猫を起こさないように
甲虫の牢獄(6)
甲虫の牢獄(6)

甲虫の牢獄(6)

 「強い依存心を持った人間はひとりでいるときにしか、本当の自分自身であることはできない」
 静寂を破るように、夜の倉庫街に街灯を背にした高天原が言った。
 ぼくは眺めていたつま先から、はじかれるように顔を上げる。
 高天原は街灯の作り出す光の輪から外れるようにして立っていたので、その表情をうかがうことはできなかった。
 いまの言葉は、ぼくに向けられていたものだったのだろうか。なぜか心臓が早鐘を打つ。
 「気にしなくていい。君の仕事には満足している。私の言葉は批評と同時に、常に独白を含んでいるからね。君がいま驚いたように、私自身もいつも自分の発した言葉に驚いている。偶然に紡ぎだしたはずの言葉が多くの真実を含んでしまうことに、驚くんだ。私はね、新聞の素人俳壇の欄を読むのが好きだ。私を嫌っていたはずの人々が、ふとした偶然で私と同じ真実に到達しているのを見られるから。言葉だけは、誰の上にも平等なんだろう。言葉が外からやってくるとすれば、私や君のような人間に才能や、知性は存在しないということになる。どうもがっかりするね」
 高天原がふっと笑ったような気がした。
 「ただ、必ず添えてある偉い先生の講評は御免だ。解釈すると神秘を無くして陳腐になる。解釈しないと誰も理解できない。つまるところ知性は、人と人との伝達を主な目的として進化したんだろう。もどかしいところだ」
 高天原の話は結論から始まり、その結論を言葉で崩してゆく。
 ぼくは誘惑されまいとそんなふうに分析をするが、いつもむなしい。プロ競技者の修練や技術を観客席で理解したところで、その人物に互したり打ち負かしたりすることに対しては、何ひとつ関係が無いのと同じだ。
 高天原が腕時計に目を落とす。そして、もう幾度目だろう、遠くの暗がりに視線をやる。
 何を待っているのだろう。なぜここへついて来なければならなかったのか、ぼくは全く知らされていない。
 「……まだ時間があるようだ。少し私自身のことを話そうか。君も、少しは君の人生を狂わせた人間のこと知っておいたほうがいいかもしれない」
 高天原は冗談のように言った。
 だが、ぼくが人生に正しいと言うことができた瞬間など、ありはしなかった。けれど高天原といるとき、ぼくは人生が正しいと感じることができる。
 ぼくのそんな思いには気づかないふうで、高天原は淡々とした調子で話し始めた。
 「十年前、私は雇われのシナリオ書きだった。ちょうどいまの君のような感じかもしれないな。自分が”選ばれている”という自負は常にあった。なんといっても、私の知性は二人分だったからね。けれど、それが妄想なのか真実なのかを見分けるための現実的な要素は、まだどこにもなかった。ただひたすらに鬱屈していた。わずかの仕事が自分の小さな居場所を生み、生み出されたその小さな居場所が、時間の経過とともにその形のまま安定してゆくことに、鬱屈していたんだろうと思う」
 ぼくは、うろたえた。全身に熱い汗が吹き、冷えた。なぜ自分がうろたえているのか、わからなかった。高天原と二人きりで、彼の個人的な話を聞くことにうろたえたのだろうか。
 いや、違う。高天原の口にした鬱屈が、ぼくが受け止めることを拒絶してきた鬱屈と同じだったからだ。
 「当時、その鬱屈をはらすために最も熱中した遊びは、同業の知人を彼らの両親や養育者と和解させることだった。……こういう業界に飛び込むことを肯定的に考えてくれる親はまあ、ひいき目にみて多くはないだろう。断絶なのか、離反なのか、とにかく自分の生育に関わった人間との葛藤を抱えている例は、少なくはなかった」
 顔に血が上ってゆくのがわかる。
 高天原はきっとぼくに当てつけようとしているのではない。ぼくの人生が別の場所で、別の誰かによって、ほとんどその趣向を変えずに繰り返されていたとしても、それは全く不思議ではない。ぼくは自分の苦悩の凡庸さを理解しているつもりだ。
 けれど、ぼくの顔は真っ赤に染まった。恥ずかしさだったのか、自尊心ゆえだったのか、ともかく周囲の暗さから、高天原には気づかれていないのが救いだった。
 「何が最初のきっかけだったのかは忘れた。少し抽象的な言い方かもしれないが、私は彼らが発している臭みをかぎ取ることができた。いろいろな家族の形があった。私がそこへ出向いたこともあったし、言葉だけで用が足りる場合もあった。一番簡単だったのは両親か養育者がすでに他界している、もしくは最初からいないか、いないも同然の知人を”癒す”ときだったよ」
 高天原は曲げた人差し指を唇に当てて低く笑い声を立てながら、”癒す”という言葉をことさらに粘るように発音した。
 「私が理解したのは、心の中にしか無い情報は、簡単に上書きすることができるということ、そして人間の記憶はそういう情報だけで組み立てられているということだった。彼らの抱えている憎悪には、例え表面上そう見えたとしても、間違いなく裏返しの部分に、これまでの関係において起こったことをねじまげてまでの理想化を狂うように求める、わななく愛情があった。私がやったのは、斜面の手前にあるボールに軽く触れることだけだった。彼らは数年来、十数年来の憎悪を翻心してむせるような、ほとんど赤面するような愛情のプールへと次々に飛び込んでいった。乾ききった心に生じた無数の亀裂をとろけるような愛の蜜が湿してふさいでゆくさまを、癒しのドラマを、誰もが心から演じていた。その三文芝居のような崇高でなさに、私の鬱屈は深まるばかりだったよ」
 高天原は肩をすくめてみせる。
 「発信に向かおうと受信であろうと、この業界に関わりを持つ者は一分の例外もなく、養育者との情動面での関係性を欠落した者であろうと私は考えていた。軽蔑や思い上がりからの決めつけと思うかもしれない。だが、私ほどの深刻さをもって自身の生業がその果てに何を生みだしてゆくのかを知ろうとした人間がいないことだけは断言できる。私は、自分自身の仕事を肯定したかったのかもしれない。しかし結果は話した通り、私の推論を裏付けるものばかりだった。この業界を取り巻くものは作り出すことであろうと消費することであろうと、全く個人的な愛情と理解の代償行為に過ぎないということを私は確認することができた……あのときの自分の心理について、いまになってときどき考えることがある」
 高天原はそこで黙った。
 静寂の中、遠くから聞こえるのは、波音かもしれない。だとすれば、海が近いのだろうか。ぼくは高天原の車にただ乗せられてきただけで、ここがどこなのかもわからない。高天原がぼくをどこに運ぶのか、ぼくにはずっとわからないでいる。
 少し考えるような間をおいて、高天原は続けた。
 「つまり私は、もっと深くから汲むべきだと思っていたんだろう。個という名前の世界の果てを越えた瞬間に接続するあの場所から汲み上げたものだけが、発信するに足るものだとずっと考えていた。それが傲慢であることは、いまは多少わかる。歳を重ねるにつれて、そこへ接続できる機会も少なくなってしまったからね。だが当時は、自分の魂の表層にだけある傷口をかきむしり、そこから飛び散ったかさぶたの滓をかき集めて、体液をそのつなぎにして差し出すようなやり口に、嫌悪感を抱いていた。それは、もしかすると自己嫌悪に近いものだったのかも知れないにせよ――」
 波音は聞こえなくなった。街灯にむらがる虫の羽音が奇妙に意識されはじめたからかもしれない。人間の意識は複数の事象を同時にとらえることはできない。現実の一部へ意識的にフックをかけることでしか、濁流のようなこの場所で自分へ意識をつなぎとめることはできない。人間は、元より世界を本当の形では理解できないように作られている。
 しかし、高天原ならば。高天原なら、もしかすると――
 「さて、面白いのはこの先なんだ。私の介入する和解の儀式を終えると、彼らはほとんど例外なく書けなくなった。それは感動と滑稽が等分に入り混じった、人生の本質のような不思議な有りさまだった。自分が全く普遍性の薄い個人的な絶望からしか汲んでこなかったことを知り、両親や養育者との対決姿勢にだけ人生の基準があった彼らが、書けなくなった自分を至極あっさりと赦して、そしてこの業界から去っていくんだ。原因となった私に涙を流して、礼まで述べて! 個人的な絶望や癒しなどで、世界をわずらわせてはならない。ましてやそれで口を糊しようなど、全くの本末転倒じゃないか」
 高天原は街灯がアスファルトの上に作り出す光の輪の中に、まるでそこがスポットライトの中心ででもあるかのように踏み出した。
 暗闇に沈んでいた彼の姿があらわになる。
 サングラスをはめていない両目が、ぼくをのぞきこむ。色素の薄い瞳。
 高天原がぼくを見るとき、彼の目がいつもぼくを吸い寄せる。喜怒哀楽ではない万もの表情を、高天原は目だけで作り出す。このときも高天原は喜怒哀楽のどれでもない表情を浮かべて、ぼくをまっすぐに見た。
 「君がそういう種類の人間じゃないことを信じているよ」
 高天原に出会ってから初めて――疑念と表現すると明確にすぎるだろう、得体の知れないおののきのようなものがぼくの全身を突き上げた。
 それはつまり、言葉にすればこういうことだったのだろう。『高天原は、いったいぼくに何を求めているのか?』
 ぼくの恐れに気づかぬ様子で、高天原は言う。
 「覚えておいてくれ。私たちが相手にするおたくは、心の奥底から廃屋の雨漏りのように染み出してくる何か異常な想念に人生の最初の段階をとらわれていて、それが個性や才能であるかのように錯覚している連中だ。踏みにじられた尊厳の補償を求めるあまり、真っ先に放棄するべき人間性への侮辱の周囲をぐるぐると回り続けている。おたくは本質的に自殺と他殺を内側に抱えている。その衝動を自分と他人にとって物理的危害では無いものに昇華させる過程こそが、個性や才能と呼ばれるものだ。おたくとは自身の抱える内的衝動を、意識的には昇華できない人々のことだ。おたくたちは養育者に打たれた鞭の分、自分を打つか他人を打つかする。この打つ打たれるという二つの行為は正反対どころではなく、むしろ同じものだ。つまり母親にペニスを突っ込みたいと思うからそれを書き、父親にペニスを突っ込まれたいと思うからそれを書く倒錯が、おたくの正体だと言える。私がおたくを軽蔑するのはその倫理的な低劣さは全く関係がなくて、彼らが何ひとつとして自分の持ち物を昇華する過程を踏んでいないことに起因している」
 パチッという音とともに、焼けこげた羽虫がゆっくり墜落してゆくのが見える。街灯の光が明るいからといって、不用意に近づきすぎたのだ。
 「自分より弱い人間を刃物で刺す行為と、猥褻を書く行為は酷似しているように思う。ペニスを挿入するのとナイフを突き刺す行為の間に、実のところ違いはないんだ。最終的にどちらを選択するかは、現実への期待値がどこまで高いかが分水嶺になるのだろう。時代、という範疇を口にするとあまりに大がかりで、むしろ真摯な回答から逃げているような気さえするが、内在する病裡と病裡の現象化がひねった輪のように回転しているのが私には見える。私たちの足下を同じ濁った水が浸している。ある者は自らの才能で私たちを捨ててここから飛び去り、ある者は父親か母親の性器を詳細に記述し、ある者は少女か両親を殺す。水の浸っていない小高いところにいる者たちはほんの少数だし、その小高い場所でさえ、もうじき水は浸してゆくだろう。世界理解という至上目的は、知性による手段の増加によって際限なく複雑化してゆき、堆積してゆく知性そのものによって私たちの手の届かぬ地中へとうずめられてしまった。もはや人は本来の目的を喪失した無用物の知性では繋がることはかなわず、ただ病裡によってのみ一様化している。喉元へ水位が高まってゆくのを誰も避けようがなく、そしてそれを押しとどめる力もこの手にはない。ただ私が言えるのは――」
 高天原の薄い唇の間から、真っ白な呼気が押し出されている。
 ぼくは急に周囲の気温が下がったような気がして、コートの襟を寄せる。
 ひどく寒い。
 短く息を吸い込むと、高天原は小さくつぶやいた。
 「癒されたり赦されたりするくらいなら、死んだほうがマシだ」
 ぼくが聞いたと思った言葉は、遠くの暗がりから染み出すように現れたトラックの走行音にかき消された。車は高天原とぼくの横を通り過ぎてから減速し、街灯を避けるように数十メートル先の暗がりに停車した。後ろの荷台から何か大きなものが投げおろされ、続いて乾いた金属音がした。
 高天原が駆け出すと同時に、トラックは再び速度を上げて走り去った。
 ぼくが追いつくと、高天原は暗闇を見つめて立ちつくしていた。
 ポケットから懐中電灯を取り出して、ぼくは高天原の見つめる暗闇を照らした。
 はたしてそこには、木箱と先端の曲がった金属の棒のようなものが転がされていた。
 高天原は金属の棒を拾い上げ、木箱の蓋に打たれた釘を黙々と取り去ってゆく。
 雄弁の後には恐ろしく長く思える沈黙が降りた。
 やがて高天原は棒を放り投げると、顎を持ち上げてぼくに促す。ぼくはほとんど脅えながら、ゆっくりと木箱の蓋を開けた。
 中には大量のおがくずが詰められおり、その隙間から粘土のような質感をした物体がいくつものぞいていた。
 ぼくは途方に暮れて、振り返る。変わらず、高天原はそこに立っている。
 しかし、表情こそ崩さないが、その目は内心の押さえ切れぬ激情に輝いていた。
 高天原はおがくずに手を埋めると塊のひとつを取りだして、言った。
 「見ろ。これが人類の絶望の産物の一つであり、そしていまの我々の希望の依り代だ」