猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

パラノーマル・アクティビティ


パラノーマル・アクティビティ


スピルバーグ大絶賛のふれこみにワクワクしながら視聴を開始したが、なにこのブレアウィッチ・プロジェクト。あと、ひとつのネタを延々と引っ張りに引っ張って、最後に肩すかしのオチを持ってくる構成になんか既視感あるなあと思ってたら、浦沢直樹だった。それと、女優の顔になんか既視感あるなあと思ってたら、トゥーリオだった。

キャピタリズム


キャピタリズム


ドキュメンタリーの悲しいところですが、現実の方がすでに先へ動いてしまいました。ただ、民衆が歩んだオバマ政権誕生への足跡として視聴すれば、充分に感動的です。少なくとも私は目頭が熱くなりました。資本主義の否定にキリスト教を持ち出すあたりも、ずるくてうまい。あと、他国の産業を戦争で破壊した結果、その空隙へ滑りこむ形で米国の好況があったという下りには、目から鱗が落ちた。

GOAL!


GOAL!


世間の雰囲気に便乗してアクセス数を稼ぐことを悪と断罪できるほど、この小鳥万太郎、若くない。いいか、2と3は見るなよ! ぜったいに、見るなよ!

怒りのハントウ

 尊厳の否定が怒りの本質である。本来の対象に向かうことを禁じられた場合、その怒りは消滅することなく内奥へと溜まってゆく。「子は親を産めない」を旨とする儒教の本質は、親を子の怒りから防御する点にある。かの国にて突如として怒りを激発させる症状が病名を与えられるほど一般的なのは、この帰結を考えれば至極当然である。解消されない怒りが本来の対象以外へ向かった場合、それのもたらす結果は苛烈かつ破壊的なものとなる。他人に向かった場合は殺人へと至り、己に向かえばそれは自死となる。そしてある種の芸術は、怒りを昇華させることによって為される。だが、彼は死んだ。彼は己の生業において、怒りを昇華できなかったのだ; Quod Erat Demonstrandum

 さて、以上の散文で私は何を証明したのか。妙齢の婦女子が熱狂する/したドラマ群が芸術ではないことを証明したのである。
 なぜ突然、かようなエントリーを行ったのかと諸君はいぶかっているだろう。かの君の“家族団欒”とやらの、十数秒の映像を偶然目にしたからである。カメラが回る中、父親が「まだお祖母ちゃんのオッパイを触っているよね?」とかの君に尋ね、一瞬の氷ついたような沈黙の後、かの君がした弁明に家族は爆笑する。親子関係についての話題を提供するときのテレビの常だが、まるで美談のようなナレーションを伴っていた。まったく、冗談じゃない。この映像から読み取れる事実はふたつ、父親が屈辱を与えることによって支配を行う人物だったことと、母親が我が子との接触を避けるほどに冷淡だったということだ。マスコミ全般がする合法殺人幇助の雰囲気は、いつも私を窒息寸前に追い込む。ただ、真実を呼吸させてくれ。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破


今作ではいい具合に演出からセックスが抜けているので、馬齢を経た身にはたいへん気持ちいい。セックスが抜けているのに気持ちいいというこの矛盾を可能にする7日で8回の視聴ッ! その凄絶な克己の果てに、旧作で幾度となく繰り返された「他人の恐怖」は、人間同士というよりはむしろ男性から女性への恐怖であったのだと気づかされた次第である。あとね、司令と副司令のシーンでぜんぶ副司令から台詞が始まってて、たぶん今回は副司令が上位者ないし黒幕なんだろうなって思ったの。なんかすごい、意識的なガーゴイル声だし。

イングロリアス・バスターズ


イングロリアス・バスターズ


第1章は頭髪が抜けるくらい面白かったが、その後はMr.ビーンがカンヌで残虐に大暴れしてるみたいな感じで残念だった。もちろん、タランティーノというだけで期待のハードルが上がる人間の感想であることを諸君は念頭に置かねばならない。

Up


Up


虚構が与える夢やメッセージは、たとえ嘘でもいい、現実のDownに打ち勝たなくちゃダメなんだ。

NWO EXISTS IN DIRECTION Q. (エヌダブユオウはQ方向に居る)

 黒人大統領が火星有人飛行を宣言したことにより「度胸星」がいよいよ現代の預言書であることが明らかとなり、2030年に超立方体の異星人と人類とのファーストコンタクトが確定的になった。その全人類的な高揚を伴なうイベント進行の裏で、nWoが便所か安宿の壁面へ経血でなすられた何かであることもまた、ひっそりと証明されたのだった。秒単位でチェックするメールや掲示板はいっこうにエロ系スパム以外の反応を返さず、しばしモニターの前で呆然となった私は、直接に感想を述べるのをはばかる奥ゆかしい層が、この広大なネットのどこかで春画や議論を交わしているかもしれぬと思い立った。そして現存するすべての検索エンジンを駆使したが、「少女保護特区(7)において一人称を徹底的に排除していることが、(9)における“予”から“私”への自我変容の効果をより劇的にしていますね」など、当たり前に予測されて然るべき論評は一つも見つからなかった。足かけ2年ほど、時々の全身全霊を傾注して行われた更新群が、この現代社会の膨大さの前に何の反応も引き起こさず、実質上、完全に消滅したのである。正に、一度も、どこにも存在することを許されなかった、真の意味での非実在青少年と言えよう。nWoを更新する動機がどこにあるかと問われれば、保存された幼児的全能感による自我肥大に由来するのであり、それは無条件の肯定や承認が無ければたちまちしぼんでしまう類の根拠である。いったん縮小した自我が再び更新可能になるまで回復するには、父母を欠いたネット孤児の私にとって、ただひたすら与えられた屈辱と絶望が忘却の彼方に去るのを待つしかない。更新は間遠になり、酒量が増えるのも道理である。この下りは、目の据わったマッチ売りの少女が酒瓶を傾けるイメージで想像して欲しい。まあ、相も変わらずの愚痴だが、愚痴を書けるほどには自尊心を回復してきたと考えてくれたまえ。ここ数週間というもの、全人類から無視を決め込まれた哀れな少女の精神状態は、それはもう悲惨極まるものだったのだから。