わらず、ぼくの感情はそれが元山宵子ではないと告げていた。それがこちらへと歩いてくる。
 ぼくはあわてて身を翻すと、皆が寝ている部屋へと駆け戻り、寝床に潜り込んだ。
 二人はいったい、何を話していたのだろう。
 あふれだす下衆な想像を振り払うと、ぼくは頭まで深々と布団をかぶり、眠った。
 そして、夢を見た。その夢を見るのは、実に一年ぶりだった。
 細長い岬を多くの人間たちが一列になって、粛々と歩いてゆく。
 その左右は崖になっていて、底は見えない。
 周囲を白いもやが取り巻いていて、見通しはほとんどない。
 列を乱す者はいない。列を乱せば、墜落するしかないからだ。
 進むにつれて、足下はどんどん狭くなってゆく。
 ときどき、谷底へと落ちてゆくものがいる。
 黙って落ちてゆくものもいれば、泣き叫びながら落ちてゆくものもいる。
 しかしどちらも、ただ落ちてゆくのだ。
 次第に、周囲を取り巻いていた白いもやが晴れてゆく。
 岬は先細りの果てに、ついにその先端へと収束している。
 もうその先に道はない。
 ひとり、またひとり、岬の先端から落ちてゆく。
 黙って落ちてゆくものもいれば、泣き叫びながら落ちてゆくものもいる。
 しかしどちらも、ただ落ちてゆくのだ。
 やがて、ぼくは自分がその緩慢な行進の最突端にいることを知る。
 ぼくは大きく後ろを振り返り――
 そこで目が覚めた。全身が寝汗に濡れていた。
 午前中に運送業者がやってきて、すべての機材を引き上げていった。トラックを見送ってまばらに室内へと戻ると、そこには早くも空漠とした雰囲気が広がっていた。
 午後になると、元山宵子がいつものように制服姿で現れた。ワゴンを運転してきたのはあの男ではなく、知らない誰かだった。高天原さんにそうじを頼まれて、と彼女は皆に言ったが、一向に何かする様子もなく、相変わらず縁側で両足をぶらぶらさせていた。いくつか高天原の動向について質問があったが、彼女は曖昧な返事をするのみだった。ぼくは気づかれないようその横顔をちらりとうかがうが、それは昨晩のようではない、ぼくの知っている元山宵子だった。
 日も傾き始めた頃、彼女は大きく伸びをすると、そのまま後ろ向きにのけぞるような格好で柱時計を見た。
 黒い髪の先端が流れて畳に触れる。制服の下に長く伸びた細い肢体と、白い喉。
 ぼくはあわてて目をそらした。
 元山宵子はよつんばいにテレビまでいざってゆくと、スイッチを引いた。つまらなさそうにガチャガチャとチャンネルを回し、ある番組で手を止める。
 「これって、もしかして高天原さんじゃないかしら」
 元山宵子の声に、気の抜けたようにぼんやりとそれぞれのことをしていた男たちが、ぞろぞろとテレビの前へ集まった。
 そしてぼくたちはいま、高天原を見ている。
 「私はちょうど、みなさんの日常に不穏な影として再び現れはじめたにも関わらず、みなさんが生理的な拒絶以上の理解をできない人々とみなさんとの中間地点に立っているという自覚があります。どちらの、こういってよろしければ文化も理解し、それをある程度までなら通訳することもできる。ただ、私はいずれの利害にも与していないという点から、どちらにとっても積極的な外交官とは言えないかもしれませんが! さて、みなさんが好んで使われるあの呼称で呼んでしまうと、その単語の持つ負のイメージが私の説明を、あるいは私の説明へのみなさんの理解を歪めてしまう恐れがあります。ここでは、彼ら、とだけ呼ぶことにしましょう。みなさんは、できるだけ、彼らへの偏見を捨ててお聞きいただければと思います。私は、彼らとの関わりを考えずに、この時代を生きることの危険性をみなさんに理解していただきたいのです」
 カメラが引いた際に映し出された他のコメンテーターたちが、明らかに鼻白んだ様子を見せている。きっと彼らが期待していた言葉とは遠いのだろう。再び高天原へと映像が寄る寸前、司会者の男が助けを求めるような視線をスタジオへ向けるのが見えた。
 「彼らが求めているものを一言で表すとするなら、”自己憐憫を注入するための虚無の器”と言えるでしょう。彼らには思想も信条もありません。ほんの些細な日常での決断に、それを決定することが自分の人生へ深甚な影響を与えるのではないかと恐れて、巨大な課題と挑戦を感じて、彼らは判断を停止してしまう。選ばなかったものへの後悔に耐えきれず、永遠を立ち往生しているのです。彼らに唯一あるのは、意外に響くかも知れませんが、感情そのものです。彼らはその無感動の様相とは裏腹に、荒波のような内面の葛藤に常に揺さぶられています。全身の激しい痙攣が昂じて、それが周囲には全くの硬直にしか映らなくなっている、と言えばおわかりいただけるでしょうか。コマの回転が静止を生み出すようなものです。ですが、その感情は日常で私たちに選択を促す、物事に対する好悪の段階には達していません。好悪に基づく選択は思想の発端ですが、彼らの内側に他者へと向かう感情は存在しないのです。自己憐憫を中心にして、それを囲む衛星のごとく喜怒哀楽が旋回している。彼らの精神生活は人間のベースにある動物的衝動と言うよりも、外部刺激に向けての昆虫的反射の連続で成立しています。彼らの興味は自分以外には向かず、それゆえ外的な反応はすべて心を伴わない反射の段階に留まるのです。根本的に、みなさんとはその心の構造が異なっているのだと考えて下さい。外見の無感動さと、その応答の無機質さ、あるいはみなさんの仲間を装おうとしながら好悪を持たないゆえにいつも失敗する、あの奇妙奇怪な演劇的応答から推測できる以上の内面の差異が、みなさんと彼らの間に存在すると言っていいでしょう。昆虫的な反射と申しましたが、昆虫と違いますのは、これが問題をやっかいにしているのですが、人には境界があります。自分と他人を区別する境界です。皮膚や肉体のことではありません。我々の精神のことです。昆虫や動物の持つ個の境界というのは、例えば腹具合であるとか、発情期などの時期であるとかに影響を受けて伸縮する。ときに消えたりさえする。しかし、人間の持つ精神の枠組みは、決して消滅しません。この枠組みの強固さは我々の自己同一性への希求を保証しますが、同時にあらゆる感情の澱を逃がさないという意味合いも含んでしまうことになる」
 高天原は淡々と話し続ける。その調子はあまりにも淀みがなく、誰も口を挟むことができない。彼の言葉は正しいからというよりは、ただ単純に他者を必要としていないので誰も後から言葉を加えることができないのではないかと、ぼくは思う。
 「枠を破壊する、破壊しないまでも穴を空けて中身を抜き取る、それは一般の人間には極めて難しいことです。なぜなら自己同一性の否定と死への怖れ、両者は全く同じものだからです。つまり、いったん歪んだものを湛えてしまったなら、二度と美しく変わることはできないのです。不可逆ですから、どういう原因がその歪みを招いたのかを推測するのは無意味でしょう。みなさんが好悪に発する欲望を溜めているその枠組みの中に、彼らはそれぞれの所与条件に対応する反射を溜めこんでいる。昆虫的指光性でもって、尊大な自己憐憫を注入できる対象を求め続けている。彼らが執着できるのは、自己憐憫の投影を許してくれるものだけなのです。意志を剥奪されたゲームの美少女であるとか、社会的自我の形成途上にある少女などが彼らにとっての器となり得る。その意味で、私が私の生業として彼らに提供しているものは、闇夜に明滅する街灯のようなものでしかないのかもしれません」
 室内は薄暗くなり始めていたが、誰も灯りをつけようとはしなかった。
 「もしかすると」
 腕組みをしたまま画面から目を離さず、プログラム担当の男がつぶやいた。
 「高天原さんは、俺たちを裏切ったのかもしれない」
 沈黙が降りた。その場にいる誰ひとりとして、その言葉に反応を示さなかった。しかし、それはその言葉を聞いていないというのではなく、全く反対の沈黙だった。その言葉は、あまりに皆の不安に答え、あまりに皆の腑に落ちてしまった。
 ぼくは、こんな光景を一度見たことがある。
 細く長く続いた呼気の後、掛け布団が上下することをやめる。眼前に冷えていく祖父の身体を前に、集まった親族は誰ひとりとして言葉を発さない。死んだ、と言うことができない。現実は言葉と離れた場所にあるはずなのに、言葉が現実をそこへ規定してしまうような、しんと静まった畏れを全員が共有していた。世界には、誰もがそれぞれの属する場所を越えて否応なく和してしまう特異点が存在する。
 ぼくたちはそのとき、たぶんそこにいた。
 ブラウン管の中で高天原勃津矢の演説は続いている。
 「心を使わず、すべての事象にただ昆虫的反射でもって応答する。少し前の時代までは、そんなことは全くの不可能事だったでしょう。つまり、彼らにも多少の同情の余地はあるのです。けれどそれは、どんな大量殺人者であっても必ず弁護人はつくという意味合いでの同情でしかありません。心の傷、トラウマなどという観点から見れば、すべての人間はそれこそ何らかの理由から同情に値してしまうものなのですから。私が言うのは、みなさんを取り巻いているこの現実が、彼らにとっては心という名前の聖性を踏まえない行動ですべて足りてしまうという意味なのです。聖性という言葉を使いましたが、よりわかりやすく表現するならば、自分という存在が重要で無くなる瞬間を持てるかどうか、ということです。彼らにとって、そんな瞬間は絵空事のようにあり得ないのです」
 高天原は言いながら、ゆっくりと右手を持ち上げると、自分の胸に当てた。
 カメラがぐっと寄り、その姿が画面に大うつしになる。サングラスに照明が映りこんで、高天原の表情を読み取ることはできなかった。その顔は、無機質なデスマスクのようにも見えた。
 室内の誰も、まだ一言も発することができないままでいる。みんな一縷の希望を捨てきれないでいるのだ。
 しかし希望というのは、常に絶望への準備動作に過ぎない。
 「誤解を恐れずに表現するならば、彼らはことごとく、圧倒的な何かに平伏する必要があるのです。暴力的に、無惨に、原型を止めぬほどに、引き裂かれる必要があるのです。彼らはもう、そんなところまで来てしまっている。彼らはみんな、不可逆なまでに破壊されたいと願っているのです。メディアに踊る陰惨な事件を見て、人間のまねごとで眉をひそめながら、その実うまくやりとげたその犯人と、もしかするとその被害者にさえ嫉妬を感じて、隣人の有り様を横目でチラとうかがいながら、自身の悪魔的な思考を悟られまいと声高な批判へ同じ調子でもって彼らは唱和しているだけなのです。自分が本当に死ぬのかどうかすら確かめることのできないほど孤絶した彼らは、もう飽き飽きしている尊大な自己憐憫と不滅性への確信の限界を見たがっているのです。カミソリの刃を手首に埋める深夜の少女たちのように勇敢ではない彼らは、湖の水面に立つ”波紋”のような現実からの穏やかな干渉へ昆虫的な反射を繰り返しながら、ほとんど新聞的言説でしかない人間の尊重という茶番を、完膚なきまでに蹂躙されたいと願っているのです……」
 スタジオがざわめき始め、司会者のとってつけたようなコメントの後、画面はCMへと転じた。
 気づかぬうちに、口蓋に張りついてしまった舌を引き剥がす。
 高天原は、いったい何のことをしゃべっているのだろう? それは少なくとも、ぼくたちが作り上げた作品のことではない気がした。ぼくはテレビから視線を外すと、周囲を見回した。
 「元山さんがいない」
 沈黙を破った最初の言葉は、ぼくによるものだった。それは誰の絶望をも救わない、個人的な違和感の確認に過ぎなかった。誰もぼくの発言に答えようとはしない。その空虚さは、もう高天原はいないのだと強く感じさせるに充分なものだった。
 元山宵子は、ぼくたちが高天原の演説へ釘付けになっているうちに、いつのまにかいなくなってしまっていた。
 次の日になっても、彼女は帰ってこなかった。もう高天原との契約は終わったのだから、それは当たり前のことだった。ただ、最初に帰ってこなくなったのが、元山宵子だったというだけだ。
 日が経つにつれ、ひとり、またひとりと出ていった。律儀にみなへ挨拶をする者もいれば、朝起きるといなくなっている者もいた。お互いに何の関係も無いぼくたちをつなぎあわせていたのは、高天原という絶対的な家長だったのだ。テレビ番組はひとつのきっかけに過ぎなかった。高天原がいよいよこの家に戻ってくることはないらしいと、残った者たちも気づき始めていた。
 ぼくはと言えば、元山宵子がいなくなった日に高天原が二度と戻ってこないことを確信したにも関わらず、なんとなくぐずぐずしていた。高天原がずっとぼくの人生の面倒をみてくれるような、甘い錯覚が最初にあったせいだろう。だがそれ以上に、ひとつの大きな不安がぼくをとどめていた。
 それは、言葉にすればこういうことだった。
 あの場所に戻ったらもう二度と、出てこられなくなるのではないか。
 そしてその果てに、今度こそ、殺してしまうのではないか。

美少女への黙祷(2)

 ”甲虫の牢獄”の発売日から二週間後のあの日、ぼくは電気街の量販店にいた。
 高天原の家を出た後、ぼくは転々と路上生活を続けていた。もちろん、本当の路上生活者のようにというわけではない。ぼくにそんな覚悟があるわけはなかった。コンビニで食料を買い、公園のベンチで荷物を枕に眠る。常に自分が薄汚れているように感じたあの頃とは正反対に、ぼくは自分の清潔さをいやというほど思い知らされた。砂埃にまみれたベンチに身を横たえるのに躊躇し、手の甲を這う蟻に悲鳴を上げて飛び起き、深夜の高架下で酒盛りをする黒いぼろ布たちが優しくぼくを手招きするのに全身が泡立つような嫌悪を感じて逃げ去る。
 理屈はない、ぼくが上等だと思うわけでもない。ぼくの中で感情の選択は常に自動的に行われ、いつだってぼくは意志を持たないかのように、ただそれに身体を従わせるしかなかった。公衆トイレの個室にこもり、水道水に湿したハンカチで身体の汚れをぬぐう。ぼくが関わりたかった現実とはこれのことではないと思いながら。
 雨戸を閉め切り、ブラインドを下ろし、モニターの明滅だけが光源の牢獄で、ぼくは自分からそうしているなんて気持ちはまるでなくて、いつも誰かがぼくを閉じこめているのだと感じてきた。そして、ずっと現実と関わりたいと思い続けてきたはずだった。現実とは観念のことであり、最大公約数の側の観念に同化できさえすれば、その事実はぼくを救うはずだった。誰に教えてもらうまでもなく、解答はわかっていた。
 個人の観念ではない現実が存在するのか。きっとぼくはあのとき、それを高天原の中に見たのだ。しかし、彼はぼくを去った。それを考えると、なぜか涙がこぼれる。高天原との生活を失ったぼくに、もう戻る以外の方法は残されていない。それはわかっていた。みんなが、両親がぼくを馬鹿のように扱うのとは別に、いつだって何でもわかっていた。ただ、行動できなかっただけ。
 ぼくは戻ることをいつまでも先延ばしにしていたかった。なぜってあの牢獄に戻れば、高天原がぼくを迎えに来たいと気持ちを変えても、ぼくを見つけることができないではないか。しかし、そのはかない希望は日々に薄れた。黒いぼろ布たちの手招きに含まれる優しさと、その理由に壊された。
 ぼくの足が電気街の量販店へと向かったのは、高天原の作品をこの目で見ることで彼と過ごした日々が決して虚空に消えたのではなく、何かに結晶するための時間だったのだということを確認したかったからだと思う。
 子どもの頃に読んだ漫画の一ページ、激流が飛翔するような、視覚化された時間の恐怖。
 ぼくに人生を積み上げることはできない。なぜなら、それはあらかじめ過不足なく与えられている。ぼくにできるのは、与えられた人生が秒刻みにほどけてゆく取り返しのつかなさに身悶えること。その取り返しのつかなさにわずかの抵抗を示すために、高天原は時間を作品へと結晶させるのだろう。彼にシナリオを書くことを強制され、ぼくには彼がなぜエロゲーを作り続けるのか理解できたように思えた。最初に出会ったときよりも、彼に近づけたように感じた。この一年間は決して無駄ではなかった。それを確信したくて、ぼくは電気街の量販店へと向かったのだ。例え、曳かれていく子牛が見上げる青空ほどの気休めに過ぎないとしても、あのときのぼくにはその行為が必要だったのだろう。
 案内板に従い、人の密集するエレベーターをなんとなく避ける気持ちになって、階段をつかって三階へ上がる。
 目の前に広がったのは、ひとつの階全体が美少女たちに占拠されている光景だった。
 一枚一枚を取りだしてみると非常に鮮やかで奇抜だが、全体として眺めると逆に没個性的に見えてしまうポスター群で周囲の壁面は埋められていた。ポスターに描かれている美少女たちは、ぼくに向けて穏やかに微笑みかけていた。なぜか元山宵子のことを思い出す。ぼくはあわてて頭の中に浮かんだその映像を振り払った。
 最初、何年ぶりかの人混みに感じた窒息か過呼吸のような胸苦しさは、次第に薄れた。やがてほとんど安逸さえ感じている自分に気づく。その場を往来する人々は、まるでお互いがいないかのように振る舞っていたことが理由だろう。いつもならば誰かがぼくの横を通り過ぎたあとに背後から向けられる意識の破片のようなもの――ぼくのあずかり知らぬ場所で決定され、ごわごわした肌触りでぼくを規定するあの見えない拘束を全く感じないですんだ。ここにいるのは、ぼくと同じ種類の人間ばかりだからなのかもしれない。ひとかたまりになって声高に話し合う一団からさえ、高天原の家で感じたような予期せぬ混沌を孕んではおらず、同一の個人を拡大した複数に過ぎなかった。
 フロアーの中央には、切り出した石塊としてひとつひとつのパッケージを積み上げたピラミッドがそびえていた。しばらくその周囲をぐるぐると回った後で、ぼくは”甲虫の牢獄”を見つけることができた。ゲームの本数と置かれている場所から、ぼくは高天原へ寄せられる暗黙の評価が理解できたような気がした。高天原の家でパッケージの見本を見せられたことはあったが、こうして外で目にするのは奇妙な感覚だった。あるはずのない物が、あるはずのない場所に存在するという違和感が原因だったのだろう。ぼくの中でそれは、あの家の風景や雰囲気と分かちがたく結びついていた。
 ぼくに覚悟を決めさせるのに充分なほど感慨が染み渡るのを待ってから、”甲虫の牢獄”を元の場所へと戻す。目的はすでに果たされており、すぐに立ち去っていいはずだった。結果的に、ぼくの好奇心がぼくをそこへ致命的なほど長く留めてしまったことになる。ぼくは、誰が高天原のエロゲーを購入するのか知りたいと思ったのだ。彼と出会ったことすらない他人が、彼によって結晶化させられた時間に接触し、そしてその事実で高天原を祝福する。ぼくは切実に、その瞬間を見たいと思った。周囲を取り囲む同族たちとのぼくを分けるものがあるとすれば、それは曲がりなりにも高天原と時間を共有したという自負――彼に手を引かれて、世界の真実へとつながる数少ないの道のうちの一つをたどり、その奥にあるものを垣間見たという自負だった。
 あまりにも多くの人間が”甲虫の牢獄”の前をただ通り過ぎてゆく。このピラミッドの裡で、高天原のエロゲーは唯一輝きを放つキーストーンのようにぼくの目には映った。パッケージを一瞥しただけで立ち去る者、何の確認もしないまま無造作にいくつもの箱を積み上げてレジに向かう者、周囲の様子を気にしながらうろうろと歩き回りためらいを露わにする者――ぼくと同様の視力を持つ人間は存外に少ないようだった。しかし、売場に立ちつくす長い無為の時間は、ぼくを失望させなかった。それはむしろ、ぼくの自負と選別の意識をいっそう強める役割を果たしていたように思う。
 やがて、歳月にくすんだ青いリュックサックを背負い、ほとんど黒ずくめの上下に度の強い眼鏡をかけた男が、”甲虫の牢獄”を手に取った。パッケージの絵を眺め、裏面のゲーム内容説明を読むことを幾度か繰り返すと、その男はレジへと向かった。ぼくは緊張と落胆が入り交じったような気持ちで、気づかれないようにその後ろを追いかける。
 男は無言のまま、無造作にパッケージをカウンターへ置く。それを取り上げた店員は、客の顔を見ないまま無表情でレジを打ち、機械的な声音で金額を告げながら購入特典のポスターを商品の入ったビニル袋に挿入した。男は自分が購入しようとしているものに全く興味を残していないといったふうに、何か別のものを探すような仕草で店員の動作から視線を逸らせた。
 ぼくと目が合う。男の顔が何かの感情に歪む。
 かけている眼鏡が外れ、ほとんど床と水平に滑空してゆく。
 次第にその表情は、随意筋が作り出せる範囲を越えた歪みを見せはじめる。
 頬に押し上げられるようにして、男の左の眼球がせり出してきて、ついには眼窩からまるで漫画のように外れて飛び出してゆく。
 いっしょに引っぱり出された視神経が見え、与えられた力学的動きに従って飛び去ろうとする眼球を一瞬間、空中に静止させる。
 さきほど押し上げられてきていた男の頬の皮膚が、このときその張力の限界を迎えて布のように裂ける。
 赤い血の飛沫がわずかに空中へ散る。
 男の身体が後方へ、まるで走り幅跳びの跳躍を逆回しにしたような動きで飛ばされていく。
 同時に、空中で完全な静止状態にあった眼球は、ついに視神経の束縛から解き放たれる。
 それは黒目の部分の移動でゆっくりと回転していることを示しながら、レジ正面の商品棚に並べられた雑誌に描かれている美少女にぶつかり、その胸の谷間を汚した。
 この一連の様子を、ぼくはまるでビデオのコマ送りのように認識する。
 脳の中心で何かが炸裂した。
 そう感じた瞬間、重力は消失し、ぼくの両足は床から浮き上がる。
 天井と床を幾度か交互に見たと思うと、背中に強い衝撃を受ける。
 静止する視界。物理法則は取り戻され、ぼくは地球へと墜落する。
 肺から空気がすべて絞り出され、吸い込もうとする努力を背中の痛みが妨げる。
 混乱した意識の中で身体の前面に触れているのが床なのか壁なのか、全くわからない。
 その滑らかな平面を両手で押し返そうとするが、わずかの力を込めることもかなわない。
 そこですべてが暗転し、ぼくは自失した。
 鼓膜をやられていたのかもしれない。
 ぼくが再び目を覚ましたのは周囲の騒動というよりも、耐え難い熱気が理由だった。
 うつぶせから身を返して息をすると、灼けるような熱さが流れ込んできてむせかえる。天井は黒い羽虫のような動きで満ちている。背中の痛みに耐えながら上半身を起こすと、そこには果たしてゆらめく真っ赤な柱がそびえていた。その柱はうねるように天井へ向けて上ってゆき、その頂点で黒い羽虫を吐き出し続けている。
 まばたきを二回した後、それが炎であることがわかった。エロゲーを積み上げた、あのピラミッドが炎上しているのだった。
 炎は天井をなめ、床を這って、みるみる壁面へとのりうつってゆく。
 壁面のポスターに描かれた美少女たちの顔は、笑顔から泣き笑いへ、泣き笑いから黒いあばたを生じ、そして最後に嫉妬の赤い炎を吹いて、別のポスターの美少女へと浸食してゆく。
 熱気に宙を舞う、美少女の裸体、愉悦の表情。肉と人格を汚されるために作り出された究極の奴隷である彼女たちが、自らの存在の消滅に対して見せる、心からの快楽の乱舞。
 ぼくは両足に力を込めて、歩けることを確認する。
 炎の柱の中に未だ燃え残り、哀願の表情を浮かべる美少女キャラたちは、自分たちが本当は何をされているのか、死ぬに及んでなお気づくことのできない無数の白痴だ。心を剥奪された彼女たちには、自分を憐れむことすら許されてはいない。
 なぜか高天原の言葉が思い浮かんだ。この世で最も重い罪は、赤ん坊の信頼を裏切ることだと。ぼくは彼女たちを見ないようにしながら、この地獄から逃げ出すための出口を探した。
 非常口へと続く床には白痴の性を、赤ん坊の生を買春するためにやってきた無数の人買いたちの肉の残骸が累々と続いていた。名状しがたい感情に促され、ぼくはそれらを意識的に踏みつけ、蹴散らしながら進む。煙に咳き込み、涙と鼻水を流して、ぼくは「死ね! みんな死ね!」と絶叫した。これまでのようではなく、心と言葉は完全に一致していた。祖父の死と全く違う死を、ぼくは彼らの上に望んだ。その言葉によって世界の全員が本当に死に絶えたとしても、全く後悔を感じなかったはずだ。
 足下に抵抗を感じたと思った次の瞬間、足ばらいを喰わされた格好で、ぼくは肉の中へ頭から倒れ込んだ。べっとりと顔についた液体を手のひらでぬぐいとる。立ち上がろうとしてかなわず、背後へ目をやると、顔の左半分が真っ黒く焼けただれた太ったおたくが、ぼくの足をつかんでいた。そのおたくは残された右半分の顔で、泣き笑いのような温情を乞う表情を浮かべていた。
 ぼくの人生の中で視界がくらむような、他人に対する本当の怒りを感じたのはこのときが初めてだった。つかまれていない方の足を振り上げると、小太りの男の顔面の右半分を力任せに蹴りつけた。おたくは、ひゅう、と呼吸音ともつかないような細い悲鳴を上げた。その悲鳴に怒りをあおりたてられて、ぼくは何度も何度も繰り返しおたくの顔面を蹴りつける。だが、そのおたくは、万力のような決死の力でつかんだ足を離そうとしない。
 ぼくはもう完全に我を失った怒りで、その手首を蹴りつけた。渾身の力を込めた三度目の蹴りで、木の枝が折れるような感触が伝わる。そのおたくはたまらず手首を押さえてもんどりうって、ぼくは解放された。
 そこに至ってまだ、ぼくの中の怒りは燃えさかっていた。Tシャツとジーンズの間から、白い腹がのぞいている。ぼくは全体重を込めた踵で、その白い腹を踏みつけた。そのおたくの口から、鮮血と胃の内容物が入り混じった液体が、瞬間おどろくほど高く噴射する。両目を見開き、両手両足を真上に伸ばしてぶるぶると痙攣し、そして、ぐったりと四肢を投げ出した。
 ぼくは動かなくなったおたくを見て獣のように絶叫しながら、非常口へと突進する。
 誰かを殺してしまったかもしれないことを恐れたわけではない。相手の生死は気にならなかった。その肉が生命を伴っていようがいまいが、この炎の平等さはその内側にすべてを消滅させるだろう。自分の中に生まれた初めての激情が急速に冷えてゆくのが実感されたから、絶叫したのだ。右手を大きく伸ばし、遠のいていくその感覚を実際につかまえることができると信じているかのように、ぼくは追いかけた。
 人の死さえ、ぼくに影響を与えないのか! 人を殺してさえ、この心は何も無かったように復元するのか! ぼくはこの世界の中で、自分の死以外のすべてを全く重要だと感じていないのか!
 ぼくは叫びながら涙を流した。底の知れない人の孤独へ絶望して泣いたのだと思っていたが、その絶望はすぐに自分自身への愛情とあのおたくへの疑う余地のない嫌悪感に上書きされた。自分の生を求めて階段を駆け下りるうち、ぼくが関わった一人のおたくの死は、多くのおたくの死を道連れにして、完全にぼくの内側で無化された。
 店の入り口にはすでに消防車が到着しており、多くの野次馬たちが集まっている。
 衣服に火のついたまま転がりでてきたぼくを、消防隊員が手に持った布で抱きかかえるようにして包みこむ。布の下に限定された視界に、ビルの壁面から巨大な美少女が見下ろしているのが見えた。
 無防備な微笑みで、頬を染めた恍惚で。特別な誰かへしか見せるはずのない無上の信頼の表情を、尊厳を、愛情を、すべての人間の前へさらしているのだ。彼女はどんな醜いおたくたちをも、心の底から信頼して、愛しているのだ。
 ぼくは絶叫した。それはまるで気の違ったような叫びだった。
 拘束がゆるむ。これまでぼくの人生を長く強く抱きしめていた力が、このときゆるんだのだ。
 ぼくは赤ん坊のように身をよじって消防隊員の手の内から逃げ出すと、サッと遠巻きになる野次馬たちの間を両手を振り回して絶叫しながら走り抜けた。
 眼前に見下ろす巨大な美少女の慈愛の微笑みをただ避けるように、ぼくは野路裏の闇へと遁走した。

One more final

 二階から数時間ほど聞こえてきていたかすかなうめき声が途絶える。
 テレビを消してソファから立ち上がると、洗面所に向かった。
 ぼくは手を洗うのが好きだ。清潔な泡に汚れが溶けてゆくのを見ると、その当たり前の正しさにいつだって胸がつまるような思いになる。
 流れ出る水に両手をこすりあわせながら、なぜかずっと昔に読んだ漫画の一場面が浮かんだ。
 自分の両手に血がこびりついている幻影から逃れられず、真夜中にひとり手を洗い続けるボクサーの話。なぜその男は両手を洗い続けていたのだったか。
 理由を思い出す前に、ぼくの両手はすっかりきれいになった。
 窓から差し込む陽光に手のひらを透かしてみる。
 昔、祖母がぼくの手をとって、苦労の無いきれいな手だと言ったことがあった。
 ゆっくりと両手に顔を近づけてみるが、ただ石鹸の香りがするばかりだった。
 久しぶりに玄関の扉を開いて、外に出る。
 目映いばかりの陽光に、ぼくは一瞬世界の上下が無くなったような錯覚を覚える。
 しかし目が慣れてしまえば、微睡むような昼間の住宅街が広がっているばかりだった。
 門扉に身体をあずけ、誰かが通り過ぎるのを待つ。
 しばらくして、よく太った婦人が痩せた犬を散歩させて来るのが見えた。ぼくはとびきり大きな声で婦人に挨拶をする。
 婦人は驚いたような、奇妙なものを見るような空白の後、作り笑顔で会釈をする。ぼくの噂はきっと界隈に知れわたっているに違いない。
 足早に通り過ぎようとするところへ、さらに他愛のない話題を投げかけて引きとめる。
 居心地の悪そうな表情をして早くこの場を離れたがっていることがわかったが、ぼくはことさらにもったいつけて話を長引かせた。
 ぼくの話が途切れるのに、ほっとした様子で立ち去る後ろ姿を見送りながら、あの婦人はこれから何度も今日の会話を誰かに吹聴することになるに違いないと思った。繰り返すうちに勘所をつかみ、彼女の話術が次第に長けてゆく様を想像すると、自然と微笑みがこぼれる。
 ここ数日分の新聞や広告を取り出そうと、中身に押されて蓋の浮いた郵便受けを開けた。
 足元に政党の広報誌や町内誌が散らばる。かがみこんで、そこに白い封筒がまじっているのに気がつく。
 切手は貼られておらず、表書きにぼくの名前だけが書かれている。動悸が速まるのを感じながら、封を切る。
 古風にも青いインクで手書きされた二枚の便箋が入っていた。
 「私の作り出してきたものが所属する文化は、精神の死を前提としていない。だが、肉体は死ぬ。君の苦しみの正体はそこにある。だから、死を選ぶことは間違いではない。死を生涯の前提としない文化に所属する以上、いつどこで精神を終えるかを選択することは、全く個人の決断によっている。肉体の死と精神の死が乖離している以上、生物としての終焉を君自身に追いつかせることは、醜悪な結末を見ることになるだろう。我々では、肉体的な死を許容する精神の在り方を完成させることができないからだ。少なくとも私には方法を見つけ出すことができなかった。君ならできると思うわけでもない。しかし、可能性は常に残されている。決断を下す前に、君はまず考えるべきだ。
  私は、私以外の思考がこの世に存在することをただ許せなかった」
 差出人の名前はどこにも書いていなかった。
 懺悔の聴聞僧の条件は、告白の相手と最も遠くにいること、そしてうなずきをしか知らないこと。
 ぼくは泣き笑いのように顔を歪めるが、それは手紙に書かれている文字を滲ませるには至らなかった。
 便箋を丸めて、庭の灌木へ向けて投げる。それは湿った日陰の土の上に落ちた。
 「――」
 家の中へ戻ろうとして、名前を呼ばれるのを聞いたように思った。
 振り返っても誰もいない。
 しかし、今度は確かに聞こえた。
 段差に足をとられて片方のサンダルがぬげたが、ぼくは構わず通りへ飛び出した。
 辺りを見回しても、真昼の住宅街に人気はない。
 「――」
 また。
 ぼくは声のする方へ身体を向ける。
 はたして、そこにあるのはぼくの家だった。
 玄関の扉が、内側からゆっくりと開いていく――
 姿を現したのは、母だった。
 こみあげる恍惚に耐えるように瞳は潤み、頬は薄く紅潮している。その姿は若々しく、ただ輝くばかりに美しかった。
 脳の裏側に刺さるかすかな違和感。
 絵の具のような質感で塗られた彼女の肌はまるで――ではないか。
 瞬間、目の前を光の粒子の群れがよぎった。ぼくはよろめくように数歩後退する。
 砂嵐のようなそのノイズがやがて視界から消えると、後頭部にあった棘のような違和感は完全に消失した。
 長くぼくの頭蓋を占め、人生そのものと同義になっていた綿のような苦痛は無くなっていた。
 全身が脱力するようにゆるみ、これまで経験したことのない多幸感に圧倒され、目頭が熱くなる。
 グラマラスな姿態を蠱惑的に揺らしながら、母がぼくに歩み寄ってくるのが見えた。
 そのとき、水面に急浮上するダイバーのような唐突さで、なぜか”現実感”という単語がぼくの認識を乱した。
 しかしそれは刹那のうちに消え、心は元のように凪いだ水面を取り戻す。
 これ以上ないほど優しい仕草で、母がぼくの肩に手を回す。その指先から全身に温もりが広がって、胸の内は喜びに満ちる。美しい母と仲良く寄り添うぼくの姿を、誰かに見て欲しかった。いまや何の言葉も必要なくぼくは認められ、愛されていた。
 ずっと何を勘違いしていたんだろう。まるで青い鳥の逸話のようだ。待ち望んでいた幸福は、ぼくが気がつかなかっただけですぐそばにあったのだ。
 明日からは何をしよう。ああ、明日が待ち遠しい! 明日のことを考えるだけで胸がわくわくする。この感覚こそが、自由な人間の喜びなのだ。
 そうだ。子どもの頃、毎夜布団に入る前はいつもこんな喜びに満ちていた。ずいぶんと長い間、ぼくは人としての喜びを忘れていた。しかし、これから時間はたくさんある。これまでの不幸を取り返す時間はいくらでもある。
 最愛の人に肩を抱かれて期待と希望に胸をおどらせながら、ぼくは背後に扉の閉まる音を聞いたのだった。  <了>

少女保護特区(1)

    おぼえておいて。一羽の鳥が砂を一粒一粒、大海原を越えて運ぶとするでしょ。
    砂を全部、向こう岸に運び終わったところで、やっと永遠が始まるのよ。
    まあ、それはそれとして、鼻をかんだら。  (カポーティ『冷血』 )
 奈良全体は、四つの部分に分かれていて、その一つには教育特区があり、もう一つには平城特区があり、三つめには、土地の人の言葉でポントチョウとよばれ、行政的にはただ鋳物特区とだけよばれる刀匠の居住地帯がある。京都のそれとは全く関係を持たない。特区内で最も人口の集中する「日本刀町」の名が人口に膾炙してゆくうち、自然と音声面での脱落を生じた結果と思われる。四つめは、青少年育成特区である。しかし、土地の人で公文書上のこの呼び名を使うものは、ほとんどいない。この地域は一般に、少女保護特区の俗称でよばれる。
 この四つの特区はお互いに異なった制度と特例措置をもっている。教育特区は名物無き県の無形品目を有形化するために、平城特区は天災無き県の歴史遺物を人災から保護するために、それぞれ大和川水系ならびに淀川水系とちょうど重なる行政単位の上に成立している。次に鋳物特区について、区全体がポントチョウの名で代替されるほど刃物の生産に傾倒してゆく過程には、少女保護特区へ隣接する地勢が人心へ大きく影響したとの推測が成り立つ。なぜなら特区内で許可証を得た少女は、異性というより同性に対する身の安全から、即座に武器をつかむ必要に迫られるからである。ここ五年に清掃局が公表した統計を参照すれば、許可証の発行から武器の確保までに死傷される少女の数が年を追って増え続けているのがわかるはずである。鋳物特区は新宮川水系、青少年育成特区は紀の川水系に位置する。
 わずかの米粒が、白濁した液体にふつふつと上下する。予が炊事の煙を目で追えば、上空を旋回するヘリの操縦者があわただしく無線機をつかむのが見える。町内に点在するスピーカーからは、サイレンの音が肉食獣のうなりのように低く長くしぼり出される。予は自分自身に出立を指令すると、橋の下の陣営へ輜重を残したまま、ビデオカメラを片手に大和川の浅瀬をかちわたり現場へと急行する。半刻の行軍の先に、身の丈の半分ほどもある鉄門扉を押し開き、まさに路上へ足を踏み出さんとする予の少女と遭遇を果たす。ちょうどビデオカメラの射程内にまで接近すると、何より視線を避けるため、予は自分自身に大地へと身を伏すよう号令を下す。たちまち左上にRECの赤い明滅を伴った視界は低くなる。風雨の状況によっては、予の少女が腰巻きにする布襞の内幕を暴露せん危険な位置である。予の軍団兵はたちまち闘魂たくましく猛りたったが、まだ時は来ておらぬと諫め、闘魂は内側へ燃やしたまま静かに待機するよう伝令をとばす。
 予の少女が大通りへと進発する。鳴り響くサイレンの音階が、一段階高くなる。町内報には決して記載されず、町議会での議題となることもないが、まぎれもない少女警報である。町内に徘徊する少女が一定数を越えたときに発令される。予はここに特区法の機能不全と人間世界の不実とを浮き彫りに見る。近隣の飼犬たちはあからさまな敵意を燃やし吠えたてる。ゴミあさりの猫は毛を逆立てると後も見ずに走り去る。青洟を垂らして街路に立つ少年をその母親が横抱きにして家へと連れ帰る。通勤途中の背広男は大きくひとつ震えると、視線の位置を悟られないようにサングラスをはめ、外套の襟をそばだて、命を運にまかせ南無三と駅へ駆け出す。民家の朝顔は小学生の観察日記を逆回しに見るように、しおしおと蕾へ返る。見慣れた朝の、緊迫した光景である。
 予は両腕で全身を引き上げるようにして、じりじりと這い進む。兜で防護した頭部の隙間から極度の緊張による大汗が頬を滴り、迷彩を溶かしながら大地へと垂れる。少女たちの発する熱気だろう、灼熱化した舗装道路の上へ色彩だけを残して、汗は瞬時に蒸発する。南北へ走る大通りはなだらかな傾斜を描いており、丘の上に作られた住宅街という地勢上、南へ向かうにつれてその勾配はますます深まっていく。油断なくビデオカメラを低く構える予の視界に引かれた地平は、立ち上る熱気にゆらいでいる。やがてそこから茶色い固まりがせり上がって来る。この距離では正体を確かめようもなく、予はただ手をこまねいて待つ以外の戦術を採用できぬ。やがて茶色い固まりは地平線から浮上を開始し、息詰まる数分の後、ついには人の形を成すに至る。見間違いようもない、少女である。安い染髪料に加え、継続的には手入れが施されなかったのだろう頭髪は、茶と赤と黒がまだらに混在しており、だらしなく開いた服の襟元は本来の白とは遠い垢じみた黄に変色している。最大公約数の受け手を想定し控えめに表現したとして、一斗缶を満たした弛めの排泄物を頭から行水したようにしか見えぬ。胸元や腹部から垣間見える肌は、予の軍団兵の闘魂をいつも烈々と燃え立たせる少女本来の質感からは、はるか遠い。たくし上げられた腰巻きの短さは、その布が本来持っていた文化的な定義を失うほど短く、風速というよりは単純に角度のみで陣営の内側に蓄えた具材を予に提供しそうなほどである。
 ひるがえって予の少女を言えば、すべての特性においてただ対極にあると指摘するだけでよい。二人の少女は相手を頓着せず道の端を歩み、まさにすれ違わんとする。予の動悸は爆発的に高まる。なぜなら、少女同士の邂逅がお互いへ無事な結果を残すということは、ありえないからである。顎と左肩で保持された携帯電話へ注がれる大きな音量と小さな語彙の発話が、人気の失せた大通りへ耳障りに響きわたる。その醜態を避けるため予の少女へとビデオカメラを振りむけようとして、予はある決定的な違和感を抱くに至る。先ほども述べたように、相手の腰巻きはその陣営内へ我々を深く誘い込む陽動の如く、しかし全く充分ではない粗雑さで仕上げられているのだが、それに反して上半身を覆う衣類はと言えば、これ手首にまで及び、特に右袖の布地はひどくすり切れている。暗示的にゆるめられたその袖口は、とても防寒の役目を果たしそうにはない。学習用具の不在が平らにしたのだろう革鞄を持つ左手首の袖口は、対照的に強く引き締められている。低い視界からのぞく画面を横切るように、陣風が丸まった紙くずを転がしてゆく。二人の少女の影は、まさに重ならんとする。
 さて、ここで奈良のみならず国土全体を覆う特区制度の根本について、若干の説明を加えておくことは、あながち意味の無いこととも思われないのである。Full Faith and Credit shall be given in each State to the public Acts, Records, and judicial Proceedings of every other State.「各州は、他州の法令、記録および司法上の手続きに対して十分の信頼および信用を与えなくてはならない」。合衆国憲法第四条第一節の引用である。特区制度の根幹は、米国の州制度と極めて近い。すなわち、特区内の法律に照らして下された決定事項の有効性は、当該の特区内に限定されず、他の特区においてさえ留保されるのである。先に述べた鋳物特区の隆盛は、人体を殺傷できる刃物の購入に所持証明を申請する必要がないという点の寄与するところ大であろう。特区設立の当初、たちまちやくざ者や、思春期の世迷い言に目の据わった少年たちが押しかけたが、彼らは依然、殺傷することをまで法を越えて許されてはいない。報道番組に他人事の悲痛を楽しませることはあれ、社会秩序を根本的に擾乱する存在ではありえない。特区制度導入の最黎明期であり、特区法の雛形となった合衆国憲法第四条第一節が、我が人民の持つ固有の性質と混郁した場合の結果を誰も予想しきれなかったとはいえ、青少年育成特区から少女たちへ認められる特権の莫大さは群を抜いている。特区内法の整備は各自治体の首長に預けられる部分が大きく、故に追試を行うものは誰もいなかったのではないかと推測できる。そして後に、我が人民特有の、根拠の希薄な相互信頼が産みだした結果に、誰もが青ざめることになるのである。
 大通りの向こうから、こげ茶色に塗装された大型車がやってくる。公式にはランブラーと呼ばれ、土地の人は陰で霊柩車と呼ぶ。清掃車と消防車を組み合わせたような奇妙なそのフォルムは、実のところ与えられた目的と完全に合致している。逐一破片を取り除くより、大量の水で洗い流してしまう方がはるかに効率的なケースも多いからである。カラーリングの起源については諸説あるが、付着した血液が渇いたときに目立ちにくいという説が最も理に適うところではないか。屋根部分に据えられた手すり付きの足場には、妙齢と称すべきだがそのじつ高齢の女性局員が手ぐすねを引いて待ちかまえる。無数のカーラーが埋まり更にネットで固定された紫の頭髪と、湿布薬の欠片が未だ生々しく残るこめかみは、この召集がいかに緊急のものだったかを予へ語りかける。その視線は老眼に厳しく細められ、まさに歴戦の古強者といった風情である。この仕事は一般に不名誉なものとされるが、その高給のためだろう、少女たちとの邂逅へ想像逞しくする夢見がちな無職青年の志願は後を絶たない。しかし、最初の出動を終えての離職率は9割を越えるとの調査がある。詳しい理由は不明だが、どの地域においてもやがて妙齢で高齢の女性が構成メンバーのほとんどを占めるようになるという。
 予が清掃局の車両に目を奪われた一瞬のうちに、すべては始まり、終わる。相手の少女が平手を打つように右手を跳ね上げる。予の少女が一瞬、上体を沈めるのが見える。何かが陽光を反射させる。腰巻きの布襞が風をはらんで膨らむ。鋭い金属音、潰したゴムホースの先端からするような水音がわずかな間をおいて連続する。両者の身体はいつの間にか入れ替わり、予の少女はすでに血煙の向こうにいる。茶色い頭髪に覆われた左耳の下から水平に血が噴き出している。その勢いで身体をよろめかせ、縁石に足をとられて車道へとまさに転倒せんとするところへ、乗用車が猛然と走りこむ。運転席の男はきつく目をつぶり、ただアクセルを踏み込むばかりで、眼前の障害物に気づかない。少女警報のただ中、車を走らせる必要に迫られた自暴自棄は、あながち首肯できない理由ではない。速度と続く衝撃に千切れた首は、フロントガラスの角度によって真上へと高く跳ね上げられ、主人を失った胴体は布襞をタイヤへと引き込まれながら、人の形を崩壊させる過程で前輪をロックさせる。制動を失った車はたちまち対向車線へと流れ、電柱に激突する。予が目視で確認できたのは以上であり、これより記述することは、予の優秀な子飼いであるビデオカメラに提供させたスロー再生機能で知ったのである。
 予の少女が通学鞄と共に捧げ持つ竹刀袋の先端は、熊の顔をデフォルメしたキルト製カバーで覆われている。相手の少女はすれちがう最後の瞬間に、明確な意図をもって歩幅を広げる。大きな動作で振り戻された右腕から滑るように短刀が出現し、それは鞭のしなりをもって驚異的な速度で跳ね上がる。キルト製の熊が口を開け、咆哮する。一つ目の斬撃が小さな弧を描いて手首を切り飛ばす。一撃目の勢いをそのまま重力方向へ預け、身を沈めながら予の少女が回転する。一瞬、風をはらんで腰巻きの布襞がふくらむ。陣営の内幕を垣間見、烈々と闘魂を燃え立たせた軍団兵は予の身体をわずかに浮上させる。その上昇は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。先ほどより高い位置から画面をのぞき込む予の視界で、鋭い踏み込みからなされた二つ目の斬撃が、最初より大きな弧を描いて相手少女の左耳下部を通過する。キルト製の熊が口を閉じ、鍔鳴りが高く響く。小さな円と大きな円から成る二つの斬撃は、完全に一連の動作として繰り出されている。加えて、予の優秀な子飼いの機能をもってしても刀身を残像にしか確認できないほど速い。
 霊柩車から飛び降りた女性局員へ、予の少女は学生鞄からパスケースを取りだし、許可証を提示する。老眼に目を細めつつ顔写真を確認すると、パスケースを叩きつけるように投げ返す。運転席には恐ろしく似通った容貌をした、しかし別の女性局員が座っており、やくざに無線をつかむと、清掃局独特の符丁で少女殺人発生の旨を短く通達する。女性局員は大股に歩み寄ると、漆喰壁に刺さった手首を短刀ごと引き抜く。続いて泣き別れの胴体を車の下から引きずり出すと、足を掴んで粉砕器へと投げ込む。回転を始めた巨大ブレードはめりめりと音を立てて、迅速な焼却を目的に、すべてを細切れへと分解する。もう一方の女性局員はホースを腋の下へ固定し、大通りへ向けて放水を開始する。舗装道路へ濃く広がった赤い染みは、たちまち希釈されて下水口へと流れてゆく。
 何ひとつ大事は無かったかのように、予の少女は大通りを消失点の彼方へと遠ざかってゆかんとする。予はその最後の後ろ姿を逃すまいと映像の倍率を高めるが、そこへ茶色い頭部が突き刺さった。それはちょうどコロンブスが卵を立てたのと同じ手段で逆さに屹立したため、飛び散る黄身と白身――修辞的には――がひどくレンズを濡らす。その顔面は半月と半月を未就学児が戯れに貼りあわせたようにもはや完全な球から遠く、左右の瞳が向ける視線を延長したとして同じ物体の上には永遠に交わらないであろうと思われる。予の視界はたちまち沈下する。その下降は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。歩み寄ってきた女性局員は見下すような一瞥を予に与えると、突き刺さった頭部を片手でわしづかみにし、ハンドボールの要領で粉砕器へと投げ入れたのである。

少女保護特区(2)

 後の歴史が断じるどのような悪政も、誰かの善意から志向されたことを予は疑わない。かの青少年育成特区でさえ、有効な対策の無い少女への略取行為の抑止となることが、その当初の目的であったのだ。ここに一枚の許可証がある。すでに持ち主は死亡しており、彼女の死は当局によって公的にも追認されているため、もはやそれが与えていた特権は失効している。山中深くで行われた少女殺人に立ち会った際、清掃局の到着前に予が資料として私的に接収したものである。一見して運転免許証と見まがうが、所持者に与えられる権限は全くその外見と乖離している。青少年育成特区のホームページに記載されていた「復讐において生じたあらゆる結果を合法とする」という文言は削除され、現在では閲覧することができない。だがそれは、文言が表現していた実体の消失までを意味しないのである。
 許可証の右肩には、3×4センチの写真が貼付されている。少女の前髪は目許まで垂れ、薄く青白い唇と相まって持ち主の印象を乏しくしている。写真の下には、Avenger Licenceと英文字で朱書きされている。はなはだ正確性に疑問符の付く英語だが、発案者が青春時代に少年漫画を愛好していたのだろうことだけはうかがえる。氏名、誕生日、本籍地、住所、交付年月日の記載が並び、続いて条件等の項目が来る。そこには、「少女である限り有効」と金地に白抜きされている。青少年育成特区はまず女子の保護を優先したのだが、男子へ許可証が発行される機会はついになかった。あの大混乱を経た後、各自治体の首長たちはすでに、例えば痴女に貞操を奪われる際の精神的外傷がいかほど深いかについて議論を尽くす気力を失っていたのである。
 特区の設立からほどなく県下で発見された身元不明の死体が、少女による復讐の結果であることが判明し、県議会は揺れに揺れた。当該特区の首長たちのみに求められていた善処も、少女殺人が県境を越えるに及び、焦点であった許可証の文言を適切に採用したのが誰かは特定されないまま、国会へと舞台は移される。少女の定義を巡って議事堂で繰り広げられた痴態は、年月というよりはその衝撃ゆえに、市民たちの記憶に新しいところだろう。普段は表明が許されず、よって相対化されることも標準化されることもない各人の性癖と異性への偏見をすべての議員が公の最たる場へ生のまま開帳したのだから、無責任に徹することを決めれば、これほど面白い見せ物は無かったはずである。
 ほとんど土俗イニシエーション的とさえ言える答弁を除けば、少女の定義はほぼ二つへと集約された。当人のみによる賛同しか得られなかった少数派の意見だが、その多様さは議会の過半数を占有したほどである。民主主義はビザールを圧殺しえないことの証左として、また当時の空気から遠く離れて読む受け手の理解への一助として、行われた無数の答弁から一つを引用する。「マネキンの頭部を糸鋸で切開し、トマトで煮込んだ獣肉で満たす。その後、切開した頭部を元のように封じる。少しでも汁気が漏れないよう、ビニールテープで成されることが望ましい。その後、マネキンの頭部を粉砕する。漬け物石か庭石が、入手の点では簡便でよいだろう。その際、鶏の羽根を黒く染色したものを外套に張りつけ、鳥に扮装することが望ましい。その後、飛び散った獣肉のうち、地面に落ちたものだけをかき集める。付着した塵埃は洗浄されるべきではない。その後、食した獣肉が排泄されるのを目視できたなら、少女を成熟した社会の構成員として認めるべきである。食餌と排便は、薬品による睡眠や殴打による昏睡など無意識のうちに始められ、意識を取り戻した段階で無理矢理嚥下、排泄せしめられるのが望ましい」。
 先に述べた二大勢力とは、初潮を少女の終わりとする月経派と、処女喪失を少女の終わりとする破瓜派――タカ派のイントネーションで――である。日々の議論のうちに少数派は押しやられ、やがて超党派の両勢力が議事堂を席巻してゆく。世に言う血の七日間の幕開けである。少女の声を持つ年齢詐称の声優がするラジオ電波、いやラジオで電波を延々と答弁に代えた末、係官からの退去を演台を抱きかかえて拒んだり、演台を拳で殴打しながら男女の性差について宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、義務教育年齢の女子が奔放な姿態を露わにする本邦でのみ公開可能な冊子を実物投影機で開帳したり、実物投影機を馬乗りにして全議員へ具材を強要しながら宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、猥褻ゲームのポスターを掲げながら現実に少女はいないと宣言したり、馬乗りに具材を押しつけた腺病質の顔面へ拳がめりこむほど殴打を加えながら宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、国営放送の画面には断続的に、しかし総計すれば一日八時間以上に渡って野山の静止画が映し出された。倫理は小声の謝罪か極小の囲み記事がすべて引き受ければよいとばかり、あらゆる報道は一斉に加熱を極める。すべての良識が自制を失った当時の狂騒ぶりを忍ばせるできごとを紹介したい。理性ではなく感情に訴える、全体主義統制下の政策報道官の如き言辞に得々とするニュースキャスターが、「これだけ国民を騒がせておきながら、直腸性交に関する議論が全く行われないという一種異様な事態があるわけですが、そこのところどうでしょう」と発言する。コメントを求められた、クオリティペーパーを以て任ずる大手新聞社の編集局長は、生放送の最中にもかかわらず完全に絶句した。また、その新聞社と関西圏のみに販売経路を持つ夕刊専門誌の一面が、スーツの下を脱がされて議事堂内を逃げ回る男性議員の写真を同一日に一面で掲載する。フォントの種類や大きさの違いはあれ、どちらも見出しに「お粗末」と書かれた。両紙の持つ品格の違いは、モザイクの濃淡にのみ帰せられたのである。
 破瓜派の優勢は一時ゆるぎないものに思われた。なぜなら当時の与党の国対委員長、老利数寄衛門が強力な破瓜推進派だったからである。しかし、その構図は最終局面を目前に逆転することとなった。運命の夜、老利は料亭を出たところで待ちかまえていた記者団に取り囲まれる。月経か破瓜かと詰め寄る記者たちに対し、道端で手毬遊びをしているおかっぱの少女を指さして、「あのように愛らしさの中にも凛とした清冽さが同居できるのは、両足の間に膜がぴんと張って心棒の役割を果たしているからである。もし膜を喪失してしまえば”しなをつくる”の言葉どおり、身体の中心は張りを失って蛸のようになる。それはそれで別の趣を持つが、あの少女のような清冽な美しさはもはや望めないだろう。世には陰毛論争もあるそうだが、それは論点をはき違えている。生えてしまっては割れ目が見えないではないか。割れ目だけに筋の通らぬ話である」と発言する。軽妙な冗談に爆笑する記者団の傍らで、少女は浮かぬ顔のまま、「どうか許して欲しい。騙すつもりはなかった。私はあなたに言わせれば、少女とは呼べない。なぜなら、この花はすでに望まぬ形で散らされてしまっているからである」と返答する。とたん老利は多くのカメラが取り囲む衆人環視の最中、潮吹きのように両の眼球から涙を噴出させると、少女の足元へ我と我が身を投げ出し、宣言した。「きみは少女である。誰が何と言おうと、この老利がきみを少女にしてみせよう」と。老利数寄衛門が破瓜派から月経派に転じた瞬間である。この映像は不作為の大スクープとなり、政治史上もっとも劇的な思想転向として語り継がれることになった。後の世に言う、老利の変である。
 だが、すでに大勢は破瓜へと傾いている。この大物の転向も趨勢を完全にくつがえすことは適わなかった。依然として発生し続ける少女殺人に決断を促される形で、両勢力は妥協案を採択することとなる。膣内よりの流血を第三者が観測した段階を少女の終わりとするという、玉虫色の折衷案に猛反発が巻き起こった。いわく鉄棒で股間を強打した場合はどうなるのか。いわく一輪車で股間を強打した場合はどうなるのか。いわく挿入式の生理器具が誤動作を起こしたらどうなるのか。しかし時すでに遅く、様々の矛盾を孕みながら少女の定義に関する法案は、野次と怒号の中で可決されたのだった。次いで少女喪失観測者の国家資格が新設され、出血の量に始まってその粘度と間隔に至る細部が文言として整備される。手順の煩雑さもさることながら、青少年を性的略取とその二次被害から守るという特区の理念が優先されたゆえに、少女の終わりは本人からの申し出が無ければ審議の対象とはならなかった。実質上の骨抜きである。ゆえに、少女であることを生きたまま失効した者は、現在に至るまでただ一名を数えるのみである。権利の放棄を手続きする手順とは正反対に、許可証の発行は極めて簡略化されている。戸籍抄本を用意すれば、残る要件は唯一「異性からの略取行為」であり、さらに口頭による申告ですべての手続きを完了できた。一時期、AvengerLiscenceの発行数は爆発的な増加をみる。どれほどの冤罪がこの数を裏で支えたのか、もはや確認するすべはない。炭坑のカナリヤとして常に狩られる側の立場にあった少女たちが、初めて他者に対する真の優越を得たのである。この至上の楽園さえも、しかし長くは続かなかった。結果の価値とは、過程において手に入るものだと予は考える。卓に満載された皿を前に自足しろというのは傲慢であり、パンの固まりを片手に自足しろというのは欺瞞であろう。特区の理念はたちまちに適えられたが、その無窮の位置で周囲を見回した少女たちは、鏡写しの自分自身を発見したのである。少女に与えられた特権を奪えるのは少女だけであり、彼女たちの持つ特権の膨大さは望むと望まざるに関わらず、すべての介入と救済を拒絶した。
 少女の定義が確定したとき、予が人間世界にとって何者であるかという定義は未だ確定していなかった。予は高等遊民として、俗世から離れた生活を自身に強いていたのである。労働が予の純粋さをわずらわすことを好まなかったからだ。睡眠と覚醒へ好きなように時間を配分し、数十年程度の強度をしか保てぬ凡百の常識を超越した場所で、予はときに何時間も飽かず自由な思索をくゆらせたものだ。市民たちの嘆息ぐらいは、歴史的な視点から人間世界の実像を俯瞰する予にとって、何の痛痒でもなかった。日々は素晴らしい気づきと変革に満ちており、予は人間精神の広がりの無限を喜んだ。予の生活においての惰性は、ペットボトルに蓄えたし尿を二階の窓から庭の木々へ撒く日課を除くならば、絶無であった。獲物へ跳びかかる肉食獣の筋肉に漲る一瞬の静止の如く、来る大事に備え、予は極めて創造的な雌伏の日々を過ごしていた。無論、遠大なる高邁はしばしば近視眼の低俗に、容易な非難の口実を与えてしまうものである。だが、何の実利や栄誉を得ることなく果てるとして、それが予の貴族精神による選択の末ならば、恥じるべき理由はどこにもない。予の主人は、予以外にあり得ぬ。この確信を誰かに証明するべきだという強迫は他ならぬ相対化の罠であり、予の無謬はあまりに市民の生来と離れていたので、悲しいかな、予の本質を貶める以外の伝達は不可能だと言えた。
 寒い日だったことは覚えている。自室に長く寝そべって食事を口へ運びながら、天気予報と同程度の頻度でなされる少女殺人についての報道を眺めていた。法の庇護を享受しただけであるのに、ほとんど指名手配犯のように並ぶ少女たちの顔写真の一つに予は目を留める。突如、長らく抱き続けてきた脳髄の外へは決して共有され得ぬはずの予の観念が、現世へと受肉したのである。予は数年ぶりで自室の扉を開くと居間へ駆け下り、炬燵を囲むように蝟集する市民たちへ少女観察員となることを誇らかに宣言する。しばらくぶりの発声に予の言葉はくぐもったが、それは予の言葉を少しも汚しはしなかった。あれほど明白な確信の様を理解できず、うろたえるしか知らなかった市民たちは、今では予を恐れて彼らの城門を予の前に閉ざし続けている。少女観察員の概念は当時、予の内側にのみ存在していた。しかし、巨大掲示板での熱心な匿名討論の末、予の克己はあらゆる政治的な誹謗と中傷を乗り越えるに至る。少女観察員は当たり前の選択肢として、すでに一定の社会的承認を得た職業と考えてよいと思われる。実際、少女同士の対決を撮影した映像は、役場や大学など実地の検証を常に求める公的機関へ提出すれば、いくばくかの謝礼金と交換することができた。また、ネット上にパスワードをかけて配信すると、ダウンロードの権利を求める市民たちは後を絶たない。もちろん、先の清掃局員が予に投げたような不条理を浴す機会も少なくはない。しかし、あらゆる理解と援助をただ克己により拒絶した上で、精神力と実行力の極限を自身に問い続ける少女観察員は、名誉ある職業と予によばれている。

少女保護特区(3)

 最後尾に接続された木製の有蓋車が、地鳴りと鉄の軋みをあげてホームへと滑り込む。耳障りなその残響も収まらぬうち、巨大な体躯に制服を歪曲させた三人の鉄道職員が異様な俊敏さで互いの位置を入れ替えながら駆けて来、太い鎖で厳重に封印された鉄扉にとりつく。一人が赤子の頭部ほどもある巨大な錠前へ鍵を差し込み、内部の仕掛けを利用してというよりはむしろ握力によってそれを回す。残った二人が制服の縫製を漲る筋肉で引き裂きながら、顔面を紅潮させて扉を横へ引く。露わになった肩口に血管が浮き、にじむ汗が爬虫類の質感を赤銅色の肌へ生じさせる。均衡が作り出す完全な静止を越えて、溝に浮いた赤錆をこそげ落としながら鉄扉がじりじりと滑り始める。わずかの隙間から、人間が身をよじるようにして続々と降りてくる。どこまでいっても男しかいない。その衣類は一様に暗い色調で、ちょうど台所に生息する例の昆虫が家具の隙間から出現したような錯覚を、嫌悪感と共に与える眺めである。ホームが鋼鉄の間仕切りで分けられ、それぞれから別々の出口へと階段が続いているのは、万一にも少女と男性が遭遇しないようにとの配慮からだ。当初は単に金網が引かれていたのだが、局所のみを金網の隙間へ通過させる者が続出し、微弱な電流を流す対策を施したところ、局所のみを金網に通過させる者が逆に増加するという陰惨な経緯があった。当局の、高度に政治的な判断を求められる決断だった。
 鉄扉が完全に開放されると、精神を崩壊した焦点の無い瞳でホームに蝟集する男たちが、意志というよりは眼前にある状況に促されて、幽鬼の如く空の車両へと吸い込まれていく。この有蓋車こそが、青少年育成特区の生み出した副産物のひとつ、男性専用車両である。異臭に耐えて一歩足を踏み入れれば、劇的な大気の変化は組成自体に及んでいるかのように感じられる。この世界に偏在する特殊な磁力を持つ場、その境界を踏み越えたときの悪寒や霊感を与える変容は、正に異界や結界の類である。入り口付近の床は光に四角く切り取られ、清掃の手間をはぶくためだろうか、干し草が敷き詰められているのが見える。その表面は黄から茶への階調で濡れ濡れと照っており、生理的嫌悪と直結する何らかの成分を大量に吸い取っているようだ。干し草に含まれた微生物とそれとの発酵現象に、なま暖かな白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。明かりの届かぬ先は黒く塗りつぶされ、狭いはずの車内は広所恐怖を感じさせるほどの莫大な空間へと変じていた。かような劣悪の環境を、なぜ男たちは移動手段として甘受するのか。人として堅守すべき尊厳が藁の上へ臭気を伴って遺棄されるとしてさえ、少女警報の頻繁な公道に乗用車を走らせること、あるいはかちゆくことに比べれば、目的地へ到着するのに少なくとも命だけは伴うことができるからである。
 鉄と鉄が擦れる不快な軋みが獣の断末魔の如く響き、乗客たちの背後にがちり、と錠前の閉じる音がすると、窓の無い車内は完全な暗黒に包まれた。慣性の存在により、接続された電動客車が牽引を始めたのをかろうじて知ることができる。やがて、天井付近に人魂と形容したいような灯りが浮かぶ。その、不定期に明滅を繰り返しながら揺れる裸電球が唯一の光源であり、ぼんやりと浮かんではまた闇へと消える視界は、脳波への負の影響を心配させる。座席と呼べるものはかつての残骸がわずかに散見されるのみであり、家畜のように詰め込まれた男たちは苛立った様子で身体を前後へ揺すったり、足を踏みつけられては怒声を挙げたりしている。自立することを放棄し生存を疑わせる脱力で漂うものもいるが、倒れる心配だけはないほどの乗車率である。
 背後から強く押された一人が、肩越しに不快げな視線を投げる。その瞳孔がたちまち驚愕に収縮し、ひゅっと小さく息を呑むのが聞こえる。急なカーブにさしかかり、車両が大きく傾ぐ。裸電球が焦げるような音を立てて消えると、永遠のような漆黒が視界を満たした。流れる車内放送は、停電程度の不便をことさらに詫びる欺瞞には気づかぬふりである。古いスピーカと車掌の胴間声の相乗効果で音声は割れに割れており、「茂吉の猫、死ぬべし」という台詞を、構成する最小の音素群に分解してさらに濁点をつけ、日本語ノンネイティヴのする抑揚で読み上げたように聞こえた。再び焦げるような音を立てて、裸電球に光が戻る。少女の、床の間に置かれた由来の知れぬ日本人形のような無表情が、男の前にあった。特定の数字や単語が、日常をただ通過するだけの膨大な情報群から、ほとんど意味を伴った連続であるかのように浮き上がる錯覚が存在する。無意識の執着がその検索を可能にするのだが、このとき、物理的にも列車の走行音を圧するほど大きかったはずのない「少女だ」というつぶやきに呼応して、車内にみっしりと詰め込まれた男たちが、群衆を表現した低予算のCGを思わせる動きで一斉に振り返った。どの顔にも光源の影響による陰影とばかりは言えない恐怖と――何より、抑えきれぬ欲望がにじんでいる。立錐の余地など元より無かったはずの車内に、少女が背にする鉄扉を直径とした半円がたちまち形成された。
 青少年育成特区において、少女から与えられる死とは、有機体としての終焉に止まらない。人の死は情報を残すがゆえに、動物のそれとは一線を画す。だが、少女に殺された者はその聖別を奪われ、畜生道へと墜ちるのである。古代の記録抹殺刑、尊厳死の定義する状態を真逆にしたものが少女と関わった者のたどる末路なのだ。死亡届は受理されず、戸籍は焼却され、火葬の許可が得られぬ死体は川を流れ、山に白骨化する。我が社会において、その影響市民生活に甚大なれど、少女殺人は公的には存在しないというパラドクスである。人と人との関係性が命の喪失に際して生じることを仮定するならば、究極の社会性は殺人であり、究極の反社会性は自殺であると定義できよう。意識的にせよ、無意識的にせよ、行為にこめた意味のすべてを社会に無化された少女たちの多くは、自らの始末へ同じ手段を選ぶこととなった。もし同等の権利が与えられれば予はどうふるまったかを想像するとき、予の胸中をどよもす少女たちへの感情は同情に近い。しかしこれは、発信の源をたどれぬ行為は存在せず、よって法を度外視するならば救済に値しない人間は存在しないという、予の信念から見た一方的な感傷に過ぎぬこともわかる。実際、この災厄を得た者たちの親族は予の見方には全く同意せぬだろう。それどころか、具現化した精神上の疾患を見るが如き反応を予へ示すに違いないのである。理解へ到達することが不可能な人と人との関係というものは疑いなく存在し、そこへ妥協点を見いだすことが政治と言えるが、少女観察員という予の立場から試みることができる営為はそれとははるか遠い。そして、例え予に政治が可能であったとして、予はそれをすることを望みはしないだろう。無欠の予にうしろ暗さがあるとすればそれは、予の人生をどれほど延長しても政治には到らないという一点においてである。
 微温的な幻想の理解が消失し、世界に虚無と政治が現出するその瞬間を見ることのできる機会は決して多くない。不幸な若者が、少女を中心とする半円の内側へ押し出される。他の全員を救うための、集団によって選ばれた生け贄である。群衆の一人へ戻ろうと人垣へ突進するも、彼の力では身体ひとつ分の空間を圧倒的な人口密度の中へ作り出すことが適わない。たまらず跳ね返され、床に敷き詰められた藁へ顔面から倒れ込む。口腔内に侵入した汚物を唾と共に吐き出しながら顔を上げれば、発光して見えるほどに白い少女のふくらはぎがそびえており、それらは襞の折られた陣営へと続いていく。その内幕に漂う闇は、若者の周囲にある闇と全く同じものだったが、全く違うものだった。上半身を起こすと、ふくらみが持ち上げた上衣の隙間からのぞく、うおの腹のように湿った濃い白が見える。弱々しく立ち上がった若者の腰が引けているのは、群衆による打撃のせいばかりとはもはや言えなかった。整髪剤で固めた前髪のひと房が、汗のにじむ額へと落ちかかる。頬は痩け、顔に血色は無く、一見すると内向的な書生風だが、その実、戦争などの外的エクスキューズを得ると最も残忍に豹変しそうな容貌だ。若者は、恐怖と絶望と嫌悪と好奇と憧憬と欲情と諦観とが入り交じった、修辞上でのみ無責任に表現可能な表情を浮かべている。その内面には死と性の、嵐のような葛藤が渦巻いているのだ。取り囲む群衆は両手を振り上げ、足を踏みならし、車内はほとんどショウダウンの様相を呈し始める。長い睫毛を伏せ、少女が怯えたように後ずさりする。いまや車内の全員が少女の――あるいは若者の共犯者だった。背後から忍び寄る無数の手が、若者の背中を強く押す。彼は踏みとどまることもできた。しかしその瞬間を恐れると同時に強く望んでもいたため、一瞬、両足に力を込めるのが遅れる。男性の重みを預かり、少女は鉄扉へと押しつけられる。若者の意識は柔らかさと香りにくらんだ。逃れようと身をよじった少女の手の甲が、若者のセクスを撫でる。君は激しく勃起したな、と余人が指摘できるほど身を震わせた後、痛みにも似た放出をした、と表書きされている表情で若者は放出をした。刺激によってというよりはむしろ、自らの置かれた状況に放出したのである。それは分厚な生地越しにさえ、少女の手の甲へ粘液を残すほどの激しい放出だった。長い長い放出の後、若者は膝から床に崩れ落ちる。ハンカチを手の甲に当てながら少女が、駅員を呼んでください、と小さくつぶやくのと、鉄扉が少女の背後で開くのはほぼ同時だった。ホームにはすでに、制服姿の巨漢が阿吽の如く待ちかまえていた。
 近くを列車が通過する度に、ほとんど灯火管制のような深い、幅広の傘に覆われた電球が小刻みに揺れ、待つ者たちそれぞれの不安を象徴するかのように大気を光で攪拌した。やがて、耳障りなじゃりじゃりという音と共に黒電話の受話器が漫画的に跳ね上がる。目深にかぶった制帽のつばが落とす濃い影に視線を消失させられ、ほとんど非人間的に見える制服姿の巨漢が受話器を取り上げ、応答する。短いやりとりの後、通話口を片手で覆うと、申請が受理された旨を少女に伝えた。駅舎に入れられてからというもの、うつむいたまま組んだ両手の親指を見つめるばかりだった若者は、駅員の言葉に促されるように顔を上げる。その表情は、人間が平常に浮かべ得るものの中では笑顔にもっとも近かった。若者の視線の先には、少女が腰掛けている。きつく合わせた膝の上へ、身長ほどもある日本刀を横抱きにする少女の表情は、人間が平常に浮かべ得るものの中では笑顔にもっとも近かった。だが、両者の内面はその実、究極と究極の両端へ乖離しているのだった。少女は陣営の襞を揺らしつつ、日本刀を床に突いてことさらにゆっくり立ち上がると、駅員の方を向いてわずかにおとがいを上下させた。与えられたばかりの権利の行使を肯定したのである。少女の意図を確かに理解したはずの若者の表情は、依然として笑顔のままだった。しかし、彼の足はわずか数分の先に待ちかまえる自己存在の完全な消失を認識したことで、逃走の不可能な距離で腹を空かせた肉食獣と遭遇した草食獣と同じほどに萎えており、社会の規定する新しい人権の中でも最も新しい人権を少女に行使させるためのあらゆる助力を拒絶できない第三者、いまや法に強制された正義がお互いを双子のように似通わせている巨躯の駅員たちが、両脇から支えてやらねば立ち上がることもできないほどである。本能が萎えさせた両足から悟性が若者の大脳へ満ちるには、しかしさらにいくばくかの時間が必要だった。日本刀の柄に手をかける少女を見た若者は、体中の穴という穴から人体に可能なあらゆる粘度の液体を流しに流し、やがて水分を喪失して木乃伊のように収縮してしまう。一方、駅員たちは己れの幇助する権利の正しさへますます膨張肥大してゆき、いまや天井を突かんばかりだ。少女は悠然と日本刀を肩にかつぐと、そのまま重力が鞘を払うにまかせた。鞘の先端が床に触れるのと、刀身が爆発的に右から左へと薙がれるのはほぼ同時だった。その速度は、特定の自意識の持ち主ならば、”疾走”に”る”と送りがなをつけて「はしる」と読ませるほどだったろう。消えた刀身は、瞬間移動のように駅舎の壁に突き刺さった形で出現し、その威力を殺しきれずぶるぶると蠕動していた。このとき、まだ少女の技術は斬撃をあますところなく制御する精妙さには至っていなかったことがうかがえる。刀身の震えがおさまると、駅舎に完全な静寂が訪れる。しかし、それはほんの須臾の時間に過ぎなかった。駅員の上半身が背中の方向へ、ずるりと滑り落ちる。遅れて、切り離された若者の首が、頸動脈からの血流に押し上げられて天井近くまで上昇し、噴水の上に乗ったボールの如く、顔全体を赤く染めながらくるくると向きを変える。やがて血流は弱まり、首はけん玉の要領で頭頂から元の受け皿へと見事に着地した。もし切断された頭部にしばらく意識が残るのだとすれば、若者の視界には天井を歩み去る少女の後ろ姿が見えたに違いない。そして、少女の陣幕が重力の影響を全く受けないのを口惜しく感じたはずである。
 空にはすでに月があった。原色に近い黄色を、霞が覆うような月だ。見上げる少女の右手が、陣営の上から小刻みに太ももを叩いている。そこへ、茶色に塗装された清掃車が猛然と走り込んで来、後輪を激しく滑らせながら半回転すると、駅舎へ横付けになる。車体が停止する暇もあらばこそ、頭髪を紫に染めた妙齢の女性が両腕を組んだまま跳躍し、五輪選手もかくやという月面宙返りを見せて少女の傍らに着地する。その跳躍が、月を背景に横切る文字通りのものだったことは付け加えるまでもないだろう。昂ぶる感情によるものか、高ぶる年齢によるものか、鼻の頭にいっそう皺を寄せる動作から、彼女が視覚というよりはむしろ嗅覚によって敵を発見したことがわかる。大気へかすかに混じる血の匂いを嗅ぎとったのだ。獅子の如き威嚇の表情と、その猛烈な視線を涼しく受け流すと、少女は艶然たる微笑を返した。完璧に抑制されたその微笑の裏に、そのとき本当は少女が何を感じていたのかをうかがうことは、不可能だった。
 以上が、数少ない現場証言と一級の史料に当たって予が再現した、予の少女の――誰もが人生で一度は通るとは限らぬ――殺人の処女性を喪失した事件の全容である。

ガッデムさん(2)

 「いやァ、うれしわァ。私、子どもの頃からずうッとガッデムさんのファンやってん」
 「さよか。そら、おおきに」
 「主題歌かて、まだそらで歌えますよ。非道ォー、せぇんしィ、ガぁッデムぅ、ガぁッデム、君よォー、パシれー」
 「自分、看護士のくせして相部屋で大声だしなや。向かいのベッドのニイちゃん、にらんどるで」
 「あの人は誰に対してもあんなふうなんですよォ。ここだけの話、ガッデムさんの前にもふたり、オバアチャンが入っとったんやけど、ふたりともなんや気味悪いゆうて部屋かわってますねん」
 「ぶるぶるぶるぶるッ。なら、ワシは三人目かいな」
 「まァ、ガッデムさんは戦争にも行ったことあるロボットやし、だいじょうぶかなァ、おもて」
 「じぶん、傷くつわ、それ。鋼鉄の中身は繊細なハートでできとんねんで」
 「またまたァ。これ、入院のための書類やからサインだけしてもらえますか」
 「えらい細かい字やなァ。老眼で読まれへんわ。それにしても向かいのニイちゃん、顔色も目つきもだいぶ悪いで。なんで外科病棟なんかに入院しとるんや。ぱッと見ィ、どっこもイワしてへんけど」
 「本人は精神病やゆうて信じてるみたいやけど、先生の見立ては大腸炎ですわ。切るかもしらんからここに入れてるんやて」
 「へえ」
 「なんでも地元で有名な髪結いのオバアチャンが身内におって、テレビにも出たことあるらしいねんけど、そのオバアチャンがなんかするたび親戚中ふりまわされるねんて。こんどの都知事選にも出馬するゆうて、だいぶ親族会議でもめたらしいわ」
 「そら、美談どころの話やあらへんな。しかし自分、ひとの個人情報をあんまベラベラしゃべらんほうがええんとちゃうか。最近どないもこないもうるさいで」
 「なに水くさいことゆうてんのん。ガッデムさんはどんな年とっても私のアイドルやさかい、特別やがな。ほら、早うサインしてしもてや」
 「君がずっと邪魔しとんのやがな。ハラ撃たれてからこっち、どうにも手に力が入らんのや……ほれみい、せかすから書き損じてしもたやないか」
 「歯ァ、食いしばれ。そんな書き損じ修正してやる」
 「アラ、この子くちきいたわ。めずらしなァ。やっぱりガッデムさんの人柄ゆうか、人徳やねえ」
 「あほ、もうただの中年ロボットや。あちこちボロッとるわ」
 「冴えてはるわー、ガッデムさん」
 「ニイちゃん、わざわざすまんな……おっと、いま自分、服に白いのついたで。はよとらな」
 「わかるまい。戦争を遊びにしている者には、この俺の体を通してでる力が」
 「どう見たって修正液やがな。なんや、はやりのプチ右翼かいな」
 「ガッデムさん、着替えの装甲もってきましたよ」
 「何から何まで迷惑かけるなァ。おっと、このアクセラレーターはもらわれへんゆうたやないか」
 「ぼくの気持ちやから。黙って紙袋にしまっといてくださいよ、ガッデムさん」
 「あらッ。もしかしてこの人」
 「ほれ、サインでけたで。自分おるとややこしいから、仕事もどれや。さっきからナースコール鳴りっぱなしやで。隣のベッドのオッサン、土気色やないか」
 「もうッ、女心がわからないんだから。何かあったらぜったい私を指名してや」
 「キャバクラちゃうねんど。もう呼ばへんわ」
 「あッ、コイツ、ガッデムさんのいとことコンビ組んでたヤツですやん」
 「ホンマかいな。そら気づかんかったわ」
 「そや、間違いないわ。髪ピンク色に染めたごっついオバハンをヤクザと取り合いして、それから蒸発してしもてたんですわ」
 「や、ヤクザやて」
 「ガッデムさんをねろうとる組とは関係ありませんよ。すごい黄色のストライプのスーツ着て、ふはははは、ゆうて笑うインテリ風のヤクザやったさかい」
 「おどかすなや。あれからワシ、ドアとか開くたびにビクッてなるねん」
 「病院の中は安全ですやろ。コイツもホンマはそのクチで逃げこんどるんとちゃいますか」
 「自分、その袖口のてんてん、どないしてん」
 「これは、あの、なんでもあらしまへんわ」
 「ワシを病院にかつぎこむときに付いた血ィやな。ホンマ、自分にはいろいろと悪いことやったわ」
 「なにゆうてますのん、ガッデムさんはぼくのために腕もげたことありますやん。こんなん、なんでもあらへん」
 「大きな星がついたり消えたりしている」
 「うわ、なんやいきなり。あほが、修正液で服の染みが消えるかいな。後ろにも目ェつけとけ、われ」
 「男の証明を手に入れたかったんだ」
 「意味がわからんで。頭おかしなっとんのか」
 「いや、案外見かけより狡猾なヤツかもしれへんで。ヤクザに訴えられたときのこと考えて、今からあほのふりしとんのや」

小鳥の唄(17)

 階段状の観客席が六角形に取り囲み、すり鉢状になったその底で全裸の男が立ちつくしている。
 男、骨格が視認できるほどに痩せており、局部にはなぜか紫色のもやがとりまいている。
 すり鉢の底を形作る六角形のうちの二面には、なんのためのものだろうか、長方形に切り取られた入り口があり、通路がそれぞれ奥へと伸びている。
 通路の奥から一人の少女が現れて、すり鉢の底へ形成された砂場へと足を踏み入れる。
 少女、しばらく躊躇したような様子をみせるが、やがて意を決したように全裸の男へ声をかける。
 「落ち込むことなんてないわ」
 少女の声音はあくまで優しい。
 「学生時代のクラスメートほどの人数は来ているって思えばいいのよ。だいたいあなたにとってクラスメートの数は友だちの数と同じどころじゃなかったんだし、そう考えればまだ気も晴れるんじゃないかしら」
 「物語っていうのはさ」
 少女の声が聞こえなかったかのように、男は話し出す。
 「0から始めて1に届こうとする躍動が描く、動線そのものだったと思うんだ。そりゃ、0から動かず0であることを肯定するための言葉を連ねるやり方だってあるけれど、それは少なくともぼくにとっての物語じゃないんだ。1に爪先を引っかけて0から身体を乗り上げた人たちの姿に、ぼくは自分もいつか1になるのだと深い感動を覚えたものだったし、1に向かって高く跳躍しながら、爪1枚で届かなかった人たちの肩を落とす様子さえ、ぼくの心を強く揺さぶった。けれど、いま世の中にあふれているのは、0以下から始まって0に届こうとする物語ばかりだ。マイナス1から0へ、というわけさ。否定してるんじゃないよ。その試みは0から1への希求と、その質や切実さにおいては何ら変わるところはない。けど悲劇的なのは、その”文学的達成”というやつが、ふつうの人たちにとっては何らカタルシスを持たないということなんだ。マイナス1から0への到達を誇示したところで、それは世間にとって少年院から出てきたヤンキーを見る程度の感慨をしか引き起こさない。つまり、身内に抱える積極的な、あるいは消極的な社会悪や犯罪性向をまず開帳し、そしてそれから『ぼくはもう犯罪衝動を押さえ込むことができるほど真人間になりました!』と前科持ちが宣言したとして、誰もそんな宣言を聞きたいなんて思わないし、例え耳を傾けてくれたところで、余計な差別を彼らの意識の中に加えるだけだってことは、ほとんど喜劇みたいじゃないか」
 つま先で砂に文字を書きながら、黙って話を聞いていた少女が口を開く。
 「じゃあ、あなたはどうなの? あなたのホームページに書かれている文字は、いったい今のどれに該当するの?」
 「痛いところを突くな。ぼくはつまり、『1をすでに達成しながら、0や0以下であることへの執着から逃れられないでいる』のさ!」
 「まあ」
 少女は驚いたように、手のひらを口元へ当てる。
 「それって、『終わらない思春期』よね。実物を見るのは初めてだわ」
 「ああ」
 全裸の男の局部をおおう紫のもやが、ふとももの間からへその下へとゆっくり移動する。
 「そうさ、へっさいへっさいモラトリアムなのさ」
 「アハハ、だから、いつまでたっても人の来なくなったホームページを閉鎖してしまわずに、未練たらたらで時々申し訳程度に更新したりしているわけね。アハハ、おっかしい!」
 男のこめかみに漫画的な十文字が浮かぶ。
 「ちょっと、茶目ッ気がすぎるんじゃないか」
 男、固めたこぶしの五本指を左頬からすべて数えることができるほど激しく、少女の右頬を打ちつける。
 陰影まで微細に誇張して書き込まれた犬歯や臼歯が、少女の口腔からはじけるように宙へと舞う。
 男、続けざまに、背中の側からつま先の形状がはっきりと視認できるほど深々と、少女のみぞおちを蹴りこむ。
 真紅の鮮血が少女の口腔から噴水のように吹く。が、地面に染み込んでいくそれは早くも赤黒く、さび色に変色してしまっている。
 少女は蹴られた衝撃で地面と水平に滑空し、壁面へ人型にめり込む。
 もうもうたる煙のはれた後には、少女が左の肘をあり得ない角度に折り曲げ、二の腕からぎざぎざに折れた骨を皮膚の外へ飛び出させているのが見える。
 少女、壁面から身を引き剥がし、よろよろと男の方へ数歩あゆむ。
 男の局部をおおう紫のもやが、へその下からふとももの間へ急速に移動する。
 「こんなふうな犯罪性向、自分より弱い存在を暴力でもって蹂躙して、それが悲鳴を上げるのを聞きたいといったような感情を、『人とつながることにそんな形をしか選択することのできない者の悲しみ』とでも表現したところで、それに涙を流したり共感したりするのは、やっぱり他人を痛めつけて悲鳴を聞きたいと思っているような人種だけで、結局、世間を構成する大半の、0から人生を始めている人たちにとってはどうでもいいどころか、嫌悪と敵意さえ抱かれてしまう可能性がある、人類を正常と異常の2つに分断する以外の機能を持たないやり方なのさ」
 「な、なるほど……わかり……やすいわ……」
 少女、身体をくの字に折り曲げて顔面から砂地へ倒れ込む。少女の瞳が黒ベタから灰色のトーン貼りに変わる。男、少女の生死に興味を残していないふうでしゃがみこむと、地面から一掴みの砂をすくいあげる。
 おたくの敵と非難され、嘲笑され、罵倒され――
 それでも更新したくって、更新したくって――
 あれほど更新したいと思い続けてきたのに――
 「もう、こんなに更新したくない」
 ――ああ。おたくの繰り言が聞こえる。
 こたつ布団に広がる去年の醤油染みのような、日常が新しさを失ってなお繰り返されてゆくのを否応なくつきつける、重苦しい現実。
 いつの間にこの人は、こんなにも輝きを失ってしまっていたのか。
 少女が、その少女らしい純粋さを希求する旅の果て、ついに手に入れたのは、この世で一番醜いものだった。
 この世で一番醜いもの――おたくの自意識に触れながら、小鳥猊下を最初期から取り巻いていた少女たちの最後の一人は、その八年と三ヶ月に渡る長い旅を終えた。